人民新報 ・ 第1153・4合併 号<統合246・7(2005年1月1日)
  
                  目次

● 改憲攻撃に抗する壮大な統一を  労働者社会主義同盟中央常任委員会

● 撤退させよう自衛隊 終わらせようイラク占領  WORLD PEACE NOW主催の集会に三〇〇〇人

● 住友裁判を励ました女性差別撤廃条約・CEDAW  間接差別禁止した均等法改正を

● 財界の攻撃を跳ね返し、05春闘を闘おう

● 立川反戦ビラ弾圧事件で勝利判決

● 「技術論」再論   北田大吉

● 対北朝鮮政策は経済制裁でなく真摯な交渉で

● 再び「大日本主義」の破滅の道を行くのか  〜 石原莞爾 と 石橋湛山 〜

● 複眼  /  元国家公安委員長がいう「警察国家」化  通報、監視、尋問、連行社会




改憲攻撃に抗する壮大な統一を

    
労働者社会主義同盟中央常任委員会

 イラクの状況は、一月の暫定議会選挙を前にいっそう「混迷」し、アメリカを頭とする占領軍は、イラク民衆の敵意に取り囲まれ、一二月に入って米軍の死者累計は一三〇〇人をこえた。イラクの人びとの犠牲は一〇万人をこえると言われている。テロリストの殲滅を口実に繰り返されるファルージャ攻撃での大虐殺はその象徴である。占領軍のアブグレイブ収容所での拷問事件も暴露された。イラクの人びとの悲しみと怒りは表現できないほど大きいものとなっている。開戦の「大義」とされた大量破壊兵器はやはりなかった。アメリカ国内では愛国主義の激浪に抗して反戦運動が闘いつづけられているが、米軍兵士の戦死・負傷者の激増によって与党・共和党の中からもブッシュ政権に対する批判が出てきている。イラクそれにアフガニスタンの戦費は増大し国家財政赤字は一段と危機的状況を深化させた。昔から、強大な「帝国」は、力の頂点にたつと、世界全体を意のままに動かそうとし、傲慢にも自らが「全能」であるかのように錯覚して、あれこれの暴挙・愚行を連続させ、オーバー・コミットメント(過剰介入)とオーバー・ストレッチ(手の伸ばしすぎ)によって、自滅の道を転がり落ちて行く。かつてアメリカはベトナム戦争でその力を大幅に弱めた。旧ソ連はアフガニスタンの泥沼にはまり体制崩壊の要因をつくった。世界の民衆はアメリカとの闘いをグローバルな規模でいたるところに展開し、無数のアリが巨象と闘う構図を描き出して行こう。
 二〇〇四年、自衛隊派兵に関連する動きは、一月一九日陸自先遣隊のイラク入りではじまった。三月三日に空自C130輸送機が物資輸送を開始し、二六日には陸自が「給水活動」を開始した。そして四月七日には陸自宿営地近くに迫撃砲弾が撃ち込まれた。八日には高遠菜穂子さんら日本人「人質」三人が武装勢力に拘束されたと報道された。この事態をうけて市民運動を中心に自衛隊のイラク撤退を求める運動、国際的な連携で現地との連絡などによって三人は一五日に解放された。一四日にはバグダッド近郊で安田純平さんら二人が拘束されたが、一七日に解放された。これらの事件は、アメリカ占領軍の一翼を日本が担うことによって、日本人がイラク・中東の人びとの敵として位置づけられてしまったことでおこったものである。日本政府はイラクへの派兵をやめ、ただちに自衛隊を撤退させることが必要だった。しかし、小泉政権は、アメリカの戦争・占領政策にいっそう積極的に加担する政策を推し進めた。そして、五月二七日ついに橋田信介さんら日本人記者二人が襲撃され死亡し、一〇月三〇日には星条旗に包まれた香田証生さんの遺体が発見された。この間、陸自宿営地に対して迫撃砲弾、ロケット弾が何度も撃ち込まれている。にもかかわらず、小泉首相は、自衛隊が派遣されているところは、「非戦闘地域」だと強弁し、一二月一四日に期限が切れたのにもかかわらず、国会の会期終了をまち、国会での審議も国民への説明もなく、派兵を延長させたのである。小泉政権は、アメリカとの軍事同盟を強化させることを軸に、東アジアで覇権主義的影響力を拡大しようとしている。経済大国の日本は、国連の常任理事国入りで政治大国となり、自衛隊の海外活動の積極化、武装力の質的向上を狙っている。新防衛大綱は、ミサイル防衛計画によって日米両軍を格段に一体化させた。そして北朝鮮とともに中国を実質的な「仮装敵国」とした。支配階級の一部右派勢力は、北朝鮮に対する「経済」制裁、李登輝ら台湾「独立」派と連携して、朝鮮半島、台湾海峡など東アジアでの危機を煽っている。右翼勢力の策動を許さず、日朝関係、日中関係の改善をはかり、北東アジアの平和を実現しよう。 
 新自由主義・規制緩和政策は労働者・勤労大衆に大きな犠牲を押しつけている。倒産、失業、賃下げ、労働強化、年金崩壊、自殺、ニート激増……グローバリゼーション化する資本主義が押しつけたものだ。年末に発表された二〇〇五年度予算財務省原案は、小泉政権が大衆の生活を直撃することの宣言だ。所得税の定率減税の半減が盛り込まれ、消費税も二ケタにむけて走りだした。年金保険料の値上げ、配偶者特別控除の廃止、年金課税が強化される。その一方で、財政状態の改善をはかるとしながらも、大企業などへの法人税減税、高額所得者向けの大幅減税はそのままだ。こうした税政は、小泉政権が、大企業・大金持ちの利益を守り、大衆収奪をおこなう政権であることを鮮明に示すものだ。増税、社会保障切り捨て、郵政分割民営化・地方行革など公務労働者への攻撃、労働法制の改悪などに反対して闘おう。
 〇五年は小泉政権による憲法改悪の動きが前面化・具体化してくる。一二月二一日、小泉純一郎を本部長として自民党「新憲法制定推進本部」が初会合を開き、〇五年一一月の自民党結党五〇周年に改憲草案をだすことを確認した。もともと、自民党憲法調査会(保岡興治会長)によって自民党改憲の動きは進められ、同調査会の下に設置された憲法改正案起草委員会はすでに「改憲草案大綱」のたたき台を公表し、〇四年中の策定をめざしていた。ところがこの原案に吉田圭秀二佐(陸上幕僚監部所属)が起草した「憲法草案」の主旨がすべて採用されていたことが暴露された。現職の幹部自衛官の改憲草案起草とそれが自民党の改憲案にのこらず取り入れられていたことは、重大問題であり、自民党は改憲組織の改編を余儀なくされた。しかし、小泉らはその基本的な姿勢をまったく変えず、改憲のテンポを早めようとしている。自公両党は、憲法記念日の五月三日に国会の憲法調査会「最終報告書」を議長に提出した後、憲法調査会を「国民投票法案審査」の機関に衣替えすることで合意している。「九条の会」を各地で、そして労働組合その他各界でつくりあげるなど九条改憲を許さない広範な統一戦線を作り上げよう。
 いま日本は新しい歴史的段階に入った。この時代は、厳しい挑戦の時代であるが、決意を固めて、闘う姿勢をもった主体をつくりだし、敵の弱点をつき、大きな勢力をつくり出すなら、好機に転換することが出来る。国内外の多くの人びとと団結して、戦争国家の形成に抗し、二〇〇五年を断固として闘い抜こう。


撤退させよう自衛隊 終わらせようイラク占領

    
WORLD PEACE NOW主催の集会に三〇〇〇人

 一二月一四日、日比谷公園で、「派兵一年、期限切れ 撤退させよう自衛隊 終わらせようイラク占領」を掲げて、WORLD PEACE NOW主催の集会が開かれ三〇〇〇人が参加した。
 はじめに主催者を代表して大塚照代さんが、イラク・ファルージャでは六〇〇〇人も殺されている、それらの人びとを追悼するとともに、一日も早くアメリカによる占領を終わらせ、イラクから自衛隊の撤退を実現しよう、とあいさつした。
 発言は、新潟県加茂市長の小池清彦さんと翻訳家の池田香代子さん。
 小池さんは、防衛庁長官官房防衛審議官、防衛研究所長などを歴任し、一九九五年から加茂市長(三期)。中越地震のため遠回りをして集会に出席し、次のように述べた。
 イラク戦争は、キリスト教とイスラム教の対立やパレススチナ紛争などが要因になっている。日本とは遠く離れたところで、直接日本に関係ないとも言える。しかし小泉首相はテロに屈しないとして自衛隊をイラクまで派兵した。そのことによって既に日本人が五人も殺されている。なぜ派兵したのか。それはアメリカに言われたからだ。アーミテージ国務副長官に「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」、すなわちイラクの地に軍靴をつけろと要求されたからだ。しかし、日本は平和国家だ。それも伊達や酔狂の平和国家ではない。かつての戦争の惨劇があったからだ。二発の原爆を落とされたが、それこそ最大のテロだった。そうしてもう二度と戦争はしないと決意して平和国家として出発したのだ。このような日本を世界は非常な尊敬の念をもって見ている。世界の人たちから限りない共感を得ているのだ。それなのに小泉はなぜ普通の国になろうとするのか。大きな間違いだ。アメリカは自分がテロをやっておきながら、日本をそこに巻き込もうとしている。憲法の改悪が行われようとしているが、なんとしても平和憲法は守りぬかなければならない。小泉の意を受けた「安全保障と防衛力に関する懇談会」報告にもとづいて新しい防衛大綱がつくられた。その骨子はふたつ。一つは、海外派兵をやるということ。もうひとつは、日本の防衛力を思い切って減らしアメリカに「おんぶ」するということだ。そして、アメリカの行くところどこまでもついて行き、そのためには徴兵制までもやるだろう。最も良くない内容だ。これから平和憲法を守る長い長い闘いになる。みんなで一致団結して日本の将来を守り抜かなければならない。
 ピースコンサートにつづいて、JVC(日本国際ボランティアセンター)の熊岡路矢さんと原文次郎さんがイラク報告。
 集会を終わって、パレードに出発し、繁華街の銀座で人びとに自衛隊撤退をアピールした。


