人民新報 ・ 第1022号  (2001年5月5日)    

                             目次

●小泉・中曽根・石原ら新保守主義勢力と対決を

●国労本部のしめつけを跳ね返し、闘う闘争団への支援を強化しよう

●投稿 ・ 医の進歩に犠牲はつきものか?

●金曜連続講座・金子勝さん  日本再生論その後(中)

●資料  わが国の安全保障政策の確立と日米同盟(自民党政務調査会国防部会) B

●映 画 紹 介 ・ 山の郵便配達

●文部科学省の『心のノート』づくり

●複眼単眼 ・ 「つくる会」支援企業群と戦争を望む人びと




小泉・中曽根・石原ら新保守主義勢力と対決を

「改革」を旗印に、つぎつぎとおもいつきの発言

 「『革命』なるか!?変人総裁」(朝日)「『平時の革命』試金石」(産経)「『改革の初心』貫けるか」(読売)「自民党は本当に変われるのか」(毎日)などなど、「革命」「変革」などの表現で商業新聞各紙は、四月二四日の自民党総裁選の結果、小泉純一郎総裁が誕生したことを大々的に報道した。
 二十一世紀を前にした九十年代の「失われた十年」の末期、首相となった森喜朗は、その反動性と無能さの故に、この国の政治と経済により深刻な危機を招いた。
 出口の見えない政治の閉塞感と、世界的金融不安の発信源ともなりかねないほどの経済の慢性的な不況と蔵相が認めるほどの国家財政の破綻は、人びとを言い知れぬ不安におとしいれた。
 たしかに多くの民衆が政治に不審と不満をいだき、その変革を望んでいた。政府危機はすすみ、自民党は結成以来最大の解党的な危機に直面した。
 小泉純一郎はこれらの危機を逆手にとって、自らを政治を変えることができる「改革派」「革命派」として売り込むことに成功し、自民党総裁の座についた。総裁選の直前まで人びとの怨嗟の的になっていた森派の代表であったことなど知らぬ顔だ。

小泉・中曽根・石原の新保守主義・改憲派ライン

 だが、この小泉の総裁選を前後する言動にはきわめて危険なものがある。
 この総裁選を前後して、小泉純一郎・中曽根康弘・石原慎太郎の新保守主義ラインが作動したのは周知のことだ。それにそって小泉は首相の椅子ほしさに、無責任にも従来の持論を平然となげすて、各方面の取り巻きに迎合した。例えば小泉と江藤・亀井派の政策協定などはその典型的なものだし、総裁選中の演説などでは思いつきの人気とりの発言も乱発した。
 従来、小泉は必ずしも憲法九条に対する態度は鮮明ではなかったが、総裁選に際しては「(憲法九条は)将来は改正されるべきだ。自衛隊が軍隊でないというのが不自然だ。いざという時に命を捨てる自衛隊に敬意を持つような、憲法違反と言われないような憲法をもったほうがいい」(四月二四日)などと繰り返し改憲の意思を鮮明にした。
 これは厳格な憲法遵守義務を持つ首相の役職につく者としてはかつてなかった異例の違憲発言だ。憲法調査会の場も含めて、このような違憲発言が首相、閣僚や国会議員の間で常態化されることを許すわけにはいかない。
 また持論であるとはいえ、小泉は靖国公式参拝問題について、自民党の支持母体の軍恩連や遺族会の指示を得るために、アジアの人びとの気持ちを逆撫でするのもいとわずに、ことさらに公式参拝論を振り回して、「(靖国神社を参拝し、戦没者に敬意と感謝の意を表すのは)当然だ。日本の繁栄は尊い命を犠牲にされた方々の上にあるという気持ちを表すのは当然だ。純粋な気持ちを参拝であらわす」(同前)などと述べた。
 そして四月十三日には集団的自衛権の行使について「憲法を改正しないで政府解釈を変えるのは問題がありすぎる。やるのなら憲法を改正すべきだ」と表明していたにも関わらず、二十二日には亀井らにあわせて、「日米同盟は国益だと考えると、政府解釈を変えても国民の理解は得られるのではないか。四十年前の解釈にこだわって国益を損ねることがあってはならない」と集団的自衛権行使合憲論に立場を変えた。

