人民新報 ・ 第1013号  (2001年2月5日)   

                    
目次

● 池田大作の「平和提言」に見る「論憲」論の危険な役割

● 「国旗・国歌法」から一年、 「日の丸・君が代」強制の現場では何が
     学校と地域をむすぶ交流会

● 国労大会 機動隊に守られた四党合意強行糾弾!

● 「教育改革国民会議」最終報告のねらいについて批判する B   

 教育現場から 広島から国立、そして北海道

● 幕末明治民衆運動史研究会公開講座
       新政反対一揆における部落襲撃の位置づけ 上杉 聰 (関西大学文学部教員)

● 複眼単眼  KSD問題、そして選挙制度いじりと首相公選制

●KODAMA  地域から改憲反対の声を
                       

            


池田大作の「平和提言」に見る「論憲」論の危険な役割


池田提言とマスコミの評価

 創価学会の池田大作名誉会長は一月二十六、二十七日の機関紙『聖教新聞』で「平和提言」を発表した。これを報ずる新聞各紙の見出しはまちまちで「論憲の必要性強調・九条改正には反対」(朝日)、「憲法見直し大切」(産経)、「憲法、適宜検討は当然」(読売)、「憲法9条 手をつけるべきではない」(毎日)、「池田名誉会長が憲法改正を容認」(東京)など、ほとんど正反対の評価がある。いずれの見出しが池田提言の真実を言いあてているのか、これだけではわからない。
 「産経新聞」は創価学会や公明党の幹部にも取材したとして、次のように付け加えている。
 「創価学会によると、池田氏が憲法改正について本格的な提言を行ったのはこれが初めて」「創価学会では、今回の池田氏の提言について『憲法改正論議の機が熟しつつあるとの判断から、学会のリーダーとして、考え方の軌道を示したもの』(幹部)としており、公明党も『党内ではさらに現実的な憲法論議の機運が醸成されるだろう』(幹部)としている」と。 
 この「池田提言」は二日間にわたって「聖教新聞」に掲載された『第 回SGI(註・創価学会インタナショナル)の日記念提言・生命の世紀へ 大いなる潮流』と題するもので、紙面計五ページにわたる膨大なものである。直接に憲法問題に触れているのは、「憲法9条『平和主義』のグローバルな開花を」との中見出しによる部分で、分量的には「提言」全体の十分の一ほどを占めている。
 その他の中見出しは「共生と内発の精神の力で人間のための新しき文明を」「『生命の排除』が招いた 世紀の悲劇」「社会の基盤突き崩す絆の分断」「時代の闇破る『つよる心』(自己規律の精神)」「『力の文明』転換する女性の世紀を」「国連こそ人類共闘の結集軸」などというものである。「提言」は独特の用語をちりばめた池田の宗教的世界観の展開である。

言い古された提言の中身

 「提言」の憲法論を池田の展開にそって抜粋すれば、@同じく新憲法で出発したドイツが何度も憲法をかえているように、憲法に適宜検討を加えるのは当然だ。A社会の変化の中で生じてきた新しい環境問題や多様化する人権問題、情報化社会への対応、民意を直接問う国民投票制や首相公選制の導入など二十一世紀の民主主義の在り方に関わるテーマの存在から「論憲」は当然だ。Bそうであればこそ、長期的な展望や理念を欠いたまま短兵急に改正することや、国民的な合意を待たずに政治的意図で改憲するのはいましめよ。C平和主義は日本国憲法の根幹的意味を持ち、手をつけるべきではないという信念はいまも変わらない。D九条は国家主権をあえて制限しているが、その『半主権性』はそれを国連に委ねるという約束ごとの上に成立したものだ。国連による普遍的な安全保障と紛争予防措置の環境整備・確立を、二十一世紀にこそ実現すべく、日本がその主動的役割を果たせ、というものである。
 これをより端的に言えば@論憲は必要で、テーマは環境問題、人権問題、情報化社会、国民投票制や首相公選制の問題だ、A平和主義のグローバルな開花に向け、九条の文言には手をつけないで、国際的には国連協力などを進める、それは「条文を改めなくても、それは可能である」というものである。
 @は九七年に中山太郎らが改憲議連(憲法調査会設置推進議員連盟)を設立した時に呼びかけた趣意書や、以来、中曽根康弘らが改憲の宣伝をしてきたものと瓜二つである。
 Aは小沢一郎の「改憲論」とそっくりで、小沢が最近の土井・社民党党首との会談で「あまり違わない」と述べたのは、ほぼこの内容である。小沢はできるだけ九条に第三項を新設して「国連協力・国際貢献」を明記したほうがよいという意見ではあるが、池田のこれはそこまでしなくともおそらく「安保基本法」などの制定によって「可能である」ということであろう。
 こうして見ると、鳴り物入りで打ち出された「池田提言」の内容自体はなんの新味もない、言い古された陳腐な改憲論であることが明らかである。

