人民新報 ・ 第1028号  (2001年7月5日)    

                             目次


● 参議院選挙に際して
   ペテンと民衆犠牲の小泉「改革」との断固たる対決を!
   新社会党および社民党の「護憲」派候補を支持して奮闘しよう
                  労働者社会主義同盟中央常任委員会

● 激戦の東京都議選で、市民派の福士敬子さん再選!

● 今年も全国にさきがけて沖縄ピースサイクル成功!
             命を大事にする沖縄のこころにふれて

● カンタス航空労組(全国一般東京南部) 東京高裁で逆転勝利を勝ち取る

● 大阪地裁判決 住友生命は既婚者差別をやめよ

● 金曜連続講座 講演要旨
       子どもに渡せますか?あぶない教科書
           憲法違反・戦争肯定「つくる会」教科書と運動のねらい
                俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)

● 映画評
    「ホ タ ル」

● 複眼単眼
     戦争が好きな「皇民」づくりのための扶桑社版公民教科書




参議院選挙に際して

 ペテンと民衆犠牲の小泉「改革」との断固たる対決を!
  新社会党および社民党の「護憲」派候補を支持して奮闘しよう  

                 
労働者社会主義同盟中央常任委員会

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 小泉連立内閣のもとでの初めての国政選挙である参議院選挙の告示が目前となった。
 この選挙は、昨年六月の森政権のもとでの総選挙からまる一年を経て行われる。この間、史上最悪・最低と言われた森喜朗内閣は、大多数の民衆の不支持によって事実上の不信任をたたきつけられ、この四月、退陣を余儀なくされた。
 経済は九十年代初頭のバブル崩壊以来の後退につぐ後退で、「失われた十年」と呼ばれるような慢性の恐慌状態に入り、政治は内閣支持率が一桁台まで下がった。自民党は民衆の不信の前に亀裂が縦横に走り、「加藤の乱」や「都議会自民党の反乱」など、解体寸前という異常な政府危機に陥った。
 しかし、これを逆手にとって「自民党を変える、日本を変える。小泉の挑戦に力を」(都議選での新聞各紙への広告)と絶叫して登場した小泉純一郎政権は、いまやマスコミ報道では空前絶後の支持率を誇っている。先の東京都議会議員選挙の結果は、これがまったくの虚構ではないことをしめした。
 気息奄々(きそくえんえん)たる自民党が、ここ一番の田舎芝居にうってでた自民党総裁選では、森政権与党の自民党のカナメの森派の会長だった小泉純一郎が、厚顔無恥にも自らを批判勢力として演出し、「自民党の革命」「守旧派の打倒」を叫んで、民衆の気分におもねった。それが世論の支持を獲得するのをみた支配層はとりあえず当面の政局を小泉に任せることにした。
 以来、小泉は自らを徹底して「改革派」「革命派」として演出しつづけ、今日にいたっている。この小泉純一郎こそ希代の政治的ペテン師にほかならない。
           
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 しかし、参議院選挙の前哨戦と言われる都議選では、この小泉路線が勝利し、「小泉改革の応援団」を自認した民主党は勝てず、政策的「是々非々」の態度をとった共産党は惨敗した。
 だが、メディアが「革命は劇薬には違いないが、それを飲まなくては日本は死ぬ」(エコノミスト誌編集部)と煽り立てる小泉の「聖域なき構造改革(経済財政運営の基本指針)」「痛みをともなう改革」は、七〜八%の失業率と五百万人の失業者が想定される。地方は切り捨てられ、弱者は民間の強者の犠牲にされる。「倒産予備軍は百万社以上ある」(帝国データバンク熊谷情報部長)といわれ、この「改革」は一大クラッシュにいたる可能性を秘めている。
 小泉はこの経済・財政政策と対に、政治的にはポピュリズムとナショナリズム改憲の右派原理主義の結合による「柔らかいファシズム」的な手法をもちいて、「改革」者を演じている。「首相公選」のための改憲、集団的自衛権の行使の追求、有事法制の具体化、防衛庁の省昇格、靖国公式参拝、九条改憲などがつぎつぎと思いつきのように乱発され、修正され、また復活する。
           
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 小泉首相の訪米と六月三〇日のキャンプ・デービットでのブッシュ大統領との日米首脳会談では、日米安保体制の攻守同盟化を保障する憲法違反の集団的自衛権の行使と、それ自体、集団的自衛権行使に踏み込むものとなるMD(ミサイル防衛)への積極的協力を確約させられた。またアメリカ経済を救うための迅速な「不良債権処理」などの「経済構造改革」の実行が、国際公約として押しつけられた。 

 C

 遅かれ、早かれ小泉改革が失敗し、その欺瞞が暴露されるのは確かである。しかし、私たちは民衆への犠牲を受容しながら、おとなしくそれを待つわけにはいかない。来る参議院選挙では、この小泉のポピュリズムと右派原理主義が結合した政治、社会の上下の分断の拡大、犠牲の下層への転嫁の政治に正面から対決するかどうかこそがカギだ。津波のような小泉ブームにたじろいで民主党のように「改革の本家争い」をしたり、共産党のように「是々非々」などというおよび腰の姿勢で応ずることは厳しく批判されなくてはならない。
 わが同盟はこの参議院選挙において、当面の政策で共通性が多い新社会党とその候補者を支持し、また社民党内の市民派・「護憲派」、および無所属の良心派を支持し、その当選をめざして闘う。
 同時にすべての友人の皆さんに、わが同盟とともに闘うよう呼びかける。
 数は少なくとも、こうした参議院議員が一人でも多く誕生することは、参議院で改憲阻止の三分の一の議席を確保するためにも有利であり、今後の反戦・反安保・改憲阻止の統一戦線の形成に大きく役立つと確信する。


激戦の東京都議選で、市民派の福士敬子さん再選!

