人民新報 ・ 第1142 号<統合235(2004年9月5日)
  
                  目次

● 普天間基地を即時撤去せよ  辺野古沖新基地建設のボーリング調査を阻止しよう

● 教育反動の砦・東京都教育委員会に反撃  石原・横山都教委の暴走とめよう! 8・30都教委包囲デモ

● 国労大会(8・26〜27)で修正動議  鉄建公団訴訟を軸として国鉄闘争の前進をかちとろう

● 「自由主義史観」の「保険」にされた司馬文学     北 田 大 吉

● 図 書 紹 介  小池 政行 (著) 「現代の戦争被害 ―ソマリアからイラクへ」( 岩波新書 )

● KODAMA  /  民主的イラク国家の建設

● せ ん り ゅ う

● 複眼単眼  /  「沖縄は戦場だ」「操縦士には功績があった」



普天間基地を即時撤去せよ

 
辺野古沖新基地建設のボーリング調査を阻止しよう

 米軍の普天間基地のCH53Dヘリコプターの沖縄国際大学への墜落・爆発事故とその後の日米両政府の対応は日米安保体制の危険性を明らかにした。
 八月一三日の大事故は市街地の真っ直中で起こった。アメリカ国防長官ラムズフェルドさえ「世界で一番危険な基地」と認めざるを得ないほどの普天間基地はアフガニスタン・イラク侵略戦争以降もいっそう機能を強化し、いつ事故が起こっても不思議ではないほどの状況となっていた。そして、「当然にも」大事故が起こってしまった。その上、米軍は、事故現場を封鎖して、市長、副知事も現場に入らせず、事故機の残骸を持ち去った。日本政府は、再発防止をアメリカに求めるだけで、それも川口外相、石破防衛庁長官ではなく、外務省北米局長がおざなりの「抗議」を行っただけだ。小泉は事故当時、夏休みでホテルでオリンピック観戦中で姿もあらわさないしまつだった。
 しかし、沖縄をはじめとして怒りが全国に拡ひろがり始めた。
 米軍は、多くの市民の反対を無視して事故機と同型ヘリの飛行を強行した。だが沖縄県民の反発は強く、米軍は態度を変更せざるを得なくなった。駐日米大使館は、八月二八日、同型ヘリの運用再開を「適切な時期まで」中止すると発表した。これに先だって、日本政府は二七日に急きょ関係閣僚会合を開き、同日夜に「事故原因や再発防止策についての十分な説明なくして飛行させることがないよう」アメリカに求めている。
 しかし米軍の対応は、条件付きの停止だけでごまかそうとしている。「適切な時期」をアメリカが判断するのならまったく意味のない「約束」である。沖縄の人びとの求めているのは、米軍機の飛行停止と普天間基地の即時返還であり、闘いを続けていくことこそが大事だ。

8・27米軍ヘリ墜落抗議、普天間基地返還要求集会

 八月二七日、東京・三河台公園で「8・27米軍ヘリ墜落抗議、普天間基地返還要求集会」(主催 辺野古への海上基地建設・ボーリング調査を許さない実行委員会)が開かれ三〇〇人が参加した。
 はじめに主催者を代表して、沖縄一坪反戦地主会・関東ブロックの上原成信さんが「政府はほとぼりが冷めるのを待っているが沖縄とわれわれが頑張ってうやむやにさせないという運動が必要だ」とあいさつした。
 糸数慶子、喜納昌吉両参議院議員のメッセージが紹介された後、宜野湾市議(基地関係特委委員長)の桃原功さんが、事故現場のなまなましい状況や宜野湾市長や沖縄県副知事すら現場にいれない米軍による封鎖、また沖縄での運動について報告した。
 辺野古の「命を守る会」事務局長の宮城保さんは、オバー、オジーたちによる海上新基地建設ボーリング阻止の闘いを報告し、辺野古での座り込みは降り懸かる火の粉をはらって闘っているが、火の元は政府・国会であり東京だ、一体となって運動を強めていこう、と述べた。
 つづいて、東京沖縄県人会青年部、立川・反戦ビラ弾圧救援会、東京全労協が連帯の発言。ワールドピースナウの高田健さんは、最近沖縄に行ってきたが、沖縄の怒りを自分の怒りとしてこれからも行動していきたいと述べた。
 最後に集会決議(別掲)を確認しデモに出発。アメリカ大使館、外務省のそばでは一段と大きなシュプレヒコールをあげた。

 8・27集会決議

 われわれは今、強い憤りを持ってここに集まっている。普天間飛行場を飛び立った米軍ヘリコプターが民間地域に墜落して二週間経った今、県民市民の飛行禁止要求は米軍によって無視され、安全な市民生活は望むべくもない状態となっている。
 この国の政府はアメリカに対しては、独立国家のていをなしていない。墜落地点における事故の現場検証さえ米軍に拒否されて泣き寝入りしている。全く情けない話である。
 この問、小泉首相は夏休みと称して、沖縄県知事、宜野湾市長との面会を避け、オリンピック観戦にうつつを抜かしてきた。事件から十二日経って、やっと知事との面会には応じたが、全く無為無策であることを天下に表明した。常日頃アメリカとの同盟関係を誇らしげに口にしながら、盟友であるブッシュ大統領には一言の抗議さえできないていたらくである。
 政府やマスコミはこの事件を首都から遠く離れた一地方の小さな出来事として、目立たないように処理している。それに乗せられてか、国民多数もこの事件をひとごとと考えているように見受けられる。「茄で蛙」になりかかっている多数の国民の目を覚まさせる行動が必要になっている。
 沖縄では辺野古や金武町で新基地建設を許さない座り込みが続けられ、県民の多数が米軍基地の撤去を切望している。国の責任者が外国に屈して、民衆の安全を犠牲にするとき、民衆は政府を倒し自分たちの身を守る道を選ぶことができる。われわれは沖縄の民衆と手を結んで、新たな基地建設を阻止するとともに、普天間などの軍事基地を撤去させることに全力を尽くす。

