人民新報 ・ 第1072号<統合165> (2002年9月25日)
  
                                目次

● 国際連帯と広範な民衆運動の高揚で、有事法制廃案、イラク総攻撃・加担阻止へ

● 日朝首脳会談の結果について

● 石原東京都知事・女性蔑視の「ババァ」発言  撤回と謝罪を求めて集会

● 全労協が有事法案学習集会 秋の反戦闘争へ意思一致

● 日朝国交再開交渉に思う 植民地支配に対する謝罪と補償を ( 内田雅敏 )

● アジア平和連合(APA)の結成  アジアの民衆は声をあげる

● 部落史から取り残された諸賤民について N       まとめ その @

● 図書

    有事法制を検証する (山内敏弘編) 

    冬のアゼリア大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画  ( 西木正明 )

● 複眼単眼 / 今野求さんと百名山



国際連帯と広範な民衆運動の高揚で

  有事法制廃案、イラク総攻撃・加担阻止へ


          ★

 先の日朝首脳会談による「平壌共同宣言」で、日朝関係の正常化は具体的な政治課題となった。小泉政権は一九一〇年以来の両国間の諸問題を真剣に解決し、日朝関係の正常化を実現し、東アジアの安定した平和を実現する道を誠実に踏みださなくてはならない。
 そのために解決すべき両国間の問題は少なくないが、とりわけ有事法制問題は重要だ。もし小泉政権がひきつづき有事三法案や国民保護法制の策定の動きを進めるなら、それは「正常化交渉」に逆流するものだ。それは一方の手で「有事法制」という刃を突きつけながら、他方の手で握手を求めるようなものだ。首相の口癖の「備えあれば憂いなし」のもっとも正当な「備え」とは有事法制で仮想敵国化されている北朝鮮との関係正常化による緊張の緩和であり、平和的な共生の道の追求だ。この道にとって戦争法案たる有事法制案は百害あって一利なしだ。
 今始まった日朝関係の新しい段階に際し、小泉政権はただちに有事法制を廃案にし、関係正常化交渉に臨まなくてはならない。

         ★★

 小泉内閣は先の国会で継続審議となった有事関連三法案を臨時国会で成立させるために、「武力攻撃事態」との関連でその概念すら混乱してしまった「おそれ事態」「予測事態」などの整理と再定義をすすめ、野党の意見を入れて修正することもやぶさかではないとしている。
 あわせて、各地方自治体などから批判を浴びた「国民保護法制」の整備をすすめ、臨時国会で骨格を示すことで批判をかわそうとしている。内閣官房を中心にした作業の結果、この「国民保護法制」の整備には二百を超える条文が必要と判断されている。これらは有事法制体系を支える「国家総動員法」を意味するものだ。 

        ★★★

 先ごろイラクの政権は国連の大量破壊兵器の査察の受け入れを発表した。これによってアメリカの対イラク総攻撃の大義名分はなくなった。にもかかわらず米国ブッシユ政権は今般の「国家安全保障戦略」報告書のも見られるようにしゃにむにイラク攻撃を準備している。
 この米政権に対して、九月はじめの日米首脳会談で小泉首相は「憤慨はわかるがここは我慢に我慢をかさねてほしい」と国際協調と大義名分の必要性を訴えたが、イラク攻撃を中止する要求は一切だしていない。これは米国のイラク攻撃を正当化するための口実づくりにすぎない。
 事実、アメリカのイラク総攻撃にそなえて、政府はテロ特別措置法の適用の可能性や見直し、新たなテロ対策特別措置法制定の可能性などの検討を開始したという。

       ★★★★

 先の国会で有事法制の採択を阻止するうえで、民衆の闘いは重要な役割をはたした。いまこそ態勢を整え、再度の高揚を実現しなくてはならない。
 そのためにも改めて大衆的なレベルでも、法案などの吟味と、情勢や状況の真剣な分析と学習が必要だ。同時に、大きな力を作りげるための真剣で、系統的な工夫と組織化を進めなくてはならない。アメリカのイラク戦争反対や日朝関係正常化の実現に向けた運動を進める上で、アメリカとアジアの民衆との国際連帯の意味は大きい。運動の高揚のためには要所要所での広範な共同闘争と、日常的な多彩な運動を重層的に組みあわせる必要がある。そしてさまざまな事態に対応できる力を準備することでなくてはならない。
 もしこの秋の闘民衆が有事法制の強行を阻止することができたなら、政府は重大な窮地に追い込まれ、有事法制の廃案を実現することは不可能ではない。再度、腹をくくった闘いの展開が求められている。


日朝首脳会談の結果について

         (一)

 九月十七日、世界注視のなかピョンヤンで日朝首脳会談が開かれ、日本人拉致の事実が北朝鮮自身から明らかにされたことを、われわれは衝撃をもって受けとめた。
 われわれは本紙前号(九月十五日号)で、この問題について「『拉致疑惑』の解決を日朝国交正常化の『前提』とすべきという論調が繰り返し押し出されている。しかし、そもそも『八件十一人』について、『拉致』事件として立件し得る明確な証拠は示されていない」「それは日本政府が負っている過去清算の義務を軽減・相殺しようとする『交渉カード』以外のなにものでもない。行方不明者家族の心中は察するに余りあるが、しかし、このような『疑惑』に過ぎないものを国交正常化の『前提』とすることはできない」――と主張した。
 われわれは、この問題を「『疑惑』に過ぎない」「『交渉カード』以外のなにものでもない」としたわれわれの認識が結果として誤りであったことを認め、何よりも拉致事件の被害者、及びご家族に率直にお詫びする。
 われわれが、上記のような認識に至ったのは、北朝鮮が「拉致はない」と言っていたからなどでは、もちろんない。われわれなりに、たとえば横田めぐみさん事件でいえば安明進証言等々を検討し、その信憑性に疑問を抱かざるを得ないというように、それぞれについて検証の上、北朝鮮による拉致事件として立件し得る明確な証拠があるとはいえない――という結論に至った。もちろん「疑惑」が完全に消えたわけではなかった。
 他方、この問題が急浮上したのは九〇年代半ばになってからであった。その間、九一〜二年の日朝交渉で日本政府が過去清算問題について、まったく不誠実な態度をとり続けてきた経過があり、七年半にも及ぶ交渉の中断の途中で新たに付け加わったこの事件を、前述の判断とも相俟って「過去清算問題を軽減、相殺する交渉カード」と位置付けるに至ったのである。
 われわれは、自らの認識の誤りを踏まえつつ、このような「国家犯罪」が明らかにされたことについて、北朝鮮政府に被害者・家族への謝罪、真相の究明、責任者の処罰、生存者の帰還等々、必要な諸措置を速やかにとるよう要求する。