 東京都議会議員選挙は激戦の杉並選挙区で、市民派・無所属の福士敬子さんが当選した。
 福士さんは定数六人に十人が立候補した中で、得票は二〇六二〇票、みごとに五位にはいった。
 杉並区の各候補の得票結果は@野田かずお(自民)三七四五八票、A田中良(民主)二七八三六票、B森やすたか(公明)二三三二九票、C吉田信夫(共産)二一八〇三票、D福士敬子、E藤田愛子(生活者ネット)一九九五一票(以上六名当選)、F千葉のぼる(自民)一八〇四七票、G西村正美(自由)一二六八六票、Hけしば誠一(都革新)九四五〇票、I早坂よしひろ(無)八六一一票だった。
 福士さんは十四年にわたって杉並区議会議員をつとめ、前回の補欠選挙で当選して以来、二年、都議会の中でも市民運動の力を背景にしてひとりでも石原都政と対決し、その活躍はマスコミなども注目するものだった。
 この選挙でも薬害エイズ問題などで闘ってきた川田悦子衆議院議員や、区内の社民党の区議会議員、新社会党、沖縄社会大衆党の新垣重雄書記長などの応援も得ながら、多くの学者・文化人・市民運動家らが支援に駆けつけた。高率の支持を誇る石原慎太郎都知事や、首相の小泉純一郎ブームにのった自民党や、資金力、組織力をフル動員した他候補をうち破って勝利した。今回の結果は、この間の実績が認められたことでもあり、またこのような市民派議員への有権者の期待の表明でもあった。
 七月の参議院選挙の帰趨を占うと言われている都議会議員選挙では、森内閣の当時は衆議院選挙で惨敗し、都議選でも激減が確実と言われた自民党が五三議席(前回は五四議席)を得て「復調」し、民主は二二議席(前回は十三議席)、公明は二三議席(前回は二四議席)で全員当選、東京生活者ネットが六議席(前回三議席)で、それぞれ目標を確保した。
 一方、共産党は半減に近い十五議席(前回二六議席)、社民党は唯一の議席を失って、それぞれ敗北した。安保・自衛隊問題など常に曖昧さがつきまとってきた社民党が、この都議選では小泉政権との全面対決を主張して臨んだことは評価できるが、東京の組織力がまったくないもとではその浸透は困難だったし、必然的な結果だった。東京の地域政党の生活者ネットの前進は、これにとってかわったものといえる。
 これにたいして、不破議長・志位委員長体制を確立し、前回の衆議院選挙での「空前の反共攻撃」などへの準備を怠りなくすすめてきた共産党が惨敗した。その理由は、自らの支持者の中にも過半数の支持者がいるとマスコミに報道された石原・小泉ブームにおそれをなして「是々非々」などの立場をとったことにある。この「議会唯一主義」的な選挙戦術がまたしてもこの党の後退を招いた。


今年も全国にさきがけて沖縄ピースサイクル成功!
             
命を大事にする沖縄のこころにふれて

 去る六月二二日から二五日にかけて、「二〇〇一沖縄ピースサイクル」が取り組まれました。
 那覇を二三日に出発し、一路「ひめゆりの塔」前駐車場まで走り、魂魄の塔までデモに合流し、第十八回国際反戦沖縄集会に参加。この日は佐敷町に宿泊。
 翌二四日は佐敷町から北に329号線を走り、沖縄市(旧コザ市)に入り、嘉手納基地を通り読谷村に入る。読谷村を知花昌一さんに案内していただいた。この日は知花さん経営の民宿「何我舎(ぬーがや)」に宿泊。 
 実走最終日の二五日は、読谷村を出発し、一路名護市を目指す。途中厳しい峠越えを経て、海岸でマングローブの植樹をし、「二見以北十区の会」の方と行い、辺野古で「命を守る会」と交流。夜は宿舎で「二見以北十区の会」の方々と交流しました。
 実走距離は三日間で一五〇キロ強でしたが、梅雨明け直後の夏の厳しい日差し中のピースサイクルでした。
 参加者は、全体で十七名内女性一名。また地元沖縄からは郵政労働者が一名参加しました。

