人民新報 ・ 第1009.1010号  (2001年1月1日)    

                             目 次


● 資本主義の終末的危機の21世紀に、労働者・人民の解放の社会主義の旗を掲げて
                              労働者社会主義同盟中央常任委員会

● 社会主義と民衆運動の新しい世紀
            団結して、ともに前進しよう @ 

   横浜事件再審の勝利をめざす / 板井庄作
   マルクス主義の旗を高く掲げて / 隅岡隆春
   反戦感情を反戦・反軍運動へ / 井上澄夫  (戦争に協力しない!させない!練馬ネットワーク)
   三回目の市議選に支援を / 小原吉苗 (尼崎政治センター)
   協働して新世紀を希望の幕開けに / 小寺山康雄 (社会主義政治連合共同代表)
   21世紀はどういう時代か / 降旗節雄 (帝京大学教授)
   二十一世紀を共生社会に / 前田裕晤 (大阪全労協議長)
   21世紀の《銘》 / 増山太助 (労働問題評論家)
   二〇〇一年は改憲阻止の正念場の年! / 宮本なおみ (許すな憲法改悪!目黒の会)
   二十一世紀の新年を迎えて / 吉岡徳次 (平和と地域労働運動中央世話人・全日本港湾労働組合顧問)
   亡国か救現(くげん)か 日本待ったなし /乱 鬼龍 (田中正造大学)

● 画期的成功をおさめた日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷

● 戦後補償の実現による人間の安全保障を
         ― 内田雅敏弁護士に花岡裁判和解について聞く ―

● インタビュー 橋本真一さん (日の出の森・トラスト運動)
       日の出の森が奪われた。でも私たちはあきらめない。 ここがあらたなはじまりだから。

● 整理解雇四要件の形骸化を許すな 裁判所包囲のヒューマンチェーン

● 東京高裁の不当判決を糾弾する

● ビデオ 「国労第六十七回定期大会ドキュメント」 をみて

● 地域ユニオン活動から見えてくるもの
        ユニオンは小船、一人ひとりがしっかりオールを漕ごう

● 韓国オムロン労組が日本遠征闘争で勝利

● 郵政の職場から 「名も知らぬ星々」
 

● 映評   バトルロイヤル

● 複眼単眼
        デマゴーグ石原都知事と憲法調査会と三宅島




資本主義の終末的危機の21世紀に、労働者・人民の解放の社会主義の旗を掲げて

                            
労働者社会主義同盟中央常任委員会


 (一)
 
 二十世紀が、その中に生まれ出ずるものと滅び往くものを胚胎させたまま、比較的静かに、そして重く過ぎ去り、いま新しい世紀を迎える。
 資本にとっては二十一世紀の到来が無数の儲け話のタネになるかも知れないのに、もはやそのようなカラ騒ぎを演じるエネルギーはほとんどない。そして、たしかにわれわれ社会主義者も、かつて映画「ローザ・ルクセンブルグ」でみたように、欧州の社会主義者たちが「世紀代わりを徹夜で迎えるダンスパーティ」を企画したほど陽気ではいられないことも事実だ。
 いま巨大な歴史の歯車が、ギシギシ、ギシギシと音をたてて、ゆっくりと、ゆっくりと回転しながら新世紀のトビラを開けたかの感がある。

 (二)

 暦の数字の転換が社会にとって何程の意味があるかの議論はさておき、世間にならってわれわれも二十一世紀を予測し、論ずるとすれば、その姿はすでに過ぎ去った二十世紀の最後の十年、九〇年代の中にあると言うことができる。
 二十世紀の初頭、市場分割、侵略と抑圧、戦争と破壊を特徴とした資本主義の帝国主義段階にあって、この人類史上最悪の怪物に対して、ヨーロッパ革命の高揚を背景にしたロシアの労働者・民衆が、社会主義の旗印を鮮明にした革命を対置した。以来、二十世紀は「戦争と革命の時代」と規定されることになった。
 しかしひとつの世紀をついやすほどの闘いの経過を経て、ロシアの労働者・人民とそれにつづく全世界の民衆の社会主義運動とその理想は、「ソ連型社会主義」という、革命のスターリン主義的変質によって敗北した。
 だが、二十世紀最後の十年で世界が確認したものは、ソ連・東欧の「社会主義」との闘いで勝利したアメリカ帝国主義など西欧列強と多国籍資本が、実は真の勝利者ではなく、自らもまたぬきさしならない歴史的危機に見舞われている状況であった。
 だからこそ、この輩は新自由主義経済路線、グローバリゼーションの名による規制緩和を推進し、世界のいたるところで支配と破壊的な収奪の強化をすすめ、差別と貧困と飢餓、人権の抑圧を拡大しているのであり、人道的介入などの名目で美化された「敵性国家」への凶暴な軍事的攻撃を繰り返すのであり、環境の旗印を掲げて環境の破壊を限りなく放置しつづけているのである。
 そして、抑圧のあるところに反抗あり。「ソ連型社会主義」が敗れても、全世界の民衆の帝国主義への波状的反抗は止むことはなかった。この十年、帝国主義者たちはあらためてそのことを思い知らされたにちがいない。

 (三)
 
 ほんの少し前まで「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」とまで言われた日本資本主義は、この世紀末の十年に彼らにとっては不名誉な「失われた十年」の称号を送られることになった。日本は再び沈んだ。
 かつての日本資本主義の高度成長はもはやすべて裏目にでて、経済はハードなランディングを繰り返しながら、より決定的なハードランディングに向っている。国家と地方の財政はとうに破綻状況を通り越し、新世紀の子どもたちを借金漬けにしてしまった。資本の生き残りのためのリストラは、かろうじて社会に残されてきた人間と人間の絆まで断ち切っている。核や産業の廃棄物に代表される資本主義の矛盾を、「あとは野となれ、山となれ」よろしく支配層は解決の道筋を見つけだすことなく、新世紀に持ち越した。そしてその間も「死に至る病」は進行中である。
 九〇年代に常態化した「連立政権」は、政府の政策の一貫性をさらに失わせ、党利党略のその場しのぎの政治に終始させた。対抗する野党の取り込みという政治の邪道だけが、政権を維持させている。民衆の永田町への不信は増大し、内閣は十%台の支持率に低迷するなど、ブルジョアジーが発明した議会制民主主義までもが危機に陥った。

(四)

 前世紀、明治以来の近代日本は後進帝国主義として列強と競ってアジアを侵略し、多大な災禍を与えた。しかし、アジアの民衆の注目の中で、日本は二十世紀に引き起こした戦争責任・戦後責任に決着をつけることができないままに、新しい世紀を迎えた。
 日本帝国主義による二十世紀の負の遺産のひとつであった南北朝鮮の分断と対立は、昨年の南北首脳会談の実現で、朝鮮民族自らが和解と統一への道を歩みだした。にもかかわらず日本政府はこれになにひとつ積極的な貢献を果たすこともできなかったばかりか、いまだに過去を清算できず、日朝国交の正常化も実現するに至っていない。また同様に植民地支配した台湾と中国の分断と緊張の解決に対してもその歴史的責任を果たしてはいない。
 それどころか日米安保を新ガイドライン安保段階に膨張させ、日米の軍事的攻守同盟体制を強化することで、すすんでアジアの緊張の発生源となっている。この危険な帝国主義的路線は、有事立法体制の確立と憲法の改悪で完成させられようとしている。
 世紀末を象徴するかのようなドタバタ劇を演じたアメリカ大統領選挙の裏では、アーミテージら軍事的ブレーンたちがだした「提言・米国と日本、成熟したパートナーシップをめざして」が新世紀の初頭における東アジアの軍事的緊張の拡大を「想定」して、日本に集団的自衛権の確立、すなわち改憲を要求している。 だからこそアジアの人びとと共同して、この危険な方向を阻止することが、当面する日本の民衆の最大の闘争課題である。

 (五)

 自らが展望を語れなくなった結果、支配者は理想や夢を語ることを攻撃する各種のイデオロギーを蔓延させることに執心している。人びとから理念を奪いとり、自らの支配体制を脅かす連帯と共同の思想を押しつぶそうとしている。
 世紀末の危機の中で醸成された不信と絶望ともあいまって、いきおい自らの目先のことのみを語り、ひとつひとつの改良にのみ集中する傾向も流行している。 だが、われわれは新世紀にあたって、もういちどかつてのロシアをはじめとする革命家たちと民衆の、危機を革命に転化した闘いを想起しなくてはならない。山積する民衆の諸課題を闘いながら、自らを鍛え、階級を革命的に形成しなくてはならない。二十世紀社会主義運動の正反すべての遺産を受け継ぎ、その総括の上に新しい社会主義を構想し、希望をもって推進する、不屈で強固な意志が、いまこそ求められている。
 この意味で、二十世紀最後の十年の危機は、われわれに前進の手がかりを与えてくれたのである。
 新世紀の新年に際して、この労働者階級と被抑圧人民・民族を解放し、人類の前途を切り開くための二十一世紀革命の壮大な事業の前進に向けて、労働者社会主義同盟は全力で闘いぬくことを深く決意する。
 全国・全世界の社会主義者は共同して闘おう。マルクス主義の旗をかかげ、勝利と解放のために。

 二〇〇一年一月一日


社会主義と民衆運動の新しい世紀

     団結して、ともに前進しよう @ 

                    ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

横浜事件再審の勝利をめざす   
                        
板井庄作

 新年おめでとう。
 新しい世紀の最初の年を迎え、闘志を新たにして逆流と闘いましょう。
 私自身について言えば、戦前の「横浜事件」の再審請求闘争の決着をめざして闘います。事件関係者は昨年勝部元君が亡くなったので、生存者は私一人になってしまいました。この闘争を他の人に頼むわけにはいきません。
 過去の誤りを認めることなしに、現在、正義が行われるという保障はありません。その意味でわれわれの再審請求闘争は、現在に通ずる闘争です。みなさんの御協力をお願いします。


マルクス主義の旗を高く掲げて

                          
隅岡隆春

 二〇世紀最後の大会で日本共産党は、帝国主義ブルジョアジーへの屈服路線を表明し、その反革命の本質を自ら全面的に暴露するに至った。早くから一路ブルジョア議会主義の道をつづけてきた共産党は、プロレタリアート独裁と社会主義革命放棄、修正資本主義・改良主義、平和移行、ブルジョア国家の暴力装置・常備軍・自衛隊支持、マルクス主義国家論・マルクス主義レーニン主義の全面放棄等々、と独占ブルジョア階級に恭しく誓った。これは六六年以来宮本・不破らプチブルインテリどもが、欺瞞、詭弁で積み重ねたカウツキー修正主義路線の集大成である。
 国際共産主義運動史上において、第二インターのカウツキー修正主義とその後のスターリン主義は、もっとも大きな反革命的悪影響を及ぼしてきた。
 レーニンは名著「国家と革命」で、マルクスとエンゲルスの国家学説を歪曲したカウツキー修正主義を徹底的に批判して、われわれの任務は「なによりもまずマルクスの真の国家学説を現状に復することである」「帝国主義ブルジョアジーの影響から勤労大衆を解放する闘争は『国家』についての日和見主義的偏見と闘争することなしには不可能である」と力説した。
 暴カ革命の不可避性の思想・理論はマルクス主義国家学説全体の基礎であり、プロレタリアート独裁の理論はマルクス主義国家学説の核心である。二十一世紀にわれわれは、マルクス主義の革命的理論でさらに強固に武装し、革命の旗を高く掲げて進もう。


