人民新報 ・ 第1056号<統合149> (2002年4月15日)
  
                                目次

● 明らかにされた超憲的立法策動 有事(戦時)関連三法を許さない行動をただちに

● 市民と航空・海員などの労働者 有事法制抗議の国会前行動

● シャロンは虐殺をやめろ! イスラエル大使館に怒りの抗議行動

● 宗派・教派の違いを超えて宗教者が反改憲の新ネット結成

● 有事法制反対、憲法を生かす 意見広告賛同者を募集

● マルクスの「過渡期社会」像の検討 @ マルクスとエンゲルス 過渡期論

● 書籍紹介 / 樋口篤三 「めしと魂と相互扶助」

● パンフ紹介 / 「東海地震と浜岡原発事故」(たんぽぽ舎)

● 複眼単眼 / 石原慎太郎に辻元氏の「法律認識」を罵倒する資格なし



明らかにされた超憲的立法策動

   
有事(戦時)関連三法を許さない行動をただちに

 四月八日、政府は「有事(戦時)法制関連三法案要綱案を与党に示した。これは憲法と安保問題での「戦後史を画する」ほどの悪法であり、自衛隊と米軍が行う戦争とその準備にたする「国民総動員法案」の様相をおびた戦争法案要綱だ。
 法案は「武力攻撃事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律案」「安全保障会議設置法改正案」「自衛隊法改正案」の「有事(戦時)関連」三法案で、政府は四月十六日にも閣議決定し、国会に提出する準備をすすめている。
 有事法制の包括的な方針を定めた「武力攻撃事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律案」は、政府によって略称「平和安全法」などと呼ばれているが、内容を見れば戦争危険法そのものだ。

平和安全法案なるペテン


 この法案要綱ではまず「定義」の項で「武力攻撃事態」とは「武力攻撃(武力攻撃の恐れのある場合を含む)が発生した事態又は事態が緊迫し、武力攻撃が予想されるに至った事態をいう」とされ、対象が「恐れのある場合」まで拡大されている問題がある。
 法案要綱の「対処措置」の項では、こうした事態における「(自衛隊及び米軍の)行動が円滑かつ効果的に行われるために実施する物品、施設又は役務の提供その他の措置」と定め、自衛隊と米軍の戦争に全面的な協力を規定した。
 法案要綱の「国の責務」の項で「国は……組織及び機能のすべてを挙げて、武力攻撃事態に対処するとともに、国全体として万全の措置が講じられるようにする責務」を確認し、「地方公共団体」の項では、「武力攻撃事態への対処に関し、必要な措置を実施する責務を有すること」とされ、「指定公共機関」の項では「国及び地方公共団体その他の機関と相互に協力し……必要な措置を実施する責務を有するとされている。
 「国及び地方公共団体」も問題だが、この「指定公共機関」とは法案要綱の「定義」によれば「独立行政法人、日本銀行、日本赤十字社、日本放送協会その他の公共的機関及び電気、ガス、輸送、通信その他の公益的事業を営む法人で、政令で定めるもの」とされている。「その他の公益的事業を営む法人」と規定することで、社会生活のあらゆる分野を含む規定となっている。
 さらに問題なのは「基本理念」の項で、「武力攻撃事態への対処においては、日本国憲法の保障する国民の自由と権利が尊重され、これに制限が加えられる場合においては、その制限は武力攻撃事態に対処するため必要最小限のものであり、かつ、公正かつ適性な手続の下に行われなければならないこと」として、日本国憲法十一条が「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」とした条項を制限した。「必要最小限」などという言い訳がついているが、これが憲法違反であることは明白だ。
 国会との関係では「対処基本方針」策定の事前承認は必要なしとされ、「防衛出動」は原則事前承認だが、緊急時は命令発出後ただちに国会承認を得ればよいという、事実上の事後承認方式にされ、首相の権限で発令が可能にされた。
 法案要綱では首相に強大な権限が付与された。閣議にかけて臨時に内閣に武力攻撃事態対策本部を設置する。本部長は内閣総理大臣で対策本部長は「指定行政機関、関係する地方公共団体及び関係する指定公共機関が実施する対処措置に関する総合調整を行うことができる」と規定した。この首相の「総合調整」の名による強制を、みせかけの緩和措置、「総合調整に関し、対策本部長に対して意見を申し出ることができる」という規定でごまかそうとしているが、次の条項で全く意味をなさないことがわかる。「内閣総理大臣は……総合調整に基づく所要の措置が実施されないときは……当該地方公共団体又は指定公共機関が実施すべき対処措置を実施し、又は実施させることができる」という代理執行と強制の規定だ。
 「自衛隊法改正案」では、すでに指摘されてきたように、一〇三条の規定との関連で作戦に際して「当該立木等を移転処分」「家屋の形状変更」「展開予定地域での施設構築」「緊急通行権」など私権の制限を具体的に規定している。
 さらに問題なことは「取扱物資の保管命令に従わなかった者等に対する罰則」として、「隠匿し、毀棄し、又は搬出した者は六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金」「立ち入り検査を拒み、妨げ、若しくは忌避し、又は同条の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をした者は、二十万円以下の罰金」を規定していることだ。
 「安全保障会議設置法改正案」はすでに指摘した首相の強権とあわせて「安保会議」を強化するために事態対処専門機関を置くとして、委員長には官房長官をあてることとした。
 これらの問題点を見ただけでもまさに戦争法だ。このような悪法の成立を許してはならない。