米軍ヘリ墜落事故に抗議する緊急国会集会

 八月二六日、衆議院第二議員会館で「米軍ヘリの沖縄国際大学構内への墜落事故に抗議する緊急国会集会」が開催された。この集会は、沖縄県選出の野党国会議員六人(衆議院議員・赤嶺政賢、照屋寛徳、東門美津子、参議院議員・糸数慶子、大田昌秀、喜納昌吉)呼びかけによるもので、四百人があつまった。会場はすぐに満杯になり、第二会場も用意されたが、それでも入りきれない人が外で待機するという状況だった。
 集会は糸数慶子議員の司会で始まった(糸数さんは七月の参院選において、全国唯一の野党共闘で当選した)。
 沖縄北方特別委員長の金田誠一衆議院議員が、「人間の鎖に参加したときに宜野湾の伊波市長から普天間基地の危険性の説明を受けた。沖縄対策の責任者として非常に申し訳なく慚愧(ざんき)の念に耐えない。委員会を早期に開催して対処していく」と述べた。
 照屋議員は、ビデオを使ってすさまじい墜落・爆発事故の状況を説明し、「民間人の犠牲者がでなかったのはまったくの奇跡としか言いようがない」と述べた。
 赤嶺議員は、「普天間は世界一危険な基地だ。政府は安全に最大限留意すると言うがそれは不可能だ。普天間基地の閉鎖・廃止しかない」と述べた。
 太田議員は、「今回の事故についての沖縄と本土の温度差が言われるが、鈍感度差としたほうがいい。先の戦争で沖縄の人びとが次々と殺されていった時も東京では相撲大会をやっていた。今度もそうしたものを感じる」と述べた。
 東門議員は、「沖縄では、普天間基地の移転先の辺野古沖海上基地建設のためのボーリング調査阻止の座り込み、金武町の都市型訓練施設に反対する運動が続いている。そして今回の事故が起こった。事故にたいして、政府はアメリカに『原因究明』と『再発防止』を申し入れをすると言っているだけだ」と述べた。
 喜納議員は、「政府はずっと沖縄の味方ではなかった。かつての米兵による少女暴行事件のあとでも基地は増えている。日本の安保は沖縄の負担でなりたっている」と述べた。
 糸数議員は、「問題は、民間地の事故でありながら、米軍が管理し、沖縄県警も入れない。次に日本政府の対応だ。小泉首相はすぐにはコメントもださない。そしてマスコミの対応だ。事故が起こったときのNHKのニュースではなんと五番目の報道だった」と述べた。
 集会では、大城紀夫宜野湾市職労委員長が沖縄の労働組合の取り組みを報告し、伊波洋一宜野湾市長と沖縄国際大学学長のメッセージが紹介された。また、全労連、平和フォーラムからの発言があり、最後に集会アピールが確認された。

辺野古ボーリング調査を許すな!

 那覇防衛施設局は、九月六日にも辺野古沖ボーリング調査を強行するとの報道がなされた。四月一九日の着工が実力阻止されて以来、今日まで防衛施設局はなんらの手も出すことができなかった。日本政府は米軍ヘリ墜落事故ではなんの行動も起こさなかったが、ヘリ事故で沖縄の怒りが一段と燃え上がったことに対して追いつめられたアメリカの意を受けて、小泉政権と防衛施設局は辺野古沖海上新基地建設を強行しようとしているのである。「いまこそ米軍基地の撤去を」と要求する沖縄の人びとの心に真っ向から襲い掛かり押しつぶそうとするものだ。現地の座り込み・阻止の力を強化し、沖縄の闘いに連帯して全国各地で断固たる行動を展開しよう!


