人民新報 ・ 第1176・7号<統合269・70(2005年8月25日)
  
                  目次

● 構造改革・戦争・改憲の小泉政治に打撃を

● 郵政民営化法案を否決!

● 2005ピースサイクル

    平和のメッセンジャー信濃路を走る  < 2005長野ピースサイクル  >

    平和のおもい携えヒロシマへ  < 2005大阪ピースサイクル >

    伊方原発3号機でのプルサーマル計画の撤回を求める < 四国ピースサイクル >

    日本原ルート < ピースサイクルおかやま >

● 60年目のヒロシマから

● 靖国と天皇制を問う集会とデモ

● 総選挙での改憲反対勢力の前進で小泉内閣を打倒しよう  /  島村隆史

● 有明講演会での発言

● 国労大会(8・29 〜30)にむけて  鉄建公団訴訟を軸に闘いの前進を

● 謀略とクーデタに命脈を賭けた明治新政府 @   /  北田大吉

● 8・15日韓市民・民衆の共同宣言「東北アジアの平和な未来の実現のために」

● 映評  /  「アリラン 2003」

● せ ん り ゅ う

● 複眼単眼  /  歴史をとらえる視点 そして憲法




構造改革・戦争・改憲の小泉政治に打撃を

 八月八日、参院本会議で小泉政権が「構造改革の本丸」と位置付ける郵政民営化法案は、自民党執行部の衆院解散・総選挙の脅しにもかかわらず一部自民党議員の造反により大差で否決された。
 小泉政権と郵政民営化の推進を要求してきた勢力は大きな衝撃を受けた。日本財界とアメリカ政府・資本、その要求を受ける小泉は、この事態に対して、造反自民党議員へ圧迫を加え、反対票を投じた議員に対抗して「有名人」擁立などなりふリ構わない行動に出て、総選挙に勝利し、そうして郵政民営化法案を成立させようとしている。
 それだけではない。小泉は、自党内からの大量の反乱の発生という「危機」的事態を逆手にとって、みずからの独裁的権力を強め、さまざまな反動的な施策を強行できる政治状況をつくりだそうというバクチに出てきた。
 小泉は「自民党をぶっ壊す」と言って大衆的な支持を集めてきた。いま、小泉は、壊すのは「旧い自民党」で、今回のことで「新しい自民党」をつくると言っている。旧来型の自民党には、ハト派とタカ派がいたが、ハトがいなくなって久しい。また自民党は、地域・各層の利益を代弁し、派閥のバランスをとって、長期政権を実現した。ひとつの派閥・政策が破綻すれば、別の派閥・政策がでるという仕組みだった。だが、小泉はこうしたシステムを壊し、独裁的な権力を握り、ポスト小泉では安部晋三のような連中が発言力を拡大する「新しい自民党」をつくろうとしているのである。
 一方、民主党は、当初、小泉の郵政民営化選挙を回避する戦術を立てたが、この党も、財界とアメリカの支持を得るため、自民党と郵政民営化を競う政策を出した。いま日本の政治選択は、自民党、民主党といういわゆる二大政党のどちらかを選ぶということではない。民主党には旧社会党の流れもないではないが、同時に軍国主義・強権主義的な集団が存在している。自民党、民主党はいずれも、結局のところ、大ブルジョアジーの利益を代表するものである。
 小泉政権は、日本をきわめて危機的な状況に追い込んだ。アメリカ・ブッシュ政権の不当不法なイラク侵略戦争に参戦し、イラク・中東の人びとと敵対的な関係に入らせた。靖国神社参拝、領土問題などをはじめとして中国などアジア諸国と緊張を激化させ、有事体制づくりによって民主的な権利の制限し、「構造改革」による大衆への痛みの強要、少子高齢化・人口減などが、いずれも小泉政治の結果だ。どれをとっても重大な問題である。今回の総選挙では、それらが争点として問われなければならない。
 しかし、マスコミなどの報道は、目先の事象だけを追うものとなっているし、体制翼賛的な論調を強めている。社民党や共産党などは、大政党に有利な選挙制度と二大政党論が蔓延させられるなかで厳しい戦いを強いられている。
 だが、歴代自民党内閣がつくりだし、小泉がそれを極端化させ日本をめぐる内外情勢は、きわめて不安定なものだ。九月一一日の投票日までに何がおこるかわからない。
 郵政民営化・構造改革と戦争・軍事大国化、憲法の改悪は一体のものである。 この総選挙で、われわれは憲法改悪、戦争国家づくりの政治反動に反対し、イラクからの自衛隊の撤退、構造改革・民営化、福祉・年金破壊、大増税などに反対する勢力を支持して闘わなければならない。その中で、反動攻勢に闘いぬける社会主義政治勢力の拡大・前進のために奮闘しなければならない。
 小泉の構造改革・戦争・改憲の政治を拒否しよう。


郵政民営化法案を否決!

 八月八日の参院本会議で郵政民営化法案は、賛成一〇八、反対一二五の大差で否決された。与野党の議席差から自民党の一八人が反対すれば法案は否決ということで、民営化反対派は国会・議員工作を強めてきた。実際には、自民党から二二人が反対にまわり、八人が欠席・棄権した。小泉政権が命運をかけるといってきた郵政民営化法案は否決されたのである。
 構造改革・民営化路線が、多くの人びと、とりわけ「社会的弱者」である地方・過疎地、高齢者などにいかに酷い結果をもたらすかは、国鉄の分割・民営化での赤字ローカル線廃止によって地域が崩壊したこと、JR西日本の儲け優先・安全性無視の福知山線事故が明らかにしているが、郵政民営化では各地からの反対は一段と強く、そうした声を背景に郵政民営化法案否決という勝利は勝ち取られた。

 郵政民営化法案阻止のため、郵政労働者ユニオンは六月以来、衆院段階、参院段階を通じて、全力で闘いぬいた。郵政ユニオンと民営化監視市民ネットワークは国会行動として、座り込み、議員への要請、審議会・本会議の傍聴などの波状的な行動を展開した。また東京や大阪、京都、広島などでは民営化反対集会が開かれ、また地方公聴会などへの闘いが取り組まれた。郵政労働者ユニオンの闘いには、全労協の多くの労働者たちや市民運動が積極的に合流・支援した。
 八月八日は午後一時から、郵政労働者ユニオンをはじめ労働者、市民が参議院前に結集。となりには郵産労、全労連の部隊も座り込んでいる。
 参院での投票状況がラジオを通じて流される。そして、大差での否決の報は伝わると「やったぁ」と大きなどよめきと歓声が上がった。
 座り込みは郵政民営化法案否決勝利集会に切り替えられた。
 郵政労働者ユニオンの松岡幹雄書記長が「民営化法案を完全に阻止し、われわれは勝利した」と発言し、社民党の福島瑞穂党首(参議院議員)、社民党の近藤正道参議院議員、ATTACジャパンの秋本陽子さん、許すな!憲法改悪・市民連絡会の高田健さん、全労協の藤崎良三議長があいさつをおこなった。 
 最後に郵政労働者ユニオンの棣棠浄副委員長が、今後の郵政民営化を完全に阻止するために闘いを全国各地に広げていこう、社会を変えることにつなげていこう、と述べた。
 郵政民営化法案は否決されたが、小泉は解散・総選挙を強行し、再度の法案上程・可決を狙っている。今国会での郵政民営化法案阻止の闘いとその勝利を基礎に、小泉構造改革・郵政民営化完全粉砕のための闘争体制をいっそう固めよう。

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郵政民営化法案否決、衆議院解散にあたっての郵政ユニオン中央本部声明

  《声明》 歴史的な勝利をうけ、郵政民営化阻止の総仕上げの闘いへ

 八月八日、参議院本会議で郵政民営化法案は、賛成一〇八票、反対一二五票の一七票差という大差で否決された。
 我々郵政労働者ユニオンは全国統一してわずか一年だが、この間、組織の総力を挙げて郵政民営化法案を廃案へ追い込む闘いを展開してきた。今回の勝利をまず郵政ユニオンの全国の仲間や支援を頂いた全労協や各市民団体共闘関係の仲間の皆さんと共に喜びを分かち合いたい。

 七・五衆議院採決に続いて今回参議院で小泉内閣は歴史的な敗北を喫した。小泉「改革」路線は完全に否定され小泉政治の終わりの始まりが刻印された。今回の大差での勝利は、大義なき郵政民営化に対する広範な人びとの怒りの声が反映されたものである。とりわけ、四年間の新自由主義改革路線のもと国民生活を苦しめる弱いものいじめの小泉政治に対する厳しい批判の反映に他ならない。
 この勝利は、米国からの理不尽な郵政民営化要求を日本国民が拒否したという勝利にとどまらず、今日全世界で米国式グローバリゼーションに苦しめられる多くの貧しい国々や人びとへの大きな励ましになる勝利である。

 しかし、小泉首相は、あろうことか憲法の精神を踏みにじり二院制を否定し、否決もしていない衆議院を解散するという暴挙を行ってきた。あくまで郵政民営化に固執する小泉首相の今回の衆議院解散こそ独裁的な強権政治の現れのさいたるものである。
 我々は、郵政民営化阻止の総仕上げになる次なる闘いへ歩を進めなければならない。

 郵政ユニオンは、この間、郵政民営化法案に反対するとともに郵政公社が進める実質的な民営化路線に対しても厳しく批判してきた。
 我々は、荒廃した職場を労働者の連帯によって公共性をとりもどし、公共労働を再構築する連帯運動を力強く取り組んでいくものである。
 今回の勝利は、郵政公共サービスを市民と社会の手へとりもどすその一里塚を築いた。郵政ユニオンは、市民・利用者のための真の郵政改革をめざしさらに闘いを強化していく。


2005ピースサイクル

  平和のメッセンジャー信濃路を走る  < 2005長野ピースサイクル  >


長野ピースサイクルは七月一〇日および七月三〇日から八月一日までの計四日間、長野県内と新潟県を自転車で走って、二〇〇五ピースサイクル(一五周年)の実走を終了した。
 七月一〇日には佐久市役所を視覚障害のある学生と小学生を含む九名で出発し、小諸市、東御市、上田市、千曲市を経て松代大本営跡まで約八〇`bを走った。松代大本営跡では大学生や高校生による現地説明(高校生たちが観光客などに説明するための練習も兼ねた)を受けた。参加者全員が「本土決戦」などというもののために掘られた巨大な地下壕のなかで、そのために強制連行され犠牲になった朝鮮人をはじめとする多くの人々の苦しみに思いをはせ、反戦の決意を新たにした。
 この日はさらに、地下壕のそばにある「もう一つの歴史館まつしろ」(松代にあった軍慰安所を保存するもので建設準備中だが、展示あり)も見学し、一日の行程を終えた。
 二週間後の七月三〇日は、早朝から松本市にある県の森公園に二〇名が集合し、東京から参加した視覚障害者の女性もタンデム車(二人乗りの自転車)で出発した。この日は松本地域で反戦活動をしている市民も激励にかけつけてくれ、「住みにくい世の中になっているが平和のために共に頑張りましょう」との連帯のあいさつを受けた。
 国道一九号線を北に向かうこのルートは、交通量は多いがサイクリングは比較的快適で、みんな順調に進んだ。途中雷雨に見舞われたが、運良く休憩時間の延長でやり過ごすことが出来て、参加者全員が心地よい疲れと共に無事に千曲市に到着した。
 交流会ではイラク戦争の状況を伝えるビデオや昨年の長野ピースサイクルの様子をまとめたビデオを鑑賞したり、参加者全員の平和への思いや、翌日の実走(すごい坂が待っているのだ)への決意を語ったりしながら夜遅くまで盛り上がった。
 七月三一日はまたも快晴。途中では、恒例になった長野ソフトエネルギー資料室(脱原発の運動を進めている)でスイカ・トマト・冷たい飲み物をもっての大歓迎を受け、ピースメッセージと連帯の挨拶もいただいてみんな元気百倍。気温は容赦なく上がり、アスファルトからの照り返しも熱いなかを進む。
 途中ではドイツから日本に来ている青年も合流して、いよいよ長野ピースサイクル名物の坂道がはじまった。長い坂をゆっくりと上って全員が無事に昼食。ここでも国労OBの方々が例年通りに歓迎してくれ、午後の急な坂を上るみんなをしっかりと激励してくれた。
 午後からは登坂車線の続く坂道を励まし合いながら、歯を食いしばって登る。ここは苦しい分だけ、終わった後がすがすがしい長野ピースサイクルのコースの目玉のひとつである。夕方には予定通り全員(二〇名)が長野県境の目的地、信濃町に到着した。ちなみに信濃町は町会議員全員が九条の会に参加している町でもある。
 ここで実走を終えて帰路につく人も多かったが、一〇名ほどが残り新たな参加者を加えてキャンプ開始。キャンプ場の経営者の方も協力的で、バーベキュウと昔なからのお釜で炊いたおいしいご飯に舌鼓を打ちながら、この夜も盛り上がった。
 八月一日、朝食はキャンプの続きで、おいしい釜揚げうどんや冷やしうどんに歓声をあげながらわいわいと、「今頃大阪ピースも出発したかな」などの話題もひとしきり。後かたづけをして、好天の中を新潟県境を越えて上越市へ向かう。信濃町からはほとんどが下りのため、時にはスピードが時速四〇`bを超すこともある。危険をさけるためにブレーキが欠かせないが、気持ちがよい走りである。ただし、両腕はやたらとしんどくなる。これも結構つらい長野ピースサイクルの場面ではある。約半日走って上越市に到着。今年はピースサイクル新潟と合流するために、海を見ずに上越市内を走る。久々に会った新潟の仲間達とお互いに再会を喜び合い、能生町まで走る新潟の仲間達にバトンタッチして、長野ピースサイクルの今年の実走を終了した。
 ピースメッセージは最終的に長野県内二七自治体からの分を含めて一五〇通を超え、参加者は三〇名となり、さまざまな思い出となる話題、平和のための闘いへの決意をお互いに確認することを共有出来るピースサイクルとなった。
 長野ピースサイクル実行委員会は、八月中の一連の反戦行動に積極的にかかわりつつ、報告集の作成を準備しながら、秋のピースサイクルを計画、憲法改悪阻止の行動を強化していくことにしている。 (T・O)