         (二)

 同時に、われわれはこの問題を契機として、かつてのチマチョゴリ事件のような在日朝鮮人にたいする排外主義と暴力・人権侵害の惹起、さらに北朝鮮敵視のエスカレートなどに対して、心ある人々に重大な警戒を呼びかける。新「拉致議連」などは、何の関係もない在日朝鮮人の再入国禁止など、この問題を利用した新たな排外主義・人権侵害を公然と叫んでいる。すでに朝鮮学校に嫌がらせの電話が入ったり、在日朝鮮人プロボクサーで世界チャンピオンの徳山(洪)昌守さんのホームページに「死ね」「朝鮮へ帰れ」などの書き込みがなされ、掲示板の閉鎖を余儀なくされるという状況も出現している。この問題を、日本人が新たな加害者となる排外主義と人権侵害に利用することが許されないことはいうまでもない。
 もはや百年に及ぶ敵対と恨の歴史に終止符を打つべきである。
 北朝鮮政府による人権侵害事件が明らかになったとはいえ、日本が過去に朝鮮半島で犯した侵略・植民地支配に対して、誠意ある謝罪と補償の義務が消えたわけではまったくない。そこには日本帝国主義による拉致や強制連行、拷問などで過酷な犠牲を被った何万何十万という朝鮮の人々がいる。
 北朝鮮政府を擁護するつもりはないが、拉致事件に関して北朝鮮側は今回、国のトップが国家機関の関与を認め、謝罪した。日本政府・小泉首相にも、朝鮮・アジアの被害者に国家責任に基づく謝罪と補償、実態究明を行なう義務がある。
 今回の拉致事件で、北朝鮮政府に誠意ある対応を求めるなら、日本政府自ら、過去の侵略植民地支配に対する誠意ある対応をなさなければならない。
 日本政府が、今日に至るまで過去の清算を放置し、南北分断に深く関与し、敵視政策をとり続けてきたことが、拉致事件の遠因を構成していることは明らかである。

         (三)

 われわれは、アジアの平和にとって、今回、日朝国交交渉が再開の運びになったこと、敵対関係に終止符をうつことを歓迎する。しかし、同時に、過去の侵略・植民地支配を<合法・有効>と居直ったまま締結された日韓条約の延長の上に立つ国交交渉に対しては、あらためて朝鮮侵略・植民地支配への誠意ある謝罪と補償を基礎とした日朝国交正常化の実現を強く要求し、引き続き闘うものである。また小泉が推し進める有事法制など「戦争のできる国」づくりに引き続き反対して闘うものである。


石原東京都知事・女性蔑視の「ババァ」発言  撤回と謝罪を求めて集会

 九月十三日、東京池袋のエポック10で「あなたは許せますか!石原都知事の『ババァ発言』を 撤回・謝罪を求める九・一三集会」が開かれた。
 主催をしたのは「石原都知事の『ババァ発言』に怒り、謝罪を求める会(仮称)」で、当日は趣旨に賛成する一〇〇名ほどの人びとが集まり、活気と熱気のある集会となった。
 はじめに同会が都知事に出した公開質問状などの行動を取材した「テレビ朝日・ワイドスクランブル」のビデオが上映された。
 つづいて主催者から、女性が生きることを否定する石原発言に対して、これを怒る女性たち四四七人の連名で公開質問状を出したが回答がないこと、外国人記者クラブの記者会見をしてきたことなどの報告があり、日本では被害を回復するための制度がないなかで、民事訴訟なども含めて次の行動も考えているなどの経過報告が行われた。
 つづく「石原発言を告発する」と題したリレートークでは六名が発言した。
 戒能民江さん(お茶の水大学教授)は、ジェンダーの視点から石原発言は女性の生存を否定するものであり、女性に対する暴力であると批判した。
 星野澄子さん(神奈川大学教授)は、松井孝典氏の考えはおばあさんの生存によって人類社会の継承・発展がもたらされたというもので、石原発言とは全くちがうことを指摘した。
 松井やよりさん(VAWW−NET JAPAN)は、首相をも狙う石原知事のオーストリアのハイダーにも比べられるような右翼的な危険性を指摘し、メディアへの露出をグ
ローバルな暴力的傾向の増大と結びつけ、「今この動きを止めなければならない」と訴えた。
 石原知事と同じ年令の野崎光枝さんは、「私は本質的に余剰なものですか?」と問いかけ、「人が生きている重さは知事でも私でも同じだと思う」と静かに語った。
 石原知事の母親の姿を模して登場した竹森茂子さん(フォーラム・シアター)は、石原知事の幼児性を指摘し、会場から爆笑と共感を得た。
 会場に駆けつけた辛淑玉さん(人材育成コンサルタント)は、人権意識の無い石原知事の発言をどうやってマスコミに載せるかがカギになることを強調した。
 第二部の提起と討議では「どうすれば撤回・謝罪させられるか」で話し合いがつづいた。ここでは9・13集会を知らせるチラシを、都の直営となったウィメンズ・プラザの交流コーナーに置こうとしたところ、所長の判断で「適切でない」として断られた経過も報告された。
 中野麻美さん(弁護士)からは、石原都知事の女性に対する暴力発言に関する問題提起がなされた。発言は女性に対する暴力を助長させるものであるにもかかわらず、日本は人権保証の法制度が不備であり、民事訴訟以外に救済の方法が見つからない。しかし権利侵害のハードルは高くても、撤回と謝罪の実現のためのアイディアを出しあおうとよびかけがあった。
 会場からは石原発言への怒りとともに、「メディアに働きかけて広く知らせる」「意見広告」「国連機関へのレポート提出」「来年の都知事選挙へのとりくみ」「ネットやメールを利用して広げる」などの提起があった。
 最後に主催者から@署名を集める、Aおばあさんの原宿と言われている巣鴨での宣伝、B裁判への提訴の検討などの行動提起が行われた。