「大衆迎合」とタカ派政治連合

 「有事法制」については森前首相と同様、「平和の時こそ非常時にどういう対処ができるか考えておかなければならない」などと法整備を進める意思を表明した。
 これらに加えて持論の首相公選論とそのための改憲の必要性の主張を展開する。
 これらは中曽根康弘と打ち合せの上で「天皇制は世界に類例がないひとつの文化であり、徳川家康も天皇制を壊すことはできなかった」「(公選論議を)政治日程にのせたい」などと発言している。
 そして深刻な経済問題では派手に「構造改革」などを振りかざしてはいるものの、党内の「積極財政」派との協調で、次第に森政権の下でつくられた財界優先の「緊急経済対策」の線に立ち戻りつつある。一方、「(社会保障制度改革について)給付と負担を見なおす」「高齢者は給付を受ける立場、若い世代は負担する立場というのではやっていけない」と年金や医療、介護などでの弱者切り捨てと我慢の強要に走る路線を示した。
 私たちは「改革」の旗をかかげた小泉純一郎のタカ派的な新保守主義の本質を徹底的に暴露して闘わなくてはならない。とりわけ憲法改悪、有事立法、集団的自衛権行使、弱者切り捨てなどの悪政と徹底的に対決して闘うことが急務だ。


国労本部のしめつけを跳ね返し 闘う闘争団への支援を強化しよう

弾圧を強める国労本部

 闘いを放棄した国労本部とは別に、独自のILO闘争・裁判闘争そして自立して闘い抜ける闘争体制の確立などが打ち出された。そうした闘争を支えるためには、これまでの支援体制も根本的に再編されなければならないのは当然のことである。
 「3・30集会」では、東京清掃労組星野委員長が、「新しい共闘組織(仮称・JRの不当労働行為は許さない! 国労闘争団共闘会議)」を作ることを軸とする連帯アピールを発表した。
 こうした国鉄闘争再建の動きに対して、国労本部は危機意識を高めて、妨害・弾圧の挙に出てきている。四月十二日に国労本部は、各エリア本部・地方本部執行委員長あての指示第 二十八号「解決を阻害する『反組織的行動』等に対する国労の見解と対応について」(国労本部電送 )を発信した。それは、@「闘う闘争団」は、国労及び闘争団全国連絡会議とは一切関係ない組織であることを、各級機関及び全組合員(闘争団を含む)に周知徹底を図ること、A「闘う闘争団」に参加している闘争団及び闘争団員は、機関及び闘争団全国連絡会議に結集するよう指導強化をはかること、B「闘う闘争団」が行う諸取り組みについては、国労として一切参加しないことを、各級機関及び全組合員に周知徹底をはかること、C支援共闘組織に対して、国労の方針を報告して理解を求める取り組みを積極的に展開すること。
 国労本部の脅しに屈せず、闘争団の新体制は着々と形成されている。

闘う闘争団は事務所開設

 「闘う闘争団」の事務所は、四月中旬よりオープンした(東京都港区三田 三―七―二四 ストークマンション三田二〇一号 高輪クラブ気付 電話〇三・五七三〇・六六二五)。

最高裁へ要請の署名運動

 「闘う闘争団」は、最高裁に対して公正判断を求める要請の署名運動を開始した。
 国労本部の欺瞞的な百万署名とはちがって、「JRに不当労働行為責任ありとする公正な判断を求める」ことを明確にしたものであり、協力要請文に「JRに責任なしとすることは、国鉄改革の過程で行われた団結権侵害から労働者を救済する制度を排除することを意味し、憲法二十八条、労組法七条、ILO九十八号条約に違反していることは明白です。……中央労働委員会は、最高裁判所に上告し、憲法違反の東京高裁判決は破棄すべきであると主張しています。解雇撤回・地元JR復帰をはじめとする国鉄闘争の勝利はもとより、団結権とそれを保護する不当労働行為救済制度、労働者の人権を守るためにも、判決の過ちを正さなければなりません。私たちは、最高裁に対し『JRに不当労働行為責任ありとする公正な判断を求める要請』署名を取り組みます。多くのみなさんのご理解とご協力を心からお願いいたします」としている。集約日は、第一次が五月二十六日、第二次が六月三十日となっている。この署名運動の賛同人には、伊藤誠(経済学者)、鎌田慧(ルポライター)、佐高信(評論家)、佐藤昭夫(早稲田大学名誉教授)、塩田庄兵衛(東京都立大学・立命館大学名誉教授)、設楽清嗣(東京管理職ユニオン書記長)、新藤宗幸(立教大学教授)、立山学(ジャーナリスト)、塚本健(流通経済大学教授)、針生一郎(新日本文学会代表世話人)、宮崎学(作家)、山口孝(明治大学名誉教授)などの人びとが名を連ねている。
 JRの責任を明らかにし、地裁・高裁の不当な判決をくつがえすため多くの署名が求められている。