那覇・糸満・佐敷

 実走に先立ち、二二日は宇根悦子さんの案内でフィールドワークを行いました。また、夜には「那覇軍港の浦添移設に反対する会」の黒島善市さんを講師に招いて結団式を行いました。
 私は、二三日の実走から参加しました。まず、那覇から第十八回国際反戦沖縄集会のデモ出発地点の「ひめゆりの塔」前駐車場を目指して、炎天下の中ゆっくりとしたペースで走りました。途中から式典に参加する人たちの平和行進と平行し、中学生や高校生のグループと声を掛け合いながら走りました。そのうち日本遺族会の行進と遭遇すると、なんと真ん中に日の丸を手に持ち行進していました。
 ひめゆりの塔前駐車場で休憩し、集会参加者と合流。約二〇〇名で魂魄の塔まで自転車を引いて行進しました。この辺りは激戦地で、多数の人が命を落とした場所であり、各都道府県別をはじめさまざまな塔が建立されています。また、沖縄の学校の慰霊碑の前では、慰霊祭が行われ、喪服を着た人びとが多数集まっていました。デモにはおばあさんから「がんばれ、ご苦労様」とやさしく声をかけてくれました。
魂魄の塔前でアピールを読み上げ、休憩した後、第十八回国際反戦沖縄集会が開催されました。
 集会では冒頭、海勢頭豊さんが歌を歌い、集会が始まりました。主催者を代表して一フィート運動の中村文子さんが挨拶。続いて「女性国際戦犯法廷」について浦崎成子さんがお話しました。また戦争体験では伊佐順子さんが、自らの悲惨な戦争体験を涙ながらに語ってくれました。また辺野古のヘリポート基地の問題をジュゴンを主人公に紙芝居で訴えた松田さん、「那覇軍港の浦添え移設に反対する会」の方、「名護ヘリ基地反対協議会」の方から闘いの報告がありました。高校生の参加者からは詩の朗読と歌、踊りの発表がありました。ハワイで米軍の原潜によって沈没させられ、命を奪われた高校生、乗組員に対して捧げたものでした。
 私たちは、ここで米須霊域を出発し、宿舎のある佐敷町へ向かいました。途中けが人が出るというハプニングがありましたが、予定通り宿舎に到着。ここから地元沖縄の参加者が合流しました。

佐敷・嘉手納・読谷

 二四日は朝九時に記念撮影をしてから出発。一路読谷村を目指します。途中に沖縄市(旧コザ市)に入り、コザ暴動の中心地コザ十字路を通過して、嘉手納基地に出ました。
 「安保の見える丘」に立ち寄ると、以前とは大きく違い、コンクリートで整備された丘がありました。基地のフェンスも金網ではなくコンクリート製のものに変わり、低いところでは基地内が見えにくくなっていました。昨年のサミットを契機に作られたそうです。脇の道路も立派に整備されていました。
 基地内は日曜日ということで、極東最大の米軍基地は、一機飛び立った以外は静まり返り、不気味なほどでした。
 昼食後、知花さんが経営する民宿に到着。さっそく知花さんに村内を案内してもらう。
 まず座喜味城跡(昨年世界遺産に登録)では読谷村が一望でき、知花さん曰く「ここから沖縄がよくわかる」という。ぐるりと見渡せば嘉手納弾薬庫、沖縄を南北に縦断して攻撃を開始した米軍上陸地点。伊江島、象のオリ、読谷補助飛行場、この基地内にあるソフトボール場、読谷村役場。そして、トリイ通信基地。読谷村は現在でも村の面積の四七%が米軍基地で占められています。かつては七五%でしたが、それをすこしづつ取り返してきたのです。時には村役場の職員が先頭に立ち、座り込みをして勝ち取ったそうです。 
この座喜味城自体も日本軍の高射砲陣地、米軍の核ミサイルのレーダーサイトとして使われてきました。七二年の返還以後整備され現在の美しい姿を取り戻したのです。
 像のオリでは、知花さん自身の土地の話、裁判に勝ち基地内の自分の土地に立ち入ったときの話を聞かせてくれました。
 次に、シムクガマ、チビチリガマに入りました。シムクガマは米軍上陸当時一〇〇〇人が避難し、長い人で二十日間程度生活しました。このガマにはハワイがえりの老人が二人いて、みんなを説得し、ほぼ全員が米軍に投降し生還しました。
一方チビチリガマは、中国大陸に従軍看護婦としていっていた女性がいて、米軍の説得を聞き入れず、一四一人中八五名がなくなるという集団死を選んだのです。そのうち四七名が十五歳以下の子どもでした。また生存者、遺族も人生を狂わされ、アル中になる人、借金に追われる人など「集団自決」の傷跡は大きいものでした。

読谷・名護

 最終日は、名護を目指しました。きつい峠越えのあと「二見以北十区の会」の方と海岸にマングローブの植樹をしました。この海岸では、米軍が上陸演習を行い、珊瑚を痛めつけ、山でも戦車が走り回り、また開発による赤土で珊瑚が死につつあります。せめてもの抵抗の意味をこめてマングローブの苗木を一〇〇本植えました。
 辺野古に移動し、「命を守る会」との交流の予定でしたが、前の高校生のグループの交流が伸びてしまい、残念ながら私は帰ることとなりました。
 今回のピースサイクルでは、改めて命の大切さ、命を大事にする沖縄の心に触れることができました。しかし、この原稿を書いているうちにも沖縄で米兵によるものと見られる婦女暴行事件の第一報が届きました。このような事件が本当に二度と起こらないよう、そして、アジアの平和のために沖縄からアジアから米軍基地を追い出すための闘いに立ち上がらなければと、改めて感じました。(D)


