人民新報 ・ 第1104・5号<統合197・8> (2003年8月20日)
  
                  目次


 ● 自衛隊をイラクに送るな 自衛隊はイラクに行くな イラクの人びとを殺すな、死ぬな

 ● WORLD PEACE NOW

  よびかけ 「9・27 もう戦争はいらない 世界の人びととともに

 ● 日本も付き合うのか!戦争中毒アメリカ  8・6ヒロシマ平和のつどい2003

       市民による平和宣言2003

       二〇〇三年広島平和宣言

 ● ピースサイクル

        老朽化し事故を続発する伊方原発を廃炉に!   四国ピースサイクル

        酷暑の中を走破しヒロシマに到着 8・15には自治体訪問へ おおさかピースサイクル

        浜岡原発止めろ!自衛隊はイラクへ行くな!  静岡ピースサイクル

 ● 市民文化フォーラム8・15集会   『希望の世界地図』を創るために

 ● 平和遺族会全国連絡会

        いまこそ非戦の憲法を活かそう 非核・平和・共生の北東アジアを創ろう

 ● シンポジム「不戦・非核の北東アジアを」

 ● 東アジアの平和をめざし、天皇制の戦争責任を追及する8・15行動

 ● (寄 稿)   「部落」の蝦夷起源説について    北田 大吉

 ● 金曜連続講座で渡辺治氏が講演

      反有事法制やイラク反戦の運動を引き継ぎ、さらに広範な改憲阻止の戦線を

 ● 戦争は国家の権利という思想  共産党の路線転換へ党内からも厳しい批判

 ● 米国防総省が「中国の軍事力」を発表  台湾海峡をめぐる米中関係

 ● 書 評  高崎宗司著「植民地朝鮮の日本人」(岩波新書) 

 ● 図書紹介   日朝関係の克服ーなぜ日朝国交正常化交渉が必要なのか ( 姜尚中・著 )

 ● 複眼単眼 / テロ情報まで商売にするペンタゴン



 自衛隊をイラクに送るな

   自衛隊はイラクに行くな

     イラクの人びとを殺すな、死ぬな


 この夏、来日していたイギリスの国会議員(ブッシュとブレアを『狼』と呼んだことで労働党の党員権停止中)のジョージ・ギャロウェイは「世界から見た英国のイメージは、ビートルズでありベッカムであったはずだが、いまやただの『人殺し』だ。日本も自衛隊を派遣すれば、同じ境遇に陥る。イラクでは占領軍と見られ、アラブの人びとは日本人を殺すことをためらわなくなる」と指摘した。
 第一五六国会末のわずか一月あまりの延長期間に政府・与党が強行採決した「イラク派兵法」によって、自衛隊は一〇〇〇人もの大部隊をイラクに派遣することになった。
 五月末の一〇時間に及ぶ日米首脳会談で、ブッシュ大統領に自衛隊派遣など「日本の中身のある貢献」を要求された小泉首相は「私にまかせてほしい」と約束し、有事関連三法の成立を待ってただちに派兵法強行に踏み切った。小泉はこの会談を含めたブッシュとの関係を「会談内容の秘密厳守」という信頼関係と説明した。そしてその後、来日したブレア英首相に「あなたはブッシュのプードル犬といわれ、私は大統領の前でしっぽをちぎれるくらい振っているといわれる。しかし、米国が孤立したら困る」と説明した。この日米秘密会談で自衛隊の戦場への派兵が約束され、五十数年にわたる平和憲法に基づく法体系を乱暴に踏みにじって、自衛隊のイラク派兵が準備されつつある。
 現に戦闘行為が行なわれておらず、将来も戦闘行為が行なわれない「非戦闘地域」への派遣であるから、この法的概念は「海外で武力行使はしない、武力行使との一体化を禁するという憲法の要請を満たしている」(石破茂防衛庁長官)という虚構に基づいて、強引に派兵は正当化された。しかし、小泉自身が「どこが非戦闘地域かと今、私に聞かれても、分かるわけないじゃないですか」「(自衛隊員は)野盗、強盗の類に襲われたら、殺される可能性がないとは言えない。戦って相手を殺す場合もないとは言えない」などと居直るほどに、その中身はデタラメ極まっている。
 この程度の政治的術策で自衛隊の部隊がイラクに行こうとしているのだ。政府は近日中に派遣基本計画の策定と、イラクに外務、防衛両省庁で構成される政府調査団を早急に派遣することを決めた。そしてそのために外交顧問の岡本三夫氏を事前に派遣し、下準備するという計画を立てたが、現地の情勢の深刻さからこの岡本氏自体を派遣することができないでいる。このままでは九月中旬の石破長官のイラク視察の先送も必定だ。
 ひどい話だが、総選挙の前に自衛隊を派遣し、戦闘に巻き込まれ死者でもでたら得票に影響するなどという理由で、派遣時期は十一月中旬と構想された。しかし、現地の状況の「悪化」で計画の進行自体がどんどんずれ込んいる。派遣の決定から実際の派遣までには三ヵ月かかると言われることから換算すると、自衛隊派遣の時期は越年する可能性もでてきた。
 派遣予定の部隊をはじめ自衛隊員と家族たちの中にも動揺が生じている。制服の幹部も「命をかける以上、国のためだと信じたい。本当に国民の理解や支持がえられるのか」などと不安を表明している。これらのことと最近、急速に自衛隊員の中で増加している自殺や私生活の「乱れ」の問題が無関係であるわけがない。
 G・ギャロウェイの指摘を待つまでもなく、私たちは自衛隊をイラクの戦場に送ることを絶対に許してはならない。自衛隊員にイラクの民衆を殺させてはならないし、自衛隊員をイラクの戦場で死なせてはならない。たしかにイラク派兵法は成立した。しかし、自衛隊のイラク派兵を阻止し得る条件は日増しに大きくなっている。あきらめずに、いまこそ広範な市民と労働者によるイラク派兵阻止の闘いをまき起さなくてはならない。
 いまイラクでは米英軍などによる占領に反対する民衆の闘いが沸き起こっている。たくさんの集会やデモがおこなわれ、占領に反対するゲリラ戦も持続的に戦われている。
 改めて確認しておかなくてはならないが、イラクの民衆にはこの米英軍などによるイラク攻撃、侵略戦争と、それらによるイラクの占領、石油をはじめとする資源や物資の掠奪に抗議し、闘う権利があるということだ。
国連憲章などを含めた「国際法」すら無視し、国連加盟の大多数の国々の反対を押し切り、ありもしない「大量破壊兵器」の破壊などという口実で開始されたこのイラク攻撃と占領には、まったくもって道理がない。サダム・フセイン独裁政権との闘いとその後の国造りはイラク民衆自身の手で行なわれるべきであり、国際的な支援はそれへの連帯・援助として非軍事で行なわれなくてはならない。
 ブッシュはイラクに「自由と民主主義」を植え付けると称して、占領と資源の掠奪を正当化し、自らの支配装置である暫定占領当局(CPA)のもとでカイライの「統治評議会」をつくりあげ、直接占領から間接占領への移行をめざしているが、この道はイラク民衆や国際世論の抗議と批判の前で容易ではない。
 五月一日のブッシュによる「戦争終結宣言」以来でも、公表された米兵の死者は六十人を超え、この戦争全体で米英軍の死者は二百人におよんでいる。またポーランド軍も攻撃され、デンマーク兵も死んだ。死者一人当たり三人の重傷者がでるという想定で見ると、占領軍にはすでに一〇〇〇人近い死者と重傷者がいるのではないか。ましてイラク兵とイラクの民衆の死傷者数は明らかにされていない。
 米国はその陸軍の兵力の三分の一をイラクに配備し、毎月四〇億ドルの戦費をだしている。「イラク政策は崩れた。建て直しの時だ」「それでいて事態は事前の大方の予想よりもなお悪化している」(ニューズウィーク誌)。「イラク戦争のベトナム化」の指摘もあながち的を外れてはいないだろう。
 米国では長期のイラク駐留を強いられている米兵の家族たちが「即時撤退」を要求する運動をはじめ、八月十三日には記者会見して世論に訴えた。これには米兵、予備役、退役軍人などの六〇〇家族が参加している。そこでは「イラクでは一日四〇件近くの事件が発生しているのに、ニュースは一部しか伝えない」「(戦死した)自分の息子は帰らないが、米兵は全員戻ってほしい」などの訴えがなされた。
 国際社会の批判も強まり、ブッシュ政権とブレア政権に対する国内世論の支持も急落している。米国の一般紙は故キング牧師がベトナム戦争を批判した言葉が当てはまるとして「このまま続けたら、米国に正しい意図などないことが世界中に知られる」という言葉をかかげた。

 平和を願う世界の人びととともに再度、イラク反戦の闘いを起そう。
 米英など占領軍はただちに撤退せよ。イラクの未来はイラクの人びとの手にゆだねよ。
 イラクの民衆への支援はNGOなどを主体に非軍事に撤せよ。
 自衛隊をイラクに送るな。自衛隊はイラクに行くな、イラクの人びとを殺すな、死ぬな。


WORLD PEACE NOW

  
9・27
 もう戦争はいらない 世界の人びととともに

 自衛隊のイラク派兵に反対し、米英軍などのイラク占領の撤退、イラクの未来はイラク民衆自身の手にゆだねよという運動の強化のために、「もう戦争はいらない、9・27世界の仲間とともに ワールド・ピースパレード」を成功させよう。
 昨年末以来のイラク反戦運動の中で生み出された市民運動の新しいネットワーク「WORLD PEACE NOW」は、近年にはなかった市民の反戦運動の新しい高まりを作り出した。全世界の人びとと連帯して数万の市民がイラク反戦の行動に立ち上がった。この新しい反戦運動は各方面に衝撃を与えたが、全体として日本の市民運動に力強い活気を取り戻すことができた。
 イラク反戦運動の新しい段階にさしかかり、事実上の第二次WPNとして再出発したこの運動は、イラク派兵法反対の努力を経て、いま自衛隊のイラク派兵に反対する運動を呼びかけている。
 九月二七日はイギリスのストップ戦争連合や米国のA・N・S・W・E・Rなどが呼びかけたイラク占領反対、占領軍の撤退を要求する全世界統一行動の日だ。
 日本でも世界の運動に呼応し、この日を日本の全国各地でも共同の行動日として闘い、大小さまざまな行動を組織し、成功させる必要がある。
 すでに東京では九月二七日午後二時(開場一時)から、港区の芝公園で集会を開催し、銀座方面へのデモが呼びかけられてる。市民団体や労働組合などの賛同がすでに相次いでいる。ぜひとも共同して大きく成功させ、自衛隊のイラク派兵阻止の運動を強化しなければならない。
 同時にWPN実行委員会は賛同金のカンパを募集している。