住友裁判を励ました女性差別撤廃条約・CEDAW

           
間接差別禁止した均等法改正を

 十二月一一日、東京のウィメンズプラザホールで「国際女性の地位協会(赤松良子会長)」の主催による女性差別撤廃条約の国連採択二十五周年を記念した会が開かれた。はじめに住友電工などメーカーの男女賃金格差是正裁判を支援してきた「ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク(WWN)」に贈られた第八回赤松良子賞の贈呈式が行われた。
 また、国連で女性差別撤廃条約が採択された当時、日本の国連公使をしていた赤松良子さんが「女性差別撤廃条約二十五周年を記念して」と題して講演し、国籍法の改正や男女雇用機会均等法と男女共同参画社会基本法などの条約批准後の国内法の整備について直接かかわったときの思い出にもふれた。また国連で、加盟各国における女性差別撤廃の進捗状況を審査する女性差別撤廃委員会(CEDAW)の活動と日本のNGOによるCEDAWへの働きかけについての概略を話した。とくに政府報告にたいする女性NGOによるカウンターリポートの提出や、大勢の傍聴者派遣などがCEDAWへの影響を大きくし、日本の女性の現状評価についての民間女性の活発な活動を賞賛した。
 来日していたCEDAW委員のハンナ・ショップシリングさんも挨拶し、間接差別と闘った住友裁判の九年間をたたえた。今後の課題として、すでに百三十七カ国が批准しており、司法の独立性を強化し女性に対する差別への理解を進める上で司法を補助する、条約の選択議定書の批准を訴えた。
 「女性差別撤廃条約と住友裁判」をテーマにしたパネルディスカッションでは、パネリストに住友裁判原告の西村かつみさん(住友電工裁判原告)、石田絹子さん(住友化学裁判原告)の二人と、宮地光子弁護士(住友電工事件弁護団の主任)、浅倉むつ子さん(早稲田大学大学院教授)で、コーディネーターは山下泰子さん(文京学院大学教授)。それぞれの発言の前に、裁判の経過や判決を報じた数分のテレビニュースをビデオで紹介した。短い映像だが、原告の思いや闘い方、和解という解決への喜びや限界などが伝わってきた。西村さんは「裁判にとりくむ際に、住友の女性差別の実際を周囲が大きく受け止めてくれるように、マスコミに取り上げてもらい広く知らせようと考えた」と述べたが、その努力が実っていることが分かる報道だった。
 西村さんは「九四年に大阪婦人少年室に調停を申請したが、採用区分が異なることを理由にする取り扱いの違いは均等法に違反しないと、調停をしてもらえなったことが、企業だけでなく国を被告にすることになった。裁判は、何よりもWWNに支えられ、また国連のCEDAWの委員が私たちのような草の根のことに耳を傾けてくれる、さまざまな差別が国連で訴えられるんだ、という驚きと感激・喜びが力になった」と語った。
 石田さんは「電工、化学、金属が大阪の同じビルにある関係でお互い顔を会わせる機会もあり、ともに提訴することになった。各社ごとの昇進・昇格制度と実態の違いで異なった結果になった。〇四年六月二九日に和解して退職したが、七月二日に管理職になった女性が出たことは裁判の影響だと思う」と語った。
 宮地弁護士は「女性差別撤廃条約と均等法がなければ裁判も和解勧告もなかった。募集・採用の違いで均等法の適用に限界を設けるのは、間接差別を国が容認するもので差別撤廃条約に違反する。均等法施行後、企業は差別是正の義務を負うのに、是正義務を履行していない。と主張した。控訴審では、日本の女性たちからたくさん出したカウンターリポートを生かした〇三年八月のCEDAW『日本政府に対する最終報告』を生かそうと思った。大阪高裁の井垣敏生裁判長からの和解勧告では『国連を初めとする国際社会では男女平等が共通認識になっていること、日本でも法の整備が進んでいるが性的役割分担意識が障害になっていること、そして男女差別の改革は運動のなかで一歩一歩前進してきたもので、現在は間接的な差別にたいしても十分な配慮が求められる』というところまでいった」と話した。
 浅倉さんはこうした成果を踏まえ、〇六年ごろに改正案の国会上程が予想される均等法の課題について話した。「九七年の改正均等法の国会審議の付帯決議は、@男女双方に対する差別の禁止A妊娠・出産を理由とする不利益取扱いB間接差別の禁止Cポジティブアクションの効果的推進方策の検討、になっている。〇四年六月の男女雇用機会均等委員会の報告書でも、雇用の分野における男女の均等取扱いを図る上で重要であり、いずれも前向きな対応が望まれる、となった。間接差別の概念について検討されたのは一歩前進だが、クリアしなければならない課題は多い」と述べた。
 住友裁判は、差別撤廃条約や国連の機構を、女性たちが自らの力を使って獲得したものだ。エンパワーされた女性たちの経験を共有化し、男女平等の実現のために雇用均等法の改正にむけ行動しよう。


財界の攻撃を跳ね返し、05春闘を闘おう

 十二月一四日、日本経団連は、二〇〇五年春闘に臨む経営側の指針「経営労働政策委員会報告」を発表した。
 この一〇年にわたって、経営側は「ゼロ・ベア」の統一方針をもって春闘対策の基本とし、とりわけ二〇〇四春闘では、「ベースダウンも労使の話し合いの対象となり得る」として、厳しい態度を堅持してきた。労働側はこうした賃上げ抑制・賃下げの攻勢に充分反撃できず、労働者は「賃金破壊」・労働条件の低下と失業という厳しい状況に追い込まれた。
 政府の景気見通しにもかかわらず、一向に経済状態は好転していない。アメリカ・中国の好景気という外部的な要因によって一部企業業績が回復しているが、正規雇用は増えず、派遣・パートなど非正規労働者がひきつづき増大している。
 柴田昌治・経労委委員長(日本ガイシ会長)は、記者会見で、〇四春闘と比べて経営環境は大きく改善し、「企業の収益が向上すれば、従業員に配分するのは当然」と述べているが、「業績反映は一時金で」としつつ、基本給の賃上げについては、「市場横断的な横並びは日本社会に合わなくなった」とし、定期昇給制度も「廃止を含めて抜本的な改革を急ぐべきだ」と指摘している。マスコミの中には、個別企業の賃金決定は、個別労使が話し合いで決めるとして「業績が好調な企業では賃上げも容認する柔軟な姿勢に転換」したと報じる向きもあるが、これは年功型賃金の最終的な終焉を目指すものであり、企業にとって人件費総額の圧縮をはかりつつ、「働く人の努力に対して積極的に報いる必要性があろう」「生産性の向上や人材の確保などのために賃金の引き上げが行われる場合もあろう」と言うように、この間のリストラ・賃上げ据え置きによって低下している労働者のやる気(モラル)をあげようとするものにほかならない。
 〇五春闘は、春闘五〇年目にあたる。ストライキなど労働組合の団結した力で、労働者と広範な大衆の要求を実現する闘う春闘の伝統を継承し、再生させよう。
 職場の労働者の賃金要求を組織して闘う態勢をつくりあげ、賃下げ・合理化攻撃を跳ね返し、賃上げをかちとろう。
イラクからの自衛隊の撤退、戦争体制への労働者の動員反対、憲法改悪阻止の闘いと結び付けて闘い抜こう。


立川反戦ビラ弾圧事件で勝利判決

 一二月一六日、立川・反戦ビラ弾圧裁判で、東京地裁八王子支部刑事第三部(長谷川憲一裁判長)は、全員に無罪の判決(求刑はいずれも懲役六ヶ月)を出した。判決公判の四〇一号法廷には多くの支援の人びとがあつまり、抽選で法廷に入った。長谷川裁判長は、判決主文からではなく、理由から読み始めた。判決は、ビラ入れは「憲法二一条一項の保障する政治的表現活動の一態様」であり、「刑事罰に処するに値する程度の違法性があるとはみとめられない」としている(<判決理由の結論>別掲)。
 この事件は、二〇〇四年二月二七日、市民団体「立川自衛隊監視テント村」の大西章寛さん、高田幸美さん、大洞俊之さんの三人が、自衛隊のイラク派兵に反対するビラを防衛庁立川宿舎で各戸の玄関ドア新聞受けに入れたことを理由に逮捕・起訴され、七五間にわたって長期勾留された。
 この弾圧は警視庁公安部が自衛官に被害届を出させるなど、公安警察が政府のイラク戦争政策を批判する動きを封じ込めようとするものにほかならない。事件は立川テント村だけにとどまらず、全国の反戦運動をはじめ労働運動などさまざまな民衆運動に重大な関連をもつものであり、ビラ入れ弾圧裁判に対する支援の輪は全国に大きく広がった。
 同日夕方からは、三人の当事者、弁護士と支援の人びとがあつまり八王子労政会館で判決報告集会が開かれた。弁護団の報告につづいて、三人がそれぞれ感想と決意を述べた。
 集会を終わって東京地検八王子支部にむけて、高裁への控訴の断念を要求するデモを行い、同支部前では、不当な起訴への謝罪と控訴断念のシュプレヒコールをあげた。

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地裁判決の意義   内田雅敏弁護士に聞く

 小泉政権によるブッシュのイラク戦争への加担、日米軍事同盟と国内治安体制の強化という戦争国家づくりという危険な流れが加速するなかで、立川反戦ビラ弾圧事件判決は、公安警察・検察がしかけてきた不当な弾圧に対する大きな反撃・勝利であり、これからの民衆の闘いの発展に大きな影響を持つものとなっている。弁護団の一人である内田雅敏弁護士に、判決の意義などについて聞いた。 (文責・編集部)

……はじめに判決の内容についてですが……

 ――この事件は、そもそも刑事事件にならないようなものなのに、検察が無理に事件にして起訴したわけで、判決はしごく当然なものです。
 判決では、「形式的に判断すれば」三人の行為は住居侵入にあたるが、「刑事処罰に値するような違法性があるか」どうかということについて検討しています。
 ビラの内容については、「ビラを届けることで自衛隊のイラク派遣に関するテント村の見解を自衛官に直接伝えるという動機自体は、テント村の政治的意見の表明として正当なもの」としています。態様については、その頻度は毎月一回づつと高くはなく、ビラの投函にあたっては、多数の威力を背景にすることなく、いつも三、四名程度で担当し、立ち入りは白昼に行われ、その際も凶器や暴力を用いたり、フェンスを乗り越えるなどの手荒な手段を用いたりしていないし、投函されたビラも一戸あたり一枚で、宿舎敷地内に滞在するのもせいぜいビラ配布のための三〇分程度で、その間にことさらに目立つ言動などで周囲の静謐を害したことも皆無である、として、「被告人らの立ち入り行為の態様は、立川宿舎の正常な管理及びその居住者の日常生活にほとんど実害をもたらさない、穏当なものといえる」とし、また「被告人たちがことさらに居住者・管理者からの反対を無視して各立ち入り行為におよんだとはいえない」とも言っています。居住者から「中止」を求められたことについては、「自衛官らの中にもイラク派遣に関して多様な意見を有する者がいる可能性は否定できないのであるから、被告人らが受けた注意が居住者の総意に基づくものとはいえないし、また、従前折りに触れて行われてきたテント村による文書投函や自衛隊のイラク派遣反対のビラについても、立川宿舎の管理者からはテント村にいっさい連絡がきていない」としています。テント村については「『自衛隊反対』を主眼とする政治的見解を同じくする人々から構成される一市民団体にすぎない」としています。ビラが自衛官に不安を与えたということについては、「本件で被告人らが投函しようとしたビラの見解自体は、当時、自衛隊のいろいろな派遣に関して国論が二分していた状況においてメディア等で日々目にする反対意見に比して、内容面のみならず表現面でもさして過激なものでなく、それゆえ、本件ビラがこれら反対意見とさほど異なるような不安感を与えるとも考え難い」として、「結論」で、ビラの投函は「憲法二一条一項の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹をなすもの」としています。
 憲法二一条一項は、「集会・結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定していますが、これが判決の中心になっていることはきわめて大きな意味を持つものです。

