人民新報 ・ 第1029号  (2001年7月15日)    

                             目次

● 米軍基地がある限り米兵犯罪はなくならない 米軍基地をただちに撤去せよ
                          アメリカ大使館前で徹夜で抗議行動

● 事件の原因究明と情報公開を 北海道・島松空対地射爆場誤射事件

● 夫や恋人からの暴力の根絶へ DV法を第一歩に

●(資料)
     沖縄民衆自身の主体的力で現状を打開しよう
                 (沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会)
     小泉首相は靖国神社参拝をただちに断念すべきです
                 (許すな!憲法改悪・市民連絡会)

● これは新しい「臣民」教科書だ ・・・ 「市販本 新しい公民教科書」を読む ・・・
                                            佐山 新 

● 右翼の暴力的な集会破壊を決して許さない

● 部落史から取り残された諸賤民について B     大阪部落史研究グループ

● (図書)
     皇軍兵士の「中国戦線」記  戦争の実態を克明に綴る  「東史郎日記」

● 複眼単眼
   政治家らの失言と本音  マイノリティーの「痛み」と人権




米軍基地がある限り米兵犯罪はなくならない
           米軍基地をただちに撤去せよ
                    
アメリカ大使館前で徹夜で抗議行動

 沖縄では米軍人による殺人・レイプ・窃盗・放火・傷害・破壊行為が繰り返されている。六月二十九日には、沖縄本島中部の北谷(ちゃたん)町で、またもアメリカ空軍軍曹が二十代の女性に性的暴行を加えるという事件がおこった。
 私たちはこの行為を絶対に許さない。私たちは、そうした犯罪行為の温床になっている米軍基地そのものの撤去を要求する。そして、日米安保条約の破棄を要求する。 
 
 七月十日、午後四時、東京のアメリカ大使館前には、繰り返される米兵による犯罪行為に抗議する人びとが集まり、米大使館とブッシュ米大統領に対する要請行動をおこなった。代表が、再三再四、申入書を大使館員が受けとるように要求したが、大使館側は門を閉じ、その前を日本の警官隊に守らせたまま、なんの反応もしてこない。その間にも、勤めを終えた人たちが続々と行動に参加し、百五十人の抗議行動参加者で大使館前の広場の芝生はうめつくされた。
 大使館前の集会で、島袋宗康・参議院議員(沖縄社会大衆党委員長)は次のようにのべた。
 なぜ沖縄に米軍の基地があるのか。沖縄のアメリカ総領事館に抗議にいったとき、かれらは、それは日本を守るためだと言った。しかし、今回のような事件からみて、米軍基地は日本のためではなく、アメリカの必要からあるということははっきりしている。沖縄の米軍基地はいらない。そういうことを選挙でも問うべきだ。沖縄社会大衆党は、今回の参院選で沖縄を訴えるために、新垣重雄書記長が東京で闘う。いま、沖縄では、基地問題への新しい動きがある。これまで基地問題にはあまり発言してこなかった婦人連合会も基地はいらないという決議をあげた。県議会でも、海兵隊削減の決議をした。今日、衆議院外務委員会は、日米地位協定の見直しの決議をしたが、もともとは入っていた抜本的見直しという言葉が、自民党の修正で入らないことになってしまったので、これはあまり評価できないと思っている。重要なことは、沖縄の基地の実態をあきらかして、地位協定の見直しへ、そして最終的には米軍基地の撤去を実現することだ。
 また、集会では、内田雅敏弁護士、新垣沖縄社会大衆党書記長、沖縄社会大衆党副委員長の喜納昌春・沖縄県会議員らが発言した。
 集まった各団体からは、アメリカにむけた抗議・要請文の読み上げや闘いの決意の表明などが続いた。 沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、NOレイプ!・NOベース!女たちの会、大分湯布院の松村さん、米軍人・軍属による事件被害者を支え損害賠償法をつくる会、うちなんちゅの怒りとともに三多摩市民の会、新しい反安保行動をつくる実行委員会、小川町シネクラブ、日韓民衆連帯全国ネットワーク、平和と生活を結ぶ会、非核・市民宣言運動ヨコスカの新倉さん、名護ヘリポート基地はいらない市民の会、沖縄の闘いを支持し米軍基地の撤去をめざす市民行動、ピースサイクル東京、駿台文学会、思いやり予算違憲訴訟・東京、埼玉大学ネットワークなど。
 沖縄一坪反戦地主会・関東ブロックのブッシュ大統領あての要求書は次のように言っている。
「……米軍基地が沖縄に存在するかぎり、米軍兵士による犯罪は絶えない。SACOの合意である『基地の整理・統合・縮小』によっては、問題はまったく解決しない。あなたは、大統領就任直後から、中国への敵意をあらわにし、アジア太平洋地域の政治的・軍事的緊張を激化させる政策を打ち出しているが、その政策は沖縄の米軍基地の固定化につながるので容認できない。沖縄から米軍基地を撤去すること以外に、もはや、問題を解決する方法はない。あなたは、先月、米国領プエルトリコ・ビエケス島での軍事演習の中止を決断したが、その際、『ビエケス島の住民が米軍の存在を望んでいない』とのべた。沖縄の住民も米軍の存在を望んでいない。あなたは米軍を沖縄から撤退させるべきである。米国政府の最高責任者として、あなたがその決断を即刻なすことを、私たちは要求する」。
 「責任者は出てこい」、「誠意を見せろ」、「沖縄の声を聞け」、「形だけの謝罪はごめんだ」、「米兵を金網の外に出すな」、「米兵の特権を認めないぞ」、「名護への新基地建設を許すな」、「基地はいらない」、「日米安保はいらない」などの怒りのシュプレーヒコールがアメリカ大使館に何度もぶつけられる。
 大使館前は、米軍に対する抗議の熱気が渦巻いた。行動は深夜にまでおよび、三十人近くが大使館前で徹夜の座り込み抗議をおこなった。そして、翌十一日の午前六時に、要請書を大使館側に手渡した。
 日本の小泉政権、アメリカのブッシュ政権は、米軍基地に対する態度を変えていない。それどころか、ますます強化するという方向だ。両国政府のこのままでの対応では、これからも重大な事件が続出することは疑いない。
 沖縄の闘いに連帯し、軍事基地撤去の闘いを強めよう。


