人民新報 ・ 第1140・1 号<統合233・4合併号 (2004年8月25日)
  
                  目次

● 米軍普天間基地ヘリが市街地に墜落  辺野古海上新基地建設阻止

● 声明 / 許すな!憲法改悪・市民連絡会

● 史上最悪の原発事故  美浜原発事故に抗議行動

● 8・6ヒロシマ平和へのつどい  被爆60周年へ新たなスタートを

● イラク民主的国民潮流リカービさんが来日・講演

● 反戦平和を掲げて2004ピースサイクルの疾走

    平和への想いをつないで長野県縦断  ( 長野ピースサイクル )

    伊方原発3号機でのプルサーマル計画撤回! ( 四国ピースサイクル )

    原点のヒロシマへ  ( 大阪ピースサイクル )

● 「自由主義史観」の「保険」にされた司馬文学    /  北 田 大 吉

● 国は「義務教育」をどう変えようとしているのか

● 「九条の会」発足記念講演会 憲法九条、いまこそ旬(しゅん) 発言要旨 <下>

    加藤周一さん  /  澤地久枝さん  /  鶴見俊輔さん

● 8・15  「戦争と象徴天皇制」を問う行動

● 映  評  黒木和雄監督作品 「 父と暮らせば 」

● せ ん り ゅ う

● 複眼単眼  /  右島一朗君の遭難と憲法状況



米軍普天間基地ヘリが市街地に墜落  辺野古海上新基地建設阻止

 八月一三日、米海兵隊普天間基地所属のCH―53Dヘリコプターが沖縄国際大学へ墜落し爆発・炎上するという大事故がおきた。
 今回の事故では、ヘリコプターの搭乗員三人以外に負傷者はなかったが、付近のかなりの範囲にわたって部品が飛び散った。
 墜落現場は住宅地の中であり、多数の死傷者が出てもおかしくない大事故といえる。この事故は宜野湾市民をはじめ沖縄県民へ大きな不安をあえるものであった。
 この事故に際して、アメリカ軍はただちに大学構内に入り込み、事故現場を封鎖し日本側の警察などの立ち入りを排除している。
 また、米軍は、一七日には、普天間飛行場において事故を起こしたCH―53Dと同型ヘリコプターを除く米軍機の運行を開始すると発表した。こうした米軍の無法な行為は断じて許されるものではない。
 以前から普天間基地の危険性は指摘され、沖縄に関する日米特別行動委員会(SACO)の最終報告(一九九六年)でも、五〜七年内の普天間基地の返還が決められた。
 しかし、日本政府は代替施設の着工遅延を理由に普天間基地の移設を遅らせているし、政府の狙う名護市辺野古への移設は危険な基地のたらい回しでしかない。
 普天間基地の代替施設として海上基地が予定されている名護市辺野古沖は希少生物のジュゴンの生息海域であり、基地が建設されればジュゴンは絶滅すると言われている。
 今年七月、基地所在地宜野湾市の伊波洋一市長は、県内移設ではない五年以内の無条件返還を求めてアメリカを訪問した。
 八月一四日、ヘリ基地建設反対協議会は「CH―53ヘリ機墜落事故に対する抗議声明」を出し、普天間基地の即時閉鎖と無条件全面返還を行うこと、辺野古沖海上基地建設計画を撤回しボーリング調査も中止することを求め、稲嶺沖縄県知事と岸本名護市長に対して、@サンゴ礁に刃を突き刺し、ジュゴンの餌であるアマモを破壊するボーリング調査の許可を取り消し、那覇防衛施設局に対してボーリング調査の中止を申し入れること、A新基地建設計画の同意を撤回すること、を要求するとともに、「ボーリング調査の白紙撤回と新基地建設を断念させるまで、辺野古漁港前の座り込み行動を続けていく」ことを宣言した。
 東京でもアメリカ大使館や防衛庁などへの抗議・申し入れ行動が闘われている。

 沖縄現地と連帯して、米軍事故糾弾、新海上基地建設・ボーリング調査阻止、米軍基地撤去にむけて闘いを前進させよう。

 * * * *

 沖縄国際大学構内への米軍ヘリ墜落事故に抗議し、普天間基地撤去、日米地位協定の改訂を求める緊急国会集会

 ● 八月二六日(木)午後一時〜二時
 ● 衆議院第二議員会館 第一会議室
 ● 呼びかけ人 沖縄県選出野党国会議員


声  明

  度重なる米国政府高官による九条改憲の圧力に抗議し、九条を掲げ平和のためにともに前進しましょう

                          許すな!憲法改悪・市民連絡会

 米国発九条改憲圧力が相次いでいます。
 七月二一日にはアーミテージ米国務副長官が「憲法九条は日米同盟関係の妨げのひとつになっている」などと発言し、日本国内での厳しい批判を浴びた結果、同副長官自ら発言撤回をするということがありましたが、今度は八月一二日のパウエル国務長官発言です。
 同長官は「(もし日本が国際舞台で十分な役割を果たし常任理事国としての役割を担おうというのなら)九条は吟味されねばならないだろう」と述べました。これは先のアーミテージ発言と全く同じ趣旨です。
 これは小泉首相が国会で有事法制を成立させたり、イラク派遣自衛隊を多国籍軍に参加させるなど、しゃにむに「戦争のできる国」づくりに力を入れる中で、さらに一歩すすめて集団的自衛権の行使による日米軍事同盟体制の世界的規模での強化を求める米国の意志の明確な表明です。
 しかし、この道はいま世界で単独の軍事覇権をうち立てた米国が行う戦争への積極的加担・参加の道であり、東アジアの緊張を一層高めるものです。
 私たちは改めてパウエル発言の撤回を求め、憲法第九条に見られる平和主義を堅持し、実現することを表明し、全国の市民諸団体のみなさんがともに行動されるよう訴えます。

二〇〇四年八月一四日


史上最悪の原発事故  美浜原発事故に抗議行動

 八月一八日、美浜原発事故にたいする緊急抗議デモが行われた。
 原水爆禁止日本国民会議、原子力資料情報室、たんぽぽ舎、日本消費者連盟、ふぇみん婦人民主クラブなどの呼びかけによる行動には、市民、労働組合員など一五〇名ほどが集まり、社会文化会館前で小集会を行い、赤坂見附から経済産業省前を通り、日比谷公園までのデモを行った。

 八月九日、福井県美浜町の関西電力美浜原発三号機(加圧水型軽水炉、出力八二・六万キロワット)の二次冷却系の配管が破損し、百四十度、十気圧の高温・高圧の水蒸気が噴出し、作業中の労働者四人が死亡、二人が重体、二人が重傷という大事故が発生した。原発関連の事故としては、九九年の二人の死者を出した核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県)の臨界事故を上回る最悪の事態となった。八月九日は長崎へ原爆が投下された日だ。その日にかつてない原発大事故が起こった。今回の事故は電力会社による儲け優先の一方での安全軽視の経営の中で起こった。だが、原発の安全確保を管轄する経済産業省の責任もきわめて重いものがあるのは言うまでもない。会社などは、今回の事故の「原因」は点検をしていなかったことにあるとして、検査をしていれば通常一〇ミリある配管の肉厚が最小で一・四ミリまで薄くなっていることを発見でき事故は防げたはずだと言っている。破損した配管は一九七六年の運転開始以来、一度も点検されず、管の交換もされていなかった。ひび割れなど細かい破損をチェックする超音波検査も行われていないという。こうした「管理体制」の背景には、原発をめぐる国・会社の閉鎖性がある。一昨年の夏には東京電力で点検記録改ざんが明るみに出て、同社の原発十七基すべてが止まった。なぜ閉鎖性があるのか。それは、公開されれば原発の危険性とそれにもかかわらず会社と官僚が甘い汁を吸える構造が白日の下に明らかにされてしまうからだ。国内には五十二基の原発があるが、そのうち運転を始めて二十五年を超えた老朽化施設が多い。そして事故で亡くなった高鳥裕也さん、中川一俊さん、井石智樹さん、田岡英司さんや病院に運ばれた労働者たちは、関西電力の計器整備業者の木内計測の社員だった。原発の作業、それも安全検査の面でも複雑な下請け構造が存在する。これによって原発会社は儲けるのだ。原発会社のような秘密保持が厳重な組織はとくに不透明な組織機構による機能不全がある。まして別会社による二重三重の下請けシステムとなればその弊害ははなはだしい。今回の事故はそのことを暴露したものと言える。今回の事故で放射能漏れはなかったとされているが、原発をめぐる状況は、このままで行けば破滅的な大事故が起こるのは必至だ。
 関西電力と政府は、事故の原因について徹底的に明らかするとともに、安全を無視して強行されているすべての原発を停止させて総点検をおこなわなければならない。あわせて、犠牲者及び家族に対して最大限の補償をおこなわなければならない。


8・6ヒロシマ平和へのつどい  被爆60周年へ新たなスタートを

       ヒロシマからの再出発、憲法9条で戦争を止めよう

 八月五日夕刻から、広島YMCAで始まった「8・6ヒロシマ平和へのつどい2004」の集会には二〇九人の市民が参加した。
 会場には全国各地から平和のリレーをしてきて、この日、午後二時に原爆ドーム前に到着したピースサイクルの人びとなど、各地の市民の参加者に加えて、世界各国からの代表の姿もあった。
 発言者は実に多彩で、つぎつぎに多くの人が登壇した。イラク戦争帰還米兵のイヴァン・メディナさん、イラク人医師のDR・サルマさんらも発言した。今年のつどいの主役はまさに憲法九条であった。
 八月九日を中心にしたナガサキでの行動を準備しているピースウィーク実行委員会の舟越耿一さんは「私たちの平和運動の思想をいかに作るかが問われている。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキを反核の中に閉じこめ、有事法制反対、憲法九条改正反対の問題を考えないのは誤りだ」と述べた。
 元米兵で「人間の盾運動」に取り組んだケン・オキーフさんは「私の心はイラクの人びとの痛みでいっぱいです。パレスチナの悲劇を止めるために、一年以内に一〇〇〇〇人の西洋人をパレスチナに集めて行動したい。日本人も参加して欲しい。パレスチナの人びとは毎日毎日、非暴力の抵抗運動をつづけている。にもかかわらず、パレスチナの人びとは弾圧され、殺されている。イラクでの人間の盾運動の最大の問題は、人数が少なかったことだ。今度一〇〇〇〇人を集めることができればきっと成功できる」と訴えた。
 米国から来たニューヨク州立大学のラリー・ウイットナーさんは「特に核兵器の時代には戦争は国際間の紛争を解決する手段としては実用的方法ではない。私は今、憲法九条があることを非常に喜んでいる。この九条を誰が作ったかはさしたる問題ではない。九条は日本国民の中に定着している。そして九条は他の国の人びとにとっても模範である。九条が世界の大国の一つである日本の憲法だと言うことが重要だ。なぜなら大国は往々にして侵略戦争をするからだ。しかし日本の国の当事者たちはきわめて明確に書かれた憲法の条項を無視して米国と軍事同盟を結んでいる。日本の政治家、官僚たちは多額のカネを使って、軍隊を作っている。にもかかわらず、九条のおかげで日本は米国ほど好戦的で、無謀な行動をとってこなかった。日本の人々が九条を維持していくことを願っている。九条の持つ反戦の原理を日本で、アメリカで、世界で実践していこう」と訴えた。
 集会の最後に主催者を代表して湯浅一郎さんが挨拶した。
 本日は核廃絶をテーマに世界から人びとが集まっている。日本では有事法制が作られ、自衛隊が多国籍軍に加わったという状況のなかで、今年はあえて憲法九条を「つどい」の中心にすえた。
 ヒロシマ、ナガサキ、沖縄のあの体験の中から日本人は九条を選び取った。全国一五〇カ所以上の空襲の体験の中から日本人は九条を選び取ったのだ。いま被爆地ヒロシマは呉や岩国などと共に米国の世界戦略の一翼を担う立場におかれつつあることを見つめなければならない。もし憲法九条が変えられるとすれば、世界の方向が変えられるということだということを肝に銘じておきたい。
 集会は最後に平和宣言(別掲)を採択した。
 つどいの参加者は、翌朝早くから原爆ドーム前での宣言の配布、グランドゼロのつどい、ダイイン、そして中国電力に向けたデモと座り込みなど、ぎっしりのスケジュールで行動した。

市民による平和宣言2004  ヒロシマからの再出発、憲法9条で戦争を止めよう

 有事関連法が成立し、武装自衛隊のイラク派兵が続く中で、ヒロシマは五九回目の原爆忌を迎えている。この背景は、世界が、超大国アメリカによる対アフガニスタン戦争、対イラク戦争に象徴される「暴力の連鎖」に満ち、日本政府が、アメリカの意向にそう選択をしていることにある。