教育反動の砦・東京都教育委員会に反撃

  
石原・横山都教委の暴走とめよう! 8・30都教委包囲デモ

 八月三〇日、「教育を破壊する東京都教育委員会に怒りのつぶてを! 『日の丸・君が代』強制処分の都教委10・23通達は違憲だ! 処分のエスカレートを許さず、教職員、生徒、保護者などみんなの力で憲法と教育基本法の改悪をとめよう!」をスローガンに、石原慎太郎都知事、横山洋吉都教育長に抗議する「石原・横山都教委の暴走をとめよう! 8・30都教委包囲デモ」(主催 石原・横山の暴走をとめよう!都教委包囲首都圏ネットワーク)の出発集会が、新宿・柏木公園ではじまった。参加者の一部は都教委(都庁第二庁舎)包囲のために先に出発。
 集会でははじめに主催者を代表して首都圏ネットワークの見城赳樹さんが発言。
 都教委は、10・23通達をひとつのポイントとしてわれわれ教職員に対する攻撃を強めてきている。また「つくる会」教科書採択やジェンダー・フリーに逆行して白鴎高校における男女混合名簿の廃止を強行してきた。都教委の処分に抗して教職員は立ち上がった。今日の行動は都教委を包囲し追いつめ真の民主主義を実現するための闘いの一歩だ。そして教育基本法改悪反対の大きな運動を進めて行こう。この闘いを発展させていくことは全国の仲間を勇気づけるものになる。今日の行動には韓国全国教職員組合(全教組)からも連帯のメッセージが寄せられてるが、全教組は弾圧・検挙のなかで民主主義を闘いとってきた。われわれも都教委の暴走に反対して闘い抜いていこう。
 つづいて、教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会の高橋哲哉東大教授があいさつ。
 都教委の度重なる愚行に総決起の抗議の声をあげた今日の行動は決定的に重要な意義を持つものだ。一九四五年の敗戦で戦争と差別の日本帝国主義は解体し、憲法と教育基本法の新しい時代が始まった。しかし旧い地金は消滅しないで、いままた露出して平和主義と民主主義が脅かされている。都教委の日の丸・君が代処分とその他の行動は、内心の自由を押さえつけようとするものだ。教育基本法・憲法の改悪はその総仕上げだ。今日の行動を成功させ、教育基本法改悪反対の大きな流れをつくり出して行こう。
 集会アピール(別掲)を確認してデモに出発。第一グループは呼びかけ人、被処分者、都高教など、第二グループは全国から参加した市民、第三グループは労働組合の隊列だった。この日の行動には、デモ隊四五〇人、包囲隊二五〇人、あわせて約七〇〇人の教職員、市民、労組員などが参加する、もりあがりのある行動となった。
 四時半ころに、デモ隊は都庁・都教委前に到着した。先発グループは、都教委を完全に包囲。デモ隊と包囲隊は呼応してシュプレヒコールを行った。
 デモを終わって、六時から、新宿文化センターで「交流集会」が行われた。
 はじめに東京教組の深沢裕さんが今日の行動について「大成功」だったと報告した。
 教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会の三宅晶子千葉大学教授は、いま教育で行われているのはかつてヒトラーが独裁権を握った全権委任法と同じ様なものだ、教育基本法改悪がその完成であり、多くの人びとの力を合わせてこれを許さない運動をおこしていこう、と発言した。
 同じく全国連絡会の大内裕和松山大学助教授は、都教委の10・23通達は教育基本法改悪とは何かを具体的に示すものとなった、そして「つくる会」教科書の採択、義務教育費の国庫負担削減、教職員免許の更新制と次々に出ている、来年の通常国会には教育基本法改悪が出てくるとも言われ一日いちにちが非常に大切だ、今日の素晴らしい行動を全国に伝え、いろいろな運動をひとつにつなげていこう、と述べた。
 当日には、都教委による「不起立」処分を受けた教員三名(障害児学校教諭)の二回日の「服務事故再発防止研修(專門研修)」を強行されたが、その三名が壇上にたち報告と決意表明を行った。
 「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会、「日の丸・君が代」不当解雇撤回を求める被解雇者の会からの発言があった。
 会場からの発言につづいて、韓国全教組の元寧萬(ウォン・ヨンマン)委員長からのメッセージが紹介された。「全教組は、東京都の教育労働者の闘いを積極的に支持し、三〇〇余名に下された処分は直ちに撤回されるべきだと考えます。全教組は、東京の教育労働者と積極的に連帯し、軍国主義復活を阻止し切り、反戦平和活動の先頭に立ち、韓国と日本に押し寄せている新自由主義攻撃と積極的に対決していきます。今回の『8・30東京都庁包囲闘争』を積極的に支持します。勝利の確信をもち、ともに闘いましょう」。
 最後の行動提起では、都教委包囲首都圏ネットワークの「『日の丸・君が代』強制と処分を許さない10・24討論集会」(午後一時半、文京区民センター)と「子どもは『お国』のためにあるんじゃない! 教育基本法の改悪をとめよう!11・6全国集会」(午後一時半、日比谷野外音楽堂)の成功がアピールされた。

 ● 石原・横山の暴走をとめよう!都教委包囲首都圏ネットワーク 連絡先 多摩教組気付 電話 03(571)2921

「8・30都教委包囲デモ」集会アピール

 今、東京都教育委員会は、石原都政下、憲法・教育基本法の改悪を先取りし、「戦争のできる国」につながる暴挙を続けています。
 憲法・教育基本法に違反する「10・23通達」に基づく卒業式・入学式への介入と大量処分、思想改造をもくろむ「事故再発防止研修」、中高一貫校の「つくる会」教科書の採択、男女平等杜会の実現を排除する「ジェンダーフリー」バッシッング等々、異常としか言えません。
 しかし、これらに対し、私たち、教職員・市民・労働者は黙って許してはいません。
 「10・23通達」に対しては、その違法性とそれに従う義務のないことを訴えて裁判〜いわゆる「予防裁判」〜で闘っています。
 卒業式・入学式の大量処分に対しては、現職の教員は人事委員会に不服申し立てを申請し、再雇用職員は解雇撤回を求めて東京地裁に提訴し、闘っています。
 「服務事故再発防止研修」に対しては、該当者・弁護団・支援者が一体となって闘い、その中身を骨抜きにしました。
 教科書採択も八月二六日の教育委員会で採択されてしまいましたが、反対の声は大きく都教委を包んでいました。
 そして今、多くのみなさんが全国からここ柏木公園に結集し、文字通り都教委を包囲するデモを成功させようとしています。圧倒的な意思とカでこのデモを成功させましょう。
 そうして、これら都教委との闘いにおいて一層の団結と勝利への確信を高め、この秋にも予想される、児童・生徒に対して「君が代」斉唱の指導を行わせる職務命令を伴なった、新たな通達を阻止し、東京都教育委員会のこれ以上の暴走を止めさせましょう。