闘争団共闘会議の結成へ

 そして五月三十日には日比谷公会堂で、「がんばれ闘争団 ともにGO! JRの不当労働行為は許さない5・ 共闘会議(準)結成集会」が開催される。集会準備会は、「国鉄分割・民営化は、新自由主義を標榜する当時の中曽根総理大臣の下で実施され、ひとり国労だけでなく日本の労働運動を弱体化するねらいを持ってJR採用差別が強行されました。あれから十四年、日本中に規制緩和とリストラ=首切りの嵐が吹き荒れています。私たちは、国鉄闘争の勝利はもとより、人間性を否定して弱肉強食社会の方向へひた走ろうとする動きを止めるためにも、国労闘争団とともに闘い抜きます。」と呼びかけている。
 国鉄闘争は、国労本部の裏切りをはねのけて闘争を続行するという局面に入った。
 力強い支援で闘争団を支えよう。


投稿
        
 医の進歩に犠牲はつきものか?

 皆さんは朝日新聞の四月十八日付の紙面に載った「ある内科医の手紙」を読みましたか? 読まれた方はどう思われましたか?
 翌十九日には続編として各界の三人の声を載せています。サブタイトルが「『医療の進歩』に『患者の犠牲』は避けられないか」というもので、あらすじは、筆者がとある大学病院での内科医としての経験から、二十四年前の医療水準下で医療の進歩をはかる試行と、そのために犠牲となった患者の人権=選択権との間で、矛盾に悩んだ自己の心情を書きつづったものですが、未だに結論が出せないという。
 また、二十四日のNHKテレビが放送したプロジェクトXでは、これまた三十年前とある名小児科医が、未熟児や難産の末の新生児を救うために産婦人科医や助産婦とともに獅子奮迅の努力をして新しい病院を開設し、しかし一人の子を救えなかった痛苦の反省の上で三者一体となった手探りの経験を積み重ね、今日のハイレベルな新生児医療水準を確立してきた流れを追っていました。
 私は五ヶ月もの間ある整形外科に入院した自らの経験から、現医療のさまざまな問題点に直面して、ささやかながら改善のための努力をした者として、表題の「進歩と犠牲」の問題について考えこまざるをえませんでした。
 まず触れておかなければならないのは、私が直接に経験した病院の現状は、このテーマ以前の問題が山積しているということです。何にもまして「算術」が優先していました。表現は悪いですが、病院経営者は儲かればよい、医者は手術すればよい、看護婦はただ回ればよい、リハビリ士は曲げればよい、薬局は売ればよい、患者はつき従えばよい、あげくは私の会社は早く出てくればよいといった調子で、「仁術」のかけらもありませんでした。
 たまたま目にしたカルテは、治療方針は当然にしても患者とのやり取りまで克明に記入されており、なるほどこれでは開示できないはずだと、妙に納得したものです。
 インフォームドコンセントなどは死語に等しい状況で、治癒の見通しがたたない不安からセカンドオピニオンをうるため、レントゲン写真と外出許可を出してほしいとお願いしたところ、病院側は「そうしたければここを退院してからにしてくれ」と、他の選択肢がありえない通告を突きつけてきました。やむなく隠れて他院を受診せざるをえませんでした。このような事例は数え上げればきりがありません。
 さて本論に入りますと、結論から言いまして私は一元論では整理がつかないと思います。二元論で、先端医療面の進歩を考えた場合、柳田さんが言われるように「三十年かかっても仕方ない」との立場です。他方、現行一般医療面に関しては、患者の権利の法的保障と医療レベルの平準化が不可欠です。患者の権利が死文やたんなる努力目標では、「真の同意」や医療ミスの根絶は期待できません。また名医や評判の病院には患者が列をなし、長時間の待合とごく短時間の診察・治療という問題が改善されなければ、どんな医者であれ十分な対応が可能だなどとはとても信じられません。しかも学閥や閉鎖的主従関係がなお残り、腕の良し悪しにかかわらず診療報酬が同じでは、どうしても平準化ははかれません。 (I)


金曜連続講座・金子勝さん  日本再生論その後(中)