池田の路線転換

 では、この陳腐な「提言」は何の意味もないものなのか。そうではない。
 それは与党・公明党の支持母体で、国内最大規模の宗教団体・創価学会の最高指導者・池田大作の明白な憲法路線の転換の宣言の意味をもっているだけに重大なのである。
 例えば池田はこれまで憲法について次のように述べていた。
「この憲法を特徴づけている基本的人権、主権在民、戦争放棄の中でも、戦争放棄は、まったく画期的な宣言といえよう。……日本国憲法の、もっとも重要なポイントは『平和』であり、平和憲法ということこそ、この憲法の最高に誇りうる栄冠である」(一九七〇年「私の人生観」)
「わが国の保守党は、……アメリカのその後の政策変更に追随して、軍備の復活をすすめ、平和憲法を、害虫がリンゴについたように空洞化してしまった。それでも飽きたらず、戦争放棄の規定を、非現実的な理想主義と嘲笑し『国を守る気概』などと唱えながら、憲法改悪をすら企んでいるようである。……今日、再軍備をすすめ、憲法の改定を主張する人びとは、戦争の体験を忘れた健忘症か、戦争で甘い汁を吸った『死の商人』の手代としか、私には考えられない。……少なくとも日本国民にとって、生命を脅かしてきた最大の敵は、外敵よりも、むしろ自国の為政者であったことは、歴史上明白なことではなかろうか」(同前)
「国防のためだから、国民の税金を軍備の拡張のために注ぐのは当然だという、政府・権力者の言い分はまやかしにすぎません。……政治権力の多くは、この『防衛』を口実にしてつくりあげた軍事力によって『侵略』を行い、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと追い込んできたのですから」(一九七五年「二十一世紀への対話」)
「現行の日本国憲法を、いま現在改正をする必要があるかどうかという点に関しては、私は否定的に考えます。それは技術的・制度的な面から出されている改正の要請も、それほど急がねばならぬものとは考えられないことが第一の理由です。そして第二の理由は、改憲論が、技術的・制度的側面を超えて、憲法の掲げる基本原理までをも、根本からくつがえそうとしているからです。……今日のような政治状況のもとにあっては、われわれ国民は、あくまでも憲法擁護の姿勢を貫いて、少しでも邪悪な勢力の横暴を許すようなことがあってはならないでしょう」(一九七五年「人生問答」)
「防衛問題を考える場合、国家を防衛するのか、それとも国民を守るのか、それによって、問題のたて方は随分違ったものになると思います。国家を守ることと、国民を守ることとは必ずしも一致しません。というのは国家を動かしている存在が一握りの人びとである場合、国民のためという大義の名のもとに、実質はその人びとの利益を守ることが第一義になっていく危険性があるのです」(同前)
 「戦後の保守政権の在り方をみると、随所に憲法の精神からの逸脱がみられる。とくに最近の『有事立法』をめぐっての議論などは、平和憲法そのものを形骸化させかねない危険な動向が察知され、厳重な警戒を怠ってはならないと思う」(一九七九年「二十一世紀への平和路線」)
「一部の人々が言うように、国際政治の現実に憲法を合わせるなどという改憲路線より、憲法の理念を現実の国際政治の中で積極的に生かす方途を求めるのが日本の使命でありましょう」(一九八六年「SGIの日・記念提言」)
 長い引用になったが、過去の池田をして、現在の池田を批判させるためである。

自公連合の精神的背骨

 まさに産経新聞がいうように、池田大作が憲法改正について本格的な提言を行ったのはこれが初めてである。問題はその政治的なタイミングである。
 池田はすでに九九年一月に首相公選制を提唱し、憲法調査会設置のための国会法改定案の成立のための地慣らしに踏みだした。以降、創価学会は「九条をかえないのなら、改正の議論はかまわない」との態度を打ち出した。
 公明党は昨年十一月の大会で「(憲法論議については五年をメドとした)衆参両院の憲法調査会での結果を踏まえて、次の五年で第一段階の結論をだす」と、「論憲論」から事実上の改憲論への踏み込みを確認した。「憲法調査会の結果を踏まえて」などと公平さをよそおっていうが、改憲派が圧倒的多数の調査会での永田町式議論がどのような結論に至るか、火を見るよりも明らかなことを承知で言っている。
 昨年八月三日の衆議院憲法調査会では、公明党の赤松正雄は憲法問題についての同党の「将来にわたる護憲を明確にした昭和四十九年の見解」「最小必要限度の個別的自衛権は合憲とした昭和五十六年の見解」などの歴史的経過についてふれ、「いまは第三段階の論憲に至っている」と述べた。そして「論じて変えないのは論憲ではない」「最大の論点は安保問題であり、やっかいでもここから手をつけるべきだ」と、事実上の九条改憲の立場を明らかにした。
 今回の「池田提言」がこれらの公明党の流れを促進するねらいをもっているのは明白であろう。それは公明党の与党の地位の確保による「現世利益」の確保のため、自公連立政権維持に向けた思想的バックボーンの提起である。
 創価学会の自己本位の利害の追求をめざすこの道が、日本を危険な「戦争のできる国」「戦争をする国」へと進めていく道であることは、厳粛に確認しておかなくてはならない。