二〇〇四年八月三〇日
「8・30都教委包囲デモ」参加者一同


国労大会(8・26〜27)で修正動議

 鉄建公団訴訟を軸として国鉄闘争の前進をかちとろう


 八月二六〜二七日、国労第七二回定期全国大会は、これまでの通例であった東京都内ではなく、熱海のニューフジヤホテルで開かれた。会場の外では、「国労に人権と民主主義を取り戻す会」など国労組合員・支援者がビラまき行動を行い、大会会場内の闘う代議員、傍聴者と呼応して闘い抜いた。
 国労本部は、昨年の最高裁判決をうけて「新たな訴訟」の提起(一月の第一七四回拡大中央委員会)や闘争団の生活援助金の凍結解除などの方向を打ち出し、全国大会を「総決起・総団結の大会」すると宣言した。その結果、一部には国労本部の軌道修正を軸に国鉄闘争は総団結して新たな段階にはいるのではないかという希望的な観測までも流された。
 採用差別の責任は旧国鉄↓清算事業団↓鉄建公団↓運輸・鉄道機構にあるとする鉄建公団訴訟に国労総体が取り組めるようになれば、そしてこの闘いを国鉄闘争全体が取り組むならば、一〇四七名の解雇撤回・地元JRへの復帰の闘いは勝利に向かって大きく前進することは疑いない。闘う闘争団やJR内の国労組合員の多くがそれを望んできた(なお、建交労<全動労>は八月下旬の大会で鉄建公団訴訟の方針を決めた)。
 しかし、現実は甘い見通しを砕くものだった。運動方針(第一次草案)では、新たな訴訟について「準備」中というだけでなんの進展もなく、八月一日付けの『国労文化』の「酒田充委員長に聞く」という記事は、国労本部はこれまでの方針の変更はないことを明らかにしている。
 大会を前に、国労本部は、八月一八日に連合・笹森会長に「JR不採用事件の早期解決にむけた要請」を、二〇日には運輸・鉄道機構に、二五日には民主党・藤井幹事長にも要請を行った。
 大会での酒田委員長あいさつは、JR採用差別事件をJR「不採用」事件とし、「一〇四七名」という数字もあげられていないもので、新たな訴訟の提起は「政治解決が困難であれば」とか「万策つきたときの最後の手段」だとするものだった。実際には何もやらずに、これまで通り「政治解決」の道を追い求めるものだが、とりわけ四党合意が完全破綻して以降の状況ではこの方向で解決に向かうなどとは誰も考えることはできない。連合などに対する「要請」行動は大会向けの単なるパフォーマンスにすぎないと言われてもしかたがないだろう。闘う闘争団の生活援助金の凍結解除問題についても、国労本部への全面的な屈服が条件となっているものである。
 こうした国労本部の全面屈服方針に対して反撃が行われた。闘う代議員は本部方針を批判した。
 大会二日目には二つの修正動議が出された。
 ひとつは、昨年大会で決められた闘争団員二二名にたいする三年間の組合員権停止を解除する修正動議(賛成二六、反対六七、白票二)、二つ目は新たな訴訟を求める修正動議(賛成二三、反対七〇、白票二)だ。
 そして、本部提案の運動方針案は、賛成六九、反対二一、無効一、白票四だった。
 国労本部は依然として闘争団と組合員の利益に反して屈服とJR連合との合流という道を進んでいる。
 鉄建公団訴訟を軸として国鉄闘争の前進をかちとるためにいっそう奮闘しなければならない。


「自由主義史観」の「保険」にされた司馬文学 

                      
北 田 大 吉

 (六)司馬の「おもしろい」は何に由来するか

 戦闘場面のような空間的に広大で、複雑に絡み合った場面を描くには、どこか高いところにのぼって三百六十度の展望をしなければならない。現に戦闘指揮官はそのようにしている。司馬はよく「鳥瞰」ということばを使う。鳥瞰によって全体を見通すことは容易になるが、全体を構成している個々の事物の詳細な観察と描写は犠牲になる。
 司馬がよく使う例でいうと、高いビルの上からはるか下を眺める場合である。
 地上には人々が居り、たくさんの車がいる。静止しているものもあるが、ほとんどのものは動いている。動く方向も速さもまちまちである。しかし、地上にいるのでは考えられないことだが、ビルの上から見ると、ある人がどこから来てどこへ行こうとしているかがよく分かる。
 この方法は空間的なようにみえるが、実はそうではなく時間的なものでもある。人は一定の時間を経過して、ある地点から他の地点に向かうからである。
 司馬はよく、人間の一生なんて終わって見なければ分からないという。小説において、作家は主人公が将来どうなるかを予め知っている唯一の存在である。
 ときには読者にも情報を共有してもらったほうがよい場合もある。そのようなときには、司馬は、自ら作中に登場して、主人公の行く末について読者に情報を提供しようとする。ヘーゲルは『精神現象学』において、精神自らを発展の主人公にして、主人公自身にその発展過程を語らせるが、それがうまく行かないときには、「反省」のかたちで自らが登場して精神の移行について説明する。
 それと同じ手法である。
 桂英史は、司馬の「分かりやすい」や「おもしろい」は何に由来するか、という問いを立て、それは司馬の特徴的なメソッドに由来するとして、それを「無思想」、「一人称」、「類型化」の三つに大別する。
 司馬はあるインタビューで、思想に関する考え方を次のように述べている。

 僕は、思想については冷静なつもりで戦後を過ごしました。思想は現実の中から生まれるものであるよりも、架空の一点から生まれるもんだ、と思っているからです。現実をいくら足し算、掛け算しても思想は生まれなくて、架空の絶対の一点を設けると、そこをコアにして思想がうまれるだろうと。