 五九年前の今日、広島に原爆を投下し、幾十万人もの人々を無差別に虐殺したアメリカは、未臨界核実験の強行、小型核兵器の開発、核実験の再開など自らの核兵器体系を強化している。そして二〇〇三年三月、大量破壊兵器保有「疑惑」を口実に、イラクを先制攻撃し、バンカーバスター・クラスター爆弾・劣化ウラン弾など非人道的な準大量破壊兵器を使用し、破壊の限りをつくした。しかし、大量破壊兵器は見つからず、何一つ大義のない侵略戦争であったことがいよいよ明らかになっている。私たちは、世界で唯一、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を実行し、今またイラクへの先制攻撃をしたアメリカ政府の行為に対して、国際法違反の戦争犯罪として断罪する作業を強力に推進せねばならない。

 二月一四日、呉基地F桟橋の両側に輸送艦「おおすみ」、護衛艦「さみだれ」の二隻が停泊し、相次いでイラク、アフガンに向け出港した異様な光景を私たちは決して忘れない。これは、自衛隊創設以来、初めてのことであり、呉が派兵国家へのハードルを越えた瞬間であった。今、日本は「派兵国家」へ向けて暴走しており、被爆都市広島の足下の街、呉がその一つの中心なのである。これまで「専守防衛」の枠内にいた自衛隊が、発足五〇年にしてイラク多国籍軍への参加など重大な変質をとげていることを容認するわけにはいかない。

 これと重なって、アメリカ軍の世界態勢見直しの一環として、在日米軍が大きく再編されようとしている。これは、安保条約をすら逸脱している。その一つが岩国への厚木からの移駐計画という形でヒロシマに押し寄せている。これに伴い二〇〇三年一月の広島県大黒神島にNLP訓練用滑走路を作る構想などが再浮上する可能性が高い。そして原子力空母が瀬戸内海を徘徊し、空母艦載機によるNLP訓練などの常態化が懸念され、ヒロシマの基地は飛躍的に強化される。厚木の岩国移駐は、何としても阻止せねばならない。
 
 政府とそれを支える勢力は、いまなお原爆被害を過小評価し、戦争責任も十分とらないことの延長上で、日本を再び「戦争ができる国」にしようとしている。この後、憲法九条を変えるために不可欠な国民投票法案、海外派兵の恒久化法案、更にその先に憲法の本丸を変える手続きが待っている。昨年の「市民の平和宣言」で、<「あなたは、子どもたちに「戦争ができる国」を残したいのですか?」との問いが爆心地の地中深くから、無数のうめき声となって、聞こえてくるようです>と書いたが、事態はより深刻化している。

 しかし、イラク、アフガンの姿が示しているように、暴力によって暴力を抑えようとする政策は、泥沼のあり地獄にはまるだけである。アメリカの戦争と占領政策は破綻している。平和憲法、九条の価値を共有し、あくまでも堅持するべきである。九条を変えるのではなく、むしろ九条を世界に広げることこそが、世界の困難を解決していく、唯一の道である。世界は九条を必要としており、九条こそが戦争を止める力である。

 被爆六〇周年をひかえた今、私たちは、宣言する。 被爆六〇周年、NPT再検討会議のある二〇〇五年をできる限り早い時期に核兵器廃絶への道筋をつけさせる年にしよう。

 ● これ以上、生命を奪う前に、奪われる前に、イラクから自衛隊を撤退させよう!
 ● ヒロシマからの海外派兵・派遣を許さない!
 ● 日本を「派兵国家」にするな!
 ● 米・アジア戦略の再編を許さず、在日米軍の撤退を求めよう!
 ● 厚木の空母艦載機部隊の岩国移駐を許さない!
 ● 「暴力の連鎖」を断つために、憲法9条を堅持し、世界に活かそう!

二〇〇四年八月六日

 8・6ヒロシマ平和へのつどい2004(代表 湯浅一郎) 参加者一同


イラク民主的国民潮流リカービさんが来日・講演

 イラクで今年四月、自衛隊のイラクからの撤退を要求する武装勢力によって高遠菜穂子さん、今井正明さん、郡山総一郎さんが「人質」となった。
 WORLD PEACE NOWをはじめとする市民運動は、連日にわたって、自衛隊の即時撤退を要求する運動を展開するとともに、国際的なネットワークの連携によって日本人「人質」の解放を実現することができた。このとき、日本の市民運動とイラクの占領に対する現地の抵抗運動のネットワークを結び、「人質」となった日本人の仲間たちの解放に尽力したのが、イラク民主的国民潮流(CONDI)のアブデル=アミール・アル・リカービさんだった。
 リカービさんが七月下旬に日本を訪れた。来日の目的は、日本の民衆にイラクの現状と人民の闘いを知らせること、もうひとつは、日本政府・マスメディアの虚偽の報道に対して裁判で争うことだった。

リカービさん東京地裁へ

 昨年一二月、リカービさんは来日して小泉首相と会見し、自衛隊が占領軍としてイラクに派兵されることに反対の意見を伝えた。しかし、「週刊ポスト」誌は、官邸筋からの情報だとして、リカービさんが日本政府から巨額の資金を得て、イラクに送られた自衛隊の安全に責任をもつことを約束したという一〇〇%事実に反する虚報を掲載した。リカービさんは、この中傷報道に対して「週刊ポスト」を相手取り、記事の訂正と謝罪、損害賠償を求めて提訴した。
 リカービさんは、七月二八日の午後、東京地裁七〇九号法廷(民事三二部)で、「週刊ポスト」の記事がまったく事実に反したものであり、リカービさんが日本政府の手先であるという虚偽の報道が、イラクにおいていかにリカービさんとその一族に「被害」をもたらしているか、「週刊ポスト」誌と政府は、事実を明らかにし、記事の訂正と謝罪、損害賠償を求める弁論を行った。この悪らつな捏造記事は、単に「週刊ポスト」誌だけの問題ではない。この事件の裏にはアメリカ・ブッシュ政権の不法不当なイラク侵略戦争に積極的に加担する小泉政権の情報操作が存在する。
 リカービさんの訴訟は、イラク反戦、自衛隊の即時撤退、日本とイラク民衆の連帯・交流の前進のための不可欠の闘いである。

リカービさんの講演

 七月三〇日には、水道橋の在日本韓国YMCAアジア青少年センター地下ホールで、「『人質』解放、そしてイラク抵抗運動の今  アル・リカービさん(イラク民主化国民潮流)に聞く 7・30集会」が開かれた。
 はじめに、イラクから帰ったジャーナリストの志葉玲さんが、現地の報告を行った。
 リカービさんは次のように述べた。
 イラクでは、今年四月にファルージャをめぐって米軍に対する民衆の大きな抵抗闘争がおこった。こうして抵抗闘争は、これまでのスンニー三角地帯を超えて、イラク全土に広がった。また、四月には、アブグレイブ収容所での米軍兵士による拷問・虐待が暴露された。この二つの事件はアメリカを窮地に追い込んだ。
 イラクではアメリカの占領政策が困難に直面しているが、武装勢力の側も占領者を追い出すまでの力は持っていない。それは国民的基盤を持った政治的枠組みができていないからだ。アメリカから「主権委譲」された暫定政府はさまざまな政治組織を国民会議へ参加させようとしている。私たちの政治グループは、暫定政府のものと違う憲法制定国民会議の開催を呼びかけている。暫定政府の国民会議は占領に賛成し、私たちのものは占領に反対するものだ。
 私たちの運動は世界的な反戦運動・反グローバリゼーション運動の一部だ。私たちは昨年ヨーロッパ社会フォーラムなど多くの国際会議に参加している。
 自衛隊が多国籍軍に参加し、イラク占領に参加するというのは大変に残念なことだ。私たちは自衛隊のイラクからの撤退を要求する。


 反戦平和を掲げて2004ピースサイクルの疾走

 
平和への想いをつないで長野県縦断  ( 長野ピースサイクル )

 七月二五日(日)、二〇〇四長野ピースサイクルは梅雨明け後の晴天が続く長野県の木曽路から始まった。楢川村の奈良井宿から松本までの約四五キロ。観光で沢山の人々が訪れている中を「有事法制反対」「すべての核廃絶」「憲法九条を世界に」「長野県の豊かな自然を守ろう」などのアピールしながら自転車を走らせた。この日の参加者は一五名で、参加者は長野ピースサイクル・オリジナルのそろいのビブスを着て元気に走った。間近に迫る強烈な雷雲を気にしながらの走行となった。だが、無事目的地の松本に到着したところで強烈な雷雨となり、幸運を喜び合った。
 一週おいた七月三一日(土)には、松本市のあがたの森と佐久市役所前の二カ所から、二組が別々に出発して、宿泊地(松代大本営跡に近い)である千曲市の森温泉をめざした。この日もほとんど雲のない晴天で、かつ追い風が吹くといういつもの夏とは違ったサイクリングとしては最適な条件で走った。そのために休憩時間も少な目で、二ルートとも例年になく早い時間に宿泊地に到着した。強烈な暑さを除けば、折からの台風十号影響の中を走られた各地の皆さんには申し訳ない様な快適さでした。
 その分みんなの疲れが少なかった。そのせいか、夜の交流会は遅くまで盛り上がった。今年の学習企画は「劣化ウランの恐怖(ビデオプレス制作)」の鑑賞をメインに、実行委員でビデオ編集の仕事をしている女性の制作になるオリジナル版「二〇〇三年長野ピースサイクル」、「二〇〇三大阪ピース」を観て、昨年の活動を振り返えり、様々なハプニングついて語り合ったりした。
 翌八月一日(日)は、いよいよ長野ピースサイクル参加者を「とりこ」にする心臓破りの急で長い坂の続く新潟県との県境のコース。宿を出発して松代大本営跡近くを通り、長野県自然エネルギー研究所のある須坂市へ。ここでは例年のごとく自家製のオイシイスイカなどで歓迎と激励を受ける。夏らしい本格的な暑さに本番ピースサイクルの実感が沸いてくる。長野ピースサイクル名物の「冷たいトマトときうり」もおいしい。事務局長特製の人気の高いレモネードも売れ行きがよい。「暗雲たれ込めている日本」を吹き飛ばすように、参加者の顔が晴れ晴れとして熱気が漲っている。距離(約六〇キロ)は短いとはいえ、長くて急な上り坂を必死でペタルを漕いで、あえぎながらもお互いに励まし合う声が聞こえてくる。沿道には伴走のスタッフたちが励ましの声を掛かる。先に休憩地点に着いた仲間が後続の人を出迎えて励ます。ピースサイクルならではの連帯感が生まれる瞬間である。二日めの宿泊地(信濃町やすらぎの森キャンプ場)に全員が無事に到着。野菜たっぷりの焼き肉、焼きそば、昔ながらのお釜で炊いたおいしいご飯に舌鼓を打ちながら、ビールなどを飲みながら盛り上がった。この夜は晴天の星空を眺めて自然のすばらしさを語り合う仲間たちも多かった。そのまま、星空の下で眠った人もいたとか。
 八月二日(月)はやはり晴天で、上越まで約四五キロだが下りが多く追い風が手伝って、三〇キロ以上のスピードが簡単に出る。自衛隊の関山演習場を横目に見て、日本海へ到着。
 到着した全員が、参加しての感想や今後の闘いへの新たな決意、来年のピースサイクルに向けた抱負を述べあい帰路についた。
今年は天候に恵まれ、かつ終始追い風に助けられて、総参加者三五名が快適に走り抜けた。日程の関係などで参加出来なかった人々からも、ピースメッセージや賛同金、秋のホリデーピース、他の行事には参加したい旨の連絡も入っている。今年は久々に東京から目の不自由な女性も参加してくれたり、千葉や東京からも参加してくれたり、今年始めて参加して「やみつき」になりそうな女性がいたりと「平和への想いをつないで」二〇〇四年長野ピースサイクルの夏の本走は終了した。
 これから報告集の作成、反戦集会やビラ配りなどの行動、秋のホリデーピースと長野ピースサイクル実行委員会の行動は続いていく。一四年間で五〇〇名を超える人々が、何らかの形で長野ピースサイクルに関わり、「長野ピースサイクル」といえば知っている人も多くなった。今年も多くの自治体から広島や長崎、沖縄へのピースメッセージを届けた。地道な小さな運動ながら、参加者や周りの人々に「人肌の感動」と「平和への想い」をつないで、暑い夏全国を走っているピースサイクルの仲間達との連帯感、さまざまな反戦・平和運動の仲間たちと手を携えて、今年も長野ピースサイクルは疾走していく。投稿 長野ピースサイクル実行委員(T・O )

 伊方原発3号機でのプルサーマル計画撤回! ( 四国ピースサイクル )


