人民新報 ・ 第1048号<統合141> (2002年1月25日)
  
                                目次

● 戦争体制の強化をねらう有事法制と改憲の国民投票法案に反対
   市民の院内集会に横路(前民主党副党首)、志位(共産党委員長)、土井(社民党首)らが参加

● 改憲の国民投票法反対に四二九団体・個人の賛同

● 地域ユニオンの取り組みから 下層労働者のなかへ

● 春闘をめぐる情勢 (上)

● 国内唯一の炭鉱・太平洋炭鉱の閉山について

● 映画 Kandahar(カンダハル)

● 学校の荒廃がますます進む -- 新たな人事考課制度導入の動きなど

● 複眼単眼 / マスコミがあおり立てる戦争 報道の頽廃



戦争体制の強化をねらう有事法制と改憲の国民投票法案に反対

 市民の院内集会に横路(前民主党副党首)、志位(共産党委員長)、土井(社民党首)らが参加


 一月二一日午後、第一五四通常国会の開会日に際し、市民団体や宗教団体が共同して国会の衆議院第一議員会館で「『有事法制』反対、『憲法改正国民投票法案』反対院内集会」を開き、小泉内閣の危険な「戦争をする国家」づくりの政治に対決して闘う意思を表明した。
 集会を主催したのは「平和を実現するキリスト者ネット」「日本山妙法寺」「テロにも報復戦争にも反対!市民緊急行動」の三団体による実行委員会。おりからの荒天にもかかわらず、院内集会には市民や国会議員など約二〇〇名のひとびとが参加し、会場を超満員にした。
 この集会には民主党の横路孝弘前副党首、共産党の志位和夫委員長、社民党の土井たか子党首、および沖縄社大党の島袋宗康委員長、無所属の川田悦子衆議院議員ら国会議員が三六人(代理を合わせて五十数人)も出席した。市民団体の呼びかけでこうした共同が実現したことは画期的なことであり、今後の有事法制や憲法改悪国民投票法に反対する闘いをすすめる上で、大きな意義を持つものとなった。
 さらに連帯の挨拶として、航空労組連絡会の竹島幹事、全労協の藤崎議長、フオーラム平和・環境・人権の五十川事務局次長、全労連の沢中常任幹事が発言した。また「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の土井登美江さんが「憲法改正国民投票法案反対の声明」の賛同者が四二九団体個人、うち団体は一七六団体に達したことを報告した。これら「連合」系団体や全労連、中立などの労働組合・市民諸団体が共同の場に出席するのもまた画期的なことであった。これらは昨年後半の「報復戦争」に反対する一連の行動の中で、市民団体などが繰り返し共同を呼びかけ、実現してきたという積み上げの結果だ。
 小泉首相が危険な有事法制などを進めると言明しているなかで、国会開催日冒頭に、市民団体がこうした集会を成功させた意義はきわめて大きいものがある。

有事法制の動きをやめよ

 集会は市民緊急行動の高田健さんとキリスト者平和ネットの小笠原公子さんの司会で進められた。高田さんは冒頭、経過を報告し、昨年秋からのアメリカのアフガン戦争に反対し、国会行動などを積み上げてきた三団体は、この重大な両法案を審議する国会に対して行動を起こし、運動を大きく展開することが極めて重要であると考え、集会を準備したと報告した。
 集会のはじめに主催者を代表して「キリスト者平和ネット」の糸井玲子さん、「日本山妙法寺」の木津博充さん、「テロにも報復戦争にも反対、市民緊急行動」の富山洋子さんが挨拶した。
 富山さんは「この集会の成功を基礎にして、有事法制に反対する数千、数万名規模の集会を組織し、世界各地で起っている反戦運動に連帯しよう」と力強く挨拶した。
 集会での特別報告として、一橋大学教授の浦田一郎さんと、評論家の佐高信さんが発言した。
 浦田さんは「いま準備されている有事法制は、個別的自衛権に対応する法制準備だといわれている。しかし、これは憲法の枠組みを大きく踏みこえるものだ。最近では米軍との共同行動やテロへの対応をも合法化する方向で検討されている。しかし、このような軍事的対応でテロに対することが本当によいのか。いま必要なことは、もう一度踏みとどまって、これを考え直すことだ。憲法改正に関しても国民投票問題での立法不作為論をいう人がいる。しかし、その前にまず立憲主義の基本原理の尊重が確認されなくてはならない。立法不作為などと言うが、立法されてこなかったことの意味を真剣に考えるべきだ。これはサボったのではなく、改憲論が憲法の基本原則にふれ、立憲主義が壊される可能性があったからだ」と指摘した。
 佐高さんは「小泉首相は有事に備えるなどと言うが、有事を起こさないのが政治家の役目ではないか。有事法制とは戦時法制のことだ。まず戦争を防ぐことが先決だ。小泉首相は知覧の特攻基地を訪れて感動して泣いたというが、知覧は泣くための場ではない。戦争への怒りを感じるべき場だ。戦時法制はこうした怒りや感情をも統制するものだ。立法不作為だから国民投票法を作るなどと言うが、外務省は憲法に基づく平和外交の推進を怠ってきたのであり、これこそが問題だ」と指摘した。

民主・共産・社民各党の発言

 国会報告では民主党の横路孝弘前副委員長、共産党の志位和夫委員長、社民党の土井たか子党首が発言した。
 横路氏は「昨年の国会は国民の苦しみをよそにテロ一辺倒の国会だった。今度の国会でも経済・社会が厳しい中で、有事立法に塗りつぶされようとしている。有事にそなえるなどという俗論が浸透するのは危ないことだ。有事法制が国民の権利を大きく侵害することは明らかだ。しかしいま、国民は声をかければ答える状況であり、問題は主体の側がまだ弱いことにある」と発言した。
 志位委員長は「何のための有事法制か。戦争を準備する動きは許せない。この憲法違反の悪法を共同して阻止したい」と述べた。
 土井党首は「横路さん、志位さんらと同席した本日の集まりは画期的なものだ。小泉首相は備えが無ければ禍根を残すなどと言うが、まったく違う。備えとは何か、平和外交だ。それを進めず、いたずらに武力行使を準備するのは、アジアの人々の不安をかき立てるものだ。今日の共同は小泉首相の政治に対抗するうえで非常に有意義だ。力を合わせて有事法制が出てくる前に反撃する運動をつくり、進めたい」と発言した。
 島袋宗康参議院議員と、川田悦子衆議院議員も発言した。
 集会では閉会の挨拶を日本山妙法寺の武田隆雄さんが行い、この集会を契機にさらに共同を発展させようと訴えた。