市民と航空・海員などの労働者 有事法制抗議の国会前行動

 四月三日正午、国会の議員会館前の路上に約六百人の市民や宗教者、労働組合員らが集まり「STOP!有事法制、4・3国会行動」をくりひろげた。
 この日の行動をよびかけたのは日本山妙法寺、キリスト者平和ネット、陸海空港湾労組二〇団体の三者。
 集会では日本山妙法寺の武田隆雄さんが呼び掛け団体を代表して挨拶したのにつづき、各界のさまざまな市民・労働団体の代表や国会議員から挨拶があり、最後は「命(ぬち)どぅ宝、命こそ宝」のコールと「有事法制ノー、平和憲法を守れ」のウェーブがくり返された。
 発言をしたのは国会議員では島袋宗康参議院議員、穀田恵二衆議院議員、川田悦子衆議院議員。各団体では「許すな!憲法改悪・市民連絡会」「キリスト者平和ネット」「一坪反戦地主会関東ブロック」「日本消費者連盟」「日本キリスト教協議会」「国際婦人年日本連絡会」などの市民団体と、全日本海員組合、航空安全会議、全労協、全 国港湾、医労連などの労組関係の人びと。
 この日の行動は以下の諸団体で呼びかけ三団体の運動を担う事務局が作られている。
いま日本山妙法寺、平和を実現するキリスト者ネット、陸海空港湾労組二〇団体、テロにも報復戦争にも反対市民緊急行動、沖縄一坪反戦地主会関東ブロック、法曹四団体、CHANCE、日本平和委員会、全労連、全労協、MICなどが協議を重ねている。
 この四・三国会行動は、広範な団体が共同して政府の有事法制国会提出の動きに先駆けて反撃する有意義な行動だった。三者が呼びかけたこの統一行動のパターンは、五万人が参加した九九年の新ガイドラインに反対する五・二一行動(明治公園)の枠組みの復活でもあるが、市民団体の結集など幅は当時より広がっている。
また何よりも政府の法案提出の動きに先立って準備されている点で当時よりすぐれた行動と言える。新ガイドライン時の集会は、法案の国会強行採決が目前に迫った時であり、遅きに失した感がある。
今回は四月一九日には一万人規模の日比谷公会堂での集会が 準備され、さらに五月の大集会が展望されて、四・一九集会は「パート1」と呼ばれていることに特徴がある。
 これらの広範な統一行動を発展させながら、国会を軸にした政治闘争の高揚をはかり、あわせて全国各地の地域や職場で署名運動や地域集会など、有事法制に反撃する声を浸透させていくことが勝利するための大きな課題になっている。


シャロンは虐殺をやめろ! イスラエル大使館に怒りの抗議行動

 四月五日正午、イスラエルのパレスチナ軍事侵攻に抗議するための大使館緊急行動が行われた。この日の抗議行動を呼びかけたのは「新しい反安保実」などの市民運動。イスラエル大使館抗議行動はこのところさまざまな市民団体によって連日のように取り組まれている。
 千代田区麹町の駐日イスラエル大使館の前の通路は警察機動隊によって封鎖されたが、参加した五〇人ほどの市民とアラブ地域から来て日本で働いている人びとなどが、抗議行動を行った。大使館は抗議団の再三の呼び掛けにもかかわらず、一切、対応しなかった。
 参加者はそれぞれ手製のメッセージ・ボードや横断幕などをかかげて、日本
語、英語、ヘブライ語で「占領をやめろ、STOP THE OCCUPATION、DAI LE KI BUSH」のシュプレヒコールを響かせた。
 最後に大使館への「申し入れ書」を読み上げ、大使館のポストに投函した。

 「申し入れ書」は以下のとおり。

申し入れ書

  駐日イスラエル大使 イツハク・リオール様
―そして同時に、イスラエルの人々に呼びかける―

 イスラエル軍がパレスチナの各地、各都市への軍事侵攻を開始してから一週間が経ちました。そのイスラエル軍の砲爆撃によって、 多数のパレスチナ人の生命が奪われ、生活の場が破壊されています。
 三月二九日未明、イスラエル軍は戦車部隊でラーマッラーに侵攻、 パレスチナ暫定自治政府施設を包囲して、自治政府のアラファート大統領を監禁状態に置きました。さらに同日朝、イスラエル政府は、アラファートを「敵」と見なして外部との接触ができないよう「隔離」する方針を決めたと報じられています。首相シャロンは、これを「テロ組織を破壊する」ための行動とし、また米ブッシュは「イスラエルが自衛する必要があるのは十分理解できる」とし、アラファートに対してテロ阻止のため一層の努力を求めたとも伝えられています。軍事部隊で包囲・隔離した相手に銃口を向けながら「テロを止めさせろ」と求め、一方で、そのような軍事行動が自衛のためであるなどというのは、全くばかげた話です。
 イスラエルがパレスチナの軍事占領を続け、その民衆への弾圧を強めながら、さらに虐殺戦争を継続することが、そのようなイスラエル軍の軍事力の行使こそが、パレスチナ民衆の怒りと憎しみを強め、自爆テロを生み出しているのです。軍事力で平和や安全を実現するということは、できません。
 今、イスラエル国内においても、「イスラエルの占領が、私たち皆を殺し続けている!」として、軍事占領と戦争に反対する人々が声をあげています。欧米各地から、また日本からも人々が参加した「国際連帯運動(ISM)」の人々が、イスラエル軍戦車部隊の前に立ち、その侵攻を止めようとしています。そのような人々と共に行動するイスラエル人たちがいます。しかしイスラエル軍は、こうした人々に対して、また救急車や医療従事者たちに対しても発砲し、多数の死者や負傷者が出ています。
 二〇〇〇年九月末から開始されたとされる「アル=アクサーのインティファーダ」以降の一年半の間に一五〇〇人以上のパレスチナ人とイスラエル人が殺されました。こんなことは、もう止めるべきです。
 そのためには、まずもってイスラエルは全ての占領地から撤退すべきであり、またイスラエル政府はシオニズムという人種差別的なイデオロギーと軍事主義に基づく政策を根本的に変えるべきです。 また、イスラエルの人々は、シャロン政権と軍が行っている戦争と虐殺に抗議する声を強め、さらにパレスチナの人々との共存を目指して、民衆レベルでの対話や具体的な取り組みを早急に開始しなければなりません。以上のように考える私たちは、以下を申し入れます。
(1)イスラエルは、現在の対パレスチナ戦争を、直ちに停止せよ。
(2)イスラエルは、国連決議に基づいて、その全ての占領地から直ちに撤退せよ。
(3)イスラエルの人々が、パレスチナの人々との間での具体的な共存を目指して直接対話を開始することを強く求めるとともに、そのような民衆レベルでの取り組みに、私たちは連帯する。