カンタス航空労組(全国一般東京南部) 東京高裁で逆転勝利を勝ち取る

 六月二十七日、東京高等裁判所(瀬戸正義裁判長)は、解雇されたカンタス航空の客室乗務員十二人(女性九人、男性三人)が契約継続を求めた訴訟で、原告側請求を棄却した労働者側敗訴の東京地裁判決を変更し、十二人の従業員としての地位を確認するとともに、未払い賃金約三千三百万円の支払いを命じる逆転判決を言い渡した。
これは、カンタス航空労働者側の完全勝利であるとともに、雇い止めによる解雇と闘う労働運動の巻き返しの契機ともなるものである。 一九九七年夏、カンタス航空日本支社は労働条件の改悪を提案してきた。それは、年収の五〇%カット・乗務時間の一・五倍化などの内容で、これを受けなければ契約満了とするというとんでもないものだった。労働者たちは、会社に考え直すように要請したが、会社は「契約期間満了」の「雇止め」にしてきた。
 闘っている十二名の労働者は、それまで九年から十八年にわたって、「契約制」ではあったが、客室乗務員として働いてきた。その間、会社は「正社員にする」「五間継続され、更に五年継続される」などと言ってきた(これについては、瀬戸裁判長も、会社側は、「五年契約は繰り返し更新されるといって乗務員に期待を持たせるなどしており、この場合の雇用中止は、一定の制約を受ける解雇と同様に判断されるべきだ」と指摘している)。
 高裁の勝利判決を受けて、当該の全国一般労働組合東京南部(平賀雄次郎執行委員長)と同カンタス航空客室乗務員組合(石川智子執行委員長)による「カンタス・東京高裁逆転完全勝利判決のご報告」はつぎのように述べている。
 「私たちは、このような会社のやり方に断固抗議し、職場復帰を求めて東京地裁、そして高裁にて闘ってきました。そして六月二十七日、東京高等裁判所は、採用の経緯、その後の経緯など一つひとつの事実を検討し、期間の定めのある雇用契約としつつも、労働者も会社も雇用契約が継続されることを前提としている契約であると判断を示し、雇用契約を終了させる特段の事情があるものは認められないとして、本件雇止めの効力は生じないとの理由で、十二名全員の労働契約上の地位を確認し、未払い賃金の支払いを命じました。これまでのご支援有難うございました。この完全勝利判決を力に十二名全員の解雇撤回、職場復帰まで闘い抜きますので最後の最後までご支援をお願い致します」
 会社側の悪あがきの上告を許さず、十二名全員の一刻も速い会社への復帰をかち取る闘いへの支援を強化しよう。


大阪地裁判決 住友生命は既婚者差別をやめよ

 大阪地裁(松本哲泓裁判長)は六月二十七日に、住友生命保険の女性社員十二人が同社と国に対して、結婚を理由にした退職強要や昇給昇格で差別をうけたとして、八八年以降の差額賃金や慰謝料など総額三億三千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決をだした。内容は、法律で定めた育児休業などの権利に基づいて働かなかったことを理由に既婚女性は労働の量・質が低いと評価・処遇するのは違法であるとして、約九千万円を支払うよう命じた。判決は、住友生命は原告らの査定を結婚を機に下げたことは「昇給差別」にあたるとしている。会社は、既婚女性の勤続を歓迎せず、仕事のとりあげや隔離、転勤、過重な業務などさまざまな嫌がらせで退職に追い込もうとしていたことが明らかにされた。しかし、役職への昇格の確認、(旧労働省)大阪婦人少年室への調停申請の門前払いに対する国家賠償請求は却下された。
 今回の大阪地裁判決は、既婚女性への昇給昇格差別裁判で初めての違法判断であり、影響するところは大きい。差別と闘う労働者・労働組合の運動を前進させ、この地裁判決を確定させなければならない。


金曜連続講座 講演要旨

子どもに渡せますか?あぶない教科書
憲法違反・戦争肯定「つくる会」教科書と運動のねらい

                
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長

 六月十五日、東京の文京区民センターで市民講座「金曜連続講座」は俵義文さんの講演会を行った。以下はその講演の要旨を本紙の文責でまとめたもの。 (編集部)

先ごろ、来年の四月から使われる中学校の社会科の教科書の検定が終わりました。問題になっている「新しい歴史教科書をつくる会」がつくって、「扶桑社」が販売をする歴史教科書と公民の教科書も検定に合格しました。
 一部のマスコミが「検定で、大幅な修正を行って合格した」という見出しをつけました。しかし、「つくる会」自身が「全体としては設立趣意書にかかれた通りの教科書が誕生した」と声明をだしていますし、『産経新聞』自身が「修正は百何箇所あるが、単純なミスをのぞけば詳しすぎるので削れとか、縮小せよといった修正意見で、歴史を歪めていたとか事実を曲げていたとかいったものではない」と書いている。