市場の調整速度

 グローバリゼーションの三局面につづいて、市場の調整速度ということについてふれたいと思います。
金融市場、労働市場(雇用)、農産物市場(土地・自然)という三つの市場を比べると、金融が最も速度が速い。金利は、いま消費を我慢して代わりに未来に投資する事によって利子がつくわけです。
デリバティブ取り引きで、三ヶ月後のオプション取り引きなんていうのうが、あるじゃないですか。三ヶ月後を取り引きしている。つまり自然の時間の流れを超えようとする市場の働きを最も示しているのは金融です。金融は時間の枠を超え、未来の「儲かるはずだ」ということで借金をして事業を拡大している。
自然の時間のながれのなかで納まっている経済の再生産の範囲を超えて拡大できるが、それは同時に市場を不安定にする。投機(シュペキュレーション)はまさにそうでしょう。プライス・ラインやアマゾン・ドットコムなどは典型的だ。今は赤字だが、未来に儲かるということで株価があんなに上がっている。
しかし、九〇年代に市場が不安定になり、安全なところを見分けるために、国際会計基準(IAS)が必要となった。つまり同じ基準で当てはめて企業を診断できるようにしたいということです。
フリー・キャッシュ・フロー(FCF)つまり企業が自由になる現金を持っていればいるほどこの企業は安全だということになる。
簡単に言うと、税引き後の営業利益から設備投資などを引いたものが大きければ大きいほどいい。そうなると雇用が邪魔になる。一回雇うと簡単に辞めさせられない。
いま、アメリカでは三ヶ月ごとにたえず黒字を出す企業ほど安全だということになる。だから、売り上げが変動してもいいように雇用を弾力化させようとする動きがつよまるのはあたりまえだ。雇用の流動化政策で契約社員が増えている。
日本でもフリーターが一五五万人といわれている。このままでは日本は滅亡すると思う。
だって、学力低下を言う前に、学生には出口がないんだもの、未来がないんだもの。
このように、金融市場と違って生身の人間はそうたやすく市場調整できないということです。

崩壊するローカル経済

 市場調整で、いちばん遅れてくるのは農業なんです。
九四年産の米は二一〇〇〇円だったんですが二〇〇〇年産の米は一六〇〇〇円割っていますから。四分の一減ですよ。専業農家で単一品目で大規模で稲作やってたら、収入は四割減です。
 また中国などからどんどん輸入野菜が入ってきています。セーフガード(緊急輸入制限)が発動されました。
こうしたことは、すでにマグロ漁でも始まっていました。焼津だとか清水だとかいうところはすごくさびれましたが、これは、業者がチャーターして、まがいもののマグロを取ってきて、これを直接スーパーに流していくという流通経路が出来ていた。
 同じことを、いま野菜でやっているわけです。
農業試験場をリタイヤした人などを農業指導に送り込むわけです。
中国などで、単一作物を大規模にやる、そのうえ化学肥料でやっていくと連作障害がでる。そこでだめになると他に移ってやるということ、中国にとっても決してプラスではない。
スーパーにいったら、国産で二百五十円のものを百円で売っている。勝てるわけないですね。
 それから地方経済にとっての公共事業の関係です。それは、都市が地方を見る場合、俺らが儲けた金をばらまいているじゃないか、あいつらくわしてやっている感覚があります。その目線の先に、産廃だとか、原発だとか、基地があるんです。
どうやって、われわれと彼らが自立と尊厳をまもるための仕組みを作ったり、農村でどうやって経済を自立させるかというビジョンがない公共事業は危ないんです。
つまりわれわれの食を確保しているところをどうやって、われわれ自身がコミットメントできるかということです。環境や福祉の街づくりをいっているわけですが、これがいちばん大変なんです。
金融はなんとかなるが、農業は市場が変化したからって、すぐ対応してくれっていったって、一年後にしか対応できないんだから。すぐに市場で対応できないのは農業の領域です。ここは自民党の利権政治の場になっている。ここで社会のビジョンを突き破っていかないとダメです。ですから、リージョナル(東アジア)とローカルな国民国家を超えるレベルで、いろいろなオルタナテイブがなければならないことをこれまで言ってきました。まさにそのことが現実化してきています。
 セーフガードを乱発すれば、アジア諸国の反発する。なぜならばそれら諸国は九七年の東南アジア危機以降は貿易収支が悪化している。それをアメリカへの輸出でなんとか食いつないできました。
これが、ナスダックバブルの崩壊などで減りはじめている。借金で成り立たせている国々だから、必死に輸出で外貨を稼ごうとするわけです。いま円安が進んでいるのに、アジアの通貨がどんどん下がっている。為替切り下げ競争の寸前です。これは、まさに一九三〇年代の歴史そのものですよ。非常に危険な状態だ。