平和のおもい携えヒロシマへ  < 2005大阪ピースサイクル >

 大阪ピースサイクルは、七月三一日、大阪市役所前で京都ピースサイクルから引継ぎ、国会ピースの時のたすきと東京・大田ピースからの連絡箱を受け取りました。
 翌日は、長崎と京都の仲間を迎え自転車五台、伴走車一台で大阪市役所前出発しました。西宮市役所で兵庫ピースサイクルと合流。神戸市灘区では、毎年支援してくれているグループがお茶とジュースをさし入れてくれました。大阪ピースの一日目は、交通量の多い市街地を走行するので疲れます。
 二日目は、六時起床し六時半に出発。朝食は、少し走行してからになります。二日目のコースは、市街地を抜け、瀬戸内海の海岸線を眺めながらの三つの峠越えという、自然とふれあい、ともに汗を流す最高のコースです。峠は、体力の限界と戦いながら気力で峠を越えたときの達成感はたまりません。ピースサイクルの魅力でもあります。距離も短く四時に日生に到着。市町村合併の波で日生も備前市となっていました。
 三日目は、早くも広島県の福山市に入るコースです。日生で兵庫ピースと別れて岡山をめざします。岡山では、岡山ピースの仲間と空襲の資料館を訪れ、倉敷市では、市への表敬訪問を行い、申し入れを行いました。
 四日目、呉までの長距離コースですが二号線から一八五号線に入ると瀬戸内海が広がる海岸線で涼しい風が心地よくサイクリングには最高です。竹原では、二〇周年企画で四国ピースと合流、呉をめざしました。呉に到着後、話題の大和ミュージアムを訪れました。期待どおり(?)戦争の反省はなく、世界に誇る造船技術のすばらしさを展示しています。
 いよいよ五日目、ヒロシマ入り。今年は午後からのスケジュールのために昼食を済ましてから原爆ドームに到着。広島の仲間の歓迎を受けました。
 午後からは、沖合に新滑走路が建設中の岩国基地を見学し実体を学ぶことができました。夕方からは8・6ヒロシマ平和へのつどいに参加。ピースサイクルとして挨拶の後、フィリピンピースが招請したロラたちを紹介しました。
 八月六日、七時から「市民による平和宣言」を配布し、八時一五分原爆ドーム前でダイ・インに続いてグランド・ゼロのつどいに参加しました。
 午後からは、宇品、比治山コースのフィールドワークに参加、被爆の爪痕と軍都廣島の遺跡を訪れました。
 夕方からピースサイクル二〇周年ヒロシマ集会が行われ、まよなかしんやさんのミニライブで盛り上がりました。
 翌日、広島湾スタディクルージングに参加。チャーター船に乗り込み、被爆者の話を聞きながら軍事施設を見学、湾に停泊中の自衛隊艦船の近くまでいくことができました。
 今年のピースサイクルは、二〇周年のメモリアルではありましたが残念ながら少人数の参加となりました。この二〇年を振り返り、全国運動としてどうしていくのか議論が必要です。この間築いてきた様々な運動との信頼関係をもとに憲法改悪を許さない広範なネットワークに発展させていけるかも大きな課題です。
 ピースサイクル二〇年の節目の年に全国的な論議を行おう! (大阪・西野)

伊方原発3号機でのプルサーマル計画の撤回を求める < 四国ピースサイクル >

 昨年一一月一日、愛媛県知事は四国電力に対し、伊方三号機で計画されているプルサーマル計画について、原子炉設置変更許可申請の了承を行った。
 第一七回目の四国ピースサイクル(PC)は、プルサーマル計画の撤回を求める『原発さよなら えひめネットワーク』の闘いに連帯するために、自転車でスタートした。参加者は七名で、広島PC三名と呉PC四名。
 八月一日(月)、高知県高知市から窪川町まで約七〇キロメートルあり、高知水道労組青年部八名が自転車五台と伴走車二台で走ってきた。一三時、道の駅で呉PCと合流し、窪川町に向けて自転車を走らせた。島岡幹夫さんが、「広島の中国木材で木を燃やす温水プールを見てきた。木を燃やす風呂をつくった」と町行政への環境問題の推進者としての活動が紹介された。
 宿舎に入り、合流地点から四〇キロメートルの自転車走行で盛り上がった。二つの坂があり、七子峠の厳しい坂を毎年走っている高知水道に感心した。
 八月二日(火)、高知水道労組青年部の「二〇〇五ピースサイクル高知〜窪川 平和は世代を越えたみんなの願い」の横断幕を引き継いだ。
 窪川町役場で島岡町議が立会い、町長に「一、政府に対し、より危険なプルサーマル計画を四国電力に即刻中止させるよう申し入れてください。二、自衛隊のイラクからの派兵撤退を政府に求めます」と要請を行った。町長からは、「ピースサイクルの活動をがんばってください。」という激励があった。
 晴天の中、高知水道の仲間に見送られ宇和島市まで約九〇キロメートルを自転車四台と伴走車一台で実走した。
 清流・四万十川で昼食を取り、川遊びでリフレッシュした。宇和島水産高校の慰霊碑に献花した。
 八月三日(水)、淨満時で焼香し、八幡浜市に向けて自転車五台を走らせた。
 一三時、猛暑となりJR八幡浜駅前でビラ配布し、国労二名と合流する。国労一名が自転車に乗り、自転車五台と伴走車一台で走った。
 一五時、伊方原発に到着。ゲート前で、藤岡宏一総務グループリーダー補佐に「二〇〇四年一一月一日、愛媛県知事は四国電力に対し、伊方三号機で計画されているプルサーマル計画について、原子炉設置変更許可申請の了承を行い、四国電力は国に申請書を提出した。私たち四国ピースサイクルは、プルサーマル計画の撤回を求めます。プルサーマルは、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランを混ぜて作った燃料(MOX燃料)を現在稼動中の原発を使って発電する大変危険な計画です。MOX燃料では、高い濃度のプルトニウムを使用することになり、原子炉の核反応が激しくなり、制御棒も効かず、事故が起こりやすく、放射性ガスの環境への放出量が増加します」という申し入れ書を手渡し抗議した。四国電力の藤岡は、プルサーマル計画は、国が審査している。二〇一〇年までに伊方三号機で実施する。
 使用済み核燃料の保管料はいくら払っているのかの問いには、「企業契約なので言えません」の答。「コンクリート架台のヒビ割れは隠していたのではないか」の質問には「公開しようとする以前の問題」など質問をはぐらかす返答ばかりだった。
 伊方原発反対運動の会長広野房一(九二歳)さんが亡くなり、九町のご自宅で全員焼香した。
 夜は、「原発から子どもを守る女の会」の南海日日新聞の近藤さんご夫婦と交流会を持った。近藤さんの話。四国電力は、抽象的な言葉では安全を強調するが、具体的な施設見学を求めると抗議をする団体は許可しない。MOX燃料は危険だ。プルサーマル計画に反対しましょう。
 八月四日(木)、早朝に自転車五台を車に積む。保内町から波方港へ移動し、フェリーで竹原港に到着した。竹原港で大阪PCと合流し、呉市まで自転車を走らせた。 (広島通信員)

日本原ルート < ピースサイクルおかやま >
        


 ◇ルートの立ち上げ
 実走の前に学習会をかねて、七月二日に岡山市勤労者福祉センターにおいて、日本原ルート結成集会を開催した。国会議員をはじめ、県会議員、市議会議員や岡山県内の様々な「九条の会」の人たち、職場、地域の人たちが集まり、四〇人を超す集会となった。
 冒頭実行委員長の挨拶に始まり、「平和について語りたいこと」と題して、岡山空襲資料館(へいわかん)の館長でもある丸山亀雄さんが、時々声を詰まらせながら、岡山空襲での実体験を一時間にわたって、当時の出来事を細かく話された。
 丸山さんは、空襲で岡山の市内が赤々と炎に包まれていく様子や、B29が落としていった焼夷弾のこと、空襲で犠牲となり街のいたる所で死体があったこと等など、思い出したくもないような記憶を「語り部」であるからといって、時折こみ上げるものがありながらも語られた。
 戦争が終わってからも、爆撃時の音や光が打ち上げ花火に似ているような感じで、今でも花火を見に行くことができないであるとか、焼き魚などを作るときは、魚がこげて煙が出てくる様子は、死体から出ていた煙だと思ってしまい何もできなくなってしまうなど、普段何気ない生活の中でも当時のことがトラウマになっていて、当たり前のことができない状況にさせられていると話された。最後に「戦争は、被害の側も、加害の側も不幸にさせている。だから戦争は、してはいけない。」と講演を締めくくった。
 本当は話したくない出来事だろうけど、お話をしていただいたことで、反戦の思いが参加者の中に伝わったと思います。
 この後、質疑があり、各団体からの平和についてのアピールや、ピースサイクルからも実走の呼びかけをして集会を終えた。

◇二日間で岡山県内を半周する
 今年も、8・6に近い七月三〇、三一の土、日曜で県内を実走した。
 一日目は、鳥取・岡山県境の旧上斎原村の人形峠に集まり、核燃料サイクル機構(旧動燃)人形峠環境センターへ、核廃棄物の最終処分場にしないことなどの申入れをして、郵政労働者を中心に二〇人の参加で一五台の自転車でピースサイクルをスタートした。宣伝カーで街宣し、自転車に乗る人にも元気をつけるためにも歌を流したりして盛り上げた。
 自治体への申入れは、合併で減ってしまったが、鏡野町、津山市へ行う。自治体によって対応は様々だが、申入れに対しては、真摯に受け止めてくれたうえで、冷たい飲み物まで差し入れてくれた。津山で運動されている方々が、留学生を連れての途中参加をしてくれた。
 ルートの名前の所以でもある、陸上自衛隊日本原駐屯地へ、実弾演習の中止、基地撤去の抗議申入れを現地で闘っている農民の方と共に行う。回答はないのが当たり前だが、駐屯地の門前にバリケードを張り、取り合わそうとしない状況であった。現地農民の方に今の状況の説明を受け、今後も基地撤去に向けて共に闘うことを約束して自転車を走らせ、宿泊地まで行き一日目の行程を終える。
 二日目は、昨年は台風直撃をうけたが、今年は朝から豪雨に会い、ここ二年間ずぶ濡れの中を自転車で目的地を目指す。午前中に美作市、佐伯町へ申入れを行う。佐伯町からは、国会議員の秘書や、JRの労働者が増え、雨も上がり自転車の列が増えて次を目指す。合併で新しくできた赤磐市へ申入れを行い、市長自らが出迎えてくれる。仲介をしてくれた市議、支援してくれた人たちが駆けつけてくれた。ここでまた新たに参加者が増え、昨日と同じ台数の自転車となった。
 岡山市内にある陸上自衛隊三軒屋駐屯地へ、大学生や「岡山県九条の会」の人と共に基地撤去の申入れを行う。日本原駐屯地とは違ってあまり警戒されてなかったが、ここでも回答するという確約はなかった。
 最後に、ルートの到着点でもある岡山市へ申入れを行う。支援してくれた市議、国会議員、平和団体の人たち、自転車隊とで三〇名を越す申入れとなった。そのまま到着集会と広島に向けた壮行会を行って、日本原ルートを終えた。参加者からは「来年もここでみんなと会いたい」という感想があった。年々参加者が減っている状況の中で、新しい参加者にこのように思ってもらえることは、これからも続けていく活力になるし、今後もピースサイクルをはじめ平和運動を盛り上げていかなければならない。