改憲の国民投票法反対に四二九団体・個人の賛同

 昨年十二月中旬、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」が呼びかけた「憲法改正国民投票法案」に反対する共同声明への賛同は一月十九日に締め切られ、約一ヶ月の間に四二九団体・個人(うち団体は一七六団体)の賛同があった。
 賛同したのは北海道から沖縄まで全国各地から、平和運動団体・環境保護団体、人権擁護団体など多様な市民運動関係の人びと。この声明は近く、各国会議員に届けられる。
 市民連絡会はこの連携を契機に、憲法改悪阻止の動きをさらに大きく発展させようとしている。


地域ユニオンの取り組みから 下層労働者のなかへ

 「リストラ」という名の首切りの嵐が吹き荒れ、情け容赦なく労働者が街頭に放り出される昨今、その「災難」は、「エリート」と呼ばれ上層労働者を構成していた大企業労働者にまで及んでいるというのに、わが組織労働者たちは羊の群れのごとく従順にさえ見える。それは、敗戦後遅れて復活した日本帝国主義が、独占資本主義体制の下で労働者人民大衆の徹底した差別・分断支配を行い、労働官僚を育成し、労働組合を企業内主義、本工主義に落とし込み、労使協調路線によって体制を支えるというイデオロギー攻勢の成果の一面でもある。
活動家と称され、あるいは自認する人々がこうした状況を嘆き、自分の所(職場)は状況が悪い、などと言い訳をし、立ちすくむのは御自由であるが、もし、彼らが社会の変革(革命)を語り、求めようとするのであれば、今なすべきことは最もそれを必要とする人々の中に入って、あるいは 想いを寄せて活動すべきではないか、と思うのは私だけではあるまい。
言うまでもなく、それは支配層の対極におかれている人々、言いかえるならば、社会的弱者の要求を掘り起こし擁護して活動することである。そうすることによって、この社会の「病根」がよりはっきりと見えてくるし、主体的力量の蓄積の展望も開けてくる。
確かに敵の支配の網は社会全体に張り巡らされているが、その全てが強固で如何ともし難いというものでもない。如何ともし難くなってきているのは資本主義体制であろう。深刻化するばかりの不況と小泉内閣のパフォーマンス政治の有様はその証左のひとつである。
私たちは、日々闘いを挑み、それを堅持して一つひとつ勝利することによって、敵の支配網の弱い所から食い破っていかなければならないし、そうすることによって人々を励まし、主体的力量を高め、蓄積していく活路を切り開いていくことができるのである。
振り返ってみれば、私たちは日本の労働組合運動が右翼的再編の流れに飲み込まれていく時、これに抗する陣形をどこに、どのように築き、日本労働運動の階級的再建を勝ち取っていくのか真剣に悩み、考えた。それは同時に、経験の浅い私たちにも戦後労働運動の総括を迫るものであった。批判することはたやすいが、それを克服する道筋を明らかにし、実践することは難しいし、時間もかかる。
私たちは、「下層未組織労働者の組織化」を目指すことにした。それは、日本経済が高度成長期を経る中で労働者の差別化が進むことによって労働者の構成も変化し、下層の労働者の圧倒的多数は労働組合運動の埒外におかれており、そのことが同時に、労働条件の低下と労働組合の弱体化をも招く要因にもなっている、との認識によるものであった。
下層の労働者に依拠し、彼らと共に闘い、彼らと共に日本労働運動の階級的再建をはかり、社会変革の事業に参加する。これが以来の行動の指針であった。他の人びとだけに任せておくわけにはいかない。私もこの仕事に取り組むことにした。倒産も失業も出向も体験したし、数々の争議も弾圧も経験し、職場闘争も組合作りも取り組んだ。団結も知ったし、裏切りも知った。成功も数多くの失敗もした。
そして今、私は地域ユニオンの活動で我が身を忙しくしている。
私が地域ユニオンの立ち上げに参加したのは、長期不況の中で生活を脅かされ、人権を蹂躙されながらも労働組合に組織されず、疎外されている多くの下層労働者の役に立ちたいと思ったからであり、これまでの経験を生かしさらに前進できればと考えたからである。
一般に地域ユニオンは「駆け込み寺」と評されるが、この二年間の活動は、まさにそのような実感を持たせるものであった。
ユニオンにやってくる労働者の相談の中身は、緊急性を要する解雇等に関する相談が圧倒的に多く、深刻なものも少なくない。まさに時代状況をみごとに反映しており、私たちの運動が求められているものだと確信を深めながら活動する日々となっている。
私たちのユニオンにおける労働相談の最近の特徴は、地域における知名度が一定程度できたこともあって、さまざまなルートを通じて紹介された相談が増えていることである。と同時にそれは、私たちのユニオンが最後にたどり着いた相談場所、解決場所であることが多いのである。したがって、早期解決を求められる事案を多い時には十件近くも同時並行的に取り組むことになるのである。一件解決したと思ったらすぐに次の相談がやってくる状態であり、闘争は途切れることはない。
当然にも連続する闘争は、私たちを鍛え、多いに学ばせてくれるし、視野も広げてくれる。
先ごろ解決した老人介護施設の闘争では、介護保険の導入が施設の経営を利潤追求に傾斜させ、介護のサービス低下とともに固定費の削減、つまりは介護労働者の大量解雇(退職強要)とパート、派遣労働者採用へと経営者が独善的に走ったことに問題の本質的原因が存在した。
事の発端は退職金の不払いから紛争となり、弁護士等にも相談したが埒があかず、ユニオンに相談が持ち込まれたのである。
彼女たち(女性が圧倒的多数を占めていた)は、当初、労働組合に接するのが初めてということに加え、労働組合について悪いイメージ(巷に伝えられる企業内組合の有り様)を持っていたためにユニオンにも疑心暗鬼の所があったようである。
ところが、経営側が退職金を不払いとした理由を退職金基金への提出書類に「窃盗容疑」としていたことが明らかとなり、警察を導入して団交拒否を行った経営責任者を解任に追い込んだことから、闘争を闘いぬく決意を高めていった。
以来、約一年間の「初体験だらけ」の闘いが展開されたのである。
連絡網を作り、定期的な会議と学習、調査活動とオルグ活動。社会的包囲網をつくって敵を孤立させ、必ず勝利を勝ち取るために互いに知恵を出し合い、戸惑いながらも無理の無い行動を積み上げたのである。
結果、職場復帰は果たせなかったものの、皆が笑顔で闘争を振り返ることのできる解決を迎えることができた。
「労基署が労働者の味方じゃないことが良く分かった」
「暑い日のチラシ配りは大変だった。五回やったのかしら、最初は二人で組んでも恐る恐るだったけど、なれたらポストに入れながら、人がいるとこちらから声を掛けたりして。今から思うと楽しかったわね」
 「市役所の交渉は面白かった。本当に役人ってのはどうしようもないですね。県庁の役人もそうだけど、責任を取らないように言うんだよね」
「ユニオンのおかげで働き甲斐のある新しい職場も決まったし、ユニオンさんには本当に感謝してます」
「団結するって本当にいいですね。本当の所、こんなに取れるとは思っていませんでした」
 「丸一年かかったけれど、終わってみれば短かったように感じます。これからもユニオンの組合員で居たいと思います」
 これらは、勝利報告会で彼女らがこもごも語ったことである。うれしい言葉の連続であり、この闘いに関わった人々は皆拍手で応え、ユニオン執行部も確信を深めた。
言い古された言葉であるが、闘いは人を鍛え、変える。ここに私たちのやりがいもあるし、展望もでてくる。このことは強調しておかなければならないが、同時に私は、報告会では彼女らの言葉には表されることがほとんど無かったが、闘いの中で感動したことに触れておきたい。
それは、彼女らが介護という仕事に誇りを持ち続けて闘ってきたことであり、老人に対する豊かな思いやりである。
彼女らの大多数は、年齢、経験に関係なく、再就職先を介護、医療に関連する職場に選び、自己の技能を向上させるために新たな資格取得に挑戦した人もいた。公的介護が喧伝される一方で、人権をおろそかにする劣悪な介護の実態に苦悩してきた彼女らが再び介護労働の職を選ぶことに、単に食を得るための職ではなく、社会の中でやりがいのある仕事につくことに重きを置いていることを知らされた。
 「お年寄りが好きだから」 「誰かがやらなければならない仕事だから」とありきたりの言葉でしか表現されなかったけれども、その表情の中に、多くの労働者が持ち得なくなりつつある自らの仕事への誇りとある種のしたたかさを見て取ることができた。
 この時私は、 「この人たちは裏切らないな」と密かに思い、うれしくなったのである。
また、闘争の中で経営者が地に落ちた施設の評判を取り返すために施設運営を表面的にではあれ「改善」したことに喜ぶ姿を見て、一時は物足りなさとあやうさを感じたのであるが、後に彼女らの豊かな思いやりと気づき恥じ入ったのである。
とかく私たちは、活動家ぶって頭でのみ物事を考え、事を運ぼうとしがちである。勿論、理論に裏打ちされた戦略、戦術は極めて重要であり、強調されてしかるべき事である。だが、それだけではやはり不十分だと思う。
 言うまでもないが「正しい」理論も実践で検証されなければ本当に「正しい」ものとはならない。その検証は活動家だけがするものでもない。
私たちは人びとの琴線に触れる活動をしなければならないと思う。うまくは言えないが、それには、依拠して闘う人々に対する豊かな感性が必要であろう。
またひとつ、かつて学習していたつもりのことを再学習することとなった。今後の活動の中でより確かなものにしていきたいものだと思う。
私たちの地域ユニオンは、限定された地域のひとつの実践に過ぎないが、未組織労働者に頼られ、求められる「駆け込み寺」となり、労働運動の前進のために「しなやかに」運動を進める試みでありたいとあらためて思っている。(太田進)


