人民新報 ・ 第1155 号<統合248(2005年1月15日)
  
                  目次

● 改憲攻撃の波に反撃する体制の強化

● 天皇制の戦争責任

● 日の丸・君が代の強制、教育基本法改悪反対!  「変えよう!強制の教育 学校に自由の風を」

● 「技術論」再論     北田大吉

● 映画 / 隠し剣 鬼の爪

● KODAMA  /  大災害を利用する小泉

● 複眼単眼  / マスメディアの社説に見る敗戦後60年と改憲論




改憲攻撃の波に反撃する体制の強化

【改憲派からの本格的な攻勢の開始】

 二〇〇五年の新年早々から「改憲・護憲」をめぐるたたかいは待ったなしの状況に入る。
 歴代政府の「解釈改憲」という姑息な手法を駆使した政策、立法措置などによって空洞化し、形骸化したといわれた平和憲法の体系は、それでも「戦争のできる国」をめざす勢力にとっては大きな障害であり、憲法の前文・九条は常に改憲派のターゲットにされてきた。
 世界に覇を唱え、日本をその世界戦略に活用しようとする米国からの改憲圧力と、これに同調することでいわゆる国益を確保し、拡大しようとする日本の政財界の主流にとって、九条改憲は長年の強い願望であり、改憲派は好機到来と意気込んでいる。
 平和・民主・人権の現行憲法の三原則は、この憲法において不可分のものであり、一体をなしている。だからこそ平和憲法の危機は民主主義の危機であり、基本的人権の危機に他ならない。
 九〇年代から二十一世紀の初頭にかけての憲法をめぐるたたかいは、改憲派がこの社会において明文改憲のための足場を固めようとしたものだった。戦後五〇年余、自民党などの改憲派は自らの政治が招いた内外の危機を前にして、それを逆手にとり、「戦後政治の総決算」「改革」の旗を掲げて有事法制など究極の解釈改憲を強引にすすめながら、憲法や教育基本法などへの攻撃を強め、労働組合やメディアの右傾化をすすめた。そして「二大政党制」などという幻想を振りまきながら、護憲派政党攻撃をすすめ、一定の成功を収めた。こうした経過の上に、いま改憲派は具体的な改憲攻勢にでようとしている。敗戦後六〇年、これは私たちが初めて直面する新しい事態だ。

【改憲国会化を阻止する課題】

 二〇〇五年一月二一日からはじまる第一六二通常国会はこのままでは「改憲国会」の様相を帯びざるをえない。それを許すのかどうかの鍔ぜり合いが熾烈に行われることになる。
 まず憲法調査会関連では、衆議院憲法調査会の中山太郎会長らは、三月から最終報告書の作成作業に入り、当初予定していた五月三日を前倒しして四月下旬に議長に報告書を提出、本会議でも報告する予定だ。参議院憲法調査会(関谷勝嗣会長)は五〜六月頃に最終報告書をまとめる予定だ。報道によれば中山会長らは「日本国憲法について広範かつ総合的に調査する」との憲法調査会規程を踏み越え、最終報告書に「改憲は必要」との表現を明記する方向を固めている。憲法調査会設置の当初から予想されたことだとはいいながら、こうした動きを容認することはできない。この過程で、改憲派の策動とこれに反対するたたかいが憲法調査会内外で行われるのは不可避だ。
 国会の各政党の動きでは、自民党は昨年十一月に発表した「改憲草案要綱たたき台」が現職自衛官の「憲法草案」を全面的に受け入れて作成されたことなどでの撤回問題を経て、体制を立て直して、改憲草案作りに取り組む。昨年十二月には小泉純一郎総裁を本部長にした新憲法制定推進本部を設置した。同本部に設置された「新憲法起草委員会(森喜朗委員長)」はこの四月には「委員長試案」をまとめる予定だ。そして本年十一月の自民党結党五〇周年に改憲草案を発表する計画になっている。
 民主党は昨年六月に同党の憲法調査会中間報告を発表したのにつづいて、本年三月に「憲法提言」をまとめる予定。〇六年に同党の改憲案を発表するとしている。
 公明党もこの六月に憲法改正についての見解をまとめる予定だ。
 またこの一六二通常国会には改憲のための手続き法関連法案が出されようとしていることも重大だ。自公与党はすでにこの国会に「憲法改正国民投票法案」の提出と、この法案の審議のために衆参憲法調査会に同法案の審議権を付与するという、憲法調査会の「衣替え」のための「国会法改定案」を提出し、最終報告書提出に先立って成立をはかることで合意している。この「衣替え」は憲法改正原案審議権を今すぐこの委員会に付与することに消極的な公明党に配慮したあくまで過渡的措置で、いずれ改憲のための常任委員会(憲法委員会=仮称)に再度衣替えすることが計算されている。
 そもそも憲法調査会を「改組」して国民投票法案を審議する機関にかえようなどというのは、設置の主旨と合わせて考えれば無茶な話であるし、自公が合意した憲法改正国民投票法案は、法案の体を為していないほどのでたらめな党利党略の法案だ。
 与党が合意した国民投票法案骨子によると、@投票は改正発議以降三〇日から九〇日以内に行う、A投票権は国政選挙の投票権保持者に準ずる、B投票方式(一括投票か逐条投票かなど)や投票用紙様式は発議の際に別に定める、C公務員や教育者、及び外国人の運動禁止などなどだが、これらは解説は別の機会に譲るが、投票の行方を左右するほどの重大問題を含んでおり、いづれも改憲派に有利な解釈や設定となっている。
 与党による多数議席を背景にしたこれらの勝手気ままな改憲策動に反対する課題は焦眉の課題となった。

【悪法山積の通常国会】

 自民党は選挙などをにらんで党の独自性を強調した改憲草案を準備する一方で、改憲の発議には三分の二以上の議席が必要なことから、小泉首相らは「自民党のみならず、野党第一党の案も参考に、お互いに協力しながら、良い憲法をつくることができればいい」として、民主党との連携を模索している。民主党も当面は次の総選挙での政権奪取が最大課題で、ただちに自民党との協議・合作に入る体制にはない。
 政府与党や改憲派は、このため明文改憲の実現までの時間的な幅を埋めようとして、当面必要なさまざまな悪法の制定の準備をしつつある。そしてこれらの反動的な立法措置が、「北朝鮮経済制裁」の合唱の異様な雰囲気をつくりだしながら、正当化され、すすめられようとしている。