 ……重要な判決をかち取ったわけですが、この判決がもつ意義はどのようなものでしょうか……

   ――小泉首相のイラク派兵や改憲その他のやりかたを見ていると、「立憲主義」とか「法の支配」というものが非常に危機に瀕していると思います。こうした状況がつくられる上では、とくに裁判所の役割が重要になっています。
 弁護側の弁論の中では、アメリカ映画『ニュールンベルグ裁判』にふれています。映画にはこういう場面がありました。アメリカの田舎の裁判所の判事出身の裁判長が、第三帝国時代の裁判官、検察官らに対し有罪判決の言渡しをして帰国する直前、無実のユダヤ人に死刑を言渡した高名な法学者、裁判官、ドイツ司法大臣だったヤニング被告を個人的に訪問します。そうすると自己の有罪を認めたヤニングは、ナチスのやっていた六〇〇万人ものユダヤ人虐殺を知らなかったと言いました。これに対し、裁判長は即座に「ヤニング君、最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決したのだ」と言います。このシーンはじつに強烈だった。最初は小さな、問題にしなくてもいいように思われるものが、放っておくと取り返しのつかないことになるということです。いまのような状況になったことについては、憲法九条判断を回避してきた裁判所の責任は重大です。今回の裁判で、もし有罪の判決をだすのならまた大きな誤りを犯すところでした。そして、弁論のむすびに「裁判官諸賢の識見、良心、そして勇気に期待する」と言いました。裁判長も結審の時に、この事件の性質に鑑み早期に判決を出したい、裁判所は頑張って判決を書くと言いました。私も三〇年、弁護士をやってきましたが、裁判官がこうしたことを言うのを聞くのははじめてで、感動しました。それで、高裁の判断にも堪えられるようなものを期待したわけですが、そして、こういう判決が出てきました。
いま公安警察は、政党機関紙を配布していただけの社会保険庁の職員の起訴したり、都立板橋高校卒業式で日の丸・君が代に反対の意思表示をした元教員をでっち上げ刑事事件で起訴したりと、暴走がつづいています。検察は警察の暴走を止める役割も持っているが、その役割がまったく劣化しています。だから今回のようなまったく無理な起訴を行うようになったわけです。検察は面子をすてて控訴を断念すべきだと思います。
 最後に言いたいことは、今回の判決をかち取る上では、多くの人びとの力があったことです。全国の市民運動による支援・連帯が強まり、法学者・弁護士による声明が広がり、また元防衛政務次官の箕輪登さんや法学者の奥平康弘さんが法廷で証言したり、この事件が全国的に大きくとりあげられたこと、そしてイラク現地の様子が知られてくる中で自衛隊撤退を求める声が多数派になるなどの政治情勢の大きな変化が背景にありました。憲法二一条を強調した判決を契機に、公安警察の暴走を許さない声をもっと大きくしていく必要があります。

……どうも有り難うございました……

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東京地裁八王子支部刑事3部判決(要旨)

平成16年12月16日

東京地方裁判所八王子支部刑事第三部

裁判長裁判官長谷川憲
裁判官小野寺明
裁判官鈴木わかな

主文
 被告人らはいずれも無罪。


理由
    (前略)
結論
 @ ……被告人らが立川宿舎に立ち入った動機は正当なものといえ、その態様も相当性を逸脱したものとはいえない。結果として生じた居住者及び管理者の法益の侵害も極めて軽微なものに過ぎない。
 さらに、被告人らによるビラの投函自体は、憲法二一条一項の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すものとして、同法二二条一項により保障されると解される営業活動の一類型である商業的宣伝ビラの投函に比して、いわゆる優越的地位が認められている。そして、被告人らの本件ビラ配布と同様の態様でなされた商業的宣伝ビラの投函に伴う立ち入り行為が何ら刑事責任を問われずに放置されていることに照らすと、被告人らの各立ち入り行為につき、従前長きにわたり同種の行為を不問に付してきた経緯がありながら、防衛庁ないし自衛隊又は警察からテント村に対する正式な抗議や警告といった事前連絡なしに、いきなり検挙して刑事責任を問うことは、憲法二一条一項の趣旨に照らして疑問の余地なしとしない。
 以上、諸般の事惰に照らせば、被告人らが立川宿舎に立ち入った行為は、法秩序全体の見地からして、刑事罰に処するに値する程度の違法性があるものとは認められないというべきである。
 Aこの点、検察官は、本件各立ち入り行為が刑事処罰の対象とならないならば、居住者や管理者は、被告人らの立ち入りを受忍しなければならなくなり、また、ビラ投函を隠れ蓑とした不当な目的による立ち入りに対しても排除する手段を持ち得なくなり、かかる結論は不当であると主張する。
 だが、前述のとおり、被告人らが居住者や管理者の反対を押し切ってビラを投函する意図は有していなかったと思料されることからすれば、テント村に対して正式に抗議の申し入れをすることによって、敷地内に立ち入ってビラを投函することを止めさせることは可能であったと考えられる。そのような申し入れによって、居住者や管理者が敷地内への立ち入りを強く拒否していることが明らかになっても、立ち入りを続けた場合、あるいはビラの内容が脅迫的なものになったり、投函の頻度が著しく増える、立ち入りの際に居住者との面会を求めるなど、立ち入りの態様が立川宿舎の正常な管理及びその居住者の日常生活に悪影響をおよぼすようになった場合には、立ち入り行為の違法性が増し、刑事責任を問うべき場合も出てくると思料される。また、不当な目的を秘した立ち入りを排除できないとの点については、必ずしもビラ投函を仮装する場合に限定される問題ではなく、他方、ビラ投函を仮装したものであるか否かは、従前のものも含めた立ち入り行為の態様、立ち入った者が所属している組織の性格等から、ある程度合理的に推認することができると考えられる。
 よって、検察官の主張には理由がない。

 したがって、結局、本件各公訴事実のいずれについても犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人らに対し無罪の言渡しをする。


寄 稿

  「技術論」再論   
北 田 大 吉

 『人民新報』一九九九年十一月五日号より十六回にわたって、拙論「技術革命は社会主義を要求する」が掲載されている。
 今回、ある工業大学大学院の特別講義として「技術論」を講ずることになったのを機に、編集部から技術論の再論を要請された。かねがね技術論については、綜合的な見直しが必要であると考えていたこともあり、この際、編集部のご好意を受けることにした。

一、「東洋の道徳、西洋の芸術」

 幕末までの日本の技術は、主として国産の技術であり、対象領域も農業、製糸・製織業、鉱業にかぎられていた。一部、朝鮮や中国の技術も導入はされており、「和魂漢才」として当時の日本人に好意的に受け容れられていた。
 幕末の佐久間象山は、これをもじって「和魂洋才」をとなえ、欧米の技術を積極的に導入することを主張した。その意味するところは、欧化に反対する向きもあることを考慮して、欧米技術の基礎にあるキリスト教や科学的精神は封建的支配を脅かす恐れがあるから、それは受け容れずに技術だけを受け容れて、日本文明化に大いに利用すべしというところにあった。
 徳川幕藩体制は稲作を中心とする自然経済を基礎にして成り立っていたが、幕末近くにいたると、商品流通はものすごい勢いで発展し、繊維製織から鉱山開発にいたるまでの広義の工業の発達、農業においても養蚕はもとより藍、紅花、菜種など商品作物の栽培が広汎に展開されていた。工業・商業の発達にともない人口の都市への集中もかってない速度で進行していた。このような「資本主義の発展」が封建制を徐々に蝕んでいったのは当然の理であった。
 幕府はもちろん各藩も、主として財政を脅かす商品流通の進展にたいして「改革」の手を打ち、なんとかして「自然経済」を維持するために商品経済の発展を抑えようと躍起となった。寛政・享保・天保の三大改革の目的はそこにあった。しかし藩財政の建て直しのために商品作物の栽培を奨励するなど、改革の目的に反する施策を実施する藩も現われ、幕府や藩の反動的な「改革」も、商品流通の発展を抑えるどころか、かえって「資本主義の発展」に道を開くことになる皮肉な一面もあった。
 とくに一八五三年のペリー来航以来、日本に対する「資本主義の侵攻」はさらに烈しいものとなった。支配階級である武士や公卿のなかには、このような「民族的危機」をまねいたのは開国にあると意識するものが現われ、朝廷や幕府に「攘夷」を迫るようになった。
 「攘夷」は「尊王」と結びつき、それはやがて「討幕」、「倒幕」へと向かった。
 このような情勢のなかで長州、薩摩、水戸、土佐、肥前などの雄藩は、攘夷の実行をめざして大砲や軍艦などの軍事技術を海外から導入し、さらにそれらを自前でつくるために製鉄技術を導入するようになった。インドのセポイの乱、中国の太平天国の乱についての情報が伝わるにつれて、どんな攘夷派の武士でもこと軍事技術に関するかぎり、国産技術ではとても列強に敵対することはできないと考えるにいたった。
 欧米資本主義の日本侵攻にたいして、欧米の近代的軍事技術の採用によって対抗するというのはまことに皮肉な話ではあるが、幕末のインテリゲンチャにとっては、これは笑えぬ話ではあった。

二、戦前の技術論論争について

 明治維新の当初の目的が封建制の維持・強化にあったにせよ、日本社会は急速な資本主義化に向かった。明治政府は、かつての象山と同じく、欧米技術の採用に急であった。目的は「富国強兵」であり、そのための「殖産興業」であった。したがって「東洋の道徳」を云々するよりも、欧米の最新の技術を導入することが先であり、そのためには大急ぎで文明開化をする、場合によっては「耶蘇」であろうが「キリシタン」であろうがどんどん認めるというのが政府の方針であった。
 海外の技術の導入に夢中であった日本において、技術についての科学的反省がはじまったのは、一九三○年代になってからである。イギリスではすでに一八世紀後半に産業革命がはじまったのにたいし、日本では一九〇四年の目露戦争前後になってやっと産業革命が開始された。それから三〇年経って、やっと技術論についての論争がはじまったのである。
 まさに「ミネルバのフクロウは日暮れに飛び立つ」(ヘーゲル)である。しかし、技術論論争の展開に功ありとすれば、それはなんといっても唯研である。
 一九三二年十一月に唯物論研究会が創立された。『唯物論研究』創刊号には長谷川如是閑が「唯物論研究会創立の辞」を寄せ、三枝博音、戸坂潤、岡邦雄、君島慎一(永田広志)ら錚々たる論客が顔をそろえ、狩野享吉を囲んでこれら論客たちが論陣を張るといった豪華絢燗たる装いで会は発足した。
 中村静治著『新版・技術論論争史』によれば、「技術」という語の初出は西周の『百学連環』(一八七○年)だそうであるが、わが国ではじめて技術とは何かを学間的にとりあげたのは、唯物論研究会(唯研と略)に属する戸坂潤、岡邦雄、永田広志、相川春喜らである。
 この論争の発端について、相川は「正当にも、生産力の概念に関するブハーリン=ルービン=デボーリン的な機械論的傾向の清掃のための一論争に切り拓かれた」と述べ、岡もまた「日本においてはじめて技術論をとりあげたのは、一九三二年に創立された唯研に属する人たちであった。彼らがこのテーマをとりあげたのは、史的唯物論において生産力の問題が注意をひいたという事情がその背景となっていた」と述べている。
 最初に問題を提起したのは小高良雄(鈴木安蔵)「唯物史観における生産力の概念について」(『唯物論研究』第二号)であった。これはメドヴェージェフとシルヴィント『史的唯物論』、フィンゲルントとシルヴィント『史的唯物論教程』、河上肇『マルクス主義経済学の基礎理論』、大森義太郎『史的唯物論』における生産力概念についての解釈を批判的に検討したものである。小高は社会的技術について語り、「労働手段がこの労働手段の体系としての社会的技術が生産力の主要原動力となるのは、けっして一切の社会形態、一切の生産関係に妥当する普遍的法則ではない」として、技術を労働手段の体系として捉えている。
 これに続いて君島慎一(永田広志)「生産力の要素としての労働について」(『唯物論研究』第三号)が現われ、この二論文に関連して相川の「生産力とその諸要素について」(『唯物論研究』第三号)が書かれた。
 生産力の内容規定からすすんで《技術そのもの》とは何か、と技術の概念規定をめざしたのは、一九三三年四月の『思想』に発表された戸坂潤「技術について」であり、これに触発されて相川は、わが国における労働手段体系説の嚆矢とされる「技術およびテヒノロギーの概念」(『唯物論研究』第八号)において労働手段体系説をうちだした。
 戸坂は、技術は物質的な存在様式であるとしても、機械は単なる物体にすぎないから、それ自身は技術ではない、機械にたいする技術の関連は機械の社会的性質のなかにある。
 機械および道具は、大工業においてもっとも代表的な労働手段であり、これを「通しておこなわれる労働過程ないし生産過程のうちに社会における客観的な物質的技術が横たわっている」と述べ、技術の本質を社会的なものとしたうえで、これを労働手段の側面から捉え、物質的で客観的な技術は「生産関係の一定の歴史的段階における労働手段の客観的体系に集中されるものであり、これが組織された人間労働力であるプロレタリア階級とならんで物質的生産力の大きな要素をなしている」、それゆえ「技術は、一定の生産関係のもとにあって、すなわち歴史上与えられた一定段階の経済関係の結合のもとに、一般的にいって、上層建築の有力なる決定者の一つであることはいうまでもないことで」したがって「社会の資本主義的構造が成熟すればするほど、技術はますます多く、さまざまな段階の上部構造―イデオロギー―を決定する役割を引き受ける」(全集第一巻)ことになると論じた。
 唯研を中心にこのような技術論争が闘われた背景に、当時の技術の新たな発展―電気エネルギーの高圧送電による全般的な電化、化学工業の躍進による機械的工程の化学的工程による代置、輸送通信技術の進展による市場距離短絡があることは注意されねばならない。