春闘をめぐる情勢 (上)

 二〇〇二年春闘がはじまった。深化する経済不況の中で、政府・資本は一切の犠牲を労働者・勤労人民に押しつけようとしている。労働者は団結して、今こそ反撃にたちあがるべき時である。しかし、労働組合運動は労資協調路線潮流に牛耳られ、反撃の条件は整っていない。だが、政治、経済、社会のすべての面にわたって危機が醸成されている情勢での春闘で、労働者の不満・要求を組織化し闘う力を蓄積していかなければならない。今春闘では、さまざまな新しい変化・徴候が出てきている。この「春闘をめぐる情勢」では、それらについて明らかにしていきたい。

高失業率・低組織率

 総務省の「労働力調査」(昨年十二月二十八日発表)によると、十一月の完全失業率は五・五%(前月より〇・一ポイント上昇)と三ヶ月連続で過去最悪を更新した。完全失業者は三五〇万人(男性二二一万人、女性一二九万人)で、リストラ・解雇など「非自発」が転職などの「自発」を上回り、また「世帯主」の失業が初めて一〇〇万人を超えた。
 一方、厚生労働省が発表した「二〇〇一年労働組合基礎調査」(十二月十八日発表)では、六月末現在の推定組織率は二〇・七%となり、一九四七年以降での最低記録を更新したことが明かとなった。前年比〇・八ポイントの低下である。労働組合員数は一一二一万二〇〇〇人で、前年に比べて三二万六〇〇〇人(二・八%)減少したが(減少は七年連続)、減少幅は年々拡大している。この五年間を見てみれば、一九九六年(一六万二〇〇〇人減)、九七年(一六万六〇〇〇人減)、九八年(一九万二〇〇〇人減)、九九年(二六万八〇〇〇人減)、二〇〇〇年(二八万六〇〇〇人減)となっている。
 失業の急速な増大に象徴される労働者の生活と権利の侵害、それにもかかわらず労働組合への結集が進まないというところに日本労働運動の現状、連合勢力が労働組合の中軸を抑え込んで闘いを組織しないという「悲劇」的な現実の基盤がある。