 自公与党が細部の表現では最終合意には至っていないとはいえ、「教育基本法の改悪」は一六二国会で予断を許さない状況にある。また公明党内に慎重論があるが、自公両党は「防衛庁設置法案」をこの国会に出すことで合意したと言われる。米国式の「緊急事態管理庁」を置くかどうかでは自民と民主にまだ意見の違いがあるとはいえ、この国会に「緊急事態法制」が出される可能性も濃厚で、法案の必要性では自・民両党の合意済みだ。イラク派兵との関連で経済同友会なども要求する「派兵恒久法」案の提出も模索されている。また昨年末に閣議決定された新防衛大綱との関連で、自衛隊の海外での活動を「雑則」に規定する付随的任務から「本来任務」に「格上げする」こと、陸海空自衛隊の統合運用のための組織改編、および二〇〇七年に予定されているミサイル防衛(MD)システム配備との関連で、自衛隊に判断の権限を付与するためなどを目的にした「自衛隊法改定」なども検討されている。
 これらのいずれも九条を軸とする平和憲法体系を骨抜きにし、この国をより戦争遂行可能な国とするための法案だ。
 与党が絶対多数で、野党第一党の民主党も改憲を唱えるという国会の力関係を見れば、これらの悪法と改憲の企てを阻止するためには国会内の運動だけでは不可能だ。世論を強め、中間派の動揺をつくりだすためにも、院外の多様な大衆運動の強化が不可欠だ。新年、この運動の帰趨が情勢を左右する。


天皇制の戦争責任

 一二月二三日、文京区民センターで、<「皇室スキャンダル」と戦死者の追悼 「天皇誕生日」に天皇制の戦争責任を考える12・23集会」(主催・第Y期反天皇制運動連絡会)が開かれた。この集会に対しては、右翼が街宣車を連ねていやがらせをつづけたが、そうした妨害をはねのけて集会がはじまった。
 問題提起は、大津健一さん(クリスチャンアカデミー)と海妻径子さん(ジェンダー研究)。
 大津さんは「追悼と慰霊」をテーマに、戦争国家への道を進む中で、靖国神社や新しい戦没者慰霊施設の問題について問題提起を行い、新たな英霊をつくらない平和な国、平和憲法の改悪を阻止するよう訴えた。
 海妻さんは、「再編される男性性と天皇制」と題して報告。皇太子の発言は、家のオキテに従属することを求められる妻と、その<理解者><助力者>としての夫という姿」をうちだしたが、これは「最も典型的な近代的なロマンチック・ラブの枠組みであると同時に、家父長制の支柱としての異性愛を遂行することで不可避的に女性が抱え込まざるを得ない解決不能の問題でもある。戦争の形態は、かつての総力戦体制からポスト湾岸戦争型の日常化された戦時体制ということになり、生活保守主義というかたちで日常に埋め込まれた徴用・徴兵システムとしての家族モデルが活用されようとしている。
 まとめの発言は太田昌国さん(民族問題研究)。ソ連「社会主義」が崩壊して世界は単一の市場原理で動くようになった。グローバリゼーションは全球化で国境の壁が低くなり、その中で国家のアイデンティティ問題が出てきて、支配階級も危機感を強めている。それで国家であれば軍隊もつのは当たり前という風潮が強められ、戦争の出来る国づくりで国民保護法制も出ている。軍隊をもつのかもたないのか。われわれのイメージする国家なき社会は遠い未来のことだが、国家でありながら軍隊をもたない選択肢を過渡的にではあれ考える必要がある。
 その後、天皇制の自然消滅の可能性もあるのではないかなどの意見がだされ、討論が続いた。


日の丸・君が代の強制、教育基本法改悪反対!

      「変えよう!強制の教育 学校に自由の風を」


 一月一〇日、日比谷公会堂で、石原都政と都委による日の丸・君が代の強制とそれに従わない者への不当な処分などに反対して、「変えよう!強制の教育 学校に自由の風を」大集会が開かれ、千九百人が参加した。主催は「学校に自由の風を!ネットワーク」などによる実行委員会で、労働組合などの多くの団体と個人が賛同した。