60年目のヒロシマから

 六〇年目のヒロシマはあの日のように暑かった。
 年明けからイラクへの派兵、NPTの行き詰まり、改憲の動き、「つくる会教科書」採択の動き、あらたなテロの拡大、米軍岩国基地の拡大と機能の強化。その一方で松江澄さんや栗原貞子さんの死、そして今年もまた原水禁運動は「統一」されず ヒロシマを取り巻く主客状況が格段に厳しい中で六〇年目の「8・6」は取り組まれた。
 既に一連の様々な取り組みが七月末から始まっていたが、紙数の関係から八月五・六・七日の行動を中心に報告する。

 八月四日に、ナガサキを七月二日に出発したストーンウォークがドーム前に到着した。

八月五日

 続いて八月五日の正午、二〇年目のピースサイクルがドーム前に到着。いよいよ幕が開いた。ヒロシマネットの歓迎挨拶と各地の報告を簡単に行い、直後から様々な催しが行われ、いま焦点となっている岩国基地を巡るフィールドワークに参加した。〇八年の運用開始に向けて急ピッチで滑走路の沖合い移設が進められ、厚木の空母艦載機の移駐や普天間基地機能の移転が企図されており、広島市をはじめ周辺自治体の猛反対にさらされている岩国基地を身近に見ることで、その巨大な規模と機能強化に驚かされ今更ながら反対運動の強化が不可欠だと痛感させられた。

 その後、8・6ヒロシマ平和へのつどいが「六〇年・忘却・継承」をメインテーマに同名実行委員会の主催で、一八時から二〇時三〇分まで広島YMCAホールで開催された。
 六〇年の時を経て被爆者が毎年五千名余も亡くなり続けており、被曝の実相が忘れられようとしている。忘却するのでなく継承を課題として突き出し、改憲をはじめとする平和の破壊と闘い続けるためにとの趣旨で今年のテーマが掲げられた。
 集会は主催者挨拶に続いて、御三方より「語り」がおこなわれた。
 詩人の伊藤眞理子さんは、栗原貞子さんについて、被爆体験をベースに一貫して反戦・反核を訴えかけ、国際的にも足跡を残されてきたことを語り、栗原さんの娘さんも「これからが正念場だ。頑張っていこう」と発言した。
 被爆者の米澤鉄志さんは、松江澄さんについて、戦後労働運動での功績や原水禁運動の変遷の中で果たされた役割に触れ、この「平和のつどい」を組織された経過を振り返った。
 最後に被爆二世の岸本伸三さんが、「これからのヒロシマを考える」として、被爆教師運動を牽引されてきた石田明さんの「ヒロシマが忘れ去られたとき、再び繰り返される」との言葉を引いて、六〇年の今年、職場から被爆教師は誰もいなくなるが、実相を継承して残された国家補償の実現と憲法に光と希望を見出し、自己規制することなく平和・人権の取り組みをと締めくくった。続いて、在外被爆者、ストーンウォーク、ピースサイクル、フィリピン人戦争犠牲者、沖縄一坪反戦地主会からそれぞれ発言がされ、まとめを湯浅一郎さんがおこなってつどいを終了した。
 その後、宿舎で遅くまで思い出を語りあいながら、六〇年を節とする今後の運動の進路を交流した。

八月六日

 翌六日は、早朝から市民平和宣言の配布、ドーム前でのダイインとグラウンドゼロのつどいが開かれ、その後ピースウォークで反原発座り込みのため中国電力本社前に。
 平行してフィールドワークもおこなわれた。
 午後からも原爆遺跡を中心に車でのフィールドワークも取り組まれた。
 そして締めは「ピースサイクル二〇周年記念 まよなかしんやライブ・アンドパーティー」が盛大に開催された。

八月七日

 明けて七日は、広島湾スタディ・クルージングが一八〇名の参加で取り組まれた。詳述する余裕はないが、陸から見る基地群とは異なるリアルなヒロシマの別の顔を実感できたことと思う。既に「おおすみ」型の三艘をはじめ潜水艦群がひしめく呉周辺基地の異常な実情を目にすれば、イワクニと結合する「新たな軍都」の果たすべき役割を如実に示すものとして、否応なく今日の「廣島」を物語っている。
 あらゆる意味で結節点のヒロシマは、非核運動としての継承を発信しただけではない。
 六〇年の年月は重い。この三日間の取り組み全体を通じて、「現役としてのヒロシマを語る」人びとのおもいを受け継ぎ、直接的被爆体験を語る被爆者の遺言を遺しただけではない。今日の状況に深い危機感を抱き、運動体もかつての「著名人」たちも衣を脱ぎ捨て、非核と反改憲を結合した新たな運動の模索に一つの方向性を示そうとした。
 それは、「夏が来れば思い出す」だけではダメだ、日々の生活の中から意思を発し続けなければ消されてしまうとの思いであり、反核の運動が反改憲と結びついて世論を喚起するものとならねば広がりをもてないということであり、国を越えてあらゆる平和破壊の動きと切り結ぶヒロシマであらねばならない、と要約される。
 まさに結節点の六〇年を機に、ヒロシマを忘却せず実相を継承しながら、新たな平和運動の創造を発信し、それを世界に広げる役割が求められていると再確認できた三日間であった。 (I)


靖国と天皇制を問う集会とデモ

 八月一五日、全水道会館で、「敗戦60年の靖国と天皇制を問う」8・15集会とデモが闘われた。反天皇制運動連絡会、昭和天皇記念館建設阻止団、「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会、明治大学駿台文学会、アジア連帯講座のよびかけによる実行委員会が主催した。
 集会は、実行委員会の新孝一さんが基調を提起した。
 敗戦六〇年という節目における日本の政治動向は、制度的にもイデオロギー的にも、「敗戦」をメルクマールにして構築されてきた<戦後政治>そのものを著しく改変するものとして、私たちの眼前にある。現在の改憲と歴史認識の再編の動きは、まさにこうした状況における支配層の意志と意図に貫かれたものに他ならない。私たちが直面し、相対している事態の危機的状況の性格は、したがって、個別の法制定や何らかの政策の種々の問題点を超えて、より総体的に社会・国家再編が図られようとしているという点にこそ表れているといわねばならない。この大がかりな社会・国家再編の動きの中で、とりわけ象徴天皇制をめぐる政治が重要な要素となっている。それは日本政府の改憲構想において、天皇の祭祀権の復活が呼号されるなど、天皇の権能強化がはっきりと打ち出されていることからも明らかである。また、女性天皇容認を射程にいれた「皇位」の承継をめぐる対策として、皇室典範改定のための作業が着々と推し進められてもいる。こうして、社会・国家の再編にともない、その統合軸としての天皇制そのものを強化・再編していこうという動きが活発化しているのである。
 現在、アメリカの戦争とともに自衛隊の恒常的な派兵を国策として継続する日本政府にとって、これらの既成事実を改憲により制度的に補完することが焦眉の課題となっていることは言うまでもない。これは改憲が、支配層にとっての明確な根拠となり得るからである。
 私たちは、改憲が九条平和主義の破壊と、戦争国家の統合軸としての天皇制の再定義(強化)をもたらすものであることからも、象徴天皇制批判、反天皇制運動を一層広く、強力に展開していく必要があると考える。一方、こうした社会・国家総体の再編をおし進めるために、日本政府・支配層はそれを支えるだけの基盤を必要とする。
 私たちは、何より天皇制の戦争・戦後責任を追及していくことが、日本の現在の歴史認識のありようを改めていく契機となるものと信じるものである。
 そしてそれはまた、現在の改憲状況にみられる日本の政治動向への有効な異議となることを強く確信するものである。
 戦後六〇年目となる敗戦の日である本日八月一五日、私たちは「全国戦没者遣悼式」に反対し、閣僚の靖国参拝に抗議する本日の行動を最後まで貫徹したい
 つづいて、加々美光行さん(現代中国論、愛知大学教員)と川村湊さんが(文芸批評家、法政大学教員)が講演。
 実行委員会参加団体からの発言。昼の靖国神社行動で四名の仲間が不当逮捕されたことが報告された。
 集会を終えてデモに出発し、小泉の靖国神社参拝に反対し、天皇制の戦争責任を糾弾するシュプレヒコールをあげながら市民にアピールした。靖国神社をめざすデモに、右翼が集団で襲い掛ってくるが、それを跳ね除けて8・15実行委員会のデモは闘いぬかれた。


憲法第九条を葬り去り、本格的に「戦争のできる国」をめざした自民党改憲草案

  総選挙での改憲反対勢力の前進で小泉内閣を打倒しよう

                              
 島 村 隆 史

 「郵政民営化法案」を大義名分にして国政を私物化する小泉首相とその取り巻き勢力による国会解散で政局は激動局面に入った。衆議院で可決された郵政民営化法案が参議院で否決されたことを口実に衆議院を解散するなどという非民主主義的で暴力的な政治、憲法の定める二院制をまったく無視したファシズム的な政治手法を絶対に許してはならない。
 今回の小泉内閣の歴史的な敗北は直接的には自民党内の対立・分裂によるものが大きいが、より本質的には自民党反対派の背中を押した世論の勝利であり、弱者切り捨ての「新自由主義改革」への広範な人びとの怒りの声の反映であり、小泉政権の悪政への厳しい批判とさまざまな人びとによる闘いの反映である。米国のグローバリゼーションが要求し、財界と結託した小泉政権が政治生命を賭して推進しようとしている「構造改革」は、危機にある支配層にとって起死回生の延命策ではあるが、多くの民衆にとっては福祉と生活の破壊であり、民主主義の破壊であり、息詰まる管理統制社会への急速な移行である。このことと「戦争のできる国づくり」、憲法改悪の動きは結びついている。
 衆議院解散によって、162通常国会でのポスト憲法調査会のための国会法改定は先送りになり、憲法改悪国民投票法案の国会上程はさらに先送りになった。このままでは9条全面否定の改憲案を発表する予定でいた自民党立党五〇周年行事にも暗雲が立ちこめて北のも事実である。私たちは獲得したこの政治的条件を最大限に生かし、さきに発表された自民党「新憲法第一次案」を徹底的に暴露し、戦争への道に反対し、憲法改悪を許さない闘いを全力をあげて進めなければならない。とりわけ当面する緊急の課題となった総選挙においては、小泉内閣と自民党が「郵政民営化国民投票的選挙」などと問題を恣意的に矮小化する策動に反対し、財界奉仕・弱者切り捨ての郵政民営化法案を含む小泉内閣の全ての悪政を清算する闘い、とりわけ現代における最大の政治的課題である戦争と憲法改悪策動に反対し、改憲反対勢力の前進のために全力で奮闘しなければならない。
 本年十一月が結党五〇周年にあたる自民党は、それに向けた「立党五〇周年プロジェクト」の最大の目玉商品としている「新憲法草案」作成のため、八月一日、条文の形での「新憲法第一次案」を発表した。自民党はこれを全国各地でのタウンミーティングと称するキャンペーンなどに使いつつ、十一月の発表にこぎ着けたいとしている。
 この間、自民党は二〇〇四年六月に党憲法調査会(保岡興治委員長)の憲法改正プロジェクトチームが「憲法改正『論点整理』」を出し、さらに十一月には同調査会の中谷元・起草委員会座長が中心になって「改憲草案要綱(たたき台)」を発表した。しかし、その後これが党内手続きの不備と併せて、現職自衛官の手になる改憲草案を土台にしたものであることが露呈し、あわてて撤回した。そのうえで、改めてこれに取り組む党の体制も一新し、今年一月の第七一回党大会で歴代総理などを顧問に据えた新憲法起草委員会(森喜朗委員長)を設置、改憲草案の起草を急いだ。四月四日には起草委員会各小委員会の案を併せた「試案要綱」を発表、つづいて七月七日に「新憲法要綱第一次素案」を公表した。今回の「第一次案」はこれらの作業を経て作られたものである。
 自民党による今回の改憲案の特徴は、第一に現行憲法第九条の全面的な改悪の方向を示したものであり、第二に現行憲法の「国民の権利」等に関する憲法の意味・意義を転倒させることを通じて、立憲主義原理そのものを否定しようとする意図が明瞭であり、第三に現行憲法第九六条の憲法改正条項を大幅に緩和させ、今後、自民党がめざすグローバリゼーションに沿った国づくりのための憲法改悪作業をいっそう容易にしようとするもの、などにある。この草案は全面的な改憲案であり、文字通り新憲法草案であるため、他にも様々な問題点はあるが、今回はこの三点に絞って検討したい。