文科省が協力した「つくる会」の教科書

 検定で百三十七箇所の修正、歴史は三八箇所、公民の教科書では九九箇所の検定意見がつきました。この数が他社に比べると大変多い、だから大幅修正だということになるわけですが、例年と比べるとこれは多いわけではない。歴史の教科書の検定はだいたい例年、二百前後はついている。今年はきわめて少なかった。
 なぜか。文科省は最初から「つくる会」の教科書を検定で合格させるという前提で検定作業をしたと見ることができる。そのために社会科についてだけは小学校も中学校も検定のハードルを低くしました。その中でも百三十七箇所もついたというのは、いかにこれが欠陥の多い教科書かという証明でもあります。
 これ以外にも文科省は「つくる会」の教科書を検定合格させるためにさまざまな不法なことをやっています。みずから決めた検定の手続き、内規を他社には厳格に適用しながら、「つくる会」にはそれを無視して便宜をはかるということまでやった。最初に合格ありきというやり方です。
 検定後もわれわれが指摘したような問題点は残っているわけです。私たちが指摘したところと同じ箇所にもいくつか検定意見がついていますが、その場合も本質的でない意見のつけ方をしている。一例ですが、申請段階では「歴史は科学ではない」という言葉がありました。これには意見がつきましたが、「抽象的でわかりにくい」という意見です。「歴史は科学ではない」という言葉は戦後の歴史研究や歴史教育そのものを否定する考え方です。これ自体は抽象的でも、わかりにくくもない。子どもが読めば「歴史は科学ではないから、かならずしも事実ではないんだ」と理解できます。随所にそういう意見のつけ方が見受けられる。

日本の過去の戦争の正当化

 何よりもの問題点は、日本の過去の行為、それも戦争をすべて正当化するところにあります。
 日本は明治以降、研究者の中には七〇年戦争という表現をする人もいるくらい、対外膨張政策にもとづいて一貫してアジアの国々にたいする侵略戦争を行ってきました。その日本の戦争をすべて肯定し、正当化するわけです。
 「日清、日露戦争は日本の防衛のために行われた、自衛のための戦争だ」といいます。そして一九四五年に敗戦を迎えたアジア・太平洋戦争は「アジアを解放するための戦争だった」として正当化している。この教科書ではこれを大東亜戦争という用語を使っている。大東亜戦争というのは、この戦争の目的が天皇を盟主としたアジアの共栄圏を作る、だから侵略戦争ではないと当時の政府や軍が強調するためにつけた名前でした。
 日中戦争をどうみるかについてはもっとひどい。明らかに日本が中国大陸に大軍を送りこんで侵略したというのは逃れようのない事実です。
 しかし、この教科書では、日本は条約にもとづいて軍隊を駐留させていたのに、中国が違法なこと、たとえば列車妨害をしたり、排日運動、抗日運動をやった。日本の児童を傷つけたり、軍人を殺したりした。だから日本は止むを得ず戦争に踏み切らざるをえなかったのだと正当化する。日本が中国の東北部を侵略して、いわゆる満州国を作る。満州国によって近代化が進んだ、産業が発展したとか、日本はあたかもいいことをしたかのように書く。日本の支配の間に人口がどんどん増えたとも書いている。
 これについては中国政府が日本にだした修正要求の中で、人口が増えたのは華北から「満州」へ労働力を強制連行したから増えたのだと指摘しています。侵略を侵略と認めず、肯定するというやり方です。
 日本が朝鮮半島を植民地にしたことについても、
正当化します。日本は明治以降、列強の脅威についていちはやく気が付いて、これに対抗するための国造りをしたということを強調します。「アヘン戦争の衝撃」というタイトルをつけます。そして中国や朝鮮はこの列強の脅威について対応せず、眠りつづけたということを強調し、それを放っておくと日本の安全は守れないので、大陸にでていく必要があったと書くのです。
 韓国の日本政府にたいする要求の前文のところで、韓国は「自国の歴史を美化するために、韓国の歴史をおとしめている」と言っています。韓国だけではなくてアジアの国々にたいしても同じです。
 そして「東アジアの地図をみてみよう」「日本に向けて大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地を持たない島国の日本は、自国の防衛が困難になると考えられていた」と書くわけです。検定前の本はその後に、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器であると書いていた。
 そのうえで韓国併合を正当化する。日本の安全と満州の権益を守るために必要であり、正当だったと書いている。しかも、イギリスもアメリカもロシアも異を唱えなかったと書いて、いわば国際的に承認されたかのごとく書いている。

戦争そのものの美化

 この教科書は侵略戦争を肯定し、正当化するだけでなく、戦争そのものを肯定し、美化することをしています。
 日露戦争については、壮大な祖国防衛戦争だったと持ちあげ、アジア太平洋戦争では日本のパールハーバー攻撃を講談のように書く。南方侵略では「(マレーでは)自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍は、ジャングルとゴムの林をぬって英軍を撃退しながら、シンガポールをめざし快進撃を行った。……結局百日ほどで、大勝利のうちに緒戦を制した。……この緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人びとに独立への夢と勇気をはぐくんだ」と書きます。
 日本の戦局が悪化してくると、こんどはアッツ島の玉砕などについて美化して書く。「アリューシャン列島のアッツ島ではわずか二千名の日本軍の守
備隊が、二万の米軍を相手に一歩もひかず、弾丸もコメも補給が途絶え、ついに残った三百名ほどの負傷した兵がボロボロの服で、足を引きずりながら、日本刀をもってゆっくりと米軍ににじりよるようにして玉砕していった」と。ここは検定後には少し表現がかわりましたが、玉砕な
どを讃え、特攻隊員の遺書などを大きく紹介し、これを日本のために死んでいった美しい話として美化します。
 同時にこの教科書は戦争そのものを悪いことではなくて、やっていいこと、国際社会では話し合いで解決しなければ武力で解決するのはルールだと教えています。これは日本国憲法九条の立場とはまったく逆の立場です。たしかに十九世紀や第二次大戦までは、そういう考えが国際社会で支配的な考えであったと思います。しかし、以降、こういう戦争観は否定されるわけです。一九四五年当時には、すでに人道にたいする罪、平和に対する罪、戦争犯罪などの国際法がつぎつぎに確立されてきました。以降もジュネーブの諸条約によって戦争を違法なものにするという努力が国際社会のなかで大きく前進してきました。
 二十世紀を特徴づけるものとして「戦争と殺戮の世紀」と言い方がありますが、同時に「人権と戦争違法化の前進の世紀」と言われるのはそのためです。