 主催者の経過報告につづいて、リレートークでは、学校と警察(長澤彰弁護士)、私立にも及んでいる強制(私立学校教師)、朝鮮学校の教育権(師岡康子弁護士)、特別支援教育の問題(肢体不自由養護学校保護者)、教育改革の名の下で・品川の教育(保護者)、定時制高校の問題(定時制を守る連絡会)の報告、また都立高校卒業生、都立高校二年生もいまの教育現場の状況について思いを語った。
 教育ジャーナリストの青木悦さんは「これ以上子どもたちを追い込きないで」と題して講演した。
 私は六〇歳になるが、憲法とともに生きてきたと言える。父は海軍の軍人で、私は殴られ蹴られの経験をし、自信をすっかりなくしてしまった。ところが学校に入って、殴らない大人たちもいるのだと知った。だから学校に行くのが楽しくてならなかった。戦争が終わってすぐの学校、先生たちは懐かしい。ところが今、教育が大きく変わろうとしている。そうなってしまうのは、子どもがいないとかで無関心な人、無責任な人、そしてこうした動きを支持する人たちがいるからだ。無責任、無関心な人については省略して、支持する人について話したい。そこには大人たちの漠然とした不安がある。ある人は高校生の息子が休みの日になると家でゴロゴロしてばかりいる、なんとかキビキビと動けないものだろうかということから、奉仕活動などが魅力的に見えてくる。コンビニに座り込んでたむろしている若者を見て、軍隊にでも入れて鍛えたほうがいいと言う人がいる。PTAの役員で会社でバリバリ働いている人などは、ニートの存在なんて我慢できない、と言う。こうした我慢できない大人の心の中にあるものが、教育基本法の改悪を支持している。しかし、子どもたちは機械、ロボットではない。子どもたちには子どもたちの生き方があり、すぐに大人の価値観を押しつけるのはどうだろうか。一二月の新聞に、OECDの各国学力調査が載っていたが、それによると、日本の子どもたちは国語の読解力と数学の応用で学力が低下している。これで文部科学省は多いに慌てた。しかし、これまで考える暇のない受験勉強の体制を押しつけてこういう結果になっているのに、授業時間を長くしたりで対応しようとしている。親もそうだ。「あなたのためなのよ」「あなたのことを信じている」などの言葉が多いが、これは大人が安心したいための押しつけのひとつだ。教育基本法の改悪は、いっそう強制をますことになる。私たちは、子どもたちを絶対にお国になどに手渡しません、そういう気持ちで一緒に考えていきましょう。
 つづいて「学校現場から」と題しての朗読劇。
 休憩の後、トランペツト演奏や戦争当時の映像が上映される中、元軍曹の証言が朗読され、在日歌手の李政美(イヂョンミ)さんの歌。そして寸劇「危ない学校」。これは扶桑社版「新しい歴史教科奮」を使って、このようなもので教育がおこなわれればどんなことになってしまうかを皮肉り批判したものだ。
 高橋哲哉さん(東大教授)は「いまこそ教育に自由を」と題して話した。
 現在、戦後、憲法や教育基本法で保障されてきた民主的価値、平和的価値が脅かされている。平和教育が広島や沖縄でも出来なくなってきている。とくに東京ではひどい。ジェンダーフリー・男女混合名簿への攻撃、朝鮮学校への差別、市場原理・競争原理による教育の機会均等が失われている。こうしたさまざまな攻撃の最たるものが自由への攻撃だ。教育基本法は、「教育は不当な支配に屈することなく」ということを明記している。しかし、自公の教育基本法改悪案では「教育行政は不当な……」となり、行政が好き勝手に教育を支配するというまったく正反対のものにしようとしている。埼玉県では新しい教科書の中心人物が教育委員になった。戦後社会の平和的民主的価値は憲法や教育基本法がつくってきたが、今また戦前の教育勅語をバイブルとするような地金が出てきている。都の教職員が日の丸・君が代の強制に反対して闘っているが、この闘いはきわめて重要だ。ひとつの話を紹介したい。明治の学制がはじまったころの一八八一年一月九日、東京・本郷の第一高等中学校で、教育勅語の奉読に対して敬礼が押しつけられたが、キリスト者の内村鑑三は礼拝を拒み、猛烈な攻撃をうけた。内村はこのことについてアメリカの友人にあてた手紙の中で、政治的自由、信教の自由の大事さを強調していた。
 参加団体からのアピールがあり、最後に「自由の風ネットワーク」から地域ごとの交流会、都立高校のOBなどのつながりをつくろう、などの行動が提起された。


義務教育費国庫負担制度の行方

「小さな政府」を目指す三位一体改革


 年末、二〇〇五年度予算の政府原案が確定した。予算編成過程で大きくクローズアップされたのが、「三位一体改革」、とりわけ義務教育費国庫負担金(以下「義教金」と略)の扱いであった。
 「三位一体改革」とは、国の補助金・負担金、税源移譲、地方交付税のあり方を包括的に見直すもので、二〇〇二年六月、「骨太の方針―第二弾」に盛り込まれた。「地方分権」を枕詞にしているが、膨大な金額に膨れ上がった国・地方の財政赤字を「小さな政府」の観点で整理しようというものである。
 「小さな政府」とは、典型的にはアメリカのように、国は民生部門への関与を抑え、専ら軍事外交を担うというものであり、対外的には「大きな政府」として乗り出していくことと矛盾しない。
 小沢一郎の「普通の国」、憲法九条改悪策動ともつながるグローバリズム下の新自由主義政策の一環である。

義務教育費国庫負担制度とは

 現在、義務教育諸学校(小、中、盲、ろう、養護学校)の教職員の人件費は半額が国庫負担、半額が都道府県負担になっている。高校の教職員や小中学校等の現業職員は設置者である自治体の負担である。一八七二年学制発布以来、教育費は学校設置者である市町村の負担とされ、多大な負担に耐え切れないことから、一九一八年、公的小学校の教員給与の一部を国が援助する市町村義務教育費国庫負担法ができ、一九四〇年には、小学校教員給与の二分の一を国庫負担する義務教育費国庫負担法が制定された。戦後、シャウプ勧告によって国庫負担制度が廃止され、交付金制度に移行したが、教員給与の遅配・欠配が相次ぐという事態となり、一九五三年、義務教育費国庫負担法(新法)が制定された。それは義務教育費無償の原則に則り、「国民のすべてに対しその妥当な規模と内容とを保障するため」、全国すべての学校に必要な教職員を確保し、都道府県間における教職員の配置基準や給与水準の不均衡をなくし、教育の機会均等と教育水準の維持向上を図ることを目的としている。義教金とはこの法律に基づき国が地方に配分する負担金を指す。この制度が、今、大きく見直されようとしている。

二〇〇四年の経過

 〇四年六月、「骨太の方針−二〇〇四」を閣議決定し、その中で〇四年秋に〇六年度までの三位一体改革の全体像を明らかにする、国庫補助・負担金三兆円削減、税源移譲三兆円を目指す、補助負担金削減案とりまとめを地方公共団体に要請する、とした。八月、全国知事会を中心とする地方六団体が、中学校教職員分人件費八五〇〇億円を含む補助金・負担金削減案(義教金については将来全廃を謳っている)を政府に提出。国と地方の間での協議、経済財政諮問会議等を踏まえて、一一月二六日、政府・与党合意が成立した。その内容は義教金については、〇五・〇六年度で各四二五〇億円を削減、「税源移譲予定特例交付金」で暫定的に措置する、しかし、義教金制度そのものについては、〇五年秋までに中央教育審議会で「結論を得る」、と全くの先送りにされた。