宗派・教派の違いを超えて宗教者が反改憲の新ネット結成 
 
 有事(戦時)法制と改憲の危機が高まるなかで、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒などさまざまな宗教者たちが宗派を超えて、あらたに平和運動の組織を結成した。 四月二日午後六時から都内で「いのちの尊厳を守り、平和憲法を堅持する−わたしたちは祈りつつ、行動します」というスローガンのもとに「平和をつくりだす宗教者ネット」(宗教者ネット)が結成され、会場には一〇〇名の人びとが参加した。参加者は集会後、ペンライトなどを掲げて平和行進をした。
 開会の挨拶は武田隆雄さん(日本山妙法寺僧侶・宗教者ネット世話人)が行
い、「戦争へ戦争へ、暴力へ暴力へと向う世界の動きをくいとめたい。宗派・教派の違いを超えて、平和を祈り、行動するためのネットワークとして出発する」と発言した。
 その後、各教派の発言があった。石井英雄さん(法華仏教国際交流協会会長・日蓮宗僧侶・宗教者ネット世話人)、鈴木徹衆さん(日本宗教者平和協議会理事長・真宗大谷派僧侶)、茂田真澄さん(アユース仏教国際協力ネットワーク理事長・浄土宗僧侶・宗教者ネット世話人)、アキール・シディギさん(モスク「マスジド大塚」事務局長)、鈴木怜子さん(日本キリスト教協議会議長)らがつぎつぎに発言した。
 石井英雄さんは「政府は暴力による偽善の平和を作ろうとする勢力に加担している。本来、日本国は憲法前文が示すような国になりたかったはずだ。九条改憲の動きが強まる中で、いまいちど前文を噛みしめてみたい」と述べた。
 茂田真澄さんは「テロに心が痛んだが、アフガンではそれ以上の方が死んだ。アメリカ人への補償は二億四千万円、アフガン人は十二万円という命の値段の違いはなんだろうか」と発言。
 アキールさんは「平和は生まれてくるものではなく、作るものだ。アフガンでどれだけ多くの人びとが殺されたか。どれだけ多くの兵器が試されたか」と指摘した。
 鈴木怜子さんは「キリスト教の名において多くの戦争が起され、日本のキリスト教徒も戦争に協力した。いまもアメリカの報復戦争の陰には宗教の祈りがある。政府が有事法制にガムシヤラに突き進んでいる時、すべての人びとの命の尊厳のために、祈りつつ行動したい」と発言した。
 行動提起は大津健一さん(日本キリスト教協議会総幹事)で、「五・三意見広告」「有事法制阻止国会前行動」「四・一九集会」「五・三憲法集会」についてアピールした。
 木邨健三さん(日本カトリック正義と平和協議会事務局)は閉会の言葉で「平和を守るのは宗教者の使命だ。困難を恐れず進んでいこう」と呼びかけた。


有事法制反対、憲法を生かす 意見広告賛同者を募集

 四月三日午後、参議院議員会館で「五・三意見広告」を呼びかけた市民団体の記者会見が行われた。呼びかけたのは「許すな!憲法改悪・市民連絡会」「平和をつくりだす宗教者ネット」「平和を実現するキリスト者ネット」の三団体。
 五月三日の憲法記念日に一般紙に意見広告を出すために、一口二〇〇〇円で四月十九日締切で賛同を呼びかけている。
 この日の記者会見は日本キリスト教協議会の大津健一さんの司会で、高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会)、石川勇吉(平和をつくりだす宗教者ネッ
ト)、武田隆雄(平和をつくりだす宗教者ネット)、小河義伸(平和を実現するキリスト者ネット)、きくちゆみ(グローバル・ピース・キャンペーン)の各氏が出席し、発言した。
 きくちさんは「九・十一事件のあと、ニューヨークタイムスに報復戦争に反対する意見広告を出し、ロサンゼルスタイムスには十一月十一日に出した。その後、イタリアやアラビアの二紙などを含めて、計七回の意見広告をだしている。今回の五・三意見広告の呼び掛けにたいしては国際的にもさまざまな関心をよび、アメリカのノーム・チョムスキーさんからも三〇ドルの賛同金が寄せられている」と報告した。