軍隊慰安婦問題、南京虐殺問題など

 戦争の中でたくさんの人道にたいする罪を犯してきたこと、その最たるものが慰安婦問題であり、南京虐殺であり、七三一部隊などであるわけです。この教科書はこれら日本がアジアの人びとにたいして与えた加害についてはほ
とんど書いていません。わずかに南京虐殺については、検定前には「十二月、南京を占領した」としか書いていない、そして東京裁判のところで、南京虐殺を否定する考え方をかなりのスペースをとって書いていた。ここはさすがに中国からの批判があって、検定意見がついて「十二月、南京を占領した(この時、日本軍によって民衆にも多数の死者が出た。南京事件)」という書き方になった。そして東京裁判のところでは「この東京裁判では……日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した。なお、この事件の実態については資料のうえでも疑問点もだされ、さまざまな見解があり、今日でも論争がつづいている」と、否定的な見解を書く。
 これらの第一次原稿を書いたのが学習院大学の坂本多加雄さんです。坂本さんはなぜ慰安婦を書かないのかという理由として、雑誌や新聞で慰安婦のことを書くのは、日本の便所の構造の歴史を書くことと同じだと言っています。かつて日本軍の中では慰安婦とはいわないで、いろんな隠語で呼ばれていた。その中の隠語のひとつとして「共同便所」という言葉が使われていた事実があり、坂本さんはそのことを承知していて、一回ならず、くりかえしくり返し、「便所の歴史をかくのと同じだ」と書いている。あきらかに「慰安婦は共同便所だ」と聞こえるようにいっている。
 さて戦争の記述だけが問題ではなく、この教科書のもうひとつの大きな柱は子どもたちに日本は天皇中心の神の国だという森さんがいったと同じような考え方を植え付けるような歴史観につらぬかれていることです。
 この教科書は神話をたくさんとりあげ、それは天皇中心で九ページにわたっています。他の七社の教科書は神話はだいたい数行です。しかもその際にどこまでが神話で、どこまでが歴史的事実かということをあいまいにして扱っている。子どもたちが神話を歴史の事実であるかのように見誤るようにしてある。
 神話だけが問題なのではありません。全編を通じてこの教科書は「いつの時代にも天皇が最高の権威者であった」という考えで書かれています。「中世」は天皇がいたのかいないのかわからないような、天皇の役割は非常に小さい時代です。そこでこの教科書は「中世」のスペースが少ない。でもそのなかでもたえず天皇がでてくる。歴代将軍の即位がでてくるたびに「天皇の命によって」とつけるわけです。これはあきらかに歴史の偽造です。家康が征夷大将軍になったのは天皇の命ではなくて、彼は自ら権力をにぎって将軍になる。天皇が家康がきらいだから他の人物にしたいなどと思っても他の人にはできない。
 問題はたくさんあります。いちいち紹介できません。しかし、言えることは、
彼らはこの教科書によって日本人に誇りを持たせるというわけです。その結果、アジアの人びとを蔑視します。国内の歴史においても、この教科書の歴史とは国家の歴史、天皇の歴史、為政者の歴史なのです。民衆はほとんどでてこない。女性はでてこない。女性にたいする蔑視の思想が強い。最近の教科書とは逆の傾向です。

憲法違反の公民教科書

 「公民」についても少しだけ触れておきたいと思
います。「公民」の教科書は歴史教科書と甲乙つけがたいほどあぶない教科書です。これはセットです。歴史の教科書で日本の過去の戦争を肯定し、正当化したうえで、公民の教科書で現在から未来にわたる戦争を肯定する。集団的自衛権を発動する担い手になれと教え込もうとしているのが、公民の教科書だということになると思います。
 この教科書には自衛隊がたくさんでてきます。グラビアの写真の中に九枚、自衛隊の写真がでてきます。グラビアの見出し自体がすごい。「国境と周辺有事」、つぎは「国家主権と日本人」「国連の混乱と限界」、そして「大国日本の役割」となっている。自衛隊の必要性、安保の必要性を強調し、そして集団的自衛権の発動の必要性を説くというのが大きな柱になっている。
 「公民」の教科書の役割について、学習指導要領を引くと、@民主主義に関する理解を深める、国民主権をになう公民として必要な基礎的教養をやしなう、とある。Aには、社会の諸問題に立ち向わせ、自ら考えようとする態度を育てる、とあります。「公民教育」の目的は、あすの日本をささえる主権者としての基礎学力、つまり社会認識や批判力を育成することをめざしているわけです。この教科書はこれとは逆のことをめざしています。この教科書でいう「公」は小林よしのりさんが言う「公」と同じ考えです。国家です。国家のために役にたつ、国家にたいする忠誠心をやしなうのが目的だといってよいと思います。
 「公民」の勉強の重要な部分は憲法学習です。憲法の三原則、主権在民、基本的人権、平和主義、この三つをきちんと教えるというのがどの教科書でもやっていることです。
 歴史の教科書でもそうですが、かれらの考え方には大日本帝国憲法の時代と日本国憲法の時代に境目がない。ふつうに考えれば、あの敗戦を境にして、時代はあきらかに転換していくわけです。たとえば歴史の教科書だったら、新しい章を起こすのです。ところがこの教科書はひとつの章の中で扱う。「第五章・世界大戦の時代と日本」。このなかで戦後まですべて扱う。
 そして大日本帝国憲法時代と日本国憲法時代で天皇の地位については変化がないというのです。
 例えば国民主権についてほかの教科書では、東京書籍では「日本国憲法も権力を統制して人権を守ろうとしています。とくに戦前の天皇主権を否定して、国民主権を確立し、また人権の保障を著しく強化している。さらに多くの犠牲をだした戦争と戦前の軍国主義の反省に基づいて、戦争を放棄して平和をつよく求めています」と書きます。
ところが「日本国憲法はこれを若干修正して、世襲の天皇を大日本帝国憲法における統治権の総攬者から日本国および日本国民統合の象徴へと天皇の位置付けをとらえなおした。また主権が国民に存することを宣言した……」云々で終わるのです。憲法の三大原則については、註で「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を日本国憲法の三大原則と呼ぶことがある」と書いているだけです。
 核廃絶の考え方を否定したり、日本だけが国際緊張の最中にあるというような考え方をだしたり、旧民法の再来かと思うような記述がある。

