人民新報 ・ 第1179号<統合272(2005年9月15日)
  
                  目次

● 小泉政治に対決する戦線の構築を

● 豪雨と雷鳴をついて  WORLD PEACE NOW  9・11

● 香港・釜山にむけて WTO・FTAを問う

● ノーモア尼崎事故! JR東日本は大丈夫か?

● 9・4 防衛庁「人間の鎖」行動

● 謀略とクーデタに命脈を賭けた明治新政府 B   /  北 田 大 吉

● 図 書 紹 介   /   樋 口 篤 三 著 『靖国神社に異議あり―「神」となった三人の兄へ』

● 複眼単眼  /  花々との出会いを求めて  初秋の山行記




小泉政治に対決する戦線の構築を

自民が民主の票を食う

 第四四回総選挙は、自民党二九六(八四増)、民主党一一三(六四減)、公明党三一(三減)、共産党九(増減なし)、社民党七(二増)、その他二四で、自民・公明与党は衆院の三分の二を超え、小泉自民党の地すべり的な大勝という結果となった。自民党は民主党と自民造反派の議席を奪い「歴史的」勝利をした。こういう劇的な結果となったのには小選挙区制という制度も大きく作用している。各党の小選挙区の獲得議席数と得票率をみてみる。自民党二一九議席(四七・八%)、民主党五二議席(三六・四%)、公明党八議席(一・四%)、共産党〇議席(七・三%)、社民党一議席(一・五%)となっている。自民党と民主党の得票率の差は約一〇ポイントほどだが、議席では四倍ほどの差になる。少しでも得票率が上回ると一挙に大勝利となるシステムなのである。
 比例選では、自民党が約二五八八万票を獲得した。これは、衆参の比例選を通じて過去最高となった(〇三衆院選、〇四年参院選で民主党に奪われた比例第一党の座を奪還)。民主党は、約二一〇三万票で、前回より約一〇五万票少ない。公明党は約八九八万票だった(衆参の比例選を通じて過去最高)。共産党が約四九一万票、社民党は約三七一万票で、ともに前回を上回った。
 自民党の大勝利、民主党の大敗北ということだ。こうしたなかでの社民党の議席増加、共産党の現状維持は、改憲阻止など今後の大衆運動にとって重要な院内の拠点を守りぬいたといえるだろう。

郵政民営化阻止へ

 小泉は、総選挙で、財界とアメリカ資本の利益のための郵政民営化を、時代の閉塞を打破する魔法の杖だと押し出し、マスコミもそれを煽った。日本経団連は、自民党勝利のためにてこ入れを強力におこなった。しかし、民営化による郵政ネットワークの破壊で打撃をうける地方では、郵政民営化反対の中心人物である亀井静香、綿貫民輔、野田聖子などに自民党の「刺客」は勝てなかった。一方、都市部では、小泉「改革」路線は支持を受けた。民主党は、小泉の郵政民営化・構造改革に対する批判を争点として積極的に提出もできず、いまの停滞する日本の改造にむけた具体的なプランも無しに、「政権交代」を呼号するだけだった。日本は長期経済不況からの脱出をはじめさまざまな問題が山積していることによって、「改革」のイメージを強くアピールした小泉・自民党に、「夢」をかけた人は多い。たしかに、マスコミの言う「劇場型選挙」で、催眠状態に陥れられたような状況がつくられた。
 しかし、重要なのは、いかなる内容・方向をもつ「改革」なのかである。官僚・族議員・さまざまな利権の温床になっている郵政制度は「改革」されなければならないのはいうまでも無い。だが、小泉の改革・郵政民営化は、郵貯・簡保資金を米日金融資本に自由にさせるものであり、郵政ネットワークをズタズタにするものである。そして、公務員=労働者を「悪の根源」としてターゲットに設定し、削減・労働条件低下させることが、その「改革」の本質である。
 小泉は、郵政民営化を突破口に、地方行革、その他の反動的な政策を一気に進めてくるだろう。小泉は「自分の任期中に消費税増税はしない」としているが、すでにさまざまの控除廃止などが実行されており、大増税にむけて走り出している。小泉の新自由主義的構造改革は、日本をいっそうアメリカのような貧富の差の拡大する社会にしていく。
 小泉は、九月二一日に特別国会を召集し、郵政民営化関連法案を再提出、早期成立を目指すとしている。小泉・郵政改革の本質を暴露し、法案阻止を闘いぬき、小泉・構造改革攻撃に抵抗する労働者・市民の戦線の形成をかちとっていこう。