 五月一〇日、四国電力は伊方原発三号機でのプルサーマル導入を愛媛県と伊方町にも申し入れた。
 第一六回目の四国ピースサイクルは、プルサーマル計画の撤回を求める「原発さよならえひめネットワーク」の闘争に連帯し、自転車でスタートした。
 七月二九日、高知県高知市から窪川町まで約七〇キロメートルを高知水道労組青年部九名が伴走車二台と自転車七台で走った。
 島岡幹夫さんは留守で奥さんと息子さん夫婦の温かい出迎えを受け、高知水道労組青年部と呉ピースサイクルが合流した。
 呉ピースサイクルには、広島ピースサイクルと島根ピースサイクルからの参加も含め一〇名のメンバーが参加した。
 宿舎に到着後、プルサーマル反対の四国電力へのお互いの思いを交流会で深めた。
 七月三〇日、高知水道労組青年部の「伊方三号炉プルサーマル計画反対」の横断幕を引き継いだ。
その後、全員で窪川町役場に行くと町長は岡山に出張のため、総務課長に「政府に対し、より危険なプルサーマル導入計画を四国電力に即時中止させるよう申し入れてください」という第三回目の要請書を手渡した。
 猛暑の中、高知水道労組青年部に見送られ宇和島市に自転車を走らせた。
 土佐の清流、四万十川で昼食を取り、川遊びで汗を流した。その後、宇和島水産高校を訪れ、えひめ丸の慰霊碑に献花した。
 七月三一日、台風一〇号が迷走を続け、天気予報は四国に上陸する可能性が高まったと言う。雲が空を覆い、風も次第に強くなり、雨もパラパラ降り始めた。
 自転車の走行は無理と判断し、車で移動し、伊方原発への抗議行動と八幡浜市でのビラまきを行うことにした。
 これまでにもお世話になった浄満寺で焼香した。車で移動中、道路情報で「暴風警報」が発令中。
 午前中、伊方原発に到着し、南海日日新聞の近藤さんと合流し、ゲート前で四国電力の石川総務グループリーダーに「プルサーマル計画は、使用済み燃料から抽出したプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料を燃やす大変危険な計画。MOX燃料では高濃度のプルトニウムを使用することになり、原子炉の核反応が激しく事故が起こりやすい」などプルサーマル計画の撤回を求めるの抗議文を手渡した。 総務グループリーダーは、「ひたすら安全に操業します」を繰り返すのみ。その後、「伊方原発三号機のプルサーマル計画を撤回しろ!、伊方原発を廃炉にするまで闘うぞ!」などシュプレヒコールした。
 その後、JR八幡浜駅前でビラまきし、国労の方と合流した。
 夜、「原発から子どもを守る女の会」と近藤さん夫婦との交流会を持った。近藤さんからは、「四国電力のプルサーマル計画に反対する署名に取り組みましょう。瀬戸町の風力発電は本格稼動した」など報告があった。
 八月一日、天気予報で台風一〇号は、昨日の深夜に高知県に上陸し、高知県と愛媛県を暴風域に巻き込み四国を縦断した。台風のコースは、四国ピースサイクルのコースと同様を知り、全員で胸をなでおろした。保内町から松山市まで約六〇キロメートルを、小雨の中を自転車で実走した。 (広島通信員)

原点のヒロシマへ  ( 大阪ピースサイクル )

 大阪ピースサイクルは、七月三一日に愛知から来た松井君、京都ピースのメンバーと北区にあるアメリカ総領事館前で合流し、申し入れとシュプレヒコールをあげ、その後引継ぎをおこなった。
 翌日、大阪ピースサイクル隊は、自転車八台、伴走車一台で大阪市役所前を出発し、西宮市役所で兵庫ピースサイクルと合流。一日目は、交通量の多いコースで疲れるが無事に高砂に到着。台風が行った後で涼しいピースだ。 
 二日目は、高砂を出発するころから雨がぽつりぽつり。でも暑いピースよりも快適だ。
 今日のコースは、市街地を抜け、海岸線と三つの峠越え。
 自然とふれあい、ともに汗を流す大阪ヒロシマ間のメインコースでもある。
 峠は、自分との闘いであり、苦しさを乗り越える感動と達成感が得ることができる。
 距離も短く四時には宿に到着。
 三日目に、岡山に入り、早くも広島県の福山市に入るコースだ。
 ここで兵庫ピースの仲間とお別れ。来年はヒロシマへの参加を要請する。
 昨日大阪から来たメンバーと合流して自転車は一一台に。
 国道二号線をトラックと格闘しながら無事に福山に到着。
 福山では一足早く島根、岡山北のメンバーが到着しており、歓迎をうける。
 四日目は、呉までの一〇〇キロメートルを超える長距離のコースであるとともに、出発のころから雲行きが怪しい。雨具の用意と安全運転を全員で確認し、福山を出発。
 途中、大粒の雨にカッパを準備するが呉到着のころには天気も回復した。
 五日目の八月五日は、いよいよヒロシマ入りだ。
 一四時の到着集会に間に合うように余裕のスケジュール。
 まずは、呉の自衛隊基地の見学。この呉基地からも戦後はじめて紛争地域へ派兵されたことを思い起こしながら戦争反対を誓う。その後、はじめて入船山記念館を訪れ、呉の歴史について学んだ。
 一四時、下関ルート、四国ルート、大阪、愛知ルートの仲間が原爆ドームに到着。
 到着集会の後、折鶴を原爆の子の像の前に、慰霊碑前で献花をおこなう。
 八月六日の八時過ぎ原爆ドーム前でダイ・イン続いてグランド・ゼロのつどい。
 ヒロシマ、この原点の地で核兵器廃絶と戦争反対を誓い合う。
 今年は、台風のせいで涼しいピースサイクルだった。来年は、大阪から始まって二〇年の節目の年を迎える。
 憲法を変えようとする動きが強まるなか戦争反対、憲法改悪反対の行動を来年に向けて取り組んでいこう!


「自由主義史観」の「保険」にされた司馬文学  

                         
北 田 大 吉

 政治の反動化には、歴史の反動的な解釈が必然的に伴う。日本の歴史、とりわけ近現代史に対する「解釈」は、階級闘争の不可欠の一環である。今後の憲法をめぐる政治決戦状況は、この方面における対決をいっそう激しいものとする。
 こうした折り、本紙編集部は北田大吉氏より長文の寄稿をいただいた。章立ては、@司馬作品はなぜもてたのか、A司馬遼太郎は「高度経済成長の申し子」だった、B司馬はなぜ朝鮮を書けなかったのか、C司馬は日清・日露戦争を日本の「防衛戦争」に仕立てたい、D日露戦争に対する司馬の軍事的評価は正しいか、E司馬の「おもしろい」は何に由来するか、F「自由主義史観」はどのようにして司馬を「保険」にしたか、で、今回は@〜Dまでを掲載する。(編集部)


(一) 司馬作品はなぜもてたのか

  
 NHKの来年の大河ドラマは、司馬太郎の『坂の上の雲』に決まったという。
 果たして、この作品がドラマとして成功するかどうかは分からない。生前の司馬は、この作品のドラマ化を許さなかったという。この作品をドラマ化すれば、どうしても戦闘のシーンが多くなり、視聴者に好戦的な作品との印象を与える可能性があるからだという。
 司馬作品のなかには、『梟の城』、『竜馬がゆく』、『新撰組血風録』『国盗り物語』など、NHKでドラマ化されたものが多く、多くは高視聴率を上げたが、『竜馬がゆく』だけは、なぜか視聴率が悪かった。NHKの統計によれば、『竜馬がゆく』が放映された一年間の平均視聴率は一四・五パーセントで、その視聴率は大河ドラマ開始十年間で最低の数字である。
 この視聴率自体はけっして悪い数字ではないが、要するに「竜馬がゆく」は期待はずれだったということである。その理由にはさまざまあろうが、高度経済成長期初期の大衆には、型にはまった組織を好まず、最後には出世できないままで暗殺された竜馬は、この時代のヒーローとしては物足りなかったということであろう。『坂の上の雲』が前車の轍を踏むかどうかはわからないが、なぜ現在、『坂の上の雲』かという疑問は残る。
 桂英史(『司馬遼太郎をなぜ読むか』、一九九九年、新書館)によると、司馬の文学遍歴はおよそ次の四期に分けられるという。伝奇ロマン、歴史を舞台にしたヒーロー小説、歴史小説、文明批評の四期である。
 司馬の文学遍歴は、主として時代の要請に合わせたもので、過剰な読者サービスともいえる。司馬は、一九五九年に『梟の城』で直木賞を受賞するまでは、新聞記者と二足のわらじで小説を書いていたのだが、司馬はいかにも新聞記者らしく、時代の要請に対しては敏感であった。
 司馬は、時代の趨勢に気を使い、常に、その都度の読者の要求に応える作品を書き続けてきただけあって、司馬作品は確かにどれも面白い。かなりの知的レベルが要求されると錯覚される純文学とはちがい、司馬作品は構えなくとも読めるという気安さからか、老若男女を問わず、読者層は広い。
 司馬作品は、当初は、大新聞に連載されることによってパブリシティを獲得し、次いで、週刊誌に連載されることによって主としてサラリーマンを読者に獲得した。この結果が単行本、そして文庫本の刊行へと結びつく。谷沢永一(『司馬遼太郎』一九九六年、PHP研究所)によると、『韃靼風雲録』が終わったのが、司馬六十四歳のときで、それ以後、小説は書いていないが、その小説が全部、文庫本になって、年間一千万部ずつ売れているというからもの凄い。
 新聞、週刊誌、単行本の売れ行きが上がれば、もちろん、司馬の手にする原稿料や印税はうなぎ上りに増えてゆく。しかし司馬の個人的な収入が増えてゆくだけではない。司馬作品を連載した新聞や週刊誌を発行したジャーナリズムも大いに潤うのである。司馬作品を単行本として刊行したのは〈新潮社〉、〈講談社〉、〈中央公論社〉〈朝日新聞社〉、〈文芸春秋社〉、〈集英社〉、〈NHK出版〉など、新聞や出版の大どころである。しかし、テレビも司馬人気に指をくわえていただけではない。NHKの大河ドラマ化などはその習いである。

 ところで司馬というのは作家としてひとり立ちしたときにつくったペンネームである。新聞記者をやりながら書いた「名言随筆・サラリーマン」は、福田定一という本名を使っている。想像されるように、「司馬」は中国の歴史家・司馬遷からとったもので、遼太郎の「遼」は「及ばない」という意味であるから、司馬遷にいくら憧れてもとても及ばないということであろう。あるいは、歴史好きの司馬遼太郎は、いつかは必ず司馬遷を超えてやろうということであったかもしれない。
 サラリーマンたちが、朝夕の通勤電車の無聊をまぎらわせるために司馬作品を読むという程度は構わないが、ゴルフをやらない人間が職場で肩身が狭いように、司馬作品を読まないと付きあいに支障があるとなると別だ。
 司馬の歴史小説で歴史を学ぶ、あるいは生き方を学ぶとなると、病膏肓に入るだ。歴史小説といえども、所詮、小説は小説である。もちろん、歴史小説を契機にして歴史に関心をもつようになるものがいてもおかしくないし、あるいは文学作品を通じて人生を学ぶのも悪いとはいわない。しかし職場には、歴史小説を読んだだけで、さかしらに歴史を語る上司がいるし、歴史小説のヒーローを使って部下を類型化してみせる役員もいる。 
 司馬遼太郎が亡くなった年に文芸春秋が追悼特集で単行本・『司馬遼太郎の世界』を出したが、そのなかで諸井薫が以下のように述べている。

 あちこちのメディアで、ビジネスマンを対象に、司馬作品の人気度調査が行なわれてきたが、……傾向はほとんど一致している。それによれば、<一般社員>のランキングは、一位『竜馬がゆく』、二位『翔ぶが如く』、三位『国盗り物語』、四位『坂の上の雲』、五位『項羽と劉邦』、六位『花神』、七位『関ヶ原』となっている。これに対して<経営者>のほうはどうか。一位『坂の上の雲』、二位『竜馬がゆく』、三位『翔ぶが如く』、四位『この国のかたち』、五位『街道を行く』、六位『項羽と劉邦』、七位『峠』である。
 このランキングでわかることは、<一般社員>はNHKの大河ドラマ化された作品が上位を占めているのに対して、<経営者>の方は『坂の上の雲』を一位に挙げる人が圧倒的多数で、『この国のかたち』や『明治という国家』というように、小説よりも歴史エッセイの方へ傾斜している点だ。