事件の原因究明と情報公開を
            北海道・島松空対地射爆場誤射事件


 六月二五日午前十一時頃北海道北広島市上空の高度二二五〇bで対地攻撃訓練中の航空自衛隊F―4EJ改ファントム戦闘機が20ミリ機関砲(バルカン砲)を誤射するという事件が発生した。この戦闘機に搭載されていた200発中、わずか二、三秒の間に誤射されたのは合計で188発にのぼり、内12発は北広島市の社会福祉法人・北海長生会「北広島リハビリセンター」の駐車場などに打ち込まれた。
誤射をした南西航空混成団(司令部・那覇)第83航空隊302飛行隊所属のファントム機は六月十八日から航空自衛隊千歳基地を拠点にして恵庭市と北広島市にまたがる北海道演習場(島松空対地射爆撃場)で射撃訓練を行っていた。当日は四機編隊で演習場上空から70ミリロケット砲を「ボムサークル(標的)」に撃ち込み右旋回しながら再度射撃態勢に入ろうとする途中で突然機関砲が二、三秒間発射されたという。この機関砲は六つの銃身が回転しながら毎分最大6000発の発射が可能であり、今回発射された20ミリ機関砲弾は、アルミ合金と炭素鋼製で弾頭は長さ七a、直径二a、重さ約一〇〇cで弾頭に炸裂する火薬の入っていない訓練弾だったが、主に航空機や車両を撃ち抜く目的の兵器であり訓練弾とはいえ極めて殺傷能力は高いといえる。
 訓練弾が打ち込まれた「北広島リハビリセンター」は千歳空港方向から札幌に向かう道央自動車道(高速道路)と国道36号線近くの北広島市(人口五万八千人)にあり、人口の密集している住宅街や学校などから二、三`の近さに位置している。着弾した八発は駐車場のアスファルトに三、四a突き刺さっており、他の一発は職員の乗用車に直撃して後部ガラスをメチャメチャに破壊し更に後部座席の後ろを貫通してトランク内のゴルフバックにめり込んでいた。この職員は昼休みにはよく乗用車内で午睡していることがあり、一歩間違えれば人命にかかわる事態となりかねなかった。またリハビリ施設の訓練棟屋根にも弾がめり込んでおり、貫通していれば大変なことになっていたのは疑いない。
 偶然にも人命にかかわる事態とはならなかったとはいえ、上空から機関砲を誤射し、平和な日常生活を営む市民を恐怖に陥れた自衛隊の責任は極めて重大である。
 こうした事件を引き起こした背景には、市民生活のすぐ隣に大規模な軍事演習場が存在し、危険極まりない軍事訓練が繰り返されていることがある。
 北広島市の町内会や住民は今回の危険な事件を契機に自衛隊の演習に抗議の声をあげており、その動きは近郊の市町村に広がりを見せている。ところが事故の原因究明も明確になっていない状態で、航空自衛隊第二航空団は七月六日から飛行訓練再開を北広島市など打診していたことが明らかとなった。地域の住民の感情を逆なでするこうした自衛隊の傲慢な姿勢を許してはならない。
 小泉内閣の下で大手を振って登場してきた国家と軍事優先の政治は、市民の平和と生活を脅かすことと表裏一体となっていることを今回の危険極まりない誤射事件は示した。
自衛隊や在日米軍の「住民を守る」という虚構を暴露し、実際は住民を危険に晒し犠牲を強要する真の姿をあきらかにしていく必要性はより高まっている。
航空自衛隊機F−4EJの誤射を許さず徹底的な原因究明と情報の公開を要求しよう。安全が確認されないもとでの安易な自衛隊の訓練再開に反対しよう。(北海道通信員)