四つの危険要因

 つまり、こうして農業というグローバリゼーションで最後の壁が崩れはじめている。いま、地域経済が危なくなる四つの条件があります。
 一つ目の条件は、地方経済はだいたい半年から一年遅れで波及しますから、景気の悪化は秋口以降につぎつぎ地方に波及します。
 二番目は、地方財政もひどくなっていて赤字がひどくなっている。ゼネコンはバッシング受けている間にしこたまため込んでいるが、地方の建設業者はバタバタ倒れることになる。
 それから、ペイオフがやってくることです。一〇〇億〜二〇〇億は大手銀行にははした金だけど、中小銀行は体力がないので決算を左右します。それで、いくつか危ないところが出てきます。たとえば香港発行の「エイシアン・ウォールストリート・ジャーナル」というのがある近畿大阪銀行と岐阜銀行はやがて潰れると書いてあるが、日本ではそうした報道は全然ない。
 最後は、農産物価格の下落です。
 これだけの条件が揃った中で、デフレ経済の中で、地方経済は生き残って行けるかどうかが相当厳しい状況になるだろう。
 しかも、貿易黒字がドンドン減ってきている現状で、われわれは食さえ確保できないかもしれない時代がやってくるかもしれない。これが、二年、三年、五年のタームで考えた場合の、ボディーブローです。 ですから、いま農業問題を一生懸命やっています。本当に地域経済の再建を考えなければならない。しかるに日本のいまの状況を見ていくと、大丈夫だろうかとみんなが思っているわけです。(つづく)


資料
  わが国の安全保障政策の確立と日米同盟
     アジア・太平洋地域の平和と繁栄に向けて B (自民党政務調査会国防部会


五、自衛隊による国際貢献の充実

(1)国連平和維持活動への協力
 わが国は国際社会の一員として一層積極的に国際社会に貢献するため、PKF本体業務の凍結解除と必要な法整備を早期に行うなど国際的な基準に合った体制を整備する。また、こうした体制の下、国連の平和活動に積極的に参加する。

(2)地域の安全保障、信頼醸成
 議員交流を始め各レベルにおける安全保障対話、防衛交流を推進し、多国間の信頼醸成に努め、地域の安全保障体制の確立に努力する。併せて、軍事面・非軍事面を問わず技能の向上にも資するため、多国間の共同訓練等についても積極的に推進する。


六、集団的自衛権の行使などについて

(1)集団的自衛権の行使などの問題点
 新ガイドラインとガイドライン関連法に基づく日米の共同作戦計画についての検討及び相互協力計画についての検討や日米共同訓練の重要性は既に述べた通りであるが、そこには限界もある。それは、わが国が集団的自衛権の行使を禁じていることで、米軍の軍事作戦が極めて複雑なものとなってしまい、有事の際に、日米が共同で紛争の抑止にあたる場合に支障がきたすことが懸念されることである。政府の従来の集団的自衛権行使に対する解釈は、同盟の信頼性確保の上での制約となっていて、かつ日米同盟の"抑止力"を減退させる危険性をはらんでいる。
 「集団的自衛権の行使」「国連の集団安全保障への参加」などに関わる憲法解釈が、平常時の多国間共同訓練、PKO活動、周辺事態における各種支援・協力活動、在外邦人等の輸送(NEO)やわが国に対する武力攻撃への対処行動についてさえ大きな制約となっている。
 わが党には、従来から「集団的自衛権は行使可能」という根強い意見が多数あり、今こそ本問題を真正面から取り上げていくべき課題であると考える。
 