前哨としての「学校事務・栄養職員」問題

 義教金をめぐっては、長らく「学校事務職員・栄養職員」の国庫負担適用除外の問題があった。中曽根臨調・行革路線の下、八四年、翌八五年度予算編成に当たって、大蔵省(当時)が「教壇に立たない職員の人件費まで国がみることはない」として提起したのが発端であった。以来二〇年間に亘って、教組、独立組合は毎年「学校事務・栄養職員」の国庫負担外し阻止の運動に少なからぬエネルギーを割いてきた。地方への負担の付回しを警戒する自治体の反発もあり、毎年多くの地方議会で請願・陳情が採択され国に意見書が送られるなどして、大蔵省の意図はずっと阻まれてきた。
 八四年の大蔵省の提起は、現在とは比較にならないが、当時の財政赤字累積を背景としていた。八五年度予算では生活保護費・児童福祉・老人福祉・障害者福祉等の高率補助金の国の負担率が切り下げられた。義教金についても、事務・栄養職員の国庫負担には手がつけられなかったものの、「旅費」「教材費」が外された。以降、「公務災害補償基金」「共済費」「退職手当」「児童手当」が次々に外され、痩せ衰えてきた。そして、今回は残された義教金全体が俎上に上せられることになったわけである。

問題の背景−新自由主義的教育「改革」


 ことここに至った背景には何があるのか。一つには国・地方の財政破綻がそれ程に深刻な段階に至っていることがある。バブル崩壊後の景気浮揚策として公共事業に国・地方の財政資金を湯水の如く注ぎこんだ結果、いわゆる先進国の中では例外的な巨額の財政赤字を積み上げてきた。しかし、何故、財政再建策のターゲットに義教金が擬されるのか。
 補助金・負担金削減案作成を押し付けられた地方六団体が、財務省の抵抗(建設国債でまかなっている公共事業費については、削減しても税源移譲に応じない)の前に、肝腎の公共事業費を対象とすることを避け、三兆円を達成する数字合わせに、総額二.五兆円の義教金に着目した、という事情がある。しかし、より根本的には新自由主義的な教育政策があるだろう。
 〇三年三月の中教審答申は、「愛国心」盛り込み等の教育基本法改悪の提言が注目を浴びた。その陰に隠れた感があるが、併せて提起している「教育振興基本計画」も劣らず重要である。それは「我が国が国家戦略として人材教育立国、科学技術創造立国を目指すために」「教育投資の質の向上を図り、投資効果を高める」「重点化によって教育投資の効率化に努める」と謳っている。より率直にこれを言い換えれば、「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝子情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」(江崎玲於奈・教育改革国民会議座長)、「できん者はできんままで結構。戦後五〇年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」(三浦朱門・元文化庁長官)ということになる。
 さらにこの背景には、財界の労働戦略があるだろう。九五年日経連がまとめた研究プロジェクト報告「新時代の『日本的経営』」は、リストラ・マニュアルとして活用された。
 それは、労働者を@長期蓄積能力活用型グループ、A高度専門能力活用型グループ、B雇用柔軟型グループに分け、その効率的な組み合わせによる人事戦略を採るべきとしている。これによって非正規雇用労働者の激増、「勝ち組」「負け組」への二極分化が進んだのであるが、教育においてもこれを促進する「改革」が進められてきた。「ゆとりある教育」、学校選択性、「特色ある学校づくり」、教職員への成績主義・能力主義導入、「不適格教員」排除、民活導入等々。

義教金問題をめぐるねじれ


 義教金制度が焦点化する中で様々な議論が顕在化した。
 「神の国」発言の森前首相ら教育基本法改悪の急先鋒である自民党文教族・文科省中心に「国家の礎」としての教育を守れキャンペーンが張られた。かの石原都知事も全国知事会では数少ない義教金堅持論を唱えた。これに挑発されるように、国家の教育統制手段としての義教金制度を廃止し、地方への権限委譲を求める声があがった。例えば、新藤宗幸氏は義教金堅持を主張するのは「敵に塩を送るものだ」と断じた。一部には義教金堅持を主張する者は「守旧派」の烙印を捺されかねない雰囲気すらある。
 義教金制度自体は、公共事業のように「箇所付け」等で中央官僚が地方を支配する性格のものではない。標準定数法で定められて配置される教職員の人件費をもとに配分するのだから、それ自体はニュートラルな制度である。「日の丸・君が代」強制に象徴される教育への理不尽な国の介入は、教育基本法第一〇条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。 二 教育行政はこの自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」を大きく逸脱したものである。この逸脱を可能にしているのは、自民党単独政権から保守連立政権へと連なる政治構造であり、さらに言えば、教育をめぐる彼我の力関係に他ならない。
 石原都政下で荒れ狂う傍若無人な処分行政―急先鋒になっているのは民主党都議―は、都民の断固とした闘いによって覆すしかない。その力がなければ、各地で同様な事態が繰り返されるだろう(すでに他県でも東京に倣う動きがある)。国の教育統制についても同様である。
 義教金が廃止されれば、財政事情による自治体間の義務教育水準の格差を生むことになるのは必至である。多くの子どもたちがまともな教育から排除されることになる。折から日本の子どもたちの学力低下を示す国際テスト結果が話題になった。文科省はまたぞろ猫の目行政を繰り返し、疲弊した学校現場をさらに混乱させるだろう。今こそ、教育基本法改悪反対の闘いとも結び付けて、広汎な私たちの側の教育改革の運動が求められているのではないか。 (佐山 新) 