●石原都知事の「ババァ」発言
 
 「週刊女性」二〇〇一年十一月六日号の「独占激白『石原慎太郎都知事吠える!』」のなかで知事は次のように語った。
 「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、『文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア』なんだそうだ。『女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄ですって』。男は八〇、九〇歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子どもを生む能力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは地球にとって非常に悪しき弊害だって……」。
 また石原知事は、都の審議会でも同様の発言をつづけた。昨年十二月の都議会では、質問についてまともに答えず、もちろん発言は撤回していない。

(編集部註・本紙の昨年十二月十五日の「複眼単眼」でこの問題をとりあげているので参照されたい)


全労協が有事法案学習集会 秋の反戦闘争へ意思一致

 九月二十日、全水道会館ホールで、有事法案反対闘争にむけて全労協の「学習集会」が開催された。
 はじめに藤崎全労協議長が主催者を代表してあいさつ。
 有事法制は、戦争のできる国づくりであり、罰則付きで労働者・人民を戦争に動員するものだ。前の国会での有事法案審議は、与党の失態の連続と院内外の闘いで継続審議となったが、小泉内閣はあきらめずに臨時国会での成立をねらっている。全労協は労組や市民と幅広い闘いで有事法案を廃案にさせるまで闘う。今日の集会は、そのための意思一致の場である。
 つづいて、闘いの経過と今後の闘いの提起を、渡辺東京全労協事務局長が行った。
 小泉政権の発足、その前の石原都知事の誕生は、長期不況の中で多くの人びとのイライラ感がつのり、漠然とした改革期待によってつくられたものだ。石原は、防災訓練に名を借りた自衛隊の治安出動訓練を強行し、小泉は「報復戦争」でアメリカのアフガニスタン攻撃に積極的に加担した。その危険な方向はますます強まっている。全労協は、有事法制反対の闘いで、国会前座り込みをはじめ、陸海空港湾二〇労組、宗教者、市民と共同行動を行い、また五月・六月の大集会を支える一翼を担ってきた。いよいよ秋の闘争が開始される。さまざまな取り組みに参加し、反対運動の大きな盛り上がりを実現していきたい。
 軍事ジャーナリストの前田哲男東京国際大学教授が「有事法制の内容と危険性」と題して基調講演をした。
 魯迅は「水に落ちた犬を打て。道義を解さない犬は、助け上げてもまた人を咬むだろうから」と言った。これは有事法案が継続審議になっている今の状況で強調されるべき言葉だ。有事法案を完全になくさない限り危険な事態に陥る。いまこそ、この法律が狙っていること、もしこの法律が制定されたらどんなことになってしまうのかを予測し暴露することが大事だ。冷戦時代の日米安保は、ソ連に対抗するためのものとされ、北海道の防衛、ソ連潜水艦を阻止するための三海峡封鎖、シーレーン防衛が基本だったが、冷戦崩壊後はアメリカの世界戦略が変わり日米安保も「再定義」されることになった。アメリカは、「ならず者国家」「悪の枢軸」「地域紛争」「国際テロリズム」というどこで起こるかわからない「脅威」に対処するため日本がアメリカの戦略にしたがって世界中に展開することを求めてきた。それが「周辺事態法」であり、「テロ特措法」であり有事法案である。しかし、これらは、アメリカ有事に自衛隊と日本全体を引き込むものであり、非戦原理に立つ日本国憲法に違反している。有事法制などは、立憲主義・法治主義に反しクーデタ的に国の進路を変えようとするものだ。これから有事法制反対の第二ラウンドが始まるが、冒頭に述べた魯迅の言葉のように闘う必要がある。
 特別報告は、今川正美衆議院議員(社民党)が行った。
 今川さんは、すでにインド洋に自衛隊艦船がのべ一五隻も派遣されているが、そうした中で、シビリアンコントロールの建て前とは裏腹に制服組の暴走が目だってきていると述べた。
 集会は最後に子島全労協事務局長の音頭での団結ガンバローでしめくくられ、全労協の秋の有事法制反対闘争のスタートが切られた。


日朝国交再開交渉に思う 植民地支配に対する謝罪と補償を

     「経済協力」にすり換えた日韓条約の轍を踏むな

                                    
 内田雅敏

 本紙は先の日朝首脳会談の結果の意味するものについて、弁護士で、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」事務局長などさまざまな市民運動の分野で活躍している内田雅敏さんの見解を聞いた。(編集部)