 賛同金の送り先は郵便振替〇〇一二〇ー一五一八〇一「五・三意見広告」
 賛同者は意見広告に名前を掲載させていただくとのこと。


マルクスの「過渡期社会」像の検討 @

      
マルクスとエンゲルス 過渡期論 
 
                           
北田 大吉

 新しい世紀は、激動と闘争の時代となった。九〇年代初頭にあれほど流行った「資本主義は勝利した。歴史は終わった」なる資本主義永久繁栄論はいまや影も形もない。グローバリゼーションと新しい技術革命は富の集中と貧困の拡大というかつてない差別をうみ、世界は不況の大波に呑み込まれ、各地で武力衝突が続いてる。資本主義批判を強め、スターリン主義を克服することが求められている。大いに論議を巻き起こすべき時である。その一つの試みとして、北田大吉氏の問題提起「マルクスの『過渡期社会』像の検討「」を四回にわけて掲載する。(編集部)


一、共産党宣言の過渡期論

 マルクスの「過渡期社会」像は一八六〇年代に大きく変化しているという論者がいる(たとえば、田端稔『マルクスとアソシェーション』、大藪龍介『マルクス社会主義像の転換』)。
 まず明らかにすべきは、果たしてそのような転換がおこなわれたかどうか、また転換がおこなわれたとしたら、その内容はいかなるものであったかということである。
 一般に、マルクスのように、長期にわたって執筆活動に携わってきた者の思想が、青年期から晩年に至るまで終始変らなかったと考えるほうがおかしいであろう。
青年期から晩年に至るまでに一人の人間の思想は変化し発展する。
 マルクスの唯物史観の基礎は、一八四三年の『ドイツ・イデオロギー』において固まったとされるが、共産主義者となったのちのマルクスでさえ、長年月の間に思想が変化すると考えるほうが自然である。
 エンゲルスについては、稿を更めて検討することにするが、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じような経過を辿って共産主義者となり、その後は、分業の上で専門分野は異なることがあっても、マルクスの死に至るまで、ともに連絡と討論を重ねながら共産主義理論の完成をめざして活動してきた。
 マルクスとエンゲルスは、ほぼ一体のものとみなすのがこれまでの常識とされてきたが、なかにはマルクスとエンゲルスの思想的営為を一体ならざるものとみなして分離する論者も少なくない(たとえば、降旗節雄氏は「マルクスとエンゲルスの方法の分裂は、マルクス主義における歴史認識や実践運動に深刻な亀裂と混乱をもたらした」と見ており、広松渉氏は、エンゲルスのほうがマルクスより先に共産主義者となり、マルクスの共産主義思想形成を先導したとみている)。
 たとえマルクスとエンゲルスが共産主義理論の完成において一体として活動してきたとしても、マルクスとエンゲルスという異なる人格が共産主義の思想形成をする過程はまったく同一とはいえないであろうし、それはまたマルクスとエンゲルスの思想方法および思想内容にそれぞれの個性を烙印することは避けがたいであろう。
 マルクスの「過渡期社会」像に大きな転換が訪れるのは一八六〇年代であるとすれば、検討の都合上、六〇年代をはさんで前期マルクスと後期マルクスを分かつことは許されるであろう。
 それぞれの時期におけるマルクスの著作として、一八四八年の『共産党宣言』と一八七三年の『フランスにおける内乱』を取り上げ、「過渡期社会」像の転換について考究することにしよう。
 『共産党宣言』は、共産主義者の当面の目標について、「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位に高めること、民主主義をたたかいとることである」と述べている。
 これはいわば、共産主義の最低綱領または過渡期綱領である。
 共産主義の最高綱領は、勿論、共産主義の実現を目的としているが、この未来社会については、「革命を通じてみずから支配階級となり、そして支配階級として古い生産諸関係を暴力的に廃止するとしても、他方では、彼らは、この古い生産諸関係とともに階級対立の存立条件を廃止し、それによってまた階級としての自分自身の支配をも廃止する。階級と階級対立のうえに立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会が現れる」と『共産党宣言』の叙述はあまり具体的ではない。
 『共産党宣言』の論旨からいえば、共産主義者の最終目的は、「各人の自由が万人の自由の条件であるような協同社会」をつくることであり、そのための当面の目標は、「プロレタリアートを支配階級の地位にたかめる」政治革命ということになる。
 そこで政治革命から最終目的である「協同社会」へいたる過渡期の綱領が問題となるが、『共産党宣言』においては一〇項目におよぶ過渡期の施策が述べられている。
 これらのなかには、今日ではすでにブルジョア社会の枠内で実現されているものもあるし、あるいはまだ実現されていないけれども原理的に実現可能なものも含まれている。
 過渡期の施策のなかで注目されるのは生産手段の国有化、文字通りには、信用、運輸機関の国家の手への集中である。
 これらは最終目的とされる協同社会といかなる整合性においてとらえられるべきであろうか。
 『共産党宣言』においては、「国家の死滅へいたる具体的道筋」は明らかにされていない。
 過渡期における施策のなかで「農耕産業軍」の設置が述べられているが、この説明はなされていない。これは「農村と都市の対立の除去」との関連でとりあげられているのではないかと思われるが、そうであるとするならば、いかなる具体的道筋を通してそれにいたるのかが説明されなければならない。
 このような点から考えると、『共産党宣言』における過渡期社会像は、後期マルクス(六〇年代以降のマルクス)が強調する「協同組合生産」、「協同組合所有」を軸とする協同組合志向型社会と比較して、「国家偏倚的」という誤解が生まれるのも当然であるといえる。
 『共産党宣言』はマルクスとエンゲルスの共著といわれるが、共著であれば、その内容についてどんなに密に打ち合せをしようと、実際に執筆にたずさわった人間の個性が強く反映されるのはやむをえないことである。
『共産党宣言』は、さまざまな共産主義者からなる共産主義者同盟執行委員会からマルクスとエンゲルスが依嘱をうけて、共産主義者同盟の綱領として一八四八年二月に発表されたものである。
 その直前の一八四七年十月下旬から十一月にエンゲルスが執筆した問答体の『共産主義の原理』がある。内容はほとんど『共産党宣言』と変らないので『共産党宣言』の下書きともいわれるが、このような経緯から考えると、エンゲルスがマルクスと相談のうえで、『共産主義の原理』を問答体から共産主義者による宣言の形に改め、内容についても両者で更に検討を加えたのちに、『共産党宣言』として発表されたものであると思われる。 なお『共産党宣言』という日本語の訳語は堺利彦によるものといわれるが、当時は共産党はまだどこにも存在していない。本当は『共産主義派宣言』という訳語のほうが相応しいのであるが、『共産党宣言』という訳語が定着している状況を考えて、『共産党宣言』という訳語を使用することにする。
 『共産党宣言』が主としてエンゲルスによって執筆されたとすると、その内容にエンゲルスの個性が色濃く反映されるのは当然であろう。
 さらに今ひとつ、『共産党宣言』が個人論文ではなく、共産主義者同盟の綱領という政治文書であるという性格を考えるならば、単に執筆者エンゲルスの個性が色濃く反映されているだけでなく、共産主義者同盟に加入しているさまざまな色合いの共産主義者のコンセンサスが得られるような政治的配慮も必要であったであろう。このような事情を十分考慮に入れつつ、しかもなお前期マルクス(一八五〇年以前のマルクス)の到達した高みを把握することにする。