「国旗・国歌法」から一年、
 「日の丸・君が代」強制の現場では何が
     学校と地域をむすぶ交流会


 九九年の「日の丸・君が代」法制化以来、公立学校の卒入学式などの場で急速にその押しつけが強まっている。法制化当時の「強制はしない」などという政府答弁はまったく無視され、文部省・教育委員会、右翼、右派マスコミなどによる一体化した攻撃が行われているのが特徴だ。
 これらの動きに現場でねばりつよく抵抗している教職員などを中心にして「第十回『日の丸・君が代』反対! 学校と地域をむすぶ交流会」が、一月二七日(土)午後三時から翌日の正午まで、東京・西早稲田の日本キリスト教会館で行われた。
 今回のテーマは「国旗・国歌法から一年、『日の丸・君が代』強制の現場で何が起こっているのか?」というもので、おりからの大雪のなか、全国各地から報告者が駆けつけた。
 パネル・ディスカッションは中川信明(「日の丸・君が代」反対!地域と学校をむすぶ連絡会事務局)氏の司会で、広島・石岡修(広教組)、国立・岡崎敬(国立二小・弁護士)、豊中・石原敏(とよなかtennoネット)、十勝・吉田淳一(北教組利別小分会)、三輪隆(埼玉大学・憲法学)の各氏によって行われた。
 広島からは、今回の攻撃が文部省による攻撃であるだけでなく、新保守主義的な経済界によっても行われていることに注目すべきだとの報告があった。
 今回KSD汚職問題を引き起こした小山孝雄が、広島の教育への攻撃に大きく関わっている。彼は右派組織「日本会議」のメンバーで国会で「広島の教育は荒れ果てている。その原因は教組と解同にある」などといいふらし、そのバロメーターは「日の丸・君が代」の実施率ではかればよいなどと言った。
 九七年二月、福山市の自由主義史観グループの教員が「日の丸・君が代」賛美の授業をしたことを契機にして、広島県教育会議(日本会議の実働部隊)と広島県経済同友会などによる「広島の教育は変更教育だ」との差別キャンペーンがはじまった。いま彼らは「国民の歴史」(西尾幹二)や「国民の道徳」(西部邁)などを懸命に普及しようとしている。
 広島と前後して右翼から攻撃がかけられている大阪・豊中市では、右翼の示威行動や産経新聞による異常なキャンペーンが行われている。九七年十二月に同紙に「豊中の蛍池小学校に『国語』がない」という見出しで、「日本語」の教科名での授業に変更キャンペーンが始められ、以降、それらの攻撃のなか日教組の市教職員組合も自己規制をはじめる事態になっている。これにたいして教育合同労組などの教員や市民は、成人式や卒入学式に対する申し入れなどを行い、闘いをすすめている。
 東京・国立市では、国立第二小学校が右派の攻撃の的にされてきた。昨年四月から右翼が六十数台の街宣車を押し出してきたり、脅迫状が送り付けられたりするような攻撃がつづいている。
 国立の問題は一言で言えば「日の丸・君が代」を強制したいと思っている人が、デマ攻撃によって問題をひろげ、石原都知事や右翼が集団的な「ヒステリー」状況のなかで高言をしていることだ。これにたいして、市民の中には「いくら産経でもデマはかかないだろう」というような感覚もあり、新聞によるデマが成功している。
しかし、産経による国立二小の記事は記者が取材もしていないままに、意図的に書かれたものだ。それは校長が教委に言われて出した「報告書」を引き写したものだ。それによって国立二小の「土下座」問題はつくられた。
 すさまじいキャンペーンの中で、「国立の偏向教育が原因だ」と言われ、「『日の丸・君が代』のない教育は異常だ」といわれ、石原都知事は「グロテスクな状態だ」などといい、いまの十七歳問題とからめて、「このような少年たちを生み出したのは、学校教育だ」などということがなんの脈絡もなく語られている。
 国立ではピースリボンを付けた六人の教員に戒告処分がおりている。国立はとにかく異常だというキャンペーンのなかで「奴隷の服従」が要求されている。しかし、「日の丸・君が代」の強制に屈しない教育現場こそが、よい子どもたちを育てることができると確信して闘っている。
 北海道からは、「日の丸・君が代」の実施率がもっとも低かったことからこの間、集中的に攻撃が行われていることが報告された。とりわけ九九年秋から現場は一気に変化した。最初はどんな形でもいいからとにかく「日の丸・君が代」を導入させておいて、そのあとは既成事実化がはかられる。北海道議会や文部省の圧力のなかで、十勝でも十六名に処分がなされ、札幌でも産経新聞による攻撃が行われている。産経の支社も販売店もない北海道において、ただただ国会で攻撃材料として使うために、北海道の教育の記事がつくられている。今後、国立や広島のような本格的な攻撃がかけられてくるのは間違いない。
 これらの報告を受けて、コメンテーターの三輪隆さんは次のことを強調した。
 @今後の運動の在り方としては、この問題では多くの人びとがまだ意識的自覚的に結論をもっている状態ではなく、それらの人びとは法制化されると「したがわなくてはならないかな」と考えてしまうが、これと闘わなくてはならない。普通のことばで多くの人びとに語りかけることが大切だ。
 A新自由主義的なジャングル・ルールが子供たちにおおいかぶさってきている。現場の闘いは「自由」をめぐる闘いであり、日頃「自由な教育」を進めることが大切で、闘いは卒・入学式の時だけでは勝てない、など。


国労大会
 機動隊に守られた四党合意強行糾弾

吹雪の中の闘い

 一月二十七日、「JRに法的責任なし」の四党合意承認を強行する国労第六十七回定期大会(続開大会)が、前夜からの激しい吹雪が一層つのるなかで開始された。会場の社会文化会館の周辺は、国労本部要請による千名余りの警視庁機動隊・警官隊によって包囲・封鎖された。宮坂義久書記長・チャレンジグループと革同上村(副委員長)派などの右派幹部たちは、十三年余にわたり解雇撤回を闘ってきた当事者である闘争団とそれを支援する労働者を警察権力によって排除し、加えてメディア陣の入場をも制限しての密室状態で、闘争団切り捨て=四党合意承認・内部からの闘争破壊の方針を強行採決しようというのだ。権力の庇護の下での大会という労働組合にあるまじき前代未聞のこの情景こそ、国労本部による反労働者的暴挙のなによりも明白な証拠となった。しかし、こうしたやり方は、闘争団をはじめとする四党合意反対派の動きを弱めるのではなく、逆に、闘争陣形を固めさせる結果となった。
 一月二十日に、闘争堅持の方針を再確認した二十闘争団と有志は、厚生労働省記者クラブで記者会見を行い、JRの不当労働行為責任を最後まで追及し、解雇撤回・地元JR復帰まで闘い抜く「声明文」を明らかにした。
 同日夜には、五百名が参加して「JRに法的責任あり!ILO第二次勧告は誤りだ!闘争団の解決要求実現をめざす集会」(主催・四党合意NO!働くものの人権は譲らない行動ネットワーク)が開かれ、国労闘争団、全動労争議団、動労千葉争議団がそろって決意表明を行い、共同して闘いぬく体制をつくった。
 大会前日の二十六日には、四党合意反対から一転して本部側にすりより、本部方針を強行する警備責任者へと変質した東京地本・酒田充委員長に対し、関東三地本の水戸地本(佐藤将文委員長)、千葉地本(佐藤正利委員長)、高崎地本(中村宗一委員長)が、「続開大会警備についての申し入れ」を行い、大会準備地本としての東京地本に警察機動隊の出動要請、マスコミ各社の排除等について再考を要請した。
 その夕刻には、シニアワーク東京で、四党合意に反対する全国連絡会(代表・樋越忍<前名古屋地本書記長>、小沢勝彦<前東京地本法対部長>、篠崎信一<新橋支部委員長>)主催の「1・ 国鉄闘争勝利『学習・交流集会』」において、代議員、闘争団・家族、支援・共闘からの発言を受け、また大会情勢とそこでの闘いの方向を確認した。