高姿勢の経営側

 一月十一日、日経連は臨時総会を開き、春闘に対する資本側の指針となる「労働問題研究委員会報告」を了承した。
 日経連総会で、奥田碩会長は、「経済の動向に比べて賃金の調整は非常に不十分であり、それが総額人件費の負担の重さ、根強い雇用過剰感などの形で、企業経営を苦しめている」として、「今次春季労使交渉において、賃金の引き上げを議論する余地は、ほとんどないと云わざるを得ません……具体的に申し上げれば、企業の競争力という観点からも、ベースアップは論外と言わざるを得ません。さらに、場合によっては、定昇の凍結や、緊急対応的なワークシェアリングも含めて、これまでにない思い切った施策に踏み込むことも議論されるべきではないかと思います」と述べた。また、「構造改革の推進によって危機の打開を―高コスト体質の是正と雇用の維持・創出を―」と副題された「委員会報告」は、今次交渉においては、「雇用の維持・確保」と「総額人件費の抑制」をめざして労使の真剣な取り組みが求められるとしている。二〇〇二年春闘では、経営側は、賃上げは論外、定期昇給も凍結、ワークシェアリング(労働時間の短縮と賃金の切り下げ)という攻撃をかけ、雇用の維持を重視すると言いながら実際はリストラ合理化を一気に進めようとしているのである。

要求を下げる連合労組

 日経連報告の出た同じ日、連合は中央闘争委員会を開き、「コスト削減=国際競争力強化という単純な発想のもとに、企業業績の好不調に関わらず一貫して賃金抑制を続けていることこそが『十年にわたる長期の停滞』の最大の原因なのである。こうした賃金抑制の弊害を無視して、一段とその動きを強めれば、デフレ・スパイラルを加速させることは必至である」として、「連合は、雇用と生活の切り崩しをこれ以上許さないという強い決意で二〇〇二春季生活闘争に臨んでいくとともに、パート労働者等を含めた社会的広がりのある運動を展開することで『春季生活闘争改革』を進めていく」という見解を発表し、当面の方針を決めた。それによると、連合全体の集中回答ゾーンを三月第三週に設定し、今後、回答ゾーン集中化に向けて産別・部門別連絡会で調整を進めるとしている。連合は、この春闘ではじめて統一ベア要求水準を示さないこととした。
 こうした連合方針の下で、連合の主要産別の要求の特徴は、「雇用優先」の名目での「ベア要求見送り」、そして労組側からのワークシェアリングの模索である。
 鉄鋼労連、電機連合、電力総連などははやばやと賃上げを断念した。それらは、せめて賃金カーブの維持(定昇の確保)を求めているのだが、日経連方針は、「定昇の凍結・見直し」のスタンスである。すでに電機大手の労務担当者は「(労資交渉の)スタートラインはマイナスから」と高言している。鉄鋼では、住友金属、神戸製鋼、日新製鋼の経営は賃下げを提案してくると言われる。
 自動車総連、造船重機、私鉄総連、ゼンセン同盟、連合全国一般など賃上げ要求派においても、前年要求の約半額と過去最低の水準だ。(つづく)


国内唯一の炭鉱・太平洋炭鉱の閉山について

一.閉山までの経過

 国内唯一となっていた北海道釧路市の太平洋炭鉱は一月三〇日をもって閉山するとの提案が昨年一二月七日に会社側から太平洋炭鉱労働組合(千葉隆委員長)におこなわれた。提案の主な内容は@一〇六六名の従業員全員の解雇、A協力会社(関連・下請け会社一三社)の契約解除(四七一名の実質解雇)、B退職金(平均八〇〇万円程度)などの支払いと雇用対策の実施などであった。同労働組合は条件付ながら閉山を承認した上で退職金の増額などの条件闘争を行ってきたが、一月一四日第一一三回臨時大会において退職金など要求にほぼ沿う内容を獲得できたとして一月三〇日の閉山に合意することを承認した。
 この閉山に至った要因には、昨年二月の坑内火災発生と会社側による事故隠蔽工作の発覚をきっかけとする長期の採炭停止よる大幅な赤字決算にあるといわれている。しかし最大の原因は、炭鉱の財政を支えていた政府の石炭関連六法(構造調整臨時措置法・雇用安定等に関する臨時措置法・産炭地域振興臨時措置法など)の二〇〇二年三月末での廃止にあり、これは三年前の九九年三月の国会で決定されていたのである。自己資本が乏しく退職金さえも蓄えのない会社側にとっては、殺生与奪権を握られている政府から「公的資金」の注入を途絶されれば閉山は必至であることは当初から明白なことであった。ところが会社側は昨年夏以降、地元紙などに「一五〇〇人の解雇・閉山・新会社構想」等の報道が再三流されても、全て否定することに終始し、年末になってはじめて閉山を認めるありさまであった。
 一方、同炭鉱労組は、なによりも炭鉱の存続を優先することを掲げ、坑内火災による経営危機を乗り切るためとして、昨年八月に給与の二割削減を認めるなど労使協調を推し進めてきた。ところが「二割削減承認」の臨時大会の翌日から一斉に流された「閉山報道」に対して団交の開催や抗議集会を持つわけでもなく、沈黙を守るだけという不可解な態度をとり続けてきた。
 今回の事態の展開は単に閉山だけにとどまらず、会社側が経営責任を放棄する一方で、政府・経済産業省・会社側がそれぞれ自己に都合の良い思惑の下に地元経済界と釧路市などに閉山後の新会社構想を持ちかけてきていることに特徴がある。それは地元経済界を表面に立てて別会社を装いながら、一旦解雇した従業員を五〇〇名程度再雇用するというものである。新会社は主として政府の対外公約でもあるベトナム・中国などを対象とする「海外炭鉱研修生受入事業」について五年間を限度に実施し、その間採炭操業を継続する計画である。
 しかしこの閉山が実施されれば人口一九万の釧路市にとって打撃は大きく、関連人口で六七〇〇名に及ぶ直接的影響が懸念され、大量の失業者の発生と地元商店など地域経済への甚大な被害は避けられない。釧路管内の有効求人倍率(昨年一〇月)は〇・四七であり同期の北海道〇・四九、全国〇・五五という状態の中で、更に一〇〇〇名近くの解雇が強行されようとしている。釧路市では昨年来、再建中の長崎屋釧路店の二月閉店(パート一二五人全員解雇と希望退職募集)、文部科学省よる「全国の大学のトップサーティ推進」の具体化である北海道教育大学釧路校の学生募集停止を含む大幅縮小案の表面化。まるちゃんラーメンで知られている東洋水産の子会社である「釧路東洋」の一〇月工場閉鎖・札幌撤退(パート一六〇人全員解雇と希望退職募集)など、地域全体を揺るがす問題が続出しており、炭鉱の閉山は地域の雇用と経済をかってない厳しい状態に追い込むことになろう。
 太平洋炭鉱は一九二〇年創業から八二年間にわたり操業を続け、累積採炭量は約一億トンに上り、最近の年間出炭量は一五〇万前後であった。また世界的にも数少ない海底炭鉱であり、採炭現場は釧路沖太平洋の海面下約七〇〇bの深さにあるが、直径二b近い回転式のドラムカッターによる機械掘削を主力とし、ベルトコンベアによる輸送及び採炭後の崩落防止の立柱など充填工程に移動式の「自走枠」を採用するなど、国内の炭鉱としては最先端の機械化率を誇っていた。以前は北海道と九州には数多くの炭砿が操業していたが、政府の石油を主とするエネルギー政策により次々と閉山していった。太平洋炭鉱は、九州の池島炭鉱が昨年一一月閉山したあと、国内で唯一の炭鉱として操業していたが、閉山により長年に亘って培われてきた深部坑内掘り技術と熟練労働者が大量に失われようとしている。