 このように、どこからとっても、この教科書はあぶないものです。一冊たりとも使わせてはならないと思います。


映画評

 
ホ タ ル
         監督・脚本 降旗康男
        主演     高倉 健(山岡秀治)
                田中裕子(山岡知子)
                              114分 /「ホタル」製作委員会


 
鹿児島湾で養殖漁業を営む山岡(高倉健)とその妻知子(田中裕子)。
知子は、腎臓病をわずらい人工透析に通う日々を送っていた。山岡は、以前はもっと沖合いで漁をしていたのだったが、妻の病気のため陸に近い場所で仕事を始めた。
 一方、雪深い青森に暮らしていた藤枝(井川比佐志)は、昭和天皇が死に、「昭和という時代」が終わりを告げた時、雪深い山に単独でのぼり、行方不明になってしまう。それは遭難というものではなく「殉死」に近いものだった。テレビの画像からは「大喪の礼」の儀式が流されていた。
 山岡と藤枝も、そしてその他の当時の多くの若者も、天皇の軍隊が引き起こした太平洋戦争のなかで、特攻隊員として片道燃料しか搭載させられず、知覧の基地から沖縄へ向かって飛び立っていったのだ。
 幸運というべきか、山岡も藤枝も生き残った。しかし、彼らはその過去を自分の胸のなかにしまい込んでいった。新聞記者の問いかけにも「黙して語らず」だった。
 特攻隊員の仲間にキム・ソンジュという朝鮮人がいた。彼は金山と名乗っていたが、その遺品が見つかった。
 山岡と知子はふたりで、戦後四十年にしてキムの故郷・韓国京義道安東市郊外の河回(ハフェ)という村の、残された家族のもとにその遺品を届けにいく。
 しかし、最初はキムの遺族の反応は冷たかった。「彼が日本の特攻隊として死ぬことなどありえない」と。実は知子はキムの婚約者だったのだが、ふたりの説明にキムの遺族もやがて納得するのだった。
 前作の「鉄道員(ポッポや)」と同じく降旗、高倉コンビで「ホタル」は撮影された。小林稔侍も続けて出演し、花を添えている。
 題名の「ホタル」とは、キムが出撃した日の夜、一匹のホタルが彼の予言通り、特攻隊がたまり場にしていた食堂にあらわれ、名残惜しげに飛んで行くのを見て、皆が、あれはキムだと思ったことの象徴であり、ラストシーン近くで、山岡夫妻が韓国のキムの両親の墓に詣でた時にも一匹のホタルが宙を舞っている場面が出てくる。
 映画の中では、五十数年前の戦争末期のシーンは回想シーンとしてモノクロで描いているのだが、あまりにもひんぱんに回想シーンが登場してくるので、逆にこの作品を抑揚のないものにしている。
 監督がこの映画で描きたかったモチーフはなんなのか、いまひとつわからない。あの時代の戦争の責任をすごくあいまいにしているのが気になる。
なぜ特攻隊などという無謀な戦略のなかで、将来ある若者が「天皇陛下万歳」と叫んで海の彼方に消えていったのか、その根源的な問かけが完全に欠落している。
 特攻隊で生き残った者が逆に恥を感じ、戦後、沈黙を守るというのはおかしいことなのだ。自分たちがどういう状況でゼロ戦に乗ったのかということを、生き残った者は積極的に語らなければいけないのだ。
 最近、金大中大統領による文化政策の転換により、日本映画の韓国内での上映が解禁になったり、日韓合作映画の製作も以前と比べてやりやすくなったのは事実だろう。「ホタル」の韓国ロケもそういった流れの中で出てきたものだろうが、日本の映画資本も韓国をマーケットにしていろいろな動きをしてくることだろう。
 しかしすべてを許してはならないのだ。過去の過ちは率直に認めないと本当の映画づくりの上でも信頼関係は築けないと思う。この映画の韓国ロケのなかで田舎の祭の風景、そして家々の土塀が連なる風景は、少し前の日本のどこにでもあった風景に妙に似ていて大変なつかしさをおぼえる。しかし、この韓国のロケが、なにかとってつけたようなものに感じてしまうのはなぜだろうか。
 噴煙たなびく桜島、雪の八甲田山など日本の四季折々の風景はたいへん美しいのだが、それにだまされてはいけないと思う。
 観ていてストーリーの展開がどうも平板で途中でイライラさせられてしまう。その原因はどこにあるのか考えてみた。
 ひとつには、この作品には原作というものがなく、オリジナルな脚本で作られているからではないか。「鉄道員」と比較してみる。「鉄道員」は浅田次郎原作であり、欠点も多い映画だが、それなりに筋立てはしっかりしていた。やはり「ホタル」はそのあたりが弱いのだ。映画の善し悪しはかなりの部分で脚本がよくできているかそうでないかで決まる。もっともオリジナルな脚本がすべて駄目だと言っているのではない。
 巷間、高倉健も七十歳近くなり、この作品が最後の映画出演と言われている。もしそうだとしたらあまりにも淋しい話ではないだろうか。
 この映画のなかで、特攻隊員は賛美されたり美化されたりしているのかといえば、必ずしもそうではない。しかし描き方があいまいなのだ。四十数年後に韓国の遺族に遺品を届けるといったって、それは遅すぎるのだ。
私はこの映画を見てつくづく思った。戦後五十数年たっても、まだ私たちはやり残したことがいっぱいあるのではないか。そのことを描くことの方がもっともっと大切なのではないかと。
 ラストシーンで山岡は長年漁をおこなってきた漁船を燃やす。身近な仲間に焼酎をふるまう。自分自身にとっての新しい時代の到来を肌で感じながら。山岡はこれを敗戦後、役にたたなくなった戦闘機を焼却する時の炎とオーバーラップさせていたのではないか。
 さいごに。ホタルの飛ぶシーンは群舞でもよかったのではないかな。どうせ象徴的なシーンなのだから。(評・東 幸成)