(2) 集団的自衛権の行使とわが国の姿勢
 集団的自衛権の行使が可能となれば、日米間の防衛協力が一層進み"抑止力"がより強化されるとともに、それが、アジア・太平洋地域全体の平和と安定に寄与することになる。
 政府は、わが国が国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないとの立場を取っている。
 しかし、われわれは国際法上有している以上は憲法上も有しており、その行使は許されるものと解する。ただし、その行使の可否については個別的自衛権の場合と同様、必要最小限度の範囲にとどめるべきものと考えている。なお、われわれとしては、集団的自衛権の行使すなわち必要最小限度を越えるとの論理には飛躍があるものと考える。
 また、スピード性が格段に増した現代の戦闘形態においては、わが国のみならず、わが国と密接に関係ある他国に対する急迫不正の侵害が、そのままわが国に対する侵害に直結する可能性も増大している点も考慮しなければならい。
 このように解釈すれば、わが国の主体的判断によって、同盟関係において幅広く協力をすることができ、日米安保体制の信頼性向上に一層資することになる。
 なお、われわれは、国連の集団安全保障やPKOへの参加の際には、国連の基準に基づいて、武器の使用は、集団的自衛権の行使とは別の次元の問題として考えるべきで、わが国が何らの留保なく国連に参加している以上、憲法上許される行為であると考える。
 集団的自衛権の行使については、ケース・バイ・ケースでわが国自らが国益を考慮して主体的に判断することであり、自動的に米国の戦争に参加することとなるといった批判は当たらない。

(3)集団的自衛権の行使などを可能とする方法
 集団的自衛権の行使を可能とする方法は、@政府の解釈の変更、A憲法改正、B新たな法律の制定、C国会の決議、などが考えられる。
 われわれとしては、早急に実現可能とする方策を検討した結果、従来の政府解釈の変更を求め、それとともに、例えば国家安全保障基本法というような新たな法律を制定し、その中で「集団的自衛権の行使」「国連の集団安全保障への参加」などの範囲を明確に規定する方向での検討を進める。
 また、この場合、自衛隊の武力組織としての位置付けも、併せて明確に規定することが重要である。

七、防衛庁の「省」移行の実現・自衛官の処遇の改善


(1)防衛庁の「省」移行の実現
 国防は、国家として国民に対して果たすべき責務の最たるものであり、国防を所管する国の行政機関を、わが国のように、他の行政機関より一段低い「庁」(エージェンシー)に位置づけている国は、世界で皆無である。
 冷戦終結後、自衛隊の任務が増大し、国の内外からの期待が益々高まるなど、国政の中における防衛の重要性が増大している中で、各種の施策を強力に推進していくため、防衛庁の「省」への移行の早期実現を図る。

(2)自衛官の処遇の改善
 自衛官は、国防の第一線にあって、任務遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務めることとなる。われわれは、自衛隊を国防に任ずる武力組織として正当に位置付けるとともに、自衛官をその武力組織の構成員として明確に位置付け、その社会的な地位や、栄典を含む隊員の処遇の向上を推進する。

(3) 国防意識の高揚
 国防には、国民の広範な理解と支持が不可欠である。わが党は、以上の諸施策を着実に実施するためにも、国民の国防意識の一層の高揚に努める。 (おわり)