二.石炭とエネルギー自給率の連関


 このままでは太平洋炭鉱の閉山で国内における石炭採掘は、海外炭鉱研修生用の暫定的存続(五年)のあとは「完全消滅」という状態となる。
 明治期以降、近代日本資本主義発達に不可欠な位置を占め、一時は「産業の米」「黒いダイヤ」とまでいわれた石炭産業が消滅させられることになりそうである。
 果たして、一般的にいわれるように石炭は現在の日本の生産活動にとって消滅さるべき過去のエネルギーとなってしまったのだろうか。
 最近の日本の一次エネルギー総供給構成において、石炭は主に電力用として一七・七%(九八年)を占めており、原子力の一二・五%、水力の一六・八%に比べても遜色なく、石油の五一・一%に続く位置にあり、決して石炭の需要がなくなっているわけではない。しかし九八年の実績では、国内使用量の九七%以上、実に一億二千万トンを上回る輸入がなされているのである。国内炭が圧倒的に少ない理由はその価格差にあるといわれている。価格対比上では海外炭の四九六〇円に対して、国内炭は一四八一〇円程度であったが、政府・電力業界の圧力などで二〇〇一年度末まで一二〇〇〇円以下(三〇〇〇円強の引下げ)、二〇〇六年度までに一〇〇〇〇円以下(二〇〇〇円強の引下げ)、二〇〇七年度からは内外価格差ゼロとする自由取引開始という強引な合理化要求がここ数年炭鉱に課せられていた。
 主要な資本主義国の一次エネルギー総供給構成(九八年)ではフランス六・一% イギリス一七・九% ドイツ二五・二% アメリカ二四・九%と各国とも石炭をある程度組み込んだエネルギー供給を維持している。石炭はその採掘や輸送・保管コスト・有害な廃棄物の処理コストなど石油に比べエネルギーとしての効率は格段に低いのにも関わらず、主要な資本主義国においてエネルギー供給で一定の率を占めている理由は、エネルギーの対外依存度(とりわけ石油)を低下させ自国のエネルギー供給における安全性を確保する戦略的な狙いがあるものと推測され、決してコストのみを優先しているわけではない。
 また一方で主要各国においては、石炭の効率的利用を目的とした開発が進められている。それはクリーン・コール・テクノロジー(CCT)と呼ばれ、具体的な技術としては微粒炭をガス化してガスタービンを回し、廃熱を利用して蒸気タービンを回す石炭ガス化複合発電、石炭をガス化して改質するジメチルエーテル化や石炭液化などの石炭ハンドリング技術、そして石炭と水に添加剤を混ぜた液化燃料であるコール・ウォーター・ミクスチャーなどがある。
 こうした新しい石炭利用技術開発が推進されている背景には、可採埋蔵量の限界が指摘されつつある石油に代替するエネルギーとして、埋蔵量の豊富な石炭が、近年世界的に有望視されていることがある。
 日本でも国内の炭鉱を閉山に追いやりながら、昨年六月に電力九社と電源開発がクリーンコールパワー研究所を設立し、二〇一〇年代の石炭ガス化複合発電実用化に向け研究を開始しているのである。
 日本のエネルギーの自立と安定供給、更には今後の新たな技術開発に基づいた石炭の高度利用の可能性などからいって、国内において石炭は決して消滅されるべきエネルギーではないことは明らかである。

三、政府・経済産業省の対応

 こうした積極的な石炭の位置付けがある中で政府・経済産業省はこの間、どのよう政策をとってきたのか見てみよう。石炭鉱業審議会による現行石炭政策は「ポスト八次石炭政策」と呼ばれ、国内の石炭産業の殺生与奪を定めてきた。なかでも現在の政策を定めた「現行の石炭政策の円滑な完了に向けての進め方について」(九九年八月答申)は、全編官僚用語の羅列でその真意を覆い隠そうとしているが本音はいやでも透けて見えてくる内容となっている。どだい表題からして「石炭産業消滅の進め方」というべきものである。いわく一―一.現行石炭政策の基本的な考え方においては、「我が国の石炭政策は、約四〇年の間…石炭鉱業の生産規模の縮小と稼行炭鉱の徹底した合理化を図ってきた…歴史であると考えられる」「九〇年代を構造調整の最終段階と位置付け…国内炭生産の段階的縮小を図ることとし、…我が国における石炭産業の最終的な姿を実現していくことを目標とするものである。」とし、あからさまに支援策の打ち切りを持ち出している。ところが二―二.我が国の石炭需給について、では「石炭は供給安定性の高さ及び経済的な優位性から中核的石油代替エネルギー」とし「電力業者は、…石炭火力への依存度が更に増加するという見通しを立てており…」「…世界の石炭市場の動向を見ると中長期的に需要の増加が見込まれており、…世界の石炭需要が現状よりタイトとなる可能性が否めない」とまでいっているのである。将来的には需要逼迫との認識を示しながら答申の解決策は日本の石炭資源の利用ではなく、次のようなものとすり替わるのである。「九七%を海外からの輸入に依存しているという我が国の特異な状況にかんがみれば、国際規模での石炭の安定供給を図ることは、依然として重要な課題であると認識すべきである」あきれたことに圧倒的な輸入を「特異な状況」とまで認めていながら自らの石炭資源を省みることもなく、平然と海外炭への依存を公言して憚らないのである。
 また三―二では、「オーストラリア、中国等、我が国が海外炭の多くを依存するアジア・太平洋地域を中心とした産炭国においては、……採掘環境が悪化することが見込まれており…炭鉱技術の大幅な高度化が必須である」「…直面する技術的課題を克服できず生産能力に影響が生じる場合には、…石炭需給のタイト化を招き、ひいては我が国の石炭安定供給にも影響を及ぼしかねない…」よって「所要の技術協力を行うことが可能となれば、結果として海外炭安定供給に寄与すると考えられ……国内炭鉱の役割を評価する余地が残されている」として「海外技術協力だけ」のために炭鉱を残す「余地」があるというのである。
 こうした結論として四―二.炭鉱労働者雇用対策の円滑な完了に向けての今後の進め方についてでは、「国の石炭鉱業構造調整対策と…これを円滑に推進する観点から講じられてきた炭鉱労働者の雇用に係わる特別な対策も……平成一三年度をもって終了するのが適当である」としており、三年前から今日の事態は予定通りの計画として進められてきたのである。
 この答申をみても政府・経済産業省・電力業界は、こぞって石炭のエネルギーとしての重要性を認めながら、農業と同様に生産性の低い産業を犠牲にして高付加価値の輸出産業など「勝ち組」のみを優遇する政策路線を採り続け、国内炭の完全消滅を推し進めているのである