非民主的な大会運営

 大会当日は、降りしきる雪を突いて、支援の労働者たちが、朝七時から会場周辺で行動を開始し、全身にしみ込んでくる寒気に耐えながら、会場内と呼応して、四党合意に反対して闘い抜いた。
 多くの代議員や傍聴者は前日からホテルに閉じ込められ、バス輸送で会場に到着し、機動隊の隊列の中を歩かされるという屈辱を味あわされた。マスコミ取材は一社一名に制限され、しかもテレビ取材は開会五分前までの撮影のみで、しかも、テレビカメラに闘争団の姿が映らないように撮影の間、闘争団を足止めにすることまでおこなった。国労本部は真実が知られることを恐れたのである。また、傍聴者の制限は、きわめて厳しく、闘争団、組合員、支援の多数が拒否された。
 こうした傍聴規制・取材規制に抗議し、新聞記者、国鉄闘争中央共闘、全労協からの来賓など何人もが抗議の意を示して退場するという異常な事態が起こった。
 方針案討論では十三人が発言したが、四党合意推進派の議長は賛成派代議員ばかりを指名して、なんと十人もの賛成意見を述べさせるというきわめて非民主的な議事進行を強行した。会場内は圧倒的な警備陣が、反対派を暴力的に威圧していた。
 しかし、闘う代議員は、四党合意承認の誤りを指摘し、闘争団を守り抜き、国労の闘う旗を堅持して展望を切り開くべきだとの意見を述べた。傍聴に入った闘争団・有志は、手に手に四党合意反対などのプラカードを掲げ、抗議のシュプレヒコールを繰り返して闘った。
 だが、議長団の横暴な議事進行の結果、発言を求める多くの反対派代議員の挙手は無視されてしまった。
 宮坂書記長は答弁の中で、闘争団の要求について「確立を求めていく」、「要求の前進をはかっていく」などと述べたが、その条件を自ら破壊したのが四党合意なのであり、まったくの詭弁としか言い様のない発言に終始した。三つの修正案が否決され、つづいて「四党合意」承認の運動方針の採決が激しい抗議のなか強行された。
 結果は代議員総数百二十一名中、賛成七十八票、反対四十票、無効白票三票であった。
 採決後、現執行部は総辞職し新役員選挙が行われた。新しい中央執行委員には、委員長・高嶋昭一(盛岡地本)、副委員長・田中浅雄(近畿地本)、書記長・寺内寿雄(北海道地本)、執行委員に、大西純(近畿地本)、栗原洋実(東京地本)、久保孝幸(東京地本)、本間忠(東京地本)の七名が選出された。三役など六人は四党合意推進派であるが、栗原中執(東京地本・新橋支部)は、四党合意に反対する全国連絡会の中心メンバーである(なお、今回大会で不本意ながら辞任した宮坂、上村などの右派幹部は新執行部に影響力を行使するとともに、次回大会での返り咲きを狙っているといわれている)。
 新委員長による大会閉会時の団結がんばろうに、闘争団などは四党合意反対を叫び、大会決定にかかわらず闘い続けることをアピールした。

闘争団は闘い続ける


 大会終了後に行われた記者会見の席上、国労本部寺内書記長は、今後の四党合意交渉について、「全員がバンザイ出来る解決になるとは思っていないが、『そんなはずではなかった』といわれる結果は出したくない」「大方の人が我慢できるギリギリのところを落としどころとするのが国労としての最終的目標」と言って、要求からの大幅ダウンの決着を早くも匂わせていた。他方、闘争団は記者会見でも、闘争を堅持する決意を表明した。
 二十七日夕刻、四党合意に反対する全国連絡会は、前日と同じシニアワーク東京で「1・ 国労定期(続開)大会報告集会」を開き、大会会場内で闘った代議員・傍聴者、会場外でずぶ濡れになりながら頑張った労働者が多数結集し、これからの国鉄闘争の前進について確認し合った。集会では、連絡会代表の一人である篠崎新橋支部委員長が、四党合意が承認されたが悲観していない、今回起こったことの本質を全国に暴露し、これからの闘いを再構築することが急務である、と述べた。つづいて熊本闘争団、音威子府闘争団、静岡闘争団、家族会、米子地本代議員、栗原中央執行委員がそれぞれ決意表明を行った。
 国労大会は「四党合意」承認を強行採決し、日本労働運動史上にのこる大きな汚点を記録してしまった
しかし、大会をめぐる状況は、四党合意承認強行によっても国鉄闘争は破壊されないことを内外にしめした。
 この間の闘いは、闘争団をはじめする国労組合員、そして全国の労働者の中に、国労本部の右派・裏切り路線に屈せず、民同的体質による敗北的な闘争収拾策動を克服して前進する思想性をつくりだした。
 いっそう団結を固め闘争団の解決要求を軸に、国鉄闘争勝利に向けて闘おう。
 JRに法的責任あり!
 一〇四七名の解雇撤回・地元JRへの復帰!
 闘争団をあくまでも支援して闘おう!

資料・国労闘争団が求める解決要求 (二〇〇〇年十一月)

 一、全員の解雇を撤回・不当労働行為の是正のため、八七年四月一日に遡り地元JRに採用の措置をとること。
  1、解決時に講ずべき事項
   @ 八七年四月一日から九〇年四月一日までの賃金・一時金不利益分の精算
   A 九〇年四月二日から就労するまでの間の不払い賃金・一時金の精算
   B 九〇年四月二日から就労するまでの厚生年金並びに社会保険の完全回復
  2、協議すべき事項
   @ 就労箇所の確定
   A 復帰時の賃金の確定
   B 就労時期の確定
 二、地元以外のJR各社を希望する者についても、上記「一」と同様に採用の措置をとること。
 三、解決時に退職を希望する者については、本人希望を尊重した再就職の斡旋を行うこと。
 四、この間の争議により強いられた、一切の損害金及び諸経費について、解決金として精算すること。


資料・闘争団・有志声明  私たちは要求実現まで政府、JRを相手に闘いつづけます

 第六十七回国労定期全国大会(続開)は、国労はもとより日本労働運動にとっても、極めて不幸な記念日となった。組合員の民主的な自治によって運営される労働組合が、とりわけ、闘う組合と標榜されてきた国鉄労働組合の全国大会(続開)が、組織内外の多くの反対を無視して、闘争団・組合員・来賓の傍聴規制やマスコミの報道規制に加え、一〇〇〇名近い機動隊を導入してまで強行されるにいたったからである。
 しかも、その混乱の原因は、解雇撤回争議を闘い続けている当事者の闘争団に何の相談もなく、完全屈服ともいえる「四党合意」を、国労本部役員だけで一方的に承認したことにあり、内外に波紋と衝撃を与え、それ以降も、当事者を中心とした関係者との合意形成を図ることなく、嘘と詭弁と組合民主主議を無視した機関運営によって、このような異常な事態まで招いた国労本部の責任は重大である。
 労働争議の当該が、争議途中で闘っている相手方に責任がないことを認めることは、自分たちの非を認め、闘いを放棄することに他ならず、東京地裁・高裁の判決、ILO最終勧告に続いて、当事者の国労までが「JRに法的責任なし」を認めれば、あの国鉄の分割民営化で白昼公然と行なわれた国家的不当労働行為は、歴史的に存在しなかったこととなり、首切り自由の風潮を加速させ労働委員会制度崩壊に手を貸す結果となる。
 残された現実は、勤務成績の悪い、再就職にも応じなかったわがまま職員を、このリストラが蔓延する社会で人道的に救済する道だけであり、「世論」はどのような判断を示すであろうか? すでに新聞報道によれば、「政府・自民党には、国労がJRに法的責任がないことを認めた以上、多額の和解金などを払う根拠はなくなったとして、歩み寄る考えはなく、JR幹部は、『妥協の余地はない』という声が多い」とまで公言している。
 従って、私達、解雇撤回・地元JR復帰を闘う闘争団有志(仮称)は、一月二十四日の記者会見でも明らかにしたように、解雇撤回・地元JR復帰を基本とした三十六闘争団の提出した解決要求の実現に向け、政府・JRの責任を追及し、今後も団結して闘い続けることを宣言する。
 こうした原則的な立場を守り、大衆運動を背景にした闘いを続けることこそ闘争団の譲れない要求の獲得やJR各社の労働条件改悪から組合員の利益を守るだけでなく、今後予想される「訴訟の取り下げ」や「国労の名称変更」など、国労つぶしや路線転換を目的とした相手の攻撃から、国労の旗と組織を守る最善の道だと確信する。
 闘争団・家族の皆さん!JR本体の国労組合員の皆さん!国鉄闘争に連帯・支援を戴いている全国の仲間の皆さん!私達と共に闘って下さい。私達の闘いに声援を送って下さい。