夫や恋人からの暴力の根絶へ
                     DV法を第一歩に


 先の152国会で成立した「DV防止法(配偶者からの暴力を禁止し、被害者を保護する法律)」が十月に施行されるのを前にして、七月七日、東京・青山の東京ウィメンズプラザホールで「あなたのほしい!を実現させよう!〜当事者主導のサービス構築に向けて〜」というシンポジウムが開かれた。主催をしたのは、サポートグループ「ぱんだね」と「女性の家HELP」、「主張するTシャツを集める会」。
 「ぱんだね」は「女性の家HELP」を利用して夫からの暴力から逃れた当事者の女性が、「自らの体験を被害者支援と暴力を容認しない社会をつくるために役立てたい」と声をあげたことをきっかけにして発足した。年令も国籍をさまざまだが、DVを個人的にも社会的にも克服することをめざしてきた。DV法の成立に向けては、議員立法を目指す超党派議員の非公開ヒアリングで直接体験を証言したり、当事者女性の望む法律を具体的に要望した。また国会請願署名やロビー活動なども展開してきた。
 今回のシンポジウムでは、DV防止法は決して満足な内容ではないが第一歩とし、十月の施行に向けて、さらには三年後の法見直しに、当事者・支援者・市民が暴力の根絶と予防に向けて第二歩をどう踏み出すかを検討しようというもの。なお「ぱんだね」はイースト菌のこと。
 シンボジウムでは、戒能民江さん(お茶の水女子大教員・内閣府男女共同参画会議「女性に対する暴力専門調査会」委員)、佐々木静子さん(産婦人科医・「富士見産婦人科病院事件」弁護団医師など)、長谷川京子さん(弁護士・九八年「日本DV防止センター」設立)、三鬼和子さん(「女性の家HELP」ソーシャルワーカー・「ぱんだね」援助者)の四氏が発題者となった。
 夫や恋人など親密な関係にあるとみなされる男性から女性への暴力(ドメスティック・バイオレンス=DV)は、他人どうしなら犯罪事件として扱われる暴力なのに、これまで長い間「痴話(ちわ)げんか」として見過ごされてきた。
戒能さんは、DVが犯罪行為であり、女性の人権侵害であるとされたこと、法的しくみへの足がかりができ、保護命令制度が導入されたことなどをDV法成立の意義であるとした。しかし、対象は配偶者(事実婚を含む)のみであること、身体的暴力に限定されていて、精神的、経済的、性的暴力は除かれていること、保護命令の実効性を保証する具体策はこれから。暴力相談支援センターが実態あるものになるには経験のある各地のNGO・シェルターなどとの連携が不可欠であることなどを指摘した。
 佐々木さんや長谷川さんは、これまで扱った具体的な例をあげ、当事者を加害者から護ることの難しさ、自立支援の困難さのにふれ、これからの課題を示した。
 三鬼さんは立法に至る運動経過を報告し、これまでより大きなネットワークをつくって、主張してきた、当事者女性の「生命と生活の安全の確保」「自己決定権の確保」「自己決定のための『知る権利』の確保」を具体化したいと結んだ。参加者は民間のサポートグループなども多く具体的な質疑や経験の交換が行われた。
 DV法の冒頭には憲法の人権尊重と男女平等がうたわれている。法制定により被害が顕在化することも予想される。NGOの経験を生かし、職務関係者の連携や担当者の研修が急務となっている。 (D)


(資料)
     沖縄民衆自身の主体的力で現状を打開しよう
                 
沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会

 またもや許せない事件が起きた。北谷町で発生したレイプ事件がそれである。
 しかしそれは、決して予測しえなかった事件ではなかった。むしろ、多くの人びとが、いつ起こるかと、戦々恐々としながら、発生を恐れていた事件である。
 あるいは、事柄の性格上、発生しているのに表面化しなかった事件であるといっていいのかも知れない。そしてそれは、沖縄島の二〇%を米軍基地が占め、数万の軍隊が常駐し、その軍隊が日米地位協定によって特権的地位を保障され、振興策のばらまきによってそうした状態を維持・強化しようとする政策がとられ、それを受け入れる行政が存在する限り、いつ起こっても不思議ではない事件の一つである。
 おまけに米側は、容疑者の「人権」を口実として、容疑者の身柄引き渡しに難色を示している。そこには、自らの文化・価値観・制度を至上のものとし、他国、とりわけアジア諸国等の文化を軽視する思い上がった傲慢さが示されている。それが、NATO地位協定と、日米地位協定や韓米地位協定の差となって表れている。いわゆる「ならず者国家」を見るアメリカ側の眼にも、それが露骨に示されている。
もとより日本の容疑者取り調べのシステムに多くの問題があることは、早くから指摘されているところである。改善されるべき点は、改善しなければならない。しかし、いま問題になっているのは、軍隊の構成員のみが、一般人と違った特権を保障され、それが犯罪の温床の一つになっているという問題である。 軍隊に特権的地位を要求する背景には、「国益」を主張して、大国の利益を軍事力で守ろうとする政策がある。わたしたち沖縄平和市民連絡会は、昨年四月十七日、いわゆる沖縄サミットを前に、「沖縄から平和を呼びかける4・ 集会」を開き、世界の平和を愛する民衆に向けて『沖縄民衆平和宣言』を発し、私たちの願う『平和』とは、…地球上の人々が、自然環境を大切にし、限られた資源や富をできるだけ平等に分かち合い、決して暴力(軍事力)を用いることなく、異なった文化・価値観・制度を尊重しあって、共生することです」と宣言した。
そして昨年六月に実現した朝鮮半鳥における南北首脳会談は、わたしたちの宣言が、決して観念的な理想論ではなく、国際政治の現実的な流れになり始めたことを立証した。
 しかしアメリカ、とりわけブッシュ政権は、ミサイル防衛から、京都議定書離脱・原発推進にいたるまで、軍需産業やエネルギー産業を中心に組み立てられた「国益」追求を再優先させることによって、平和的共生の流れを逆転させようとし、小泉政権はそれに追随している。この忌まわしい事件が、日米首脳会議直前に発生したことは、象徴的ですらある。
同時にわたしたちは、こうした忌まわしい事件を発生させる土壌が沖縄にもあったことを認めなければならない。基地と抱き合わせの振興策を受け入れる「物乞い政治」と、「沖縄だけ頑張ってもどうにもならない」というあきらめの感情が、それである。
だが、沖縄の状況を多少なりとも変え、民衆の人権を守ってきたのが、平和を求める民衆の闘い以外にはなかったという歴史的事実をもう一度再確認しなければならない。
 わたしたちは、わたしたち自身の闘いの歴史とその成果に自信と誇りを持とうではないか。そしてどのような巨大な闘いも、一人一人の自覚と、ささやかな行動から始まったことを思い起こそう。
 私たち沖縄平和市民連絡会は、明日六時、嘉手納基地第一ゲート前で、緊急のささやかな抗議集会を行なう。この集会への県民各位の参加を呼びかけると同時に、それぞれが、あらゆるところで、自らが納得の行く方法で、抗議行動を展開することを期待する。