二、一八四八年の革命

 『共産党宣言』がまだ印刷に付されている最中に、フランスの二月革命、オーストリアの三月革命が起こり、ヨーロッパはどこでも革命の波にさらされた。ドイツも例外ではなかった。
 マルクスとエンゲルスも四月には故国ドイツに帰り、六月一日には自ら民主主義の機関紙と謳った《新ライン新聞》》を刊行した。
 しかし革命の波の後退とともに、《新ライン新聞》も一八四九年五月一九日に最後の時を迎え、国外追放のマルクスはパリに少し留まった後、一八四九年八月頃に、ロンドンに永住する。
 ロンドンにおけるマルクスは、朝の九時から夜の七時まで大英博物館で主として経済学の研究に没頭した。
 経済学についての研究はのちに『資本論』として結実するが、マルクスの経済感覚はからっきしだめで、まさに赤貧洗うが如き生活を送り、マンチェスターに居を移したエンゲルスが専らマルクスの生活を経済的に支えなければならない状況であった。
 一八五二年にナポレオンの甥のナポレオン三世がクーデタによって第二帝政を布いたことによって、フランスの共産主義運動は死んだも同然の状況に追い込まれた。
 マルクスが協力することのできる革命家の組織体はいまやイギリスのチャ―ティストだけとなった。
 なかでもマルクスが頼りにしたチャ―ティストは、ハーニイとアーネスト・ジョーンズであった。マルクスはやがてハーニイとは袂を分かったが、アーネスト・ジョーンズとは不断の協力者に留まった。
 一八六三年一月一日に、米大統領リンカーンが奴隷解放宣言をおこなった。また、一八六三年にはポーランドで大反乱がはじまった。これらの事件は十四年間も意気消沈状態のあったヨーロッパの民主主義者を蘇生させた。
 このような状況をうけて「国際労働者同盟」創立の動きがはじまった。
 クリ―マー、ル・リュぺス、マルクス、フォンタマらが設立準備小委員会としてマルクスの家で二、三度会議を開いた。
一八六六年にジュネーヴ大会で「国際労働者協会」は呱々の声を挙げたが、この協会の目的は、<平等の権利義務、およびあらゆる階級支配の撤廃>のための闘争にあった。「国際労働者協会(インターナショナル)」が存在したのはわずか八年であった。だが、この間、マルクスは、第一にプルードン主義者(相互扶助論者)、第二にイギリス労働組合主義者、第三にバクーニンと無政府主義者と思想闘争をおこなった。
 一八四八年のヨーロッパ革命の幻想がもろくも崩れ、反動期を経済学の研究と民主主義者、とくにチャ―ティストとの接触、また労働運動の実践と関わり、とくに一八七一年のパリ・コミューンの経験は、前期のマルクスの思想を飛躍的に発展させることになる。
 とくに過渡期社会像については、それは前期マルクスから後期マルクスへの転換といってよいほどの大変化であった。