二〇〇一年一月二十七日

解雇撤回・地元JR復帰を 闘う闘争団有志(仮称)

国労稚内闘争団 団長 池辺哲司/ 国労音威子府闘争団 団長 鈴木孝/ 国労名寄闘争団 団長 西原順一/ 国労旭川闘争団 団長 内由泰博/ 国労深川闘争団 団長 瀬古勝利/ 国労留萌闘争団 団長 田辺和憲/ 国労紋別闘争団 団長 清野隆/ 国労北見闘争団 団長 前北富雄/ 国労美幌闘争団 団長 高橋修/ 国労帯広闘争団 団長 馬渕茂/ 国労函館闘争団 団長 西村昭英/ 国労仙台闘争団 佐藤昭一・佐藤正則 / 国労東京闘争団 寺内一夫/ 国労静岡闘争団 野田紀泰/ 国労筑豊闘争団 土村学/ 国労鳥栖闘争団 原田亘/ 国労佐世保闘争団 浦川和彦/ 国労熊本闘争団 団長 平嶋慶二 / 国労大分闘争団 赤峰正俊/ 国労鹿児島地方闘争団 団長 山内勇/ 国労川内班闘争団 団長 藤崎久/ 国労鹿児島班闘争団 団長 垂脇道男/ 国労姶良・伊佐班闘争団 団長 岩崎松男/ 国労志布志班闘争団 団長 鶴巣繁啓/ 国労宮崎班闘争団 団長 松村秀利/ 国労都城班闘争団 団長 新原俊弘


「教育改革国民会議」最終報告のねらいについて批判する B
                                            吉野 啓爾


前号では、「十七の提案」の第一の柱である『人間性豊かな日本人の育成』については、「道徳」や「奉仕活動」などで子どもを縛りつけ、国家の意に沿う人格形蝉ねらいとした「提案」であることを指摘した。
 今号では、「十七の提案」の第二の柱である『才能を仲ばし、創造性に富む人間の育成』について分析・批判することとする。

 『才能を伸ばし、創造性に富む人間の育成』については、これまでの教育が、平等主義にもとづく「一律主義・画一主義」的なものであり、そのため、個々の子どもの独創性・創造性が育たず、社会を牽引するリーダーの輩出を妨げていたと指摘している。
しかし、現実には・戦後の教育で「平等主義」が貫徹されたことは、一度たりとも存在しなかった。
 とりわけ、一九七○年代以降は、学習内容が著しく増大し、子どもたちはどんどん「消化不良」を起こし、「七・五・三教育」(小学校では七割程度が理解され、中学校では五割、高校に至っては三割しか理解できないことを意味する)などという造語まで生まれた。また、学習内容が多すぎて、子どもの理解が不十分でも学習進度を緩めることができないことから「新幹線教育」などと呼ばれたのもこの時期からである。
 こうした状況を招いたのは、ハイタレント(スーパーエリート)の早期発見・早期育成を要求した独占資本の要請である。それを受けて、エリートの発見・育成を効率的に行うために学習内容、そして入試を高度化させたからである。現在に至るまで平等主義にもとづくどころか、まさに能力主義の徹底にもとづく差別・選別教育が行われてきたのである。
 第二の柱では、「個性を伸ばす教育システムの導人」「大学入試の多様化」「大学の教育・研究機能の強化」「大学にふさわしい学習システム」「職業観・勤労観を育む教育の推進」という六つの提言がなされている。
 まず、「個性を伸ばす教育システムの導入」についてであるが、ここでは「教育の複線化」を明確にし、「習熟度別学習」「中高一貫校」さらには「飛び級・飛び入学」の導人を打ち出し、「能力主義」にもとづく差別・選別教育のさらなる徹底を図り、スーパーエリートの早期発見・早期育成をねらっていることは明らかだ。
「習熟度別学習」は、年齢よりも「能力」を基本に学級を編成し、同程度に高い能力をもつ子ども同士を競争させる学習形態をとり、結果的に子どもたちの連帯感が希薄になっていくという危惧がある。
 「中高一貫校」については、一見すると「十五の春」を泣かせない配慮があるように思われるが、実は先導的に実施されている県においては、「中高一貫校」の受験に県内の能力の高い子が殺到し、明らかに「エリート校受験」の様相を呈しているという実態が報告されていて、むしろ「受験地獄」の低年齢化につながっているのである。
 「飛び級・飛び入学」にっいては、これまでも中央教育審議会(中教審)答申などで言及されていたことだが、いよいよ「年齢制限を撤廃」し、なりふり構わぬ「才能開発」にでてきているのである。
 また、大学の改革については、政治・経済・科学技術などの分野で世界をリードするためのリーダー養成を行う場としての役割を果たすことが求められ、産業界との連携交流を図るインターンシップを実施したり、企業との共同プロジェクトを通じて高度な技術能カを有するエンジニアを育成することの必要性などについてふれている。
 要するに、企薬が要請する「即戦力」として通用するエリート養成を行うことが目的とされており、大学入試において特定の事柄について才能をもつ子どもを「飛び入学」できるように入試制度を弾力化し、そして、経済競争に打ち勝つための研究・技術開発ができる人材養成を行うために「学生にしっかり勉強させる」ことへの転換が要求されているのである。
 そして、「職業観・勤労観を育む教育の推進」においては、企業の求める人材とのミスマッチ(不整合)を解消すること、仕事に対する職業人としての責任感・使命感の育成の必要性についてふれている。
 つまり、独占資本の要求する、世界に冠たる「企業戦士」として企業に責献するという職業観・勤労観をうえつけることが求められているのである。
 以上、見てきたように、『才能を伸ばし、創造性に富む人間の育成』ということは、子ども自身のためではなく、独占(企業)が「生き残る」ために「才能、創造性」が必要であり、その早期発見・早期育成を図るために、さらに「能力主義」教育を徹底させることが最大のねらいとされているのである。
                                                        (つづく)