反戦感情を反戦・反軍運動へ

            
井上澄夫  (戦争に協力しない!させない!練馬ネットワーク)

 米国も日本も、グラグラ搖れつつ、漂流を始めている。
 冷戦構造の崩壊(自滅)は、ほんの一時期、米国を「唯一の超大国」たらしめたが、一極集中時代は、アッという間に去り、すでに多極化が底深く始動している。その不可避の趨勢にどう適応して生き残るか、米日両国家に問われているのは、そのことだ。
米国は、市場原理のグローバル化(経済)と二正面対応戦略からアジア重視戦略への転換(軍事)とによって活路を見いだそうとしているが、日本は戦争国家化でひたすら身構える以外、国家戦略を持たないように見える。
 しかし冷戦終焉後の軍隊と戦争は、その本質こそ変わらないが、姿形を変えてきている。平和維持・強制活動や災害派遣が増えつつあるのは、米・欧・日とも同様である。
 このような非戦闘機能を前面に押し出す姿形の変態(多機能化)を批判し尽くし、反戦感情を反戦・反軍(!)運動に発展させうるか。いま問われているのは、まさにその課題だと思う。


三回目の市議選に支援を

                 
小原吉苗 (尼崎政治センター

 二〇〇一年は、尼崎にとって、カラ出張、議会解散、市民派議員誕生から八年、阪神淡路大震災を経て、市民派の流れが定着できるかどうかの三回目の市会議員選挙になります。
 今回は私たち市民運動の中から、現職、前職、新人の九名の仲間が立候補します。
 女性、労働運動、傷害者運動、環境、情報公開、反戦平和運動などそれぞれ地域での実践をふまえ個性ある訴えとともに、市政への市民参加、市政改革の共同の流れを創り出す相談を重ねています。ていねいに議論をする中で共同の結論を一つでも二つでも市民に訴えていけたらと考えています。
 毎回、尼崎市会選挙は、東京都議選と同じ時期です。全国的には東京が注目されるのは当然ですが、関西の片田舎の尼崎選挙にも注目と支援をお願いします。


協働して新世紀を希望の幕開けに

   
          小寺山康雄 (社会主義政治連合共同代表)

 ある歴史学者がいうように、二〇世紀は一九一七年のロシア革命によって幕が開き、一九九一年のソ連邦解体によって幕を閉めた。社会主義が誕生し、その実験がおこなわれ苦い失敗を喫した世紀でありました。
 しかしまた、別の歴史学者がいうように、これでももって「歴史が終焉」し、資本主義が永久不滅に続くものではありません。
資本主義が資本主義であるかぎり解決不能のもの、人類の意識的営為、すなわち社会主義以外に解決不能のものは私たちの眼前に大きくたちはだかっています。食糧・環境・差別と抑圧・搾取と収奪、戦争……。
 人類が存続しうるか否かのこれらの諸問題は、依然として資本主義か社会主義かの選択の問題であります。私たちが社会主義の再生に成功しないならば、人類に未来はありません。
 二十一世紀を希望の幕開けに。協働の力で。


21世紀はどういう時代か

  
               降旗節雄 (帝京大学教授)

 二〇世紀の資本主義は、自動車を中心とした耐久消費財を大量生産・大量消費することによって生産力を上げ、福祉国家をつくり、一億総中流化の統合社会をつくってきた。しかし、この資本主義は世紀末に完全にゆきづまった。
 地球的環境破壊と南北格差の拡大と局地戦争の噴出がその徴候である。
 では二十一世紀、資本主義はどう変貌するか。
情報革命を主軸とした、グローバル化、市場化の奔流は、さらに南北格差を拡げ、先進国の内部の一握りの巨富の所有者と低賃金のフリーターの大群の激しい対立へと導きつつある。
 バーチャル・リアリティ世界は児童の頭脳を破壊し、新しい犯罪を続出させている。
 つまり、われわれの迎える二十一世紀は、激しい階級対立、格差社会の両現の時代なのだ。二〇世紀後半、死んだ犬のように捨てられた社会主義の理念は新しくよみがえるだろう。


二十一世紀を共生社会に

                
 前田裕晤 (大阪全労協議長)

 激動の二〇世紀は、グローバリゼーションと称して、世界を大競争時代に突人させた。
 競争社会・弱肉強食の社会風潮化は、社会のあらゆる場所から人間性を放逐していった。
 社会の主人公は誰なのか、情報社会、IT革命の二十一世紀と確定的に政治も経済もマスコミも唱えるが、全ては無機質的な競争に委ねるのみであり、社会発展の展望は喪失されたままである。
 全世界の三分の二に当たる人口は、飢餓状態におかれたままである。
物質文明の発展を社会進歩と見なす価値観は社会モラルを放棄するところから始まるが、その発想を根底から見直す時がきている。
 人間・環境を第一義におき自由・平等で平和な共生社会を、一切の課題の根源に置くことから見直しをすべきである。
 社会に対する資本・企業の責任、政党、労働組合も同じように問われているのであり、いまそれへの対応がなされていないが故に、存在価値が問われている。
 新たな社会価値観の創造、その可否が二十一世紀の歩みを決める。


21世紀の《銘》

             
増山太助 (労働問題評論家)

 「戦争の世紀」二〇世紀の日本は年末に第二次森内閣が出現して、二十一世紀の近未来を暗示するような気がしてならない。
マスコミは「「権力内部の混乱」や「自民党の断末魔」を強調するが、私は「アメリカ、日本を中心とするアジア集団安保体制」。そのためには「平和憲法を改悪して自衛隊を軍隊化しなければならない」。つまり、「日本の軍国主義化」が急速に進むのではないかと危惧するのである。
 戦後、アメリカと日本の権力者は経済的発展をやり易くするために労働者・人民に「没思想」を植え付け、とくにマルクス主義の抹殺に努力を集中してきた。
その結果、労働者・人民は「現実の動向」や「政治の深部」を洞察する力を失ってしまった。
日本共産党が、この時期に自衛隊を認め、「社民化」の道を選択したことなど、「連立亡者」の悪あがきではすまされない。「飽食日本」の知的水準の低さを示すものではないだろうか。
 二十一世紀の初頭に、われわれが銘記しなければならないことは、労働者・人民の連携をいっそう強化し、その幅を広げることである。


二〇〇一年は改憲阻止の正念場の年!

                        
宮本なおみ (許すな憲法改悪!目黒の会)

 昨年は、憲法調査会の設置による「改憲阻止」運動の新たな段階の幕開けとなった。年頭には衆議院選をにらんだ、「自・公・保」ストップの思いを抱いて行動した私だったが、これはなんとも重たいものだった。何十年もがらがらポンと元に戻ってしまう選挙をしながら、敗北感をかみしめている私。だが今年の参議院選挙では、改憲阻止の議員の十三人増を勝ち取ることが、憲法の運動を重ねてきた人々に課せられていると言えないか。
 正念場の年だ。「やるしかない」の思いを強く抱き、身の丈にあったところで働くつもりの私。
ともあれ私たちは、二十一世紀に多くの課題を残した。腐敗する政治の場、九条改憲、教育基本法の改悪、場あたり福祉、切り下げられる労働。そして私には手がけた「国労闘争団」の、切り捨てを詐さない支援が残された。
 さらに年末に開かれた「女性国際戦犯法廷」では、女性たちのエネルギーに二十一世紀を展望する可能性が見えて嬉しかった。
 頑張ろう!


二十一世紀の新年を迎えて

     
吉岡徳次 (平和と地域労働運動中央世話人・全日本港湾労働組合顧問)

 二十一世紀の新年を迎えましたが、国内での政治の動向は憲法改正の動きなど反動化がすすんでいます。昨年末に第二次森内閣が発足しましたが、早くも内閣の亀裂や、自民党内での森降ろしの動きなど、当然ながら政局は極めて不安定です。一方反自民の野党も衆議院議員の約八割は改憲論者と言われており、まさにオール保守化と言わざるを得ません。したがって今年の参議院議員の選挙では護憲勢力が結集し、なんとしても勝利しなければなりません。
 もう一つは労働運動の活性化です。こんにちの労働運動は停滞し組織も減少しています。春闘も今年はマイナス春闘へ、失業率も過去最高の状態が続いており、常用からパート、派遣へと不安定雇用が増えています。今後の労働運動活性化の課題は中小企業労働者が地域で企業の枠を越えた連帯行動をいかに強めるかです。
 こうした厳しい状況のなかで『人民新報』の果たすべき役割は重要であり、一層の御健闘を期待します。


亡国か救現(くげん)か 日本待ったなし

                  
 乱 鬼龍 (田中正造大学)

 好むと好まざるとに関わらず、私たちは二十一世紀という時代を生きるスタートを切った。
 今日からちょうど百年前、足尾鉱毒事件の戦いに生涯を賭けた田中正造は、「亡国に至るを知らざれば、是即ち亡国」「今日の日本の壊れようはひどいもので、このままでは、国が四つあっても、五つあっても足りない」等々痛憤し、やがて死んでゆくのだったが、それから百年の、今日の世相の荒れも、正にひどいもので、正に亡国と言うべきだと思う。
 だが、正造は、臨終の際に「現在を救え、ありのままを救え!」と叫んだ。
 今日の私たちもまた、今日という現在を救えるのか、救えないのか。そもそも、救おうとする行動に出る気があるのか、ないのか。その根底から問われているというべきと思う。