自衛軍の合憲化による九条の全面的否定

 「憲法九条の改悪」は今回の新憲法第一次案の最も明確な特徴であり、そのことによって今日の自民党の改憲の究極の狙いがここにあることをはっきりと示したものとなった。その内容としては、@九条第二項をまったく否定し、その「戦力不保持」と「交戦権の否認」原則を削除し、自衛軍、すなわち軍隊の保持を明記したことである。この自衛軍の活動目的については、国の防衛=国家防衛戦争、国際協調のもとでの国際社会の平和・安全の確保=海外での軍事活動、国内の公共の秩序維持=治安出動の三点をあげた。A第一項についても、従来、自民党が主張してきた「第一項は維持する」との説明を覆し、戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は「永久にこれを放棄する」との条項を「永久に行わないこととする」と言い換えて「放棄」という明確な規定を削除した。そしてここに「国際社会の平和及び安全の確保」のために「主体的かつ積極的に寄与する」との宣言を挿入した。B米国や財界などが一貫して要求してきた「集団的自衛権の行使」の問題は、自衛軍の保持をうたったことで「自衛には個別も集団も含まれる。その議論は終わった」(自民党新憲法起草委員会舛添要一事務局次長)とした。Cそして第二章の名称の「戦争の放棄」を「安全保障」に書き換え変質させようとしている。
 自民党は今回の草案で、念願であった自衛「軍」の保持を第九条に明記することで、歴代の政権が憲法違反の自衛隊を不当な解釈改憲によって作りだし、強大化させてきたという違憲状態の解消を実現し、自らの憲法違反の責任を回避しようとしている。しかし、憲法で軍の保持・存在を合憲化すれば、それが「自衛」のため、国、国家・国民の「防衛」のためだと説明されようとも、これは疑いなく現在の九条の戦力不保持原則の完全な否定にほかならない。米国によるイラクへの先制攻撃が米国にとっての「防衛戦争」だと説明されているように、いうまでもなく現代における全ての侵略戦争は国家・国民のための「防衛戦争」として位置づけられ、遂行されているのである。自民党はこの戦争遂行を可能にする国家を実現したいのであり、今回の草案で自衛軍の活動に「国際社会の平和・安全の確保」を明記しているのはまさにこのためである。さらに自衛軍の活動目的の中に「国内の公共の秩序維持」をあげているのは、「内乱鎮圧」出動はもとより、反政府活動一般に敵対する軍事弾圧合法化条項でもあり、「公共の秩序」の名の下に自衛隊を市民に銃を向けさせるための危険な規定である。
 今日、各種の世論調査を見てもわかるように、平和憲法は施行約六〇年を経てかなりの程度、日本社会の世論に定着し、人びとの中では第九条の維持を望む声は大きい。それは明らかに九条改憲を要求する声を超えている。この間、自民党はこの世論を恐れ、姑息にも九条二項は変えるが「一項はそのままでよい」などと言ってきた。これは国際的にみても一九二八年のパリ不戦条約を起源にして、かなりの国々がこの条項と同様の文言を取り入れており、国際的にも主要な流れになっていることに関連する。自民党は今回の改憲草案でも「平和主義の理念を崇高なものと認め…この理念を将来にわたり堅持する」との文言を入れ、この考え方を一応、踏襲した。しかしながら、パリ不戦条約のもとでも自衛戦争は放棄されなかっただけでなく、国連憲章の下でも、自衛戦争の名による侵略戦争も繰り返されてきたのも現実である。それ故に、現行憲法の第九条が一項と二項を一体不可分のものとして、戦争放棄を規定したことにこそ、第九条の今日的な先進性がある。それゆえに日本国憲法の一項と二項を分離して改憲を論ずること自体が誤りなのである。
 いずれにしても自民党にとっては、「戦争の放棄」という表現は我慢がならないのである。今回は第一項の「戦争放棄」も変えることを提起している。前述したように第九条一項に挿入された「国際社会の平和及び安全の確保」のために「主体的かつ積極的に寄与する」との宣言と併せ読めば、海外での武力行使を積極的に主張するものとなっており、極めて危険な内容に変質させられたものであることは明白だろう。  
 集団的自衛権の行使の問題の自民党改憲草案の取り扱いは舛添事務局次長の説明が全てを表現している。同党内にいくらかの不満は残っていることであろうが、大勢は「あえて書かない」というやり方で決着させたのである。与党の公明党や、今後の改憲作業で抱き込みたい民主党はあえて刺激することは避けて、条文としては明記せず、海外での武力行使も含めて今後この具体化は「安全保障基本法」「国際協力基本法」「自衛軍法」(現行は自衛隊法)などで具体化のための諸条件を定めていけばよいという考え方である。これらによって曲がりなりにも憲法の制約を受けてきた自衛隊の活動は、周辺事態はもとより、グローバルな規模において米軍との一体化した戦争遂行が合憲化され、限りない戦争の拡大に道が開かれることになる。これによって、たとえば今日のイラクにおいては、サマワの「非戦闘地域」に「非軍事の人道復興支援のため」に自衛隊を派遣したのであるという三百代言の論理を駆使せずとも、英軍が果たしている役割と同等の軍事活動が展開可能になるのである。
 こうして現行憲法の最大の特徴であり、現代世界においても先進的であり、輝きをもった憲法九条は無惨に改変され、否定されてしまうことになる。

権力制限規範としての憲法から国民が護る憲法へ


 草案は「第三章 国民の権利及び義務」の項の現行十二条に対応させて「国民の責務」という項を設置した。そして現行憲法第十二条が「又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としているところを、「国民はこれを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と書き換えた。現行憲法の「公共の福祉」という用語は、いずれも国家主義的用語に連なる「公益及び公の秩序」に書き改められた。自民党はこの間、一貫してこの「公共の福祉」という用語を「わかりにくい」などとして攻撃してきた。実のところ、わかりにくいのではなく、これを攻撃することで、「個人の尊厳」「個の尊重」を基礎においてきた現行憲法の思想を、「公」「国家」への義務を優先する思想へと転換させる狙いがあったのである。この「公」論が前述した九条改憲の思想と結びつけられる時、基本的人権は破壊に導かれることは疑いない。八月二日の読売新聞社説はこれを積極的に評価して「自己中心の個人主義ではなく、本来、憲法が想定していた『責任ある個人主義』に基づいて、社会の存立の基盤を確かなものとする意図が読み取れる」などと述べた。
 そしてさらにこれに関連して「内閣」の項の七十三条では内閣は「法律の委任がある場合…義務を課し、又は権利を制限する規定」を設けることができるとした。こうした「義務」規定の強調などの改変は単なる用語の変更にとどまるものではなく、トーマス・ジェファーソンなどを淵源とする近代立憲主義にもとづく権力制限規範としての憲法、「権力を制限する憲法」という考え方から、「国民が守るべき憲法」「国民の責務を規定する憲法」という反動的な憲法思想への転換であり、自民党改憲派の長年の願望の表現である。自民党はこの憲法思想の転換のために、「いたずらに国家と国民を対立させることなく」「共に協力・共生して」などという耳障りのよい俗論を振りまいて立憲主義に対する攻撃をしてきた。今回の改憲草案ではこの転換を基本的には書き込んだ上で、九条改憲と直接につながることが露骨すぎて刺激の強い「国防の責務」や国家に奉仕する国づくりとしての「家庭保護の責務」等、「新たな国民の責務」を規定することは先送りした。しかしこれらも自民党のなかでは根強い要求であり、今後再浮上する可能性がある。
 また「信教の自由」に関連して草案二十条では「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教活動をしてはならない」などとして、国などの宗教活動で「社会的儀礼の範囲」にあたるものは禁止から除外した。このことによって首相の靖国神社参拝や、玉串料への公金支出等を合憲化し、「信教の自由」を制限し、戦争のできる国づくりに特段の条件を与えようとしている。
 一方、この間とりざたされてきた「環境権」など「新しい人権」については、今回の草案では触れられていないが、今後、改憲案の野党とのすりあわせの中で合意形成のための妥協の「隠し球」として復活が企てられる可能性は大きい。

両院の三分の二の改憲の要件の大幅な緩和

 第九十六条の憲法改正条項では、「この憲法の改正は…各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し」、国民投票の「過半数の賛成を必要とする」として、現行の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」という規定を大幅に緩和した。「過半数の賛成」で発議できるということは、最高法規としての憲法が国会の大勢による合意ではなく、与党だけの賛成で容易に発議できるということである。第九十六条のもうひとつのハードルである「国民投票」は残したが、これで改憲の発議は与党にとっては極めて容易になった。
 自民党はこの条項を規定することで、今後の改憲に道を開こうとしている。「今回は、まず改正することに最大の意義がある」(八月二日「朝日新聞」桜井よしこ)というのである。ここを変えておけば後は何度でも必要に応じて改憲ができると考えているのである。なんと人びとを愚弄する考えであろうか。
与党・公明党や野党・民主党の合意が得られる情勢にないにもかかわらず、自民党がこの間、くりかえし全面的な改憲案を提起しているのは、単に自民党の独自性、自民党らしさを示そうとしているだけではないし、復古主義の反映というだけでもない。
 ブッシュ路線に代表される米国の帝国主義がその延命のために、新自由主義的資本主義、新国家主義的なグローバリゼーションの推進によって、世界資本主義の再編を企て、新たな国際秩序をうち立てる野望をもって、日本にたいしても構造改革を厳しく要求してきていることに呼応して、危機に立つ日本資本主義もまた日本経団連などの財界を先頭に小泉改革に代表される新自由主義的な構造改革を社会・経済の全般にわたって推進しようとしている。それは社会における一部上層の利益の擁護と、対照的な中間層の没落・下層への犠牲のしわ寄せであり、格差社会の拡大である。この構造改革はこれをささえる政治改革なしには達成されないし、ナショナリズムを利用した管社・統制会理の強化なしに進めることは困難である。自民党による全面的な改憲案、新憲法案の提示は自民党が描く当面の理想の国家像を憲法全容として示すことで、段階的系統的にそれにむかってすすむ決意を示しているのである。この時、九十六条の大幅な緩和は極めて重大な意義を持ってくるのである。