二〇〇一年七月五日


(資料)
     小泉首相は靖国神社参拝をただちに断念すべきです
                                   許すな!憲法改悪・市民連絡会

 「許すな!憲法改悪・市民連絡会」は、左記の声明を発表し、全国の市民団体に、同様の抗議行動に立ち上がるように訴えた。

 小泉首相が就任以来、八月十五日に靖国神社に参拝すると言明しつづけていることにたいして、日本の各界の人びとからあいついで抗議や憂慮の念が表明されています。
 そして国内だけでなく、さきのアジア・太平洋戦争の被害をこうむったアジア各国の人びとからも怒りの声が上がっています。
 靖国神社は宗教法人であり、そこに首相が参拝することは、憲法の政教分離原則に違反するものであり、またさきのアジア・太平洋戦争の戦争責任に関する歴史認識にかかわる重大な問題であり、戦争加害者の行為を賛美することにもつながります。
 憲法の政教分離原則は、政治と宗教が一体となった国家神道が、人びとを戦争に駆り立てたことにたいする反省に立って確立された原則です。
 アジア・太平洋戦争ではアジア諸国からも多くの犠牲者をだしたことは周知のことであり、戦争犯罪人も合祀されている靖国神社にたいして、首相が「国のためになくなった人のお参りをしてなぜ悪いのか」などということは、アジア各国の人びとの気持ちを逆撫でするものです。
 私たちは憲法の諸原則を生かし、社会に根付かせていくことをこころから願い、アジアの人びとと平和と友好のうちに二十一世紀をともに生きていきたいと願う全国各地の百五十をこえる市民団体のネットワーク組織として、小泉首相がただちに靖国参拝を断念するよう、つよく要請します。

二〇〇一年七月四日


これは新しい「臣民」教科書だ
    ・・・ 「市販本 新しい公民教科書」を読む ・・・

                                  佐山 新 


 本紙前号『複眼単眼』が扶桑社版「新しい公民教科書」を取り上げた。この教科書の特徴はそこで指摘されている通りだが、ここではやや詳しく内容に立ち入って見てみることにする。

西部の発揮する「良識」ぶり

 西部邁が「市販本まえがき」で「執筆者一同を代表して一言申し上げ」ている。異例の市販に至る経過を例によって一見強面、実は被害者意識丸出しの繰り言調でグダグダ綴った上で、しきりに「良識」を振りかざしている。「良きデモクラシーの基礎である『良識』ある世論」「われわれは自分らの執筆した教科書が良識に叶うものだと自負している」「国民の公共心はその国の『歴史』のうちに胚胎する『良識』によってもたらされる」「良識ある教科書」「教育のうちの徳育は、公民たらんとするものが良識を歴史からの恩恵として授かる作業だという意味で(どういう「意味」かさっぱり分からない・・・佐山)、国民精神の聖域である。この聖域を破壊するのに精出してきた戦後教育」といった調子だ。この「良識」が如何なるものか、実物教科書の内容に即して後で検証する。
 この教科書の特徴の一つは「家族」についての独自の思い込みを押し付けていることにあると思われるが、西部は平然と「国民は、父兄たる立場において」云々と書いている。教科書本文にこうある、「戦前の(「戦中」はどうだったのか?・・・佐山)家族制度では、祖先から子孫までを含めた『家』という集団の存続が重視された。それに対して、現在の憲法や民法は、家族の一人ひとりを個人として尊重し、法のもとで平等に扱うことを明確にしている」(p179)。これだけでは、家族一人ひとりが「個人として尊重」されず、「平等に扱」われなかった、とりわけ制度的な男尊女卑のもとで女性が貶められた「家制度」の実態について中学生は何一つ理解できまい。「父兄」とは一九四七年に廃止された家制度に由来する言葉である。家長としての父、その継承者としての兄ということだ。西部にとって国民=「父兄」が今だに「良識」なのだろう。(ちなみに、学校現場では今は「保護者」を一般的には使用していて「父兄」は殆ど死語に等しいが、それでもたまに「父兄」を使う職員もいて、西部輩が臆面もなく跋扈する背景となっている)
 「まえがき」に些か長く付き合いすぎた。教科書そのものの検討に入ろう。

「国家」「天皇」の扱い方
 
 まず冒頭で「『公民』とは」何かを説明している。「社会をつくって生活する人間は、つねに二つの側面をもつだろう。一つは、社会の中で他人とかかわりながらも、もっぱら自分の利益を追い求めたり、自分の欲望を中心に考えたり、自分の権利を追求したりする面であり、もう一つは、自分の利益や権利よりも、むしろ国家や社会全体の利益や関心という観点から行動しようとする面である。前者が『私』を中心とするなら、後者は『公』を中心としている。私たちは、この二面をもって市民として社会生活を営んでいるのだが、とくに後者を中心に市民をみたとき、これを『公民』とよぶ」「近代社会では『私』の権利や『私』の利益追求が強く唱えられ、『市民』が『公民』から分離する傾向がある」 
 ここでは個人と「国家や社会」との関わりが何も説明されないまま、「私」と「公」があたかも個人の性向に応じた選択肢ででもあるかのように対比されている。そして全体を通じて通奏低音のように響くのは、右の引用文のニュアンスからも明らかなように、「滅私奉公」的なありようであり、とりわけ国家の強調である。一方でグローバリズムを「国の基礎をなす国民性をうすめ」るものと批判しつつ、国民国家についてこう書く、「国民を一つにまとめるものは、その国によって違っている。しかし、何か共通のものを軸にした『われわれ』という意識は、どこの国民でももっているものであり、この共通のものによる『われわれ』の意識が、多様な人々を一つの国民へとまとめる重要な役割を果たしている」(p22)。
 諸外国については、それぞれ何をもって「軸に」なる「何か共通のもの」であるとするのか、説明がないので定かでないが、日本についてはどうやら天皇制がそれだと言いたいらしい。
 「天皇は、古くから国家の平穏と国民の幸福を祈る民族の祭り主として、国民の敬愛の対象とされてきた―略―わが国の歴史には、天皇を精神的な中心として国民が一致団結して、国家的な危機を乗り越えた時期が何度もあった。明治維新や第二次世界大戦で焦土と化した状態からの復興は、その代表例である―略―天皇は政治には直接にはかかわらず、中立・公平・無私な立場にあることで、日本国を代表し、日本国民を統合している」(p59・60)。
 テレビの「北条時宗」を見ただけでもばれる嘘ではある。明治維新や戦後復興についての歴史の偽造ということはさておいても(ただ、ある意味で「天皇を精神的な中心として国民が一致団結し」た結果が「焦土と化した」日本をもたらしたことだけは言っておかずにはいられない)、「歴史的には、国民という意識は、ヨーロッパにおいて、フランス革命によって広くゆきわたるようになった」と解説しつつ、古代にまで「国家」「国民」を遡及させるでたらめさ、天皇を元首扱いし、「主権の存する日本国民の総意に基づく」「国民統合の象徴」から「統合している」にすり替える、殆ど詐欺のような手口を弄していることを指摘しておこう。