寄 稿

   
「技術論」再論     北 田 大 吉

九、オートメーションヘの道

 機械からオートメーション、エレクトロニクスヘの跳躍台をどこにおくかは議論の分かれるところである。真空管と組立回路を信頼できる機械装置に仕立てたのは、第一次世界大戦である。無線電信は、偵察機のための送受信用として実用化された。アメリカでラジオの定常放送がはじまったのは、一九二○年のことであった。二○年代には、アメリカでは、生産過程の電化とともに、消費生活の電化、モーター化が普及した。自動車、ラジオ、冷蔵庫、厨房器をはじめとする機械化された生活手段の大量生産である。標準原価計算制度、予算統制制度など管理計算制度は、生活過程ばかりでなく原材料、製品の流通過程にまで拡大した。これは市場の一部を内部化することを意味した。神の《見えざる手》に導かれて決定されてきた価格も、経営者の《ビジブル・ハンド》にとって代わられた。膨大な超過利潤が生まれ、「黄金の二〇年代」という言葉が囁かれた。M・ドッブは「こうしたことが五○年代のオートメーションヘの飛躍台になった」と述べた。無限の大量消費を前提とした大量生産という「使い捨て文化」がアメリカ中を闊歩した。しかし一九二九年には驚天動地の大恐慌が到来した。三〇年代の長い停滞を経て、第二次世界大戦中にアメリカで大発展した大量生産技術としてのユニットマン、トランスファマシンと通信技術とが、ウィーナーのサイバネティックス理論と結合してオートメーションが出現した。サイバネティックスは、この戦争における実践的経験から生まれた。敵を避けて飛ぶ飛行機を高射砲で追跡し、撃墜できるような大砲の自動制御機構を完成したのである。ここから電磁リレー式計算機(一九四四年)、まもなく真空管式計算機が開発された。原子爆弾もこれらの技術と密接な関係をもっている。
 第二次世界大戦は、広島、長崎への原爆投下で事実上終わった。まもなくアメリカの核独占は破られ、ソ連が水爆を開発した。一九五七年にはスプートニクが打ち上げられ、米ソの軍拡競争は新しい段階を迎えた。軍需関連の研究開発が活発になった。電子計算機は、バッジ・システムとして利用範囲を拡大した。核ミサイルや軍事衛星の電子回路の超小型化の要求によって、トランジスター、IC、LSI、超LSIへの飛躍がおこなわれた。IC回路の基盤材料として開発されたのが、プラスティックではエポキシ樹脂、セラミックスでは高純度アルミナであった。前者にガラス繊維を織りこんだものが繊維強化プラスティック、後者がファイン・セラミックスのはじまりであった。ここから電子計算機は超小型のマイコンとなって市場に現われた。軍事技術のスピン・オフとして、バッジ・システムはデータの収集、加工処理を目的に転写、複写、計算、仕訳といった事務労働の多い銀行などで採用された。やがて生産現場とマーケットを直接つないで、市場の効果をただちに工場にフィードバックする生産管理システムとして展開された。マイコンは交通分野を含むあらゆる生産機器に組込まれ、簡単な製品や部品の生産分野には「無人工場」が出現した。
 たとえばFMS(柔軟生産体系あるいは電算機援用統合生産システム Flexible Manufactering System)と呼ばれる自動搬送装置付群制御システムの場合、複数のNC工作機械が自動工作物の搬送装置と有機的に連結され、電子計算機によって制御される。工場全体がコントロール・センターで監視、制御され、トラブルが生じたときだけ現場にいけばよい仕組みとなっている。機械の傍らから姿を消した労働者に代って現われたのが、システムの設計労働やプログラミングの作業に従事する労働者である。これらの労働者、労働手段、工場ともども、マルクスが一九世紀中葉に『資本論』で分析したものと同列に論ずることはできない。
 フィードバック機構=マイコンを組みこんだオートメーションとマルクスの時代の機械、自動機械が質的に異なるのは、機械の場合、労働者は自分の目で機械を監視し、自分の手で機械の誤りを正さなければならないのにたいして、オートメーションではそれらすべてをコンピュータが代行する。手と目を働かせる必要がなくなれば、直接、頭を使う必要もなくなる。集中制御室でコンピュータが表示する生産過程を全体として監視していればよい。研究者たちによって「マルクスのオートメーション規定」とされる『経済学批判要綱』の「労働はもはや生産過程に内包されたものとしては現れないで、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関係」するようになる。
 「修正された自然(労働手段↓機械)を客体(労働対象)と自己との間の中間項として挿入するものはもはや労働者ではなくて、むしろ労働者は、彼が産業過程に変転させた自然過程(FMF Flexible Manufactering Factory)を、かれが自分の制御下においている非有機的自然と自己との間の仲介物として捩じこむのである。労働者は生産過程の主作用因ではなくなって、生産過程の傍ら(集中制御室)にたち現われる。」これは現代の自動制御機構を組みこんだ労働手段としてのコンピュータ、コンピュータ制御の「無人工場」を射程に収めている。
 「この自動装置(工場)は多数の機械的器官(自動機械)と理知的器官(労働者)とから成り立っており、労働者自身は単にこの自動装置(工場)の意識をもった手足として規定されているにすぎない。また労働手段が直接的労働手段としての資本の生産過程にとり容れられる形態は、資本それ自身によって措定され、又それに照応した形態(自動機械体系)に止揚されている。機械は個々の労働手段としての関連ではけっして現われない。機械の種差とは、労働手段(道具)の場合のように、けっして客体(対象)への労働者の活動を媒介することではないのであって、むしろこの労働者の活動が機械の作業、原材料への機械の作用を媒介する―監視し、機械の故障を防止する―にとどまるというふうに、その活動は措定されている。」
 人間の手と目の働きが一台一台について残されている機械とその工場についてのもので、それに続く―石炭、石油等を消費する―に照らせば、蒸気機関をも対象にいれた考察といえる。その後には「自然は機関車、鉄道、電信、ミュール精紡機などをつくりださない。それらは人間の手によって創造された人類の頭脳の器官、対象化された知力である」と続く。『経済学批判要綱』の「自動工場」をそのままコンピュータ制御の「無人工場」とし、そこから機械とオートメーションの違いを単なる量的なものに押し留めて自動機械=オートメーションとして扱うのは無理である。自動機械体系=オートメーションと規定する論者たちは、『経済学批判要綱』の機械装置に関する記述を検討すれば、『資本論』で規定されている「機械」、したがってそこで分析されている機械による生産、自動工場にほかならないことに気づくはずである。現代のフィードバック機構をもった労働手段としてのオートメーションは、『資本論』における「機械」の規定からはみでている。一九世紀中葉の代表的な「自動工場」である紡績工場、まして当時の機械製造工場の作業システムとNC工作機やロボットがほぼ《無人》で生産をおこなっている現代のFMSあるいはFMSとの間に質的差異を認めないわけにはいかない。しかし当時の機械もいまのオートメーションも資本主義体制下においては、固定資本として利潤獲得の手段として開発、導入されたものであることには変わりがない。 