 七月七日に出された自民党「新憲法要綱第一次素案」と比べると、今回の草案は中曽根康弘元首相が起草したという「前文」はまったく外されている。それはこのあまりに復古主義的中曽根「前文」をどのように取り扱うかについて起草委員会での合意が成立しなかったことによる。しかし、この中曽根「前文」は、条文を完成し終えたら検討するという「前文」を含めて、今後とも自民党の改憲草案づくりに影響を与えていくことだろう。
 同時に今回の草案が公明党、民主党との改憲条項のすりあわせを念頭に置き、問題の思慕路込みをはかってきていることの反映であることも見逃せない。今回の草案の政治的方向は大筋において三党の妥協のための大きな障害はなくなっているといってもよい。憲法改悪を阻止するための可能性と歴史的責任は、まさに世論と運動の強化にかかっている。その運動野強化は国内の課題だけではない。アジア諸国の人びとをはじめ、国際的な反戦平和の運動と連携し、全国各地の草の根で広範なネットワークを作りだし、闘いを大きく発展させることである。この力のみが今後の改憲をめぐる闘いの帰趨を決定する。
 いまこの国は、今回自民党が提起した九条改憲の道を許し、戦争ができる国、戦争をする国への道を最後的に開け放ってしまうのかどうかの歴史的な岐路に立たされたのである。
 昨年来の「九条の会」運動をはじめとする憲法改悪反対の運動、とりわけ九条改憲反対の運動のめざましい高揚に確信を持ち、その確信を人びとのなかで大きく拡げ、この闘いの発展を全力で支えることこそ、今日における真の左派の責任である。
 再度、訴える。当面する緊急の課題となった総選挙において、小泉内閣と自民党が「郵政民営化国民投票的選挙」などと問題を恣意的に矮小化する策動に反対し、財界奉仕・弱者切り捨ての郵政民営化法案を含む小泉内閣の全ての悪政を清算する闘い、とりわけ現代における最大の政治的課題である戦争と憲法改悪策動に反対し、自民党の「新憲法草案」の危険な本質を徹底的に曝露しつつ、改憲反対勢力の前進のために全力で奮闘しよう。


有明講演会での発言

 「九条の会」有明講演会(七月三〇日、有明コロシアム)は九五〇〇人が参加し大成功をおさめた。九人の呼びかけ人のうち六名(三木睦子さん、鶴見俊輔さん、小田実さん、奥平康弘さん、大江健三郎さん、井上ひさしさんー発言順)が講演し、当日に他の場所で講演をおこなっている澤地久枝さんはビデオでの発言をおこなった。

三木武夫記念館館長の三木睦子さん

 九条が変えられようとしているが何とかしなくてはならないと思って東奔西走している。戦争をさせてはならない。軍隊をもつからそういうことになる。このことに血を燃えたぎらせている。今日はこんなにも多くの人が平和のことを考えて集まっている。若い人が私のようなおばぁちゃんの話を聞いてくれている。こんなうれしいことはない。私たちはこの日本を、子や孫、ひ孫のために、平和で静かで、そして芸術の光に満ちた国にしていかなければならない。そのために力を合わせて戦争を拒否しなければならない。そうすれば平和がもたらされる。なんとしても戦争をやめさせなければならない。だから九条なんです。

哲学者の鶴見俊輔さん

 草加の九条の会から九条センベイを送ってもらった。こうしたいろいろな工夫で九条の会の活動が行われているのは嬉しいことだ。今日話したいのは幕末の土佐の漁師で難破してアメリカ東部に連れていかれたジョン万次郎のことだ。かれはアメリカの教会でも人種差別されたが、命の恩人のアメリカ人船長は、日本人を差別した教会をやめて、日本人を受け入れる教会に変った。そして、船長は命の恩人といえども万次郎が自分に奴隷のように跪くことを欲しなかった。万次郎は手紙で船長を友と呼んだが、本来の日米関係はこうあるべきだが事実はまったく逆だ。私は八三歳になって、もうろくした。しかし、もうろくが進んでも戦争に反対することを続けていきたい。

作家の小田実さん

 中国革命の指導者だった孫文は一九二五年になくなったが、その前年の一一月に日本に立ち寄って、有名な大アジア主義についての講演を行った。それは孫文の遺言とも言うべきものだった。その講演では、日本にたいして、日本は欧米のように物質力・軍事力による支配すなわち覇道の道を行くのか、それとも東洋的な道義・文化による王道をめざすのかと問うた。日本人の聴衆はこれを日本を王道として称えたものとして拍手喝采した。しかし、日本の動きは覇道そのものの歴史をたどった。憲法九条は孫文の言う王道だ。世界と対等・平等の関係でつきあっていくものだ。それを一九四五年の敗戦で、日本人は歩んでいこうと決意したのだ。

憲法研究者の奥平康弘さん

 改憲派は、環境、首相公選、参院見直し、憲法裁判所の設置など憲法に新しいものを入れる必要があるなどといってきたが、結局、改憲派の狙いは九条にあることが誰の目にもはっきりしてきた。前文をいじったり、天皇の元首化などについては、いまなるべきそっとしておいて、九条を変えることに集中してきている。これまでの言い方は、要するに九条の問題を突出させないためだったのだ。そして、戦力不保持を定めた九条二項を改変しようとしている。だから九条一項を残すことにごまかされてはいけない。二項を欠いた九条はもぬけの殻になる。それと、集団的自衛権の問題だ。これは対米従属の事実を憲法によって承認することだ。

作家の大江健三郎さん

 いま、沖縄戦の慶良間列島での集団自決問題が日本軍守備隊長の命令によるものでなかったという意見が出されてきている。しかし、沖縄戦では「鉄の暴風」(沖縄タイムズ刊)でも明らかにされているように各地で軍命令によって集団自決がおこなわれていた。原爆被害者調査での厚生省の態度もそうだが、国をあげての戦争を国民は受忍しなければならないということが国の言い分だ。有事法制でも、物資の保管命令などを拒んだ場合に公共の福祉に反するとして処罰される。しかし、希望が無いのではない。アメリカの友人の詩を紹介しよう。それは「求めるならたすけは来る、しかし決して君の知らない仕方で」というものだ。いまがそのような時だ。

劇作家の井上ひさしさん

 昭和二〇年の日本の男性の平均寿命は二十四歳未満だった。広島・長崎の原爆では数十万人が犠牲になったがそれだけではない。戦地でも内地でも多くの人が餓死・病死した。靖国神社に祀られている「英霊」の多くが餓死者なのだ。フィリピン・レイテ島では一二万人の兵士で生き残ったのはほんの僅かだ。なぜ捕虜になることを教えてくれなかったのか。それは東條英機が「生きて虜囚の辱めをうけず」と命令したからだ。しかし、あの戦争は正しかった、あの時代に戻そうという人たちがいて、憲法を変えようとしている。平和を守るということは日常を守ることだと言い換えてもいい。アメリカの多くの市でも無防備地域宣言をおこなっている。アメリカでも多くの人は戦争などしたくないのだ。

作家の澤地久枝さん

 いやな風がふきはじめ、むずかしい時代になってきた。アメリカの顔色をうかがいながら戦争のできる国をつくろうとしている勢力がある。かしこく、勉強しながら、あきらめないで揺らがないでやっていこう。

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 「九条の会」の行動提起


九条の会は有明講演会後、四項目にわたる次のような行動提起を発表した。

 @「九条の会」アピールに賛同し広範な人びとが参加する「会」を、全国の市区町村、学区、職場、学校につくり、さらに広げましょう。
 A相互に情報や経験を交流しあうネットワークを広げ、来年全国的な交流集会の開催 をめざしましょう。
 B大小無数の学習会を開き、日本国憲法九条の意義を学び、改憲キャンペーンをはねかえしましょう。
 C私たちひとりひとりがポスター、ワッペン、署名、意見広告、地元選出の政治家・ 影響力をもつ人びとやマスコミへのハガキ運動など、九条改憲に反対する意思を、さまざまな形で表明し、大きな世論をつくりだしましょう。


国労大会(8・29 〜30)

   
 鉄建公団訴訟を軸に闘いの前進を

 国労第七三回定期全国大会は八月三〇〜三一日に熱海のホテルで開かれる。
 この大会は、鉄建公団訴訟判決(九月一五日)を前にした大会であり、国鉄の分割・民営化路線の破産を明らかにしたJR西日本・尼崎事故の大惨事後に国労がいかなる方針をだすのかが注目される重大な意味を大会である。また、今回の大会は人事大会であり、鉄建公団訴訟に敵対を続けてきた酒田充現委員長が引退し、その次にどのような執行部が成立するのかも問題となっている。
 国労本部は、分割・民営化を認め、JRに責任なしとして誤った道に入り込んだ。差別・不当労働行為について、一昨年一二月の最高裁はJRの責任は認めなかった(裁判官は三対二に意見が分かれる)が、不当労働行為があったとすれば、それは「旧国鉄(清算事業団・鉄建公団・鉄道運輸機構)」にあるとした。鉄建公団に対する裁判こそが、国鉄闘争の進むべき道であり、これを軸にし闘いを広げてきたが、国労本部は鉄建訴訟を闘う闘争団員への権利停止処分、生活援助金の凍結などの卑劣な策動で闘争に敵対した。しかし、鉄建公団訴訟を突破口に一〇四七名の解雇撤回を実現させようとする流れは、国労闘争団から二次、三次、そして全動労、動労千葉の争議団へと拡大している。七月一五日には、日比谷野外音楽堂に全国から五八〇〇人が結集して、一〇四七人のいっそうの結束を固めた。
 国鉄闘争は重大な局面に差し掛かった。国労本部は、今回の大会の運動方針でも、路線を改めようとしていない。本部方針案に批判を強め、鉄建公団訴訟に大きく合流して、勝利にむかって進む体制をつくり出そう。


寄 稿

 
 謀略とクーデタに命脈を賭けた明治新政府 @

                  
北 田 大 吉

「黒船来航」から百五十年

 一八五三年七月八日、米国東インド艦隊司令長官ペリーは軍艦四隻を率い、浦賀に来航した。いわゆる「黒船来航」である。ペリー艦隊は七日は、伊豆半島沖合い四〇マイルに停泊、翌朝、単縦陣、総員戦闘配置、平均速力八ノットで、相模湾の陸岸沿いに航行を開始、午前五時浦賀沖に到着、投錨した。「黒船」乗員は久里浜に上陸し、米大統領フィルモアの親書を幕府応接掛戸田氏家に手交し、明春の再来を約して去った。

一八五三年七月八日、黒船が江戸湾に侵入したという浦賀奉行の急報に接して、幕府は周章狼狽した。一八四六年に朝廷から幕府にたいして海防強化のご沙汰がでたのは、「大政御委任」の朝幕関係の定法を破る大事件であった。ペリー来航に関する上奏は、朝廷の政治介入を促す「呼び水」となった。

 幕府は、慣例に反してペリー来航を朝廷に奏聞したが、天皇はじめ公家たちのあいだで議論が沸騰したことはいうまでもない。たまたまこの間に、将軍家慶が逝去したが、老中阿部正弘は、これまた慣例に反して、米国国書の返書に関し諸大名の意見を求めた。

 議論がなかなかまとまらないうちに、大老井伊直弼は翌一八五四年三月三十一日、再来したペリーとの間で日米和親条約(神奈川条約)を調印する。これが一五〇年前のことである。アメリカとの和親条約の調印に続いて、イギリス・フランス、ロシア、オランダとの条約調印が続いた。

 ペリーが幕府の指定する長崎ではなく、「黒船」の威圧のもとに江戸湾に強引に侵入したことからも明らかなように、ようやく帝国主義の段階に達しつつあった列強の日本に対する力ずくの開国要求であり、幕府はあわてて朝廷や諸大名にいちおう形だけの相談の姿勢は示したものの、従来の鎖国政策を変更して、帝国主義諸列強の圧力に屈服したのである。

 すでにインドや中国の例をみるまでもなく、もし日本が列強の開国要求を拒否するならば、日本は諸列強の植民地もしくは半植民地の状態に突き落とされるという恐怖を幕府はもったのである。調印当時の幕府の最高責任者はたまたま井伊直弼であったが、だからといって井伊がもともと開国論者であったわけではない。井伊は保守主義者であって、できることなら鎖国政策を継続したかったにちがいない。列強の軍事力によって強制されてやむなく開国したにすぎない。これは井伊だけでなく、攘夷論者として有名な水戸藩主徳川斉昭さえその時点では条約調印を黙認せざるを得なかったのである。