教育現場から
 広島から国立、そして北海道


 北海道の教育現場では、今年度の「卒・入学式」の内容について検討が、始まっている。
 職員会議の焦点は、何といっても「日の丸をステージ正面に掲げるのか」「君が代を式次第に明記し、起立して、歌うのか」「子どもたちへの、『君が代』指導を、どうするのか」「式準備を始め、職務命令を乱発するのか」等々、「日の丸・君が代」の法制化以来、完全実施の攻撃が、異常なくらいに強まっている。
 とりわけ、「日の丸掲揚・君が代斉唱」(以下「日の君」と略)の実施率が低かった札幌市は、昨年九月、市教育長より各学校長に対して「職務命令」を発して、その完全実施を迫っている。
 そのため、各職場では「卒業式の提案者に対して事前に、日の君を入れるように強要したり」「急に職員会議の司会を教頭がやりだしたり」「児童が声を出して歌うように指導しなさい」等々、完全実施にむけて、なりふりかまわない攻撃がしかけられている。
 さらに、北海道の教職員を一層憂鬱にさせてる問題として、北海道の教職員に対して、文部・科学省による異例の「北海道の教育に関する実態調査」が、今、行われていることである。
 これは、全道の小中高・特殊教育諸学校が対象で「国旗・国歌や道徳の指導等」(音楽における指導の内容、道徳の時間の指導内容の記述を求める)、「教育委員会と教職員団体との関係」(交渉の実態ー交渉事項・内容、確認書等の締結の有無)、「勤務時間中の組合活動の実態」(組合が主催等する研修会への参加)、「人事の実態」(管理職登用の実態ー教頭昇任直前まで教職員組合に加入の有無)、「教職員の勤務実態」(教職員一人ひとりの出勤日数・年休・出張等)、「休息時間、休憩時間の取扱の実態」(記入例ー勤務時間前に休息時間を置き、勤務時間までに出勤していない。*ご丁寧に例文まで添えてある)、「校長と学校分会との関係」(交渉・話し合いの事項・内容、確認書等の締結の有無)、「時間外勤務の取扱の実態」(記入例ー職員会議について、やむを得ない場合でも、会議延長が困難な場合がある)等々、約六十項目にも及ぶ調査を、各地教委が直接学校に赴き、関係書類との照合を行うという厳しいものである。
 これは、昨年十一月二日の参議院文教科学委員会で自民党が、札幌市の「日の君」の実施率の低い原因として、一九七一年に道教委と北教組が結んだ「協定書」(時間外勤務に歯止めをかけるためー勤務条件にかかわるものは、すべて交渉事項等)をあげて文部省に是正するよう迫っていたが
それを裏付けるものとして調査が行われている。また、その委員会では「破り年休」(年休簿に鉛筆書きをし、戻ってきて事故がなければ抹消)、休息・休憩時間を上手く使って遅く出勤して早く帰る、組合の役員は授業時数が少ない等々のキャンペーンを張り、「協定書」の一方的破棄を早期に行えと、文部省から道教委へ圧力をかけるよう促している。
このように北海道では「日の君」の完全実施を狙い、組合潰しの攻撃がかけられてきている。
 現在、「人民新報」でも、「教育改革国民会議報告」の批判記事が連載されているが、森内閣は、今通常国会で早くも「最終報告」の実質化である「教育関連法案」の可決、成立を目論んでいる。
 まさしく、これらの攻撃は戦後「民主」教育の否定であり、それにかわって「国家の教育権」を確立すること、すなわち、国家のための教育、国家のための人間作りにあることは明らかである。
 これら資本・右翼・反動勢力の意図を明確にしつつ、北教組に結集する仲間はもとより、地域父母・全国各地の闘いと連携して闘っていかなければならない。
                         (北海道教育労働者)


幕末明治民衆運動史研究会公開講座 
  
新政反対一揆における部落襲撃の位置づけ
                   上杉 聰 (関西大学文学部教員)


 幕末明治民衆運動史研究会は一月二十八日、東京で「二〇〇一年総会記念講演会」を開いた。
 講演は竹村栄一氏(元日比谷図書館長)による「鴎外・その論点のひとつ・二つの遺書をめぐって」と、上杉聰氏(関西大学文学部教員)による「新政反対一揆における部落襲撃の位置付け」と題するものであった。本紙は講演会に参加し、取材した。上杉氏の講演は部落解放運動と民衆運動の歴史の評価に関わるものであり、興味深いものがあるので、その要旨を本紙の文責で紹介する。
(編集部)