四.コスト・効率優先の閉山を許すな!

 今回の閉山は、政府・支配階級の既定路線であるだけでなく、国際的な競争激化に対応できる一部の多国籍化した独占資本の利益を図ることを目指し、その為にはコスト・効率のみを優先して、国内の不採算部門の容赦ない切り捨てを厭わない小泉政権の下で強行されていることに注目しなければならない。小泉政権の「構造改革」とは、「政治・軍事大国化への改革」でありその「痛み」は「雇用破壊」であることだ。雇用破壊を優先してセイフティーネット対策が全くないことこそ小泉改革の核心である。太平洋炭鉱閉山もその典型的な表れということが出来る。この「閉山」で太平洋炭鉱の労資・地元経済界・自治体等は踊らされているのであり、そのシナリオは政府が自らの責任を回避するように描いていることを見抜く必要がある。
 閉山後、地元資本による新会社「釧路コールマイン」は一五三七人の解雇者の中から五四七名を再雇用するといわれている。それに対し地元自治体や太平洋炭鉱労組及び自民党・民主党そしてマスコミ各社などは「雇用の確保の実現」と大いに賞賛をしている。しかし実態はどうであろう。
 新会社構想の第一の問題は、政府の対外公約である五年を限度とした「海外炭鉱研修生受入事業」を目的とした経営でしかないことである。新会社が採炭する浅い坑道の埋蔵量は三五〇万トン(炭量の多い深部坑道は密閉)とされ、年間七〇万トンの採炭予定では五年で終了し「初めから終わりが見えている」(地元経済人)といわれている。そのため再雇用されたとしても原則一年毎の雇用更新と期間は三年としている。雇用期間が短い理由は、三年後に坑道掘進が終了し、その後は石炭の搬出や石炭の粉砕作業だけとなり一〇〇人程度の合理化を行うためという。
 給与は坑内作業員で年齢に関係なく一律月額二六万円、年収で約四四〇万円。賞与や退職金制度は一切なしでこれまでの社員の平均年収の三割減という条件である。
 第二の問題としては地元資本が表面に出て新会社を設立する理由が、政府、北海道、釧路市が出資して積み立てている基金目当てであることだ。産炭地振興のために、政府などから出資された資金をプールして現在「釧路産炭地域総合発展機構」の基金として一〇〇億円近く蓄えられているが、本来は閉山による雇用の受け皿となる「新産業」育成を目的としたものである。太平洋炭鉱が規模縮小ではなく閉山し新会社としたのは、この基金を流用するためであり「偽装倒産」とさえ囁かれている。そしてこの基金を使い切ったあとは、再度倒産が待ち受けているのである。こうしたことから「新会社構想」はかっての「国鉄民営化=JR新会社」方式の「炭鉱版」あり、「雇用の確保」「地元経済界の英断」などと美化されるものでは決してない。
 悪条件の新会社の再雇用が実現しても、なお一〇〇〇名近くに及ぶ解雇者が存在する事実は、重く残っているのである。
 雇用に対する太平洋炭鉱労働組合の対応は、まったく鈍い動きとしか見えない。閉山承認の鍵を握る条件闘争においても新会社の他は関連会社への一〇〇名程度の受入のみという会社案を認めてしまっている。退職金の増額に以上に必要な雇用に対する会社側と政府への責任追及や、関連下請け会社労働者の退職金と雇用への取り組みはほとんどみられることがなかった。
 同労組のこうした対応の背景には、政府からの長年の補助金に頼り切ってきた炭鉱経営の中で、労資とも「官」への依存体質を強め「労資協調」を積み重ねてきた歴史がある。「坑内では何億円もする機械を一年足らずでほったらかしにする会社。他の企業では考えられない。国に頼りすぎた甘えが倒産につながった」(一・一七釧路新聞 坑内員談)それを黙認してきた労組の責任もまた免れないといえよう。そして労働組合として雇用条件面で劣悪な下請け労働者に対する日頃からの対応が、「本工主義」そのものであったことも問わなければならない。
 こうした太平洋炭鉱の「官」依存の経営体質と「労資協調」「本工主義」の労働組合に無批判なまま、日本共産党のように単に「自国の石炭エネルギーを守れ」とか「政府へのこれまで通りの補助金要求」だけを叫んでもすでに限界に達した現状温存でしかない。
 今回の閉山から学ぶことは、どんなに困難であっても下請け労働者や地域の労働者・住民の信頼を得る労働と労働運動に取り組み、経営側との真摯な攻防を積み重ねて、政府・支配階級の責任を地域的全国的に追求する闘いを構築する努力を続ける以外ないということである。(釧路通信員)


映画

Kandahar

モフセン・マフマルバフ監督作品 / 主人公ナファス(ニルファー・パズィラ) / 医師サヒブ(ハッサン・タイタン)