「国柄」そして改めて「良識」

 「21世紀の文明における最大の課題は、各国民が、自分たちの歴史に基づきながらも、他国民にも理解することのできる公民的な性格を、いかに身につけていくかという点にある」(p21)これは何を言っているのだろう、一読意味不明である。前段で現代人の病理として「民主主義、産業主義、国際主義をあまりに理想化したり、また無条件にあたりまえのものとして考えてしまうと、それぞれの国や地域の個性を見失いがちになる」と言っている。要するに「自分たちの歴史」が眼目であり、「他国民にも理解できる」は付足しだろう。「本来、互いの違いを認めつつ相互交流をはかるという国際主義」(p20)の立場に立つのであれば、こんな表現は無用だ。国際主義などものかは、欺瞞的自国中心主義を標榜する、新しい教科書を作る会自体の姿勢がこういう所に表れる。
 その姿勢は、普遍的な価値に「国柄」を対置する論法に端的に表れている。
 「どの国にもどの時代にも通用する絶対的な自由権や平等権があるわけではない。それらが父祖(祖先)たちの努力の結果として、それぞれの国の文化や伝統を背景に、歴史的に徐々に獲得されていくものであることを忘れてはならない」(p31)
 「時代や状況の違いはあるが、父祖たちもまた私たちと同様の問題に直面し、苦しみ悩みながら解決策を探し求めたに違いない。その模索の過程で、父祖たちはさまざまな知恵を出し、残してくれた。私たちは、そうした父祖の知恵、歴史の知恵に学ぶことができるし、学ばなければならない。歴史を学ぶことによって、現実の課題や未来に対処する道を見いだすこと、これがよき民主主義をつくり上げるためにもっとも大切な態度の一つなのである」(p36)
 「国家の基本秩序が、祖先の努力によって長い歴史をへてできあがったことをよく理解しなくてはならない」(p71)
 「自由と秩序のどちらをとるか、というのは間違った選択である―略―自由と両立する秩序を求めることが大切であり、そしてそのような秩序は、各国の歴史、いいかえればその国の『国柄』に基づく秩序でしかありえない。なぜなら、個人の自由なふるまいは、その人の個性に基づくわけだが、人間の個性はその人の属する国の歴史と国柄のなかで育つものだからである。歴史をふまえた国柄は、個人の個性と社会秩序の両方にとって、もっとも基礎的なものであり、その基礎を大事なものとしている限り、自由と秩序が結び合わされるのである―略―こうした公的なものへの欲望は、自分のかかわる国の歴史のあり方と無縁ではない。また、その欲望が、自国の歴史的な国柄を確認したいという動機に根ざしているなら、国民一人ひとりの欲望の間には、同じ国民である以上は、何らかの共通点があるということになる―略―これからの国民は、その国の内部の歴史へと遡りつつ、その国の外部の国際関係へと広がっていく、という二面的な構えをもたなければならない。それら両面の間における平衡感覚が、国民文化を成熟させることになるであろう」(p208・209)
 「国民の精神の健全さを保障するもっとも重要な要素は良識である。ここで良識というのは、その国の歴史の中で形づくられ、そして国民によっておおよそ共有されている常識のことをさす」(p210・211)
 殆ど何をいわんとしているのか分からない支離滅裂な駄文であるが(これだけですでに教科書失格だ)、この教科書が力点をおく要の部分であろうから長く引用した。「国柄」については脚注で「それぞれの国がもっている個性やありよう、そして風格のこと」とある。西部の言う「歴史からの恩恵として授かる」「良識」について語っているのだろうが、その良識たるや、何のことはない世論調査的多数派のことでしかないのだ。当然のことながら少数派には「非国民」というレッテルが用意されているのだろう。情緒的かつ論理的に濁り曇ったこんな文章から教員は何を生徒に教えられるだろう。
 「父祖」(「父兄」と同根の言葉である)「祖先」をしきりに強調し、その遺産を有難く押戴けということを言っている。ならば、率直に日本の「国柄」なるものを示すべきと誰しも考えるが、肝腎のところはほのめかし、匂わせに終始している。それが天皇制に結びつくものであろうことは前述したとおりである。
 「祖先」にも色々あって、人々の権利のために身を賭した人物やそれを支えた人々もいれば、これを弾圧した者、弾圧を傍観した者もいる。民衆を死へと追いやった者、そうすることで己れの利益を図った者達が一方にあり、むざむざと殺された無数の人々が他方にある。そうした歴史の具体相を一切捨象して(あるいは「アジアの国々、とくに中国と韓国に対してあらためて『鎖国』するようにして、閉じた内側で根拠のない自己の特権化をもくろむ」(大江健三郎)「新しい歴史教科書」のみを戴いて)「同じ国民である以上は」というところに無理矢理収斂させるところに、きわめてイデオロギー的な「国柄」の論理があるのだ。