画期的成功をおさめた
  日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷


 二〇世紀の最後、日本軍の「開戦日」にあたる十二月八日から始まった「女性国際戦犯法廷」は、十二日「日本軍性奴隷制度は当時の国際法に違反する犯罪」、昭和天皇についても「やめさせる手段を講ずるべきだった、人道にたいする罪」として有罪の判決を出した。
 また十一日に開かれた「現代の紛争下における女性に対する犯罪」国際公聴会では、戦後五十年間に世界各地の紛争や軍事基地で起こった女性への暴力の被害者証言が行われた。
 日本軍性奴隷制への断罪が、今日の武力紛争下での女性への暴力の連鎖を断ち切るための一環であることが位置づけられた。
 「女性国際戦犯法廷」は、十二月八日から、東京の旧日本軍のクラブだった九段会館で、二千人の会場を連日満杯にして開催された。伊貞玉さん(韓国挺身隊問題対策協議会)、松井やよりさん(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)、インダイ・サホールさん(女性の人権アジアセンター)を共同代表とする国際実行委員会が準備した民衆法廷で、判決は法的拘束力はないが日本政府に解決をせまるもの。国際社会からも大きな反響があった。
 国際法廷は本格的なもので、裁判官、検事、書記官ともに、国連の人権委員会などで国際的に活躍している法律家が担当した。裁判官には旧ユーゴ国際戦犯法廷前所長のG・マクドナルドさん(米国)をはじめイギリス、アルゼンチン、ケニアの法律家が、首席検事にはP・セラーズさん(旧ユーゴ・ルワンダ国際戦犯法廷ジェンダー犯罪法律顧問・米国)、U・ドルゴポルさん(フリーダンス大学国際法助教授・オーストラリア)があたった。
 演壇上の法廷では法衣などをまとって行われ、裁判長の開廷宣言の後、首席検事による起訴状がよまれた。各国別の訴追では、韓国、朝鮮、中国、台湾、フィリピン、オランダ、インドネシア、東ティモールから、国別に検事の起訴と被害者の証言、証拠の提示が行われた。左右に設けられた大きなスクリーンでスライドも証拠として採用された。今回はアジア各国から七十余名の被害者が集まり、人権侵害の状況を語ったが、当時のことを思い出し、怒りや、悲しみ、恐怖などで絶句したり、泣き出したり、気を失う被害者が続出した。言語を絶する被害の状況が想像され、裁判官の質問も被害者の心情に寄り添ったものであった。日本政府の肝入りでつくられた、民間からの募金を当てにした「女性のためのアジア平和国民基金」については、被害者の誰一人として評価しなかった。
 これらに加えて専門家証言が行われ、元「慰安婦」が名乗りでて以後、九〇年代に進んだ研究の成果が示された。専門家証言は、「慰安婦」制度が組織的に運営された軍による国家犯罪であることを証明しようとした。林博史さん(関東学院大学教授)は日本軍の構造について、山田朗さん(明治大学教授)は天皇の責任について、吉見義明さん(中央大学教授)は「慰安婦」制度について証言した。
 またオランダのF・カールスホーベン教授は国家責任について、国連人権委員会特別報告者のG・マクドゥーガルさんはレイシズムと戦時性暴力について証言した。
 日本人元「慰安婦」と、加害者である日本軍元兵士の証言も行われた。
 被告である日本国は出廷について何の反応も示さなかった。そこで公正な裁判の形を実現するために外国の例を借りて、参考人として戦後補償立法運動などに取り組んできた今村嗣夫弁護士が、日本政府の見解をのべ、国内法の一般的な解釈を紹介した。
 法廷は三日間の審理の後、検事の論告が行われた。十二日の日本青年館での判決は、昭和天皇について「人道に対する罪」などで有罪とした。「軍部にかつがれただけ」という俗説をしりぞけ、「軍や外務省高官からの戦況や、海外情報の報告を受け、慰安婦制度や強姦の規模を知る立場にあった」という証言を採用した。
 日本の国家責任についても有罪とした。被害者による裁判提訴などに対して日本政府がとっている「時効」や「戦時賠償により解決済み」という論理は「人道に対する罪には適用されない」として退けられた。
 なお当日の判決は主文だけで、来年三月八日の国際女性デーの日に全文が発表される。

開催のための力

  日本軍性奴隷制度を裁く「女性国際法廷」――大規模で権威のある民間の国際法廷の準備には、多大な努力が重ねられた。
 第二次対戦後、日本の天皇の軍隊によって犯された性暴力は、連合軍が開いた東京裁判ではほとんど裁かれなかった。戦後から半世紀がたとうとする九十年代に入り、被害者の女性たちは、渾身の勇気をもってようやく真実を語りはじめた。しかし日本政府は今もって法的責任を問う被害者の訴えを認めようとはしない。
 国際法廷の開催は高齢化する被害者に正義を回復したいという思い、さらには今日も続く暴力や武力紛争下の問題にとりくんでいる女性たちの、これ以上被害をくりかえさせないという思いが強く重なっている。
 一九九八年に発足した「戦争と女性への暴力ネットワーク」(VAWW−NETジャパン)が、国連人権委員会NGOフォーラムで「女性国際戦犯法廷」開催を提案。以後具体的な取り組みがはじまった。国際実行委員会の形成、慰安婦問題や戦時性暴力をテーマにした国際シンボジウム、調査会議、諮問委員会会議、国連への働きかけ、各国との打合せ、検事、判事会議などが準備された。今年七月には日本軍性奴隷制を裁く「二〇〇〇年女性国際戦犯法廷」憲章が採択され、法廷運営の基礎をつくった。
 会議の開催都市は、ジュネーブ、ソウル、東京、ハーグ、ワシントン、ニューヨーク、上海、ピョンヤン、ジャカルタ、マニラ、台北におよぶ。こうした準備に関連するさまざまな仕事を、各国で無数の女性たち、ボランティアが支えた。日本のボランティアは二〇〇名に及ぶと報告されている。
 「女性国際戦犯法廷」の成功は名乗り出た被害者の勇気に支えられた。これ以上、性暴力を許さないという女性たちの怒りと行動と連帯に支えられた。九〇年に国際社会がうちだした「女性への暴力は人権問題」という人権についての考えの深化に裏打ちされた。世紀の終わりに日本政府の歴史認識に手痛い反撃を与えた。二十一世紀の人びとの生きる方向の一つを示した。まさに世紀を画する行動であった。

国際公聴会
「現代の紛争下の女性に対する犯罪」


 十二月十一日には、国際法廷と同じ九段会館で、現代の世界各地の紛争や軍事基地での暴力の被害者の証言がおこなわれた。
 証言者は、全世界の紛争地におよび、沖縄、ルワンダ、東ティモール、グァテマラ、アメリカ中央情報局、ベトナム、ブルンジ、コソボ、バングラデシュ、チアパス(メキシコ先住民族)、アルジェリア、パレスチナ、ビルマ、シエラレオネ、アフガニスタン、ソマリアでの被害を証言した。一部の証言は壇上につくったつい立の中から行われ、また身の危険を考えて文書による報告もあった。
 証言を聞き、高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表)とハミダ・ホセインさん(「モスレム法下の女性」ネットワーク)が分析と解説を行い、クマラスワミさん(「女性に対する暴力」国連特別報告官)が行動提起を行った。
 
国際公聴会での
ブルンジの高校生の証言


ブルンジでは、ベルギー植民地時代につくられた民族対立によりフツ族とツチ族による内戦がおこり二〇万人が死亡した。平和回復はほとんど進展せず、状況は悪化している。
 一九九九年一二月、未開拓地で政府軍と戦っている反乱軍に拉致された十九才の高校生の証言。(一部)

肉体的にも感情的にも、私は打ちのめされています。強かん、性奴隷、拷問、残虐かつ非人道的扱い、迫害、人質としての捕捉、強いられた妊娠、そして多分エイズも、あらゆるかぎりの犯罪が私に対して犯されました。そして家族は私を拒絶し、社会的にも、私はこの社会のどこにも、自分の居場所がないように感じるのです。
 私は尿路感染症に罹り、そのせいで自分がひどく汚れているように感じるのです。
 定期的に、あの出来事の悪夢が私を襲い、私は自分の無力さに、あまりにしばしば涙にくれるのです。この先、正常な性的関係を持つことができるだろうか、とよく考えますが、そうは思えません。エイズ検査を依頼してはいませんが、受けなくてはいけないと思います。
 未来には何の希望も持てません。ある日、何らかの救済、私の話を聞いてくれる人々、私の悲しみを理解してくれる人、私を守り、私の感情のすべてを崩壊させたものに、私が裁きを見出すのを助けてくれる人を見つけることを願っています。
 わが国で戦っている両軍の兵士たち、最初はフツ族反乱軍、次はツチ族の武装政府軍の兵士たちが私を強かんしました。それなら一体誰が、私のために戦っているのでしょう? 一体誰が私を救ってくれるというのでしょうか?

国際実行委員会
 共同代表あいさつ (要旨)


 私たちは、平和への希望を胸に、二十一世紀を迎えようとしています。今日の武力紛争下の女性の状況は、第二次世界大戦時の女性たちが置かれた状況とほとんど変わらないような状況におかれており、私たち女性にとって平和はとりわけ切実な願いです。
 男性支配のこの世界では、女性に対する深刻な人権侵害が、戦争にはつきものであって仕方ないものとして平然と見過ごされているために、組織的な強かんや性奴隷制、強制された妊娠、幼児への性暴力などが、処罰されることなく続いています。私たちはこのことに対して強い怒りを覚えます。
 日本のこれまでの行為は、女性に対するむごたらしい戦争犯罪に責任をとらない典型的な例と言えるでしょう。日本帝国陸軍が犯した女性に対する犯罪行為は類をみないほど残虐で大規模だったので、日本の当局者は知らないはずはなかったのです。それを証明する歴史的な証拠があり、また被害女性の証言が、それを裏付けています。
 それにもかかわらず、戦後の日本政府は、詳細な調査を行うことも、これらの犯罪を公式に認めることも、一貫して拒否し、遺憾の意を表明するふりをしてきただけです。日本国家は、自国の戦争犯罪者を裁きにかけたことはこれまで全くありません。それどころか、多くの戦犯は軍人恩給の受給者となり、中には再び政府 高官の職に戻ることを許された者すらいます。そして、日本の官僚は、侵略の犠牲となった人々への責任は十分に果たした、と強弁し続けているのです。
 二十世紀の最後の十年問に、被害女性たちは日本の裁判所にいくつもの訴えを起こしてきましたが、彼女たちの訴えはどれも認められていません。多くの被害女性たちは高齢となり、もはや裁判所に自分たちの立場を認めさせることは期待できないと考えています。多くの方々はすでに亡くなられ、存命の方々は、「日本国家は、彼女たちが死ぬのを待っているだけなのではないか、そうすれば問題も消えてしまうと願っているのではないか」と疑っています。私たちは、このような「不処罰」を、いつまでも許しておくわけにはいきません。
 「女性国際戦犯法廷」は、被害女性たちに、真実が告げられる日となるでしょう。「法廷」は、戦時及び武力紛争下の女性に対する犯罪を告発するための法的な基盤を確立します。「法廷」は、判決の強制力こそもちませんが、今後、民衆の良心と義憤の象徴となるでしょう。