 文春のこの追悼特集には、実に多くの人々が原稿を寄せている。同じ作家仲間や評論家などはもちろんであるが、政治家や大資本経営者などからの寄稿も多い。橋本竜太郎、羽田孜、小渕恵三、小泉純一郎などの現・元首相なども原稿をよせている。
 小泉首相も原稿を寄せているひとりだが、その内容は、司馬作品に対するなんらの批判の目もなく、もっぱら司馬作品によって歴史を学ぶというタイプの典型だ。小泉が「米百俵」を所信表明に盛り込んだのは記憶に新しいが、その出所は司馬の『峠』のなかで描かれる小林虎三郎のエピソードである。のちに小泉は国会答弁において歌謡曲の『人生いろいろ』を引いて顰蹙を買ったが、それからみればまだましだったかもしれない。 
 追悼特集という性格からよけいそうなるのであろうが、次から次へとこちらの顔が赤くなるくらい美辞麗句を並べた司馬遼太郎礼賛が続いている。この特集を含め、多くの人が司馬について論じているが、一部を除いて、ほとんどのものが司馬礼賛に終わっている。
 中村政則は、『近現代史をどう見るか―司馬史観を問う』のなかで、「少数を除いて、そのほかの司馬遼太郎論はオマージュ(称讃)が過ぎて、実につまらない。このような偶像扱いは、私は確信をもって言うのだが、司馬の望むところではない」と語っているが、まったく同感である。中村のいう少数の人というのは、尾崎秀樹、加藤周一、半藤一利、松浦玲、松本健一、丸谷才一らのことである。残念ながらわが敬愛する中島誠は、このなかにはいっていない。中島が司馬論を書いていないのではない。中島は、第三文明社から『司馬遼太郎がゆく』、続いて司馬の没後ではあるが、現代書館から『司馬遼太郎と丸山真男』という優れた評論をだしている。しかし、それらのなかでは、司馬に対するハッキリした批判は残念ながら見当たらない。
 中村政則のほかに、藤原彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』(大月書店、一九九六年)、桂英史『司馬遼太郎をなぜ読むのか』(新書院、一九九九年)が司馬遼太郎を批判的に扱っている。しかし、中島は、中村の批判に対して、「その趣旨は、藤岡信勝の『汚辱の近現代史』を批判し、歴史教科書の書替えを主張する藤岡に反対するものなのだ。司馬は、いわば藤岡断罪のだしにつかわれたわけである」と述べているにとどまる。
 桂は司馬没後のオマージュ・ブームを司馬遼太郎の「ひとり勝ち」と呼んでいる。出版界がこのブームの火付け役であるのはもちろんであるが、それも司馬作品を売らんがためのキャンペーンである。大手の出版社は、生前の司馬で儲けてきたが、死後もなお司馬を売らんというのだ。あくなき利益追求だ。同業の作家・評論家もこのキャンペーンに協力しなければ、たちまち干されてしまう。だからかれらは消極的に協力しているだけではない。司馬オマージュに参加して、自分を売り出そうという積極的な意図もあるのだ。出版界だけではない。さまざまな企業が作家や評論家を呼んで、司馬遼太郎を主題とする講演会が企画されたが、かれらにはその講演料もお目当てなのだ。

(二)司馬遼太郎は「高度経済成長の申し子」だった
 
 司馬遼太郎が『梟の城』をだしたのは、一九五九年九月のことである。最後の小説となった『韃靼風雲禄』が出たのは、一九八七年であるから、約三〇年におよぶこの期間はまさに高度経済成長とぴったり重なっている。司馬は高度経済成長を追い風にして、「国民的」作家として成長してきたのだ。司馬の成功は、高度経済成長が段階的に変化するごとに、自分の小説を大衆の好みに合わせて適応させ、また、それぞれの段階のなかで、細かく大衆の気分に追随した。司馬は、早く言えば、大衆の喜ぶものを大衆の喜ぶように描いたのだ。
 ところで司馬の作品を国民文学と持ち上げるものがいるが、国民文学と「国民的」文学とは同じ意味ではないだろう。中島誠は、「国民文学とは、歴史小説と大衆小説と時代小説とをみんな大鍋にいれて煮返してみて、最後に残るご馳走のようなもの」というが、哲学者の梅原猛は『司馬遼太郎の世界』のなかで「司馬遼太郎と国民文学の再生」という論文を寄せ、国民文学の定義として、
 一、 上下、老若、男女を問わず,広くその国民に愛されること。
 二、 その国民に人生とは何であるかを教え、生きる教訓を与えること。
 を挙げている。確かに司馬は、考え方によっては、これらの一、二に該当するかもしれない。しかし、梅原によれば、これらの条件に該当する作家は、司馬遼太郎にかぎらず、海音寺潮五郎も船橋聖一も松本清張も「有資格者」である。
 これら一、二の定義は基本的な国民文学の条件であるが、梅原はこれらに加えて、
 三、 人生を見る視点がけっして一方に偏らず、その時代の良識にかなっていること。
 四、 適度なユーモア感覚を備え、かつ抑制の効いたエロスの匂いがすること。
 を挙げている。三の「視点」と「時代の良識」という点に関して言えば、国民文学は国民のモデルとなるべき存在として理想化されており、四に関して簡単にいえば、「親しみ」という言葉で表現されるという。
 司馬作品が、約三〇年間に及ぶ高度経済成長期に圧倒的に売れた、まさに国民各層に及ぶ広汎な読者を獲得したことを否定するつもりはない。しかし、谷沢によると、日本の歴史が暗黒に塗りつぶされ、過去の日本人は悪業を積み重ねてきたという風に論じたててきた暗黒史観、罪業史観の跳梁に敢然と立ち向かうべく現れたのが「司馬史観」(谷沢はそう呼ぶ)であった。
 谷沢がいう「司馬史観」の根幹をなす発想の第一は、公式主義必然理論の排斥である。発想の第二は、唯物史観からの脱却である。発想の第三は、偶然性の承認である。発想の第四は、民族の気概の視座である。第五は、歴史を動かす要因は経済問題であるという認識である。
 「司馬史観」なるものが谷沢の言う如きものであるとすれば、それは唯物史観の無理解の上に立って、唯物史観の内容を通俗化しているだけで、なんら唯物史観からの脱却になっていない。
 桂英史は、中村政則が「司馬史観」というサブタイトルを使っていることを批判して、「司馬はみずからの歴史観を明確にしようとして小説やエッセイを書いていたわけではない。彼は「読み物」を作るプロとして『思い入れ』や『共感』をおもしろおかしく書くことを職業としていた職業作家に過ぎない。
 歴史家自らが著書のサブタイトルに『司馬史観』と書いてしまえば、司馬の『共感』や『思い入れ』を歴史観と認めてしまったことにはならないだろうか」と書いている。
 ここで批判されているのは、中村政則である。私も同感である。司馬の歴史についての理解は、あくまで司馬の「思い入れ」以上のものではなく、唯物史観とか生態史観などのような普遍性をもつ史観など司馬にはない。
 また、さきに「国民的」作家と書いたが、司馬の作品が括弧抜きの国民文学であるというのは、尚早にすぎる。過去にも吉川英治のような国民作家がいたが、吉川と比較するならば、司馬はたくさん書いて、たくさん儲けただけの作家で、いわばメディア資本主義の寵児というだけのことではないか。
 九〇年には高度経済成長のバブルがはじけ、日本経済は急速に悪化する。これと符丁を合わせるかのように、司馬も小説を書かなくなる。書かないのではなくて、書けないのだ。小説が書けなくなっただけなく、司馬のエッセイも、その対象が現代に近づけば近づくほど、特徴だった明るさが薄れ、愚痴ばかりが目立つようになった。
 一九九一年と九六年に相次いで出された『風塵抄』は、この種の愚痴にあふれている。たとえば、『風塵抄』の「石油」のなかには次のような一文がある。

 ただちに石油離れすることは不可能であるにせよ、この異常なほどの石油文明を大きく減速させねば、ついに人類は地球そのものをうしなってしまう。
 湾岸戦争がどんな決着をむかえるにせよ、そのあと、そんな課題が夢ではなく、正気で国際間で議せられるにちがいない。たとえ、それによって世界経済が後退してもである。

 司馬の心配は至極ご尤もである。残念ながら、司馬没後も、石油文明を減速させる措置が採られたわけではないが、考え方としては、おそらくそのような方向で進行するだろう。
 問題は、これと幕末・明治を描く司馬の筆致と大きな隔たりがあることである。よく司馬における明治と昭和の明暗の区別が問題となるが、明治と昭和のいずれにも明暗がある。とすれば、司馬は明治に特別の「思い入れ」があるから、明治をことさらに明るく描き、その反動で昭和がことさらに暗くなる。過度に明るい明治も過度に暗い昭和も、いずれもリアリズムに欠けるということにすぎない。

(三)司馬はなぜ朝鮮を書けなかったのか
 
 昭和とか大正のような現代は、ほとんど司馬の小説の対象とはならなかった。
 司馬は外語大で蒙古語をやったから、蒙古だけでなく、アジア諸国について造詣が深く、小説の対象としても多く取り上げられている。しかし、朝鮮だけは例外である。『坂の上の雲』のなかの日本海海戦のテーマのなかに、鎮海湾で日本の水兵たちが、バルチック艦隊が対馬海峡を経由してくることを日本の侵略(日本では文禄・慶長の役という)に抗して、これを退けた朝鮮の名将・李舜臣の霊に祈るシーンが出てくる。司馬は、これによって暗黙のうちに日本の朝鮮侵略を認めると同時に、どういうわけか外国勢力の侵略の侵略を撃退した李舜臣をアジア、特にこの海域の守護神として崇めるのである。また、この侵略戦争の際に日本に拉致されてきた陶工・沈儒官が主人公である『故郷忘じがたく候』という作品をも書くのである。
 話は変わるが、司馬くらいの「国民的」作家となれば、評伝を書こうという人がでてくるのは当然であろう。とすると、生まれたときから死にいたるまでの司馬のプライバシイは、ここでとことん探られることになる。しかし、不思議なことに、司馬の出自はきわめて曖昧である。司馬は自分の生家のことはあまり語らず、ときには故意に隠しているのではないかと思われるほどいい加減だ。
 延吉実は、『司馬遼太郎とその時代』(青弓社、二〇〇三年)において、「司馬が語った『半生の記』のかなりの部分が事実と異なる、作りごとである」といっている。とりわけ「大阪市南区島之内三ッ寺筋に生まれた。生家は餅源という四代続いた大阪商人」という出自をめぐる部分は虚偽である、と書いている。
 文芸春秋編『司馬遼太郎の世界』には、司馬遼太郎の『足跡 自伝的断章』が載せられている。これによれば、「一九二三年八月七日、大阪市浪速区西神田町八九に、父福田是定、母直枝の次男として生まれる。本名福田定一。祖父惣八は餅屋、父は開業薬剤師。母は奈良県北葛城郡竹ノ内村の出身。兄は二歳で夭折しており、姉一人、妹一人がある。生まれてほどなく乳児脚気のため、三歳まで北葛城郡今市の仲川氏宅で養育された」とある。
 同じ『司馬遼太郎の世界』には、同級生と戦友が語る「私の思い出」が収録されているが、そのなかで旧友の一人は「福田定一少年が生まれた難波塩草一帯は、昭和二十年三月の大阪空襲で九八パーセントが消失、住民たちは離散してしまった。だが何人かの同級生とは、成人してからも交際が続いていた」述べている。

 大阪平野の西域は、大阪市内の上町台地から東の生駒連山の麓まで…六、七千年前には入海(湾)だった。湾はやがて、外海と一部でつながる潟になる。二千年前には海と分離、大きな湖ができた。流れ込むいくつかの河川が、湖にデルタを形成する。その氾濫原に、人が住むようになったのだという。

 杉原達『越境する民・近代大阪の朝鮮人史研究』(新幹社、一九九八年)に、大阪市内在住朝鮮人の分布状況、定一の生まれた〈鶴橋木野町〉を含めた居住地域について、以下のような記述がある。
 
 ところで一八二八年半ばの時点で、ある新聞記者は、「すでに大阪市の住宅地域における最劣等の地域、洫川の溝に沿う鶴橋や今宮釜ヶ崎などに彼らの大部分を集めているドン底の底を彼等は占領した。ちょうどこの時期(二八年六月末現在)の大阪支社文芸部の調査によれば、〈鶴橋〉周辺にあたる東成区猪飼野町、鶴橋木野町、東小橋町には、番地が特定された七ヶ所に二四四〇人が、また〈今宮釜ヶ崎〉周辺に当たる西成区北開通、長橋通りには、同じく四ヶ所に二六七六人が居住していると」の報告が残っている。
 このあたりは、むかし難波村といわれたところで、第一次世界大戦の好況で、急に瀬戸内海沿岸地方からの移住者がふえ、場末の小市民街を形成していた土地である。(『司馬遼太郎が考えたこと 一』