 * * * * *

「解放令」に反対する一揆 
     
 「新政反対一揆」と言われる明治初年の一揆の中に被差別部落を襲撃したものがいくつもでてくる。本日は、それをどのように位置づけたらよいのかというテーマをいただいた。
 「解放令反対一揆」というのがポピュラーな呼び名だが、明治六年の岡山県の一揆は「血税一揆」と呼ばれ、同じ年、福岡県で約十万人が立ち上がった一揆は「筑前竹槍一揆」と呼ばれてる。合計二一にわたる当時の騒擾事件年表を作って検討した。明治四年八月、いわゆる穢多・非人などの身分制度を廃止する布告がだされた。この二一の騒擾は一揆と呼ばれる大きなものから、小さな事件としかいいようのないものまで拾い集めたものだ。
 これらの一揆が関連したところは、一部を除き京都の北部から西日本一帯だ。 例えば明治四年に兵庫県で発生した一揆の概要は、「賎民廃止令(解放令)に反対して神東郡辻川村に発した一揆は、市川筋を南北二手に別れて進み、南は姫路県庁手前で阻止され、北は生野県庁まで侵入し、要求をのませる。その後、山崎県下に波及し、同県も賎民廃止令を撤回する」というもの。この要求の中には冒頭に「穢多これまでどおりのこと」、すなわちこれまでどおりに部落の人びとを差別する制度を残すべきだという要求だ。参加人員は五〜六千人の規模。
 同じ年の広島での事件で、「一般の店に酒を飲みにきた二人の元革多(広島地方の呼び方)の若者を町人が殺害した」という件。当時、一杯飲み屋に部落の人が一緒に入って飲むのを禁じていた。「天朝様からこの度、われわれを平民同様に扱えというお触れがでたのに反対するのか」といわれ、しぶしぶ飲ませた。客の町人らは逃げ、のちに闇に乗じて殺してしまった。
 道後温泉では「穢多」が入浴したということでうち払いがあった。被差別部落民は馬などを入れる湯にしか入ることができなかった。
 一揆の結果、県段階で解放令が一時撤回されたのは、生野、山崎、津山、真島、北条、福岡におよび、直接的な被差別部落の被害は統計によると焼き討ち・打ち壊し二〇六八戸以上、死傷五二人以上になる。
 これまでは何かの間違いだろう、ウソであろうと書かれていた。私も最初は信じられなかった。
 「福岡県党民秘録」という有名な竹槍一揆の解説に「党民強訴の大意」というのがある。三一書房の「庶民生活史料集」にある。これには部落解放反対の要求は見えない。
しかし現物の「公文録」を見ると、その史料から五行ばかり削られている。現物には「穢多平民区別の事」とある。民衆史の研究や部落問題の研究者で史料をたんねんにまとめている人が、膨大な史料集からこういうところを全部削っているわけだ。

「新政反対一揆」の背景

 解放令反対一揆には四つの要素がある。ひとつは解放令後の差別撤廃の要求と行動に見られる被差別部落民の「傲慢」の抑止。兵庫県などでは一般の農民と道で会うと、部落の人たちは道をよけて土下座をしなくてはならなかった。これを全部やめた。農民は「血が逆流する思いがした」という史料がある。
 もうひとつの理由は「交わり」の拒否。一緒に食事をしたり、同席しない建前だった。被差別部落の人たちは解放令がでたので、一緒に飲食をしたい、入浴したい。縁組の話も、直接結婚するという話より、道後や岡山の意識では「今度の解放令はわれわれと結婚させようということだ」と理解していく。
 三番めの意識は「屠牛馬への嫌悪感」の問題。牛馬の肉食が公然と許可され、屠殺をするから、牛や馬の数が減る。物価が高騰している時に、牛馬まで高騰すると反対する。日照りで塩害が起きたが、それは近くに屠牛場ができたためだと言われる。
 これらの現象的な反応が高じて一種の被害者意識ができてくる。別に被差別部落の人が「道で立って礼をした」としても軽蔑したわけではない。それが「不敬」と感知される。目下と思っていた者が対等な態度をとるとバカにしていると思う。身分関係の急激な変化がこうした意識を生んだ。
 内心はこれまでいじめてきたから、今度はやられるのではないかという疑心暗鬼もある。
 一揆の直前には部落の人たちは不穏を察知して戦々競々としている。被差別部落の人びとは経済封鎖にあう。困って、自分たちを理解してくれそうな店に行って「物を売ってくれ」とお願いする。店主は村の規制で売れないので「まわりと相談してから」という。「では数日後にまた来るから」と言って帰る。すると「数日後に襲ってくるに違いない」と竹槍で武装が始まる。最初は被差別部落民にたいする竹槍だったが、そういう新政をやっている県は許せないということで県に竹槍をむける。この過程に猜疑心がある。

民衆運動の持つ二面性をどうみるのか

 関西などのすべての一揆に共通してでてくるのは、部落解放令がだされた直後に部落の人たちが新しく「平民としてふるまって」いることだ。関東など多くのところでは、それまで通りの振る舞いをやらされている。関東は被差別部落は人数的にも少ないし、経済的にも疲弊していた。
 農民・町民の側がそういう部落の人たちの新しい行動を受け入れたところもある。例えば奈良や大阪などでは、被差別部落の人たちが解放令を喜んでいることを暖かく見守っている側面がある。被差別部落の人たちは死んだ牛馬の処理をやらされていたが、幕末には「穢れ意識」は消えていて、死んだ牛馬をオレたちにも処理させてほしいと一般の馬喰が進出して被差別部落民の職域を侵すほどだった。身分と職業の結びつきがかなり切れてくる。「解放令」がでても新しいことではなく、後追いをしている状況もあった。そういうところでは起こっていない。
 したがって、一揆は関東では起こらない。被差別部落の側に新しい行動を起しようがないほど力が弱い。あるいは農民の側の許容量というか、「当たり前」となっている。反対一揆が起こったところは解放令をきっかけに急激に解放運動が起こったところだ。
 初期の研究では「何かの間違いではないか」という意見も多かった。しかし「部落襲撃」が行われていないとされた明治四年の兵庫の一揆にも未遂事件があったことがわかった。兵庫の一揆には県庁に向けたのがあるが、岡山の一揆では「穢多狩り」というような、被差別部落を探して襲撃している。リンチの場合もある。政治的な意識が高いところは権力に向けて闘った。恐ろしいことだが、部落解放に反対する要求をかかげて県庁を占拠した。そこでは「部落襲撃」をしないで、解放令を以前に戻させた。
そういう力を持たないところでは、目の前にいる被差別部落の人たちを個別に襲撃することで、狭い範囲で自分たちの要求を実現しようとしたにすぎない。
 地租改正だとか、断髪令、新しい行政区画を作る、学校をつくる、徴兵をする、そういうさまざまな新しい政策に反対する。被差別部落の人たちが平民としての行動を起した解放令も新政だ。新政反対だ、と。
 被差別部落の人たちが行動を起せないところでは、こういうものをかかげる必要はない。したがって新政反対一揆の中に解放令反対の要求が入ってこないだけだ。新政反対の要求の中に部落解放反対が組み込まれた時に相乗作用がでる。大きな一揆ほどそうした要求が組み込まれる。
 かつては士族や富農が指導したからとも言われた。しかし、統計を見ると指導層には貧農が圧倒的に多い。多くが下層のイニシャチブで行われている。
 本日の民衆史の研究会には水をかけるような話になっているかもしれないが、部落差別というのは民衆の中にけっこうあるということを認めざるをえないのではないか。
同時に、私は民衆はそれを克服する可能性をもっているとも思っている。
 当時も民衆の中の自覚的な人びとは、人権的な意味においては権力よりもはるかに進んでいた。解放令反対一揆で殺戮が行われた岡山北部では、その八年前には「改政一揆」が起こり、被差別部落の人びとが多人数一緒に参加している。同じ農民が、あるときはこのように振る舞い、あるときは部落差別をしている。民衆は単純な一枚岩ではない。
 おそらく民衆の中の差別的な層が明治六年にはイニシャチブをにぎり、改政一揆のときにはそうでない人たちがイニシャチブを握ったのではないか。
 こういう問題を意識的に考えていく人たちは本当は一握りなのかも知れない。ここに非常な危うさがある。ナチスを生み出したドイツだが、いま克服それをしようとしているのもドイツだ。いまの日本の社会の中に自由主義史観のような人たちがでてくるのもある意味では当然だろう。
 歴史はこのようにジグザグを繰り返しながら、全体としてゆっくりと前に進んでいくのではないかという希望を持っている。