対アジア、対米、改憲

 小泉は総選挙での争点を、郵政民営化一本に絞った。その他の課題は、まったく隠された。年金、景気とともに、イラクへの自衛隊派兵、対アジア外交などは一刻もゆるがせにできないものであるにもかかわらず、自民党はまったく、この問題を避けた。
 自民圧勝の選挙の結果を、韓国、中国のマスコミは、これからアジアの緊張は激化するだろうと報じた。選挙後、小泉は靖国神社参拝について「適切な時期」に判断すると言ったが、年内の参拝は必至だと思われる。それだけでなく、歴史問題、排外主義の右派潮流の策動はいっそう強まるだろう。
 一方、アメリカ・ブッシュ政権は、小泉再選を大いに喜んだ。アメリカ国内で高まるイラクからの米軍撤退の声、ハリケーン・カトリーナ災害より反「テロ」戦争を優先することへの批判、イラク現地の「混乱」の拡大などの諸困難に直面するブッシュは、日本にたいして、自衛隊のイラク派兵期間の延長、米軍再編(トランスフォーメーション)への日本のいっそうの協力、そしてなにより米政府の「対日要望書」にある郵政民営化などの進展をより強く要求してくるだろう。
 小泉の政策は、アジアとの緊張をもたらし、アメリカの要求に応じる政策を進めることになる。この政策は、日本の政治的孤立化をもたらし、日米経済一体化による日本の富のアメリカによる収奪が構造化されることになる。そして、九条改憲の日程をはやめてくることは間違いない。
 小泉・自民党圧勝の結果は、労働者・勤労人民にとって厳しいものとして襲い掛かってくるのである。

勝利できる主体の形成へ

 小泉の総裁の任期はあと一年だが、そのころまでには、構造改革、対アジア外交、イラク情勢、米軍再編と基地負担増、戦争への道を開く九条改憲への動きなどなどのもたらすものがあきらかになりはじめる。また、大勝利にうかれる政府・与党は奢り高ぶっての行動をとってくるだろう。われわれは、小泉の国内・外交「改革」がいかなるものであるかを暴露し、労働運動、反戦闘争・反九条改憲運動を強め、自民党政治に大きな打撃をあたえる力をつくりださなければならない。
 選挙の結果について、右派メディアも圧勝自民党の責任の重さについて、警告している。産経新聞主張「投票行動 変化願望に託された重み」では、「……出口調査の年代別内閣支持率は、二十代、三十代の方が四十代、五十代よりわずかだが高かった。過去のしがらみの少ない若者の方が時代に対する閉塞(へいそく)感はむしろ強い。若い世代がより多く小泉政治を支持したのだとすれば、それは八月十五日に大勢の若者が靖国神社に参拝したこととも無関係ではないだろう。自民党への圧倒的な支持は、何よりも改革への支持である。郵政はその入り口に過ぎず、さまざまな分野で国民は政治の優柔不断と官僚主導の先送り体質に危機感を抱いている。衆院選の結果は自民党内の革命ともいうべき大きな変化をもたらした。小泉首相の訴えに有権者が共感したのは、政治はもとより日本が『変わってほしい』と強く感じる人が多かったからだろう。その変化への願望を生かすのが小泉政治の責任である」としている。
 小泉パフォーマンス選挙では、構造改革によっておおく懸案が解決される、閉塞状況が打破できると思って投票した有権者の政府への視線は厳しいということを強調しているのだ。小泉が与えた「夢」のような話は現実的な基礎を持つものではない。その破綻の到来は時間の問題だ。
 われわれは、小泉政治への対決姿勢を断固としてつらぬき、特別国会をはじめ秋の闘いに取り組んでいかなければならない。夏の行動につづいて郵政民営化法案阻止のための闘いを、野党、また自民党内の反対派への働きかけも強めながらやり抜いていこう。またイラクからの自衛隊の即時撤退、戦争のできる体制に反対する運動、東アジアの平和の実現、そして労働運動の分野では、国鉄・鉄建公団訴訟の闘い、未組織労働者の組織化、労働法制改悪反対を前進させていかなければならない。
 いま、新自由主義と強権政治の攻撃を迎え撃つため、主体の側の再編・強化が求められている。総選挙の結果を受けて、われわれは、従来の態勢では、激しい攻撃に対抗できないという認識を共通のものにし、闘う社会主義政治勢力の再編・統合へむけてのイニシアティブを発揮するべきときであると考える。
 多くの人びと、運動と真摯な協力関係をつくりあげ、小泉政治との対決、打倒にむけて、ともに前進していこう。