 近くて遠い国、日本と北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」と呼ぶ)との間で国交回復をなすには、両国の側に種々の懸念があった。日本の植民地支配による朝鮮民衆の収奪と文化の破壊、そしてそのことに対する謝罪と補償を戦後五七年の長きにわたって解決できなかった日本の責任、共和国による核開発疑惑、ミサイル実験、そして日本人拉致の問題等々である。
 九月十七日、小泉首相の訪朝、金正日総書記との首脳会談による「平壌共同宣言」は、日朝間に横たわる前記諸問題の解決のための一応の筋道をつけたものとして歓迎したい。
 共同宣言において、共和国側が核疑惑に対する国際査察の受入れ、ミサイル実験の凍結を約束し、また拉致問題についてはこれを国家の行為として認め、金正日総書記が遺憾の意を表明し、おわびをするとし、今後の再発防止を約したことは大きな意味を持つ。それにしても十三人の拉致被害者中、すでに八名が死亡という事実は余りにも重い。若くしての、しかも同一日付での死もあるというのであるから、病死または事故死という共和国側の説明には直ちには得心できないのは当然だ。今後さらに解明されなければならない点が多々ある。
 とはいえ、今般の「平壌共同宣言」を、国交正常化に向けての第一歩としようとする大きな道筋については見失ってはならない。どんなに不都合なことであっても、またそれを認めることによってどのようなリアクションがあろうとも、過ちは過ちとして認め、これを克服しようとする努力なしには前進はあり得ない。
 国交正常化に向けての真摯な努力は日本側にとっても同様だ。三六年間にわたる日本の植民地支配――それは単なる経済的収奪だけでなく、創氏改名に象徴されるように彼の国の文化の破壊でもあった――に対する真摯な謝罪・補償への誠意ある取組みこそが、国交正常化に向けての第一歩である。
 この点について新聞紙上等において一九六五年の日韓条約の「経済協力」と同様の方式ということが喧伝されている。頑なに「補償」を要求していた共和国が「経済協力」方式への切り換えを容認したのは、日本外交の勝利だとすら述べる『識者』も出る有り様だ。
 しかし、「過去の克服」は外交上の駆け引きによってなすものではなく、過去と正面から向き合い、これを克服しようとする真摯なものでなくてはならない。ましてや共和国が陥っている経済的苦境、国際的孤立に乗ずるようなものであってはならない。
 ヴェトナム戦争を抱えた米国の圧力と韓国の経済的苦境を背景に、植民地支配に対する補償を「経済協力」として処理した一九六五年の日韓条約は「過去の克服」としては、極めて不十分なものであり、その後も日韓関係で折りに触れて再燃するという火種を残すものであった。
 一九九五年十一月一六日、韓国国会は一〇六名の議員の提案による日韓条約破棄決議案を満場一致で可決したほどだ。一九一〇年の日韓併合条約を違法不当と主張する韓国側に対し、日本は同条約は締結当時の国際法に照らせば合法であると強弁し、最終的には、前記併合条約は本条約(一九六五年)締結時点ではすでに無効となっていることを確認するという――いつから無劾であるかを明確にしない――玉虫色の解決を押し通した。
 国際法、とりわけ帝国主義列強の時代にあってのそれは弱肉強食の植民地支配を合理化するための論理というのがその実体であったではないか。
 くり返しになるが、日本の植民地支配は、朝鮮民衆の経済的収奪と文化の抹殺であり、その実体はポツダム宣言(一九四五・七・二六)でも引用されているカイロ宣言(一九四三・十一・二七)において「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態」と形容されているとおりである。植民地支配下、アジア・太平洋戦争の中で一〇〇万人以上の朝鮮人が日本に強制連行・労働させられたという歴史的事実を忘れてはならない。
 そして同時に米国一辺倒、アジア不在の戦後の日本外交が事態の解決を遅らせ、さらに昨今の有事法制論議に見られるような近隣諸国との間で緊張を作り出すような日本の姿勢こそ改められなけれはならない。
 共和国による日本人拉致は許すべからざる国家犯罪である。しかしこのような事件が起きた背景には日本の共和国に対する敵視政策もあったことは考えておかねばならないことと思う。
 やがて始まる共和国との国交正常化交渉では、植民地支配に対する謝罪と補償を経済協力の問題にすり替えてしまった一九六五年の日韓条約と同じ過ちをくり返してはならない。
 日韓条約締結からすでに三七年、この間、日本の植民地支配、侵略戦争によって蹂躙されたアジア各地の被害者から日本政府・企業に対して様々な戦後補償の要求がなされるに至った。かっての「同盟国」ドイツにおけるこの問題に対処する姿勢等も参考にしながら、私達は歴史認識の問題を論議し、その内容を深めてきたはずではなかったか。

 二〇〇二年九月一九日


アジア平和連合(APA)の結成  アジアの民衆は声をあげる


 このほど、アジア平和連合(APA)が結成された。フィリピンで開かれた設立総会で日本から運営委員に選ばれた小笠原公子さん、武藤一羊さんの報告書の要旨と、結成総会で採択された行動計画を掲載する。(編集部)

APA運営委員  武藤一羊   小笠原公子

アジア平和連含(APA)の設立総会は、一六カ国一四〇名の参加で八月二九臼から九月一日、フィリピン・ケソン市のフィリピン大学で開かれ、参加者全員が創立メンバーとなって正式に発足しました。