 現在最も注目されている映画のひとつ「カンダハール」。物語は、主人公ナファス役のニルファー・パズィラに実際に届いた手紙が発端である。彼女は、八九年、一六才のときにアフガニスタンを出国し、現在カナダに住む人権問題を中心としたジャーナリストである。そこへカブールに住む友人から、自殺をするという絶望的な手紙を受け取る。彼女はその手紙をもってイランのマフマルバフ監督を訪ねた。試行錯誤の上、主人公ナファスが自殺を予告する妹をカンダハールに訪ねる旅というフィクションとして映像化された。

 ナファスの旅は、赤十字のヘリコプターでイラン国境にあるアフガン難民キャンプへ降りるところから始まる。
 難民キャンプでは帰国する家族の少女たちに、最後の授業として人形爆弾の危険を教えている。その家族の一つに頼みこんで、第四夫人として彼女はカンダハールへ向かおうと
する。ナファスは初めてブルカをかぶり、顔の部分を覆う編み目から外界をみる。
 派手に装飾したオート三輪に二〇余名ほどの家族が乗り込み国境に向かう。砂漠を進むうち、盗賊に襲われ家族は帰国を断念して難民キャンプへ戻る。ナファスは一人になってしまい、村の墓地で、神学校を放り出され飢えに直面してる少年ハクに会う。ハクをガイドとして雇って旅を続ける。ブルカをたくしあげて洗濯をしている女たちが囲んでいる井戸の水を飲み、体調をこわしたナファスは、旅の途中で村の診療所に行く。診療所の医師は、ソ連と戦うためにアメリカから来たブラック・ムスリムでサヒブと名のった。
 サヒブはハクが金のためなら何でもするから危険だとナファスに忠告し、赤十字のキャンプまで彼女を送り、さらなるガイドを探す手助けをしてくれる。キャンプには人びとが
詰めかけ、地雷で足をなくした被害の大きさと、なおも生きていくことの現実を見せつけられる。ナファスはここで出会ったハヤトと名乗る片手を切り落とされた男を雇う。砂漠に突然表れるさまざまな色のブルカの集団。ナファスはハヤトとともに婚礼の集団に紛れて進む。途中、厳しい検問にあうなどするがナファスの旅はなおも続けられる。

 映画は、ナファスの旅を借りてアフガニスタンの民衆がおかれている困難と生活がみごとにつめこまれている。しかし映像は美しい。意外性もユーモアもしたたかさも備えている。女性が男性の医者に診察をうける場面は文化の違いとはいえ衝撃的だ。ブルカの中からは手品のようにいろいろなものが出てくる。女性たちは化粧も好きなようだし、生活に荒れた手にマニキュアを塗り、たくさんの腕輪をはめている。登場人物のナファスは呼吸を、ハクは土を、ハヤトは人生を意味する言葉だという。サヒブ役のハッサン・タイタンがアメリカ政府によってテロ犯人とされるなど話題の多い映画でもある。
 アフガニスタンへの想像力をもちたい方は必見の映像といえる。東京上映の後、松本・名古屋・福岡・札幌・静岡などをはじめ全国で上映が予定されている。

 「アフガニスタンは、何年もの間、空からは人びとの頭上に爆弾が降り注ぎ、地には人びとの足元に地雷が埋められてきた国です。アフガニスタンは、人びとが自分たちの政府によって、毎日のように路上でむち打たれている国です。アフガニスタンは、逃げ場のない難民たちが、その隣人たちに追い出されている国です。アフガニスタンは、干ばつによって人びとが飢えと渇きに苦しみながら死に向かわされている国です。世界のどこよりも、この国では神の名が語られるというのに、この国は神にさえ見放されているかのようです。」(二〇〇一年ユネスコ『フェデリコ・フェリーニ』メダル賞記念、監督スピーチの一部)

 日本上映の初日にイランで映画制作を続けてきたマフマルバフ監督は「この映画が多くの日本のみなさんに見てもらえるよう、そしてアフガニスタンの現実を知ってほしい」と
話した。

 主演のニルファー・パズィラさんは上映を前に来日し、アフガニスタンとそこに生きる女性の実情について様々に語った。
そのなかでタリバンは悪、北部同盟は善という風潮に対して「ロシア人がアフガニスタンにいた時、西側の援助を受けた兵士は自由の兵士だった。ロシアが去った後、北部同盟は内戦を繰り返した。タリバンは食べ物を与えたので、人びとは生きていくためにタリバンの軍人になった。北部同盟がまた来て食べられれば、人びとは北部同盟になる。民衆にとってはどちらも戦争と抑圧の勢力だ」と述べた。
また女性の状況について「女性への暴力、レイプ、抑圧はタリバンの来る前からあった。タリバンは地方の習慣であるブルカを女性に強制し、男性にはヒゲを強制した。アフガニスタンでは女性が無視され大切にされていない状態が問題なのであり、宗教が問題なのではない」と語った。
またブルカについて「撮影で初めてブルカをつけた時には圧迫を感じ、すぐ脱ぎ捨てたかった。しかし、治安状態の悪い地域で撮影していたら身を隠す安心感をブルカに覚えた。アフガニスタンのような危険な状態や、田舎から都市に出てきた女性たちにとってブルカの果たす役割がわかる。これは危険が大きすぎるなかでの偽りの安心なのだ」と。
 さらに日本への希望として「かつてアフガニスタンの憲法には女性の参政権があったが、当時は識字率がわずか二%で権利を生かせなかった。今後なによりも教育のための資金が欲しい。学校を建てるのではなく、アフガニスタンで今すぐ生かせるようなきめ細かな援助を期待する」と述べた。(Y)


学校の荒廃がますます進む -- 新たな人事考課制度導入の動きなど

                                      
佐山 新

憲法改悪に連動する教育基本法改悪の動き

 昨年一一月、文部科学相は「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方」について中央教育審議会に諮問した。
 諮問理由には、「これほど独善と愚策に終始した論議が他にあっただろうか」(佐藤学)と多くの真面目に教育を考える人びとを呆れ憤らせた「教育改革国民会議」の報告書を受け、「社会的規範を尊重する精神を養い、人間性豊かな日本人を育成」「日本人としての自覚を持ちつつ人類に貢献するということからも、我が国の伝統、文化など次代の日本人に継承すべきものを尊重し、発展させていく」「宗教教育について―略―宗教的な情操をはぐくむという観点から議論する必要がある」等々と書いている。ねらいが奴隷根性の「皇民」育成にあることが透けて見える。文部科学省は一年程度で答申を出させるつもりのようだ。一定の時期に中間報告を出すかもしれないという。
憲法改悪の動きと表裏のものとして監視していく必要がある。