 郵便振替口座名「1・18集会」 口座番号00110―6―610773


日本も付き合うのか!戦争中毒アメリカ  8・6ヒロシマ平和のつどい2003

 原水禁や原水協の対立がつづき、分裂集会が今年も繰り返されるなか、市民たちは「8・6ヒロシマ平和のつどい2003」を独自に開催した。つどいのサブタイトルは「有事法制/イラク派兵 日本も付き合うのか!戦争中毒(アメリカ)」と名づけられた。
 八月五日午後六時から県民文化センターで開かれた集会には外国代表などを含めて全国各地から一三〇名ほどのひとびとが参加し、自衛隊のイラク派兵などに反対し、核兵器の禁止を訴えた。
 つどいは司会を藤井さん(第九条の会ヒロシマ)が行い、主催者挨拶を木原さん(原発はゴメンだ、ヒロシマ市民の会)が行なった。
 冒頭、イラクのバスラから来た医師のジャワッド・アル・アリさんが報告した。
 イラクでは一九九一年の湾岸戦争時から劣化ウラン弾(DU)が使われている。私は大量破壊兵器に反対する闘いに連帯したいと思う。なぜなら戦争は強力で何もかも破壊してしまうからだ。米国のイラク攻撃の目的は石油だった。第一次湾岸戦争では五〜八〇〇トンの劣化ウラン弾を使った。今回もイラク西部だけで三〇〇トンを使っている。その結果、ガンをはじめさまざまな病気が多発している。状況は深刻だ。ガンの発生率は十二年で一〇倍となり、死亡率は一九倍になった。発票の形態もきわめて異常だ。にもかかわらず米国はDUは危険ではないという。その影響が四五億年もつづくDUという大量破壊兵器に皆で反対の声をあげよう。
 現地で懸命に医療活動を続けるアル・アリ医師の報告は具体的で、衝撃的なものだった。
 「イラク戦争被害・劣化ウラン弾ヒロシマ調査団」の森瀧春子さんは次のように述べた。
 このほどイラク現地を訪れ、イラクの医師たちの協力で必要量のDUのサンプルを確保でき、いまそれを調査している。DUは危険ではないという米国政府や日本政府の説明の誤りを証明したいと思っている。調査結果がでたら国際的に公表し、現地の人びとを主体にした本格的な国際的な調査を促したい。私はヒロシマ、ナガサキ以降は戦争で核兵器を使用することは阻止してきたと思っていたが、そうではない。DUを使用した戦争、これは核そのものだ。DUのような非人間的な兵器の使用を絶対に許してはならないと思う。
 長く反核運動をつづけてきた森瀧さんはいまなお市民の立場から精力的に国際的な反核運動をつづけている。米国のデタラメな説明を科学的にも証明するための朝鮮報告だった。
 ピースデポの副代表の田巻一彦さんは「市民社会が構想する北東アジア」と題して報告した。
 平和憲法体系に対立する有事法体系といかに闘うか。それは@国際法の支配にたち帰ること、A我々の安全だけでなく、他国の人びとも安全と感じるような体制づくり、B我々の人権だけでなく、他人の人権も守ることの三つの原則を前提にすべきだ。
 有事法制に反対する闘いは、単に批判するだけでなく、これと拮抗する構想をつくるべきだ。北東アジア非核地帯構想は三つの非核国の安全を米国、中国、ロシアの核保有国が保証する必要がある。憲法が許容する専守防衛の徹底を原則とすべきだ。専守防衛を地域的枠組みのなかで具体化することを考えて、例えば東北アジア専守防衛地域の実現に向けて作業を開始する必要がある。
 田巻さんの市民運動の実践には耳を傾けるべきものがすくなくないが、「専守防衛」論は村山談話と同じ路線であり、憲法論からみても、また実際の反戦運動の構築の課題から見ても正しくないと思う。
 米国で放射能と公衆衛生問題に取り組む独立系科学者のローレン・モレさんも発言した。
 米国などのボスニア、コソボにつづくアフガン、イラクの戦争はG(金)O(油)D(薬)戦争だ。米国ではメディアもいま検閲状況にあり、自由な報道がない。九・一一以降、米国の反戦運動は高まり、イラク戦争反対ではかつてない規模まで高揚した。この高まりをささえたエネルギーは全国各地で毎日のように行なわれた小さな運動の積み重ねだった。一月の集会は警察発表は五千人だったが、わたしたちがヘリで撮った写真で確認したら四〇万人だった。集会には往年のジョーン・バエズなども参加した。三月二十日直前のデモは五〇万人だった。ありとあらゆる分野の人びとが参加した。そのときアメリカ人は監獄から脱出したと思った。
 いま日本は米英によるイラク占領に加担するように誘惑されてる。日本の反戦活動家にはたいへんな責任がある。軍隊のイラク派兵を止める責任がある。地球規模で考え、地域で行動しよう。九月二七日はANSWERが呼びかけて、全世界的行動を準備している。これを成功させよう。
 私は他者が生きられるように、自らはより少ないもので生きていきたいと思う。
 劣化ウラン弾問題に詳しいモレさんからのイラク戦争批判は参加者の心に響いた。
 集会は最後に「8・6ヒロシマ平和のつどい2003宣言」(別掲)を採択した。

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市民による平和宣言2003

 有事関連法と武装自衛隊のイラク派兵法が成立したと言う戦後初の情勢の中で、五八回目のヒロシマ・デーを迎えたことに強い憤りと危惧を覚えます。
 一昨年、アメリカ東部で起きた「九・一一事件」の後、ブッシュ政権が、「テロを叩く」ことを錦のみ旗として、アフガン「報復」戦争を始めてから、暴力の連鎖が止まりません。ブッシュ政権は、「悪の枢軸」呼ばわりした三国を含む七つの国に対する核兵器使用計画の策定すら臭わせ、軍事による一国主義の貫徹をめざしてきました。そして二〇〇三年三月、大量破壊兵器保有の「疑い」を理由に、「自衛」の名においてイラクヘの一方的な先制攻撃をしかけ、劣化ウラン弾やクラスター爆弾など非人道的な準大量破壊兵器を使用し、破壊の限りをつくしました。これを戦争犯罪と言わずして何というのでしょうか。
 この国は、五八年前の八月六日、広島に原爆を投下し、何万人もの人々を無差別に虐殺し、生き残った人々にも原爆症やガン、白血病などの晩発性障害を残しましたが、今もその体質は保持されたままです。その苦しみと恐怖を知るヒロシマは、国際杜会が原爆投下を犯罪であると明確に位置づけ、世界で唯一、原爆投下を実行し、今またイラクヘの先制攻撃をしたアメリカ政府の罪を明らかにするようくり返し求めます。
 しかし、「イラクの解放」をめざしたにもかかわらず、戦闘終結宣言が出た後も武力衝突が続き、米英兵の死者が毎日のように出ています。その上、大量破壊兵器は見つからず、「悪の枢軸」呼ばわりした根拠の一つである「ウラン購入」情報が虚偽であったことまで判明し、イラク戦争は何一つ大義のない侵略戦争であったことがいよいよ明らかです。
 更にイラン、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)などの「核拡散」に矛先をあてつつ、強硬な外交政策を採り、これに対抗せざるを得なくなった北朝鮮は、核兵器の保有発言をするという危険な外交が続いています。拉致や工作船は絶対に許せない行為ですが、その上で、あくまでも力の対決でなく、二〇〇〇年六月の「南北共同宣言」、二〇〇二年九月の「日朝ピョンヤン宣言」を基本に、東北アジアの非核化や相互不可侵条約を作ることをめざすべきです。
 ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下が国際法違反として明確な審判を受ける日まで、アメリカは『戦争中毒』のままなのでしょうか。自らの保有核兵器に対しては全く廃棄への努力を怠り、むしろ小型核兵器の開発、核実験の再開などを進めようとしています。
 他方、日本は、戦時下の派兵を可能とする「テロ特措法」により海上自衛隊の補給部隊の派兵を今も続けています。それも、世界に二つしかない被爆県にある呉、佐世保から戦時下の海外派兵が行われていることは、核兵器廃絶と恒久平和を求める立場から絶対に許せません。七月一五日には、呉から補給艦「とわだ」が三回目の派兵に出動したばかりです。また、広島では、来春開校予定の中高一貫校で使用する教科書に、アジア太平洋戦争を肯定的に描き、核廃絶を空論の如く扱う扶桑杜の教科書が採択される恐れが出てきています。
 その上、有事法制やイラク「復興支援」特措法を作り、先制攻撃論の「ブッシュ・ドクトリン」に加担する道を選択し、一一月にもイラク復興文援の名の下に、自衛隊のイラク派兵が行われようとしています。これらの法は、政府が憲法九条を捨てようとしていることを宣言し、自衛官から戦死者が出ることを前提としています。「あなたは、子どもたちに「戦争ができる国」を残したいのですか?」との問いが爆心地の地中深くから、無数のうめき声となって、聞こえてくるようです。
 この状況を変えるために、二〇〇〇年のNPT再検討会議の到達点を振り返り、その履行を求めていくことをヒロシマから訴えます。この時、核保有を正当化されているアメリカなど五つの『核保有国』が、「保有核兵器の完全廃棄に関する明確な約束」をしたことは、核兵器廃絶に向けた二〇世紀の最高の到達点です。これにこだわることを、被爆地から世界の人々に向けて改めて呼びかけます。核廃絶は、地球上の全ての生命体の共通の意志です。そのメッセージを世界に広げていくことは、ヒロシマの責務です。
 アメリカの核政策はアメリカ市民が当事者ですが、そのアメリカ市民に広島・長崎を初めとした日本の市民と自治体が連携して核兵器廃絶と恒久平和を訴え統けることは大きな影響力を持ちえるはずです。国際的な視野を持って、市民が相互につながる必要があります。市民の力でブッシュに象徴される力の政治を根底から変えていきましょう。

 二〇〇三年八月六日

 8・6六ヒロシマ平和のつどい二〇〇三年(代表:湯浅一郎)参加者一同

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二〇〇三年広島平和宣言


 今年もまた、五八年前の灼熱地獄を思わせる夏が巡って来ました。被爆者が訴え続けて来た核兵器や戦争のない世界は遠ざかり、至る所に暗雲が垂れこめています。今にもそれがきのこ雲に変り、黒い雨が降り出しそうな気配さえあります。
一つには、核兵器をなくすための中心的な国際合意である、核不拡散条約体制が崩壊の危機に瀕しているからです。核兵器先制使用の可能性を明言し、「使える核兵器」を目指して小型核兵器の研究を再開するなど、「核兵器は神」であることを奉じる米国の核政策が最大の原因です。しかし、問題は核兵器だけではありません。国連憲章や日本国憲法さえ存在しないかのような言動が世を覆い、時代は正に戦後から戦前へと大きく舵を切っているからです。また、米英軍主導のイラク戦争が明らかにしたように、「戦争が平和」だとの主張 があたかも真理であるかのように喧伝れています。 しかし、この戦争は、国連査察の継続による平和的解決を望んだ、世界の声をよそに始められ、罪のない多くの女性や子ども、老人を殺し、自然を破壊し、何十億年も拭えぬ放射能汚染をもたらしました。開戦の口実だった大量破壊兵器も未だに見つかっていません。
 かつてリンカーン大統領が述べたように「全ての人を永遠に騙すことはできません」。そして今こそ、私たちは「暗闇を消せるのは、暗闇ではなく光だ」という真実を見つめ直さなくてはなりません。「力の支配」は闇、「法の支配)」が光です。「報復」という闇に対して、「他の誰にもこんな思いをさせてはならない」という、被爆者たちの決意から生まれた「和解」の精神は、人類の行く手を明るく照らす光です。
その光を掲げて、高齢化の目立つ被爆者は米国のブッシュ大統領に広島を訪れるよう呼び掛けています。私たちも、ブッシュ大統領、北朝鮮の金総書記をはじめとして、核兵器保有国のリーダーたちが広島を訪れ核戦争の現実を直視するよう強く求めます。何をおいても、彼らに核兵器が極悪、非道、国際法違反の武器であることを伝えなくてはならないからです。同時に広島・長崎の実相が世界中により広く伝わり、世界の大学でさらに多くの「広島・長崎講座」が開設されることを期待します。
また、核不拡散条約体制を強化するために、広島市は世界の平和市長会議の加盟都市並びに市長に、核兵器廃絶のための緊急行動を提案します。被爆六〇周年の二〇〇五年にニューヨークで開かれる核不拡散条約再検討会議に世界から多くの都市の代表が集まり、各国政府代表に、核兵器全廃を目的とする「核兵器禁止条約」締結のための交渉を、国連で始めるよう積極的に働きかけるためです。
 同時に、世界中の人々、特に政治家、宗教者、学者、作家、ジャーナリスト、教師、芸術家やスポーツ選手など、影響力を持つリーダーの皆さんに呼び掛けます。いささかでも戦争や核兵器を容認する言辞は弄せず、戦争を起こさせないために、また絶対悪である核兵器を使わせず廃絶させるために、日常のレベルで祈り、発言し、行動していこうではありませんか。
 また「唯一の被爆国」を標榜する日本政府は、国の内外でそれに伴う責任を果さなくてはなりません。具体的には、「作らせず、持たせず、使わせない」を内容とする新・非核三原則を新たな国是とした上で、アジア地域の非核地帯化に誠心誠意取り組み、「黒い雨降雨地域」や海外に住む被爆者も含めて、世界の全ての被爆者への援護を充実させるべきです。
五八年目の八月六日、子どもたちの時代までに、核兵器を廃絶し戦争を起こさない世界を実現するため、新たな決意で努力することを誓い、全ての原爆犠牲者の御霊に衷心より哀悼の誠を捧げます。

 二〇〇三年八月六日

 広島市長 秋葉忠利


老朽化し事故を続発する伊方原発を廃炉に!   四国ピースサイクル
   
 第一五回四国ピースサイクルは、七月三一日に高知県高知市を出発し、八月三日に愛媛県松山市に到着まで、晴天の夏の中を約四〇〇キロメートルを自転車で実走した。

 七月三一日(木)
 高知県高知市から窪川町までの約一〇〇キロメートルでは高知水道労組青年部八名とその他二名が参加し、自転車五台で走った。窪川町の島岡幹夫さんの所で、呉ピースサイクル七名と合流した。