 T 討論   

 1、<反テロ戦争>下の世界
 2、民衆の間の紛争と暴カを克服する
 3、希望と戦略

 「テーマ1」に沿って四つの分科会が以下のテーマで開かれました。
 @軍事化、核武装化、米国の役割、A戦争と経済、B国際墓準の侵食、Cメデイアと公共の言説。
 「テーマ3」に沿っては、やはり四つの分科会、1・国内紛争と平和プロセス、2・マルチ・エスニック社会におけるジェンダーと暴力、3・宗教、エスニシティ、平和への探求、4・戦争下の世界での社会運動の役割。
 分科会は、それぞれ関連するフイリピンの団体との共催という形でもたれ、会議受入れに止まらない地元の内容的参加を保証するものになりました。総計四〇人を越すパネリストが問題を提起し、精粗はありますが、全体としてたいへん密度の高い議論が行われたと思います。
 中身について以下の点が印象的でした。
 (1)アメリカの戦争の性格について、すべての発言者の議論が、違う切り方から分析しながらほぼ同じ見方に収斂したこと。
 (2)グローバリゼーションと戦争の関連、そして反グローバル化と反戦運動の合流の必要が同様に全体に共有されたこと。
 (3)アジアにおける民衆間紛争の解決が緊急の必要事であり、それが<反テロ戦争>を止めさることと裏腹の課題であることが共通の認識となったこと。
 (4)「正義の戦争」はあるのか、について意見の違いをはらみつつ真面目な議論が行われたこと。

 U APAの組織 

 アジア平和連合の組織構成については、緩やかなネットワーク組織でありつつ、情報交換やアジアレベルの共同行動のコーディネイトなど、機能的に動けるしっかりした事務局を設定し、行動的な組織とすること。そのため、実際の運営の核となる運営委員会を選任し、次回のAPA総会まで、具体的な運営をそこに委託することになりました。なお、運営委員会のメンバーは、これまで準備にあたってきた現行の運営委員とし、必要に応じてこの運営委員会が新しいメンバーを補充する、と決まりました。
  V 行動計画

 総会は、具体的行動を含む行動計画を採択し、いくつかのテーマについてAPA総会決議を採択しました。日本の参加者からは沖縄名護基地建設の中止を求める決議を提出、採択されました。

イラク攻撃阻止のための一〇月共同行動

 一、米国のアフガニスタン空爆開始一周年である一〇月五日(土)〜八日(火)までを、対米国共同行動の日としてこの間の日(またはそれ以上でも)を、各国事情にあわせて行動日とする。
 二、具体的には、米国大使館・米軍基地などへの申し入れ行動、集会、その他の行動を行う。(1)日韓フィリピン共同声明、(2)各国独自の要求を盛り込んだ声明などを米国政府に渡す。
 この提案は総会で採択されたAPAの行動計画の中にそのまま盛り込まれ、APA全体の合意となり、三カ国の共同声明とともに、APAのアピールを出すことが総会直後の運営委員会で決まりました。
内容は、
 (1)イラクヘの米軍の攻撃に反対する。
 (2)アフガニスタン攻撃の中止を求める。
 (3)米軍のアジアからの撤退を求める。
 このほか、必要な数項目を盛り込む。

APA行動計画

 APA宣言の目的を達成するため、APAおよび会員は、アジア地域にこのネットワークを広げなければなりません。私たちは、暴力を終焉させ、平和と正義をもたらす民衆のの世界的な力がふつふつと現れるように、平和への努力を協力して進めるでしよう。
 私たちは、以下の活動を行います。

 一、アジア全域での同時共同行動と、他の地城での同様の平和イニシァテイブとのリンク

 a、米国のイラク攻撃が切迫しているとして、APAは、二〇〇二年一〇月七日、すなわち、米国と同盟国がアフガニスタンヘの戦争を始めた日に、同時共同行動を行う。

 この共同行動では、現在も継続している米国のアフガニスタンヘの軍事作戦行動、フイリピンの第二戦線、パレスチナの人に対する熾烈な襲撃、また朝鮮半島の統一を阻害し、朝鮮半島に再び戦争の剣を投げ込む「悪の枢軸」政策や、日本の有事法制導入と、沖縄への新たな米軍基地の建設などに関する緊急要請を強く行うものである。
 → 採択。具体的には、日韓フィリピンの三国提案をもとに、以下のように決定
 (1)一〇月六日から八日までの間に、国情に合わせて米大使館か、米軍基地への申し入れ抗議行動を行う。
 (2)その際、日韓フィリピン共同声明、APA声明、各国独自声明を提出。それまでに、各国で連帯メツセージを交換し、それも発表する。
 (3)スローガンには、以下のような内容を含む。
 a、米国はアフガニスタンヘの攻撃を即時中止すること。
 b、イラクに対する攻撃を行わないこと。
 c、移住労働者、難民などに対する人権侵害をやめること。
 d、米軍基地を撤去すること。
 e、米軍基地による人々への被害、環境への多大な被害について米国は補償すること。
 *f、日本の有事法制化に反対→日本大使館
(以下、*印は、運営委員会で出され、決定されたもの)
 (4)このアジア共同行動を「米国の戦争に反対するアジア民衆行動」(APAW)とする。
 (5)この共同行動のため、各国に連絡窓口をひとつ以上もうけ、ML作成、Webサイトを作る。
 (6)米国の戦争に反対するこの共同行動のメッセージを、米国本土やヨーロッパにも届ける。
 *(7)運営委員会はこのため、すべてのAPA発足会議出席者に、この行動についての確認の呼びかけを送る。
 *(8)運営委員会は、このことに関するAPA声明を、フィリピンのコラソンとマリアが作成し、それを、日韓フィリピン三国の共同声明とともに、全参加者に送る。
 *(9)運営委員会として、APAから、インドネシア・パキスタンに、代表を派遺する。
 b、パキスタンの核の対立問題や、アジア地域の空な宗教的、民族的、その他の対立・紛争について、伺時共同行動を行う。
 c、インド・パキスタン・日本が、核の脅威に対するなんらかの民衆レベルの協力を模索する。
 d、米軍の動きについてアジア諸国が連携してモニタリングを行う。