 司馬は「無思想」というのも思想であるという自覚がないようだ。しかし、メソッドとしての「無思想」というのは、司馬作品の特徴をよく示している。
「一人称」といっても、司馬の作品は私小説ではない。司馬作品がいかにも公正・中立であるかということを読者に「刷り込む」には非常に適した方法である。「これは余談であるが」とか「話は変わるが」とかという形で、作者の思想が作品の中で「無思想」的に読者に語りかけられる。
 「類型化」というメソッドは、一言でいえば、登場人物の特徴をことさら大胆かつ明確に決めつ付けて、読者の周辺に存在するような人物像を創りあげることだ。
 北山章之助(『手掘り司馬遼太郎』NHK出版、二〇〇三年)の叙述を引用。

 こうした登場人物のひとりひとりの性格描写は、司馬さんが最も得意とするところです。例えば陸軍です。陸軍の指導者を三人あげますと、大ボスの山県有朋、これは幕末長州の奇兵隊軍監から生き残った人物です。薩摩の大山巌、さらに長州の支藩徳山藩出身で、戊辰戦争のころは駆け出しだった児玉源太郎、この三人になろうかと思いますが、この三人の描き方が実に生き生きとしていておもしろい。
 大山巌というのは西郷隆盛の従兄弟にあたり、まさに薩摩人の典型のような腹のすわった大人物。それに引替え長州の山県は細かいことに気づく典型的な軍事官僚。陸軍の行政官としては有能なのですけれども、前線の指揮官として細かすぎる。実際に日露戦争の作戦を総攬したのは児玉源太郎です。児玉は台湾総督、内務大臣をやっていて当時の陸軍出身のいわば高級官僚でもあるのですが、この戦争は自分が出て行かなければとても勝負にならないということが早くからわかっています。内務大臣を辞して格下の参謀本部次長として野戦軍の作戦をすべて自分でやろうとします。

 だから類型化された人間はあくまでも作者の主観的なフィクションであって客観性をもったものではない。同じ人間を主人公にしていても、作者の類型化の作業を通してまったく違った人格に仕上げられることが多い。
 土方歳三とか坂本竜馬とかはそれまであまり知られておらず、司馬によって世に出されたといわれるが、その同じ歳三や竜馬が、しかも同じ司馬によって、他の作品において描かれる場合、まったく異なる類型化がなされる。たとえば、『新撰組血風録』における歳三と『燃えよ剣』における歳三とではまったく違った類型に仕上がっている。
 若干、話が変わるが、前に「司馬遼太郎は高度経済成長の申し子」だったと書いたが、高度経済成長の前には、当然、六十年安保闘争があり、この闘争が敗北した後、挫折感を抱いた青年たちがどういうわけか司馬作品の読者層を形成した。
 しかし挫折感というより危機感を抱いたのは支配層も同様である。安保闘争で体制にしらけ状態になっていた青年層を再び体制に包摂することが課題となっていた。これは所得倍増ということだけでは果たせないことだ。当時、自ら「無思想人」を標榜する売れっ子の評論家がいた。大宅壮一だ。この大宅壮一は産経新聞在職中から司馬を支持していた。もうひとりの仕掛け人が嶋中鵬二である。嶋中は、一九六二年六月から産経新聞連載がはじまった『竜馬がゆく』の仕掛け人である。大宅と嶋中が、当時の産経新聞社長の水野成夫にアドバイスして、紙面刷新の柱として「とにかく長い連載」を司馬に持ちかけたのだ。

 (七)「自由主義史観」はどのようにして司馬を「保険」にしたか

 二十一世紀に入るとさすがに司馬作品を公然と批判する評論も散見されるようになったが、それまではどれもこれも司馬神への賽銭のおこぼれに預かろうとでもするようなオマージュ・ブームが続いた。しかし、なかには小林秀明ののように、司馬没後一年半で、まっとうな批判が現れた。『幻想「司馬史観」とその終焉』である。小林がここであえて「司馬史観」と呼ぶのは、司馬の作品群がイデオロギー化しているからである。
 
 日頃、脱イデオロギーを標榜し、それを作品づくりの信条としてきた筈の司馬作品がこのように評価されていることは、その作品群自体が司馬自身のイデオロギーを体現しているからに外なるまい。
 これは歴史小説全体に言えることであるが、読者側が歴史小説の内容を歴史そのものとして受けとめる傾向があるが、司馬作品の場合、それに加えて司馬遼太郎自身が後期においてそうした読者を助長、肯定するような歴史に関する文明批評を展開してきたことに起因すると言える
 歴史と歴史小説とは異質のものであるという自明のことがらをとり違えることは作者の責任ではないとしても、その作者までがそうした幻想にとりつかれるとしたら混乱は避け得まい。一つの文学的視点を「史観」などとすれば、「文学」をも「歴史」をも混乱させることになる。

 小林がここで問題にしているのは、この「司馬史観」を藤岡信勝らが「自由主義史観」などに利用・変質しているからである。しかし小林の当時の予測では、バブル経済が崩壊したように、「司馬史観」のバブルもまもなく儚い崩壊を経験するはずであった。だから司馬遼太郎の死について作家の塩野七生の「バブルだって、遠くから見れば、青空に白く、美しく浮かんだ、坂の上の雲だった」(朝日新聞九六年六月二四日夕刊)という言葉を引いて、小林の「終焉」という評論を閉じたのである。
 小林龍雄は、『坂の上の雲』は小説というより「戦史の域を越えるものではなく」「人間ドラマとしてみると、『坂の上の雲』にはあまり深みはない」と述べている。同感である。しかし、なぜ『坂の上の雲』なのであろうか。司馬自身は、第一巻の「あとがき」において、「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である」と書いている。秋山好古、真之兄弟、正岡子規らの主人公たちにとどまらず、登場人物のすべては司馬にとっては武士であり、ここでいう楽天家たちであった。かれらは坂の上の青空にぽっかりと浮かんだ雲をめざし、わき目もふらずに駆け上っていったのだろう。
 「司馬史観」がイデオロギー化されていることは、インターネット上に公開されている「行政改革会議第二八回会議議事概要」にも明らかである。