 八月一日(金)
 高知水道労組青年部の横断幕の引継ぎを行い、その後、窪川町役場で島岡町会議員の立会いで窪川町長に『老朽化し事故を続発する伊方原発を廃炉に』という昨年から二年目となる要請書を提出しようとしたが、町長はブラジルに行き留守で助役に提出した。要請書の第一点は、老朽化し事故を続発する伊方原発の廃炉を求める政府への要請で、第二点は、「有事関連三法」に関する政府への要請であった。助役は『町長に伝えます。』と述べた。高知水道労組に見送られ窪川町を後にした。
 午後、愛媛県宇和島市に入り自転車を宿舎に置き宇和島水産高校を訪れ、えひめ丸の慰霊碑に献花した。

 八月二日(土
 これまでピースサイクルでお世話になった浄満寺で焼香した。国道を進み八幡浜市の夫婦岩公園で昼食をとった。午後にJR八幡浜駅前で、国労二名と一緒にビラ配布し、伊方原発へ自転車を走らせた。
 伊方原発のゲート前で、南海日日新聞の近藤さんと合流し、閉鎖したゲートから四国電力の藤岡宏一総務課長らに『老朽化し事故を続発する伊方原発をストップしてください』という抗議文を手渡した。抗議文では、『昨年九月二六日、四国電力の伊方原発一号機のタービン発電機のコンクリート架台で、アルカリ骨材反応が原因のひび割れが多数見つかり、四国電力は住民や県などにも報告していなかった。原子力資料情報室は内部告発を発表し、四国電力の損傷隠しが明確になりました。四国ピースサイクルは、四国電力に対し伊方原発の機器が老朽化しており、大事故の危険性が増大していることを訴えてきました。今回、伊方原発一号機のコンクリート架台でひび割れが見つかり、四国電力の損傷隠しが明らかになり、損傷隠しや事故隠しは住民の生命を軽視したものです。』と訴えた。藤岡宏一総務課長は、『一号炉も二号炉も三号炉も安全だ。』とシラを切った。
 その後、原発に向かい『廃炉にするまで闘うぞ!』、『事故隠しをするな!』、『自然をよごすな!』などシュプレヒコール。
 『原発から子どもを守る女の会』、国労の二名、と交流会をもった。近藤さんの話では『一号炉も二号炉もボロボロであるが、今までのように補修に経費をかけないようにしているのではないか』と述べた。全員で、事故を続発させる伊方原発が廃炉になるまで闘うことを確認した。
 八月三日に愛媛県松山市に到着。(広島通信員)

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酷暑の中を走破しヒロシマに到着 8・15には自治体訪問へ おおさかピースサイクル

 七月三一日、愛知から走ってきた三名の青年を含む京都の仲間と大阪市役所で引継ぎをおこなう。
 八月一日、おおさかピースサイクルは、広島に向けて出発しました。
 七月中は、涼しい日が続いており楽なピースサイクルを期待していたのですが八月に入ると暑い日が続き、例年どおり酷暑の中でのピースサイクルでした。
 今年のルートは、一日に大阪を出発し西宮で兵庫ピースと合流。
 二日目は、高砂を出発し海岸線の峠を越えて岡山県の日生へ、赤穂で長野ピースの四人と合流。
 三日目は、国道二号線を福山まで。
 四日に呉に入り八月五日広島の仲間が出迎えるなかヒロシマ平和公園に到着しました。
 今年の大阪ピースサイクルは、愛知や長野の仲間の参加でにぎやかになりましたがやはり参加者の減少は否めません。
 しかし、家族で参加したり親子でヒロシマまで完走するなど多くの人と出会い感動を得ることができました。

 大阪ピースサイクルは、引き続き八月一五日に自治体訪問ピースサイクルを行い地域自治体から戦争反対の声をあげていきます。自治体訪問の最後はアメリカ領事館への抗議申し入れを行います。
 夏はピース!
 がんばります。(おおさかピースサイクル参加者・大阪ポストマン 西野)

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浜岡原発止めろ!自衛隊はイラクへ行くな!  静岡ピースサイクル

 ピースサイクル静岡は七月二四日、浜岡原子力発電所へ「浜岡原発を直ちに止めろ」の申し入れ行動を行った。
 申し入れ書の内容は、@ひび割れの補修すらしていない四号炉の運転再開は、絶対に行わないこと、A東海地震が過ぎ去るまで、三号炉・四号炉は止めること、B老朽化している一号炉・二号炉は、廃炉にすること、C中部電力は、浜岡周辺の住民や市民団体にたいして、つつみ隠さず情報を提供すること、の四項目であり、東海地震による原発震災を防ぐための緊急課題ばかりである。
 これに先立つ六月三〇日から七月一一日に、札幌で開催された地震の国際学会では、東海地震によって起きる浜岡原発の大事故の危険性について、地震の専門家から、「極めて危険」の発言が相次いでいる。
 申し入れに対応した中電の社員は、ピースサイクルのメンバーからの「ひび割れの補修をせずに五年間大丈夫だということだが、東海地震にも耐えられると保障できるのか」と言う質問に、「あなたは栽判(昨年四月から浜岡原発を止めるための仮処分裁判で二〇〇〇名近くの原告がいる)の債権者なのか。そうなら答えられない」と、不遜な対応に終始した。
 また、警備係りは県讐OBが私服姿で陣頭指揮をする異常さであり、およそ、公共性を担う会杜の対応ではないため、メンバーは強く抗議して次の目的地へ向かった、
 翌二五日は、浜松市役所で、浜松基地のAWACS配備問題と八月に第二次稼働予定の中止などを中心に話し合いを行った。
 次に、航空自衛隊浜松基地に対して、@政府防衛庁は有事法案を撤回すること、A日米共同訓凍へのAWACS派兵を中止すること、B空中給油基機の導入を中止すること、などの申し入れを行った。
 いま、自衛隊のイラク派兵という緊迫した状況の中で、わたしたちは、「自衛隊はイラクヘ行くな、自衛隊員は死ぬな、イラクの民衆を殺すな」を繰り返しアピールして、反戦・平和の声をひろげていきたい。(静岡・新山)


市民文化フォーラム8・15集会   『希望の世界地図』を創るために

 今年の八月十五日、首都圏では豪雨にもかかわらず平和集会には多くの人びとが参集した。
 国民文化会議を継承する「市民文化フォーラム」は、「二〇〇三年八・一五集会」を「『有事体制』下の平和構想……『希望の世界地図』を創るために」をテーマにして、東京の日本教育会館で開催した。
 集会には会場いっぱいの五〇〇名余が参加した。「平和主義の再構築に向けて」を姜尚中さん(東大教授)が、「有事立法と教育基本法の『改正』」を佐藤学さん(東大教授)が、「北東アジアの平和秩序を考える」を李鐘元(イ・ジョンウォン・立教大教授)が講演した。

 姜尚中さんの話

 「地域主義の再構築」から平和を考えたい。
 戦後日本の平和主義は日本という国と世界という枠ぐみで始まり、地域という視点が欠落してきた。
 日本の近代化の過程ではそれが日本帝国主義という形をとっていったとしてもアジアという視点があった。戦後、良心的知識人は大日本帝国の植民地主義・帝国主義の実在に向き合っただろうか。政府も民間も地域主義を封印してきた。
 しかし、冷戦集結後、世界は一変した。湾岸戦争当時、米国は国連と協調していたので、日米安保と国連中心主義には矛盾が生じなかった。国連を通じて日本は国際貢献ができた。
 イラク戦争では国連対米国となった。小泉首相は米国の戦争を支持したことで日米安保の性格も根本から変わった。今では日本の専守防衛のための攻撃や核武装論さえでてくるようになった。湾岸戦争やイラク攻撃よりも北朝鮮問題は日本にとっては切実だ。拉致問題で北朝鮮は悪の権化のようにいわれている。果たしてそうなのか。韓国にとって北は対
話の相手であり、共存すべきパートナーとなっている。日本では植民地主義と帝国主義の清算ができぬままに拉致問題がつきつけられてしまった。日本と朝鮮、一〇〇年近く関係がつくれない隣国というのは世界に例がない。
 今回、北朝鮮の核問題で六者協議が開かれることは画期的だ。外務省が北東アジアという言葉を外交文書でつかったのは初めてだ。米国がいま世界でやろうとしていることは、力による秩序こそ米国の理想の実現だと考え実行している。しかし六者協議では米国は六者の一つとして入った。
 会談が成功すれば、南北朝鮮の共存や地域の秩序形成が始まるかもしれない。冷戦後の世界で遅れていた北東アジアの秩序形成が始まる。この過程で歴史と向き合える条件ができるかもしれない。
 そして日本の平和主義が、国と世界の間に地域を生み出し、足元と地域のルネッサンスとなることを期待したい。六者協議は平和を回避する最後のチャンスだ。

 李鐘元さんの話

 北東アジアは難しい地域だ。冷戦後、地域の機構がない唯一の地域だ。この域内諸国は歴史的にも地勢的にも格差が大きく特種な地域でもある。韓国でも沖縄でも反米ナショナリズムの大きな運動はおこるが、イラク反戦運動は世界とケタが違う。
 日本の戦後は、朝鮮戦争で日米安保と自衛隊ができ骨抜きになった。そして五〇年後に北朝鮮からの核問題で新たな再武装と日米安保の変質という曲がり角にたった。
 冷戦の終結は米国からみれば一方的な勝利だが、欧州からも見る必要がある。欧州では五〇年代からフランスが、六〇年代からはドイツが、接近して変える政策をとってきた。異なる体制の共存とゆるやかな結合が冷戦の変化と崩壊に役立ったとみることができる。それがヘルシンキプロセスや全欧安保となった。
 では朝鮮半島の冷戦は崩れないのか。二〇〇〇年六月の南北首脳会談で、互いに吸収統一を放棄した。金大中大統領の五年間で南北の政治・軍事・文化・相互交流など様々なレベルでの会談が進んだ。今では韓国で北朝鮮と戦争をしなければならないと思う人は少ない。ノ・ムヒョン大統領は、就任演説でも日本の国会演説でも北東アジアという言葉を多用している。韓国では地域がブームになっている。六者協議が進めば最悪の事態にはならないだろう。


平和遺族会全国連絡会

  
いまこそ非戦の憲法を活かそう 非核・平和・共生の北東アジアを創ろう

 「いまこそ非戦の憲法を活かそう 非核・平和・共生の北東アジアを創ろう」とのタイトルで平和遺族会全国連絡会(小川武満代表)主催の8・15集会が、八月十五日午前、都内で開かれ、二百数十人の人びとが参加した。集会のあと参加者は靖国神社周辺のデモ行進を行なった。
 集会では小川代表の挨拶のあと、西川重則事務局長が「有事法制成立後の8・15を迎えて」と題して要旨、つぎのような貴重報告をした。
 靖国神社の新遊就館の建設は本格的な戦争教育施設であり、近代日本の侵略戦争は全て自衛戦争だという観点から、その戦死者は英霊だというものだ。私たちはいまこそ歴史の真実を語らねばならない。小泉首相は靖国参拝は年に一回と言ったのだから、本日は参拝しないというが、逆に言えば年に一回はかならず参拝するといことだ。この憲法違反の行為に沈黙してはならない。私たちは記憶の継承を重視し、運動している。いまこそ非戦の憲法を活かす運動をしよう。
 記念講演は在日大韓基督教川崎教会名誉牧師の李仁夏さんで、演題は「『有事』のない日本と北東アジアの平和を語ろう」というもの。
 日本人にはふたつの顔がある。ひとつは先般、韓国のノムヒョン大統領が来日した時にTBSで対談した百人の若者たち、日韓関係の歴史を真剣に学ぼうとし、北東アジアの平和を願っている人たちだ。もうひとつは新潟港に入る予定だった万景峰号の阻止を叫んでデモをしていた、信じられないほど恐い顔をしていた人たち。いまのこの歯止めがきかないような雰囲気が恐い。もはや危険水域に達しているのではないか。
 ノムヒョン大統領は来日した時に、「北朝鮮の脅威を叫んでいる人びとを脅威に感じている人びとが韓国には多い」と指摘した。
 平和へのオプションは「平壌宣言」しかない。宣言は問題が多いという人もいるが、日朝のトップが調印したこの宣言には「謝罪」と「経済交流」が入っている。これを大切にすべきだ。
 真実と和解と平和を求める市民委員会を立ち上げよう。平壌宣言を実現する運動をすすめよう。北朝鮮への人道支援運動をすすめよう。
 集会は最後に、ピースボートのチョウ・ミス共同代表の「イラク反戦・コリア反戦の輪を」と、日本国際ボランティアセンターの寺西澄子コリア担当の「北朝鮮への人道支援の意義について」というアピールをうけた。