複眼単眼

戦争が好きな「皇民」づくりのための扶桑社版公民教科書


 六十年代にはすでに学校にいなかった世代の筆者には「公民科」教科書というものはずいぶん違和感がある。われわれの当時は「社会科」と言っていたし、それは「地理」「歴史」「倫理・社会」で構成されていた。
 六十年代後半に「公民」が復活し、八九年には高校で社会科が解体され、「地理歴史科」と「公民科」に分けられた。私立学校教員の越田稜さんによると、日本の公民教育は一九〇一年から中学に設けられ、三一年には「公民科」が設置された。それは事実上「皇民科」であり「公眠科」だったという。
 手にしてみると「扶桑社版」の「新しい公民教科書」のひどさは想像を超えていた。一読してこの「あたらしい公民教科書」のねらいは「戦争が好きな『公民(皇民)』づくり」にあると思った。
 本をひらくと冒頭にグラビアのページがある。ところがここでは自衛隊と戦争の写真が異様に多い。「阪神・淡路大震災と自衛隊」「尖閣列島に代議士が上陸」「特殊部隊突入(ペルー大使館事件)」「日本人救出用に準備された自衛隊輸送機(シンガポール)」「ユーゴスラビア空爆にドイツ軍が参加」「東ティモールのオーストラリア軍」「ゴラン高原で道路補修作業を進める自衛隊」「宗教団体が無差別殺人事件」などなど、軍服と銃、軍用機、防毒マスクなどが「これでもか、これでもか」と出てくる。
 尖閣列島の場面で「日の丸」を振っているのは、例の差別発言で有名になった西村慎吾衆議院議員で、この時は石原慎太郎(現都知事)も多数の武器を船に用意したうえ、戦闘態勢で参加している。
 「阪神・淡路大震災」の写真についての解説では「戦後、平和と水はただで手に入ると思っていた日本人にとって、……六〇〇〇人をこえる死者は想像を絶する数字だった。そんな中、懸命の救助作業にあたり、多くの被災者の力になったのは、まぎれもなく自衛隊員だった」と書く。
 これが事実に反することは、少しでもあの震災と救助活動の実態を知るものにとっては明らかだ。多くの住民の相互援助とボランティアという最大効果の救援のファクターがなぜとりあげられないのか。それどころではない。「平和と水はただ……」の記述には被災者への嘲笑すら感じられるではないか。ここに「扶桑社版公民教科書」の本質がよくでていると思う。
 これにつづく「@整然と行われた自衛隊の救助作業Aスイスからきた救助犬とボランティアB給水を受ける市民C緊急車両も渋滞に巻き込まれるD第一報の連絡が遅れた首相官邸」という解説から何が見えるだろうか。いうまでもなく相互扶助に立ち上がった住民はなく、自衛隊と有事法制の必要性だけが浮かび上がるしくみだ。
 それにしても「公民教科書」の中心的な柱は憲法であるはずだが、「扶桑社版」では憲法三原則の「非武装平和主義」「主権在民」「基本的人権の尊重」が、いずれも根本から改造されて記述されている。これは憲法への敵対だ。これでは「右翼の主張を書いた本」ではあっても、学校教育の教科書ではありえないのは明らかだ。(T)