一〇、オートメーションをめぐる理論問題

 原子炉にせよ、ジェット機にせよ、自動制御なしには成立しない労働手段であり、電子計算機、人工衛星になると、単に手による制御に代ったというだけでなく、それが人間の頭脳の一部を代行することによって達成されているといわざるを得ない。
 これにたいして産業革命の起点となった機械は、蒸気機関にみられるように、筋肉の運動を機械におき換えるか、初期の紡績機や紡織機の場合のように、反復的な手の運動の熟練を機械に移しとり、おき替えることから成り立っていた。この根本原理に沿って、すべての機械が細かい部分について改良を重ねる過程が二百年続いて到達したのが電子計測装置と電子計算機の利用によって、生産を人間の制御する機械よりもはるかに迅速に精密にするオートメーション化である。要するに、機械の操作が人間の頭脳から解放され、その機械の一部に組み込まれた機構によってなされるようになったのであるから、ここに道具から機械への進化に比肩される生産技術の変化がはじまったということになる。
 エレクトロニクス技術は予想を越えるテンポで発展し、労働様式はもとより生活様式をも変えているというのに、なお、機械とオートメーションの質的差異を認めようととしない保守的見解がマルクスの名において蒸し返されている。
 「オートメーションが機械の機能において、従来の機械に比べて著しく進歩していることは明白である。機械としての労働手段の特質は、自然科学の意識的応用によって労働者の経験的熟練を機構におき替える点にある。機械とは労働者に代って道具の運動を制御する機構である。この規定を受け容れるかぎり、人間固有のフィードバック機能が自然科学(サイバネティックス、電子工学等)の応用によって自動制御機構におき換えられるとしても、それは機械の独自な発展段階を通して捉えられるべきであろう」(名和隆雄)。
 道具から機械への飛躍は「自然科学の意識的応用」によったものではない。産業革命以前においては、科学と技術とは直接的つながりはなかった。機械は経験から得られた自然の法則」性を利用してつくりだされた。経験的な改良の積み重ねによって、道具は人間の手を離れ一つの機械の道具となった。そこで人間は、この道具を組み込んだ機構を運転し操作した。これが機械であり、機械(にたいする)労働の特質である。一定の段階にいたって、自然科学の成果の意識的な応用がはじまった。資本が科学者や技術者に研究費をだしたり、企業の研究所に雇いいれて、積極的に新技術の開発をおこなうことが一般的になったのは、独占資本の段階においてであった。第一次世界大戦時に科学者・技術者が軍事技術に動員されて、オートメーションヘの飛躍がはじまった。このさい「機械」が現われても「道具」がなくなったわけではなく、「労働者に代って道具の運動を制御する機構」となったことが質的飛躍の内容であった。「オートメーション」となっても「機械」が消えたわけでも無用になったわけでもない。労働手段としての特質は「人間固有のフィードバック機能」=「自動制御機能」をもっているため、機械労働が不要になるというにすぎない。
 道具も機械も労働手段であり、広く道具といっても、機構・構造の高度・複雑化になって独自の発展段階が区画される。かくて機械もオートメーションも、それぞれ労働手段の独白の発展段階と捉えてしかるべきである。制御機構における新方式の実現、そこに労働の生産力=人間の制御能力の飛躍的発展が盛られるときが、経済的時代転換の時期というのがマルクスの観点であった。
 マルクスは「作業機とは以前に労働者が類似の道具でおこなっていたのと同じ作業を自分の道具でおこなう一つの機構である」と規定した後、いかなる変革がみられるかを具体的に示している。
 「人間の作業のために同時に使用できる労働用具の数は、彼に自然的な生産用具、すなわち彼自身の肉体の器官の数によってかぎられている。」作業機は「一人の労働者の使う手工業道具をせまくかぎっている有機的限界からはじめて解放」する。「たとえば、紡ぎ車の場合には、紡錘を操作して糸をひいたり撚ったりする手は、本来の紡績作業をおこなうである。まさに手工業用具のこの部分をこそ、産業革命はまず第一に捉えるのであって…」とマルクスは述べる。
 要するに、道具(作業)機が解放したのは道具を手にする労働、そこに生まれついている手の熟練、指のしなやかな操作、そこには「自分の目で機械を監視し、自分の手で機械の誤りを正すという」新たな労働」が加わる。機械自体をつくる労働の場合など、専用機による量産方式が導入されないかぎり、加工の段取りや方法、手順を考えるのも、工具の選択、機械の回転速度を決めるのも作業者自身であり、機械が彼の監督でなく、機械に活力を吹き込むための新たな技術が必要になる。
 オートメーションは「新たに加わった」機械労働特有の操作、調整、監視活動とともに頭脳労働の一部または大部分をなくする。端的にいえば、人間労働のうち論理的機能の大方を労働手段が受けもつのである。
 人間と他の動物の違いは二足歩行、手と足の分離である。手による自然への働きかけ、すなわち道具の製作である。人間は手で道具を握って生活資料を獲得する。機械になって道具は手から離れたが、機械自体の操作、調整には手の働きが必要である。オートメーションは、この機械労働に不可欠な調整、監視の活動をなくした。ということは、人間労働特有の論理的機能の一部または大方を人間がつくった物体が代行するということである。その結果、オートメーション化のすすんだ工場の生産過程では、かつては「主要部類」とされた機械について働く労働者の姿は消え、代って「工場労働者の範囲にははいらないでただ工場労働者に混じっているだけ」であった「技師や機械工や指物工」が全体の準備作業や保守、管理の仕事をおこなっている。
 労働手段としてのオートメーション、たとえばロボットやNC工作機械の場合、以前に労働者が機械にたいしておこなっていたと同じ作業を自己の機構でおこなう。すなわち、原動機、作業機、伝導機構という三要素に、第四の要素として記憶、選択、計算、情報処理などの機能をもつ電子制御機構が加わり、自ら運動と原料の不正常を検知し、自己修正をおこなう。したがって機械の段階では、どれほど自動化が進んでも、多かれ少なかれ必要とした運転、監視、調整などの労働は、原則として不要になる。磁気テープ、半導体メモリーなどの電気的信号として蓄えられた情報は、現実に存在する物に直結して、人間が介入することなく働きかける。ロボットを動かすための情報は、人間の手を経由する必要がない。それゆえ電子制御機構をもった作業労働手段に材料の搬送、挿入のロボットが加わり、それらすべてが体系的に結合されて一台のコンピュータで制御されると、保守、修理等の労働を除いて、生産過程においては直接的労働は皆無となる。FMSあるいはFMFにおいて新たに出現しているのが、集中制御室における監視・制御労働と、システム設計やプログラミングなどの仕事に従事するソフトウェア労働者である。この労働は、機械労働では十分であった読み、書き、算盤ではこなしきれない。最低限、中級程度の数学と外国語の解読能力がなければ、世界の水準に伍していくことはできない。 (つづく)