 司馬のいう「瀬戸内海沿岸地方からの移住者がふえ」というのには根拠がないが、『在日コリアン百年史』の叙述によると、人口増加の経緯がよく分かる。  
 一九一〇年の日韓併合の翌年から在日朝鮮人の人口は増えはじめ、毎年増加の一方。それが十万人を越えるのは、定一が生まれた翌年、二十四年である。二十三年に大阪―済州島航路が開設された影響だろう。こうして朝鮮から日本へ渡ってきた人たちが、日本の近代化を底辺で支えることになるのだ。ちなみに在阪朝鮮人が十万人近くまで増加するのは、定一が尋常小学校に入学する三十年だった。 

 小林龍雄(『司馬遼太郎考』、二〇〇二年、中央公論社)によれば、司馬の祖先は分かっているかぎり武士の可能性が高い。戦国時代に播州英賀城に籠もって秀吉軍と戦ったが掃討された武士団の一員の宇野氏といわれている。ただ別のエッセイでは武士かどうかはっきりしないと書く場合もある。そのあたりは曖昧な要素があるのだ。
 その後、広という村に土着した。江戸末期に生まれた祖父の惣八は中百姓だった。百姓だったが算学に凝り、一方で米相場に熱を入れたが破産し、大阪に逃げ出した。そこで餅やおかきを売る商売人として繁盛する。
 ところで司馬遼太郎は、作品全体を通して武士らしい武士を描きたかったのだという。ところが幕末には、武士階級は完全に官僚化してしまい、武士らしい武士はもはや武士のなかには存在しなくなっていた。かえって厳密には、武士といえない足軽や郷士、百姓・町民のなかに「武士に憧れる者」というかたちで武士らしい存在があった。新撰組の近藤勇や土方歳三は農民であり、坂本竜馬や中岡慎太郎は郷士であるが、武士のなかよりかれらのなかに武士が存在した。薩摩の西郷隆盛や大久保利通なども厳密に言えば武士の出身ではない。
 司馬の祖父惣八も「武士に憧れる男の一人」であり、百姓のくせに明治になっても武士まげを結っていた。
 司馬の出世作である『梟の城』には。すでに「武士に憧れる男」が登場する。一九七〇年十一月二五日に三島由紀夫が四十五歳で自刃するが、三島も「武士の美学」追求の果ての死であったといわれる。司馬は最初から「美」にこだわっていたが、京都所司代の会津公預かりとなることによって途中から武士となった近藤や土方もまた「武士の美学」にこだわって生きた。しかし司馬が描く究極の武士の美学は『峠』の河井継之助であった。
 司馬が徹底的に隠しているのは、敗戦後復員して、作家・司馬遼太郎になる前の私生活である。父の薬局から毎朝、猪飼野にあった在日朝鮮人経営の小さな新聞社に通勤していた。
 司馬は三つの小さな新聞社を経由して産経新聞社に入るのであるが、そこにいたるまでの経歴が曖昧である。子供がいたかどうかは知らないが、司馬遼を看取ったみどり夫人と出会う前に、すでに結婚していたことは確かである。この結婚生活についても、司馬の口からは何も語られない。司馬は、自らの記者歴を「社を三つ変わり、取材の狩場を六つばかり遍歴しました」とだけ述べている。
文芸春秋社の司馬遼太郎・追悼特集には、司馬の少年時代の友人なども登場するが、司馬のみどり夫人と出会う前の私生活については誰も語っていない。
 延吉実(『司馬遼太郎とその時代』、二〇〇三年、青弓社)によると、福田定一は、五四年二月に前妻と協議離婚しているという。また、司馬が書きたがらない朝鮮については、司馬は済州島を訪問しながら、戦前、この済州島から司馬が生まれ育った猪飼野に多数の朝鮮人が流入しているのに、それらの済州島出身者のナマな体験の記憶、苛酷な運命については一切無関心を装っている。司馬の興味は、三十年余に及ぶ日本の植民地統治ではなく、五百年続いた李氏朝鮮の抑圧や停滞にあると、延吉は指摘しているので引用する。
 
 司馬が語った「半生の記」のかなりの部分が、事実と異なること、作りごとで、とりわけ「大阪市南区島之内三ッ寺筋に生まれた。生家は餅源という、四代続いた大阪商人」という出自をめぐる部分は虚偽……」だ。

 ところで司馬は推理小説に必ず出てくる探偵が嫌いだという。「他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、その情熱の根源がわからない。それらの探偵たちの変質的な詮議癖こそ……精神病学の研究対象ではないかとさえ思っている」と司馬は言っている。
 東大阪市立図書館の「司馬太郎コーナー」には、鍵のかかったガラス戸書架のなかに『名言随筆・サラリーマン』が陳列されているが、これは司馬家の申し入れで、館内閲覧さえ許されないのだそうである。この作品には、「著者の略歴」に関する記述が含まれているが、それは司馬が後に語っていることとは矛盾しているようである。

(四)司馬は日清・日露戦争を日本の「防衛戦争」に仕立てたい


 司馬は実に多くの作品を書いているから、この小論では、それらの一々にわたって採りあげるゆとりはない。だから司馬の代表作の一つではあるが、比較的後期の作品に属する『坂の上の雲』を主として検討することにしたい。
 司馬は、この作品の「狂言まわし」として、正岡子規、秋山好古、秋山真之の「明治人」三人を軸に話を展開させる。司馬は、これら三人をやはり「武士に憧れる男」たちとして描きたかったのではないか。正岡子規は芭蕉以来の俳句を革新し、短歌の改革運動を起した。また、日本にはじめて野球を導入し、自分の本名「ノボル」にちなんで野ボール=野球という命名をした人でもある。しかし、結核性の骨髄カリエスのため早くに亡くなっているから、『坂の上の雲』の後半部を占める日露戦争の時代には、すでに舞台から退いている。
 正岡子規も秋山兄弟も明治維新の際には「佐幕」の立場に立っていた旧松山藩の出身である。「ご一新後」、旧藩主は、藩士の子弟に教育を奨励し、「勤王」藩の子弟のように「藩閥」の後押しもなく、「立身出世」に不利を強いられていた旧藩士の子弟を応援するために、東京に藩営の塾を開設したりした。正岡子規は、結局、立身出世が目的だったとはいえないが、この藩営の塾を利用して東京での生活をはじめた。(旧松山藩のこのような政策の名残は、現在も東京の東北沢に「予山会」として残っている)。
 昭和十八年(一九三三年)に岩波書店から陸軍中将・四出井綱正講述の『戦争史概観』という本が出ている。これは戦中にでた権威ある本とされている。このなかの「日露戦争を中心とする本邦戦史」の章によって、日露戦争を紹介する。

 明治二十九年三月、陸軍軍備拡張の計画を定め、近衛及び第一乃至第十二師団並に騎兵、砲兵各二旅団を置くに決せり。当時陸軍当局は八師団の増加を主張せしが、伊藤首相及び議会の反対に遭い、六師団に止めたりという。
 我が陸軍予算は、経常費明治三十年度約四千二百万円となれり。此の間に支出せる臨時費合計約二億一千万円なり。海軍も亦明治二十九及び三十両年度に二億一千万円を継続支出し、更に三十六年度より約一億円を費して戦闘艦六隻、装甲巡洋艦六隻を基幹とする艦隊を整備し、総計約二十六万噸となれり。
 以上の如く、我が軍備及び経済力著々充実せりと雖も、政府当局に於いては未だ我が独力を以て、戦争を賭して露国と抗争するの自信なし。然るに露国は東清鉄道の敷設及び旅順、大連の租借を清国に強要して、逐次満州経略の歩を進むるにもならず、次第に朝鮮に勢力の扶植を図り、更に明治三十三年清国事変を機として太平を満州に入れ、我が国として事態の推移を放置するを許さざるに至れり。

 この後いくらかの推移を経て、日本は日英同盟を結び、ロシアとの戦争に突入する。ウッドハウス瑛子の『日露戦争を演出した男モリソン』(東洋経済新報社、一九八八年)によれば、

 「義和団の乱勃発とのニュースが露都に入った日、陸相クロパトキンが私に会いに来て……『うれしいニュースですよ。これで満州占領のよい口実ができたのですから』と言った。『満州を占領してそれを一体どうするつもりですか』との私の問いに、陸相は『満州を第二のボハラにするのですよ』と答えた。

 ボハラとは、ロシアが侵略・保護化した南トルキスタンの地域だった。山東省で発生した叛乱はたちまち満州地方に燃え移り、一九〇〇年七月、遼陽地方の東清鉄道が破壊され、ブラゴエシチェンスクが攻撃された。ロシアは、建設中の東清鉄およびロシア人の生命財産の保護という名目の下に、沿黒竜江軍管区と東部シベリア軍管区から四万五千の兵を満州に派遣。一九〇〇年十月中旬までには、満州東北三省を実質的にロシアの軍政下に置き、さらに天津・山海関以北の鉄道を押さえ、牛荘や営口などの要地をも占領した。
 ここに登場するモリソンとは、オーストラリア生まれの「売り出し中」のジャーナリストで、当時はイギリスの新聞に記事を送っていた。
 司馬は、この戦争をどう見ていたか。司馬は、

 もし日本・日本人が日露戦争を戦わず、戦っても負けていたら、この地球上に日本という国家は存在しなくなっていたかもしれません。巨象に立ち向かうアリのような、この無謀な戦いを、世界中が、そして日本の指導者、国民のほとんどが、日本の勝利に終わると考えていませんでした。日本は生存をかけてロシアと戦った、と私は思っています。

 司馬は、『坂の上の雲』の冒頭で、

 小さな。といえば明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが日露戦争である。

 確かに世界は、当時の日本がロシアを相手にして勝てるとは思っていなかったであろう。国内には戦争を賄えるほどの金はなかったし、外国から金を借りるにしても、担保にするものがなかった。
 司馬は、次のように言う。

 「私の考えでは、日露戦争は祖国防衛戦争でした。強い相手に対して、弱い自分がなんとか生き延びるため、智恵を働かせ、べつに政府が宣伝したわけでもなくて、国民が結束した。そういう意味で祖国防衛戦争であった」と。

 しかし、司馬のこのような論理は、歴史的に通用する論理であろうか。
 確かに、義和団の乱をきっかけにして、ロシアが満州に出兵して、そのまま居座るということは、ロシアの帝国主義的膨張政策の現れであろう。しかしロシアは日本の領土に侵入したわけではない。したがって日露戦争がロシアに対する「祖国防衛戦争」戦争であったというのは、明らかに言いすぎであろう。しかも日露戦争は、日露両国の領土で戦われたのではなく、中国および朝鮮という他国の領土で戦われているのだ。
 司馬は独立国である朝鮮がロシアに押さえられるようなことがあれば、日本は独立を失い、ロシアの植民地になると早とちりしている。それこそ恐露病である。かりに朝鮮が日本の「生命線」であるとしても、そのような理由で、日本が朝鮮の支配権を確保し、あまつさえ朝鮮を日本に併合するなどということが許されるであろうか。日本の行動は明らかに帝国主義そのものではないか。

 十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。
 日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上において、おのれの国の自立を保たねばならなかった。
 日本は、その歴史的段階として朝鮮を固執しなければならない。もしこれをすてれば、朝鮮どころか日本そのものもロシアに併呑されてしまうおそれがある。この時代の国家自立の本質とは、こういうものであった。

 司馬の論理は、まさに帝国主義の論理そのものではないのか。当時のもっと
も先進的な帝国主義国であるイギリスでさえも、ここまで露骨に帝国主義の論理を主張していない。さきほど紹介した「日露戦争を演出した」とされるモリソンは、典型的なイギリス帝国主義者であった。七つの海を支配し、太陽の没することなきを誇る大英帝国、パックス・ブリタニカを誇るイギリスこそ、世界文明発展のリーダーであり、その責任者でもある。そして当然ながら、その偉業に相応しい正当な報酬と支配権を享受すべきである、このような」誇りと信念を当時のイギリス人はもっており、大英帝国の地位は揺るぎないものと自負していた。そのようなイギリス帝国主義でさえ、ここまで露骨な物言いをしてはいない。
 いうまでもなくモリソンは、ロシアの南下政策を日本のために心配しているのではない。ロシアのこれ以上の南下は、イギリス帝国主義のアジア政策と早晩、衝突することを恐れ、イギリス帝国主義の利益の立場から行動しているにすぎない。
 日本の自立を維持するためならば、朝鮮人に迷惑をかけても仕方がない。いな帝国主義の時代であるからには、朝鮮が帝国主義国にならない以上、他国の植民地になるのは、むしろ歴史的必然と考える司馬が、朝鮮の現実をリアルに描くことができないのは当然すぎるくらい当然であろう。司馬は、作品『故郷忘じがたく候』において、秀吉の朝鮮侵略をいくらか批判的に描いているが、『坂の上の雲』で展開されているような朝鮮観では、司馬には秀吉を批判する資格がない。司馬は、小説以外で朝鮮に言及するときにも、古代を懐旧する視点以外にはおのれを表現することができないのは、司馬にもいくらか残っている良心の咎めというものであろう。
 その意味で、「新自由主義史観」や保守主義者たちの「アジア解放史観」より
はましかもしれないが、本質的に言えば同じことである。藤岡たちが、「司馬史
観」とやらあげつらうことに対して司馬は沈黙を守っていたが、司馬に対するそのような扱いを不本意と考えるならば、司馬としては当然抗議すべきであって、黙っていることは暗黙のうちに「新自由主義史観」に同調したことになる。