戦後補償の実現による人間の安全保障を
         
― 内田雅敏弁護士に花岡裁判和解について聞く ―

 十一月二十九日、東京高裁(新村正人裁判長)で、花岡事件裁判は和解をかち取った。
 日本政府の中国人強制連行政策によって、一九四四年から四五年にかけ、九百八十六人の中国人が秋田県花岡町(現・大館市)の鹿島組(現・鹿島)花岡出張所で河川工事などに従事させられた。長時間の過酷な労働・飢え・虐待によって死者が続出、ついに四五年六月三十日に中国人たちは蜂起した。これにたいして憲兵・警察・会社は残忍な弾圧を加え死者は約百人に達し、その後の拷問などで同年十二月までに四百十八人が死亡した。蜂起・抵抗した中国人指導者は有罪判決を受けた。しかし、戦後、鹿島組の苛酷な弾圧をおこなった現場責任者らも、戦犯として絞首刑などの重刑を宣告された(後に減刑、釈放)。これにたいして、生存者と遺族計十一人が、鹿島に総額六千五十万円の損害賠償を求めた訴訟を起こし、一審では敗訴したが、この東京高裁の和解では鹿島が五億円を提供して被害者救済の基金を設立することなどが確認された。和解では、当時の中国人労働者約千人全員を一括して救済することになり、花岡事件をめぐる問題は半世紀越しに全面解決に向かう。これまでに和解した戦後補償訴訟は新日本製鉄と日本鋼管、不二越の三件があるが、いずれも慰霊金や解決金を支払っての解決だった。花岡事件裁判では基金方式による初めての和解で、他の戦後補償裁判にあたえる影響は大きい。
 本紙は、新美隆弁護士・田中宏教授らととに花岡裁判を担ってきた内田雅敏弁護士に、今回の和解にいたるまでの経過、和解の評価、今後の課題などについて話を聞いた。(文責・編集部)

花岡訴訟和解の意義

 十一月二十九日の和解成立にあたって、新村正人裁判長は次のような「所感」を読み上げました。
 「本日ここに、『共同発表』からちょうど十年、二〇世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれと軌を一にして和解により解決することはまことに意義のあることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び利害関係人中国紅十字会の聡明にしてかつ未来を見据えた決断に対し、改めて深甚なる敬意を表する」。
 この「所感」は、戦争の被害が放置され、補償請求がある以上、これに応えるのは道義上きわめて当然のことで、戦後補償についてあまりにも消極的であったことによって失われた司法への信頼を呼び戻すものともなるでしょう。しかし戦後も五十五年経過しており、それにしても和解解決までの時間には長すぎるものがあり、その間に原告のうちの三人を含め多くの関係者がなくなっています。
 和解成立以降、「勝利おめでとう」という声をかけられることが多いのですが、戸惑っています。これは、和解内容が生存者・遺族にとって十分満足のいくものでなかったということではなく、たとえ十分満足のいく内容であっても、「加害者」日本人の一員である私にとっては、やはり「勝利」とか「おめでとう」というのはふさわしくないと考えるので、「よかったね」そして「これを他の戦後補償の解決の一つの契機に」と言って欲しいと思っています。

花岡事件の原因・強制連行と虐待

 日本は、一九三一年九月に柳条湖事件を起こし中国への侵略戦争へ突入し、四一年には、アジア・太平洋戦争(十五年戦争)となりました。国家総動員法で、若年労働力の動員から朝鮮人強制連行までも行い労働力不足を補おうとしましたが、とても間に合わないようになったのです。そこで四二年には「華人労務者移入に関する件」を閣議決定し、四四年の八月から翌年の五月までの間に約四万人の中国人を日本国内に強制連行しました。強制連行された人びとは、全国の百三十五カ所の事業所に配置され、そのうちの九百八十六人が鹿島組花岡出張所に送られ、河川改修などの重労働に従事させられました。ろくな食事も与えられず苛酷な奴隷労働を強いられ倒れる人が続出したのです。
 そして、ついに四五年六月三十日に暴動が起こりました。憲兵隊・警察による鎮圧、その後の拷問などで百人以上が殺されました。これが、花岡事件といわれるものです。
 鹿島組花岡出張所では、強制連行されてから敗戦までの一年未満の間に強制連行された人の約半数四百十八人が死亡していますが、この死亡率は、他の事業所に比べて異常に高い。
 この事件は、敗戦後、連合国の知るところとなり、横浜のBC級戦犯裁判では、大館警察署長、鹿島組花岡出張所長などが戦争犯罪として裁判を受け、そのうち六人には絞首刑という厳しい判決がだされたのです。

生存者・遺族が裁判に起ち上がる

 一九八〇年代に入って、劉智渠さん(故人・敗戦後も中国に帰国せず日本国内に残った)たちが鹿島建設株式会社(鹿島組の後身)にたいして未払い賃金の支払いを求める請求を行いました。そして、一九八九年には中国に帰っていた事件の生存者・遺族も請求(一人五〇〇万円・全体で五〇億円の補償、花岡事件を後世に伝えるための記念館の建設など)を起こしました。
 こうした闘いの結果、一九九〇年には、生存者・遺族と鹿島は共同発表を行いました。そこでは、「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」とあります。これは、国家の政策によるものであっても企業にも責任があることを認め、また補償についても引き続き協議することとなりました。しかし、共同発表があったにもかかわらず、その後の話し合いは進みませんでした。
 話し合いが進まない中で、生存者・遺族は、交渉の打ち切りと鹿島を被告としての損害賠償裁判に訴えました。一九九五年六月のことで、耿諄(こうじゅん)さんら十一人による代表訴訟となりました。ところが、東京地裁民事十三部は、証人調べもすることなく、請求を却下したのです。

花岡事件裁判の有利な条件

 舞台は東京高裁に移り、一九九八年に第一回口頭弁論がはじまり、九九年九月には高裁より和解解決が勧告されました。そして、何度にもわたる激しいやりとりがあって今回の和解に至ったわけです。
 「共同発表」から十年、そして二〇世紀に起きた問題の解決は今世紀中にというのは当然で、二〇〇〇年内での解決をめざしてきましたが、七月にでた和解案では、共同発表の再認識は当然としても、和解金額が問題でした。原告側の一〇億円に対して、鹿島は一億五千万円で、のちに二億円となりましたが、その差はあまりにもかけ離れたものでした。その時、裁判所が出してきた金額が五億円でした。それを受けて、四月下旬からの連休中に中国に飛び、関係者に和解案について説明しました。中国紅十字会は早々と了承しましたが、多くの話し合いを持った結果生存者・遺族らも受け入れることになりました。ところが、鹿島は和解案をめぐって社内での激しい対立があったり、また会社の代理人が検察官出身者であったこともあって、なかなか受け入れる態勢にならず、夏ごろには和解交渉は決裂寸前というところまでいってしまっていた。しかし、粘り強く八方手を尽くして和解を成立させることができました。
 鹿島が躊躇したのは、和解金の額であるとともに、和解金の一部が生存者・遺族に支給されるということでした。これは個人補償を認めたことになり、他の事件にも多大の影響が出るのではないかと恐れたのではないでしょうか。
 花岡事件裁判には、いくつかの有利な条件がありました。
 一つは、戦後、横浜の裁判で鹿島側には死刑判決という戦犯判決が出ていることです。
 つぎに、先に述べた生存者・遺族と鹿島の「共同発表」があります。あそこで、はっきり責任を認め、補償についても話し合っていくと会社自身が認めているのです。
 そして、生存者・遺族だけでなく、中国紅十字会が利害関係人として訴訟に参加するようになったことも影響があります。
 また、ドイツの例があげられます。このことについてはあとでもふれますが、大きな意味を持っています。
 そしてもう一つ、新美隆弁護士や田中宏教授などの陣容、また田英夫、土井たか子議員をはじめ日中友好人士の存在、そして裁判所の頑張りなどがありました。これらの条件が良かったことではないでしょうか。

ドイツの「記憶・責任・未来」基金

 つぎにドイツの例です。日本のかつての「同盟国」ドイツは、この夏に、ナチス時代に強制連行・強制労働させられた約百五十万人の人びとへの補償のための「記憶・責任・未来」基金というのをつくりました。それに国家が五〇億マルク、企業側が五〇億マルク、合計一〇〇マルク拠出することになりました。日本円に換算すると約五二〇〇億円になります。この五二〇〇億円という額は、日本政府が在日米軍の駐留費として約五〇〇〇億円を負担していますが、ほぼ同じ額です。ドイツの駐留米兵は日本と同じくらいですが、ドイツ政府が負担しているのは、日本の約三分の一です。ドイツと日本の差をつくづくと感じますが、この基金もすんなり決まった訳ではなく、過去の犯罪を問題にする人びとと、それを否認しようとする人びととの間の激しい攻防の結果かち取られたものです。
 鹿島事件の和解は出来ましたが、戦争責題、戦後補償について日本ではあまりにも取り組みが遅く、戦争責任を絶対に認めまいとする勢力にも大きいものがあります。
 私は、日本が支出している米軍駐留費を、強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」、軍票などの戦後補償解決のために使うべきだと思っています。それは、日本が侵略し多大な犠牲を与えたアジア諸国の人びとの間に信頼関係を築くことになるでしょう。これが軍事力に基づかない「人間の安全保障」ということです。
 いま問われているのは、冷戦型思考に固執して軍事力による安全保障によって周辺諸国と緊張関係をつくるのか、それとも戦後補償によって周辺諸国の人びとの間で和解し友好を深めるのかという選択ではないでしょうか。


インタビュー 橋本真一さん (日の出の森・トラスト運動)
 
 日の出の森が奪われた。でも私たちはあきらめない。 ここがあらたなはじまりだから。

 先ごろ、東京都下日の出町の「ゴミ処分場」建設に反対するトラスト(地権者二千八百人)に対する行政代執行が行われた。トラストは、二日間の阻止闘争ののち、強制収用された。 闘いの中心をになった橋本真一さんに聞いた。(文責・編集部)

行政の無能の証明

 十月十日、十一日と東京都知事の名で日の出の森のトラストにたいする行政代執行が行われました。土地収用法による強制収用です。これ自体にもいろいろと問題があり、裁判闘争などで争っていますが、国家の強権で憲法に保証されている財産権なども簡単に踏みにじられるのだということが、またひとつ歴史の汚点として示されたのだと思います。
 ぼくらははじめから「土地がほしい」とか、「土地を守る運動」だとは考えていなかった。一般に土地を守る運動、生活権を守る運動というのはたしかにあって、それはそれで正当性を持っていますが、今回のぼくらの場合にはむしろ、土地を取得することによって処分場の建設を止めたい、あるいはその問題点を浮きぼりにさせたいという目的で「土地」を使ったという側面があります。
 だからぼくらにとって、土地が取り上げられるかどうかということは、決定的な問題ではない。闘いはつづきます。憲法に保障されている権利までも踏みにじって行政が横車を押し通したこと、強権的な手法をとらざるを得なかったことは、行政の無能さの証明であり、行政の失敗だったと思っています。
 だから、ぼくらとしては筋を通したと思っています。
 しかし、トラスト共有地という拠点を失ったということは、厳しい状況ではあるわけで、昨日も人を案内して山に行きましたが、ふと気が付くといつも言っていたように「じゃ、まずトラストに行ってみましょう」とは言えない。もともとトラスト共有地からは処分場全体は見えなかったのですから、よく見えるポイントは別にあって、そこを案内するのはあまり変わらないのですが、トラストで一休みしてもらえないというのは不本意なところです。