映 画

    隠し剣 鬼の爪


       山田洋次監督 藤沢周平原作  松竹京都映画株式会社  2004年  2時間11分


 「隠し剣 鬼の爪」は山田洋次が「たそがれ清兵衛」につづいて藤沢周平の時代劇を映画化した第二作目である。
 前作とほぼ同様に、ところは幕末の奥州・庄内の小藩(架空の海坂藩)、主人公は藩の三〇石取りの下級武士で剣術の達人、片桐宗蔵(長瀬正敏)。
 片桐の同門の友人で剣の達人の狭間弥市郎(小沢征悦)は江戸藩邸詰めとして江戸に出て、改革派として活動し、やがて捕らえられて唐丸篭で藩に連れ戻され、投獄・幽閉される。脱獄して、人質をとり、立て籠もった狭間にたいし藩の上層部は片桐を討手に差し向ける。家老堀将監(緒形拳)ら藩の上層部の腐敗に怒りを持ちつつも、「藩命」として狭間に対する片桐。果たし合いの前に師から授けられた秘技で勝負は片桐が勝つが、その傷を負った狭間の生命を断ったのは藩が差し向けた兵士の銃弾であった。
 心の葛藤の中で、片桐は師伝来の「隠し剣 鬼の爪」を用いて家老堀の暗殺に成功。片桐は家禄を捨て、新天地を求めて蝦夷地に向かう決心をする。
 これを話の筋にして、映画は彩色される。
すぐれた剣術と頭脳をもち政争のなかで激しく生きようとする狭間と、老母と聡明で働き者の「女中」きえ(松たか子)、妹(田畑智子)とその夫で友人の島田左門(吉岡秀隆)などと共に静かに、貧しくとも平和で幸せな日々を生き続けようとする片桐との対称を描く。あるいは古来の剣術と押し寄せる西洋文明の中で藩でも組織化され始めた洋式砲術との間で右往左往する侍たちを描く。
 そして、商家に嫁いで不遇な日々を送り病に伏せたきえを、力ずくで救出する片桐の、普段は滅多に見せない、燃える情熱が描かれる。
 救出し、元のように家にいれたものの、町や同僚の口さがない噂に、片桐はきえを実家に帰さざるを得なくなった。
 武士の生活に嫌気がさし、諸悪を代表する家老を討ち、蝦夷地に旅立とうとする片桐が最後に訪れたのは、きえの住む村だった。
 「おれと一緒に蝦夷にいってくれねえか。初めて会った時から好きだった」と伝える片桐に答えを失い、やがて、きえはいう。
 「それは旦那さんのご命令でがんすか、ご命令だば仕方ありましね」と。もちろん、これは「命令」のゆえではない。「女中」、元商家の嫁、百姓の娘であるきえが、いま武士階級を捨てようとする片桐の求婚に、封建の鎖を断ち切って、主体をもって答えようとする精一杯の表現である。
 そういえば、この作品には「命令」が各所に出てくる。藩の不当な「命令」で狭間を討たされた片桐。片桐の「命令」で実家に帰ったきえ。身分、命令などさまざまな封建的な縛りの中で、もがき苦しみながら生きていく若者たちが描かれている。
 これは見終えてさわやかさが残る映画であった。
 しかし、山田の前作「たそがれ清兵衛」ほどに心に残るものはなかった。確かに立ち回りも面白いし、片桐ときえの恋もよく描けている。だがそれだけだ。山田は娯楽性を求めすぎたのではないか。これが山田なのだよと言ってしまえばそれまでではあるが。
 この幕末という、「時代」を描くには絶好の時代設定で、ある種の共通性を持つ「現代」に、若者たちの生き方を描いて、若者たちに何を語ろうとするのか。その思想性の分厚さがない、あるいは表現が足りないという評は正当ではないのだろうか。
 私は寅さんモノはあれはあれで好きだったが、もとより寅さんの世界は藤沢周平の世界とは大きく異なっている。だから、この山田の藤沢作品シリーズはよくも悪くも寅さんシリーズのようであって欲しくないと思うのだが。 (S)