三、「ブルジョア的所有の廃止」

 前期マルクスは、たとえば『共産党宣言』において、当時のさまざまな社会主義者と共産主義者の思想を批判し、とくにバブ―フ、サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーエンなどについては名を挙げて批判している。
 前期のマルクスやエンゲルスをも含め、当時の共産主義者は、産業革命後まもない当時の労働者階級がおかれた惨めな状況に義憤を感じ、労働者階級をこのような惨めな状況から解放(あるいは救済)するにはどうしたらよいかを真剣に検討した。
 これらの社会主義者・共産主義者は、労働者階級の悲惨な現実を生み出す背景として「私的所有」があると考え、このような「私的所有」を廃止して「財産の共有」を実現することなしには現状を打開できないと考えていた。
前期マルクスは、『共産党宣言』において、「プロレタリア運動は、大多数者の利益のための大多数者の自主的な運動である」と述べられているが、さまざまな社会主義者・共産主義者のなかには、ブルジョアジーの慈悲心に訴えて「財産の共有」を実現しようと考えている者もいた。
しかし、いずれにせよ、労働者の解放は私的所有の廃絶にあるというのがほぼコンセンサスをなしていたといってよい。
 『共産党宣言』においても、「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなくて、ブルジョア的所有を廃止することである。この意味で共産主義者は、自分の理論を、私的所有の廃止という一語にまとめることができる」と述べられている。マルクスは「私的所有の廃止」と「労働者階級の解放」とを要求する。これら二つのことは密接な関係をもっている。私的所有を廃止しなければ労働者階級の解放はないという意味では、私的所有の廃止は労働者階級の解放の前提である。
 あるいは、目的は労働者階級の解放で、私的所有の廃止はそのための手段といってよいかもしれない。いずれにせよ『共産党宣言』においては、これらのいずれについても述べられているが、労働者階級の解放の具体的な道筋が明らかになっていないかぎり、私的所有の廃止、それに導く過程として一時的な所有の国家化が強調されることにより、国家集権主義的な色彩がいくらか強く感じられることになる。
 確かに『共産党宣言』においても、「階級と階級対立のうえに立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会が現れる」と述べられ、未来社会が「協同社会」であることが示されている。
 しかし、この「協同社会」はいくらか唐突に現れ、政治革命によってプロレタリアートがまず獲得する国家がどのようにして「協同社会」に移り行くのかの道筋がまったく示されていないし、また、十項目からなる過渡期綱領のなかにも「協同社会」はまったく顔をだしていない。(つづく)


書籍紹介

     
樋口篤三 「めしと魂と相互扶助」

                第三書館・2500円・三五三ページ

 樋口篤三さんの「めしと魂と相互扶助―革命モラルと対抗対案戦略の確立のために」を読んだ。
 本紙も報じていたが三月一七日には出版記念シンポジウムも行われ、そこでは、運動の行き詰まりを打開するには、アナ・ボル(無政府主義・共産主義)論争から総括しなければ駄目だという発言まであった。これまでの社会主義運動、労働運動の歴史には、素晴らしい闘争と成果もあったが、一面で、より良い社会の実現をめざしながら否定的な事態も多かったことは事実で(連合赤軍事件、数百人の死者を出しているという内ゲバなどなど)、「二度と過ちをくりかえしません」というのは社会主義運動、労働運動のためにもあるのだ、誤りを直視して「出直す」勇気が必要なのだということを実感させられた集いであった。

革命運動の初心とは

 『右翼「労働戦線統一」反対』(柘植書房 一九八一年)、『日本労働運動 歴史と教訓』(第三書館 一九九〇年)につづく樋口さんの三冊目のタイトルが「めしと魂と相互扶助―革命モラルと対抗対案戦略の確立のために」とはいかにも樋口さんの運動観、組織観、人間観、人柄をあらわしていていい。
 「革命運動の初心」(一四〜二四頁)で、「『万人食をえざるのとき、一人のケーキを食うをゆるさず』 ロシア革命の父といわれたレーニンが、一九二一年の極東民族勤労者大会のパンフレットの表紙に書いた言葉である。社会主義革命の魂を一言でしめしたものであり、別の翻訳は『一人のミルクを呑めない赤子がいるときは、それを呑む大人を許さない』とあった。天皇制国家のものすごい弾圧下に、社会主義と革命運動に参加した戦前の活動家の心をとらえた一言であり、レーニンの思想を端的にしめしたものであった」、それにもかかわらず実際の運動では、それに反する場面も多かった。在日朝鮮人共産主義者の車永秀さんが宮本顕治について述べた言葉が紹介されている。「敗戦直後、人民大衆は米の飯を食えなくて、代々木の党本部の食堂でも皆がコッペパン一個――バターもジャムもなし――が昼飯だった。そのときに宮本顕治だけは、銀シャリ(白米)に卵焼きなどの弁当を皆の前で広げて一人で食っていた。この人はダメなんだなあと思っていたら、その後もやっぱりダメな人だったね――。」
 「人こそすべて、めしは天であり、革命はパンから始まる! ――日本革命運動はヘソ下のことを余りにも軽視(頭デッカチ)しすぎた」。
 ロシア革命も中国革命も、パンと飯の精神で勝利し、それを忘れて堕落・変質した。樋口さんがシンポでもよびかけていたように憲法闘争での大統一を実現しなければならない時であり、社会主義革命運動の原点をもう一度確認し、左翼は大きく団結して、力を発揮しなければならない。「新保守主義に抗し日本左翼の統一をめざす、新たな『機能前衛・横断左翼』とイニシアティブグループの形成」の呼びかけと具体的な実践が求められているといえる。
 その他、新たな「機能前衛・横断左翼」とイニシアティブグループ、戦略論の重要性、高野実元総評事務局長のこと、また指導者論として漢の高祖(劉邦)などについても興味深い話が多いがここではふれられない。