 これまで現実政治とはほとんど無縁であった公家や下級武士あるいは草莽のなかから、この屈辱的な条約調印に対する猛烈な反対運動が起った。これは汚らわしい夷荻に聖なる日本の土地を踏ませたくないという感情にもとづくものであったが、これだけでは強大な政治運動にはならないから、かれらは水戸光圀を学祖とする水戸学にそのイデオロギー的根拠を求めた。いわゆる「尊皇攘夷」のイデオロギーである。光圀の「尊皇」論はそのまま倒幕のイデオロギーではなく、むしろ幕府の存立と尊皇を両立させる「敬幕」であったが、これにとびついた全国の攘夷論者たちは、やがて抽象的な尊皇から「攘夷」へと位相を移し、やがて父祖伝来の「攘夷」政策を放棄した幕府を打倒する運動へと発展した。たんなる「攘夷」思想から、具体的な「尊皇攘夷」運動へ、さらに「尊皇倒幕」運動へと発展した。現実的には幕府に政策転換を求めるところから、幕府の体制改革を求める動きへと発展し、やがて幕府そのものを打倒する運動へと進んでいく。「志士」と呼ばれる各藩の下級武士、郷士、草莽たちは半ばテロリスト的な手段によって「開国」派、あるいは「体制」派的人物を脅迫し、ついには桜田門の変のように、開国派要人を襲撃するに至った。

明治維新の始期と終期をどこにおくべきか
 明治維新の始期がどこにあったかについては、史家の意見はかならずしも一致していない。一般的には、一八五三年のペリーの来航を明治維新の始期とする見解が有力であると思われるが、幕藩制社会の内在的矛盾が表面化した一八三〇−四〇年代(天保)説を始期とする見解も無視できない。このような見解の相違は、主として歴史の発展の原因を内在的なところに求めるか、それとも内在的な原因が何であれ、それが段階を画するような変化を生みだす直接的な機縁が何であったかに重きをおくかということによって異なる。

 戦後の維新史研究において一つの大きな成果と考えられるのは、歴史の発展における内的必然性を重視する立場である。内的必然性重視の視点に立った戦後の維新史は、維新の始期を「黒船来航」からではなく天保期から見ようとした。維新の変革は「外から」の偶然的要素としての「黒船」からではなく、それ以前の天保期にすでに変革の内的必然性をはらみ、天保期こそが維新の起点だというのである。その最も典型的なものは、戦後の明治維新史研究の出発点ともなった遠山茂樹『明治維新』である。「黒船」は「外から」の偶然的要素として捉えられていたが、「開国」は世界史的な国際的条件を維新変革の規定性として捉えかえされた。つまり外的条件は内的根拠を通してのみ歴史に重要な影響を与える。

 遠山茂樹が日本の半植民地化の危機の有無に対して否定的評価であったのに対し、井上清はこれを積極的にとらえ、幕末の日本の半植民地化の危機を強調した。遠山は、一九六三年度歴史学研究大会報告「東アジアの歴史像の検討」のなかで、一九世紀後半の東アジアにおいて資本主義化した日本と、列強の半植民地となった中国を対比して、その岐路は一八五〇―六〇年代ではなく、日清・日露戦争期、つまり世界が帝国主義段階に入ろうとした時点であるとし、一八六〇年代後半から八〇年代前半までは東アジアの外圧が「若干緩んだ」と表現し、そのことが日・中・朝三国のあり方とその相互関係に大きな影響を与えたと主張した。

 これにたいし真っ向から批判したのが芝原拓自である。芝原は、藤田敬一との共同論文「明治維新と洋務運動」のなかで、遠山のいう一八六〇−六〇年代は帝国主義段階移行の前夜の特徴として捉えるべきではなく、「この時期に日本が近代民族国家創設への第一歩を踏み出し得たのは、…基本的には、この時代の歴史環境のもとで相対的に独立への途を歩めるに足るだけのブルジョア的意味での民族的力量を備えていたことに由来する…」と主張している。

 また明治維新の終期をどこにみるかということが、逆に、始期をどこにおいて見るべきかを規定するという面も見のがすことができない。終期についてもさまざまな見解が存在するが、一八七一年の廃藩置県説、一八七七年の西南戦争説、一八七九年の琉球における廃藩置県説、一八八九年の大日本帝国憲法説、一八九五年の日清戦争勝利説などがある。

 明治維新の始期と終期をもっともながく規定する見解は、天保改革から日清戦争勝利説であるが、筆者としては、全過程のなかの主要な段階として「王政復古」の大号令から西南戦役の終了までの過程を狭義の明治維新と定義するのがよいと考える。

 このほぼ十年にわたる時期は、いったん開始された明治維新という過程もつねに幾多の未発の可能性を秘めていた時期であり、いつひっくりかえってもおかしくない過程であったからである。出発点の「王政復古」そのものがクーデタによって成立し、最後の西南戦役そのものも大規模なクーデタといえるものであった。この間、明治六年の政変、明治十四年の政変も紛れもないクーデタによるものであり、そのほか廃藩置県の遂行などもクーデタ的手法を含むものであった。

 明治維新は、政権を幕府の手から天皇・公家・下級武士の手に移す政治革命であったといってよいが、同時にそれは封建社会を資本主義社会に変えた社会革命でもあった。明治維新を遂行した勢力は公家や下級武士あるいは草莽たちであり、人民の大多数を占める農民や都市住民たちは明治維新の主体とはならなかった。戊辰戦役の最中にはいたるところで農民一揆があったが、それは利用されることはあっても革命の主体とはならなかった。

将軍慶喜は権力を手放すつもりはなかった

 第十五代将軍徳川慶喜は明治維新の打倒目標であったが、慶喜自体も幕藩体制をそのまま維持できるとは考えていなかった。慶喜は幕府政治が危機に陥っていることは十分承知していたし、如何にして幕府を危機から救いだすかについて腐心していた。慶喜は従来のように譜代大名と直臣の旗本だけで幕府を運営することができないことは知っていた。慶喜は、有力大名の合議によって国政を司る「公議政体」を考えていた。その目的はもちろん封建制の延命であり、結果的には徳川絶対主義国家の創出であった。

 雄藩大名によって「公議政体」をつくるという点では、薩長土肥の倒幕藩も慶喜とたいして違いはなかった。ただ、薩長は徳川家を排除し天皇を中心とした「公議政体」の創出という点で、慶喜を中心に「公議政体」を構想していた土佐藩などの考えとは明らかに相違していた。いずれにせよ両者は、幕藩体制を改良して封建制度を延命させるという点では同じ夢をみていたことになる。

 慶喜の大政奉還は慶喜の幕府延命戦略に発するもので、慶喜は、名目上、大政を天皇に奉還してのちも、政治権力を握り続けるつもりであったし、実際、天皇は慶喜の大政奉還の建白を受け入れたのちも、引続きその支配を維持するよう命令していた。

 慶喜の考えていた「大政奉還」とは、孝明天皇から授けられていた「一切委任」の権をこの際返上するという意味で、委任の中には将軍職は含まれていない。慶喜の考えでは、将軍職さえ抑えておけば、いざ倒幕に直面しても諸藩兵を動員して防衛軍を組織することができるということである。しかし薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の木戸孝允や下級公家の岩倉具視の考えは違っていた。彼らの考えは武力によって幕府を倒すことであり、徳川家の支配を根本から断つことであった。それは慶喜の大政奉還の建議が天皇に受け入れられたと同じ日に、岩倉や大久保の画策によって薩長に討幕の密勅が下っていたことからも明らかである。

 幕府側もこのような倒幕派の陰謀を事前にまったく知らなかったわけではない。将軍職が倒幕派の標的であり争点になっていることに気がついたので、肩透かしを食わせ攻撃目標をなくすることによって、倒幕派の攻撃をとりあえずそらそうとして、十月二四日、慶喜は将軍職の辞表を朝廷に提出した。

 慶喜はこの日、将軍職を返上し、その事後処理のため、十一月に諸大名に上京を命じた。慶喜は二六〇余の諸大名を集め、その圧力によって「大政奉還」を多数決で否決することも可能と考えた。慌てた朝廷は慶喜に対して、諸侯の上京まで辞職はなりがたしと命じた。

 十二月九日、「王政復古」のクーデタが断行された。薩摩・土佐・安芸などの諸藩兵が宮門をかため、岩倉らが朝廷の実権をにぎって「王政復古の大号令」を発した。摂政・関白をやめ、将軍職を廃止し、国事御用掛・議奏・武家伝奏・京都守護職・所司代など、旧体制の中枢はことごとく廃絶された。代って天皇のもとに総裁(皇族)・議定(公家・諸侯)・参与(廷臣・藩士・庶人)の三職がおかれた。

 新政権から慶喜の事実上の追放決定、これこそが小御所会議における倒幕派の譲れぬ一線だった。倒幕派と公議政体派との応酬は熾烈をきわめた。山内豊信(容堂)・松平慶永(春嶽)など公議政体派が岩倉などの「幼沖の天子」を擁しての倒幕派の姑息な手法を激しく非難すれば、岩倉も色をなして応酬し一歩も引かなかった。西郷は会議には出席していなかったが、「唯これあるのみ」と岩倉に短刀を示したという。会議は結局、倒幕派の勝利に帰し、慶喜は官位を辞退し・土地人民の返納を迫られた。

 慶喜の辞官・納地の決定に腹立ちを隠せない幕府は、江戸取締の元締め庄内藩をはじめ、鯖江・吉田らの藩兵が十二月二十五日に薩摩藩江戸藩邸を包囲し、フランスの砲兵大尉ブリュネの指揮にしたがって激しく砲撃し、正月二日にはおよそ一万五千の幕軍が三日入京の予定で出発した。 

明治維新は「無血革命」という真っ赤なウソ

 慶喜が朝敵の汚名を着ることになったのは、江戸の幕府当局、とくに江戸の治安を任されていた庄内藩が西郷の挑発に乗って江戸の薩摩屋敷を焼打ちしたことにはじまる。大阪城にあった二万の幕兵は直ちに禁裏を攻撃すべく動き出したが、もはや慶喜にはこれをとどめる力はなかった。こうして鳥羽・伏見の戦いがはじまったが、兵力の少ない薩軍の火力に刀剣に頼る幕軍は散々に打ち破られ、大挙、敗兵は大阪城に逃げこんだが、肝心の慶喜は深夜密かに幕閣首脳を引き連れて、軍艦で江戸に逃亡した。幕軍はなおも抵抗したが、指揮官を失った幕軍の士気は失われた。

 明治維新がなにか「無血革命」であったかの俗説が罷り通っているが、それは真っ赤なウソである。西郷隆盛と勝海舟の交渉で江戸城が「無血開城」したということから生まれた俗説であろうが、明治維新においても現実には無数の血が流されている。それは戊辰戦争の過程をたどってみるだけで明らかであろう。また、西郷が江戸町民を火焔地獄から救おうとする勝海舟の心情にほだされて「無血開城」に同意したとするのも一面的であろう。事実は日本における列強の中心的存在であったイギリスのパークス公使の強い圧力をやむなく受け入れたにすぎない。

 西郷や木戸がいつ倒幕から討幕に方向転換したのかは重要である。イギリス人アーネスト・サトウの観察によれば、それは天皇が兵庫開港を裁可したときである。条約も勅許され兵庫開港も裁可されるならば、倒幕派は革命の好機を逸することになる。条約も兵庫開港ももはや政治的争点ではなくなり、革命派は倒幕の大義名分を失うからである。

 王政復古のクーデタのあと、討幕派の公家などを擁した草莽の諸部隊が組織され、新政府側の軍事的魁として各地に転戦した。草莽は確かに命がけで維新のために戦ったが、だからといって独自の(ブルジョア的)要求をもっていたわけではなく、そのエネルギーを維新派に利用されたにすぎない。たとえば相楽総三を中軸とする脱藩浪士や郷士・豪農商出身者のグループは、薩摩の西郷の意を受け、幕府を挑発するために江戸市内や関東地域で乱暴狼藉のかぎりをつくし、ついに庄内藩などが薩摩屋敷を焼打ちして、これが戊辰戦争のきっかけとなったのであるが、江戸の薩摩藩邸を脱出して京都に戻った相楽総三らは赤報隊と称し農民部隊の組織者となった。相楽は、農民を組織するために年貢半減の建白を新政府首脳に建白し、各地で年貢半減令を掲げて戦った。しかし新政府は、相楽らが下諏訪に達して一隊を碓氷峠に派遣した一月二七日に年貢半減令を撤回し、相楽隊を強盗や悪行を働く「偽官軍」として処刑した。新政府は、相楽隊に中貧農層の参加が増え、これらが世直しの動きと結びつくことを怖れたのである。