 二、反グローバリゼーション運動に参加し、連携する。

 a、アジア社会フォーラム(ハイデラバード、二〇〇三年一月)に、平和と安全保障の会譲を設定し参加する。
 →採択。具体的には、以下のことが決定。
 (1)フォーカスバンコク、フオーカスインドの協力を得る。
 (2)パキスタンのニガートカーン、武藤、フイリピンのオーロラが担当。
 (3)カナダの「人権と民主主義」団体のルーシーから、このためのテントの費用として二万ドルの申し出あり。一万ドルをテントの費用にあて、残りを講師や宿泊、通訳翻訳などの費用に当てる。
 (4)ブロポーザルを、フィリピンのオーロラ・バロンが作成し、全体会に出席する。
 b、九月一六日のスリランカ平和会議(バンコク)へのビジルにAPAとして代表を送る。
 →採択。運営委員会で、フイリピンのコラソン・ファブロスの派遺が決まった。

 三、他地域の平和努力と平和勢力、特に、草の根のグループとの協カ関係を作る。

 a、米国や英国にAPAのミツションを送り、アジアの声を米国大衆にとどける。
 →否決。

 四、実態調査と連帯のためのミッションを、米国軍隊行動や、地域紛争の影響を受けた地域に送り、特に女性や子どもの権利侵害などの事実の記録、構報を広める。(アフガニスタン、広島、長崎原爆など。)

 →採択。具体的には、以下のように、運営委員会で決定した。
 (1)フオーカスが担当する。
 (2)武藤が、松井さん、清水さんに相談する。
 (3)アフガニスタンヘのメッセージを、武者小路さんに書いていただく。同時に、資金集めについても相談する。
 (4)アフガニブスンから参加するはずだった人たちに対して、遺憾の意を表明し、声明などをその方々に送る。

 五、実態調査をふまえ、国際民衆法廷を開く。

 →採択。

 なお、以下の各項目については、最終日にいずれも採択、詳細については、運営委員会にまかせることとなった。

 六、オールタナティブなメディア、たとえばAPAのインターネットを通して、反戦の声やメッセージを、地域や世界に伝える。APAのホームページを作成する。

 →運営委員会で、フイリピンのコラソンが担当することになった。
 
 八、ロビーイング、請願、署名運動、平和行進、人間の鎖、展示など、米軍撤去を含め、反戦へのあらゆる種類の要求を実際にあらわしていく。

 九、とがめることをしない文化を終わらせ、犠牲にされた人々に対するカウンセリングから補償にいたる法的なアクションや裁判闘争を行う。

 一〇、人権とジェンダーの公正にもとづく研究と教育を行う。過去の罪悪を正当化し、国家や民族、宗教的なアイデンティティを美化する歴史教育を改革する。


部落史から取り残された諸賤民について N       まとめ その @

                              
大阪部落史研究グループ

 これまで当局が行ってきた「同和」研修は、部落史の一面しか明らかにしてこなかった。
 @時の権力者が、民衆を支配しやすいように、部落を作った。A部落の生活をみて自分を慰めろ、「上みて暮すな、下みて暮らせ」思想の植え付け。Bこれらの流れの中で差別意識や、被差別部落の住環境の劣悪化がもたらされた。C「被差別部落はかわいそうな存在だから差別は止めましょう」などなど。
 これらは、「近世政治起源説」からきている考えで、勿論、一面では間違ってはいないが、部落史はそれだけではないことを理解するべきだと思います。権力のいいなりに、泣き寝入りばかりしていたのではないのです。ある時は権力に対し毅然と闘いを挑む、ある時は権力の中に入り込み、生活の糧を得る。「部落史から取り残された諸賤民について」を書いていると、したたかな被差別部落民の姿が見えてくる。
 私が担当したのは、@ケガレと部落差別、A弾左衛門の不思議ですが、これらを少し振り返ってみたいと思います。
 まず、@ケガレと部落差別です。
 部落差別の原点はいまだ解明されていない。これまで、いや今でも当局の「同和」研修では、分断支配のため時の権力者が部落を作った、だから部落差別は止めましょうとするいわゆる「近世政治起源説」が通説だ。
 しかし、昨今、研究者の部落史の見直しの結果、これまで部落史の中で置き去りにされてきたエタ・非人以外の諸賤民について見直され、「近世政治起源説」の根本が揺らいできている。
 ケガレと部落差別を考える時、ケガレ意識は確実に中世まで遡ることが出来る。人間の死は確実にやってくる、その死のケガレに触れる触穢思想が頂点になるのが室町時代のことだ。このような触穢思想は、現在に至るも残っている。葬儀時の清め塩や、国会議員(とくに自民党)などがよく使う「禊(みそぎ)選挙」で、これで通ると「禊が済んだ」として大手をふって議員を続ける。
 次に、A弾左衛門の不思議です。
 ここでは、被差別民と言っても、決して哀れんだり同情から、差別をなくしましょうという対象ではないということを強調したかった。弾左衛門のフルネームは、矢野弾左衛門といい、当時でフルネームを付けられるのが公家と武士だけだったことを考えると、被差別民といえど弾左衛門の力が想像出来ると思う。それに、弾左衛門は、帯刀も許されていた。弾左衛門については、まだまだ謎が多く、より深い研究がまたれる。
 被差別部落大衆は、決して同情や哀れみをよせる対象ではない。彼らの生活の中には、笑いや差別に対して毅然と闘った歴史がある。当時の権力に対して、漫然と差別を受け入れ、泣き寝入りをしていたのではなかった。渋染一揆のように、差別が強化された時、被差別部落大衆は団結して時の権力者と闘っている。
 しかし、当局の「同和」研修は、相変わらず「近世政治起源説」を主体とし、同情と哀れみをあおる話しかしない。こんな研修ほもう聞くに耐えない。参考文献を見てもわかるように、運動体自身も変わろうとしているのだから、私たちも変わらなければならないだろう。(六車)