拠点中の拠点・東芝堀川町

 「東芝堀川町労組における共産党と産別民主化同盟―産別会議大拠点における対決と問題点―」<初出・専修大学社会科学研究所「社会科学年報」第三四号(二〇〇〇年三月)>(一〇五〜一五三頁))は、堀川町での活動経験のある著者ならではの力作だ。「誤りを繰り返してはならない」としてこの総括は書かれているが、今後の運動を前進を考えるとき、正義の産別会議と裏切り者・会社の手先「民同」の対立図式だけでは、なぜ産別(共産党)が敗けたのか、なぜ「正義が悪に負けるのか」がよくわからないことになる。敗北するには、それなりの理由がある。それを確認し、同じ敗北を繰り返さないことが必要だ(もっともその総括と新方針が正しいかどうかは最終的には次の闘い結果が決めるにしても)。
 また「宮本正統党史は、いずれ改定されるだろうが、その大きな一つが産別民主化同盟をめぐる問題」とこの文章を締めくくっているが、まったく同感である。
 これを読んでいて考えたことがある。電産(全日本電産労組協議会・日本発送電と全国九配電会社の組合の協議体、のち統合して電気産業労働組合)のちょっとした思い出だ。一九五一年の暮れに、私は親父の転勤で、いまの東京電力北東京電力所田端変電所内にあった東電社宅に引っ越してきた(当時は周囲に大きな建物はなく、国電・田端駅からも鉄塔とビルがよく見えた。夏には、ビルの屋上から墨田川の花火がよく見えた)。かなりの数の人間が暮らしていて、食堂、床屋、倶楽部やかなり広い風呂などがあった(毛沢東時代の中国にいったとき、大工場自体が学校も病院も持っている一つの小世界であることがわかり、そこまでは行かないが昔の田端変電所もそんな匂いがしていたと懐かしい気分になった<だいぶ前から社宅はなくなっている>)。

「ミンドウ」

 当時の歴史を調べてみた。日本発送電は五〇年の十一月から九電力に分割されていたが(支配階級は国鉄の分割・民営化の時に経験を活用した)、労働組合は全国単一の組織としてのこり、統一賃金・統一労働協約であった。つねに「輝ける」という形容詞がついた電産労組であったが、五二年四月にはじまった闘争は壊滅的な敗北となった。電産は賃上げと労働協約の一部改定を要求して闘争に突入したが、しかし、会社側は賃金要求にゼロ回答、協約改定には逆に事実上のユニオンショップの制の確立、争議行為の三日前の通告、メーデー休日の廃止など強硬な姿勢で臨んできた。これに電産は、九月二十四日の電源スト六時間(減電量一五%)の第一次から第一五次・一二月一〇日の電源スト連続一〇時間(減電量二五%)で闘った。しかし五二年一二月八日に東京電力労組が、一五日には関西地方本部が、一六日には中部電力第二組合が単独妥結、一八日には電産本部もついにスト中止指令を発した。闘争の結果は惨憺たる敗北で、産別組織としての統一賃金協定は失われ、組織の統制力も失われた。
 といっても、まだ小学校に入るか入らない頃の話。また東電は一番儲かっている我が社がなぜほかの電力会社と同じ賃金なのか、それはいやだとして企業主義の発祥の地となったところで、いち早く闘争から脱落した。たぶんそんなことで、会社の敷地の中で暮らしていたとはいえ、争議の記憶はほとんどない。
 しかし、親や会社の同僚たちが「○×さんは、<ミンドウ>だから、うっかりした話はできない」とか声をひそめて話していたのは憶えている。その恐ろしげな「ミンドウ」なるものが「民主化同盟」をさすものであることを知るのはだいぶ後のこと。数年前に死んだ親父は、電産の活動家でもなかったが、選挙の時にはつねに「左派社会党」に投票していた。いつだったか、ウチは左派社会党だなどと社宅の子ども同士で政治論をやっていて親父に叱られたことがあった。電産敗北の後の東電内では、民同・右派社会党<後の民社党>が制圧し、それに異を唱えることはできない雰囲気だったのだろう。といっても今からみるとかなり労務管理はゆるく、会社の黄色いトラックでの蜜柑の買い出しにいったり、仕事が終われば昼間から酒を呑んでいたりした風景もあった。

敵を少なく味方を多く

 共産党のことも話になっていた。変電所の入り口脇の電柱のかなり高いところに共産党のポスターがあったこと、社宅の中の独身寮のようなところのお兄さんが「アカ」だという噂になっていたことくらいの記憶しかない。親たちの話にに聞き耳を立てていると、レッドパージで職場を追放されていった共産党員が、「おまえら後でほえズラかくな。こっちが勝ったときは、おまえらみんな追放だ」と言ったとか言わないとかで、共産党の人気はあまりなく批判的な空気が強かった。
 樋口さんが書いているが、川崎の拠点細胞の委員長が「革命が起こったら、社民の奴らを三尺高い台にのせて、ワイヤーロープで首をしめてやる」とくりかえしていたそうだ。敗戦後間もなく、まだ前線帰りや特攻くづれがうようよしていた時代、民主主義でやるよりも、もっと武断的にやるのがはやっていたのだろう。そうした影響は、左翼組合にも色濃く、高ぶりすぎた気分が暴走し、味方を少なくし、そこを敵に突かれたことは否めない。
 闘いに勝利するには、原則とともに柔軟な戦略戦術の駆使がなければならないが、それには、大衆と指導部の経験の蓄積と成熟が前提となる。いま、産別会議の時に比べてどこまで成熟して来ているのだろうか。
 支配階級は、過去の戦争の総括を厭きることなく何度もやっている。次の戦争では、必ず勝利するというかれらの強い意志のあらわれだ。
拠点中の拠点としてあった東芝堀川町の総括は、労働組合の活動家に有益なものであり、革命時の労働者の砦とはどんなものであるべきかということ考える上でも不可欠だ。
 樋口さんのいっそうの活躍に期待する。(K)