 諸道鎮撫の官軍の総督・副総督に任じられ、さらに平定後の地方官に登用されたのは、武家ではなく宮・公家たちであった。王政復古の象徴的勢力である宮廷勢力が、維新政府創設期の重要な一翼となったことは記憶にとどめておかなければならない。これらの宮廷勢力の参謀は倒幕藩出身の下級武士が多いが、かれらは基本的には出身藩の利害を超えて、統一東征軍の中核となった。東征軍の主体は諸藩の軍事力であり、兵員の主力は薩摩・長州両藩や新政府に加わった諸藩兵であった。維新政権とはいっても、実態は封建領主階級の結束の上に維持されていたことは注目されるべきである。

 徳川慶喜は江戸に戻った当初は抵抗の姿勢をとったが、その後は松平慶永らを通じて政治的妥協の方策を模索した。二月にはいると、慶喜は完全に恭順の姿勢に転じている。老中を免じて徳川家の職制を「家職」の組織に改め、自らも二月一二日から上野の寛永寺・大慈院に蟄居した。新政府の処分の基本は、イギリスが江戸城攻撃に反対するようになっていた事情なども勘案して、江戸の開城、慶喜以下の引退と謹慎、武装解除など絶対的な恭順を実行させることにあった。

 関東各地に波及した戦いは、東北諸藩の多くが新政府に敵対することにより、大規模な内乱に発展した。
 新政府は会津・庄内両藩を追討の対象としていたが、奥羽鎮撫総督から追討を命じられた仙台・米沢両藩が新政府の強引な命令に反撥し「救解」を策した。新政府側の強硬な姿勢の背景には、長州の木戸の主張するような「大政御一新」の基礎を確立するためには戦争による勝利が何よりも良法とする見解が存在した。江戸開城により新政府側の勝利が疑いなくなった以上、戦争を継続することが反政府諸藩を徹底的に打ちのめすためのよい機会となると考えたわけである。

 新政府追討軍に反撥する信越東北などの各藩は奥羽越同盟を結成して、政府軍にあくまで抵抗する姿勢を示したが、嵐の如き政府軍の進撃の前に内部分裂をきたし、ついに降伏を余儀なくされた。最後まで残ったのは北海道の函館・五稜郭に拠った部隊であった。

 北海道全島を平定した旧幕軍は、アメリカの連邦政府にならい、旧幕臣の榎本武揚・松平太郎を総裁・副総裁とする「北海道政府」を樹立した。陸軍奉行には大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三、函館奉行永井尚志、開拓奉行沢太郎左衛門、軍艦頭甲賀源吾などの人事を決め、新政府軍に徹底抗戦の意思を示したが、十一日に新政府軍が函館を占領し、榎本武揚らは新政府軍参謀黒田清隆の勧告に従って降伏した。

 薩摩の大久保利通は、王政復古直後から諸外国の支持と対外的承認を取りつけるために、大車輪の活躍をした。大久保と寺島宗則はイギリスのアーネスト・サトウやフランスのモンブランの協力を取りつけ、新政府の成立とその外交方針を諸外国に告げる詔書案を起草し、一八六七年十二月一九日に天皇の裁可を得た。日本で唯一の正統政府と認められることにより、はじめて諸外国から一手に武器を購入することができる。新政府は、攘夷から和親へ外交政策が転換したことを諸外国へ表明し、諸外国の信頼を集めるために全力を挙げたのである。この努力はイギリス公使パークスの信任を獲得し、新政府としての承認を得ることによって達成された。

廃藩置県は壮大なぺテン

 ところで薩長は「王政復古」をスローガンとしたが、その意味するところは、神武創世の時代に帰るということである。同じ天皇親政でも「大化の改新」の天智・天武の時代や「建武の中興」の後醍醐の時代ではなく、なぜ神武の時代なのか。今日では、神武の存在そのものが虚構であることはわかっているが、「日本」「天皇」の発祥の時代ということが明らかな律令体制の時代に戻るということでもでもよかったのではないか。また、列強の脅威にさらされて「万邦対峙」のための「近代化」が迫られていた時代に、如何に公家たちの要求に押されたとはいえ、「王政復古」とはいかにも古めかしく、というより反動的なイデオロギーになぜ依拠しなければならなかったのか。

 明治新政府には、国家財政を賄うための税金を課するための土地や人民が圧倒的に足りなかった。幕府の天領や直轄地を没収しても八百万石では、必要経費の半分も賄うことができない。「いずれ大名たちを騙して土地と人民を取り上げるしかない」のである。これは「公地公民」の思想が利用された。
 「版籍奉還」もこの思想に基づいて実施されたのだが、実際には、一割の土地を、しかも租税のかたちで中央政府に納めさせただけで、新しくできた「藩」は、幕藩体制下の「藩」と実質的にはなんら変わりのないものであった。ただ、廃藩置県のよいところは、「王土王民」思想に基づいて、すべての土地と人民は天皇のもので、各藩主はそれを一時預かっているという意識を諸侯に再確認させたことと、廃藩置県は形式的には藩がなくなり県が生まれるとはいっても、実質的にはこれまでと変わりはないのだと諸侯たちに錯覚させたことである。

 薩長なかでも大久保の意識においては、帝国主義列強と対峙していくためには、プロイセン絶対主義におけるような強力な王政が要請されていたのであろうか。いずれにせよ、明治新政府の出発に当たっては、「五箇条の誓文」にいう「万機公論」に決するための公議政体、このなかには薩長土肥は勿論、おおくの有能な士族ばかりでなく、多くの公家たちの結集が求められていた。こうした勢力を結集するために「王政復古」が叫ばれたのだ。

 明治新政府は、幕藩体制下の天領と徳川家が返還した八百万石によって国家財政の運営をおこなわなければならず、諸侯より「版籍」を奉還されても、一人の官僚もおらず、財政的基礎も弱体である新政府としては、引続き諸侯に藩知事として従来の藩を支配させざるを得なかった。新政府は主として薩長土肥の諸藩から徴士または貢士として人材を供給させ、政府官僚とするところからはじめざるを得なかったし、また、薩長土から兵士を供出させて新政府の軍事力をつくりださなければならなかった。

 政府独自の軍事力の創出は、廃藩置県を強行するためにも必要であった。廃藩置県は、まさに藩知事となっていた旧藩主を首都に強制移住させ、文字通り土地と人民を奪うものであった。これは軍事力をもってあらゆる抵抗を抑えこんでも強行しなければならなかったのである。廃藩置県はまさに抜き打ち的におこなわれた。太政大臣の三条実美も右大臣の岩倉具視も、廃藩置県の具体策についてはなんら知らされていなかった。

 七月一四日、在京五六藩の藩知事が御前に召されて「汝群臣其れ朕が意を体せよ」という詔書が披露された。藩知事たちが声高に議論百出するのを黙って聞いていた西郷は、突然大声を発して「この上もし各藩にて異議起こり候わば、兵を以て撃ち潰すほかありません」というのである。これこそまさに武力の脅迫によるクーデタであった。結果、それまであった県と併せて三府三〇二を数えた県は最終的には三府七二県に集約された。

 廃藩置県にたいする旧藩主および士族たちの抵抗はほとんどなかった。それは版籍奉還の経験を経たことが大きかった。版籍奉還の場合は、まず薩長土肥の藩主が自発的に奉還を建議し、これをみて諸侯がバスに乗り遅れまいと追随した。朝廷は、旧藩主を藩知事に任命し、旧藩主の支配は実質的にはなんら損失をともなわなかった。したがって旧藩主たちは、廃藩置県の場合も、変化はいずれ形式的なものにすぎないと多寡を括っていた。結局、これは、新政府官僚の旧藩主に対する騙まし討ちであった。旧藩主たちがそれに気づいたときにはすでに遅かった。旧藩主たちは、見返りの金と華族に列せられたことで満足しなければならなかった。新政府の軍事力は実際には行使されることはなかったが、抑止力としては十分役に立った。 (つづく)


日本の敗戦、朝鮮半島解放60周年

   8・15日韓市民・民衆の共同宣言「東北アジアの平和な未来の実現のために」

  「8・15日韓市民・民衆の共同宣言 東北アジアの平和な未来の実現のために」は、去る六月二五日にソウルで開催された日韓共同シンポジウムの合意に基づくもので、8・15に日韓双方で発表された。韓国側は、広範な市民・社会団体の連合体である統一連帯、全国民衆連帯、過去清算汎国民委員会などの参加団体が名を連ねる。
 「日韓国交修交四〇周年−韓日平和シンポジウム 東北アジアの平和実現への模索」は、六月二五日、ソウルの韓国国会図書館講堂で開催された。関連行事である前日の日韓議員懇談会に出席の福島瑞穂・参議院議員(社民)、阿部知子・衆議院議員(社民)、いなみ哲男・衆議院議員(民主)の三人の国会議員を含め二七人が日本から参加。シンポジウムでは、「第一主題。東北アジアをめぐる動向分析と対応方向を探る」、「第二主題。記憶をめぐる闘い―東アジア平和のための試練」をテーマにし、討論の結果当面の共同課題として次の五点を確認した。@敗戦―解放・分断六〇年の八・一五に韓日(日韓)の市民・社会団体、議員等による共同声明を出す、A米軍が初めて朝鮮半島に上陸して六〇年目の九・八を契機に米軍撤収闘争を強化する、B一一・一七乙巳「保護条約」一〇〇年、一一月APEC釜山首脳会議に向けて韓日(日韓)フォーラムを開催する、C歴史を正し平和実現をめざす韓日(日韓)連帯のネットワーク作りと東アジアへの拡大の追求、D日本軍「慰安婦」問題の解決に向けてすでに準備が進められている八・一〇世界同時<水曜デモ>を繰り広げる。(編集部)


 日本の敗戦、朝鮮半島の解放から六〇年目の八・一五を迎えた。
 私たちは、未来に向けて日韓の市民・民衆が真の和解と平和・友好関係を築くことを心から願っている。しかし、今日、日韓両国の間には歴史認識をめぐる大きな葛藤が存在し続けていることが、あらためて浮き彫りになっている。
 このような状況を前に、私たち日韓の市民・民衆は、六〇年目の八・一五にあたり平和のための共同宣言を発することにした。

  (一)

 私たちは、二一世紀の今、未来に向けて東北アジアの平和・友好を築くために、歴史を直視することが極めて重要であることを確認する。
 今年は日本の敗戦・朝鮮半島解放六〇周年であるとともに、日本が武力によって朝鮮半島の人々の頭上に乙巳「保護条約」(一九〇五年)を押しつけ、事実上の植民地支配を開始してから一〇〇年目にあたる。敗戦までのこの四〇年の間に、日本は朝鮮半島の人々の土地を奪い、人的・物的資源を奪い、創氏改名や日本語使用の強制、また徴兵・徴用など強制連行・強制動員、日本軍「慰安婦」などを強いた。
 しかし、日本の敗戦後も日本政府は、これらの加害の歴史を居直り続けてきた。ちょうど四〇年前の一九六五年、日韓修交の際に締結された日韓条約はこうした日本政府の居直りを押し通し、広範な韓国民の反対の中、戒厳令のもとで結ばれたものである。
 ようやく日本政府は、九八年の「日韓共同宣言」、〇二年の「ピョンヤン宣言」で朝鮮植民地支配に対する「痛切なる反省と心からのお詫び」を表明するに至ったが、現在、その「お詫びと反省」の言葉とは裏腹の事態が繰り返されている。小泉首相の靖国神社参拝、侵略・植民地支配を美化・正当化する歴史・公民教科書の検定通過、朝鮮侵略・植民地支配の過程で一九〇五年に日本が初めて「領有」決定した「竹島(独島)」の領有主張などに象徴される事態がそれである。
 こうした加害の歴史を正当化しようとする日本の一部勢力の動きは、有事法態勢や憲法改悪の動きなど日本が再び歩み始めている「戦争のできる国」づくり、そのための「戦争をする人」づくりの動きと一体である。これらの動きは、韓国・中国をはじめとする近隣アジア諸国の人々に重大な警戒を呼び起こしているだけではなく、広範な日本の良心的市民・民衆の間にも大きな懸念を生み出している。
 私たち平和を愛好する日韓の市民・民衆は、ここに共同してこれら日本の一部勢力の危険な動きを糾弾し、監視しつつ、それを阻止していくことを宣言する。そして、これまで癒されない傷を抱えたまま放置されてきた戦争被害者への償いを、日本国家の責任において速やかにおこなうようあらためて強く要求するものである。また一切の戦後処理すら放置してきた日朝の国交正常化の速やかな実現を求めるものである。 