シンポジム「不戦・非核の北東アジアを」

 朝鮮半島をめぐる六者会議も始まろうとしているなか、この意義と市民の課題をさぐるための市民シンポジウムが行なわれた。
 実行委員会の主催で八月十四日、午後、都内で開かれたシンポジムは「不戦・非核の北東アジアを」という題で、内山隆、久保田真苗、佐高信、高田健、津和慶子、福山真劫、吉武輝子の各氏らが呼びかけ、司会は雑誌『世界』の岡本厚編集長、問題提起者は土井たか子(社民党党首)と秋美栄(韓国新千年民主党国会議員)で、討論の発言者が朱建栄(東洋大学教授)と姜和中(東京大学教授)の各氏。
 社民党の土井党首は、二国間同盟から「多国間協調」がポスト冷戦の歴史の流れだ。北東アジアにおいて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発問題をめぐって情勢は一触即発の危機があるが、朝鮮半島の非核化と核問題の平和解決をめぐって、近く、六ヵ国協議が開かれる見通しになったことを歓迎する。そして、社民党はあらためて従来からの主張である「非核不戦国家宣言」「北東アジア総合安全保障機構の創設」「北東アジア非核地帯の設置」を提唱すると提起した。
 韓国から駆けつけた秋議員は、いま韓国では七〇%の人びとが「太陽政策」を支持し、南北交流推進を七五%の世論が支持している。太陽政策とは、堅固な安保体制を通じて平和を維持する一方、北朝鮮が自ら変化と改革の道に出てくるのに適した環境をつくり、朝鮮半島の平和と南北間の平和共存を実現しようとする政策だ。
 総論レベルから脱却できなかった歴代政権の北朝鮮政策と異なり、金大中政権は具体的な各論を持った。金大中政権によって南北間の民間レベルの対面と書簡の交流は急増し、政府間の交流や民間の物的交流も飛躍的に増大した。核危機などを見て「太陽政策はうまくいっていない」という人がいるが、核危機があるからこそいま太陽政策がいっそう大切なのだ。核危機は太陽政策の前からあったのだ。ノムヒョン政権のもとで太陽政策がゆらいでいるが、北東アジアの平和と繁栄のための政策として再び飛翔しなければならない。
 姜教授は、韓国は現在、民主化の第二段階に入っている。今回の六者会談は平和的解決のためのラスト・チャンスだ。もし失敗すれば、米国は国連安保理にたいして北に対する経済制裁を提起するだろう。その時に中・ロは反対しきれないだろう。そしてその先は破局だ、と指摘した。
 そして、六者会談でなんらかの不可侵協定が提起されれば北朝鮮の非核化は実現する。さらにモンゴルを含めた北東アジアでの非核地帯構想を実現するには、日本の非核三原則の法制化を実現しなくてはならない。
 この過程で日朝国交正常化の実現も必要だ。そしてどのような手順で日米安保の非核システムを実現するのかという問題になる。
 北朝鮮の軍備の削減は米国と南北朝鮮による包括的な軍備・軍縮管理の協議が必要で、その際には在韓米軍の削減も含めた協議とならざるをえないだろう。
 シンポジウムでは各パネリストは間近に迫った六者会談の重要性にそれぞれ注意を促し、北東アジアの非核・平和の実現のために、今後もこうした努力を続けようと確認した。


東アジアの平和をめざし、天皇制の戦争責任を追及する8・15行動

 八月一五日、東京・全水道会館で、一五〇人が参加して、「東アジアの平和をめざし、天皇制の戦争責任を追及する8・15集会」が開かれた。
 はじめに主催者が基調提起をおこなった。
 日本は戦争責任を取らないまま再び戦争を行おうとしている。イラク戦争への日本の参加で新しい戦死者の可能性がでてきた。国家による死者の追悼・慰霊施設がふたたび必要とされる時代に入った。われわれは、反戦運動と結合した反靖国、反追悼施設運動を強化していこう。
 つづいて、在日韓国人問題研究所の佐藤信行さんが講演した。
 日本にとって日朝国交正常化とは、「歴史の克服」「東アジアの平和」構築であるべきはずであり、戦後処理をめぐる最後の国家間条約となるはずだった。しかし、昨年の九月に「日本人拉致事件」が前面化するとともに大きく逆転した。それ以降、日本の植民地支配の歴史の無視、冷戦下の東アジアにおける日本の歴史の無視、、「在日」の不在、朝鮮民主主義人民共和国の民衆の不在の言論が蔓延し、日本の国家主義・排外主義が正当化されようとしている。拉致被害者とその子どもたちの「救済」については、交渉の継続による真相究明と謝罪・補償が進められるべきで、また子どもたちがどこに住むかなどの自己決定権の保障がなされなければならない。
 一九五九年から朝鮮民主主義人民共和国への帰還事業がはじまったが、大部分の在日の人びとの出身地は「南」だ。それなのに「北」へ「帰った」のには、日本社会で差別を受け社会的・経済的に「絶対的困難」にあったこと、朝鮮戦争とその後の長期化する祖国の南北分断、当時の「南」の疲弊状態などによる。ところが日本政府などの判断は次のようなものであった。目本赤十字杜『在日朝鮮人帰国問題の真相』(一九五六年九月)は言っている。「在日朝鮮人は思想的理由からよりも寧ろ生活の必要性から、簡単に北鮮(ママ)への帰国を希望しているのではないかと思われる」「「日本政府は、はっきり去えば、厄介な朝鮮人を目本から一掃することに利益を持つ」「在日朝鮮人の問題さえ片付けば日本側としてはサバサバして、日本と北鮮(ママ)との関係は寧ろ問題が無くなってしまうことになる」「われわれ日本人としては少くても半世紀に亘り、同じ同胞として生活を共にしてきた朝鮮人に対し……普通一般の外国人として割り切ってしまうのは、法律的に又政治的には正しいとしても、人間的―或は情誼的には―どうかと思うのが日本本赤十字の考えである」と。
 日韓条約、日韓法的地位協定は、日本の歴史的責任の放棄、在日コリアンの分断としてあった。やがて締結される日朝間の条約ではくりかえされてはならないことである。
 かつて日本は植民地を抱える「多民族帝国」であった。戦後日本は旧植民地出身者やアイヌ民族、沖縄民族を周縁化することによって神話として、なおかつ法制度上「単一民族国家」をうちたてたが、それが戦後日本の「平和と民主主義」の一面としてあった。こうした神話をつくらせてしまったツケがいままわってきているのだ。
 いま、朝鮮学校の子どもたちに対する卑劣な嫌がらせ・迫害がつづいている。それも被害は初級学校高学年や中級学校の女子に集中している。自民党の麻生太郎や都知事の石原慎太郎などの民族差別人種差別発言がそうした風潮を煽っている。これはマイノリティーへの社会的犯罪そのものだ。
 つづく講演は、小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団事務局の菱木政晴さん。
 いま大阪地裁に、小泉、国、靖国神社を被告として訴訟をおこしている。私は真宗大谷派の僧侶でもあるが、神道の鳥居や玉串などが嫌いだから反靖国なのではない。それは、靖国は神道の外見をしているが、実はそれとは違う国家神道であり、国のために死ぬことは立派なことだ、感謝する、見習うべきだ、後に続け、という内容をもっているからである。
 最後に集会実行委員会参加団体の、日の丸・君が代の強制に反対する市民運動ネットワーク、、日の丸・君が代強制反対意思表示の会、昭和天皇記念館建設阻止団、日韓民衆連帯全国ネットワーク、新しい反安保実Z、靖国神社なくそう八月行動から決意表明がなされた。
 集会につづいてデモにうつった。


(寄 稿)

      「部落」の蝦夷起源説について     
北田 大吉

 「部落」の起源をめぐる議論は、まだ始まったばかりである。「部落」の源流にはさまざまなものが存在する。それらの一つに「蝦夷起源説」も当然、検討の対象になるべきであろう。本論は、「部落」の起源を自由に科学的に論ずる機縁になればと願い、あえて「蝦夷起源」説の再検討を提起するものである。

 「部落」の起源についてはいろいろの説が樹てられて来たが、一九六〇年代までは「江戸起源」説が圧倒的な支持をうけてきた。しかし八〇年前後に部落研究者の意識のなかで静かな革命が起こり、「中世起源」説が市民権を得つつある。「部落」の内容についての検討を欠くことはできないが、紙数の関係でそれにあまり触れることができない。
 「蝦夷起源」説には、高本力『部落の源流』、石渡信一郎『日本古代国家と部落の起源』等があるが、古くは一七一七年の谷重遠の『秦山集』、一八四四年の帆足万里『東潜夫論』、一八三七年小寺清之『老牛余喘』等がある。
 「大化の改新」(六四五年)によって唐の制度を採り入れた大和朝廷は、「まつろわぬ」民を征討して律令体制のもとに組み入れるために北と南に武力を差し向ける。北については六五八年の安倍比羅夫の派遣に始まり、一一五九年の平治の乱にいたるまでの約五〇〇年間「蝦夷征伐」がおこなわれ、その間、蝦夷(えみし)は生命と生活を常に脅かされ続けた。
 律令政府の度重なる征討戦争で直接に失われた蝦夷の生命は測り知れないが、たとえば七七四年から三八年間続いた日高見国侵略戦争において、律令国家が動員した兵力は、@七七四年から七七七年に二万七〇〇〇人、A七八〇から七八一年に数万余人、B七八九年に五万二八〇〇余人、C七九四年に一〇万人、D八〇一年に四万人、E八一一年に約二万人である。蝦夷は勇猛をもって聞こえていたにしろ、日高見国の蝦夷の人口が非常に少なかったら、律令国家はこれほどの大兵力を動員する必要がない。七八九年の戦争では、律令国家の大軍五万二八〇〇人がアテルイの率いる一五〇〇人の蝦夷軍に大敗している。高橋崇『蝦夷』はアテルイの兵力を二〇〇〇人前後と見ている。
 沢田吾一の『奈良町時代民生経済の数的研究』によれば、この戦争で焼かれた蝦夷の村落は「一四村」、「宅」は合計して「八〇〇許」で、一村平均六〇〇〇余人の蝦夷が戦場地域に居住していたという。人口約六七〇〇人中約二〇〇〇人弱が蝦夷の戦士ということになる。
 しかし、この人口は岩手県南部全域の蝦夷人口の一部に過ぎない。当時、岩手県南部全域に居住していた蝦夷の総人口は少なめに見積もっても三万人を大幅にしたまわることはなかった。七世紀末の宮城県北部の蝦夷人口を三万人前後とみなして合計すると、八世紀末の蝦夷総人口六万人前後がこれら両地域に居住していたことになる。

 註;「日高見国」とは江戸時代直前まで蝦夷の居住地を指す言葉であった。当初、蝦夷の居住地は現在の茨城県南部まで拡がっていたが、律令国家の侵略によって次第に宮城県北部・岩手県南部まで追い詰められた。私見では、現在の静岡県、あるいは古くは奈良県まで「日高見国」の版図を跡付けることができる。