KODAMA

     
大災害を利用する小泉

 昨年末のスマトラ沖地震・インド洋津波による被害者は二〇万人をこえると言われている。この大災害は、自然と人間についての反省など歴史的な思想の転回をもたらすかもしれない。
 犠牲者に対し心から哀悼するとともに、国際社会からの積極的な復旧・支援の動きがなされなければならない。しかし、この災害への支援の実態は、犠牲者・被災者のためという口実で大国の政治的な野望を実現しようとする思惑が渦巻いている。とくに、日本の小泉政権は、この大災害を「好機」ととらえ、自衛隊の大規模な派遣と、この事実を基礎に、海外での活動を自衛隊の本来任務に加えようとしている。自衛隊のイラク派兵、その期間延長の時と同様に、国民や国会への説明ぬきのどさくさまぎれに、まさに火事場泥棒さながらに姑息に強行しようとしているのだ。
 日本政府は、すでに五億ドルの緊急無償支援を発表している。スイス・ジュネーブで被災国への支援策を協議する閣僚級会合が一月一一日に閉幕した。国連は緊急支援要請の九億七七〇〇万ドルを求めていたが、18カ国・地域が拠出を表明し、その総額は合計七億一七〇〇万ドル(国連の要請の七三%)に達した。日本は二億五〇〇〇万ドルを月内に国連に拠出すると約束した。五億ドルのあと半分の残り二億五〇〇〇万ドルはインドネシア、スリランカ、モルディブに二国間方式で無償資金を供与する。
 ジュネーブ会合での日本の拠出額は、国連要請額全体の四分の一。その後に、イギリスの七四〇〇万ドル、ドイツの六八〇〇万ドル、ノルウェーの六五〇〇万ドル、米国の三五〇〇万ドルなどとなっている。しかし、オーストラリア、ドイツなどは二国間支援などを含めた支援総額で日本を上回る。それらの国は、今後の中長期的な復興支援を重点としているからで、その結果、緊急無償支援では日本の拠出額が突出したものとなった。
 また、国連機関の国際防災戦略(ISDR)はインド洋地域の津波早期警戒メカニズム構築が必要であり、その経費を八〇〇万ドルと言っているが、これにも日本政府は資金協力の方針を表明した。
 だが、こうした動きは純粋の人道支援というわけではない。日本経済新聞の「インド洋大津波 支援と現実」(一月一二日)は「巨額の思惑 『常任委』への駆け引き」で、大口支援上位国は「いずれも国連安全保障理事会の新常任理事国の座をうかがう」と書いた。今回被災した東南アジア諸国連合(ASEAN)は支持拡大の「大票田」だ。そして、「支援に貢献強調の思惑が絡んで当然だ」という日本外務省幹部の言葉を引いている。 (MD)


複眼単眼

      
マスメディアの社説に見る敗戦後60年と改憲論

 日本帝国主義の敗戦から六〇年、この新年の各紙の社説の多くが、このいわば『還暦』=六〇年の節目を迎えた新しい年をいかに捉え、向き合うかについて論じ、いくつかは明確に改憲を論じたのが特徴だ。それにしても各メディアの論説の座標軸はそれぞれごとにさらに大きく右に移行した感がある。
 「読売新聞」は元旦社説で「『脱戦後』国家戦略を構築せよ」と題して、平和憲法と戦後民主主義の思考様式の払拭を主張し、四日の社説では「新憲法へ大きく踏み出すときだ」と題して新年を改憲への跳躍台とすることを呼びかけた。その内容は「行き過ぎた『個の尊重』をあらため、新たな公共性、共同体の再構築」「権利と義務のバランス、とくに国防の義務」「核心としての九条改正」をあげている。
 「産経新聞」は元旦社説で「保守に求められる創造的挑戦」と題して、「悪しき戦後の克服」とその延長上にある「戦後の終焉の最終的ゴールとしての改憲(および教育基本法改正)」を主張した。そしてこの実現の波乱要因として「内なる敵、保守政権に内在する腐敗や汚職」の危険を指摘した。この指摘はかつてのファシズムの到来前夜を思い起こせば不気味ではある。同紙の四日の社説は「憲法改正」と題して「北への守りを固める時だ、自衛隊活用に不備はないか」とのタイトルを付けた。そして弾道ミサイルの脅しに「たじろぐことなく、北(朝鮮)への備えを固めなくてはなるまい」として改憲を主張、この道をたじろぎつつ歩んでいる公明党の姿勢を「きわめて遺憾である」と批判し、一方で「自民、民主両党の現実的な歩み寄りに日本の未来がかかっている」と断じた。
 これにたいして「毎日新聞」元旦社説は「戦後六〇年を考える」と題して「もっとたのしく政治をしよう」というタイトルを付け、「結果だけでなく過程をともに楽しみ、責任も共有する新しい六〇年」なる呼びかけをしているが、なんとも論旨不鮮明だ。ああでもないがこうでもないという議論が、こうした激動期にどのような役割を果たすのかは、歴史の証明するところではないか。
 「朝日新聞」は元旦社説に「アジアに夢を追い求め」と題した。そしてかつての「大東亜共栄圏」構想を批判しながら「東アジア共同体」構想の夢を追うことを説いている。
 しかし、社説は右派二紙にくらべ、戦後六〇年に対する自らの見解の表明が全く欠けている。いまこれが問われているときにユートピア一般を語ることが、どのような役割を果たすのか。毎日紙と同様の危惧を感じる。いや、危惧ではなく、危険だと断定すべきかもしれない。
 このようなメディア状況の中で「東京新聞」の「この国にふさわしい道」と題した元旦社説が光っている。社説は冒頭から「敗戦から六〇年。見回すときな臭さが漂い、この国の行き先に不安を感じます。武力によらない新しい国際秩序への努力は出来ないか。新年の模索です」と書き、「敗戦の反省はどこへ」として、この反省から「いまの憲法が生まれ、米国の圧力にもかかわらず、半世紀以上も改正しないことで、自分のものにしたのです」「この場合、六〇年間も戦争を仕掛けず参加せず、武器を輸出せず、核兵器をつくらず持たないできたこの国のあり方は、国際的にも大きな説得力を持っています」と指摘している。そして現実の世界を例にとりつつ「武力を使わない平和と安定の実現は決して絵空事ではありません」と説く。東京紙がこうした立場を堅持することをねがう。
 新年のテレビインタビューで俳優の吉永小百合は自らの年齢とかさね合わせて「私はずっと『戦後』を意識して生きてきた。これからもずっと『戦後』であってほしい」と発言していた。彼女の発言はこれらの問題に対する凛とした意思表示だった。歴史の逆流が強まれば、それに毅然として抗する人びともまた現れる。
 いま『戦後』を生きた者たちすべてが、その己の歴史の評価を問われているのだ。 (T)