(五)日露戦争に対する司馬の軍事的評価は正しいか

 司馬が日露戦争を描く場合、必ずしもいわゆる通史的手法をとるのではなく、時系列的には、前後する記述をおこなうので、司馬作品から歴史を学ぼうとする者にとっては、必ずしも便利なものとはいえない。
 司馬は『坂の上の雲』の冒頭部分において、日清戦争について、原因は朝鮮にある、と述べている。といっても韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば、朝鮮半島という地理的存在にあるというのだ。朝鮮の人々から言えば、「ふざけるんじゃない」ということだ。
 朝鮮半島の場合、歴史的に清国が宗主権を主張してきた。これに対し新たにロシアと日本が保護権を主張した。朝鮮からいえば、余計なお世話である。ロシア帝国は、すでにシベリアをその手におさめ、沿海州と満州をその制圧下におこうとしており、その余勢を駆って朝鮮にまで勢いが迫っているということである。
 これに対して司馬は、日本はより切実だったという。切実とは朝鮮への想いである。日本は、朝鮮を領有しようというより、朝鮮を他の国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国にせよ」というのが、日本の清国やロシアに対する要求であった。 
 日露戦争を軍事史的に論ずる場合、陸軍第三軍が担当した旅順攻撃戦、第一軍、第二軍担当の遼陽会戦、黒溝台会戦、第三軍を含めた出征全軍による奉天会戦、海軍の担当した日本海海戦が中心となる。司馬は、秋山兄弟をこの作品の主人公としている関係から、第一軍に属していた秋山好古の騎兵師団の戦闘と日本海海戦が主旋律を奏でることになるが、騎兵戦闘についてはさほど詳しく記述されているわけではない。

 次に日露戦争である。司馬がタネ本として利用したのは、谷寿雄の『機密日
露戦史』である。

 戦後の最初の愚行は、官修の『日露戦史』においてすべて都合の悪いことを隠蔽したことである。参謀本部編『日露戦史』十巻は量的に厖大な書物である。戦後すぐ委員会が設けられ、大正三年をもって終了したものだが、それだけのエネルギーを使ったものとしては、各巻につけられている多数の地図を除けば、ほとんど書物としての価値をもたない。作戦についての価値判断がほとんどなされておらず、それを回避しぬいて平板な平面叙述のみに終わってしまっている。その理由は、戦後の論功行賞にあった。伊地知幸助にさえ男爵を与えるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため、官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにはゆかなくなったのである。執筆者はそれでもなお左遷された。

 日露戦史については、日露戦争の直後に陸軍参謀本部編集の『日露戦史』全十巻があるが、司馬もいう通り、ほとんど役に立たない代物である。その理由は、戦後の論功行賞に当たりその資料とされるため、真実を書くことが著しく阻害されたためである。各将帥が入れ替わり立ち代り参謀本部戦史室に現れて、おのれの事跡をよく書くように半ば強迫するのだ。筆先一本で少将は中将に、中将は大将になり、また公侯伯子男の爵位もきまってくる。そのためにほとんど真実は存在しない珍しい戦史が生まれた。
 この悪弊は、同じく官修戦史である『大東亜戦争史』全百巻にも踏襲されている。こちらの方は論功行賞というより、戦争犯罪の追及に関係があるため、より深刻かもしれない。関係者がすべて死に絶えるまで、真実は覆い隠されることになろう。
 私は数年前にベルリンのドイツ戦史研究所を訪問したことがあるが、ドイツでは、そのような弊害を招かないように「公刊戦史」は採用せず、各歴史家が自由に戦史の叙述をおこなうのだという。ドイツ以外の先進諸国も「公刊戦史」は採用していないと。日露戦史の執筆者は、執拗な将帥たちの要求を容れて、結果的には何の価値もない戦史に税金のムダ使いを強いられたのである。
 さすがにこのような戦史を手本に参謀教育はできないということで、陸軍大学において、講義用の『日露機密戦史』が書かれた。司馬が参照したのは、この『日露機密戦史』である。おそらく、この戦史で教育を受けたであろう敗戦前最後の陸軍士官学校学生の大江志乃夫は、戦後、『日露戦争の軍事史的研究』、『日露戦争と日本軍隊』などの名著を書いている。
 『坂の上の雲』の主人公の一人である秋山真之は、米国留学中にアルフレド・マハンの自宅を訪ねている。マハンは海軍戦略の権威で、各国の海軍戦略研究者は争ってマハンの研究をおこなっている。旧ソ連海軍のゴルシコフ提督もその一人で、旧ソ連海軍はマハンの理論を全面的に採用していた。
 そのマハンは、一九一一年に『海軍戦略』を著わし、そのなかで日露戦争について触れている。海軍軍令部訳はあまりにも晦渋な表現であるので、現代風に書き換えて紹介する。

 日本海海戦において、日本艦隊は敵の一翼、すなわちその先頭に攻撃点を選んだが、これ果たして予定の計画に基づくものであろうか。かつまた、常時の状況に拠るものであろうかを詳細にできないけれども、その目的はおそらく敵艦隊を混乱させようということであったろう。
 世人が日露戦争における旅順が日本の勝利を表象するのは知っているけれども、日本がこれを攻略するまで敵守備軍よりも多くの兵を満州軍より割かざるを得なかったことと、同要塞陥落の時機が遅延したために、いかにバルチック艦隊に時間の余裕を与えたかを知っているものは少ない。ただし同艦隊が旅順の陥落前に来着しなかったことはけっして旅順の罪ではなかった。

 司馬も描いているように、第三軍の乃木司令官・伊地知参謀長は、あまりにも正攻法で旅順陥落を目指したために、いたずらに人命をここで浪費した。旅順攻撃の目的は、旅順港をロシア極東艦隊の基地として機能を無効にすることであったから、必ずしも要塞全体を破壊する必要はなかったし、参謀本部も、旅順攻撃を比較的軽く考えていたことは、乃木・伊地知のコンビの配置にも現れていた。海軍は、黄海海戦によって主要艦船を旅順口封鎖によって、旅順港内に閉じ込めてからは、これらを撃破するか、港内から追い出すかに作戦はしぼられた。海軍の要求は、二〇三高地の奪取であった。この高地に観測点を据えることによって、参謀本部が送ってよこした三十八サンチ榴弾砲を発射し、敵艦隊を撃滅しようとしたのであった。
 しかし第三軍は頑なだった。三度にわたる正面攻撃で屍の山を築き、海軍側の二〇三高地を攻撃すべきという建策も、三十八サンチ砲の使用も当初は受けつけなかった。司馬は、第三軍、とりわけ伊地知参謀長の無能無策をもっぱら攻撃するが、「陸の作戦に海の容喙は許さぬ」という作風も、教条的な正面突破作戦も陸軍の官僚主義的戦争指導に本源があるはずで、参謀本部の責任はまぬがれることはできない。
 満州総軍の児玉源太郎参謀長が、大山司令官の了解を得て、第三軍の乃木の応援にかけつける。児玉が第三軍を直接指揮することは、軍令違反である。しかし、こうした軍令違反を行なう道しか打開策がなかったのが実情であった。
 旅順攻撃は、参謀本部が当初、甘く考えたほど容易ではなかった。旅順攻撃は日清戦争においては二十四時間で幕を閉じたが、ロシアは日露戦争を前にして旅順を徹底的に要塞化し、ベトンで塗り固めたトーチカはそう簡単には陥ちなかった。参謀本部は、この間の日進月歩の軍事技術の発展に敏感ではなかった。
 ところで司馬は、『坂の上の雲』のなかで、「日本人が日清戦争や北清事変を戦ったとき、軍隊につきものの掠奪事件は一件も起さなかった」と書いているが、これは真っ赤なウソである。日清戦争における旅順攻撃はわずか二十四時間で旅順要塞を陥落させたが、これは日本軍の伝統となる「精神主義」と「肉弾主義」の賜物で、それだけに敵に対する攻撃は熾烈をきわめ、戦闘というよりほとんど虐殺に近いものであった。これは「旅順の虐殺」として当時、世界的な悪評を買った。
 旅順要塞の陥落は、敵の司令官ステッセルの弱さにも助けられた。当時のロシア軍は日本軍よりはるかに官僚主義が蔓延していたようである。部下の将官は当面の日本軍と戦うよりステッセル司令官の顔色を窺うのに忙しかった。司令官のステッセルは、「よくやった」と皇帝に褒められる程度の成果が得られれば、あまり犠牲が出ないうちに矛を収めることしか考えなかった。結果的には、ステッセルの降伏という判断は早すぎた。ステッセルは帰国後、軍法会議にかけられた。
 ロシア軍の伝統的な戦略は、一つの土俵に執着せず、次々に土俵を空けて後退してゆき、最後に敵の補給線が伸びきったところではじめて大攻勢に出る。満州において、ロシア軍がとった戦法も多分に伝統的なものであった。
 ある程度、戦ったのち意識的に後退をして、敵を予定戦場に誘い込み、そこで敵を壊滅させるというのがナポレオン戦争以来の伝統である。だから教条主義的なクロパトキン司令官は、遼陽でも黒溝台でもこのようなやり方を採った。ロシア軍の予定戦場は奉天ではなく、ハルビンであった。新たに敷設されるシベリア鉄道を使って、新しい予備軍が続々と投入されるはずであった。
 しかしロシア国内とフィンランドやポーランドで、ロシアの専制に反対する民衆の闘争が燃え上がりつつあった。日露戦争におけるロシア軍のつまづきは、このような民衆の闘争を加速した。参謀本部はスパイ将軍・明石大佐をヨーロッパに派遣して、民衆の運動を支援させた。明石は当時レーニンにも会い、支援を約束させたといわれている。
 満州では、日本軍は兵站の不足に苦しんでロシア軍とやっとのことで対抗していたが、ロシア現地軍の内訌や信じられないような退却という戦術のまずさに助けられて、やっとの思いで勝ちを拾った。陸戦においては、日本軍はよくて互角、ロシア軍のまずい攻めで危地を脱したといってよい。
 日本軍はロシアの万宝山付近の野戦陣地群に猛射を加えたが、日本軍は二八サンチ榴弾砲という巨砲を含めて大小口径二五〇余門という日本軍としては空前の火力集中をやったが、この方面に使用した砲弾は、たとえば三月二日の一日だけで、野砲約五千発、山砲約三千八百発という大消費をやったが、ロシア陣地は少しも衰えをみせなかったという。これは要塞を築造したロシア工兵の勝利といってよかった。

 日本陸軍というものには補給観念は、体質的欠陥として、はじめから欠落していた。
 たとえば、日本陸軍の常備兵は十三個師団で、戦闘員二十万人。戦時に召集する後備兵をいれると三十万である。……陸軍においては東京、大阪の両砲兵工廠の砲弾製造能力が両廠合わせても一日わずか三百発でしかないということである。三百発というのは、砲兵一個中隊で迅速射すればわずか七分三十秒で射ちつくすという程度の数量である。(『坂の上の雲』)

 奉天会戦において日本軍が十分に勝つというところまでいかなかったが、ロシア軍の内実は蔽うべくもない敗残の色があり、個々の兵士たちの心情における敗北感は凄まじいものがあった。敗北を実感して戦意を喪失し、軍隊秩序への服従心までも失うことをもって敗北というならば、ロシア軍は明らかに敗北した。
 奉天会戦の日本の国力窮乏については、米国のルーズベルト大統領は、知りすぎるほど知っていた。と同時に、日本人が慢心しはじめていることも、日本の新聞の論調からルーズベルトは知っていた。戦後、かれは「日本の新聞の右傾化」ということばをもって、それを警戒し、「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」ということを二月六日に、マイヤー駐伊米国大使あてに書き送っている。