 そこで戦争で殺されたものも含め蝦夷の行方不明者がどのくらいに上るかをみてみよう。
 八〜九世紀初頭に俘囚として移配された日高見国南部の蝦夷の数を一万人前後、この地域に残された数を一〜二万人とすると、合計で二〜三万人となるが、これを蝦夷の総人口の六万人から引くと残りは三〜四万人前後となる。これが九世紀の律令国家の侵略によって行方不明となった蝦夷の数である。これに日高見国北部と出羽で行方不明となったもの一万名を加えると、八〜九世紀に日高見国全域と出羽で合計四〜五万人前後の蝦夷が行方不明となったことになる。
 これらの行方不明者のうち、戦死者以外のものは律令政府によって関東以南に強制移配されたことになるが、律令国家にはその詳細な記録は残されていない。一般に蝦夷といっても、かなり早い時期から律令国家に対して恭順の意志を示して、なかには「蝦夷征伐」に積極的に参加する蝦夷もいた。いわゆる「荒蝦夷」に対する「熟(にぎ)蝦夷」である。蝦夷は農耕とりわけ水田耕作に従事しなかったといわれるが、蝦夷のなかには水田耕作を受け入れたものもいる。律令国家は蝦夷支配をおこなうに当たり、蝦夷地のなかに前線基地となる柵(き)を設け、この周囲に普段は水田耕作をおこない、一旦緩急あれば武器を採って闘う一種の屯田兵制度を採っていたが、蝦夷のなかにはこれに加わるものも少なくなかった(「柵養の蝦夷」きこうのえみし)。蝦夷を「良民化」するとは、いずれ班田を受け取り、稲をつくり、租を納める臣民にすることである。
 律令国家の対蝦夷政策は、従順で抵抗の意志を失った蝦夷は現地に留めて「良民化」し、あくまでも反抗の意志を翻さない蝦夷は現地で抵抗を続ける蝦夷から引き離し、抵抗意志の度合いによってできるだけ遠方に移配することであった。したがって遠方に移配される蝦夷は農耕をおこなわず、生活態度も習慣も「良民」とは大いに異なっていたから、「良民」とは隔離しなければならず、しかし衣食住は国家で面倒をみなければならず、このような俘囚料はすべて「良民」からの搾取強化によるほかなかったから、俘囚の配置は迷惑がられ、俘囚に対する「差別」意識は地方官を先頭にして強まる一方であった。
 しかし律令国家自体は、原則として、俘囚の移配を刑罰とは考えていなかった。八〇〇年五月の桓武の勅で、蝦夷移配の目的を「野俗を変じて、風化に靡かしめんが為」と説明している。また七九八年六月二一日の勅では、相模・武蔵・常陸・上野・下野の諸国に移配された夷俘(俘囚に同じ)が望郷の念を起こさないように、国司らは夷俘を常にいたわりめぐんで、衣服・食料などの生活必需品を毎年夷俘に支給するようにせよとある。
 しかし律令国家の俘囚移配の目的は、日高見国侵略のためであった。やがて奥羽の蝦夷のなかで、律令国家の侵略に抵抗せずに帰服した蝦夷をも俘囚(夷俘)として奥羽以外の地に移配したのは、かれらを抵抗する蝦夷と切り離し、かれらの居住地に律令国家の住民を移住させるのが主な目的であった。八一一年一〇月の勅で俘囚の移配を停止するが、それは文室綿麻呂の軍事作戦で、日高見国が完全に征服されたので、抵抗せずして帰服した蝦夷を俘囚として移配する必要がなくなったからである。
 陸奥・出羽に移住させられた律令国家の住民数は、八世紀前半だけで、七一四年、尾張・上野・信濃・越後等の民二〇〇戸を割いて出羽の柵に配する。七一五年、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六カ国の富民一〇〇〇戸を陸奥に配する。七一六年、信濃・上野・越前・越後四国の百姓各一〇〇戸を出羽国に付かせる。七一九年、東海・東山・北陸三道の民二〇〇戸を遷して出羽柵に配する。七二二年、柵戸一〇〇〇人を陸奥鎮所に配する。記録によると、八世紀後半には陸奥に一万二六〇一人、出羽に二五五一人の柵戸が移住しており、九世紀前半には陸奥に四〇〇〇人が移住している。一戸=一七・五八人として計算すると、八、九世紀には陸奥に三万五一八一人、出羽に一万六六一五人、両国合計で五万一七九六人が柵戸として移住したことになる。これとほぼ同数の蝦夷が引き換えに押し出され、奥羽以外の地に移配されたことになる。
 光仁天皇の時代。七七六年九月、陸奥では女子供を含めた三九五人が大宰府管内諸国に移配、出羽では三五八人が大宰府管内および讃岐に送られ、そのうち七八人は都にとどめて賎民とされた。桓武天皇の時代。七八九年、律令国家軍五万二八〇〇余人がアテルイ軍三〇〇+八〇〇人を攻撃したが大敗した。七九四年、陸奥・出羽両道より村々を焼き払いながら、逃げ遅れた女・子供・老人までみな捕虜とした。強硬分子である夷俘は家族ぐるみ関東以西の国々へ連行し、戦意の乏しいものは現地で農民にされ柵養の蝦夷とされた。移配される蝦夷は関東に入るや街道の要衝に少数ずつ分散配置して監視した。
 律令時代最重要視されたのは、一番が畿内、次が近畿、次が大宰府に通ずる山陽道、瀬戸内である。次は、東北経営のための最短路として多賀城まで伸びていた東山道を中路とし、東海道は準中路とし、山陰道は大陸からの防衛線として位置付けている。北陸道・南海道・西海道は小路とされている。
 防衛の焦点は西からの新羅、北からの蝦夷であった。東北からの敵が京へ進撃するには、必ず最短路の東山道を通る。東山道の上野国(群馬県)には俘囚郷が三つある。信濃国もそれに準じている。その先は俘囚の配置は薄く、近畿に重点が置かれている。
 西からの脅威には大宰府に重点が置かれ、次いで周防国(山口県)に俘囚郷がある。山陽道沿いと海岸線には少数ずつ連鎖状に配置し、加古郡と美嚢郡に夷俘郡を設けている。川河口付近は最後の防衛拠点として密集地点が存在する。内海の島々から沿岸は濃密に配置されている。
 配所は仮小屋で、蝦夷は逃亡に備えて常に監視されていた。周辺の住民は到着前から噂しきりで、未知の人々に対する恐れと好奇心に満ちていた。軍隊に率いられた集団は、女・子供・老人まで混じる家族ぐるみで、想像していた鬼のような人間ではなく、周辺にいる者たちと変わらなかった。蝦夷たちは故郷を失って囚われの身となり、周囲は色眼鏡でみる未知の人たちで親しく交わることもならず、孤立して政府の指示に従うしかない。農業社会のなかの異分子としてつまはじきされ、差別に泣かされる運命を強いられた。
 ここに昭和三六年(一九六一年)一一月一二日に早大部落問題研究会文学班が作成した『全国未解放部落分布図』がある。表記年代は昭和一一年(一九三六年)現在となっている。部落の所在地をドットで表現したものであるが、東北・北海道は白地で、関東では栃木県・埼玉県でやや濃度が高く、関西に至って濃度が高くなっている。最も濃度が高いのは大宰府のある福岡県で、次いで大阪周辺となっている。瀬戸内海沿岸は比較的高い濃度で連続的に「部落」が存在している。部落解放同盟の幹部に見てもらったところ、七〇年近く経っているにもかかわらず、現在も「部落」の配置はほぼこの通りであるという。問題は、この分布図がほぼ俘囚の配置先にぴったり重なることである。
 俘囚の配置先はほとんど先住の農民がいるところであり、したがって俘囚に与える口分田はない。俘囚の大半は「山夷」であるから、農耕の習慣もない。農耕といっても、せいぜい樹木を切り倒して焼畑にするような農耕である。また土地の占有の観念もない。他人のものは自分のものである。このころ仏教の影響で禽獣を殺して食べる習慣は忌避されつつあったが、蝦夷にとっては狩猟漁労が当たり前の生活である。このような生活習慣の相違も蝦夷に対する差別を助長した。政府は俘囚料を支払ったが、それは当座の域を超えて延長せざるを得ず、結局は住民の負担を増加させることになる俘囚料の過重な取立てもまた、蝦夷に対する差別意識を助長させるだけであった。
 移配された蝦夷に与えられた仕事は、主として外敵に備える防衛の任務であった。大宰府周辺諸国とか瀬戸内海沿岸諸国が、西からの脅威に対する防衛の最前線であった。蝦夷は住民が耕作・居住できない不毛の地でこのような任務に従事した。現在の軍隊もそうであるが、平時には訓練や演習以外にはとくに日常的な仕事がない。蝦夷は俘囚料という給料をもらって、防衛任務に従事したのである。島々の崎まで住民が農耕や漁労に使用している場合には、蝦夷は更にその先にある不毛な岬に配置されたのである。
 西からの脅威が少なくなってからは、外敵の防衛に代わって海賊の取締りが主たる任務となった。場合によっては、街道で暗躍する盗賊の取締りも蝦夷の任務とされた。これは住民にとって有難い仕事であったろうが、時には俘囚が自ら海賊になったり盗賊になったりする可能性も排除できない以上、「警察」は民衆の護民官として尊敬される存在であったとは言い切れない。
 いずれにせよ、捕虜として連行され、僻地に移配され、賎視されながら「防衛」「警察」任務に従事した蝦夷は、果たしていつ解放されたのであろうか。律令制度内にあった賎民はやがて解放され、したがって「部落」は古代の律令制内の賎民を源流とするものではなく、中世に新たに出現した賎民を源流と考えるのが定説になっているが、しかし「陵戸」のような律令制内賎民は現在でも「部落」として残存している。『橋のない川』の著者である住井すえ氏は、「御陵の周りには必ず部落がある」と述べたことがある。


石原都知事の靖国参拝の中止を要求

 今年も石原慎太郎都知事が靖国神社を参拝する構えであることが伝えられるなか、八月七日正午から、都庁の「都民のひろば」で石原都知事の靖国神社参拝に反対し、中止を求める集会が開かれ、約三〇人の市民が参加した。
 この集会の呼びかけは、平和遺族会全国連絡会、日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会、政教分離の侵害を監視する全国会議、靖国参拝違憲訴訟の会・東京の四団体によってなされ、不戦兵士・市民の会、日中友好元軍人の会、許すな!憲法改悪・市民連絡会、ふえみん・婦人民主クラブ、アンポをつぶせ!ちょうちんデモの会など多くの市民団体が賛同して行なわれた。
 「都民のひろば」での集会には毎回、当局の中止要求がマイクで集会を妨害するようにしながら行なわれるが、ことしは「つくる会」に加担する某都議がどなりこんでくるなどもあって特に威圧的だったが、はねかえして集会を継続した。

 集会では主催者を代表して平和遺族会の西川重則さんが挨拶したあと、市民連絡会の高田健さんやちょうちんデモの会の谷島治さんなどが発言し、憲法違反の靖国参拝の中止、石原知事は憲法を遵守すべきだ、自衛隊のイラク派兵に反対などの主張をそれぞれが表明し、その後、採択した「声明」を知事室に持参した。

 この「声明」は@知事は靖国参拝の理由に遺族の要請をあげるが、抗議している戦没者遺族もいること、A首相につぐ権力者といわれ、特定の宗教団体、宗教法人の認証に責任を持つ都知事が参拝することは憲法第二〇条に反すること、B知事は日本国憲法の廃棄をいい、九九条の遵守義務を公然と無視する発言を繰り返しているが、都知事としては不適切であること、C多くの外国人とともに生活している東京で、アジアの人びととの和解と共生への道を切り開くべきこと、などを指摘している。


金曜連続講座で渡辺治氏が講演

   反有事法制やイラク反戦の運動を引き継ぎさらに広範な改憲阻止の戦線を


 市民講座「戦争と平和を考える金曜連続講座」は八月八日夜、都内で「有事法制から憲法改悪へ」と題する渡辺治・一橋大学教授の講演会を開催した。そこでの氏の講演要旨を本紙の文責で掲載する。(編集部)

@有事法制は何を狙ったか?