パンフ紹介

        
「東海地震と浜岡原発事故」 

           (頒価四〇〇円)・たんぽぽ舎(電話〇三―三二三八―九〇三五)

 昨年の十一月七日に起きた中部電力の静岡・浜岡原発一号機事故は、その実態が詳しくわかるにつれてきわめて重大なものであることが一段とあきらかになってきた。原発が爆発すれば核爆弾が落ちたのと同様であることは言うまでもないが、その寸前にまでいっていたのだ。
 原子炉の命綱は緊急炉心冷却装置(ECCS)と再循環系の配管にある。浜岡原発では、余熱除去系の配管が破裂したが、その配管はECCSと同じ系統に属している。しかも配管は原子炉建屋内にある余熱除去系熱交換室というところにあり、ここには運転中には内部にはいれない。火災報知器の警報はなったが、どこに事故があったのかはすぐにはわからなかった。再循環の配管が破断すると、高温・高圧で水は瞬間に水蒸気となり、「最大でも三〇秒で完全に空の状態」になり、燃料は急激な温度上昇をおこし、炉心溶融(メルトダウン)をおこす危険がある。
 しかも浜岡原発の危険性は一段と高い。
それは、浜岡原発が「東海地震想定地域」の上に立っているということにある。原発は周辺に大きな地震をおこす巨大な活断層があるところにはつくらないのは当たり前の話だと思うが、中部電力は、浜岡原発を地震をおこす本体そのものである「震源断層面」が真上につくった。東海地震によって昨年十一月のような事故が発生したら、その時には、たとえ、ECCSが設計通りに働いてもメルトダウンをおこすことは確実だ。しかも原発は停止してもすぐには「安全」にはならない。少なくとも地震の起きる前、三ヶ月前に停止しておかなければ大変なことになるそうだ。
 原発と大地震とがセットになっているのが浜岡原発なのだ。この許しがたい状況を解きあかしてくれているのがこのパンフレット。ぜひ、多くの人に読んでいただきたい。


複眼単眼

   
石原慎太郎に辻元氏の「法律認識」を罵倒する資格なし

 本欄で幾度かとりあげたが、また石原慎太郎東京都知事のことを書く。彼が導入した都内の大手銀行への外形標準課税制度に地裁は「違法」という判決をくだした。石原はふてくされて「やってられないね」などといいつつ控訴した。この課税の、大手銀行と闘うかのような姿勢にほとんどの政党や有識者が賛成したが、都議会では一人会派の福士敬子氏と後藤雄一氏のみが反対した。
 福士氏は賛成しない理由に、第一に都の財政危機を課税の理由とするなら、危機に至った理由を明らかにし、合理的な課税をせよ。第二に「バブル期とその後の納税額の落差」という課税理由は銀行だけに該当するのではないので税の公平性から見ておかしいこと、などを指摘している。
 最近、「石原慎太郎は都政に飽いてきたのではないか」という話がある。たしかに、国政に乗り出したいという野望も石原の言動の各所にかいまみえる。野中元幹事長は「国政では試験済みの人だ」と議員の椅子を放り出した石原の過去を指摘し、切って捨てたが、本人はどうやら意欲を燃やしているようだ。
 産経新聞に石原が毎月一回づつの連載しているコラム「日本よ」の四月八日付の一文では「この政治家のていたらく」と題して、辻元前議員を「日本国籍を持つ選良としての基本的資格を欠いている」と罵倒した。そして「現実日本に押し寄せている新しい形の戦争による危機は、れっきとした軍事力を行使しなくては及ばぬところまで来ている」として、災害対策演習に参加する自衛隊を「軍」と呼ぶたびに非難の声があるが、彼らを軍とみなさずにいれば、戦争で捕虜になったらリンチの対象になる。海上保安庁の巡視艇の船員も同様だ、こんな無責任があるか、というのだ。
 憲法の尊重擁護義務がある石原都知事は、まずこの国の憲法がどのような国を目指しているのかを確認しなくてはならない。石原が憲法を気に入らないからといって、都知事としてそれに反する言動は許されない。石原が軍事力で国際紛争に対処したいのであれば、百歩ゆずって憲法をそのように変えてからのことだ。自らは公然と憲法に反しておいて「最低限の法律への認識の欠如を露呈し職を追われた辻元なる議員」もないものだ。
 今回の記事では彼一流の侵略正当化の「歴史認識」の問題も、またぞろ開陳している。辻元氏が「日朝併合時の日本側の責任を植民地支配として謝罪せよ」などというのは「あくまで彼女個人の短絡的な歴史観によるものだ」として、韓国でも冷静な議論が起きてきていると反論している。石原のこの種の議論は悔い改めることのないものであり、議論するのも無駄なことではあるが、私たちはいま、こういう都知事をもっているということを再確認しなくてはならない。まさに「日本よ」「東京よ」といいたいところだ。(T)