  (二)

 私たちは今年を、朝鮮半島に平和な体制作り、東北アジアに平和を築く転換点の年にすべきであることを確認する。
 朝鮮半島が日本の侵略・植民地支配から解放をかちとってから六〇周年の今年は、同時に、朝鮮半島が南北に引き裂かれてから六〇年目の年でもある。
 しかし、今日に至るも朝鮮半島は南北分断のもとに置かれ、「停戦協定」のまま準戦時状態が継続している。この朝鮮半島の分断と軍事的緊張の克服は、東北アジアの平和にとって依然として大きな課題である。
  二〇〇〇年六月の南北首脳会談によって南北共同宣言が打ち出されたことは、長期にわたる凍てついた分断状態の克服、南北間の和解、平和・統一への大きなステップであった。
 南北間のこうした動きにもかかわらず、韓国、沖縄・日本本土に膨大な軍事力を展開している米国・ブッシュ政権は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)敵視政策と先制攻撃戦略を強めてきた。ここに朝鮮半島における緊張の根源がある。
 私たちは、朝鮮半島と東アジア平和実現のためには、何よりもまず世界最大の核武装国である米国が先制攻撃戦略を放棄し、「停戦協定」を恒久的な平和協定に転換し、米朝間の国交正常化を実現することを強く求めるものである。こうしてこそ、北朝鮮の核兵器廃棄を含む朝鮮半島の非核化を実現できるだろう。 

  (三)

 私たちは、東アジアの平和を築くためにも在日・在韓米軍の撤退を求める。しか
し、米国は現在、世界的規模での米軍の再配置を進めており、多くの周辺住民の反対を無視して、日韓でも基地強化をはかっている。韓国では平澤への米軍拡張計画、光州、群山、水原、仁川に米軍を集中し、西海岸一帯を北朝鮮と東アジアに向けた米軍の戦争ベルトに作り変えようとしている。日本では、海上新基地建設や都市型訓練施設建設など沖縄基地の強化とともに、キャンプ座間への米陸軍第一軍団司令部の移転案に代表される日本全体の米軍出撃拠点化を意図している。このように日韓は米軍の東アジア覇権の軍事基地と化している。

 こうした現実は、この地域から米軍撤退を始めとする平和のための日韓の市民・民衆の連帯と共同行動を強めることを求めている。
 私たちは、朝鮮半島と東アジアに平和体制を構築するためにも、米国の先制攻撃政策を撤回させるための共同の取り組みを強めていく。
 私たちは、日韓両政府が、米国のイラク占領政策に加担しイラク派兵を行っていることに強く反対し、それぞれの政府にイラクからの撤兵を要求する。
 私たちはまた、日米安保体制の強化と自国の権益防衛を意図しながら、憲法改悪の動きを始めとする日本の「戦争のできる国(戦争国家)」への道に共同して反対していくことを宣言する。
 私たち日韓の市民・民衆は、一〇〇年にわたる歴史を乗り越え、解放・敗戦・被爆六〇年の今年を機に、新たな平和の時代を切り開くため全力を挙げていくことを宣言する。
    
二〇〇五年八月一五日


映  評

       「アリラン 2003」


          原作 羅雲奎  監督 李斗


            ヨンジン  ノ・イッキョン

            ヨンヒ   ファン・シンジョン


 監督の李斗繧ヘ「避幕」でベネチア映画祭特別賞を受賞し、他に「糸車よ糸車よ」「桑の葉」「内侍」など五十本の作品を世に送り出している。「避幕」とは死に臨んだ人を社会から隔離し、それこそテントのような施設に収容するための朝鮮独特の風習なのだが、映画「避幕」はシャーマニズムに彩られた妙に心に残る作品だった。映画「アリラン」は日帝統治時代の一九二六年、羅雲奎が脚本・監督・主演をこなし、朝鮮半島で大ヒットし、日本国内でも日本人監督名で公開された。そのフィルム自体、後で詳しく説明するが、行方不明になり、当時のシナリオをもとに羅雲奎生誕一〇〇年を契機に、原作に忠実に製作されたものである。

 物 語

 舞台は、日本軍国主義支配下の朝鮮、三・一独立運動に参加したヨンジンは激しい拷問を受けて精神に異常をきたしてしまう。父親は出身地の村に戻ったヨンジンを縄で縛って部屋に閉じ込めることしかできない。田畑を売り払いヨンジンを大学に行かせた父親のなげきは深く、いつも酔いしれている。地主は借金のかたに、自分の息子のために娘を差し出せと父親にせまり続ける。
 やがてヨンジンを哀れに思った父親は息子の縄をほどき「自由に生きろ」と解放する。狂人を解放した罪で父親は逮捕され、その留守中に地主の息子がヨンジンの姉に襲いかかる。たまたま戻ってきたヨンジンはことここに至って、生気を取り戻し、地主の息子を殺害してしまう。やがてヨンジンはとらえられ処刑場に連行されていく。悲しみの打ちひしがれた村民はアリランを歌いながら見送る。
 映画のなかに登場する村のありふれた風景、例えば家の前に台をだしてマッコリをふるまう居酒屋、字が読めないため郵便配達夫に息子の手紙を代読してもらう女主人、隣近所で食べ物を貸し借りする光景、食べられなくて集団で村を離れる村人たち、あくまで想像なのだがこのような疲弊した光景は日帝支配下でよく見られたのだろう。その当時の朝鮮の風景をよく表現していると思われる。
 ただこの「アリラン2003」は戦前に製作された「アリラン」を忠実に再現したものなので、現代の鑑賞者が見るといくぶん古いタイプの映画に見えてしまうのもいたしかたないだろう。ステレオタイプな人物像、あまりにも単純化された人物像。映像の中に解説の弁士のナレーションが入り、字幕で表現したり、無声映画のはずが出演者が突然しゃべりだしたり、方法としてどっちつかずの部分があるのは残念だ。またラストシーンのヨンジンが正気に戻る部分で、いままでモノクロの画面だったものが、カラー画面にきりかわる。モノクロの画面で集中していたものがカラーになると意識が拡散してしまうのだ。制作者の意図としては最後に盛り上げようと思ったのだろうが逆効果になっている。それとこれは日本語版制作上の問題なのだが。字幕がたいへん読みにくい点とかなりのまちがいがみうけられるのは残念だ。例えば、日帝支配下でソウルは京城と表記されたが、映画の中では京成と何度も出てくる(ちなみに京城と京成は同じ発音)。こういう場合はソウルに統一してもいいと思う。
 この原稿の最初のところで「アリラン」のフィルムは行方不明と書いたが、日本の戦前のフィルムの多くが現存していないのと同じように、「アリラン」も朝鮮戦争などの混乱によって、朝鮮半島には一本も存在していない。一時期、大阪近郊在住のフィルムコレクター阿部氏が所有しているとのうわさが流れ、南北の映画関係者が公開をのぞんでいたが、その阿部氏もなくなり、身寄りのない氏のコレクションは文化庁の管理となり、暫定的にその調査が行われたが「アリラン」は見つかっていない。ただ、そのフィルムコレクションを何の権限があって文化庁が管理するのか釈然としないところではある。
 とまれ、「アリラン 2003」は戦前の朝鮮半島の状況をよく映し出していると思う。この映画は未熟なりとも当時の朝鮮と日本の関係を映し出す鏡なのかもしれない。
 なお、映画「アリラン」の導入部とラストシーンで、アリランのメロディーがたいへん効果的に使われているが、現在、歌い継がれているアリランの歌詞および本調といわれる旋律は、一九二六年の映画「アリラン」が上映されるまでは存在せず、映画公開後、一斉に広まったそうだ。 (東幸成)

 今後の上映日程

 8月27日(土) 西宮市民会館アミティホール
 西宮・芦屋コリアンコミュニティ実行委員会<0798(33)0027>
 11月26日(日) エル・おおさか(大阪府立労働センター)
 アリラン上映委員会(大阪)<06(6352)2767>


せ ん り ゅ う

 せんそうはにんげんのしわざです

 なきながら叫びながら被爆を語る

 黙祷するなと高野連右翼か

 過ちを犯したと言わぬ米国

 ヒロシマに招待したい米大統領

 使命もつ平和憲法わが血なり

 黙祷のむねにしみいる蝉しぐれ

            ゝ 史

二〇〇五年八月六日

 ○ せんそうはにんげんのしわざです……子ども代表の声が響いた。この日、日本の各地、世界の各地で原爆の恐ろしさヒロシマのことが語られた。武器をもつな、殴り返すな。九条が世界平和への使命を担っている。


複眼単眼

  
歴史をとらえる視点 そして憲法

 アジア太平洋戦争とも呼ばれるあの十五年戦争が終わって今年は六〇年という節目の年だ。干支でいえば還暦。八月一五日が来るこの時期に、改めてこの国の六〇年前を考えてみたい。
 一般にはこの戦争はヒロシマ(六日)、ナガサキ(九日)の原爆投下と裕仁天皇の聖断による「終戦の詔書」の放送、玉音放送(十五日)によって終わったとされる。八月一六日、大本営は全陸海軍舞台に即時停戦命令を発した。これによって戦争は終わった。
 この「常識」に山川暁夫は抗議し続けた。山川は言った。「二月中旬、元老だった近衛文麿が天皇に上奏し、即時の降伏を勧告したにもかかわらず、天皇は『まだ台湾や沖縄がある』として、それに肯んじなかった。天皇が、実情にたって敗戦の断をその当時に下していれば、翌三月に始まる東京空襲以下のすべての年の消失も、沖縄の悲劇も、原爆の投下もなく、日本は敗れ去ったはずである」(「敗戦五〇年」一九九五年一月)。
 天皇の戦争責任全体を問うことはもとより、この山川が指摘する一九四五年二月十四日の近衛文麿の単独上奏、「日本の敗戦は必至であり、放置すれば共産革命が起きる。即時、降伏すべきです」という提言を裕仁天皇が拒否したために、どれだけの人命が失われ、傷つき、破壊されたかだけを考えても、歴史に向き合うことの重要さがわかる。
 裕仁はこの時に言った。
 「モウ一度、戦果ヲアゲテカラデナイト中々話ハムズカシイト思フ」(木戸幸一関係文書)と。御聖断などではない。この時、裕仁の頭の中はいかにして国体護持、天皇制を護るかの意識に占められていたと言われる。
 そして、
 二月十九日 米軍、硫黄島に上陸
 三月九〜一〇日 東京大空襲
 三月一四日 大阪大空襲
 四月一日 米軍、沖縄上陸
 四月五日 ソ連日ソ中立条約不延長を通告
 五月七日 ドイツ無条件降伏
 七月二六日 ポツダム宣言発表
とつづくのである。
 つまり、ヒロシマ、ナガサキの原爆は日本の降伏にとってはまったく必要がなかった。そのまえに日本軍はのびきったアジア太平洋の各戦線で各地の民衆に食い破られ、敗北していたのである。
 裕仁と軍部が「モウ一度、戦果ヲアゲテカラデナイト」などという間に、何百万の人びとがあらたに殺された。
 山川はいう。
 「つまり日本は疑いもなくアジアの闘う民衆の力に敗れたのであり、その歴史の力学こそが、日本の多数の民衆にとっては思いもしなかったような、民主主義の条件を保障した現憲法をわれわれに贈ってくれたのである。むろんその意味は再び、かつてのような日本になるのを許さない――というひとつの枷としてである」(同前)
 日本の支配層にとってはこの枷が小さすぎて、その野望の大きい骨身に食い込むようになった。憲法の枷を外そうとして暴れ狂うものを許すものか。 (T)