三、技能、技術、テクノロジー

 戸坂の「技術について」に触発されて、相川春喜は「技術およびテヒノロギー」を書いたが、相川はそこで戸坂の客観的技術と主観的技術への分類は、両者を分裂させるもので、結局、抽象的な第三の技術疑念をもってこざるを得ないことになると批判した。
 相川は、戸坂のいう人間的労働力のもついわゆる技能や資格は、労働力が一定の労働手段の体制、すなわち技術を前提してはじめて成立する概念であり、また観念的技術なるものは、これを物質的技術の一つとして主観的技術と区別される理由はない。そもそも技術の「物質的・客観的・現実的契機と観念的・主観的・可能的契機」という一般的区別における技術は、物質的生産過程における技術の基礎過程によって貫徹される。それは主観的構成部分の相対的に大きい物質的存在様式をもつ活動の体制にほかならないと主張した。
 相川は『資本論』の「テヒノロギー(技術学)は自然にたいする人間の能動的な態度をあらわに示しており、人間の生活の、したがってまた、人間の社会的生活関係やそこから生ずる精神的諸観念の直接的生産過程をあらわに示している」という文章を拠り所にして、「技術は一つの歴史的範疇である。社会の生産力の一要素たる技術は、それと一定の歴史的経済的条件から離れて考察してはならぬ」と主張する。マルクスは、テヒノロギーの役割を、人間の自然にたいする働きかけの関係の、したがって、直接的生産過程における、労働手段の体制の、歴史的発展の内的合法則性の研究に当てているといい、「あらゆるタイプのマルクスの機械論的歪曲をもっとも明瞭に粉砕するものは、つねに、ほかならぬマルクス自身命題である」および「労働手段は、労働力の発展の測度器であるばかりでなく、またそのうちで労働がおこなわれる社会関係の表示器でもある」というのがそれだとした(『唯物論研究』第八号)。
 相川はそこからすすんで「生産的労働がなされるためには、その労働過程に必要なすべての要素―対象的(物材的)諸要素すなわち生産手段と、人間的要素すなわち労働力とが、『労働の火』のなかで結合せねばならない」と述べ、それゆえ生産力概念は労働過程の諸要素の統一的総体であり、「具体的な、統一的な把握を前提としてのみ、個々の要素の分析、概念の差別がなされる」のでなければならない。かくて労働手段を考察する場合、一定の歴史的、社会経済的条件における生産過程を前提とし、そこでの労働力による活用から切り離して考えられないのだから、技術概念の規定に当っては、この弁証法的な統一的な把握が格別に重要であると相川は主張し、「われわれはマルクスにしたがって技術を『労働手段の体制』と規定する。」「技術は、生産過程において、人間労働力に対立する対象的ないし客観的要因である。それは、人間の意識するとしないとに関わりない、実在の形態で発展する」(『唯物論研究』第八号)と書く。
 これにたいして戸坂は、相川論文は「マルクス、エンゲルス、レーニンその他の技術に関する見解を一応まとめている」が、「私が使った『観念的技術』という概念」を「『観念論的』な概念にすぎないといって承認しないのである。数学者の頭脳に働く主観的技術も筆紙を必要とするものだし、またそうした『頭脳の感官的機能』自身が物質的実在ではないかというのであるが、しかし同じく主観的な技術(技能)でも、ピアノ演奏という手先の技術と数学者の演算という頭脳の技術を区別することがあそこの間題だったので、私は後者をとくに観念的だと呼んだまでである。相川氏は『観念的』という言葉に何か特別な意味を含ませて、この言葉に拘泥しているらしいが、観念的というのは元来、観念に属するということではないか。それから相川氏は私が『観念的』=『主観的』、『客観的』=『物質的』と決めてしまっているというが、それは多分、部分的な説明を全般に押し広め、受けとったことからくる誤解だろう。私は技術をまず主観的なものと客観的なものとに分ち、前者を観念的なものと物質的なものに分ち、後者を物質ものだけに振り当てた。つまり物質的技術には物質的技術と客観的技術とがあるわけである。で、ここからなぜ『観念的技術』という範疇が『観念論的』な規定になるのかは、私には理解できない」と反論する。
 引用がだいぶ長くなったが、これは一般的な人々は、「技能」をも広く「技術」のなかに含めて理解している向きがあるが、相川は、技能を厳密に技術と区別するのにたいし、戸坂は技能をも広義の技術に含めて解釈し、一般の人々の技術にたいする理解をも救おうとしている。相川は技術は労働手段の体制」であり、労働手段というのは道具とか機械とかを指す言葉であるから客観的なものであり、労働力=人間の能力である技能は主観的なものであるから、厳密にいえば技術には含まれないというのだ。
 のちに取り上げる星野芳郎も批判しているように、相川も戸坂も主観的・客観的という言葉の使用法を誤っている。ドイツ語のSUBJEKTIVには「主観的」という訳語とともに「主体的」という訳語もある。またOBJEKITIVには「客観的」という訳語とともに「客体的」という訳語もあてはまる。問題は、このような場合にどちらの訳語を使ったほうがよいかということであるが、日本語の語感としては、「主観的」とか「客観的」とかには「観」の一字が邪魔をして「意識の内部」における事象と誤解されかねない面をもっている。相川のいう労働手段=技術はもちろん、技能もまた、「意識内の事象」ではない。「労働手段の体制」=技術はあくまでも客体的存在であるが、技能は生きた労働力の内部に存在するという意味で主体的とはいえるが、けっして「意識内部の事象」という意味で主観的ではない。ここにも相川と戸坂の行き違いの一つがある。
 技術と技能は互いに作用しあうことによって、一定の時期の生産力の水準を決定している。性能のよい自動車はもちろん車体の出来も素晴らしいが、同時に、腕のよいドライバーが運転するのでなければその素晴らしい性能も十分に発揮することができない。逆に、運転の腕がどんなに素晴らしいドライバーでもオンボロ車ではやはりその素晴らしい腕を十分に発揮することができない。
 これが自動車ではなくオートメーションの運転の場合でも、同じように当てはまるのではないだろうか。オートメーション工場の場合の運転は自動車の運転とは違うが、それでも低い技能しかもたない労働者と技能の高い労働者の場合では、その相違が現われるのではなかろうか。オートメーションは機械とちがって、人間の器肉の働きばかりではなく、頭脳の働きをも果たしてくれるが、それでも、というよりそれだけに余計、技能のなかでも知能の働きが大いに要求されるであろう。しかし、いかに技能の役割が重要であるからといって、知能や技能を技術のなかに含ませることはナンセンスではなかろうか。したがって、相川春喜のいっているように、この際、技術と技能を明瞭に区別して、狭義の技術を「労働手段の体系」と規定するほうが合理的であると考える。
 技術や技能とならんでテクノロジーも多用される言葉である。テクノロジー(ドイツ語ではテヒノロギー)は技術に関するロゴス、すなわち技術学である。ここまでくると、先の主観的・客観的の用法では手に余る。狭義の技術を労働手段とし、技能を労働力の能力と考えると、テクノロジーはむしろ上部構造に属するものであろう。日本ではこのテクノロジーにたいして技術学のほか、工学、技術理論などという用語も使用されている。技術論の場合には、内容的に考えてむしろ「技術の哲学」とでもいったほうが相応しいかもしれない。

四、社会構成(体)の構造

 これまでとくに説明もなしに、生産力、生産関係、生産手段、労働力、労働手段、上部構造などのテクニカル・タームを使用してきたが、ここらであらためてこれらの用語についての説明が必要かもしれない。これらの用語は、これまで引用してきたかぎりでは、マルクスの『経済学批判』序言のなかで使われている言葉がもとになっている。したがって、ここで整理の意味で、出来るだけ正確に『経済学批判』序言のマルクスの用語を説明しておくことにしよう。以下に『経済学批判』序言におけるマルクスの文章を引用する。
「…私の研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単にいえば次のように定式化することができる。人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諾力の発展諸形態からその桎梏に」変する。そのときに社会革命の時期がはじまる。経済的基礎の変化とともに、巨大な土台構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、それで人間がこの衝突を意識するようになり、これとたたかって決着をつけるところの法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー的諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人が何であるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諾力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。(以下省略)
 大して解説もいらないであろうが、若干コメントをつけるとするなら、社会的意識が社会的存在を決定するのではなく、社会的存在が社会的意識を決定する。一般的にいえば、意識が存在を決定するのではなく、存在が意識を決定するというのが唯物論の基本的な立場である。この際、社会的意識に相当するのは、法律的、政治的制度やイデオロギーであり、これらの上部構造を決定するものが土台と呼ばれているが、それは生産諸関係の総体であり、社会の経済的構造をなしている。ここがいわゆる基本的な階級闘争の場となっている。それにたいして例えば経済学は生産諸関係を対象とする科学であるが、これ自体は土台にではなく上部構造に属している。
 生産力は労働力と労働手段および労働対象とからなるが、マルクスは「物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係」といっているから、生産力が生産関係を規定すると解釈することができる。技術の問題はまさに生産力の間題であるから、技術は生産関係を介して上部構造を規定する。他方、技能は生産力のもう一つの重要な構成要素である労働力(人間)は労働能力(力能、力倆)であるから、技術と同様に生産関係を介して上部構造に作用する。
 以上を図式化していえば、一つの社会構成(体)は経済的構造(土台)と上部構造からなっている。上部構造には、法律的・政治的組織(機関)と社会的意識形態(宗教的・芸術的・哲学的)が含まれる。土台・生産諸関係の総体とも呼ばれる経済的構造には、生産諸関係(社会的・政治的・政治的生活過程)と生産諸力(物質的生活の生産様式)が含まれ、社会的生産過程とも呼ばれている。