 有事法制は日本が攻められた時にそれに対処するための法律ではない。日本がアメリカと一緒になって戦争をする際に、民間企業や地方自治体、国民を動員するために不可欠の法律だ。
 小泉首相は万が一攻められた時にこういう法制が必要だといい、多くの国民は北朝鮮が攻めてきた時には有事法制は必要だと考えているが、これは誤りだ。有事法制の背景には二つの要因がある。
 ひとつはアメリカが冷戦後の世界の市場の秩序を守る上で日本やヨーロッパに軍事分担させるために必要としたこと。しかし、米国の企業がアジア地域で自由に活動する時に、日本が社会主義に代って核武装した巨大な敵として現われたら困る。米国が日本の首根っ子を押さえる形で日本が軍事大国になる方向が望ましい。
 二番目に、日本企業は九十年代に入り、怒涛のように海外展開、特にアジア地域に進出した。日本の企業の進出の安定を守るためには軍事的なプレゼンスが必要だ。他国は全てそうしているということで、軍事大国化の要求が強くなってきた。
 この二つの要素が合体して日本の軍事大国化の動きがでてきた。
 しかし、この日本のグローバル企業の要求も簡単には通らない。憲法や、さまざまな限界はあっても国民の平和運動、あるいはアジアの人びとの日本帝国主義への警戒心などがあって、やりたくてもできなかった。
 これでは自前の軍事大国化などは不可能だ。そこで直接の軍事行動はできないが米国の軍事的な行動を後から応援する、その代わり一朝事ある時には日本は米国に守ってもらう。米国も「それで結構だ」ということで、日本の変則的な軍事大国化が一九九七年に締結され、九九年に法律として具体化されたのが周辺事態法だ。
 この新ガイドライン体制が出来上がってみると、米国も日本の財界も強い不満をもった。大きな欠陥があった。
 ひとつは米国のグローバルな軍事活動すべてに後方支援はできない。「わが国周辺でおこった、わが国の平和と安全に重大な影響を与えるもの」という強い限定があった。朝鮮や中国にたいする戦争以外に応援できない、これを突破しろという要求が強くなったのが、アフガニスタン攻撃だ。
 二番目に集団的自衛権の行使の問題。憲法の枠の中での後方支援にはさまざまな煩瑣な限界がある。例えば「武力行使ができないので、それと一体になることもできない。ミサイルを撃っている時には給油はできない」ということになる。しかし、それでは支援にならない。米国としては不満だ。肝腎の後方支援が頼りにならない。
 三番めが有事法制に直結する問題だ。米国は軍事力では類い稀な力をもっている。軍事費でも米国は世界第一だが、それは第二位から二〇位まで全てあわせた額を上回る。だから自衛隊は給油でもしてくれればいい。大事なのは長期の戦争での兵たん支援と、大型の修理能力、コンピュータ能力を持つ佐世保とか横須賀の基地を使って修理する。これが米国が日本に望む最大の後方支援だ。ところが周辺事態法も民間企業に協力を求めることができるが、強制も制裁もできない。
 だから、地域的にも限界があり、やってもらうこともはっきりしない、なんといっても米国が望む民間企業や地方自治体を強制できない。これでは建前だけではないかというのが、実際に周辺事態法を使おうとした米国の要求だ。二〇〇〇年頃だ。
 偶然だが、この時期に日米で政治的な勢力、政権の交替が起こった。米国ではブッシュ政権が成立し、日本では小泉政権ができた。アメリカの帝国の戦略は変わらないが、やり方は大きく変わった。ブッシュは封じこめるだけでもだめだ、そこに新米政権をつくることだ。政権転覆と「民主国家」建設路線だ。
 日本では森政権から小泉政権に代わり、小泉政権もこの三つの限界を突破しようとした。
 まず地域的な限界は特別措置法でやる。九・一一のテロ事件。アフガンは周辺事態法は使えないからテロ対策特措法を作った。自衛隊が海外に出動し、米軍のアフガン作戦行動を支援した。米国がいちばんほしがっている民間企業と自治体の協力のために、「じゃあ、有事法制をやってくれ」というのが小泉政権の目標になった。
 有事法制のポイントは米軍の戦争をいかに早く日本の有事として、それに民間企業と地方自治体を動員するかにある。普通の国の有事法制とは、その国が攻撃を受けたときに、切迫した時に動員するもの(武力攻撃事態)、ところが日本の有事法制は日本が攻撃されない前に米軍の戦争に有事だといって加担するものだ。もうひとつ武力攻撃予測事態というのをつくり、攻められないうちに、自国が緊迫して攻められるかも知れないなと思った時に予測事態を発動する。その場合、自衛隊は出動できないが民間企業や自治体を戦争目的のために動員できる。「予測事態」を入れたことが最大の特徴だ。
 「予測事態」を宣言すると、五条、六条によって、地方自治体と指定公共機関は政府の措置にたいして責任をもって対処する責務(義務)を有する。指定公共機関とは民間企業を政令で指定すると公共機関になるということだ。企業には儲けがなくても協力する義務が生ずる。それを断れば、十五条二項により、強制代執行する。
 また米軍が日本を全面的に基地にして朝鮮を攻撃したら朝鮮は必死で反撃するかも知れない。反撃したときには日本は国家総動員体制を作って、国民を全面的に戦争動員する。国民保護法制がそれだ。政府はこの米軍の攻撃と日本の協力という部分を切り離して、日本がある日突然、北朝鮮から攻められたらどうするか、だから有事法制を作るのだという。政府はこの国民保護法制を前面にだしているが、実際に重要なのは二条、五条、十五条だ。

A有事法制はなぜ通されたか

 政府はイラクの戦争に間に合わせるつもりだったが、間に合わなかった。
 テロ対策特措法は九・一一のインパクトで一気にやられた。しかし、有事法制については私たちが十分に準備して取り組んだ。その結果、二回にわたって継続審議に持ち込むことができた。それには三つの力があった。反対運動そのものがいままでの限界を超えて高揚を作り出した。特に労組二〇団体が中心になって政党関係や広範な労組、連合傘下の労組や全労連、全労協、そして市民などが一緒になって、一回限りの行動ではなくて、四回にわたって大きな統一行動を組んだこと。
 第二にはそれに影響され、地方自治体の議会や首長が地方自治体が動員されることに疑問や反対を表明した。国会でもそうだ。民主党が反対運動の力に押されてノーといった場合には、強行採決をしなければならない。
 加えて第三に健保改悪に反対する運動の高揚があった。小泉政権の構造改革に反対する運動が、有事法制反対運動と合流してしまった。この中心のひとつが連合だった。実は民主党はこれも修正案を用意していたが、それをだせない状況になった。国会運営は困難になった。有事法制を通すには衆参の委員会と本会議で四回の強行採決が必要だ。四週間はつぶれる。健保もそうだとなると都合八回、強行採決が必要で、二ヵ月間は国会がとまる。小泉政権は選択を迫られて泣く泣く有事法制をすてた。
 これが今年に流れ込めば有事法制は潰せたが、その状況を変えたのは朝鮮問題だ。
 日朝平壌宣言は小泉の主観的意図は別として、客観的には日米軍事同盟や有事法制を中心とした東アジアの構想に大きく相反する可能性をもっていたものだった。
 小泉政権は米国に伝えればつぶされるので、内緒でやっていた。これに米国と日本の右派勢力が怒って強力な巻き返しにでた。北朝鮮を挑発しながら、核の保有問題を突き付けた。そして拉致問題もこのままでいいのかと迫った。これに呼応して、孤立していた安倍を中心とした小泉政権内の右派が巻返しをはかった。この日朝平壌会談路線は国民的な運動を背景に行なったのではなく、小泉首相の人気取りのために秘密裏に、国民と切り離されたところでやったために巻返しにあってあえない後退を余儀なくされた。北朝鮮問題が拉致、ミサイル、不審船としてクローズアップされた。
 拉致問題と並べて議論するつもりはないが、日本帝国主義は一九四一年から四五年までの間に、少なく見積もっても四〇万から五〇万の人間を本土に朝鮮から強制連行してる。また従軍慰安婦として女性たちを大量に拉致し、強制的な売春行為を行なわせている。これらの問題について日本政府は一度たりとも公式に認めたことはない。
 少なくとも特殊機関がやったのだが、悪かったと謝っているわけだから、その方向を議論して強化する方向が見えたのに、逆に有事法制のテコにする方向に進んだ。ここで民主党の態度が変化した。この反北朝鮮キャンペーンの中で修正に応じたいと考えた。しかし、朝日新聞が大々的に評価し、民主党が持ちあげた修正案はまったく有事法制の危険性を排除したものではない。人権尊重規定(三条四項)は多くの法律には入っていない。しかし、いくつかの法律には入っている。その全ては人権を制限する危険な法律だ。破壊活動防止法のように人権を破壊する可能性があるから、心配ないと言うために入れた規定だ。しかし、憲法二一条があれば闘えるわけで、人権擁護規定は何の意味もない。

B有事法制の成立と軍事大国化の新段階

 これは非常に大きな転換点だ。有事法制が通ったあと、イラク特措法がでてくる。これは小泉政権の対米公約だった。もしこのまま私たちが黙っていれば、選挙が終わった十一月頃には自衛隊は初めて他国の陸上で戦闘作戦行動をするだろう。
 有事法制が通ったとはいえ、政府はひとつの重大な譲歩を余儀なくされた。国民保護法制は一年以内につくることになったが、これを作るまでは武力攻撃事態法の十四条から十六条は発動しないと書いてある。特に十五条は地方自治体や民間企業を強制する規定であり、これが国民保護法制が通らない場合は発動できないということだ。有事法制はもっとも根幹の部分で、国民保護法制が通らない場合は発動できないということが私たちの手の中にあるということだ。
 だから東アジアでのブッシュの戦争加担体制づくり、有事法制の完成のためには、いわゆる国民保護法制をはじめとした有事関連法制をどうしても通さなくてはならない。これが来年の通常国会でやってくる。
 米軍の戦争を支援するためにアフガンはテロ対策特別措置法、イラクはイラク特別措置法だと一個一個やってきた。では北朝鮮を攻撃するには朝鮮特措法を作らなくてはならない。これは通らない。周辺事態法を発動すれば朝鮮の周辺の公海上でしかできない。朝鮮半島の陸上で支援するためには、特措法が必要だ。あるいは中台紛争がおこったら中台特措法、スーダン特措法、ユーゴ特措法などとわけのわからなことになる。普通の場合、特措法をひとつ通すには通常国会ひとつは必要だ。米国は待てない。そこでイラク特措法が通ったあと、一斉に泥縄式の特措法ではなく、恒久法をという声がでてきた。国際支援法、あるいは安全保障基本法が必要だという。そのためにまず次期通常国会以降、大綱をつくる。集団的自衛権の見直しも安全保障基本ほうでやりたいとう動きになった。
 ではこれらの戦争で自衛官が死んだらどこに祀るのか。法人としての靖国神社は、いまのところそれはできないといってる。そう言わざるをえない。自民党は二つの方法を考えている。国営慰霊施設の建設は右派からの反対がつよく、小泉首相も知らん顔をしている。もうひとつはA級戦犯を靖国の合祀から外して、出身地の護国神社に祀ろうという案。靖国神社にとっては認められない。 そして最後に憲法改悪もやらなくてはならない。そのためには国民のイデオロギーをどうするかという問題だ。きわめて困難な課題だ。これを朝鮮問題で突破口を見いだした。日本の核武装必要論もでている。これは今年の論壇の特徴だ。日本の非核意識を変えなくては改憲問題も突破できないと彼らは腹をくくった。核を持たない、憲法九条をもっているという国民意識を北朝鮮問題を中心にして変えようとしている。
 そういう新しい段階の中で、名実ともに米国の戦争に協力する第二の軍事大国、サブ帝国主義だが、これを作る動きが当面する政府や財界の目標になった。

Cこれからの闘いの方向

 有事法制は通ったが、暗黒の大国になったわけではないし、軍事大国にむかって高速道路上を走るような体制になったのでもなく、大きな障害物がたくさんあることを確認したい。私たち自身の運動がこの障害物を大きくしている。戦前のアジアのような国を許さず、軍事大国化を遅らせ、「普通でない国」を作ってきた力を確認する必要がある。
 しかし私たちの運動には限界もある。私たちの運動は第二次世界大戦でこうむった悲惨な戦争体験を原点にした闘いだった。これは殴られる痛みを感じたことを原点にした運動だった。これは大きな力を発揮した。しかし、広島の二〇万、長崎の九万はある日、突然、朝鮮や中国やアメリカが攻めてきた結果の戦死者ではない。十年おかずして日本帝国主義が侵略戦争を繰り返し、挙げ句の果てに中国本土に全面的な侵略戦争を行い、二〇〇〇万のアジアの人びとを殺戮した最後の結果として、広島、長崎があり、東京が焼け野原になった。
 まったく同じではないが、ふたたび日本の企業の海外展開、米国のグローバル企業の安定を守るために海外に出動する。たしかに植民地にはしないが、企業の経済的な安定と特権を守るために、それに反抗するさまざまなものを力づくで押さえようとする。そうなった時に殴る側の平和運動は、殴られる痛みと闘う平和運動に比べるとはるかに難しい。
 私たちの平和運動の本当の力がいま問われている。いじめを受けた人は忘れないが、いじめた側はすぐ忘れる。
 その弱さにつけこまれたのが北朝鮮問題だった。それは単に危険な問題ではなく、日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配の問題がこれには深く関わっている。朝鮮人学校の問題、拉致問題、不審船問題、彼らが核をもっていること、独裁政権の問題、これらにどう対処するのか、わたしたちの平和運動が問われている。
 当面、自衛隊をイラクに行かせないこと、政府は世論を恐れて選挙の前にはやれない。有事法制は完成していない、発動させないことはできる。少なくとも一年はそうだ。もし米国がその間に朝鮮を攻撃すれば抵抗の拠点を設けることができる。つぶすことができれば米国は日本の協力をアキラメざるをえないだろう。
 そのためにもこの問題を選挙の中で問題を提起する必要がある。市民の側から問題を争点として持ち込む必要がる。
 ブッシュの戦争を朝鮮で起させない。有事法制を発動させない闘いで、韓国や中国の人びと、欧州の人びとと連携して国際的な運動で闘うことだ。
 最後に反改憲の統一戦線をいまから準備すること。自民党の反主流派も含めたもっとも大きな恒常的な共闘組織を作ることが必要だ。そういう闘いの中から平和の対抗構想を作っていく必要がある。