 集中審議において、司馬史観を超えていることを示すべきであるとの意見があったので、「自由な合理主義的精神と『公』の思想に富む明治維新期の人間像を想起しつつ、日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を、日本国憲法のよって立つ『個人の尊重』と国民主権の李根に則り洗練しようとする試みであり、故司馬遼太郎氏の語る『この国のかたち』の再構築にほかならない。

 小林秀明も指摘するように、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーは自分たちの歴史観を自由主義史観と呼び、「司馬史観」にその根拠を求めている。
 その中心的な存在である藤岡信勝は、「司馬史観と歴史教育」という追悼記事のなかで、「歴史教育の立て直しのために、司馬史観がどんなに大きな意味をもっているか、計り知れない」と司馬の業績を絶賛している。
 藤岡がこれほど大きな影響を受けた司馬史観とは何なのか。藤岡は「司馬史観」の発想の特徴として、一、健康なナショナリズム、二、リアリズム、三、イデオロギーからの自由、四、官僚主義への批判、の四つを挙げている。
 中村政則は『近現代史をどう見るか―司馬史観を問う』のなかで以下のように述べている。

 司馬遼太郎を批判する人はほとんどいない。誰もが司馬を「神様」のように扱い美辞麗句を連ねるだけである。その傾向は最近、いっそう顕著になったように思う。しかし、司馬史観には何も問題がないのか。そうではないと思う。最大の問題は「「明るい明治」と「暗い昭和」という単純な二項対立史観にある。……
 最近、私は「司馬遼太郎における明治史と昭和史の相剋」というテーマで、司馬史観の特徴について書いたが(『現代史を学ぶ―戦後改革と現代日本』)、ここでもそのあらましを簡単に述べておく必要がある。よく言われるように、司馬の明治時代に対する評価はすこぶる高く、昭和時代についてはすこぶる低い。この近代史認識の根底には、彼の戦争体験と敗戦体験があった。福田定一(司馬の本名)が敗戦を迎えたのは、二二歳のときである。このとき彼には「日本人はいつからこんなに馬鹿になったんだろう」という思いがあった。「いったい誰が国家をめちゃくちゃにし、こんなにつまらない民族にしてしまったのか。ここから私の小説は始まった」と司馬は述べている。こうして彼は三五、六歳の頃から文献・資料を読み始め、日本人とは何かを終生のテーマとするようになった。「昭和はダメでも、明治は違ったろう」。こうして司馬は明治をつくった群像へと向かう。
 司馬は『竜馬がゆく』『坂の上の雲』を書き終えたあと、こう語っている。「坂本竜馬を生み出さなかったら、日本の歴史はもっと違ったものになったろう。超大国ロシアに日本はなぜ勝つことができたのか。明治の合理主義、リアリズム。明治の国家はよかった。そこまではよかった」。だが、日露戦争に勝ったあとがいけなかった。「日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥臭い軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的にいえば日露戦争の勝利の勘定書というべきものがやってきた」(『世界の中の日本』)

かなり長い引用をさせてもらったが、これで中村の言いたいことはある程度わかるであろう。「明るい明治」と「暗い昭和」という司馬の把握に対して、中村は、この明治の賛歌と昭和への糾弾は正鵠を射ているし、わかりやすい、と一応の賛意を表している。ただしこのような対比的なとらえ方では、日本近代史の全体構造を的確につかむことはできないという。その理由は、明治、大正、昭和の連続性である。その通りであろう。とするならば、司馬の二項対立に簡単に同意してはいけない。
 中村は、戦前から戦後にかけての明治維新解釈論争を紹介し、一九六〇年代にアメリカ人学者による「近代化論」が紹介されるにいたり、論争は三つ巴の様相を呈したという。そのような状況の中で中村自身は、ウォーラーステインの近代世界システム論の視角をとりいれて明治維新論の再構築を図ったという。
 中村は、このような立場から司馬を説明的に批判するのだが、中村の明治維新論にいつまでもつき合っている暇はない。ただ中村が「司馬の『坂の上の雲』や日露戦争についての文章を読んで不満なのは、この戦争と朝鮮問題との不可分の関係を深刻に考えていないことにある」と述べているのは正当であり、まったく同感であるのは、私の行論を読んでいただけば一目瞭然であろう。そうならばそうで、中村は、明治維新論を大げさにかざさなくとも司馬を批判できたはずである。
 中村は、司馬の美学が歴史の事実の選択を恣意的で、作為的なものにしたとも批判している。日本人にとって辛くて暗い事件は意識的に切り捨てようとした、というのである。要するに、売れそうもないような内容は、はじめから除外したということであろう。しかし、対象によっては、いかに読者サービスに徹しようとしても、不可能なことがある。例えば、ノモンハン事件である。司馬は、ノモンハンについて多くの資料を集めていたが、ついに執筆を諦めた。日本人が悦びそうな内容には到底ならなかったからである。昭和時代の戦争はおおむね明るくは書けなかった。
 「司馬史観」なるものを新自由主義者たちが恣意的に利用するのは、司馬にとっても不本意だったかもしれない。しかし、司馬がそう意思表示しないかぎりは、司馬も同罪と思われても仕方がない。
 桂英史は、「司馬史観に基づいたという藤岡の考え方は、ある意味で司馬遼太郎が保険となっている、なぜ司馬という人物が保険となりうるのか。答えは簡単。司馬史観そのものがメディア・イべントとなっていて、そのメディア・イベントがある種の『勝ち馬』となっているからである。
 司馬史観に基づいていることを前面に押し出せば、少々過激なことをいっても許されるだろう。そうタカを括っているのかもしれない。さらにうがった見方をすれば」、司馬の厖大な著作を刊行している出版社も、表立っては批判できないに違いないという見通しをもっているのではないかという考え方も成り立つ。
 司馬作品については、まだまだ、言うべきことがたくさん残っている。小論では、『坂の上の雲』に重心がかかってしまったことは、執筆の趣旨から言って已むを得なかった。ここではご寛恕をいただき、また、他日を期すしかない。