広がる関心とマスコミの反応

 これまで@裁判闘争、A行政に対する要請行動、B世論にうったえる宣伝活動と三つの柱で運動をやってきましたが、これ自体は今後も変わりません。
 むしろ強制収用で話題になったせいか、学生や若い人たちからよく「実際に現場を見たい」というような問い合わせがあります。そういう案内がいまいちばん多いのです。来てみると、みな「もっと早く来てみるべきだった」「このような問題とは思わなかった」などという感想をだしてくれます。
 しかし、日の出の運動、日の出のゴミ処分場問題ということはかなり知られたとは思いますが、中身までは行きとどいていない。「日の出で何か騒ぎがあるようだ。行政と住民がもめているようだ。でもどっちもどっちだね」というようなレベルにとどまっている。実は傍目で見ている人にとっても、自分の問題として考えなければいけない問題なんですよというところまではなかなか行ききれていない。
 マスコミも取材記者がひんぱんに入れ替わるので、いろいろ説明しても難しいのですが、記事もつっこみが浅いと思います。結構、初歩的なところで勘違いしていたり、行政側の垂れ流し情報をそのまま載せたりして、それがひとり歩きしていく。そういうところから「やはり住民側もわがままなんじゃないか」などと思われるのは困ったことです。
 ただ、今回の強制収用に際しては、新聞各紙が社説で取り上げました。朝日、毎日、読売、東京と、都内では代表的な四紙がこぞって、「行政がこういうやり方でやって問題が解決するとは思えない」というトーンで見解をだした。第一に、行政がもっと住民と話し合うなり、情報開示なりの透明性を保障していたらここまではもめなかっただろうと言っている。その通りです。さらにこの問題の解決の方法をさぐるうえでは、住民と話し合うこと以外にないのではないかとも言っている。これもまた正当な意見です。
 マスコミがこういう立場を表明したこと自体が大きな成果だったと思います。 ただ、今後、行政のスタンスを変えていくような課題になると、もう少し住民の動きがないと難しいと思います。選挙とか、都庁に押し掛ける直接行動とか、いろいろやらないと難しいと思います。
 今回、「多田謡子人権賞」を受賞しました。副賞ももらえるのでたいへんありがたいと思っています。

ゴミ問題と社会システム

 社会システムとしてゴミの問題は出口のない問題、その場しのぎでやられているのです。廃棄物が産業構造の中にどれだけきちんと位置づけられているか、この問題はまだ未解決の問題です。「先進工業国」は解決の必要に迫られているのですが。
 「まず廃棄から考える」というアプローチは非常に有効だということになってきている。廃棄しやすいということは、それにかかる社会的コストを軽減する。それはゆくゆくは生産コストも引き下げる。製造者責任、拡大製造者責任という概念が一般的になってきていて、いままでのように生産しっぱなし、製造しっぱなし、消費者が消費して終わりということはならない現実に直面している。これは好き嫌い、良し悪しではなくて、迫られている。廃棄の問題はそういう重大な構造的問題になってきている。
 かつて水俣や阿賀野川の問題が大きな問題になりましたが、あの解決には窒素がもうけた額などは吹き飛ぶような額がかかる。この社会コストはほんとうは企業が負担しなくてはならないのに、国が負担せざるをえない。
 アメリカでも五大湖の近くのラブキャナル事件がありましたが、化学工場が不可避的にでた廃液を流して、とんでもない被害がおき、三千人くらいが集団移住した。どれほどの経費がかかることになったか。
 日の出の処分場も最初は三百億円くらいの予算でしたが、いまは五百億円を超えるだろうと言われている。ぼくはもうすこし増えると思います。それだけかけて埋め立てをして、それが二十年、三十年ケアすれば、完全に無害化するかといえばそんなことはない。底に敷いたゴムシートは五年から十年もてばいいだろうと言われているようなものです。
 処分場というのはそこから毒物を移動しないかぎり、ありつづけるわけですから、百年も二百年もずっとある。いずれ何か解決の方法が見つかるにしても、それまでにはまわりはほとんど汚染されて、人も住めなくなっしまう。そうなった時に、いったいいくらの経費がかかるのか、いったい無害化できるのか。そう考えたら一刻も早くちがった方向に方針を転換する必要があると思います。

処分場の延長線上にあるもの

 それが「日の出」だけではなくて、ここと同じような管理型の処分場、遮水シートを敷いて水がもれないようにするという管理型の処分場は、全国に大小二千から三千箇所はあると言われている。管理型というのは、管理している処分場と聞こえるが、管理が必要なもの、管理しなければならないものを捨てるから管理型処分場というのです。
 日の出の第一処分場は一・五ミリの合成ゴム。第二処分場は一・五ミリのポリウレタンのシートを敷いて、それで水が漏らないと言い切る。屋根はないから、汚染物質が外にでるのは避けられないし、管理型としては構造的な欠陥を持っているものです。
 あとは安定型の処分場、もうひとつは遮断型の処分場です。遮断型は漏れないように厚いコンクリートで外界と遮断するもの。これはごく少ないし、実際に遮断されているのかというとこころもとない。
 安定型というのは安定五品目という、ガラス屑とか、コンクリート廃材、陶磁器など、周辺に汚染をもたらさないと言われているものです。ただ、建築廃材などはとても「安定」とは言えない。これは素掘です。遮水溝がない。道路のコンクリートや建材には毒物がいろいろ入っているし、重金属類や鉛などが入っている。言葉だけは厚生省が美しく言っています。
 管理型以外の処分場や、不法投棄場も入れたら、少なく見積もる人でも五万箇所、多く見積もる人は二十万箇所あるといいます。日本中にこんなにある。これが何を引き起こすのか、政治や行政はもっと想像力をもたなくてはいけない。いままでは汚染物質を海に出してしまうことで、国土はそれなりに守られてきた。その代わり、太平洋は汚染がひどくなってきている。これが韓国や北の共和国、中国や台湾が日本と同じことをしたらどうなるのか。世界全体の環境の連関のなかで、日本の社会システムの在り方、日本人がどういう社会システムを作っていくのかを考えないと、いまでも他の問題で世界の孤児になっていることがいっぱいあるのに、まったくひどいことになる。日本の存在自体が、地球の環境そのものから弾きだされることになりかねない。
 あとは野となれ、山となれといいますが、野や山にもなりません。

石原知事は現地を見なさい

 石原知事にもいちど現地を見なさいと言ってきたのですが、下役のいうことを鵜呑みにして「住民側は話し合いを蹴っている」とか「わけのわからないことを騒いでいる」と言っている。これほど危ういことはない。都議会で福士敬子都議がゴムシートの現物を持っていって示したら、知事が手にとってしげしげと見ていたといいますから、たぶん、初めて見たのだと思います。まして密封されたダンプでゴミが運ばれてきて、そこに捨てられるとき微粒な灰がほこりになって舞い上がる。ぼくらはそういうのを見ているから。ダイオキシンとか重金属類、カドミウム、鉛、砒素、亜鉛、六価クロムとか、ありとあらゆるものがはいっていて、その目に見えない物質が舞い上がり、外に飛んでくる。でもそれを見たことがない石原さんには理解できないだろう。現場の人間は薬剤とかセメントで固めてあるとか、十分濡らしているから飛ばないなどというわけですが、実際にはそうではない。現場を見ない連中が安全だといっても信用できません。

闘いはつづく

 トラスト共有地はなくなって、二千八百人の地権者によるトラスト運動はなくなります。これから新しい運動を立ち上げていかなくてはならないと思います。
 関係する裁判には工事差し止め裁判があり、これはあと一年くらいで結審になると思います。事業認定取り消し訴訟と収用裁決取り消し訴訟が併合・合体されています。さらにこの間の収用委員会の裁決以降の補償金の払い渡しのデタラメさを追及する供託無効を争う裁判があります。ほかにこまごまとした訴訟も切れ目なくあります。
 私がトラストに関わったのが、九六年七月頃で、十一月にはトラスト地に住民票を移して、住みついたわけです。ぼくは山育ちですから、都会の人がもっているような山に対する憧れなどはないのです。ただ、居心地はいいです。都心に会合などででてきて帰るときはホッとするというか、ほんとうに居心地がいい。朝、起きる時に小鳥の鳴き声がしていたりすることが、こんなにやすらぐものかと思います。街で暮らしていると徹夜あけで起きたら昼すぎだったなどということもありますが、山のなかではありません。自然に起きてしまいます。生きものとしての人間がやすらぐ場所というのは森の中かなという気がします。
 ぼくにとってはそうでした。ぼくは山に生まれて、山でそだった人間だなと思います。いまも山にもどるとそう思います。
 あのへんは猛獣はいません。ちよっとあぶないのは蛇くらいです。寝袋で寝ていましたから、ある日、帰って寝たら、足元に冷たいものがいる。山ミミズの大きいやつかと思ったのですが、小さな蛇でした。それから注意するようにしていましたが。
 前はムササビなどもいましたが、いまはほとんどいませんし、搬入が始まったら脅かされていなくなりました。雪がふっても零下三度くらいで、森の中だからあまり下がりません。
 日の出の運動にはだいたい三種類の人びとが関わっています。
 ひとつは自然環境派、これは森が切り倒されたり、野性の動物が追い出されたりすると、すごく怒りを感じる人、木が切り倒されるのを見て泣いてしまう人たち。
 もうひとつは汚染源が公害の発生源になるということで、毒物やその飛散のメカニズムなどに興味、問題意識をもっている人。
 もうひとつは合意の形成過程の非民主主義的なやり方、自然破壊や安全性はそれとして、こういう決め方をしてはいけない。地域でも、社会全体でも。だから都庁などにも行ってガンガンやる。ぼくなどの問題意識はつよくそこにあります。 もちろん、それぞれに関連していますから、この人はこれだけというのではありません。そういう特質をもった人たちが集まってきて、お互いを容認しあってやってきた運動だということをおりに触れて感じました。これから運動のひとつのスタイルではないでしょうか。 

 橋本真一さん

 一九四七年八月十五日、福島県生まれ。
 六〜七十年代のベ平連の運動などへのかかわりを経て、九六年から日の出の森のトラスト運動に関わる。以来、トラスト地に住民票を移して、森の住人としてトラスト運動の中心的な一角を担う。
 連絡先=日の出の森・トラスト運動 東京都立川市錦町二―二―二八 コーポ石楠花二〇七 рO42(523)4453