杜撰で粗雑な思い込みの押し売り

 この教科書の「個性」「良識」が最も表れているだろう部分がこの体たらくだ。こうした情緒纏綿とした没論理の裏返しのようにして、きわめて粗雑な思い込みによる叙述が随所にある。例えば次の箇所などは私には全く理解不能だった。「価値の一様化」という見出しでこう書かれている、価値の多様化による「無秩序状態に何とか対処しようとして、現代では価値の多様化とはまったく反対の手立てが用いられている。例えば『結果の平等』を、批判を許さない価値とみなすように、一様な価値(原文ゴシック)が国家によって指定されたり、特定の考えがマスコミによって流されたりすることになり、それに基づいて管理体制が敷かれ自由が抑圧されるという、皮肉な事態が世界各国に見られる」これは何を具体的に指しているのだろう、ひょっとして単なる私の無知のためかもとも思うが、本当に分からないので分からないとしておく。文部科学省の検定官は本当に分かっているのだろうか。
 今、夫婦別姓を可能とする法改正を追求している人々がいる。教育現場でも、結婚後も旧姓を使用することが認められつつある実際がある。いずれにしても目下議論が展開されているテーマである。これに対してこの教科書はこう書く、「現在の日本では、法律によって、結婚した夫婦は、夫または妻の姓をともに名乗ることになっている。この夫婦同姓の制度も、家族の一体性を保つ働きをしてきた。家族の形や役割には変化が見られるが、家族を維持していくことの重要性は、現代の日本人にも強く意識されている」(p180)無いものねだりしても仕様がないが、なぜ、この問題について現状変更を求める意見が強くあることを、その論拠を含めて客観的に紹介しないのか。それが教科書としての最低の「良識」ではないのか。
 「北朝鮮による日本人拉致問題」に一ページ使っているのも不当である。確定されない伝聞をもとに「これが事実だとすれば」として書き散らすことがどうして教科書に許されるのか。別の箇所にテポドンの写真も載っている。
 「日の丸・君が代」の扱いが突出していることも、案の定である。序章の扉絵が富士山、次のページに「満員の観客と大きな日の丸」としてサッカー競技場観客席の日の丸の写真、第一章の扉絵も同じサッカー応援団の掲げる日の丸、日の丸。本文で「国を愛することは国旗・国家を尊重する態度につながる。また自分の国を愛することで初めて他の国を理解することもできる」(p105)とする愛国主義の鼓吹。二ページを使っての「国旗・国歌に対する意識と態度」では、ケニアで「国旗降納」の合図を知らずに直立不動の姿勢をとらなかったばかりにライフル銃を突き付けられた青年海外協力隊員の手記が紹介されている。「『気をつけよう、朝夕六時の笛の音』」。結語にただよう皮肉なニュアンスにおかまいなく、国旗国歌尊重の必要性を説くために使われている。
 もう一つ、サッカーのラモス選手の文章が長く引かれている。「日の丸をつけて、君が代を聞く。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーがみなぎってくる。でも、日本の選手の中にはそうじゃないヤツもいる。不思議でしょうがないよ」これは殆ど扇動というべきものだろう。報酬の多寡で世界中を渡り歩くプロ選手を愛国主義のお手本のごとく扱うのは、ご都合主義もここに極まれりだ。ラモス選手はどこの「国柄」を体現しているというのだろう。
 最後に、資料として掲載されている新聞記事が専ら「産経新聞」のものであり、一部に「読売」「日経」が申し訳程度に採用されているというのも、身も蓋もない話だが、この本には似付かわしい。


右翼の暴力的な集会破壊を決して許さない

 七月七日、神奈川県民活動センターで、日中友好神奈川県婦人連絡会主催の「七・七慮溝橋事件記念のつどい」が開かれた。
 この五十名ほどの集会に十数人の右翼がおしかけ、大声を発して集会を妨害し、参加者に、中味の入ったままのジュース缶を投げつけ怪我をさせ、集会は中断に追い込まれるという事態がおこった。
 ペテン的な小泉フィーバーと日米軍事同盟強化の中で、右翼がお墨付きをもらったかのようにわがもの顔でのさばりはじめている。右翼は、憲法・平和や歴史教科書問題などを真面目に考えようとしている人びとの言論を圧殺しようとして、どこにでも大勢で出かけてきて、集会やデモなどを潰そうとする行動を計画的に展開している。
 マスコミの多くも、小泉人気と政治の反動化の流れに便乗して、権力に媚びるようになってきている。
 こうした時代の逆流に抗するためには、横の連帯をいっそう強めていくことが必要だ。