                                                              以上


図 書 紹 介

  
小池 政行 (著)

      現代の戦争被害 ―ソマリアからイラクへ


                         岩波新書  ¥735

 「戦争の最も悲惨な被害者は、戦場になった土地に住む一般住民、戦争において直接的な敵対行為に参加しない非戦闘員であろう。もちろん敵味方を問わない。これは古今変わりなく続く真実である。……二つの世界大戦、そして朝鮮戦争、ベトナム戦争等、現代の大きな戦争の顕著な特徴の一つは、民間人が犠牲になる割合の高さである。……ここに見られるのは圧倒的な民間人死傷者数である」。小池は「はしがき」でこう書いている。われわれは、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキ、東京を始め各地での大空襲の記録でそうしたことの一端を学んできた。
 小池はアメリカのアフガニスタン・イラク戦争ではその傾向はいっそう強まっているとして、その「転機」は米軍の国連軍としてのソマリア内戦への介入だったという。
 九三年一〇月、米軍のレンジャー部隊と特殊部隊「デルタフォース」がソマリア武装勢力の反撃にあい、何人かの米軍兵士の死体が首都モガディシュの通りを引きずり回された。その映像はアメリカなどのメディアの取材によって全世界に流された。それはアメリカの世論を動かした。クリントン大統領はソマリアからの米軍の撤退を決めた。それは同時に、アメリカの利益にならない米軍の国連軍として活動からの引き上げ、そして米軍の「ゼロ・オプション」となった。「ゼロ・オプション」とは、自軍兵士の死傷を限りなくゼロにするという戦闘方法である。
 イラク戦争を見ても、アメリカは、クラスター爆弾、バンカバスター爆弾などの大量破壊兵器の使用をはじめ、戦車、航空機による攻撃で、イラク軍を撃破した。ファルージャ、ナジャフでの「包囲攻撃」では彼我の武器の差は圧倒的なものとなる。アメリカ兵にとっては「人道的」な「ゼロ・オプション」は、当然にも、「敵地の」一般民衆の犠牲を格段に大きなものとした。イラクでのアメリカ軍の存在は侵略者そのものだ。独裁者フセインは打倒されたが、より凶悪なアメリカ軍が祖国を占領したことをイラクの人びとは怒っている。アメリカの当初の想定では、アメリカ軍は「解放軍」として歓迎されるはずであった。抵抗はあるにしてもそれはひとにぎりの旧フセイン政権残党でしかないはずだった。しかし抵抗は旧政権に近いといわれたスンニー派からフセインに弾圧されたシーア派にまで広がっている。イスラム勢力だけではない、マルクス主義者をふくむさまざまな政治勢力が英米占領軍とかいらい政権との闘いを拡大している。アメリカ軍は現地の人びとの敵意に囲まれ、米兵にはみんながゲリラに見える。それがアメリカ軍の無差別虐殺となっていく。アメリカのベトナム戦争、日本帝国主義の中国侵略戦争でも、当然自国兵士の犠牲を最小限にすることはめざされたが、いまの米軍のもつ攻撃力は圧倒的だ。民衆の被害は格段に大きくなった。
 小池は、戦争被害の増大の原因の一つに「新しい戦争」論もあるとして言う。
 旧ユーゴ内戦でのコソボ虐殺をやめさせるとしてセルビアにたいするNATO軍の空爆に際してのイギリス首相ブレア発言(一九九九年三月二四日)を引いている。
 「新世代は旧世代と一線を画することとなった。新世代は人類的価値と新しい国際主義のために闘う。あらゆるエスニック・グループ(少数民族)に対するどんなに野蛮な抑圧も決して許されないだろう。そのような犯罪に手を染める者には、どこにも隠れる場所など残されてはいない。」
 これは、「自衛以外を目的とする戦争」の宣言であったとして、「顧みれば九九年三月、米英は戦争を開始する根拠を変えたのである」としている。
 本書は、小池の国連についての考えなどには異論もあるが、アメリカが己の「強さ」を過信して、完全な破滅にいたるまで戦争をやめるにやめられない泥沼に陥っていく経過が描かれていて現代戦争の特徴をとらえるために参考になる。