 複眼単眼
 
 KSD問題、そして選挙制度いじりと首相公選制

こんな小話がある。
■側近・総理、いよいよ村上さんも辞任です。
■森喜朗・こりゃ大変だ、KSDって、たしか扇さんも関係していたでしょ?
■側近・首相、ちがいます、扇さんはSKDですよ。
■扇・ちがいます、私は宝塚よ、フン!

 財団法人「ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団」(KSD)をめぐる自民党国会議員の汚職事件は、小山孝雄参議院議員の逮捕、額賀福志郎経済財政担当相の辞職など、森政権を揺るがしているが、これはまだ氷山の一角。
 すでに亀井静香や橋本竜太郎、故小渕恵三らの名前も取り沙汰されている。九八年二月にKSD豊明会が開いた「中小企業総決起大会」には、当時の橋本首相、加藤紘一幹事長、森喜朗総務会長、山崎拓政調会長、村上正邦参院幹事長、伊吹文明労相などが出席している。額賀経財相の後任の麻生太郎も関わっているという話もある。まさに自民党総ぐるみだ。
 村上が直接関わっていた党費立て替え問題(幽霊党員)は、今回に始まったことではない。つい先ごろ、久世金融再生委員長が辞任した事件もあった。
 さらに、厚いベールにつつまれていた内閣官房機密費を、外務省の松尾克俊・要人外国人訪問支援室長が私物化していた横領事件が暴露された。五億六千万の公金がこの人物の口座に振込まれ、この相当部分が競争馬やマンション購入費など松尾の私費にあてられていたと報道されている。この機密費は戦前の大日本帝国以来の伝統的なしろもので、政権担当者の独断でいつも危ない仕事に支出されてきた。内閣官房で十六億円余、外務省で五五億余、防衛庁で二億余、警察庁で一億余などの資金が使われる。「捜査情報提供者への謝礼」などとして、堂々とスパイへの報酬も計上される。その薄気味悪さはもはや「ゴルゴ・サーティーン」の世界なみだ。
 こうした政治家や官僚の腐敗の暴露が相次ぎ、放言癖や復古主義の森喜朗の政治への批判と合わせて、内閣支持率は極度の低迷状況をつづけているし、人びとの政治不信はつのるばかりだ。
 これらのなかで「森が首相になったのは密室政治の結果だ。直接、首相を選べる公選制がいい。これこそ政治改革だ」という声が一部から聞こえてくる。
 しかし「それはほんとうか?、ちょっと待ってくれ」と言いたい。これは果たして「選挙制度」の問題なのか。どんな「制度」ならばよいというのか。「制度」の問題では先ごろはアメリカ大統領選挙の実態を見た。かつて「小選挙区制による政治改革」に賛成しないものは民主主義ではないというほど、小選挙区制論が一世を風靡したが、その結果はどうだったのか。自民党はまたも「一部に中選挙区制を導入する」ための検討をしているという。デタラメにもほどがある。いま起きている問題の徹底解明の必要性を「制度」問題にすり替え、「首相公選」をいう人びとの話は眉に唾(つば)をつけてきくべきだ。
 「首相公選」論からは「憲法改定」の必要性が、確実にでてくる。結果が確実なのはこれだけだ。  
                                                         (T)


KODAMA
  地域から改憲反対の声を
                       加藤典子


新年早々の街にでて「新春・暮らしに生かそう・憲法リレートーク」を行った。昨年、この市民グループが発足した時に行った申し合わせに「私たちは各地の主旨を同じくする市民運動と協力しながら、この地域で憲法改悪を許さないさまざまな活動をします」というのがある。相談会で地域から行動を起してみよう、街にでてリレートークをやってみよう、と決まった。
 当日は「平和憲法を変えないで!」という願いをさまざまに表現した看板や横断幕を持ち、チラシを配りながら、リレー形式でハンドマイク握って、危険な改憲の動きを暴露し、「二十一世紀を戦争のない世紀に」と訴えた。
 昼すぎから夕方まで三ヶ所の駅頭を移動して行うという、ちょっと欲張った企画かなぁと少々心配もあったが、スタート時からチラシの受け取りがすごくよい(いつもとちがって正月休みで行き交うひとびとも気分がゆったりとしていたのかも知れない)。気をよくした私たちは予定とおりの一日行動をやるとげることができた。
 地元の区議(革新無所属)さんは「憲法を地域に、くらしに根づかせましょう」と熱心に訴えた。また小さな子ども連れで参加した女性もおり、「子どもたちに平和な二十一世紀をとどけたい」と書かれたポスターの脇でチョコチョコと遊び回っている可愛い姿は、街行く人びとへの心和むアピールに一役買った。
 チラシを受け取った若い男性は「九条の『改正』には反対だ。そんな動きはマスコミからはよくわからない」と感想を述べた。行動を起せばこんな反応が返ってくる。
 厳冬の街頭行動は夕方にもなるとさすがに体が冷えきってしまう。終了後は、メンバーの一人のお馴染みの居酒屋さんで新年会になった。当日の参加者は九人だった。小さな集まりかも知れないが、地域から「戦争のない二十一世紀の世界の実現」にむけて、息長く、大切に育てていきたいと思う。