参考文献
 『弾左衛門の謎』(著者・塩見鮮一郎 三一書房)
 『被差別部落の生活と文化史』(著者・川元祥一 三一書房)
 『部落史がかわる』(著者・上杉聰 三一書房)
 『部落史がわかる』(著者・渡辺俊雄 解放出版杜)
 『いま、部落史がおもしろい』(著者・渡辺俊雄 解放出版社)
 『多様な被差別民の世界』(全国部落史研究交流会編 解放出版社)
 『続 都落史の再発見』(部落解放・人権研究所 解放出版社)
 『ケガレ意識と部落差別を考える』(著者・辻本正教 解放出版社)
 『新編 部落の歴史』(部落解放研究所編 解放出版杜)
 『女人禁制』(著者・木津譲 解放出版社)
 『被差別の陰の貌』(著者・藤田敬一 阿吽社)
 『部落の遇去現在そして』(コペル編集部編 阿吽社)
 『どう超えるのか?部落差別』(共著・塩見鮮一郎、小松克己 緑風出版〉
 『被差別部落の歴史』(著者・原田伴彦 朝日新聞社)
 『入門被差別部落の歴史』(著者・小林茂 明石書店)
 『「部落吏」の終わり』(著者・畑中敏之 かもがわ出版)


図書

   
有事法制を検証する (山内敏弘編) 

                 法律文化社 2700円+税

 タイムリーな本が出版された。
 本書の編者の山内敏弘・一橋大学教授は、先の国会期間中に四・二四、六・一六と二度にわたって、広範な各界各層を結集して開催された大集会の呼びかけ人に名を連ね、また東京・国立市の上原市長の政府への「質問書」の作成にも協力したと言われるなど民衆の運動の前進のために貢献してきた。「『9・11以後』を平和憲法の視座から問い直す」とサブタイトルをつけた本書は山内氏を中心に浅井基文・明治学院大学教授、渡辺治・一橋大学教授、本間浩・駿河台大学教授、高作正博・琉球大学助教授、沢野義一・大阪経法大学教授、古川純・専修大学教授、愛敬浩二・信州大学助教授、岡本篤尚・広島大学助教授、前田哲男・東京国際大学教授、右崎正博・獨協大学教授、阪口正二郎・一橋大学教授、臼杵陽・国立民族学博物館教授、君島東彦・北海学園大学教授ら憲法学、国際法学、政治学、民族学などの研究者と、軍事問題研究者の藤井治夫氏、国際問題評論家の北沢洋子氏らによる「学際的な専門書」(山内)だ。これらの執筆者は、いまこの問題を民衆の側に立って検討する場合に、実に考えられる最良の布陣だと思う。情勢に対応するため、短期間にこれらの書き手を集め、本に仕上げた山内氏の努力に脱帽する。
 先の国会で半年以上にわたって審議された有事関連三法案は継続審議とされた。そして間もなく召集される臨時国会で法案の審議は再開される。この間の議論を踏まえて、いま政府・与党からは「『国民保護法制』の概要を早急に示したい」とか、「『武力攻撃事態』の定義で『恐れ事態』『予測事態』という分類は難しいので整理する」などの声も聞こえてくる。ならばこの間の国会でさんざん問題点を指摘されながら、いいかげんな答弁に終始してきた提案者(政府)の責任はどうなのか、あの議論は何だったのかと言わなければならない。
本書で編者の山内氏は「(政府は)現在、野党との調整をも視野に入れつつ、体制の建て直しを図っているところである。市民の側でも、有事関連法案をあらためてじっくりと吟味検討して、自らの視座を見定める必要がある」とのべている。この希代の違憲立法、戦争法案の有事法制案を廃案にする運動にとって、いま、一部野党のとりこみを狙った政府側の法案の修正などの動きを見据えつつ、山内氏のいうように法案を吟味検討する課題は緊急の課題だ。
 本書は三部構成で、第一部「9・11以後のアメリカと日本の対応」、第二部「有事法制の展開と問題点」、第三部「有事法制によらない平和保障」としている。
 本書のいたるところで執筆者たちはこの間の議論をふまえて、積極的に自らの見解を提示している。もとより問題の大きさや、深さのゆえに、読者がそれらのすべての論点に十分納得することは難しい点もあろう。しかし、考える契機とするには本書は十分だ。
 たとえば山内氏は「国際法の危機」「立憲主義の危機」の現状に警鐘を鳴らしつつ、「テロ」の問題も検討し、このように提起する。 「憲法前文、第九条、そして第十三条が規定する非武装・非暴力の立場からすれば、殺人等の暴力的な手段によって何らかの政治目的等を達成しようとする行為は容認できないというべきである。もちろん、憲法は、人権が抑圧されたり、人民の主権が簒奪されたりした状況下においては、人民の抵抗権を認めているし、人民の自決健の行使を認めている。しかし、それは、日本国憲法の観点からすれば、非暴力的な手段による抵抗権の行使や人民の自決権の行使と言うことであると思われる」と。そして、「正当なテロもありうるのか」と設問し、「その場合に問題となるのは、いかなるテロ行為が正当性をもちうるのかを一体誰がどのようにして判断するのかと言う点である。この点についての明確な基準が確立されない限りは『正当なテロ』が乱用され、テロにたいする反テロ、それにたいするさらなるテロといった『テロの連鎖』をくいとめることはできないと思われる。その点とも関わって指摘されるべきは、日本国憲法は、テロに対して『対テロ戦争』という形での武力行使を行うことも容認していないと言うことである」とのべている。
 本書ではこのような議論は他の執筆者による議論も含めてさらに展開されている。
 たとえば前田氏が書いている「海上保安庁法の改定と領域警備」などの論文も、先の日朝首脳会談で「不審船」問題での北朝鮮の責任に言及した金正日発言をめぐって、悪質なナショナリズムが高まっているときだけに、冷静に検討するに値する。 (斎藤)