映 画 紹 介
         
 山の郵便配達
                       1999年 中国映画 93分

     原作 … 彭見明   監督 … 霍建起
     父親 … 滕汝駿   息子 … 劉 Y  母親 … 趙秀麗
                                 
 一九八〇年代初頭、中国・湖南省の山岳地帯に住む人びとに二十年間、手紙を届け続けてきた父親は苛酷な労働ゆえに身体を痛め、息子に自分の仕事をつがせようする。
 リュックいっぱいに手紙をつめ、息子とともに一日約四〇`b、二泊三日の旅に出る。そしておともは一匹の犬。
 原作は「那山、那人、那狗(あの山、あの人、あの犬)」。
 田園地帯を、山道を、そして川を、親子はただひたすらに歩き、村人たちに手紙を手渡す。今回の行程は息子を同行させ、仕事を教え、村人たちに後継者は私の息子だと紹介し、彼らを安心させようとする。
 物語としてはすごく単純だし、作風がこっているわけではない。しかし、静かな田園風景や急峻な山道でのふたりの対話はすごく胸を打つ。息子は街に出て父親とは別の仕事に着こうと考えたこともあったし、母親は子どもに父親と同じような厳しい仕事に着かせるのにはとまどいもあった。これは愛情からそうなるのだが、中国のひとりっ子政策がその遠因となっているとも言えなくはない。
 ある村では盲目の老婆が都会に住む孫から送られてくる年一回の生活費を心待ちにしていた。そこには為替だけで手紙は同封されていないのだが、父親はいつも孫の手紙がいかにもあるように読んで聞かせていた。これなどから手紙を配達している父親が、心までも配達していたことがわかる。
 広々とした田園地帯に出れば息子たちは、畑仕事をしている少数民族のトウ族の若い娘に出会う。おたがいに心を許しあうふたりを見て父親は自分の若い頃を思い出す。なぜなら父親もかつて山岳地帯で足を捻挫して動けなくなっていた娘を背負って山を下りたことがあった。その後、恋に落ち妻にむかえいれたことをなつかしく回想しはじめた。ただ、山からおりた妻はいつも山の生活をなつかしんでいたことを知るのはずいぶん後になってだった。
 郵便配達という職業をそんなに大事なこととは思わず重荷に感じていた息子は、自分たちの仕事がいかにそこに住む人びとから重視されているのか、自分の目で見、父親からも教えられ、父のあとを継ぐことにしだいしだいに誇りを持つようになっていった。
 映画に出現する田園風景、山道など緑濃き風景は大変なつかしく感じる。その原因は中国西南部も日本の中部地域も同じく照葉樹林文化圏を形成しているせいではないだろうか。この映画に出てくる田園を日本におきかえてもなんの不思議はない。台湾の候孝賢監督の名作「恋恋風塵」に出てくる田園風景にも相通じるものがある。
 親子が山道を歩きながら、喧嘩もし、しだいしだい今までもっていたわだかまりを捨てていくシーンを見て、私ごとながら、どこかの山に登り、尾根道を歩いたり、樹林帯を歩きながら日ごろ言えないこと、つつみかくしていたことが言えるような状況、そこにはなにも邪魔するものがないということがあるのだが、自らの体験とだぶらせてしまった。
 また、映画に出てくるトウ族という少数民族の結婚式の激しい音楽や踊りは、全体を通じて静的な映画のなかで、大変際だって動的な部分をかもし出していて、この映画のスパイスになっている。
 二泊三日の郵便配達の行程で、郵便だけではなく、新聞、雑誌も配達する郵便配達人は、他の地域とは隔絶しがちな地域に住む人びとにとって都会に開かれた窓であり、彼らは貴重な情報を届けてくれる人に映っているのであろう。
 二十年ほど前の物語であるといっても、現在の中国にいるようだ。情報が隔絶している地域は存在しているのだろうか。親子が細い道を歩いている時、息子がなぜ歩いて郵便を配達しなければいけないのかという疑問を発した。その時、眼下の曲がりくねった車道にバスらしき車が走り去った。父親は「時間の不正確なバスに任せるわけにはいかない。歩いた方が確実に届けられる」と反論するシーンがあった。確かに便利になれば人びとの苦労も減少していくのだろうが、徒歩での配達も踏まえて父親は自ら矜持を確かめたかったのではないだろうか。
 郵便配達という仕事だけでなく、父から子へ、親から子へ伝えていく伝統芸術・技術みたいなものが、現代の日本のなかでは失われてきている。後継者難と、その対処方法みたいなこともこの映画は教えてくれている気もする。
 そして手紙というものが、受け取る側にとってたいへんありがたいものだということもよくあらわしてくれている。携帯電話の普及台数が固定電話を追い越し、電子メールやホームページの発達など通信手段は飛躍的に便利になっている。しかし、情報過多のなかでの孤独感、あるいは情報にふりまわされるようなケースを見た場合、一通の手紙が、とくに苦労して配達された手紙がなにものもかえがたい貴重なものであることを、この映画は教えてくれている。このような静かであるが、心動かせる映画が日本にはないのだろうか。
 ただ一つだけ批判的に言えば、上映時間の九三分というのは少しものたりない。もう少し話をふくらませた方がよかったのではないかと思う。(東 幸成)