整理解雇四要件の形骸化を許すな 裁判所包囲のヒューマンチェーン

 十二月七日は、東京総行動の日。午前九時に富士銀行前に集合・出発。解雇撤回などを闘う争議団を中心にした全一日の行動は、背景資本を団結した力で包囲し攻め上げる。
この日は次のような行動が展開された。富士銀行、日鉄鉱業、太平洋セメント、NTT、フジテレビ、昭和シェル石油、UBS、住友銀行、あさひ銀行、日逓、富国生命、郵政省、道路公団、日産自動車、東京相和銀行、日商岩井、コクド、福祉学園、由倉工業、カンタス航空、コムスン、運輸省、コーリンなど、いずれも労働者を解雇したり、労働条件を劣悪化させたり、また暴力・傷害行為までおこなっている悪質な企業・当局であった。
 昼には、連続した反動判決を出している東京地裁・高裁を包囲するヒューマンチェーン行動が行われた。
 正午、日比谷野外音楽堂には続々と労働者が集まり、千五百名を超える。手に手にレッド・カード「解雇整理四要件に基づく、公正な判決・決定を求める請願書」をもって、裁判所にむかう。 この日、警察当局と裁判所は、裁判所が「人間の鎖」で包囲されることは、「神聖な司法・国家権力」の権威にたいする攻撃だとして、「請願行動」以外は認めない姿勢で大量の機動隊を配置した。今回は、裁判所を包囲するのではなく請願という形になったが、裁判所の周辺は切れることのない労働者の隊列が続いて「請願」を行った。
ヒューマン・チェーン行動は、司法の反動化に対する労働者の怒りの大きさを示すとともに、今後の裁判所に対する闘いの新たなスタートとなった。
 午後からは、総行動が再開し、夕方には国労闘争団と全動労争議団とが運輸省前で共同で抗議行動を展開し、多くの労働者が結集した。

 ヒューマン・チェーン参加者の決議は述べている。
 この間、東京地裁で不当な仮処分却下の決定を受けた争議団の仲間たちは、従来の産別の枠を越えて「クビ切り自由を許さない実行委員会」を作り、東京地裁・高裁に対する、様々な抗議・要請行動を続けてきた。その一つの頂点である「六・二八クビ切り自由を許さない集会」には多くの労働団体、弁護団、労働組合が参加し、また、自由法曹団、労働弁護団も「えっ解雇は目由?」集会や「これでいいのか司法改革」シンポを相次いで開催して、司法の不当な流れに異議を申し立ててきた。その結果、様々な産別組織が立ち上がり「地裁・高裁ヒューマンチェーンで共闘しよう」という一点で一致して実行委員会が結成され、本日の統一行動が実現した。
 私たちはクビ切り目由を許さない!雇用の破壊を認めない!あらゆる人々と手を結び、国際労働基準に基づく解雇規制を実現し、不当な首切りと失業のない二十一世紀をつくるためにここに結集した。
 全労働者の総意をこめて、整理解雇四要件を形骸化・変質させようとしている東京地裁・高裁に渾身の怒りを込めて抗議する!

  * * * *

 昨年の秋頃から、東京地裁・高裁は、整理解雇の四要件(@人員整理の必要性、A解雇回避努力義務の履行、B被解雇者選定の合理性、C手続の妥当性)を形骸化し、否定する判決が相次いで出している。
 国労関係についてはいうまでもなく、そのほかにも東洋印刷事件、明治書院事件、廣川書院事件などでは整理解雇四要件の大幅緩和の地位保全処分却下の決定、ウエストミンスター銀行事件では四要件否定の判断が行われ、角川財団・東京魚商では労働者側に立証責任をおわせるまでにいたっている。
 こうした司法の反動化は東京だけではない。横浜地裁では、「長期に勤めていて高賃金のものは解雇してもかまわない」という決定(二〇〇〇年三月)までも出ているのである。
 しかし一方で、労働者の側の粘り強い闘いの成果で一定の変化もかち取られている。ヒルトンホテル事件や先にあげた東洋印刷事件でも、裁判所から組合側全面勝利の和解案が出されたり、角川財団事件やカンタス航空事件でも組合側に有利な証人採用が実現したりもしている。
 こうしたことは闘いによって切り開かれたものであり、運動の前途は力関係をいかに労働者の側に有利に変化させることにかかっている。


東京高裁の不当判決を糾弾する

十二月十四日、東京高等裁判所第七民事部(奥山興悦裁判長)は、北海道・九州採用差別事件に関して、JRの不当労働行為責任を認めた中労委命令を取り消すという不当判決を言い渡した。
 言い渡しは主文のみ。裁判長は判決要旨さえ読まなかった。内容的には、不当労働行為の事実にまったく触れない、国鉄改革法の形式的法律解釈のみの判断であった。
 判決理由では、「採用候補者の選定は国鉄の権限に属しJR側は選定を支配、決定する立場にない」と指摘し、「国鉄に不当労働行為があったとしても、JR側が責任を負うことはない」と述べた。
 国鉄の分割・民営化に伴う国労組合員のJR不採用問題について、中央労働委員会は国労側の主張を認め、JR各社が北海道と九州の組合員について採用選考をやり直すよう命じた救済命令を出した。
 しかしJR各社はこれに従うことを拒否し、逆に命令取り消しを中労委に求めたことに、東京高裁は、救済命令を取り消した一審東京地裁判決を支持し中労委側の控訴を棄却、再び国労側敗訴を言い渡したのである。
 これは八日のJR本州関係の不当判決に続くもので、労働分野での司法の反動化が加速していることを物語るものであった。
 国労本部・弁護団・中央共闘は抗議声明を発表し、ただちに上告の手続きをとる。
 高裁前行動を終えて、国労本部で報告集会、闘争団の総括会議などが開かれ、その中では今後も闘争を堅持し、敵を追い込む闘いを展開することなどが確認された。


ビデオ 「国労第六十七回定期大会ドキュメント」 をみて

 二〇〇〇年十月二十八〜二十九日に国労第六十七回定期大会が開催された。本部執行部は、二度の臨時大会で阻止された「四党合意」の採決を再度強行しようとしていた。これに反対する闘争団員とJR内組合員、支援の仲間は、大会会場の内と外で必死の抵抗を続けた。ヤジと怒号の中、大会は断続的に休憩を繰り返した。この間一人の闘争団員が立って国労組合歌を歌おうと仲間に呼びかけた。会場内に歌声が響きわたった。会場の外でもこれに呼応するように合唱がわき起こった。重苦しい時間と緊張感が、希望と勇気に変わった。場面の転換はいつも一人の闘う人間の心の湧き上がりからはじまる。反対派の抵抗で「四党合意」は三たび採択を阻止された。「あらすじ」はこのように記録されている。
 組合員一票投票が実施され、五五パーセントの賛成を得た中央本部は強行姿勢を強めていた。闘争団は大会前日、交通ビルの中央本部で話し合いを求め、宮坂書記長に面談をせまったが、彼は「時間がない」と言って逃げるように駅に向かうところからこのドキュメントははじまる。
いよいよ大会の時を迎えた。高橋委員長はあいさつで、国労が「四党合意」を受け入れることになれば、十四年間の闘争団、家族が受けた人権差別を晴らさずに闘争を止めることになってしまうと「四党合意」への危惧を表明した。
 午後一時、議事再開。唐沢代議員(高崎地本)が執行経過と運動方針論議の切り離しを要求した。この後、宮坂書記長より「四党合意」受諾の提案がなされ、十人の代議員が発言、賛成が三人、反対が七人であった。宮坂書記長は中間答弁で「四党合意」論議の進展が無かったことは執行部の責任であると回答し、ヤジの飛ぶ中この日の論議を終えた。
 大会二日目、朝から雨の降る中、参加する代議員にむけて、昨日傍聴した北海道闘争団家族が「十四年間、人生を賭けてきたのに、組合員の一票投票でマルやバツによって決められるような闘争生活ではないということを分かってもらいたい」と訴えた。九時四十分再開、議運からの経過と方針を平行的に論議を進めたいとの提案に、唐沢代議員は昨日の論議で経過と方針は切り離すという約束だったのに今の提案は違うと反論した。議長は昨日の話は経過と方針の承認を分けてするということを決めたのだと整理をはかろうとした。それは違うとして唐沢代議員と他の代議員が壇上へ進もうとすると、「防衛隊」がこれを阻止、議場が騒然となる。十時七分、休憩となる。外では傍聴に入れない闘争団が中に入れろと抗議をはじめた。
大会は一時二十四分再開、議長が論議を打ち切り早速承認の手続きに入りたいと提案。代議員からはまだ議論が尽くされてないと反対の意見が続出、怒号が飛び交い、代議員同士の掴み合いがはじまり、収集がつかず、再び休憩。双方とも疲労の色が見え始めていた。会場外では執行部側がさらに強硬策に出てくることを予想して、闘争団、支援の仲間がシュプレヒコールで抗議していた。
 傍聴席にいた闘争団の一人が歌いはじめた。「わたくしたちは俺たちは国鉄に生きている 正しい心と赤い血の 通う手と手をしっかり結び 国鉄労働組合の その旗のもと 明日を信じ 働くものだ 国鉄労働者」。外でも歌っている、手拍子する人、スクラムを組んだ合唱になり、二番、三番を歌い、代議員へも立ち上がろうとよびかけた。「ガンバロー」も「インターナショナル」も歌われた。闘争団は生き生きとしていた。
 議事は再開し、議長はただ今より承認を行うと議場封鎖を宣言。その途端、議場はヤジ、怒号で騒然とした。その中で経過報告承認の投票が実施されてしまった。賛成七十四票、反対三十一票と発表された。議場は再び「議事を戻せ」「認められない」「でたらめはやめろ」と怒号が飛び交い、議事が進められない状況となった。休憩の後、議運は中央委員会の確認として、これ以上の討論は不可能であるとのべ、方針案採択を残して休会を通知し、二日間の日程は終了した。
大会に参加し闘い抜いた闘争団、代議員は「四党合意を決めなかったことだけはよかった」「みんながんばった。一票投票に負け、代議員投票に負けたが、ここまで執行部を追い詰めたことで気持ちが楽になった」と一様に安堵感を見せながら帰途についた。「四党合意」は三度阻止された。
このドキュメントには一種の爽快感がある。
 やるだけのことはやった。他動的でなく自律した動きの中での結果としての阻止。
 先のことを考えると難関はあるが、十四年間闘ってきたように、人生を一日一日、精一杯やれば良いのだと言っているようだ。(埼玉・会田)