五、「技術は労働手段の体系」である

 すでに述べたように、相川春喜は「技術は労働手段の体制である」との問題提起をおこなって、唯研内に大論争を起した。戦後になってから武谷三男、星野芳郎らが、この「労働手段体系」説に猛烈な批判を加えた。
 しかし社会構成(体)についての図式を念頭に浮かべるならば、相川がなぜ技術を労働手段の体系といったのかは理解できないことはない。相川が生産力のなかで物質的かつ客観的な労働手段を個々別々にではなく体系(体制)としてとりあげたのである。相川は技能と技術を区別することによって、技能と技術の生産力における役割を明確にしようとしたのである。技能は確かに生産力を形成する重要な要因であるが、技能自体は生きた労働力が個別に習得するもので、その意味で個人的・特殊的であり、技術のような普遍性をもたない。師匠は弟子に技能を教えることはできず、弟子は経験を通じて師匠からそれを盗むほかはない。それにたいして技術は一定の技能をもつものであれば、誰にでも活用できる普遍性をもっている。
 ところで「労働手段体系」説を批判する星野は、戦後、「相川氏の規定の論拠をめぐって」という論文のなかで以下のように述べている。
 相川の「技術=労働手段の体系」の規定の根拠とされる『資本論』第一巻第十三章の註の八九に「一つのテヒノロギーの批判的歴史でももし書かれていれば、一八世紀のいかなる説明といえども、いかに一人の個人に帰属すること少なきかを総じて証明したであろう。これまでかような労作は存在していない。ダーウィンは自然的テヒノロギーの歴史に、すなわち植物および動物器官が、植物および動物の生活のための生産用具として形成されたことに関心をよせた。社会人間の生産諸器官の、それぞれの特殊な社会組織の物質的基礎のこの形成史は、同様な注意に値しないのであるか? しかもこれを提供することは、より容易ではなかろうか。けだしヴィコの如く、人類史はわれわれの創造したものであり、自然史はそうではないという点で、後者と区別されるのであるから、テヒノロギーは自然にたいする人間の能動的な関係づけ、すなわち彼らの生活の直接的生産過程を、そしてよってまた、彼らの社会的生産関係をも、それから湧き出る精神的諸観念をも露呈せしめるものである。これが相川説の唯一の根拠であると星野はいう。相川は「社会的諸器官というときは明らかに『動物的諸器官』にたいして同じく『生活のための生産用具』である点で、アナロギッシュな用語で自然史的な意味をこめている」とし、したがって生産諸器官=生活のための生産用具=労働手段のテヒノロギーの直接の対象であるとした。相川はさらにテヒノロギーはテヒニーク(技術)を直接に対象とするものであるから、テヒニークは労働手段あるいは労働手段の体系である」という文献的基礎を示した(星野芳郎『技術論ノート』)。
 相川のもともとの論争相手は戸坂であるが、相川にたいする戸坂の鷹揚な応答とは対照的に、岡邦雄の相川批判はかなり厳しいものがある。岡によれば、もともと労働手段の源泉は労働力で、道具が機械に代ったという物質的な基礎の上に、技術的要素が労働力から労働用具に移ったという。「単に労働手段体系とだけではどうしてもその全貌を表示尽くせないものを技術はもっている」(『唯物論研究』第十五号)。「われわれが技術を労働手段の体系と規定するとき、それが労働力を規定し、労働力を技術的要素(便宜上これを技能と呼んでもよい)を与えながら、なおその本源を労働力に有していることを忘れない用意を要する。そこから技術は本来的には単なる対象化された労働としての労働手段の体系たるのみでなく「労働手段に属しつつ、それと労働力とを統一する媒介者である」と規定する。
 中村静治によれば・戸坂と相川・相川説にたいする岡の討論を集約すれば、技術は社会の一定の発展段階における労働手段の体制(系)と規定することではお互いに異論はないという。議論の核は物質的技術のなかに主観的技術と客観的技術があるという戸坂の考え方に現われているように、また技術=労働手段の体系という規定は資本主義社会において成り立つとの岡の主張に示されているように、技術の主体的構成部分を認めないわけにはいかない、どう認めるかというところにあった。いいかえれば、労働力モメント、技術の主体的構成部分の取扱がこの段階における唯研技術論争の核心であったという。(中村静治『新版・技術論論争史』)

六、道具の分化と動力手段として畜力・風水力も活用

 技術が労働手段の体系であるとすれば、労働手段を構成する道具や機械の研究は必要欠くべからざるものである。とくに道具から機械への発展をどう捉えるかは、こんご機械からオートメーションヘの発展を理解する鍵となる重要なポイントである。
 道具の歴史は単一道具から複合道具への発展の歴史である。この発展を研究することは道具の制御の面でも動かす力の節約という面でも重要である。道具の分化、多様化と再結合がすすむにつれて、これに要するエネルギーは一人の手に余るようになってきた。ここにいたってはじめて、動力という純粋に機械的な役割が動物や風水の利用を呼び起こす。
 ロバが運搬用に使用される。動物が加工過程で動力手段として使用されるようになったのは、回転碾臼が大型化してギリシャの商業用のパン製造所でロバが飼われるようになってからである。アテナイのラウリオン鉱山では鉱石の粉砕に動物が利用された。中国でも春秋時代に鉄製農具が使われ、牛に率を引かせる耕作が普及した。また灌概用の揚水車に牛が使用された。
 水車の起源には諸説がある。西アジアないし中央アジアで石臼をまわすためにつくられ、ローマに伝えられたとする説がある。中国では前漢末に西北地方で精穀用に使われ、灌概のための水の汲み上げにも利用された。水力ハンマー、水力フイゴもほぼ同時期に実用にはいった。馬の腹帯式挽具も中央アジアの草原のスキタイ人やアッシリア人によって考案された。
 中国では動力という純粋に機械的な役割を自然力に担わせる技術、すなわち動力手段の開発、利用がかなり速いテンポですすんだ。ギリシャやローマでは、捕虜の奴隷が十分供給されている間は、動力手段の開発・利用は遅れていた。かえって水車や畜力で臼を挽かせることも奴隷に代えられて減ったほどであった。
 牛を使った犂耕や水車製粉はローマ帝国支配下の周辺部ではおこなわれた。奴隷の補給が途絶えがちになった帝国末期になってようやくローマの近くでも牛が使われるようになった。水車がローマ市内に出現したのは、奴隷の供給が途絶えた世紀末のことであった。畜力、風水力の利用が一般化し、生産の中核部にはいりこんだのは、ローマ帝国崩壊後であった。ローマ人はスペインとポルトガルの鉱山に水汲み揚水車を導入し、アルキメデス螺子にもとづく大型の精巧な器具を開発しながら、動力に畜力や水車ではなく、奴隷を使
うことしか考えなかった。
 奴隷の叛乱によってローマ帝国は滅亡し、農具も土地も自前となった。その結果、動力手段としての畜力や風水力の利用が活発になった。十一世紀から十二世紀末までにかけて、少なくとも二頭の牛が必要な重量有輪犂がヨーロッパ各地に普及した。水車は粉臼、灌概用から羅紗の揚き晒し(縮絨)工程にも進出し、鍛冶用の水力ハンマーとフイゴ(十一世紀から十二世紀)、製紙用の木材粉砕機(十三世紀)、旋盤、鉱石粉砕機(十四世紀)が開発された。