文部科学省の『心のノート』づくり
 
 学校での学級崩壊やいじめ、マスコミを賑わす少年犯罪の頻発という事態に対して、中央教育審議会は「心の教育」を語り、教育改革国民会議は道徳教育の推奨を提言する。こころの荒び、こころの病がこれらの現象の要因であるとする観点からである。
 文部科学省はこれを受けて、今年度予算に七億三千万円の予算を組んで「『未来を拓く心』を育てる支援活動の充実(心のノー
<仮称>)」事業を行おうとしている。「児童生徒が身に付ける道徳の内容を分かりやすく表し、道徳的価値について、自ら考えるきっかけとし、理解を深めていくことができるような児童生徒用の冊子」(文部科学省予算資料)を一千百十一万人の全小・中学生に配布する、併せて教師用指導資料を小・中学校の全学級(四十一万)に配布するというもの。何んとも無駄なことに金を使うものだ。
 「日の丸・君が代」の学校現場への強制は自殺者までだしながら、なおいっそう無道なものになっている。国立市では学校の職員会議に指導主事が同席して目を光らせている。神奈川県では県立高校に職務命令がだされた。ある市では、卒業式で君が代斉唱の際に着席していた教職員について報告を上げるよう、教育委員会が校長に指示した。学校に限らず、君が代斉唱に従わない職員は式典に招かないという教育委員会もでてきている。いずれも背後には文部科学省の強い「指導」があるのだろうが、法制化後は教育委員会自体が積極的に(ある種、自主的に)強制に躍起となっているのではないかと思われるふしがある。思想信条の自由はおろか、一挙手一投足にまで監視の網をかけようとしている。
 <心のノート>などという冊子を配ることで健全な子どもたちのこころが育まれると考える脳天気なご仁はいまい。恐らく文部官僚自身がそんな効果をまともには信じていないのではないか。ともかく具体的な手立てを講じていますというアリバイづくりがまずあるだろう。しかし、一方で、上に見たような管理強化が進行する学校現場にこれがばらまかれることによって、これが第二の「教育勅語」のように使われる危険性はあるのではないか。もの言わぬ(言えぬ)教員がお題目のようにノートの「徳目」を唱える、子どもがひたすらそれを復唱する、そんな光景があちこちの学校に見られることにならないか。そのことがますます学校を荒廃させ、子どもの心を蝕んでいく……。


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「つくる会」支援企業群と戦争を望む人びと

 ご存じの「新しい歴史教科書をつくる会」にどんな企業の経営者が賛同しているのか。市民団体が主な企業のリストを発表した。
 鹿島建設、大成建設、大林組、清水建設、小松建設工業、東芝プラント建設、東日本ハウス、殖産住宅相互などの建設業界。三菱重工、神戸製鋼、住友金属鉱山、住友重機、川崎重工、朝日工業などの金属産業。東芝、富士通、キャノン、住友電工、沖電線。さらにはNTT、凸版印刷、大日本インキ、いすず自動車、日野自動車、マツダ、ヤナセ、BMW東京、昭和飛行機、ブリジストン、横浜ゴム、日本合成ゴム、中国電力、出光石油、丸善石油、アラビア石油、住友金属鉱山、大阪商船、三井船舶、日商岩井、丸紅、味の素、ライオン、中外製薬、日本ゼオン、ケンタッキーフライドチキン、日本たばこ、帝人、東レ、東洋紡績、松屋、紀国屋食品、東京三菱銀行、住友銀行、住友信託銀行、横浜銀行、広島銀行、日本開発銀行、あさひ銀行、西日本銀行、東京信用、南米銀行、東銀リサーチインターナショナル、冨国生命、住友海上火災、住友生命保険相互、日本団体生命保険、PHP研究所、三菱総研、松下政経塾、などなどだ。このほかにももっともっとある。
 不買運動などを企画してもこっちが生きていけないほどほとんどの分野の企業を網羅している。「新しい歴史教科書をつくる」ことはまさに財界の連中の願望でもあるわけだ。彼らはこれを通じて何を狙っているのか。
 このところの財界の政治活動は目にあまる。
 最近では日本軍の海外派兵を切望する声もしきりに財界方面からも聞こえてくる。前の経済同友会の代表幹事だったウシオ電機の牛尾治郎は、読売が出した『日本は安全か』(一九九七年)で、こんなとんでもないことを言っている。
 「国際秩序ということになると、米国の場合、海外進出企業が地域紛争に巻き込まれても、空母を派遣すれば安泰かも知れない。しかし、日本の場合、現状のままだと、個別企業が天に祈るしかない」と。日本の多国籍企業がいかに自衛隊の海外派兵を切望しているかを端的に示す声だ。
 最近、ある地域の市民学習会で憲法問題や安保問題についての話をした。質問の時間になって、ある人が「日本で戦争を望む人が本当にいるのですか。それはなぜですか?」という質問をした。私は「日本に戦争ができる態勢を必要としている人びとは確実にいる」と答えて、この牛尾らの話をした。
 筆者の友人は職場の上司が休憩の時に現在の不況にふれて、「戦争でも起きないとよくならない」と平然と語っていると憤慨していた。
 先日、街頭で集会の宣伝をする機会があったからアピールした。「いま戦争の準備をしている人びとがいる。その人たちは自分では戦争には行かない。若者たちがそのターゲットにされているのです」と。(T)