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冬のアゼリア大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画  
( 西木正明 )

                    文芸春秋社 二〇九五円

 肩のこらない、しかも文句なく面白い歴史謀略小説だ。フレデリック・フォーサイスがドゴール暗殺計画をテーマにした代表作「ジャッカルの日」(最近そのアメリカ版とも言える『ジャッカル』がリチャード・ギア、ブルース・ウィルス主演で映画化された)をほうふつとさせるが本編はそれ以上のスケールとストーリーの意外性で飽きさせない。
 メインは一九二一年の皇太子裕仁拉致暗殺計画という立派な「不敬罪」小説。朝鮮の「光復」つまり独立運動をめぐってさまざまな人物が動く。山縣有朋、西園寺公望、原敬、孫文、袁世凱、陳独秀、毛沢東、李承晩、李東輝、金日成、チャーチル、ロイド・ジョージなどがキラ星の如く登場する。舞台もパリ、上海、東京、釜山、瀋陽、ロンドン、香港と目まぐるしく変化するが、著者は朝鮮半島を中心にすべての都市を現地取材するほど念を入れている。当時イギリス大使館の書記官であった吉田茂が新聞記者をしていた野坂参三とロンドンのパブで黒ビールを飲みながら互いの腹を探り合うなんていう場面も出てくる。
 ヒロヒトが次期の天皇としてふさわしからぬ行動、つまり外交が苦手で、当時日英同盟にすがってのし上がろうとしていた日本の原敬がそれに危惧を抱き、外遊させて立て直そうと思い立ったのがはじまり。これを機に李承晩らの臨時政府を日和見主義とする武闘派組織が香港に立ち寄るヒロヒトの拉致へと動き出す。これを阻止すべく立ちはだかる日本警察との死闘が繰り広げられていく。
 単なる謀略小説ではなく全編に「アリラン」の歌声が聞こえるような著者の朝鮮の光復運動への共感が読み取れるし、なによりも警官でありながら、反日感情の強い朝鮮人女性を深く愛してしまった警部補がもたらす意外な結末は絶妙であった。しかも、あの時代にもかかわらず一度は食ってみたいと思わせる香り高い朝鮮の家庭料理が次々と紹介される。それにしても陳独秀や野坂参三、そして朝鮮臨時政府左派にまで強大な影響力を持っていたコミンテルンとは何だったのだろうかと再考させられたりもした。(辻)


複眼単眼

      
今野求さんと百名山

 今野求さんという第四インターの指導的活動家の一周忌の集いに出席した。彼は長い闘病生活のあと、一年前の9・11の日、事件を知ることなく亡くなった。
 運動で属する派は異なるが、私が彼と行動をともにすることが多くなったのは、路線転換した村山社会党に代わる市民派的な新しい議会政党の建設に協力しようとしていた頃だった。以来、今野さんがしばしば私の事務所に来て話し込んでいったりするなど、意見交換することも多くなった。話題はほとんどが運動の共同、統一の話だったように思う。
 それともうひとつ、共通の話題があった。
 追悼会で「夢を追ったリアリスト」と題する追悼文集をいただいた。その「終わりに」のところで、お連れ会いの今野宏子さんが「今野が登った百名山」という一文を書き、約二〇年間で五七座に登ったと述べている。まだ六五歳だったのだからもっと登ることができたのに。
 今野さんが山好きなことは前から知っていた。元気なときには「どこに登って来た」という話題が必ずでた。しかし、不思議なもので詳しく報告しあうわけではない。ボソッと「あそこはいいよ」という程度なのだ。
 入院してからは元気を出させるための挑発のつもりで、病床で「また山に行ってきたよ」などと言ったりしたこともある。
  ちょっとくやしそうな顔をしたと思った。しかし、文集を読んだら、闘病中も二座登ったという。
 私の山行は高校時代からだから、今野さんより期間は長いが、百名山は二〇座程度しか登っていない。奇しくも初登山は今野さんと同じ磐梯山だ。そのあとは私の登山は無名に近い低山が多い。しかし、故郷の安達太良山は大好きで二〇回以上は登っていると思うし、磐梯もいい。尾瀬も那須も何回行っても飽きない(とはいうものの最近の人込みには閉口しているが)。
 あとは東京周辺の東武東上線沿線や西武池袋線、中央線、小田急線沿線などの低山が多い。さまざまな運動の合間に、山行の日程をつくりだそうとすると、どうしても手近のところになってしまうのだ。
 登り方も若いときはがむしゃらに走って登り下りするほどだったし、地図の標準時間をどれだけ縮めたかなどにばかり関心があった。
 最近は考え方が変わってきた。体力の低下のせいでもあるし、山の装備がよくなったこととも関係するが、雨でも、晴れでも、ガスの中でも、それなりに山の変化を楽しんでいる。疲労が激しければエスケープ・ルートを下ることも、リフトがあれば途中まで利用することも、もう気にしない。
 花や木の名前はすぐ忘れてしまってなかなか覚えないのだが、山野草を見るのはとても楽しい。この夏、くまがい草に出会ったのは感動だった。鳥も小動物もそれぞれとの出会いがいい。
 葬儀のときに飾られていた今野さんの山行の写真が、一周忌のつどいの場にもあった。そこに革命運動に生涯をかけた一人の活動家のさわやかな笑顔があった。 (T)