KODAMA

   
民主的イラク国家の建設

 七月末に開かれた講演会で、四月の日本人「人質」解放に連帯して取り組んだイラク民主的国民潮流のリカービさんは、アメリカ占領軍とそのかいらい「政権」に反対して、新しいイラク国家をつくるための憲法制定の国民会議をよびかけ準備していると話していた。
 その会議が八月の二九日にレバノン・ベイルートで始まったらしい。会議のプレス・リリースによると、この会議(イラク独立憲法制定評議会準備会合)は、宗教を越えた民主主義者、国家主義者、マルクス主義者、ナセル主義者、イスラム主義者など様々な宗教、アッシリア人やトルクメン人などの民族、部族を代表する人びと、知識人や市民社会運動からの代表たちによるものであるという。そして正式の憲法制定議会が開かれれば、そこにおいてイラクの人びとの自由な選択の意思によって国家政治体制が決定されることになる。なお、ベイルートの会議は、アメリカによるバクダット占領直後から、「イラク社会を形成するあらゆる潮流、関係者、民族、信仰、あるいは政党を代表し、国外の勢力から支配されない、自由で独立した憲法制定評議会を開催する権利がイラクの人びとにあることを、私たちは、国際的、地域的、また国内で開催されてきた様々な会合で訴えかけてきた」という長い準備の努力の末に会議は持たれたのだった。だがこうした動きは、日本のメディアではほとんど扱われず、ニューヨークでの無差別テロを引き起こした「アルカイダ」と反テロ戦争のアメリカと多国籍軍の対決という展望のない構図として描かれてしまっている。
 石油をはじめ中東における利権のためのアメリカの戦争と占領に反対し、またいわゆるイスラム原理主義による宗教国家の建設ではなく、独立し、民主主義に基づいた社会の建設をめざす政治勢力の目的が達成されることを望む。 (MD)


せ ん り ゅ う

 自殺激増企業は利益激増

 身におぼえあり大臣行刑食忌避

 死ぬは下請けの下請けのアルバイト

 婦女ぼうこう米兵いれば戦場だ

 「九条」かえろと米大臣ダダをこね

 哲学をうたぐりながら読んでいる

                ゝ 史

 二〇〇四年八月

○ 自殺三万四千人以上年々増えている 国益を守るとはどういう小泉行政なのだ もうけ主義の美浜原発殺人事件 最下層の人間は使い捨てでプロザックネイション 米国化していく


複眼単眼

  
「沖縄は戦場だ」「操縦士には功績があった」

 米海兵隊のCH53D大型輸送ヘリコプターの沖縄国際大学への墜落事故で、八月二六日、在日米軍司令官のトーマス・ワスコー中将は「乗務員は飛行コントロールが不能になった機体を、精一杯人のいないところに操縦して行き、被害を最小限に食い止めた。すばらしい功績があった」と述べた。
沖縄県民への謝罪の言葉もなく、取りざたされている事故と放射性物質との関連の説明もないままでの暴言だ。巧みに操縦できたのなら、なぜ最初の尾翼部分が落下した時点で基地に戻って墜落できなかったのか、基地に被害が出るよりは、国際大学に落とした事が功績だというなら、これは在日米軍が依然として占領意識を持って作戦にあったっていることの証明だ。
 筆者が八月末、沖国大の対策本部をたずねたとき、応対してくれたAさんは「わざわざ立木の多い沖国大の本部をねらったように思われる。
 現場は道路を挟んでマンションなどがある住宅地だ。住民に死者が出なかったのはまさに奇跡だ。近くには大学のグラウンドだってあった。しかし、グラウンドに墜ちると粉々に爆発炎上して乗員は死ぬ。だから樹に引っかかって助かろうとしたのではないか」と怒りを隠さなかった。
 「しかし、その下で私たちは仕事をしていたのです。死ぬかと思いました。空が真っ黒になったと思ったら、地震と雷が一緒に来たような轟音がして、すごい衝撃が起こったのです」と。
 これを礼賛する米軍指令官の感覚は恐ろしい。「軍隊は住民の命を守らない」ことが、またも証明された。
 筆者が現場をたずねた時はすでに墜落機の残骸は跡形もなく、掘り返した土壌が白くむき出しになり、地面の一部はビニールシートで覆われていた。焼けこげた黒い樹木と、伐採のあとの白い切り株群が並んでいた。
 現場は米軍が作った金網のフェンスで囲まれていた。焼けた樹木が一本、ちょうど人間の腕が人差し指で方角を示す様にそっくりで、ヘリの激突した本館の階段を指していた。Aさんは「この階段と踊り場が建物の端に作られていなかったら、ヘリが直接事務室に飛び込んできたでしょう」と怒りを込めて語った。
 そしてAさんが言うには「米軍はすぐ現場を封鎖して一切立ち入り禁止にしたが、警察や消防よりも駆けつけるのが早かった。これはどういう事か。
 ヘリの後部ローターがはずれたという事故が発生した早い時点で、基地の米軍当局は事故を知っており、ヘリの操縦士たちと交信し、指示をだしていたに違いない」と言うのだ。
 これなら司令官が操縦士を「すばらしい功績」と評価するのはつじつまが合う。しかし、それならいっそう、沖縄の人びとの人命は全く軽視していたと言うことだ。許し難いことだ。米軍は墜落ヘリのボイスレコーダーを沖縄側に提出して、この疑問に答えなければならない。
 ヘリコプターというので私たちは「ああ、ヘリか」と小さい飛行機と誤解しがちだが、このCH53Dというのは大型ヘリで、全長二六・三メートル、三五人の兵員を輸送できるという代物だ。「墜落したとき、窓の外が真っ暗になった。後で考えると大きな機体が遮ったからだと思う」とAさんが語っているほど、このヘリは大きいのだ。
 誰かが言った。「沖縄はいま戦場なのだ」と。このときも、小泉首相は長期の夏期休暇中で、ホテルのテレビでアテネ・オリンピックを観戦しており、その後、沖縄県当局が上京してきても、休暇中を理由に会わなかったのだ。これを忘れてはならない。 (T)