地域ユニオン活動から見えてくるもの
        ユニオンは小船、一人ひとりがしっかりオールを漕ごう


 リストラの名による整理解雇=首切りの嵐が吹き荒れ、失業者として街に放り出される労働者はもちろんのこと、職場にしがみついている労働者も賃金の切り下げをはじめとする労働条件の劣悪化に直面し、ため息を吐き、途方に暮れている。
たまさか職場に労働組合が存在したとしても、その幹部たちは異議申立てどころか「雇用か倒産か」の脅しにいともたやすく屈して尾っぽを振り、結局のところ「雇用」も「労働条件」も守れず、労働者のかすかな望みも打ち砕いている。
まさに労働者の現状は苦難そのものであり、その危機的状況は深刻である。
 しかし、状況を否定的側面からのみとらえ、能動的に活動することをあきらめたり、「ガマン」を決め込んだりして「保身」に汲々とする態度や、仲間内で「革命的言辞」を弄して事足れりとする態度は、「活動家」、「左翼」と呼ばれた人々のなかにしばしば見受けられる。残念なことではあるが、これらは、情勢を主体的にとらえることができず、敵勢力も危機的状況下にあり矛盾を激化させていることや、対極にいる労働者人民が闘争エネルギーに転化しうる憤まんを蓄積していることなどの肯定的側面を積極的にとらえることができない弱点からきている。
確かに労働運動の現場には困難が山積してはいるが、その中で元気に活動する勢力も存在しており、広がりつつある運動もある。その中のひとつである「地域ユニオン運動」に取り組んでいる友人から話を聞くことができた。
彼らはユニオン結成以来「電話相談」に取り組んでいるが、その中身は「人生相談」に類するものから中小企業の「経営相談」まで多岐にわたっているという。そして、数々の相談事案を解決してきた実績から、自治体の生活相談窓口からも紹介がくるようになったという。「まだまだ端緒についたに過ぎない」というが、組織はこの半年余りで三倍に拡大したそうである。
「電話相談」による組織化の歩留まり率は極めて低いのが常識ともなっていることからするとかなりの高率ではないか、と問うてみた。
「確かに」と彼は言う。だが、「相談」の解決を組織として取り組むのは二、三割、その他は電話のみで相談者が満足(解決)するか、他の解決手段(弁護士等)の紹介で解決する。ユニオンとして取り組み、解決をみた事件でも組合員として残り活動する例はまだまだ少ない。だから一概に高率とは言えない。留意していることは、相談者とともに闘うことだ、という。
請負はやってはならない、それは従来の労働組合がやってきて失敗してきたことだ。それは組合員をお客さんにし、組合員を鍛えることにならず、組織力を質的に高めることにならない。自分の頭で考え、自分の体で行動することを共に取り組むのでなければ、官僚主義の誤りは繰り返しおきてくる。だから「大船に乗ったつもりになってもらっては困る。私たちのユニオンは小船でもあり、組合員一人ひとりのものであるから、あなたにもしっかりオールを漕いでもらわなくてはならない」と最初にいうようにしている、とのことだ。
 取り組む事件は、解雇事件など緊急を要する問題が多いために、また同時並行的に数件の事件を抱えるために基本的な学習活動を系統的に行うようにする時間が取れないのが悩みだというが、専従者がいない組織でありながら、つぎつぎと争議を闘い、解決している活動には学ぶべきものがある。
ある病院の看護労働者の解雇事件は、病院が介護部門に新規参入するために、定年間近かの看護婦をまともな解雇理由もつけずに解雇したものであったが、スピード解決に主眼を置き三ヶ月弱で解決にこぎつけたという。
すぐさま団体交渉を申し入れるとともに、調査を開始し、病院がその地域では有力な病院であること、県から補助金を受け、監督を受ける立場であること等を考慮し、自治体議員を団交に同席してもらうなどしてゆさぶりをかけた。病院側は、新病棟を建設中でもあり、争議の勃発を公にされることを何より嫌った結果、弁護士の代理人を導入してきた。この弁護士は病院の顧問弁護士から紹介を受けた弁護士で労働問題がわかるというふれ込みであったが、利潤追求型であったことが逆に功を奏した。組合側は裁判等の第三者機関での争いの無駄を説き、次いで病院側が職場復帰拒否にこだわったために、本人の意思確認のもとに定年までの残余期間の賃金補償を要求した。結果、通常退職金の数倍の解決金での円満退職となった。
この闘いでは、本人家族のユニオン活動への理解が高かったとことが闘いを進めやすいことになった言える。争議は否応なく家族を巻き込むことになるから、家族の協力を得ることは極めて重要で、けっして軽視してはいけない。職場と住居が接近しているときはことさらである。また、安易に労働委員会や反動化の進む裁判所に舞台を設定することなく、相手側の弱点を見抜き、すばやく包囲網を形成することができた。これらが早期解決に導いたのではないか。それにしても企業側の荒っぽい解雇のやり方が目立ち、未組織の労働者は想像以上の無権利状態に置かれており、「無法地帯」そのものだと、いくつかの例を挙げてくれた。
タイムカードの不正使用の濡れ衣をきせられ、即時解雇(もちろん弁明の機会も予告手当てもなく)された例。通常退職したのちに解雇通知をされ、退職金が支払われない例。職場で倒れ、労災申請を求めて解雇された例、等々。
彼は言う。労働組合が弱いとか、職場は閉塞状況にあるなどと嘆いている時ではない。地域に目を転じれば共に闘ってくれる労働組合、仲間を求めている労働者は大勢いるのであって、活動すべき領域はいくらでもある。ひとりでも多くの労働者を闘いの場に招き入れ、ともに変革を求め自立した労働者として連帯をつくり、強めなければ主体的力量の強化はなし得ないのではないか。
そうした意味では、これまで既成の労働組合の中で活動家としてやってきた人々の意識改革が必要とされているのではないか。たとえば、公務員の職場で民営化反対を叫び、労働条件の確保に奮闘するのも大切なことではあるが、同時にその職場の中ですでに抑圧され差別され、無権利状態を強いられている下請け、パート、派遣労働者の存在と抱える諸問題に目をむけ、その解決に具体的行動を開始するのでなければ、その人々の支持と連帯は得られず、「行革の嵐」に抗することは難しいのではないか、と思う。
ある郵便局では、パート労働者が、いきなり勤務時間を削られ、収入をそれまでの半分の五〜六万円に切り下げられるという事件が起きた。例によって全逓労組は何の役にも立たず、見て見ぬふりだ。結局、ユニオンにやってきた。団交により局側は撤回し、損失賃金の補償も行うとしたが、書面での協定を拒んでいる。その一方でパート労働者の契約期間の短縮と契約の選別化を画策している。
この闘争に取り組みながら思わずにいられないのは、本工主義、企業内主義の罪悪とも言うべき弱点と、それに侵されている良心的活動家の多さである。
われわれは自国の帝国主義に反対するとか、抑圧されたアジアの人々と連帯するとか言うが、国内においても、自分たちのことだけを第一に考える労働者であっては、帝国主義本国の労働者として、自国帝国主義を補完し、その侵略を手助けする恥ずべき労働者の群れの一員に転落するのではないか。
彼は、虐げられた未組織労働者の中に飛び込み、活動することの重要性について熱っぽく説いてくれたのであるが、今回はここまでとしたい。(大山 諭)


韓国オムロン労組が日本遠征闘争で勝利

 オムロン株式会社(立石電気・京都本社、東京本社)の一〇〇%子会社である「韓国オムロン」の労働組合(韓国オムロン労組、民主労総・事務金融労連所属)は、経営者(日本人)による労働協約の一方的破棄・労組破壊攻撃に抗議して、五月から争議に突入、それに対し会社側は十一月十六日からロックアウトを行ない全面対決の姿勢を示してきたた。こうした会社の暴挙は、韓国労働部の指導をも無視しするものであった。
 この間、韓国オムロン労組代表は、東京で開催された「日韓投資協定NO!11・17 日韓労働者連帯集会」に合わせて来日、中小労組政策ネットや日韓ネットなどの労組・市民団体の支援とともに東京本社抗議・要請行動を繰り広げ、さらに第二次日本遠征団を派遣して オムロン京都本社に対する抗議・要請闘争を繰り広げてきた。
 関西では労働組合や外国人支援組織が「韓国オムロン労組の闘いを支援する会」を結成するなど、支援連帯行動が展開された。
 はじめ、オムロン本社側は、ガードマンを配置し申入書さえ受けとらず代表団の面談申し入れを拒否して来たが、連日の本社前での抗議行動に耐えられず、ついに屈服し、東京本社で韓国オムロン労組代表団との話し合いに応じることを約束するとともに、韓国オムロンでのロックアウトを解除した。
 そして、連日の深夜に及ぶ交渉を経て、十二月六日午後に、第二次日本遠征団(五名)と韓国オムロン労組委員長・事務局長、民主労総事務金融連盟委員長・副委員長の同席のもとで完全勝利とも言える内容で争議妥結・調印の運びとなった。
 今回のオムロン社のやり方は、日本の経営者が韓国の労働者を好き勝手に・労働条件の切り下げ・弾圧することのできる日韓投資協定の先取りそのものである。こうしたことが横行すれば、他の日系企業労働者のみならず韓国労働運動、そして日本の労働者・労働運動に与える影響もはかりしれないものがあった。
 韓国オムロン労組の闘いと勝利は、国境を超えた労働者の連帯の重要さを示している。


郵政の職場から
             
名も知らぬ星々

 一人六千枚の年賀状を販売せよという「営業」が、強制される今とは隔世の感である。
上部の指導に従った青年労働者たちが首切りに。
 職場復帰の闘いの途上の、その後の「四党合意」の先鞭をつけたような自・杜の政冶決着は、誰一人の職場復帰も果たせなかった。
 政治の混乱、それによる無関心の増大をよそに、郵政省がなくなる。
事業庁、公社化と線路は敷かれ、行く着くところは「民営化」。
 金科玉条のごとく「赤字、赤字」「営業、営業」の恫喝を繰り返すだけで、当局も連合労組もその根本原因を焙り出そうとしない。
 郵便局には有りとあらゆる天下り企業、民間企業が甘い蜜を求めて群がり、食い物にしている。働くものを減らす口実でしかない、二億も三億もする七桁の機械。「胸章を着けろ」、支給された「ネクタイを着けろ」「靴を履け」。喜ぶのは納入企業だけ。売れば売るほど天下り企業だけが儲かり、郵政省はますます「赤字に」なる「ゆうパック小包」(一個売ると43円59銭の赤字)。差しだし企業にとっては美味しい「配達記録郵便」という名のダンピング商品。数え上げたらきりがない。
 異議を唱えるものを排除し、高齢者、弱者を退職に追い込み、働き生あるものを自死に追い込み、そんな「強制配転」がまかりとおる。
職場にはベテランがいない。職員はつぎつぎに減らされ(三年で内務五千人減員)、ますます比重を大きくされているにもかかわらず、使い捨てにされている「非正規」の人たち。
「あまねく公平なサービス」を利用者に提供するなんて事は「民営化」以前に死語になっていて、職場は「荒廃」の域をとうに越えている。
 当局のそういうあり方はもちろん問題だが、それらを問題ととして捉えようとしない働く側の方にも責任はある。
 しかし、みんながみんな、年がら年中冬眠しているわけではない。
 理に反する解雇、いじめやセクハラと闘う非常勤の女性。
 低賃金、劣悪な待遇、解雇攻撃と闘う下請けの輸送部門(日逓)の臨時杜員。いじめ、退職強要と闘う労働者。
 強制配転と闘う労働者。違法な三六協定による超勤命令に従う義務は無いと、首きり撤回をかちとった労働者。
 そして、それを支え共にする仲間たち。郵政全労協の仲間たち。
郵政官僚と連合労組の幹部たちは、天下り先を含めて今後の身の振り方に権力を行使している。 その完膚無きパートナーシップの壁を乗り越えて、あるいは間隙を縫って、働くさまざまな仲間たちが各地で小さいが狼煙をあげている。今の職場は、寒風吹き荒ぶ隙間だらけの、今にも崩壊しそうな屋敷でしかない。暖も無く、手を足を震わせ、あるいは、全身を凍えさせ、凍死寸前である。既に凍死者はひとりふたりと、増殖されているのかもしれない。
 仕事から解放された、この時季の都心から離れた夜空は、寒風の寒空にもかかわらず、だからこそ、名も知らぬ星の、たくさんの星たちの鮮やかな輝きが降り注いでいる。暖かい輝きが。