七、機械の発展

 一定の機構の中へ単能化した工具が組込まれ、結合したものが工作機である。都市の手工業と農村の家内工業という幅広い土台の上に、「文明化され洗練された搾取の一方法」として新たに出現したマニュファクチュアが跳躍台となった。そこに、土地を追われた農村プロレタリアートや同職組合の親方への道を断たれた放浪職人たちが殺到した。マニュファクチュアの技術的基礎は手工業的道具であった。当初は同業組合の親方の作業場を少し大きくしただけのものであった。やがて分業による協業が導入された。これは資本による意識的、計画的、組織的な形態といえる。製品の市場が拡大するにつれて、マニュファクチュア固有の技術的基礎が形成されるようになった。いまや手工業から継承した道具と、それに基づく技能では十分に対応できなくなった。
 やがてマニュファクチュアの分業も、時の経過とともに伝統を固執していったん出来上がった形態にこだわるようになった。労働生産性の向上はとまった。これは資本の自己増殖を阻止するものであった。これを打破するには、労働手段における革命以外はなかった。
 マニュファクチュアの分業は、それぞれの道具を単能化し多様化することで、この革命を準備した。マニュファクチュアが幅広い生産分野を捉えるようになるにつれて、道具すなわち労働手段そのものを生産するマニュファクチュアが出現した。ここでは簡単な足踏み旋盤も製造されて使用された。切削、穴あけ、仕上げ(研磨)などの作業は、それぞれ熟練度にしたがって等級的に編成された専門工によって遂行された。この過程は、当初は、手工業の熟練工によってはじめられたが、やがて機械がつくりだされ、ついにはマニュファクチュアそのものを止揚して、機械制大工業が成立した。
 人間自身が動力であろうと、畜力や風水力によるものであろうと、動力を対象の加工に適する形の運動に変換すること、制御して伝えることが、作業の内容となった。この変換すなわち制御は、道具の場合には、人間の手と道具が協力しておこなわれた。いわば、労働者が彼自身の熟練と活動をもって、道具に活力を吹き込んだのである。道具を握る労働者の手と目との目的に応じた調整は、人間の感覚器官、神経系、大脳皮質のあいだに形成される網の目のような制御機構によっておこなわれる。この変換が機械の運動、すなわち道具が人間の手から機構に移されると、人間と労働対象との転結がなくなって、労働対象の変形は機械の機構の成果となった。機械がいちど始動するならば、個々の器具の連鎖の環によって動き、作業自体も自動的になった。もはや人間が道具をもって対象に働きかける代わりに、労働者は機械にたいする労働をおこなうだけになった。その労働の主な内容は、機械を始動させ、操縦し、監視するだけになった。手労働のさいに必要とされた制御機能のいくつかは不要になった。これは確かに労働者の体力、エネルギーの一部を労働から解放するものであった。両手、十本の指にかぎられていた作業内容は、それに限定されることがなくなった。機械によって労働者の労働の性格が変わった。作業機の発達は、動力用具の機械化を促進し、まもなくワットの蒸気機関が出現し、動力源も化石燃料である石炭に代った。
 手工業的方法、マニュファクチュア的方法でつくられた機械は、精度と生産速度の面で物理的、また経済的にも限界に突き当たった。当初は所与のものとして存在し、いくつかの改良を加えて存続してきた技術的基礎も、機械生産がある程度まで発達してくると、それ自身の生産様式に相応しい新たな土台を要求するようになった。これを実現したのは、ヘンリー・モーズリのスライド・レスト付旋盤であった。ここでは刃物は工具台に把持され、工具台は送りねじ回転によってベッドに沿って移動する。すなわちモーズリは、刃物の操作を人間の手から機械へ転稼することに成功したのである。これによって、従来は熟練工の独壇場であった精密工作が、短期の修行で役に立つ半熟練工でも十分、間に合うようになった。蒸気機関が普及し支配的な動力手段となったのも、帆船が蒸気船に代ったのも、「モーズリ・アンド・フィールド商会」がランベス工場を建設して、精度の高い鉄製機械を世に送り出した一八一○年以降のことであった。機械自身による機械の生産によって、大工業は自分に相応しい技術的基礎を獲得したのである。
 機械それ自体を機械によって生産するに至ったことは、社会の多くの生産部門を単一の社会的生産過程に融合させ、社会的再生産が円滑に進行するためには不可欠な一連の経済的条件が整えられたということ、すなわち独自に資本主義的生産様式が確立されたことを意味した。
 「工場制度自身の技術的基礎である機械がそれ自身によって生産されるようになれば、また石炭および鉄の生産と金属の加工と運輸が変革されて、大工業に適合した一般的生産条件が確立されれば、そのときこの経営様式は、一つの弾力性を、一つの突発的、飛躍的な拡大能力を獲得し、この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその制限を見出さない」(マルクス『資本論』)
 機械製品の安価と変革された運輸・交通機関とは、外国市場を獲得するための武器となった。資本は民族的な制限と偏見を乗り越え、自然物神化を乗り越え、さらに一定の限界のうちでの自給自足的な枠に閉じ込められてありきたりの仕方で現存の欲望の充足と旧時代の生活の再生産を乗り越えて、後進諸国、諸民族の手工業を破壊して白已の商品市場に変える。他方では、機械はその本性として均質な原料の連続的な供給、したがって直接的な増加を求め、原料生産部門の機械化、装置化をすすめて、一次原料の供給源である農業、漁業、鉱業の大変革を求める。植民地・従属国を自己の原料供給地に変えてしまった。東インドは大工業ブリテンのための綿花、羊毛、大麻、藍等々の生産を強制された。大工業諸国における労働者の不断の「過剰化」は、国外移住と諸外国への植民とを促進し、これら外国は、たとえばオーストラリアが羊毛、マレーシアがゴムの生産地になったように、母国の原料生産地に転化した。
 利潤をめぐる資本の競争は、機械・装置を絶えず改良し、絶えず生産力をたかめるよう強制する。生産のための生産、蓄積のための蓄積が加速する。競争は主としてコスト競争として、商品の低廉化をめざしておこなわれる。「商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。」打ち倒されないための最良・最短の道は、新しい生産方法を開発し、「個々の過程が未だに必要としている人間労働による媒介を減らす」ことである。「機械の生産性は、その機械が人間労働力にとって代る程度によって計られる。」大資本が研究所を設立し、新商品、新生産方法の開発を基礎的な部分から競うようになったのもそのためである。「このようにして生産方法、生産手段は絶えず変革され、革命されて、分業はいちだんとすすんだ分業を、機械の使用はいちだんとすすんだ機械の使用を、大規模作業はいちだんとすすんだ大規模作業を必然的に呼び起こすのである。」
 ブルジョア的生産を軌道の外に投げ出し、資本が労働の生産力を緊張させたという理由で、さらに資本を強制してこの緊張をすすめさせる法則」、この法則こそ、好不況の変動の内部で商品の価格を生産費に一致させようとする法則」である。
 労働の生産性の増大につれて、資本の技術的構成が変化する。可変資本部分は不変資本部分にくらべて相対的にますます小さくなって利潤率が低下する。この障碍を突破するには、新生産方法の導入によって、生産手段の単位価値を低下させることが不可欠である。それによって公害が生まれ環境破壊がすすんだのも、利潤率の低下をどう防ぐかという、この法則にたいする資本の《抵抗》である不変資本部分の増大によるものである。
 資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成された。これは生き残りを賭けた競争における新しい武器となった。信用制度は資本の集中のための巨大な社会的機構に転化した。蓄積の進行は、集中できる個別資本を増加させた。資本主義的生産の増大は、一方では社会的欲望、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的手段を与えた。
 この集中と手を携えてますます大規模になる労働過程の協業的形態、科学の生産への意識的な応用、労働手段の共同的にしか使用できない労働手段への転化、結合した社会的労働の生産手段としての使用による生産手段の節約、世界国民を世界市場の網のなかへの組入れが発展し、したがって世界資本主義体制が成立した。

八、アメリカン・システム

 一八六〇年にはイギリスがまだ世界経済第一の座を占め、フランスとドイツが続いていた。七〇年代になると、アメリカはフランスを追い抜き、八○年代にはイギリスを追い越し、九○年代までに世界最強の資本主義国へと成長した。ドイツは世界の工業生産において、アメリカとイギリスに次いで第三の座を占め、フランスを迫い越し、二○世紀の最初の十年間にイギリスを斥けて世界第二の座を占めるにいたった。ヨーロッパで最も遅れて資本主義の道に足を踏み入れたロシアの工業生産も、この時期に急速に発達し、外国資本と緊密に結びついた独占体の連合を形成した。日本も一九〇〇年後に産業革命を経験した。
 遅れて資本主義の道に踏み出した国々は、イギリスがたどった道、すなわち資本主義発展の歴史を繰り返す必要がなかったから、先進国のすすんだ機械や生産方法を次々と採り入れ、新しい特許の取得・技術者の招聰・熟練労働者の雇用などをおこなった。産業技術をほぼ自生的に展開したイギリスの場合、産業革命といえども一気に産業のすべてを変革するわけではないから、産業の大半はまだ廃棄できないでいる旧式設備によって運営していた。さらに独占の形成と広大かっ富裕で、便利なところにある植民地の保有が、イギリス資本主義の保守性を助長した。ドイツ、ロシア、日本の場合は、借用した技術を古い王朝国家の基礎に直接ぶち込み、技術の創造と発達のなかで生まれた近代民主主義体制のほうは受け継がなかった。このような古い制度的要素を残したまま機械制大工業を直輸入した結果、労働条件の劣悪、不変資本充用上の節約等々によって発展を加速し、短時日にイギリスに追いつき、追い越すことができたのである。
 イギリスの植民地から出発したアメリカは、肥沃で広大な国土と労働力の相対的不足に助けられ、機械を農工業の生産手段だけでなく、「機械でできることは手では何一つやらない」という徹底したやり方で、機械を生活手段としても利用した。その基礎となったのは、部品の互換性を保証する一連の専用機械の連鎖からなるアメリカン・システムと呼ばれる大量生産方式の開発であった。マスケット銃の量産にはじまったこの方式は、自転車、ミシン、時計、タイプライター、レジスター等の金属製品から、既製服、靴、加工食料へと拡大した。この方式が世界的に浸透するようになったのは一八七〇年から一九○○年にかけてのことであった。
 アメリカン・システムの自動車への適用がフォード・システムであった。フォード・システムは、アメリカン・システムの一つの完成形態であった。複雑な機械である自動車は、他の生活手段より高価なものとされてきたが、この自動車をフォード工場の労働者でも容易に買えるほど安くつくるのに成功したことによって、自動車は馬車に代る個人的交通手段として普及し、さらにバス、タクシー、トラックなどの公共交通手段や各種作業車にも応用され、生産手段生産部門と消費手段生産部門の性格を兼ねそなえる自動車工業は、燃料供給部門である石油産業と手を携えて、アメリカ資本主義の発展を牽引していった。一九一三年には、フォードのハイランドパーク工場の組み立てラインにコンベヤーが導入され、乗用車の生産は十八万台に達した。アメリカでは二〇世紀の最初の一○年間に、自動車工業が鉄鋼業の最大の消費者、工作機械の最大の需要者になった。
 アメリカ工業の発展の特徴は、自国の工業の基盤を海外市場においていたイギリス、それを追い上げたドイツ、日本と違って、その基盤が国内市場におかれていたことであった。イギリスエ業は製品の四○%から五○%を外国市場に依存していたのにたいして、アメリカは生産物の一〇%か一二%程度しか外国市場に輸出していなかった。世界市場をめぐる列強、とりわけ新興のドイツと老大国のイギリスとの角逐は激化した。イギリスは大砲と軍艦で勢力圏を守り、自らの優位を保持しようとした。一九一四年には、第一次世界大戦が起り、この戦争の結果、帝国主義的膨張に最も熱心であったロシア王朝が倒れ、ドイツ帝国もまた崩壊した。大戦の勝敗を分けたのは、アメリカの工業力であった。イギリスとアメリカは債権国と債務国の地位を入れ替え、アメリカは世界最大の債権国となり、金融的にもイギリスにとって代わった。 (つづく)


対北朝鮮政策は経済制裁でなく真摯な交渉で

 横田めぐみさんの「遺骨」をめぐって、超党派の拉致救出議員連盟(会長・平沼赳夫前経産相)などにより、北朝鮮への経済制裁の全面的発動を求める声が出ている。北朝鮮側には真相解明をはじめ誠意ある対応を強く求められている。だが、日本側も日朝交渉、六者会談などで着実に問題の解決をはかるべきである。平沼らの主張する全面的な経済制裁発動は問題をいっそう混迷させるものだ。韓国、中国はもとより、アメリカまでもが、経済制裁について日本に慎重な対応を求めている。日朝交渉の定期化など積極的な場の設定とその中での真摯な論議による関係正常化の実現こそが求められている。

  * * * *

「経済制裁」論議に反対する

 ピョンヤンで開かれた先の日朝実務者協議で、拉致問題をめぐる朝鮮側の説明に問題点が多いこと、横田めぐみさんとされた遺骨がDNA鑑定で別人のものとされたことにより、いま朝鮮への「経済制裁」論が一段と高まっている。

 私たちは、朝鮮側に真相解明をはじめ誠意ある対応を強く求めるものである。
だが 同時に、「経済制裁」の主張にも強く反対する。私たちは改悪外為法、特定船舶入港禁止法制定を前に、反対の立場を明らかにしてきたが、あらためてその要点を示しておきたい。

 (1)湾岸戦争以来、イラクのフセイン政権への経済制裁の結果、医薬品の不足などにより罪もない多くの子どもや病弱者が真っ先に犠牲となった。北朝鮮に経済制裁が行われれば、現在の食糧不足とあわせイラクと同様、あるいはそれ以上の事態が生み出される可能性が強い。
 (2)加えて送金の停止にせよ、船舶の入港禁止にせよ、朝鮮植民地支配と強制連行などの結果、日本に定住せざるを得なくなった在日朝鮮人にとっても、親類をはじめ祖国の人々との人的物的な往来そのものに著しい制約をきたすものとなる。これは在日朝鮮人の基本的人権に対する重大な侵害行為である。
 (3)このような制裁は、拉致事件の解決を含む日朝間の関係正常化にとって新たな障害を作る以外の何物でもない。「経済制裁」とは、戦争行為の「一歩手前」というべきものである。一部に、北朝鮮に圧力をさらに強めることが拉致問題、核問題等の解決につながるという議論があるが、これは誤りであり、抜き差しならない事態を引き起こしかねない。核問題も六カ国協議を含めその平和解決のための努力に水をさす以外のなにものでもない。
 そもそも拉致問題について、北朝鮮側が公式に認め、謝罪を行ったのは日朝国交正常化をめざして持たれた日朝首脳会談であった。互いに敵対関係に終止符を打ち、和解と平和、国交正常化と友好関係を築くための交渉の中でこそ、この問題の全面的な解決も求めるべきである。