 当日の集会のプログラムは、「女性国際戦犯法廷」ビデオの上映と松井やよりさんの講演「歴史の真実に向き合う」だった。
 ビデオが上映され、内容が元日本兵の証言に移ると、集会に紛れ込んでいた右翼の一人が「国賊!」と叫んだ。
 すると、それを待っていたかのように、会場のあちこちで、「中国の核武装をなぜ批判しないんだ」、「中国へのODAやめろ」、「売春婦どもがなにいうか」、「うそつけ」、「弁護士もいないインチキ裁判だ」、「リンチだ」、「猿芝居はやめろ」、「犯罪的な裁判だ」、「オランダ人が現地女性に何をやったか知ってるのか」、「東チモールを侵略だって?日本が解放してやったんだ」、「こんなビデオを上映するのに会館使わせるな」などの暴言、怒号、野次がおこった。
 彼らは、意図的計画的に集会を破壊しようとして会場に入り込んできたのだ
 ある右翼は、ビデオにむけて紙をまるめて投げたりした。
 そして、ある参加者が天皇に対する有罪判決に拍手すると、右翼が「それでも日本人か」と叫びながら中味の入ったままのスチール製のジュース缶を投げつけたのである。それが拍手した人のとなりの女性の顔にあたり下唇を切る怪我をするという、絶対に許せない暴挙をおこなったのである。
彼らは、ビデオ上映が終わると、今度は講師の松井やよりさんにたいしてさまざまな暴言・悪態をつきはじめた。
 その騒音に司会者がたまりかねて「静かに」といっても、右翼はますます大声を張り上げた。
 やむなく司会者は全員会場から一旦は出るようにいうことで、結局、講演は中止ということになってしまった。
 非常に残念で憤りを禁じ得ない。

  § § §

 だが、なにが右翼をのさばらせているのだろうか。 たしかに、このところ日中関係は緊張している。「新しい歴史教科書」問題、小泉首相の靖国神社公式参拝強行発言、中国産農産物への緊急輸入制限(セーフガード)発動などなど。こうしたことが起きる背景には、アメリカのブッシュ政権の対中国強硬政策や日米軍事同盟強化、そのための日米両軍共同作戦が出来る集団的自衛権承認要求がある。そして憲法改悪策動の加速化だ。
 小泉首相は、石原慎太郎都知事や中曽根康弘元首相らと連携しながら、偏狭なナショナリズム・排外主義をあおっている危険な政治家だ。
 戦後の自民党政治がつくり出してきた、いまの日本の腐敗・停滞を小泉「改革」が「みごとに解決」してくれるというマスコミ宣伝がつくりだした風潮である。しかし、小泉はれっきとした長年の自民党員であり、なんども閣僚経験があり、ましてあの森派の代表だっだのだ。それが、これまでとは全く違う政治を行うなんてありないことだ。そして、やろうとしていることは、高支持率を背景に、反対勢力を一気に排除してしまおうというやり方だ。この先兵となっているのが草の根右翼なのだ。
 今回のような暴挙を決して許さず、多くの人たちと協力していっそう強固な運動をつくって行こう。(N・神奈川)


部落史から取り残された諸賤民について B
                            
 大阪部落史研究グループ

三昧聖について

 近世社会においてえた・非人身分にして、その他の宿(しゅく)、声聞師(しょうもじ)、鉢叩(はちたたき)、隠亡(おんぼう)など各地の方言、慣習にもとづいて呼称された多様な被差別民の存在については前に述べた。そのなかの隠亡(三昧聖)について今回は調べてみようと思う。
 蔑称で隠亡(おんぼう・おんぼ)と呼ばれ、自らは「聖」と自称していた三昧聖。彼らの仕事は遺体の焼却や埋葬そして墓を守って行くことにあった。「火葬場・墓」を意味する「三昧」そして「聖」とは寺院に属さない民間の宗教者をさした。シリーズ近世の身分的周縁1『民間に生きる宗教者』の中で高田陽介氏はこのような葬送における遺体の焼却や埋葬の実際を遣族や互助組織で行わず、専門家に依頼する習慣をもつ地域が近畿地方には各地に存在していたということや、そうぼ(惣墓)つまり畿内の平野部にみられる大規模共同墓地とその起源が中世までさかのぼれる数多くの資料を報告している。『近世の民衆と芸能』(阿吽社)のなかの吉田清氏の隠坊(氏はこの字を当てている)の説明によると、三昧聖は大寺院の僧侶たちが官費によって生計を立てているのに対し、日常的世間から隠されて見えない《ケガレ》の部分に生活の基盤をもった隠遁者の群であった。そして本寺の僧が取り扱うことのなかった葬送の機能を果たした。
 そもそも日本に仏教が入って以降、大和朝廷で葬式・陵墓・土器製作などを担当した土師一族は、仏教の法衣に衣替えて沙弥とかヒジリになって、行基の弟子志阿弥(沙弥)の徒とされてきた。また、死者の埋葬あるいは焼却そして墓地などを見守ってくれる彼らに対し、世の常ならぬ死のケガレに身を晒しながら生きた人と見なされた。だから庶民仏教には世に隠れ、姿を変えた菩薩や聖たちの行業であるとして一方では尊敬もされた。さらには源信や源空、親鸞の専修性に加えて、三昧聖側にも精神性が付与され、天台・真言・禅・浄土に戒律(規範)が加えられた。すなわち民衆への捨身(奉仕)が強調されたことなどもあった。
 ではなぜ、こうして一方では尊敬されながらも、蔑称で坪ばれたり、差別されるようになったのか。前述の吉田氏は次のように指摘している。中世末期以降、本末関係(寺院の本寺と末寺の主従関係)を禅や浄土、日蓮などの諸宗に本寺を求めることによつて、独立して行った経過があった。しかし隠坊はこの新仏教の独立にもかかわらず、身分的に上昇する事なく取り残された。すると、支配寺院側から隠坊という蔑称が付与された、と。

 資料
 明治維新以後一八七一年賎民廃止令当時の政府の統計によると
エタ身分 ↓    二八〇、三一一人
非人 ↓
     二三、四八〇人
雑種賎民 ↓
     七九、〇九五人
   計三八二、八八六人      

                                              (つづく)


(図書)
     