ウタのためなら人殺しもする

 しかしながら、憲法と同様に教育基本法についてもこれを踏みにじる実質改悪の実績が現場では積み重ねられている。典型的には「日の丸・君が代」強制の実態がそうだ。
 雑誌『世界』に野田正彰が「させられる教育、途絶する教師」を連載しているが、如何に無法なやり口が学校現場で罷り通っているかを知るには、これを一読すれば十分だろう。
九九年二月に自殺に追い込まれた広島世羅高校の校長を扱った第二回(〇一年十二月号)のタイトルは「命を吸って唱われる歌」である。よってたかって一人の真摯な校長を「殺した」経緯が報告されている。

今、学校では

 この連載の第四回(〇二年二月号)で、「全国学校労働者組合連絡会」が紹介されている。全国一七の非日教組・全教の「ミニミニ教職員組合」の連絡組織である。ここの機関紙の「SOMETIME」〇二年一月号を見ると、全国の学校を取り巻く状況が垣間見える。
 山梨県では、県教組が「主任手当拠出」運動を取り止めた。
 千葉では、学校労働者合同組合の渡壁書記長が「校長を車ではねる」というセンセーショナルなでっちあげ傷害事件で不当逮捕され、面会すら禁止された拘留が八ヵ月以上続いている。
 東京都教委は、校長・教頭に次ぐ校内第三管理職としての「主幹制度」を〇三年度から導入しようと図っている。
 春日井市、北九州市では、不当な教委の措置に対して裁判闘争を闘い、一審勝訴を勝ち取った。
 この四月からの学校完全五日制・新指導要領実施に向けて、名古屋では市教委が「持ち時間は増えるが勤務時間は変わらない、労働強化ではない、しかし仕事の密度は濃くなるだろう」と珍妙なことを言っている。
 横浜では「教育の市場化に対する反グローバリズム運動の視点」を課題として講演学習会を行った。

各地で新たな人事考課制度導入の動き

 同紙によれば、大阪では、府教委が「教職員資質向上委員会」を設け、人材育成システムの検討が行われ、業績・能力・態度をそれぞれ五段階評価するという新評価システム案が出されている。
 埼玉でも、「目標管理による手法を取り入れた自己申告制度」の導入が、取り合えずは校長・教頭を対象にこの四月から開始され、いずれ一般教員にも広げられる見通しである。
 民間企業の「成績主義・能力主義」の人事管理手法を、そのマイナスが顕在化して一部に見直しの動きがでてきている今になって学校現場に持ち込もうとする動きは、大阪、埼玉だけでなく、神奈川でも進んでいる。いずれも東京ですでに導入された教員人事考課制度に触発され、これをお手本にしている。無
論文部科学省の後押しもある。
 神奈川では、学識経験者による研究会が昨年九月に「教職員の人事評価のあり方について」という報告書を出した。大阪同様「目標管理制度」による人事評価を行う、そしてその結果を人事異動や給与に連動させる、というのが眼目である。「積極的な取組を行っている教職員の功績をたたえる表彰制度の創設」「教育委員会による表彰はをもとより、校長や保護者、児童、生徒による表彰など」も検討すべき、という馬鹿馬鹿しい提言もある。
 この報告書をもとに現在その具体案が練られつつあり、この四月にも試行開始されようとしている。
 声高な「不適格教員排除」の動きとあわせ、教員はがんじがらめの管理の網に追い込まれようとしている。それは改悪教育基本法の受皿としての職場体制を準備することであり、学校の全き荒廃をもたらすものだ。


複眼単眼

マスコミがあおり立てる戦争 報道の頽廃


 アフガン戦争でマスコミが果たしている役割については、少なからぬ人びとが問題を指摘している。たしかに「ジャーナリズムは滅びたのか」との嘆きもあたらないとは言えない状況だ。
 NHKの某ワシントン支局長などは、九・一一以来、連日、アメリカ当局が垂れ流す情報を、大本営発表よろしくそのまま自らの発言に変えて流しつづけた。
 九・一一の衝撃的な事件は多くの人びとをニュースに釘づけにした。それだけにこの時期、テレビの果たした役割は決定的だった。この支局長氏には彼の独自の取材や情報の検証などを重視する姿勢は全く見られないのに、確信に満ちた語り口で情報を伝えてくる。
 最近、アフガニスタンの前線での取材から戻ってきたあるジャーナリストに会って、話をする機会があった。いろいろな話を聞いた。
 彼は戦場で外国のジャーナリストが果たす役割が大きく変わってしまったことを嘆いていた。かつて少なからぬ記者たちは戦場で危険に身をさらしながらも、戦争の実態を世界の人々に伝え、戦争を批判してきた。実際、ベトナムでナパーム弾に焼かれて逃げ惑う少女の一枚の写真、がアメリカの反戦の世論と運動の高まりに大きく貢献したことがあるのを、私たちは記憶している。あるいはソンミでの米軍の虐殺を暴き、告発し、首謀者を裁判にかける上で、記者たちは大きな役割を果たした。
 戦場にこうした記者がいること自体が、軍隊による虐殺や、人権侵害をある程度抑止するという役割を果たしてきた。しかし、ベトナム戦争時と湾岸戦争以来ではこの部分がまったく変わってしまったのではないかと彼は言う。「油まみれの水鳥」の話は有名だ。アメリカ軍当局のねらいとセンセーショナルな映像を追いかける商業マスコミのねらいが合致して「イラクの無謀な油田破壊によって苦しむ水鳥」の写真が作られたのだった。
 編集部からは戦場にいる記者たちに、あらかじめ想定されたシナリオにそって記事や写真が要求される。戦場では前線の部隊との緊張関係を失って癒着する記者たちが、カネを払って、砲撃の演出をしてもらう。シャッターチャンスを逃せば「すみません、もう一回、撃ってください」とまで言う。その先にはタリバン派であれ、何派であれ生身の人間がいるというのに、と彼は怒る。アフガンの戦場の写真のほとんどがこうしたヤラセだと言っても間違いではないそうだ。マスコミが煽り立てる戦争だ。(T)