政治家・言論機関の姿勢を問う

 これらの問題をめぐり、いま政治家と言論機関の姿勢、在り方が問われている。
 拉致被害者の家族たちが、朝鮮側の姿勢に怒り、感情をあらわにしていることは理解できないことではない。だが政治家や言論機関は、歴史的な経過を含め、より客観的な方途を考究すべきである。安倍晋三や西村眞吾等の札付きの極右翼・日本版ネオコンたちと唱和することは、拉致問題の解決を遅らせ日本の偏狭なナショナリズムをさらに助長するものだ。
「拉致事件解決のための経済制裁」などという論理に立つなら、朝鮮側にもかつての膨大な強制連行=拉致の真相解明や被害回復のための「対日制裁」という論理が成立するという想像力がなぜ働かないのだろうか。このように言えば「貧しい国」北朝鮮に何ができるかと冷笑する人が多いだろうが、その互いの論理を取り去った後には、大国主義的な驕りのみが存在するというべきだ。いまだに中山文科相発言のような妄言が後を絶たないのも日本の現実だ。

そもそも断続的にしか開かれない日朝協議に被害者の焦燥感が蓄積されるのは当然ではないか。国交を樹立し大使館が置かれれば、例えば追及するにしろ抗議するにしろ、もっと円滑に進められるのではないか。マスコもこれだけ朝鮮問題が連日のように取り上げられているにも関わらず、ピョンヤンに支局はおろか常駐特派員すらいない現状をどう思っているのだろうか。
 先日、来日した韓国とフィリピンの元日本軍「慰安婦」の方たちと面会した細田官房長官は、彼女たちに詫びたと報じられている。ピョンヤン宣言でも小泉首相は「お詫びと痛切な反省」を語った。だが誠意ある謝罪と償いは一切無視し続けている。
日本人拉致被害者も朝鮮半島の南北にいる被害者も、ともに被害回復・人権回復がなされるべきだ。日本の朝鮮植民地支配から一〇〇年、敗戦から数えても六〇年もの間、一切の歴史の清算すらせずにきていることが、すべての問題の根源だ。 
           
日韓民衆連帯全国ネットワーク


再び「大日本主義」の破滅の道を行くのか  〜 石原莞爾 と 石橋湛山 〜

「大日本主義」は破滅への道

 佐高信は、「石原莞爾か、石橋湛山か。現代の思想状況は、この二人のどちらに与(くみ)するのかというところまで来ている」(『湛山除名 小日本主義の運命』岩波現代文庫)と言う。
 半藤一利は、『戦う石橋湛山』(中公文庫)で言う。
 「その開幕から、昭和二十年八月十五日の無条件まで、よくいわれるように『昭和』は疾風怒涛の時代であった。そして、その巨(おお)いなる歴史の流れの基底に、つねに『見果てぬ夢』の満州があった。南蒙古があった。いわゆる満蒙があったのである。昭和史はこの満蒙問題をめぐって破局へ一気に転げ落ちていった」。
 日露戦争に辛勝した日本は、ロシアの権益を肩代わりして、清国から大きな権益を奪った。その特殊権益は、@関東州(大連市・旅順市を中心とした遼東半島の西南端)租借権(二十五年間)、A南満州鉄道(満鉄=長春〜旅順口間とその支線)経営権、B安奉鉄道(安東〜奉天間)経営権(十五年間)、C鉱山採掘および森林伐採権、D自由往来居住権および商工営業権、E鉄道守備駐屯権(一キロ十五名以内)などだ。
 しかし、この帝国主義・植民地主義的「特殊権益」は、必然的に中国民衆のナショナリズムの高揚、欧米列強との利害の衝突をもたらす。
 この「満蒙問題の解決」のための戦略を立案し強引に実行した中心人物が石原莞爾であった。
 石原は、一九二八年に「満蒙問題解決のための戦争計画大綱」を発表した。
 「一、満蒙問題の解決は日本の活きる唯一の道なり。
 @国内の不安を除く為には対外進出によるを要す。
 A満蒙の価値…満蒙の有する価値は偉大なるも日本人の多くに理解せられるにあらず。満蒙問題を解決し得ば支那本国の排日亦同時に終熄すべし。
 B満蒙問題は正義のため、日本が進んで断行すべきものとす。
 二、満蒙問題解決の鍵は帝国陸軍之を握る。満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することにより始めて完全達成せらる。対支外交即対米外交なり。即ち前記目的を達成するために対米戦争の覚悟を要す。もし真に米国に対する能わずんば速に日本はその全武装を解くを有利とす。
 三、満蒙問題解決方針…対米戦争の準備ならば、直に開戦を賭し、断乎として満蒙の政権を我が手に収む。満蒙の合理的解決により日本の景気は自然に恢復し、失業者また救済せらるべし」。
 その後の事態は、石原ら関東軍による満州占領↓「満州国」建国となった。しかし、それは中国民衆の抗日反日の運動を燃え上がらせ、「満州国」を安定させようとすれば北中国が、そこを安定させようとすれば全中国が、と戦争を拡大させざるをえなくなり、中国に権益を持つ英米など列強との対立を惹起し、石原も予言しているように「対米戦争」もふくめて、ナチス・ドイツをのぞき全世界を敵として戦い、壊滅的な敗北を喫したのであった。
 満州をはじめ他国領土の領有を求める石原などの「大日本主義」路線とまったく違う「小日本主義」を石橋湛山は主張した。
 湛山は、「東洋経済新報」の一九二一年の七月三〇日号から八月二二日号に至る長篇の社説「大日本主義の幻想」を書いた。
 湛山は、ここで「一切の植民地を放棄せよ」と主張している。満州、朝鮮、台湾、樺太を捨て、中国やソ連シベリヤヘの干渉をやめなければならない理由を次のように述べる。
 まず経済・貿易上の問題。
 湛山のあげている詳細な数字は省くが、日本の輸出入でみると、朝鮮、台湾、関東州の三植民地よりアメリカ、インド、イギリスの方が重要であり、三植民地は鉄、石炭、石油、綿花、米、羊毛など原料でも十分な供給地とはなっていない。
 中国およびソ連(シベリア)に対する干渉政策は経済上、非常な不利益を日本にもたらすだけでなく、両国民の日本への反感は、日本の経済的発展を阻害している。そして、中国民族の排日抗日運動は日本人が考えている以上に強いものであり、日本が満州権益を保持する限り、排日運動はやまず拡大する。それは日中間の政治、外交、経済、貿易上の阻害要因となる。満州を含む全植民地は、天然資源や過剰人口の捌け口としては、一般に想定されているだけの価値を持たない。満州領有は軍事支出を増加させて国家財政を悪化させ国民生活を圧迫させる。満州保有は列国、とくにアメリカとの対立を生み、日本の国際的孤立化をもたらし、戦争を拡大させる。植民地の分離独立は不可避の運命にある。よって、満州ばかりでなく、朝鮮、台湾、樺太など全植民地を放棄するほかないのである。湛山は、「朝鮮・台湾・樺太・満州というごとき、わずかばかりの土地を棄つることによりより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない」というのだ。

戦争とジャーナリズム

 半藤一利は『戦う石橋湛山』で、戦前・戦中の日本における戦争とジャーナリズムの関係について書いている。ちなみに半藤は、文藝春秋の編集長・取締役などを歴任したが、反動派ではない。
 敗戦時の海軍大臣だった米内光政海軍大将は、友人あての手紙で書いた。「魔性の歴史は人々の脳裏に幾千となく蜃気楼を現し、時代政治屋に狂態の踊を踊らせ、人々を嶮崖に追いつめる。しかしいつかそれが醒めてくると、誰もが狂踊の場面で幻想したことと、現実の場面で展開されたこととは、まるっきり似もしない別物であることに気づき、『ハテ、コンナ積もりではなかった』と、驚異の目を見張るようになってくる」、と。この引用につづけて半藤は、「昭和十二年の日中戦争から、二十年八月の太平洋戦争終結まで、日本人全体は魔性の歴史のなかを生きていた、といっていい。もちろんジャーナリズムも例外ではない、どころか、先頭に立って狂態の踊りを踊り、鐘や太鼓を鳴らしつづけた」として当時のジャーナリズムの戦争「報道」を批判している。
 しかし、半藤は、満州事変の前年一九三〇年のロンドンの海軍軍縮条約のときのジャーナリズムは少し違っていた、それが変えられていったとも言う。
 第一次世界大戦後、列国は海軍艦艇の優位をめぐる軍拡競争にあった。一九二二年のワシントン軍縮会議、一九二七年のジュネーブ三国会議につづいて、「昭和日本が最初に直面した国際問題」であるロンドン軍縮会議が開かれた。ワシントン会議で日本の主力艦(戦艦、空母)保有は対米英六割となった。しかし海軍内部では、六割では国防が不可能で七割以上が必要だと主張する軍令部を中心とする強硬派の声が大きくなり、対米英協調派の内閣や海軍省側と対立が激化した。その時に出てきたのが「統帥権干犯」問題であった。統帥権干犯問題とは、軍部の強硬派が、明治憲法一一条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と一二条「天皇ハ陸海軍ノ編成及ヒ常備兵額ヲ定ム」を「基礎に」、軍事全体を議会・政府ではなく軍部の専権事項としようとするものであった。この統帥権問題は、満州問題とともに、日本を世界を敵にする大戦争へ導くものとなったのである。だが、このとき、野党の政友会は犬養毅、鳩山一郎などの幹部が一部軍部の主張を支持し、時の民政党の浜口雄幸内閣を攻撃し政局の道具として使ったのであった。
 この時の大新聞の動きについて、半藤は「良識を示した言論会」として、朝日新聞の四月二六日の社説を引いている。「ロンドン軍縮会議について、政友会が、軍令部の帷幄(いあく)上奏の優越を是認し、責任内閣の国防に関する権能と責任を否定せんとするがごときは、……いやしくも政党政治と責任内閣を主張すべき立場にある政党としては、不可解の態度といわなければならぬ。しかもそれが政党政治確立のために軍閥と戦ってきた過去をもつ犬養老と、政友会の将来を指導すべき鳩山君の口よりして聞くにいたっては、その奇怪の念を二重にしなければならない」。
 東京日日新聞(現・毎日新聞)も、五月一日の社説で、軍令部総長は憲法上の機関ではない、それを国務大臣以上の職責があるかのようにして、統帥権干犯を言うのは「途方もない謬論である」とした。そして五月一五日の社説では、「憲政の癌といわれる軍部の不相当なる権限に向かって、真摯なる戦いの開かれんことをわれらは切望する」とまで言い切った。
 また、石橋湛山の「東洋経済新報」五月三一日社説は、「統帥権の要求は議会制度の否認」をのせている。「軍令部が今や声を大にして主張しつつある前記の統帥権なるものは、既に今日の時世においてはゆるすべからざる怪物である。軍事に関して大権を規定した憲法第十一、二条の解釈等については議論するまでもなく、およそ公明なる議会政治の下において、結局は国民の負担たるべき兵力量の決定が、議会と内閣を離れたる軍部の帷幄上奏のごとき冥暗裡の作用によって左右させられることの不当なるはいうまでもない。ことごとに政府の政策に反対しつつある記者も、この点においては絶対に政府の態度を支持したいと思う」。
 このように、ジャーナリズムの一致した応援をうけつつ、ロンドン軍縮条約は、一二月二日に批准されたのであった。
 しかし、軍部の巻き返しが強力に推し進められる。橋本欣五郎中佐、長勇少佐などによって桜会が結成され右翼クーデタの動きが活発化する。一九三〇年一一月一四日には、浜口首相が東京駅で右翼に射たれており、翌年四月一三日に総辞職した。
 一九三一年四月、関東軍参謀部は「満蒙問題解決ノ為ノ戦争計画大綱」を作成し、陸軍中央に意見具申し、それにもとづき陸軍中央は「満蒙問題解決方策大綱」をまとめた。そこでは、重要項目の一つとして「全国民とくに操觚界(そうこかい・ジャーナリズム)に満州の実情を承知させる」があげられている。
 そうしたことも効果をあげて、新聞論調は一変する。
 一九三一年九月一八日、柳条湖事件が起こった。満州事変は、満州全体占領の準備を完了した関東軍の謀略によって引き起こされたことは歴史的な事実として確認されているが、当時の新聞論調は次のようなものであった。
 九月二〇日の朝日新聞朝刊は、「権益擁護は厳粛」として「事件はきわめて簡単明瞭である。暴戻な支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶっ壊しをやったから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動したというまでである。……事件は右のごとくはなはだ簡明であり、従ってその非とその責任が支那側にあることは、少しも疑いの余地がないのである」。
 こうした動向を作家の永井荷風は日記(三二年二月一一日)に次のように書いている。「去秋、満蒙事件世界の問題となりし時、東京朝日新聞杜の報道に関して、先鞭を日々新聞につけられしを憤り、営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹にははなはだ冷淡なる態度を示していたりしところ、陸軍省にては大にこれを悪み、全国在郷軍人に命じて朝日新聞の購読を禁止し、また資本家と相謀り暗に同社の財源をおびやかしたり。これがため同杜は陸軍部内の有力者を星ケ岡の旗亭に招飲して謝罪をなし、出征軍人慰問義捐金として金拾万円を寄附し、翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしという。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり。かつまた陸軍省の行動は正に脅嚇収財の罪を犯すものというべし」
 そして、大新聞は戦火を煽る役割をはたしていく。
 その結果は衆知の通りだが、もう少し、ジャーナリズムの動きを追っておこう。
 一九四〇年五月、内閣は新聞雑誌用紙統制委員会設置を決定、四一年一月、新聞紙等掲載制限令を雑誌にも適用、三月、国防保安法、改正治安維持法の公布があり、そのほかにも国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法、軍機保護法、不穏文章臨時取締法・戦時刑事取締法などで、自由な言論の圧殺が行われた。
 四一年一二月八日の太平洋戦争勃発直後の一二月一二日には、『改造』『中央公論』『日本評論』『文藝春秋』の総合雑誌四誌の編集者を中心とする日本編集者協会が会合し、「決議」を行った。
 《畏くも宣戦の大詔渙発せられたり 洵に皇国の隆替 東亜興廃の一大関頭なり 吾等日本編集者会は謹て聖旨を奉体し 聖戦の本義に徹し 誓って皇国将兵の忠誠勇武に応え 鉄石の意志を以て言論国防体制の完壁を期す 右決議す》
 