皇軍兵士の「中国戦線」記
           戦争の実態を克明に綴る  「東史郎日記」


  一般住民への「掃蕩」という虐殺、「徴発」という名の略奪、女性への凌辱、捕虜の「処分」、民家への放火など模範的皇軍兵士として戦いつつも思い悩む苦悩が赤裸々に。

 『南京プラトーン』(本書のダイジェスト版、青木書店)に対して、歴史修正主義者らは名誉毀損で提訴するという攻撃をかけた。「日記」は真実の語りであったが、最高裁は不当判決を確定させた。歴史の真実を語ろうとする者への攻撃と裁判のそれへの追随、それが今日の偽らざる情況であり、問われているのは最高裁をはじめとするわが国の歴史認識と被害を受けたアジアの人々に対する姿勢である。
 『東史郎日記』全五巻は詳細克明な戦争の記録であり、日記文学である。既に『南京プラトーン』としてダイジェスト版が刊行されている。が、先の本は原本と似て非なる別のものといった感じを受ける。先の本は出征から昭和十三年九月九日までをおよそ十七万五千字でまとめているが、同じ範囲の原文は約五十万二千字を費やして書かれている。。
 しかし、戦争の実態、生起した事実が書かれているということもさることながら、戦地での皇軍の模範的一兵士・東さんの心の動揺や葛藤を書き留めていることこそが、この日記の最大の特徴であり、最大の収穫なのである。戦記の多くは部隊としての、兵団としての行動やその時の考えを記すものばかりで、戦争と向き合った個人の心象を記したものは極めて少ない。
 東さんは戦地生活が一年ともなると、「我々の心の中に新鮮感がなくなり、感覚が鈍磨してしまった。私の心は、戦場というものから抽出すべき人生の意義、抽出すべき数々の真理をも感じなくなった」と述べている。それは何も特異なことではない。第十軍法務部長として杭州湾に上陸し南京に至った小川関治郎『ある軍法務官の日記』(みすず書房)を読めば、当初中国人の死体を気味悪く思い「戦場ノ惨憺タル光景」と映っていたものが、南京近くまで行くと、「内地ニテノ犬ノ死骸程ニモ感ゼズ」というようになったという。小川の場合、その感性の変化は僅か二ヵ月の間におこっている。それに較べれば、東さんは強靭な精神と感性を保ち得ていたというべきだろう。だから「東日記」は、『みずみずしい感性が、どのような現実の中で次第に鈍磨していったのか』の記録でもある。
 これらの点を『東史郎日記』全五巻で充分に読みとって欲しいと願うものである。      (H)

完全版・南京プラトーン  『東四郎日記』  著者 東史郎
        A5版・本文五一〇頁  定価・二六〇〇円

発行所・熊本出版文化会館(096・354・8201)


複眼単眼

   政治家らの失言と本音  マイノリティーの「痛み」と人権


 なぜ同じ日に自民党の政治家二人からこんなアイヌ差別発言が飛び出したのだろうか。
 自民党の鈴木宗男衆議院議員(比例代表選挙北海道ブロック)は、七月二日、外国人特派員協会で「(日本は)一国家、一言語、一民族と言ってもいいと思う。北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、アイヌ民族はいまはまったく同化された」と発言した。
 同日、平沼赳夫経済産業相は札幌で「日本ほどレベルの高い単一民族で詰まっている国はない。あの大東亜戦争に敗れ、傷ついて帰ってきた。惨憺たる状況の中で人的資源を最大限に生かし、歯を食いしばって頑張った」と述べた。
 鈴木は北海道東部が地盤の人物だし、平沼は「一国の大臣がアイヌモシリでこうした挑戦的な発言」(北海道ウタリ協会阿部副理事長談話)をしたのだ。この連中はアイヌ民族の人びとが存在することも、また「アイヌ新法」というのがあるのも、知らないわけがない。「単一民族」発言と「大東亜戦争」発言が同じ文脈ででてくるところが、こ の連中の「哲学」の本音を示している。
 沖縄でまたも引き起こされた米軍兵士による性暴力事件についても、こうした輩の本音が飛び出している。いつもながら「被害者側にも問題があったのではないか」などという発言だ。田中真紀子外相は「その女性もなんで夜中の二時に飲み屋にいたの。しかも酔っていたという。幼い女の子が襲われたのならわかるけど、今回のケースは違うんじゃないの」と述べたし、産経新聞のコラム「産経抄」も「米兵は『合意の性行為で、暴行ではない』と供述しているそうだ。このへんもよくわからないが、午前二時という犯行時刻といい、犯行の場所や状況といい、特殊なものがある。……ひょっとして被害者の側にも何か誤解されるようなことがなかったかどうか」と書いた。
 これでは被害者の女性にとっては二度レイプされるようなものだ。
 フジテレビの木村太郎キャスターは「日本側(交渉)に幸いになる事件かも知れない」などと、冷酷で、高慢ちきな発言をした。「失言だった」と詫びたが、失言なのだろうか。これは木村の感覚の本音ではないだろうか。

 小泉首相は「あまりギスギスしないように、国民感情をよく理解して、当局がよく話し合って解決を」などと発言した。このように人の「痛み」を理解しない人物が、いま経済構造改革の「痛み」を押しつけようとしているのだ。
 「強姦救援センター・沖縄(REICO)」は「凶悪犯罪にたいして社会がバックアップし、女性から訴えられるような環境づくりをしなければいけないができていない。(被害にあった女性には)あなたは悪くないというメッセージを届けたい。同時に今後のケアが大事。裁判になれば一緒に傍聴もしながら、できるなら心の援助をしたい」と語っている。
 この国に憲法が規定する人権の思想を定着させる闘いは憲法施行五十数年を経て、なお「いまだ道遠し」の感があるが、REICOの人びとのような粘り強い活動に、あらためて励まされる。(T)