戦争は国家の権利という思想

    共産党の路線転換へ党内からも厳しい批判


 十一月二二日から日本共産党の二三回大会が開かれる。この大会では同党の綱領改定案が討議されることとなり、すでに七月十日の第七回中央委員会総会でそのための案が決定され、討議に付されている。このところ共産党は組織内討議とあわせて、「公開討論」として所属党員に二〇〇〇字以内の意見を発表する機会を儲けるようになった。これらの意見は「しんぶん赤旗」の「学習・党活動版(別刷り臨時号)」に掲載される。八月四日、その第一号が発行された。この号には六一名の党員の意見が掲載されている。それらの大部分は「今回の改定案を歓迎する」という立場にたった意見だが、中に鋭く問題点を指摘する意見があることを見逃すことはできない。第一号について言えば、綱領改定案への批判意見は天皇制と自衛隊の規定の問題に集中している。それらのうち、今回は自衛隊問題についての意見を紹介しながら、論評する。

 「別刷り赤旗」NO・1では自衛隊問題に関する批判的意見を明確に展開しているのは、「自衛隊問題について」山口泰徳(兵庫)と、「五七年ぶりの憲法との対峙」梶山達史(東京)だ。
 山口は「八〇年の社会党の右転落と我が党が指摘した際に、土井たか子の『違憲合法論』をさして、社会党は右転落した。『ルビコン河を渡った』とも指摘しました。その問題と今回の自衛隊の記述について同じようにしかうけとれません。その後社会党は党名も変え、自民党等との連立政権を樹立しましたが、やがて破綻しました。我が党も同じような道を歩むのでしょうか?。七〇年代保守か革新かの分かれ道は『安保・自衛隊を容認するかどうか』でした」と書いて、綱領改定案の「自衛隊活用」「憲法九条棚上げ」論を社会党になぞらえながら厳しく批判している。
 梶山の批判はタイトルに明白に表現されているようにより根源的な批判だ。梶山によれば一九四六年の制憲議会で共産党が現憲法案に反対して以来、五七年ぶりの自衛権の強調であるというのだ。以下、長い引用になるがお許しいただきたい。
 梶山は「わが党員は戦後、再軍備と安保に反対し、『憲法九条を守れ』と闘ってきた。しかし、その間わが党の政策から軍備が消えたわけではなく、水面下に潜っていた。それが再び現われたのが一九六八年の安全保障政策で、将来の中立自衛を明記した。ただし、この時点では憲法九条に対しては厳密であり、自衛隊はいったん解散する。公明党との憲法論争においてもこの立場は一貫していた。
 いま、憲法制定から五七年経って、再び自衛権を強調している。そして三〇年
前と違うのは、憲法を飛び越えて自衛権に基づく軍備を合理化しようとしていることである。今や米軍への世界の中での支援を主な任務とする自衛隊を、自衛権の担保として存続させようというのが改定案の意味するところである。いよいよ戦死者がでようとしているこの時期に。
 わが党の政策から軍備が消えた時期があった。それは一九九四年の二〇大会の前後で、大会決議では『憲法九条に記されたあらゆる戦力の放棄は、綱領が明記しているようにわが党がめざす社会主義・共産主義の理想と合致したものである』と述べ、党内の学習会でも『憲法九条一筋でいく。将来にわたって再軍備はしない。敵の出方論放棄と同じだ』と説明された。しかし、二一回大会では「『あらゆる戦力の放棄という方策が、安保条約を廃棄する政権ができたからといって、ただちに実行できる方策でないことは、明白である』として、まとめな論証もなく、反古にされてしまった。こうして一時消えた軍備論は再び頭をもたげたのである。そして舞台に再びスポットが当たったとき、役者は入れ替わっていた。主役は国民ではなく、クラスター爆弾を装備する自衛隊に替わっていた」「『自衛のための武力行使論』は戦争違法化以前の『戦争は国家の権利』という思想に立脚している」との意見だ。「いよいよ戦死者がでようとしているこの時期に」とか「クラスター爆弾を装備する自衛隊」などの表現に、梶山の最大級の怒りがこめられているのがよく分かる。
 加えて梶山は「国内の運動では、わが党は暴力を一切否定することを明確にしてきた。しかし、国際関係では暴力を否定しないどころか、現にある暴力装置を活用するというのはどういうことだろうか。二二回大会で渡部照子代議員は自衛隊活用論を『国民を戦火にさらすもの』と批判した。沖縄の地上戦では、日本軍は国民を守るどころか、スパイ扱いして殺した。現代においては、自衛権であろうと何であろうと、国民を戦火にさらす
権利は誰も持っていない。そして今、自衛隊はイラク人道支援の障害となっている」ともいう。 
 また梶山は綱領改定案が明白に共産党の自衛権問題での政策転換であることを次のように指摘する。
 「(四六年に反対したのは)天皇条項が反対理由であったことは七〇年党史で書かれていた。今年の八〇年党史では第二の反対理由、すなわち自衛権の明確化要求を明記し、『その後、戦争を放棄し、戦力の不保持を定めた憲法九条のもとでも自衛権をもっていることは、ひろく認められるようになりました』と、当時自衛権を主張したことの意義を強調している」と。
 要するに梶山は、今回の綱領改定案が「日本国憲法は日本国の自衛権は否定していない」という立場にたっていることを批判している。梶山はかつて共産党の野坂参三が議会で現憲法に反対したときに、自衛権の放棄の誤りを指摘した、その議論はしばらく封印されてきたが、今回の「八〇年史」の記述はその正当性を再確認し、憲法九条のもとでも日本国に自衛権はあるのだと述べたと指摘する。
 自衛隊合憲論という解釈改憲論者の論理の前提は「主権国家固有の自衛権」論であり、それは侵略のための軍隊は持たないが、自衛のための軍隊は必要だという「専守防衛」論の根拠だ。
 しかし、第九条を恣意的な拡大解釈なしに読めば、それは日本国家の自衛のための軍隊であれ、国家が軍事力を保有することを否定していることはあきらかだろう。日本国家は軍事力と戦争の問題では「普通の国」ではない。そのことは立ち後れやマイナスを示すものではなく、戦争のない世界をめざす上できわめて先進的な意義を持つものといえる。梶山は「自衛のための武力行使論は戦争違法化以前の、戦争は国家の権利という思想に立脚している」と批判して、平和憲法の先駆的な意義を擁護する必要性を説いている。
 平和憲法は多くはこのように理解されてきたのではなかったか。梶山がこうした立場から今回の綱領改定案を厳しく批判するのは理解できる。(S)


米国防総省が「中国の軍事力」を発表

     台湾海峡をめぐる米中関係


 七月下旬、アメリカ米国防総省は、「中国の軍事力に関する年次報告書」を発表した。
 報告書の主要な点は次のようなものである。
 昨年三月、中国は軍事費を二〇〇億ドルと発表したが、今後も増加し、二〇二〇年まで三〜四倍に膨らむだろう。
 中国軍は、アメリカを対抗者として想定した訓練を強化し、作戦思想として先制・奇襲理論を発展させている。
 短距離弾道ミサイルを四五〇基を配備し、この数はこの二〜三年で毎年七五基づつ増加していくだろう(昨年の報告では三五〇基の配備で年間五〇基の割合で増やすとしていた)。核兵器搭載可能の大陸間弾道弾の開発では、固形燃料を使い、アメリカ西海岸を射程にいれるDF(東風)三一号は一〇年以内に配備がはじまり、より射程距離を伸ばした改良型や原潜発射型核弾道弾の開発も実現するだろう。
 短距離弾道ミサイルの大部分は、台湾海峡をはさんだ南京軍区に配備されている。台湾海峡をめぐる問題で中国は、「一つの中国」「一つの国家、二つの体制」を前提に台湾との話し合いを行おうとし、昨年末の中国共産党第一六回大会でも再確認された。台湾の陳水扁総統(民進党)は「台湾独立」の宣言はしないといっているが中国側は危惧を抱いている。陳水扁総統の人気は落ちており、野党は連合して二〇〇四年の陳総統再選を阻止しようとしている。国際舞台では中国は「一つの中国」論に基づいて、外交的、経済的に台湾に圧力をかけ、台湾の孤立化を狙っている。
 中国は、台湾問題を平和裏に解決するのが望ましいと表明しているが、軍事的選択肢を追求しているのである。

 国防総省報告に先だって、アメリカのシンクタンク「外交問題評議会」が報告書「中国の軍事力」をまとめた。
 そこでは、中国の軍事力は、いまのところアメリカに二〇年ほど遅れてはいるが、将来、東アジアの支配的な軍事大国になると分析し、中国の軍事能力が台湾を空と海から短期集中的な攻撃によって制圧することができるようになったとしている。そのうえで、中国の台湾後略の成否は、アメリカと日本の対応にかかっているという。また報告書は、中国の軍事的優越性は日本が大きな軍事力を持たないことが前提となっている、だが、もし日本が憲法改正を行い、また核兵器保有などの事態に到ればこの構造は大きく転換すると述べてるなど、中国に対抗する上での日本の役割が想定されている。
 以上の二つの報告書は、いずれも、中国政府が台湾をめぐる戦争に向けた準備を急いでいるという見解を強調したものとなっている。

 国防総省報告にたいして中国政府外交部のスポークスマンは、「中国は主権国家であり、中国が国家の安全と領土の保全のため行う国防建設と軍事配備を非難することはできない」として、台湾への武器輸出に向けて口実を作るためのものであり、「中国は強い不快感を抱いており、強く反発する」と述べた。

 台湾は、八月一日から表紙に「TAIWAN」の文字が入った新しいパスポートの申請を受付はじめた。このことは、その表記を国名として扱うことを意味するという報道もあり、中国・台湾関係は微妙なものとなる可能性がある。いま、台湾をめぐる状況は厳しさをましている。中国の台湾政策だけではない。台湾内の中国との統一派は、三野党(国民党、親民党、新党)の統一戦線を結成し、一部マスコミも巻き込んで、民進党・陳水扁政権への対決姿勢を強めている。重要なのは経済面である。中国の経済発展、台湾企業の中国進出・巨大投資による中台経済貿易の相互依存度が極度に高まっている。来年の総統選挙ではいかなる結果がでるのかが注目されるところである。

 一九七九年に米中国交樹立以来、アメリカの台湾政策は、「一つの中国政策」と「台湾関係法」を軸として展開されている。一つの中国政策とは、アメリカが中国政府の主張である「一つの中国原則」(@世界には一つの中国しか存在しない、A中華人民共和国政府がそれを代表する唯一の合法政府である、B台湾は中国の一部である)を「認知」したということである。「台湾関係法」は、アメリカの国内法で、@台湾自衛のための十分な武器とサービスの提供、A台湾の安全、社会的あるいは経済システムに脅威、アメリカの利益に危険が生じたときは大統領の議会への通知、危険に対応する「適宜行動」の採択の二つの柱でできている。アメリカは、この「関係法」を台湾海峡問題に介入する「根拠」としている。アメリカの軍事戦略は、中国が台湾にたいして武力解放を行うならば、核兵器をもって介入する可能性を排除していない。アメリカの「核兵器態勢評価報告」(二〇〇二年)で、緊急状況下においては、イラク、イラン、シリア、リビヤ、北朝鮮、中国に対して核使用をするとした。アメリカは即時的、潜在的、突発的の三つに分類されている。即時性状況では、イラクのイスラエルその他の国への侵攻、北朝鮮の韓国への攻撃、台湾の地位に関する軍事的対抗の勃発などとされていた。潜在的なそれは、アメリカもしくはその連合国に敵意をもつ勢力が大量破壊殺傷兵器と運搬手段をもって深刻な結果をもたらす可能性がある場合である。中国は核兵器と非核兵器の現代化をつづけており、即時・潜在的な敵と位置づけられている。
 中国の現政権は、こうしたアメリカの核戦略に対抗して、戦略核兵器の質的な改良(保存能力と貫通能力の向上)をはかるが、数量を大幅に増やす核軍拡競争をエスカレートさせようとはしていない。