映評

       
バトルロイヤル

                監督 ・ 深作欣二
                主演 ・ ビートたけし(教師キタノ)
                    藤原竜也(七原秋也)
                    前田亜季(中川典子)

                                      113分


 この映画は一クラスの中学生全員が殺しあうシーンなどがきわめて残虐であるとして、民主党の石井紘基衆議院議員や町村信孝文部大臣、青少年育成団体、PTA関係者が試写会の後、監督と懇談会を持ったり、上映に抗議したり、興業団体に中学生以下の入場を厳しくチェックすることを要請している。これが、多くの報道機関でとりあげられたので、なんとなくヤバイ映画であると感じている人が少なくないようなので、取り上げることにした。

ストーリー

 映画の内容をあまり詳しく紹介しても無駄なような気もするが、参考までに少しだけふれておく。
近未来、と言っても二十一世紀の初頭、「新世紀教育改革法(BR法)」が制定され、全国の中学三年生の中から一クラスを抽選で選びだし、三日間のうちに最後の一人になるまで殺しあわなければならないルールが出来た。時代背景としては大不況のため、失業率十五%、不登校の子どもが八十万人におよび、生き残る価値のある大人を育成するためにとった措置だといわれる。修学旅行中にバスごと拉致された七原たちは、ある無人島で軍隊の監視のもと、キタノ先生の命令で武器と食糧を持たされ、仲間を、友人を殺しあうバトルを続けることになる。このキタノ先生は二年生の時に、このクラスの全生徒から授業をボイコットされたことに深い恨みを抱いているようなのだ。
 武器は機関銃、カマ、ボーガンなどさまざまで、無残な殺戮(さつりく)が繰り返される。そういった場面はまさに正視に耐えないし、おびただしい血が流されるのには生理的に目をそむけたくなるのも事実であろう。またこの先生は数時間ごとにスピーカーを通じて、「死亡者男子〇〇番〇〇……」などと発表し、生徒たちに心理的な威嚇(いかく)をくりかえすのだから、こういった映画を正面から批判するのか、それとも無視したほうがいいのか、判断の分かれるところだ。私はここではどこまでできるかわからないが、正面きって反論したいと思う。
 その理由のひとつにビートたけしがこの映画に主演していることをあげなければならない。キタノ先生は生徒たちに復讐を誓い、演技の上だとはいえ残酷に、きわめて残虐に、生徒たちを追い詰めていく。その目はかわいた残酷さに満ちていて、平気で、なんのためらいもなく殺人まで犯すような目である。

暴力礼賛のトライアングル

 少し横道にそれるが、私はいつもビートたけしこと北野武の映画を徹底的に批判しなければならないと思っていた。国際的な映画祭のグランプリを受賞しようが、そんなことは関係ない。「その男狂暴につき」「HANA−BI」、そして最新作の「BROTHER」にしろ、これらは玄人受けする映画だと言われてきた。逆にいうと一般の観客からはあまり支持されていない映画なのだ。
 映画における表現の暴力性、若干違う趣旨の映画もあるがワンパターンの暴力、ヤクザの登場、これは北野武の資質なのである。
 漫才師のころからの弱者に対する攻撃性はまったくあらたまっていない。かつて参議院選挙のために野村秋介が作った「風の会」を応援するメンバーにビートたけしの名があった。彼は体質的に右翼だし、暴力的なのだ。最近の文化人としての仮面にだまされてはいけない。
 さらに付け加えて言えば、この映画の監督の深作欣二は、かつては「軍旗はためく下に」(七二年)のような反戦映画を撮っていたが、「仁義なき戦い」の五部作を撮るころからは東映ヤクザ路線のまっただ中にいるようになってしまった。「仁義なき戦い」は広島における熾烈な暴力団抗争に題材をとったものだ。六〇年代終わり頃からの高倉健主演の「網走番外地」などのヤクザ映画は反体制・反権力の象徴としてもてはやされたきたが、それはやはり間違いだった。そんなところに感情移入することのばからしさがだんだん理解されてきたのだった。
 またこれらの映画を多く制作してきた東映はもともと右翼的な体質をもっていたのだ。深作欣二、ビートたけし、東映という最悪のトライアングルの構図を理解してもらえただろうか。 

安易に礼賛して良いか


 原作の「バトル・ロワイヤル」は第五回日本ホラー映画大賞で審査員から非常に不愉快な映画と酷評された作品だそうだ。映画の中でキタノは「きょうは皆さんにちよっと殺しあいをしてもらいます」「人生はゲームです。みんなは必死になって戦って、生き残る価値のある大人になりましょう」という言葉を吐く。たいへん不愉快なせりふだ。人の生命をなんだとおもっているんだと叫びたくなる。しかし、しょせん通じる相手ではないだろう。
 この映画には乙武洋匡、宮崎学などの人びとが賛辞を贈っている。「おいおい、そんなに簡単にほめていいのか」と皮肉のひとつも言いたくなる。
 こうした批判に対して、「しょせん、映画なんだし、寓話なのだから」という反論も聞こえてきそうだし、表現の自由という問題はどうするんだという向きもあるだろうし、十五歳以下は見ることができないR− 指定の映画だから、少年たちに影響はないという人もいるだろう。
 しかし、そういう意見や評論をすべて聞いた上で、この原作者は、監督は、何が言いたくてこの作品を書き、映画を作ったのかという、制作の意図がまったく見えてこないのは致命的な欠陥だと思う。
 師走の映画館には行列ができていた。そしてその観客の九〇%以上が二十歳前後の若者たちだった。彼らはたぶんテレビゲームをするような感覚で、この映画を楽しんで(?)いるのかも知れない。悪意をまったく感じとらずに。
 東映系映画館で上映中。(東幸成)


複眼単眼

        デマゴーグ石原都知事と憲法調査会と三宅島


 十一月三〇日の衆議院憲法調査会では、石原慎太郎東京都知事は「まず内閣不信任案などと同じように国会の過半数の支持で憲法を否定したらいい。そのうえでどこを残し、どこを変えるかを議論すればよい」などと、憲法体系の完全否定論を展開した。
 また石原は「もし日本が強大な軍事産業国家として世界史に登場してこなかったならば、現実の世界の歴史は白人の植民地支配が続いている」などと「大東亜戦争礼賛論」を展開し、「アメリカの現代史家の中で、あの戦争は日本のイニシアチブで始まったと思っている人間はひとりもいません」として、一部で流行の「アメリカにはめられた戦争」論を開陳している。ここには「パール・ハーバー以来の日米戦争」という認識しかなく、十五年戦争の認識が完全にない。
 そして安保問題では石原は「片っ方にはとんでもない、時代錯誤と私はあえていうけれども、帝国主義というものを標榜している国家(筆者註・中国のこと)があるわけですよ。これは私たちはつよく意識しなきゃいけないし、それを場合によったら牽制しなくちゃいけないし、場合によっては防がなくちゃいけない」などとデマで挑発的な発言をした。そして「今の憲法九条は、逆さに読んだって、横に読んだって、日本の言語能力、普通の日本人が読んだら違反ですよ。自衛隊は違反ですよ。だから自衛のための戦力はこれを保有すると三項でいれたらいいということをかねがね言ってきたわけですよ」などと居直りの改憲議論を展開した。
 そして「ドイツは降伏に際して三条件をだして、これを認めなければ降伏しない」と言ったのに、日本はそうしなかったことが問題だなどと、まったくのデマを平気で陳述する。
 ある会合でこれらについて議論になった。
 石原の政治手法は常に「敵」を作って、それとの闘いに民衆を囲いこんで行こうとするものだと指摘する人がいた。
 石原は「石原がこんなに毅然として言うのだから、そうかも知れない」と考える人びとの層を想定してデマゴギーを展開している、と指摘した人もいた。
 長野の県知事選を見ると、やはりリベラルな人びとは確実にいるのだなと思わされるが、同じ層の多くが東京では石原を支持していることを見ておかなくてはいけないよという意見もあった。
 石原のこういう議論を可能にする背景とは何かについて、われわれの認識を深めておく必要があるという意見もあった。
 この石原にまつわって最近、なんとも悲しく、かつ腹立たしい事件があった。
 十二月十五日、いま雄山の噴火で集団離村中の三宅村議会が都下の府中市で開かれた。そこで村議会の梅田政男議長と寺本恒夫副議長が、助役人事案件に関する石原都知事との対立で詰め腹を切らされ、辞任した。
 先ごろ、三宅島村議会は都が派遣するとした都職員の助役就任を拒否した。結果として村が「全島避難」を決めた前日だった。
 石原知事は「もう怒った。お前らバカかって。三宅島というのはほんとうにまとまりのない島だ」と怒りをあらわにした。
 都内に島民が避難して以来、都から冷遇されることを恐れた人びとが、議長らに辞任圧力をかけたのだという。事実、寒い冬を前に、島民は帰島のメドも立たないまま、働き口もなく、住まいも他人と同居させられている人までいる。子どもたちが精神的に不安定になっているケースもある。悲しいことに都がロクに支援してくれないのはあの人事案件の否決のせいではないかと思わせられている。
 辞任した議長は「くやしい。そんなに卑屈になるべきでない」と語ったが、ここまで島の人びとを追い詰める石原とはいったい何者なのか。私は絶対に許さない。「まとまりのない」云々は、実は石原が衆議院にでたころの選挙区の東京二区は大田区・品川区と三宅村など島しょ地域を含む地域だった。のちに高揚した三宅島の「米軍基地移転反対闘争」に、石原は人一倍、苦々しい思いを抱いていたのに違いない。(T)