 石原莞爾の夢見た道と石橋湛山が流れに抗して断固として主張した道。第二次世界戦争とその結果を見れば、どちらが正しかったかは歴然としている。しかし、いままた、「大日本主義の伝統」を引きずって、アジアに覇を唱えようとしているのが、小泉純一郎(小沢一郎、石原慎太郎)らの動きである。今回は、ナチス・ドイツに替わって、唯一の超大国アメリカに追随することによってだが、そうした戦争政策は多くの国ぐにの人びとを敵に回し、孤立し自滅する道の再来にほかならない。 (MD)


複眼

 
元国家公安委員長がいう「警察国家」化  通報、監視、尋問、連行社会

 「とんでもないポスターが貼ってあるよ」と教えてもらったので、小雨降る冬の昼前、地下鉄外苑前駅の近くの酒屋さんに行ってみた。
 「うん、これだな。ある、ある」と思ってとりあえず写真をカシャッと撮った(写真別掲)。黒い壁の右側に見えるのは酒屋と道を挟んで立ち並ぶ高層マンション群だ。
 驚いたことに「この街は通報する街 見てる街 犯罪は許さないぞ!」と日本語、中国語、ハングル、英語で書いてあり、白い四角の空欄には「赤坂警察署」のゴム印が押してある。各警察署共用なのだろうか。
 添えてある漫画は擬人化された家々の壁に目玉が書いてあり、片方の手は握りこぶし、片方の手で指さしている図だ。「見てる街」はとりわけ大きくゴシック体の赤い字で書いてある。
 この社会が監視社会化しつつあることは本紙で何度も指摘してきた。それは「茶色の朝」現象であるとも言ったし、9・11を口実として「戦争のできる国」を目指した社会の軍事化の一環ではないかと警告もしてきた。戦争の準備とは、合わせて人権などを抑圧し、剥奪することだ。
 街中に監視カメラが備えられ、電車などでは不審物や不審人物の摘発が奨励され、テロに注意の看板が出される。爆発物が隠されるから公園や人の集まる場所からゴミ箱が撤去される。ただの落書きは見逃されるが、政治的な落書きをしたら逮捕。ピザの広告のポスティングは何でもないが、反戦ビラのポスティングは逮捕される。反政府的な行動には逮捕、ガサ入れが連発される。人の集まる場所では探知機などによる身体の捜索が事実上、強制される。警察官のこのところ職質も目立って多くなってきた。
 人びとはそれをやむなく受け入れる。「テロ防止のためには多少の不便も仕方ない」っていうぐあいだ。
 それがいつしか「通報する街」「見てる街」になってしまった。SF映画ではない、現実だ。他人を疑う街、異質を容認しない街、権力に迎合する街。大人たちがそうであるだけでなく、子どもたちにも「他人を信用するな」という観点が繰り返し刷り込まれる。「通報する街」は一見、結束している街に見えるが、その実、互いの不信感でバラバラにされた街になる。
 話は飛ぶが、過日、この街を歩いていて、もと衆議院議員で、国家公安委員長だった白川勝彦(弁護士でもある)を見かけたことがある。「ああ、この人は新潟が選挙区だったが、この辺に住んでいるんだな」と思ったことがある。それ自体は何の関係もない話だが、この白川勝彦が、十一月十一日、自宅の近くの渋谷で遭遇した事件を自分のWebサイトに書いた「忍び寄る警察国家の影」という文章がとても「面白い」のだ。
 小さい活字でもA4版で一〇頁以上になる長い
 文書だからとても要約は難しいのだが、まず中身出しを列挙する。
  ★ ちょっと寒い格好で渋谷に
  ★ 四人組がグルリと取り囲む
  ★ 執拗に身体検査をしようとする
  ★ 「怪しいものがないなら見せなさい」
  ★ 警察か交番か
  ★ タクシーかパトカーか
  ★ 警察官に付き添われて渋谷署へ
  ★ 何とか課長さんの登場
  ★ 副署長さん現る!
  ★ 罰としての長説教
  ★ 自慢話ではないのです
  ★ Due Process Of Lawの精神
  ★ 職務質問の要件
  ★ 職務質問で許されること
  ★ 偶然は二度続けて起きない
  ★ 強い警察の条件
おわかりだろうか。
 くだんの白川氏が風邪で寝込んだ後、風呂にも入らないまま、髪は乱れ、無精ひげの生えた顔で、どうしても銀行に用があったので街に出た。二カ所の銀行に寄って街を歩いていたら、四人の制服警官に突然とり囲まれた。「四人組はズボンのポケットの中のものを見せてくれと言うやいなや、私のズボンのポケットの上を強く触ってくるのです」「彼らが制服を着ていなければ、反射的にこれを突き飛ばすなり、殴り飛ばすなりして身を守ったでしょう。しかし、この自然な行動を私がとれば、彼らが待っていましたとばかり公務執行妨害で私を逮捕することは火を見るより明らかです。私は弁護士である自分に戻っていたのです」
 白川『君たちは何で私のポケットを上から強く触るのだ。何で君たちにポケットのものや財布を見せなければならないのだ』
 警官『怪しいものを持っていないのならば、ズボンの中のものも見せなさい。なぜ、見せられないのですか。見せなさい、財布をだしなさい』
 白川『私は見せる気はない。何で財布まで見せなければならないんだ』
 警官『なぜ見せられないのですか。ますます見なければなりません。体に触るのは許されているのです』
 白川『私は弁護士だ。いま君たちがやっていることは警職法では許されることではない。君たちのやったことは署長に訴えなければならない。君たちの認識番号を書くから、ボールペンを貸してくれ。渋谷署に行こう。風邪を引いているからタクシーで行こう』
 白川『君たちはいつもあんなふうに職務質問するのか。日本という国もおそろしい国になったもんだなぁ。困ったことだ』
 警官『私たちはこの渋谷の治安を守らなければならないのです。拳銃を持っているものもいれば、薬物を持っているものもいるのです。ですから、職務質問して未然に犯罪を防止しなければならないのです』
 このあと、白川氏は警察に付き添われて渋谷署に行く。そして私は国家公安委員長をした白川克彦であること、今日、職務質問をしたことで所長に取り次いでもらいたいと要求する。
 その後、出てきた副署長と先の警官に白川氏は長々と説教する。
 『今日の職務質問で一番問題だったのは、ズボンの中身を見せなさいといって、ズボンの上から強く触ったことである。見せる、見せないはあくまで私の意思でやることであって、これを強制する権限は君たちにはない。怪しいものがないなら、見せても良いじゃないですかと君たちは執拗に言ったが、それは根本が違うのだ。自由主義社会というものは、国家からの自由も出来るだけ保障する社会なんだ』『今日、私が体験したことは私のWebサイトに書くつもりだ』
 副署長『今日のことはこれ限りにして欲しい』
 白川『応ずることは出来ない』
と、まぁこんな経過なのだ。白川は言う。
 「私が受けたような職務質問が公然と許されるようになれば、我が国は早晩警察国家となるでしょう。犯罪は現在より摘発が楽になるでしょう。治安も少しは良くなるでしょう。だが、私たちの人権は確実に侵され、私たちは国家に対して従順に生きていかなければなりません。テロとの戦争ということで、イラク国民を一〇万人も殺したアメリカを公然と支持する小泉首相が率いる国家にどうして私たちは従順に従わなければならないのでしょうか」
 これは白川氏なりの気骨だ。最後に彼が職質について解説しているので参考に抜萃する。
 ★ 職務質問の要件
 A 犯罪を犯し、または犯そうとしているもの。
 B すでに行われた犯罪について、または犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められるもの。
 ★ 職務質問で許されること
 停止させることが出来る、質問することが出来るの二つ。身体を拘束され、又はその意思に反して警察署などに連行され、若しくは答弁を強要されることはない、と警職法に明記されている。また刑事訴訟法で逮捕されているものは身体検査出来るが、それ以外はできない。
 聞くところによれば、この事件は筑紫哲也のニュース23でも取り上げられ、事件も再現されたという。
 実は筆者も数年前、職質を受けたことがある。近くで窃盗事件が起きたという理由からだったが、毅然として拒否し、振り切って帰った。その時はそれで終わりだったが、さて、今だったらどうなったか。
 この事件があった渋谷は新宿と並んで石原慎太郎都知事によって「治安回復」の実施のターゲットにされている街だ。
 白川氏曰く「少なくとも私はそういう社会には住みたくありません。日本をそんな国にしたくないのです」
 同感だ。(T)



謹 賀 新 年
   
おおきく団結してともに前進しましょう  人民新報社一同