 米中関係は、この間大きな変化を見せた。ブッシュ政権の登場直後の二〇〇一年四月一日には、沖縄から発進したアメリカの偵察機が中国海南島付近で中国軍戦闘機と衝突し、中国軍機は墜落した。米偵察機は中国に捕獲され、アメリカの返還要求に関する米中の交渉は長引き緊張した関係が続いた。当時のブッシュ政権は、中国をアメリカに対抗する力を潜在的に有する国だと規定して、中国にたいする圧力を強めていた。中国南部・海南島近海の軍事偵察と航空機接触事件はアメリカの中国にたいする警戒・敵視の姿勢を示すものだった。
 しかし、その年の9・11事件は事態を急転換させた。アメリカは、反テロ戦争が当面する最大の課題となったとして世界政策を手直しし、中国にたいしても敵対的な態度を変更した。朝鮮民主主義人民共和国の核をめぐる多国間協議でも歩調をあわせている。だが、長期的にみれば、アメリカの世界支配政策にたいして対抗する力をもってくるのは、国力を急増させていく中国の存在である。とくに中国・台湾の統一は、アメリカの軍事戦略に根本から打撃を与えるものとなる。米国防総省の報告などがしめすものは、米中関係の複雑な状況を示すものとなっている。


 書 評

   
高崎宗司著「植民地朝鮮の日本人」(岩波新書)   佐山 新

はじめに

 先日の金曜連続講座で、渡辺治さんが語っていた、「いわゆる『拉致事件』と、四〇万〜五〇万人に及ぶ朝鮮人『強制連行』とが相殺されるわけにはいかない」云々。
 「拉致事件」が明るみに出た当座、「朝日」新聞でも同様のことを書いていた。但し、言わんとするところは全く逆で、「強制連行」の問題をあたかも解決済みの過去の歴史のごとく扱い、かさに掛かって「拉致」事件の究明を求めるものであった。
 「卓越した歴史家である英国のエリック・ホブズボームは、名著『二〇世紀の歴史―極端な時代』の冒頭で、そのような歴史離れを戒めるように次のように述べている。

 過去の破壊、というか個々人の現在の体験を何世代か前の人々の体験と結びつけていく社会的な仕組みの破壊は、二〇世紀末のもっとも象徴的でかつ不気味な現象の一つである。

 そのような過去(歴史的な記億)の破壊を進める社会的な仕組みが他のどの国よりも発達している日本の場合、若い世代の大部分は、自分たちの時代が背負っている歴史的な過去との有機的な連関を見失って、いわば『永遠の現在』のなかで育っているようなものである。」(姜尚中著「日朝関係の克服」集英杜新書P三一)
 姜尚中は「若い世代の大部分」と書いているが、無論、それがそうであるのは、もう若くはない(私を含む)世代にしてからが同様に「永遠の現在」に安住しているがためであろう。ここで紹介する「植民地朝鮮の日本人」は、「過去の破壊」に歯止めをかけようとする努カの一つである。

本書の特色

 これは日本の朝鮮支配の全体像を描くものではない。二七〇点に及ぶ資料をして、一八七六年朝鮮開港から一九四五年日本敗戦に至る間の「日本の植民地支配の特色を実証的に明らかにし」「これまであまり知られていたい在朝日本人の言動を描き出して、彼らが日本の朝鮮政策や日本人の朝鮮観に与えた影響を探」り、「そうした在朝日本人の振る舞いが、朝鮮人の目にどのように映っていたかを」語らしめることが著者の意図である(「はじめに」)。
 目次の後に「在朝日本人の人口の推移」のグラフが掲げられている。
 一八七六年から一九〇五年まではごく緩やかなカーブで四万人程度に達し、以降一九四二年の七五万人超まで急激に増加している。
 ピークに近い一九三九年に「強制連行」が行われていることは、朝鮮からは米が日本に輪出され、朝鮮には外米が輸入されるようになる貿易の推移と共に示唆的である。

官民一体の植民地支配

 「はじめに」で紹介されている山県有朋の「朝鮮政策上奏」でも知られるとおり、日本人の朝鮮移民は、国策によって行われた。
 日本は一八七六年日朝修好条規によって釜山開港を約東させたが、治外法権・関税自主はおろか、関税そのものを認めず、日本貨幣の通用を認めさせるなど、不平等きわまりないものであった。幕末日本に列強が強いた以上のものを日本は朝鮮に押しつけたのだ。当然のことながらそこには「停滞史観」等の朝鮮に対する蔑視があった。
 以降、朝鮮に渡った日本人は、常に日本国家の庇護のもとに、官民協力して植民地支配を進めていく。その一環である土地収奪に関しては、釜山開港当初のまだ数百戸ほどの移民しかいない段階ですでに「敗戦時までの一貫した特色」が表れていた。それは「高利貸し」業の盛んなことである。「高利貸しは、統計上には出てこないが、居留民の半分以上がこれに従事していた。利子は高いものだと一〇日で一割だった。そしてその目的は、利子を取ること自体よりも、金を返せなかった人から土地を取り上げることにあった」(引用されている朴憲哲の研究)。
 農業について見れば、日本からの移民は自ら耕作するのではなく、地主として朝鮮人小作人から小作料を得ることを専らとしていた。
 そして、日本人の行くところ、酌婦・芸姑・娼妓がついてまわり、遊郭が繁昌する……
 このようにして始まった日本の支配の実態は、各章のタイトルから概要が伺える。「高まる植民熱」「戦争への協力と移民の奨励」「激増する在朝日本人」「植民地支配の先頭に立つ居留民」「『文化政治』の中で」『『内鮮一休』の現実」「敗戦と引揚」。

今につながる問題

 通読して印象的なのは、膨大な在朝日本人の朝鮮そのものへの無関心とでも言うべきものである。
 朝鮮に渡った人々の大多数は、それぞれの刹益を目的としていた。いわば「生活のため」であったろう。ごく一部の例外を除いて、朝鮮の人々、文化、自然に対して関心を払わなかった。朝鮮の人々を踏みつけにして自らの利益を図っているとの自覚はない。それは、本書でも紹介されている、在朝経験者対象のアンケート調査からも見て取れる。国策に乗じ、己の眼前の「生活のため」には同胞を含めた他者を顧みない閉ざされた心性、それは今の日本にもそのまま持ち越されているのではないか。敗戦時、軍・官関係者にいち早く避難情報を流し、一般民衆についてはほったらかしにした当時の支配眉のありようが今につながっているように。


図書紹介

  
 日朝関係の克服ーなぜ日朝国交正常化交渉が必要なのか

               姜尚中・著   集英社新書   六六〇円+税

 これまでも一九九四年の朝鮮半島の危機についてはさまざまに語られてきた。
 最近では当時の韓国大統領の金泳三自身が危機に際して「韓国の兵力を動かさない」と抵抗したと述べたという話も聞いた。
 また米国の一〇五九項目にわたる対米軍支援要請に当時の日本政府が対応できなかったことが、新ガイドライン体制と有事法制の確立への出発点となったという問題もすでに秘話ではなく、多くのところで語られている。
 直接、戦火にさらされる韓国側の不同意といい、日本の有事米軍支援体制の不備といい、当時の米軍は北朝鮮を攻撃するに十分な体制をとりえなかった。そこでカーター元大統領米国特使の平壌訪問によるこの危機の回避となったわけだ。
 本書で姜は次のようにいう。
 「当時のペリー国防長官のもと、米国は寧辺(ニョンピョン)の核施設を爆撃する詳細な緊急作戦をすでに練っていたが、彼らはまさに、その計画を実施する段階に突き進もうとしていた。……その場合、死者は一〇〇万人を上回り、そのうち一〇万人近くの米国人が死亡し、戦争当事国や近隣諸国を含めて、損害総額は一兆ドルに上るだろうと予測された。しかも、そのような甚大な被害が予測される上に、米国が負担する費用は、一〇〇〇億ドルを超えると見積もられていたのである。……戦争勃発の可能性は異常なほどに高まろうとしていたのである。それを食い止めたのはいうまでもなく、カーター元大統領の訪朝であった。その結果、北朝鮮は、かろうじてNPTにとどまり、黒鉛減速型原子炉から軽水炉への転換が取り決められ、米朝枠組み合意が結ばれたのである」
 そして姜は今回の朝鮮半島の危機が「一九四四年のときよりも深刻である」と見つつ、単なる評論として戦争の可避性や不可避性を論ずるのではなく、実践的な課題として「むしろどんな問題解決が望ましいのかを検証し、しかもそれが、単なる希望的観測や願望などではなく、歴史的な根拠に十分もとづいていることを明らかにすること」をめざした。
 そして姜は、日朝平壌宣言に基づきすみやかに日朝国交正常化交渉を再開することを要求してる。「それが日朝関係の『克服』につながり、さらに日韓、日米関係の『克服』へと連鎖し、北東アジアの秩序形成へとつながってくる……。この間の米国の戦略的な変化や北朝鮮の国内的変化、さらに、韓国の新しい変化をみれば、日朝国交正常化交渉の停滞は、片ときも許されないのだ」と熱く語っている。
 いま、六者会談が八月末にも始まろうとしている。マスコミを通じて会談のさまざまの可能性が語られている。それぞれの国々の思惑が渦巻き、衝突する中で、この成否を占うことは極めて困難なことだ。
だがはっきりしていることは、この六者会談が何らかの合意にいたることがいかに困難であっても、会談を失敗させてはならないということだ。
 このところ姜がしきりに語る「北東アジア共同の家」構想は、いま平和運動の中から語られはじめた「北東アジアの非核地帯化と共生」をめざす運動に通じるものがあるように思われる。 (S)


複眼単眼

     テロ情報まで商売にするペンタゴン


 米国国防総省(ペンタゴン)が中東での暗殺・テロ予測を商品とした『政策分析市場』という名のテロ先物取引市場を計画していたというのだから、驚いたというか、あきれたというか、納得したというか……。
 八月一日の『東京新聞』の報道によると、「主催者がエジプトなど中東八ヵ国を対象にテロや元首暗殺、その他の重大事件の予測を商品として提示し、投資家がそれを購入する。予測への同調が高まれば、商品の値は高騰するとう仕組みだった」という。
 例えば「  年 月 日、某国大統領が暗殺される」という情報を買う者を募集するわけだ。その確率と人気で商品取引価格が上がっていく仕組みだ。
 同紙によると、主催したのはペンタゴンの国防高等研究計画局(DARPA)など。本件の国防総省側の責任者が政治スキャンダル=イラン・コントラの首謀者の一人のジョン・ポインデクスター元大統領補佐官で、評判の悪い人物ということでも物議をかもした。
 「DARPAはインターネットの原型を開発したARPAを七二年に解消組織で、情報収集用の小型ロボットや地下標的探知システムなど防衛機器の開発に従事してきた。しかし、ことし五月に議会報告した開発中の『テロ情報認知システム』は物議を呼んだ。このシステムはクレジットカードや航空機のチケット、レンタカーの利用記録、通話記録を集積し、テロリストあぶりだしに駆使するとしたが、一方でプライバシーの侵害との激しい批判を招いた」(『東京』紙)という。
 もともと軍事技術から生まれたインターネットを駆使して、さらに情報収集技術や分析能力を高め、それを投機の対象としてカネに換えようという発想だ。資本主義的「帝国」の官僚が考えそうなことだといえば言える。同紙の記事で軍事評論家が、どこよりも情報を収集している国防総省が胴元になるというのは、インサイダー取引にあたるのではないかと指摘しているのが笑える。
 結局、米国議会民主党などの反発で、計画は頓挫したという。
 しかし、たとえ実施に移されたといても、例の「イラクにおける大量破壊兵器の存在」すら証明できないペンタゴンの「情報商品」に買い手がつくものかどうか、おおいに疑問だ。ペンタゴンの八百長説もでているが、九・十一テロ事件に際しても、ペンタゴンは自らが攻撃されることを予測することができなかったのだから、この連中の情報収集能力の限界も見えるというものだ。
 なんだか、この商売は昔からあるような、例によってあまり裕福とは思えないような街角の占い師のおじさんが「あたるよ、あたるよ」といって他人の運命を占って、商売にしているような図だ。他人の運命が分かるなら、自分の運命でも占ってくれよといいたいような気になるのと同じような構図だ。 (T)