 日露戦争の帰趨を決定したのはやはり日本海海戦であった。海軍の戦略は、司馬によれば、秋山真之ひとりの功績である。秋山は、バルチック艦隊が日本海を通過することを見越して、七段からなる攻撃計画を立案した。旅順の極東艦隊が壊滅したいまとなっては、バルチック艦隊はウラジオストックに逃げ込むことを唯一の目的とするしかなかった。連合艦隊の使命は、バルチック艦隊を一隻残らず壊滅して、たとえ一隻でもウラジオストックに入れないことだった。そこに秋山を眠らせない悩みがあった。
 当面の話題は、バルチック艦隊の「針路」で、対馬海峡を経由して日本海を通るか、太平洋の沖合いに逸れ津軽海峡を経由してウラジオストックをめざすかという「敵の航路予測」である。針路をめぐって、東郷平八郎は対馬海峡経由を確信し、毅然として鎮海湾に待機せんとするのに対し、真之は動揺したことはすでに述べた。これに対し、戦史研究者の野村実は、『日本海海戦の真実』(一九九九年)において、連合艦隊は五月二十四日の段階で、津軽海峡で待ち伏せする作戦をとろうとしていたと論評した。東郷は鎮海湾を動こうとしなかったという司馬の説に対し、東郷を含む連合艦隊司令部は移動して待ち伏せする作戦に傾いており、「密封命令」まで出されていたことを主張している。しかし翌二五日に旗艦・三笠で「軍議」がおこなわれ、「密封命令」の発動が一日延ばされ、この間にバルチック艦隊が発見されたため、移動が見送られたという説を展開している。
 日本海海戦において、東郷が採った敵前回頭があらかじめ計画されたものであったかどうかについては議論が分かれる。マハンの評価についてはすでに述べた。また、バルチック艦隊が対馬海峡を通るかどうかについては、最後の最後まで参謀たちのあいだでも結論が出なかった。艦隊参謀たちは、軍令部参謀も含めて協議したが、最終的には、バルチック艦隊が太平洋に出て津軽海峡ないしは宗谷海峡を経てウラジオストックに入る場合にも備えなければならなかった。結果的には、バルチック艦隊は対馬海峡を経由した。司馬によれば、迷いぬいた艦隊参謀たちが東郷司令官に建策するために司令官室を訪ねたときに、東郷は悠然として「そりゃ対馬よ」と答えたというが、それは小説家・司馬のフィクションであろう。
 日本海海戦といえば必ずとり上げられるのが、東郷がバルチック艦隊の面前でUターンをしたこと、海軍用語でいう「T字戦法」、すなわち連合艦隊の「敵前回頭」である。それを東郷の「大英断」と見るか見ないか、が問題である。野村実は、「練りに練られて作成された戦術」と高く評価し、軍事史家・戸高一成は「日本海海戦にT字戦法はなかった」(『中央公論』一九九一年)と斥け、大江志乃夫『バルチック艦隊』(一九九九年)も、この戦法は実施されなかったとしている。
 余談であるが、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃沈滅セントス 本日天気晴朗ナレド波高シ」という連合艦隊から大本営に宛てた電文がある。この電文の前半は連合艦隊の特定符号および暗号を交え作成されている。それを見た秋山参謀が後半の名文句、「本日天気晴朗ナレド波高シ」とその場で書き入れた。これは暗号ではなく平文で打たれた。それにしても、敵を眼前にしてのこの忙しいときに、秋山参謀がなぜ、敵に傍受されても構わないことを平然と追記したのか。単なる飾りとは思えない。実にそこに秋山参謀の叡智が見事なまでに働いていた、と張り扇で論ぜられるのがこれまでの決まりであった。(半藤一利『司馬遼太郎の世界』)
 半藤の解釈は、『天気晴朗』は視界がよく、敵艦隊をとり逃がす懼れはない。当時の日本の軍艦は舷が高くロシアのそれは低かった。であるから、『波高シで日本海軍にとって有利な戦いが展開されるであろう、と連合艦隊の旺んなる意気込みを大本営に知らせたものであったと。さすが名参謀なるかなというわけで、この名文句は青史に残ることになった。司馬の解釈もそうであった。
 ところが最近になって、まったく新しい事実が浮かび上がってきた。……当時の日本には飛び切りの秘密兵器があった。機雷四個を長いマニラ索で繋いで敵の針路の前面に浮遊させる連繋機雷がそれで、これを水雷艦隊が敵前にいくつもばらまく。このとっておきの戦法が、「本日波高シ」で使えない、天気晴朗ナレド……という苦しい状況をそれとなく大本営に知らせたのが、実はこの名文句の真意であったというのである。
 バルチック艦隊もロシア陸軍に劣らず官僚主義軍隊であった。司令官会議も艦長会議も終に開かれることなく、すべては司令長官の独裁であった。また、水兵たちも日本とは違い、将校や下士官たちの奴隷であった。アフリカ大陸の喜望峰をまわり延々と時間をかけてはるばる日本海に到着した。彼我の戦力比較が得意の司馬も、ロシアと日本の兵力にそう差がないといっている。問題は、砲の威力であった。ロシアの砲丸は徹甲性に優れていたが、日本の砲弾は炸薬に下瀬火薬をつかっているため、敏感すぎて甲板上で火災を引き起こすが、装甲を貫いて艦を撃沈することはできなかった。
 日本海海戦の戦果は、ロシア艦隊の主力艦はことごとく撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者でさえ信じられない奇跡的勝利であった。しかし凱旋命令が出るまで佐世保港に待機している間に、旗艦「三笠」が自爆するという椿事が起った。死者は三三九人であった。(つづく)


 国は「義務教育」をどう変えようとしているのか

 先日、河村文部科学大臣が、『義務教育に関する私の考え方及びその改革案』を「義務教育の改革案」(以下、「改革案」と略す)という形で公表し、それに対する「忌憚のない意見」を直接国民に求めるという、従来にはない手法で義務教育に絞って言及した。
 「改革案」は、「義務教育制度の弾力化」「教員養成の大幅改革」「学校・教育委員会の改革」「国による義務教育保障機能の明確化」の四項目からなっており、基本的には昨年三月二〇日の中教審答申に沿ったものとなっている。
 このうち一番話題を呼んでいるのが、義務教育の小中学校の区切りであり、戦後一貫して採用してきた6・3制を改編し、既に一部で試行されている4・3・2制、5・4制、4・5制を地方に選択させるというものである。
 これは、「不登校やいじめなどが中学校に入ると急増する」「6・3制は、現代の子どもの心や体の発達に合っていない」などという現象論を背景にしているが、「いじめや不登校」は、何も中学校に限ったことではない。それこそ発達の段階を競争の段階と履き違えた幼児教育の弊害で、小学校低学年からそうした傾向が見られるし、現五年生を中学一年にしたところで何ら問題の解決にはならない。むしろ年齢格差の広がりにより、上級生にとっては「いじめの対象」が拡大することにもなりかねない。ある中学一年生は、「二年間我慢すれば最上級生になれる」といじめに耐えていたが、それが四年に延長されるとなればどういう結果になるか予想がつくというものである。
 また、年限の区切りを各自治体に一任となれば、転校による混乱は本人にとっては大きな負担になり、中学二年から小学六年へというイメージの問題、学習事項の系統性、学校環境の差異等々、子どもたちを取り巻く新たな状況が別のストレスを生み出す公算が大きい。
 要するに、この小学校と中学校の様々な組み合わせも、とどのつまりは河村自身が説明しているように、小中一貫教育の導入の先駆けに他ならない。それに幼小一貫が加われば、早期に子どもたちを能力的に振り分ける流れが完成し、高等学校における選別体制は一層純化し易くなる。まさに、前教育課程審議会会長であった三浦朱門が吐露した「一%のエリートを育てて、残りの九九%の非才・無才には、ただ実直な精神だけを学ばせる」路線そのものである。
 次に「改革案」は、「教員養成の大幅改革」と称して、教員養成のための「専門職大学院」の設置を打ち出した。これは、今年の四月に発足した文科相の私的諮問機関「これからの教育を語る懇談会」(座長、牛尾治朗・ウシオ電機会長)などで論議されているもので、戦後の教員養成に関する「大学における教員養成」「開放制」という二大原則の放棄に大きく舵を切ろうとしている。
 また、並行して教員免許に一定の有効期限を設け、更新時における「適格性や専門性の向上」をテストするということも提案されているが、次項の「学校・教育委員会の改革」にもある教員評価の徹底(文部科学省のHPにある【説明】では、「問題教員を教壇に立たせない仕組みの強化」とある)と連動していることは明らかである。
 加えて、「地方・学校の権限強化」(地方教育委員会と校長の権限強化と置き換える方が分かりやすい)を図り、保護者や地域住民が学校運営に参画する「学校評議員」「学校運営協議会」を全国に設置し、全ての学校が教育活動や学校運営の成果について評価してその結果を保護者・地域住民に公表するとしている。それにより学校現場が絶えず一部の下心のある保護者や地域の監視下に置かれて息苦しくなり、校長は点数を稼ぐ余りに教職員に無理難題と労働強化を強いることになるのは目に見えている。
 最後は「国による義務教育保障機能の明確化」ということで、小泉の「三位一体改革」で廃止の方向が取り沙汰されている義務教育費国庫負担制度については、上記の「改革」を推進するためには欠かせないとして、同制度の堅持を表明しているが、我々の求める国庫負担制度の目的とは雲泥の差がある。(紙面の関係上国庫負担制度については深く触れない)
 そもそも、この「義務教育の改革案」なるものも、義務教育そのものの捉え方が間違っており、多くの国民も国家の提供する教育制度を義務教育と勘違いしている。 
 河村の「改革案」は、義務教育について「義務教育は、人格形成の基礎であり国民として必要な素養を身につけるものであって(略)全国どこでも、必要な教育内容・水準が保障され、無償で行われなければならない。」と解説している。
 最後の義務教育無償はその通りであるが、前段は意図的なすり替えである。教育の憲法である『教育基本法』は、第一条で教育の目的に触れ「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」と定めている。
 教育基本法が言うところの教育とは、しばしば行政が使う「公教育」などというものや、ましてや今回の「全国共通の内容や水準を持った義務教育」というものではない。
 教育基本法にある義務教育の条項は、「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」とのみあり、「教育を受けさせるのは国民(保護者)の義務である」ということ以外のなにものも示していないのである。教育基本法の精神に則れば、教育の内容を決めるのはあくまでも個々の学校であり、その実質的担い手は教育を司る教員であるということである。
 更には、形成(育成)すべきは「人格」ではなく、平和的な国家・社会を担う真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民である。教育基本法は、そうした国民を育成する過程で人格の完成が図られるとしているのである。
 今度の河村「改革案」は、「義務教育」という一般大衆の耳目を集めやすい切り口を突破口に、教育基本法そのものに手を着けるのではなく、その外堀(下位法)である『学校教育法』の改悪という段階を経るという手口であるが、狙いは日本国憲法との関係を明確にした前文や目的・方針条項、国家の不当な介入を禁止した教育行政条項の骨抜きと、最終的な教育基本法の改悪であることは論を待たない。
 戦争を発動できる国家へと変身しつつある今、次々とかつてのハードルを踏み越えて驀進する小泉と独占資本は、いよいよその魔手を憲法と教育基本法に伸ばしている。
 声を挙げることなくしてそれを阻止することはできない。河村は「広く国民の意見」を求めてホームページを開設している。
 今すぐ、「義務教育の改革案」反対の声を広範に挙げよう。

 (メールのアドレスは以下の通り)

《宛先》

 義務教育制度の弾力化
    gimu1@mext.go.jp
 教員養成の大幅改革
    gimu2@mext.go.jp
 学校・教育委員会の改革
    gimu3@mext.go.jp
 国による義務教育保障機能の明確化
    gimu4@mext.go.jp


「九条の会」発足記念講演会 憲法九条、いまこそ旬(しゅん)

                          
発言要旨 <下>

 七月二四日に開かれた「九条の会」発足記念講演会では、九人の呼びかけ人のうち哲学者の梅原猛さんを除く、作家の井上ひさしさん、平和運動家の三木睦子さんの二氏があいさつ、作家の大江健三郎さん、憲法学者の奥平康弘さん、作家の小田実さん、評論家の加藤周一さん、作家の澤地久枝さん、評論家の鶴見俊輔さんの六氏が講演を行った。
 前号に続いて、加藤周一さん、澤地久枝さん、鶴見俊輔さんの発言要旨を掲載する。(文責・編集部)


加藤周一さんの講演


 憲法を解釈によって変質させてきたが、これが限界に来た。憲法が生まれてから半世紀がたち、九条の解釈は変わり続け、軍備を増大させてきた。そしていま、政治家の間で圧倒的な早さで、急激な憲法改正の動きが広がっている。まさに、来るべきものが来たということだ。歴代の保守政権からすれば改憲の動きは成りゆきとも言えるが、しかしいまこそ憲法も意味を考えるべき時だ。
 もし憲法がなかったら、何が起こるかを考えなければならない。そうなればおそらく次のようなことになるだろう。まず、第一には集団的自衛権の問題だ。安保条約を結んだ日米の軍事同盟の強化だ。日本とアメリカ以外の国との集団については誰も考えてはいない。第二に徴兵の問題だ。集団的自衛権ということになれば日本だけ徴兵しないというのは難しい。第三には軍備の増大と軍産体制が強くなることだ。そして昔の日本のように軍部の政治力が増し、軍関連の企業が圧力団体になっていく。そして、こうしたことがおこると日本の外交面における選択の範囲が狭まり孤立化するということだ。
 戦争を望まないのであれば、軽々しく憲法九条を廃棄して、安保条約を強化することに簡単に踏み込んでいくのは非常に危険なことで、今がその分かれ道だ。
 いま議会の中では、九条をどうするかで二大政党が対立しているのではない。圧倒的に改憲だ。だが、世論調査を見れば、国民の半分以上が改憲しないほうがいいと言っている。議会の内と外とで食い違いがある。それを狭めることができるのは選挙であり、選挙で議会と国民の意見が結びつくことが必要だ。
 九条の会は、戦争に近づいていく道をとらないほうがいいという立場でいるが、そのためには、九条の会のアピールの賛同者を増やすことだ。
 みんなで協力していけば、希望が出てくると思っている。

澤地久枝さんの講演

 私は数日前に心臓にペースメーカーをつける手術を受けたばかりでここに来た。私は敗戦時、満州国にいたが、見たこともないアメリカ人、イギリス人のことを鬼畜米英と信じていた。そして、戦争に負けたとたん軍隊はもとより国が雲散霧消してしまい、国というものは当てにならないという感じを持った。
 日本とアメリカの双方の市民から見た第二次大戦がどのようなものであったかを知ろうと、一九四二年に起きたミッドウェイ海戦で戦死した日米の兵士を調査し、その家族にも聞き取りを行った。その結果わかったことは、双方がほとんど同じ様な状況にあったということだ。経済的な大不況の中で、どちらの青年たちも貧しく、戦いに志願して、ミッドウェイで出会い殺し合うことになった。もし、戦争ではなく、市民として会ったならば、お互いに理解し合い抱きき合ったかもしれないのに。
 アメリカと違って、日本は第二次大戦後、一人の戦死者も出さず、また日本人によって殺された外国人もなかったが、なぜそれができたのか。自衛隊ができるという既成事実がつくられ、シロアリに食われているようになっても九条が生きていて、それが歯止めになっているからだ。
 しかし、イラクで自衛隊から死者が出るようなことになれば、憲法論議など吹き飛んでしまうかもしれないし、戦争に反対する人は「非国民」扱いされてしまう空気ができている。でも、多くの人びとが悲惨な戦争という試練のあとで、たった一つ手に出来たのが憲法であり、とく九条だったと思う。
 この間、友人の赤ちゃんを抱きながら考えた。私たちの国は戦争によって物事を解決することを一切捨てた理想を確立したんだと。
 何のために生きているかを考えると、今自分たちの一番中心になるものは九条であること、そのためにはここから一ミリも引かないということを意思表示していきたい。

鶴見俊輔さんの講演


 法は大事だが、その法の前にあるものがとても重要だ。政治を広く解釈することが必要である。政治は人間の関係だが、親子関係などから政治は始まっており、つまり政治は国会の中にあることだけではない。だから政治を職業的な政治家に委ねてはならない。
 私はいま八二歳だ。日本の小学校を終えてアメリカに渡り、大学を卒業した。日米開戦時にはアメリカに居た。その時には、日本は確実に負ける、と思っていたが、日本に帰ることができる「交換船」に乗った。それは、愛国心でもなく負ける時には負ける側にいたいというぼんやりとした哲学的信条といえるものがあったからだ。
 東京都の役所で徴兵検査をうけたところ、受からないだろうとの予想に反して、合格させられてしまった。ほんとに参いった。それならというので、陸軍より海軍のほうが文明的だという根拠のない考えにとらわれて、陸軍から召集の赤紙が来る前に海軍に志願した。海軍の軍属としてジャカルタに赴いたが、オーストラリアの商船を捕まえ、捕虜を毒殺するという文明的ではない状況にぶつかってしまった。
 私には毒殺の命令がくだらなかったが、これは偶然のことだ。この体験は私の哲学の中核に属する問題になった。そして戦後も何年もたって結論を得た。それは、「私は人を殺した。人を殺すことは良くない」と一言で言えるような人間なりたいということで、そのように生きたいということだ。こうした体験と考えが、私の九条の会に参加したいという積極的な思いを支えている。


8・15  「戦争と象徴天皇制」を問う行動

 人道復興支援の名の下に、イラク派兵が強行され、その上、多国籍軍への参加まで行われた。こうして、新たな戦死者が生まれる状況がつくられた。天皇・皇太子の自衛隊を励ます「おことば」、女性天皇制論議、天皇出席の下での全国戦没者追悼式、閣僚の靖国神社参拝など、戦争と天皇制の結びつきが強まっている。
 八月一五日、国家による死者の追悼に反対する「戦争と象徴天皇制」を問う8・15行動が行われた。


映  評

    
 黒木和雄監督作品     父と暮らせば

       2004年/日本映画/カラー/99分
           
原作 井上ひさし
                
エキプ・ド・キネマ発足30周年記念作品

 これまで、八月にはヒロシマ、ナガサキの映画や演劇をずいぶんたくさん観てきたように思う。
 しかし今回の「父と暮らせば」はこれまで観た原爆をとり扱った映画とはずいぶんと趣が異なる作品だ。見終わった後、満足感が残った。
台本は作家の井上ひさしの同名の戯曲。
登場人物は三人しかいない。図書館の勤務員の福吉美津江(宮沢りえ)、その父親で「幽霊」の福吉竹造(原田芳雄)、美津江の恋人、大学教員の木下正(浅野忠信)で、人間はほかには背景の一部ででてくる程度だ。
ときは原爆投下から三年後の一九四八年夏の火曜日から金曜日までの四日間。場所はほとんどが美津江の家、戦前は和洋折衷の洋館の形をした旅館で、原爆で破壊されて一部が崩れたまま、がれきも転がっていて、被爆した地蔵の首も置いてある庭、雨漏りもひどい家、そこに原爆で父を亡くした美津江が一人で暮らしている。
脚本はこの短い、狭い、少数の人びとの生活の中にあの「ヒロシマ」を描ききろうとしている野心作だ。これは全く舞台の設定だ。この舞台の映画化をこころみた監督・黒木和雄のねらいが成功したのかどうか、評価は一様ではないとおもう。

二三歳の美津江は原爆が落とされた日、偶然に助けられて生き延びるが、原爆症の発症の可能性におびえている。勤務先の図書館の利用者で来た木下は原爆資料の収集をしている。最初に受付で出会ったときから二人に恋が芽生える。しかし美津江にはあのピカで愛する友や父親を失いながら、自分は生き残ったという負い目がある。美津江は何度も「恋いはいけない、恋いはようせんのです。もう、うちをいびらんでくれんさい」と父に言い、「人を好きになるいうんを、うち、自分で自分にかたく禁じておるんじゃけえ」と、木下への思いを封印しようとする。こうした娘を不憫に思い、美津江の恋を応援しようと、父親の竹造が幽霊になって美津江の前に現れたのは「先週の金曜日」のこと。木下とのことで時には迷い、時にはあきらめ、時には思いを募らせる美津江を優しく励まし、叱り、助言する。こういう深刻な話なのに、映画館の会場からは観客の一斉の笑い声が幾度も起きるのは井上作品のゆえだ。
 終わりのシーンの親子の会話。「父と暮らした」一週間目の金曜日、「こんどはいつきてくれんさるの?」「それはおまえ次第じゃ」「おとったん、ありがとありました」

 原爆の資料収集に図書館にやってきた木下に美津江は言う。「一人の被爆者としては、あの夏を忘れよう思うとります。あの八月は、おはなしもない、絵になるようなこともな、詩も小説もない、学問になるようなこともない、……」。美津江は燃えさかる火の海に、材木に押しつぶされた父を「見捨てて逃げた」ことが忘れられない。自分がなぜ生きているのか、繰り返し自分を責める。
映画の終わり近く、竹造が娘にぴしゃりという。
「聞いとれや、おまいはあんとき泣き泣きこよにいうとったではないか。『むごいのう、ひどいのう、なひてこがあして別れにゃいけんのかいのう』……おぼえとろうな」
「応えてわしもいうた。『こよな別れが末代まで二度とあっちゃいけん。あんまりにもむごすぎるけえのう』。わしの一等おしまいに言うたことばがおまいに聞こえとったんかいのう。『わしの分まで生きてちょんだいよォ!』。そいじゃけえ、おまいはわしに活かされとるんじゃ」 「人間のかなしかったこと、たのしかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろう。それもわからんようだったら、もうおまいのようなあほたればかたれにはたよらん。ほかに誰か代わりをだしてくれいや」
「(ほかのだれかを?)わしの孫じゃが、ひ孫じゃが」
 
思い、まどいながら、原爆症への恐れも背負ってつつましく生きて行こうとする女性と、二三歳の若い女性としての輝きを合わせ持つ美津江の役を宮沢りえが好演している。あの婚約破棄騒動の一件以来、宮沢が俳優として立ち直り、成長するさまに時折関心を寄せてきたが、「たそがれ清兵衛」につづき、彼女の頑張っている姿が見られたのもうれしい。(S)


せ ん り ゅ う

   人類史の汚点広島は語る

   被爆あぁあぁ広島人類のトゲ

   千羽鶴折ろう世界の人びとと

   「九条」は千羽鶴折るこころです

                    ゝ 史

二〇〇四年八月六日


複眼単眼

     
 右島一朗君の遭難と憲法状況

 八月上旬、新時代社の機関紙「かけはし」編集長の右島一朗君が南アルプスの赤石岳で遭難し、亡くなった。 この沢登り中の滑落という。八月一三日、お骨になって帰ってきた同君を新時代社のみなさんなどと一緒に東京駅新幹線出口で迎えた。
 筆者は彼の遭難を一二日、奥白根山から下りてきたところで、携帯の留守電で知った。最初は「赤岳」と聞いたから、「八が岳」の「赤岳」かと思ったが、赤石だった。白根は今回、右島君が行った赤石岳からみればハイキングのようなところだが、それでも疲れ切って、ようやく無事降りてきたところだっただけに動転した。
 右島君の最近の心境について彼の同志がメールで次のように語っている。
 「私とわかれた八月五日に、右島は『これから、憲法改悪阻止決戦に入る。憲法改悪は九条改悪だけでなしに、政治・社会構造全体を『一種』戦前型の天皇を国体とする右翼的・戦争のできる体制として確立しようとしている。これを許すかどうかは、今後の階級闘争にとって決定的なメルクマールになる』と強調し、戦闘モードに入っていると高揚しながら、語っていた」と。独特の言い回しであるが、彼の思いが伝わってくる。
 おそらく右島君は山に登りながら彼の言う「憲法決戦」について思いめぐらしていただろう。登山の途中では突き詰めて考えはしないが、気がつくとあれこれと様々なことを考えながら歩いていることも多い。まして「戦闘モード」に入って、リフレッシュのための山行だ。重いザックを背負って、ザイルを肩にかけて、難所の赤石の沢を登りつつ、右島君はこれからの闘いに備えて、自分の体力を確かめていたのだろうか。
 所属する党派は異なるが、これからの数年の憲法問題の重要さの認識においては右島君とも共通することが多いだけに、なんとも無念だが、その無念さは右島君やその仲間にとっては一層大きいにちがいない。衷心からお悔やみを申し上げたい。
 イラクでは米占領軍が演出した「国民大会議」を巡り混乱がつづき、ナジャフを中心に戦闘が展開されている。ブッシュは在外米軍の大再編に乗り出し、在欧米軍の大削減とアジアでの攻撃力の強化を図っている。国連常任理事国に入りたいなら憲法九条を変えよというアーミテージ発言からパウエル発言がつづき、沖縄の普天間基地では近くの国際大学に米軍ヘリが墜落・炎上した。靖国神社に参拝した石原都知事は「来年は天皇に来てもらいたい」との発言をした。
 かくも重要な問題がたくさん起こっているにもかかわらず、新聞、テレビはアテネオリンピック一色である。金メダルを取ったと言っては、号外までが出る。あたかも人びとの思考を奪ってしまうかのようなこのお祭り騒ぎはいったい、なのだろうか。これは例の「茶色の朝」に通じないか。
 右島君のようにこれが「政治・社会構造全体を『一種』戦前型の天皇を国体とする右翼的・戦争のできる体制として確立しようとしている」のだとみるかどうかは議論が残るが、しかしそれは「あたらずとも遠からず」ではないだろうか。 (T)