豪雨と雷鳴をついて
 
       WORLD PEACE NOW
 9・11

 9・ 事件から四年たった。ブッシュ政権によるイラク戦争の口実はことごとく崩れた。イラクではアメリカなど占領軍に対する抵抗闘争が継続し、国内の対立も激化し、内戦状況に近づいている。にもかかわらず、アメリカは石油利権のため、中東の地域支配のため、イラク占領を継続させ、派兵増強も考えている。
 この日、ブッシュはホワイトハウスで「黙祷」後、ハリケーン・カトリーナ被災地へ三度目の視察に向かった。ブッシュ政権は、救援の初動の遅れや治水対策の不備、そしてそれらが「反テロ」戦争優先のためにおきていることにたいして厳しい非難を浴びている。最近の世論調査(米誌タイム)によると、ブッシュ統領の支持率が就任以来最低の四二%におちこんだ。被災者支援の遅れに関する政府の説明に「不満足」が五七%になった。イラク関連予算を削りカトリーナの被災地復興に回すべきだとした人は六一%にものぼった。

 日本の自衛隊のイラク派遣期間は一二月一四日までだが、小泉政権は派遣期間を延長した上で、来年夏までに撤収する方向で調整に入る方針を固めたと報道されている。だが、総選挙の勝利で、いっそうブッシュ政権に肩入れしていくことはまちがいない。イラク民衆への占領・支配・虐殺を援ける占領軍への参加をただちに止めさせなければならない。

 九月一一日は、総選挙の投票日。
 正午から、WORLD PEACE NOWなどによって、明治公園では、「9月11日は平和のための投票を そしてピースパレードへ」「すぐもどれ自衛隊、終わらせようイラク占領〜戦争も暴力もない世界を〜」というよびかけでさまざまな催し、集会、パレードがおこなわれた。
 WPNのトーク&パレードは午後二時からはじまり、ジャーナリストの志葉玲さんがイラク情勢を報告した。いまイラクはフセイン時代より酷い人権状況にある。アメリカ占領軍に訓練されたイスラム教シーア派のバドル旅団というのが警察権力を握り主にスンニー派の人びとを拘束したり拷問したりしている。スンニー派とシーア派はもともとは仲が良かったが段々不協和音が広がり、今では対立するようになってきている。イラクの人たちはもともとは日本に対して友好的だったが、自衛隊がアメリカ占領軍を補完するために派遣されてきて以来、日本人は嫌われるようになっている。日本の選挙ではイラク派兵のことが全然問題になっていない。これで民主主義の国といえるだろうか。
 つづいて、未来バンクの田中優さん。
 石油が必要だからアメリカの戦争を支持せざるをえないという人がいるが、石油を必要としないような生活こそが大事なのだ。自分たちのできるところから生活をかえていく、エネルギーを多く消費する社会をかえていく、こういうことこそ必要とされている。お客さんではダメで、自分がなにかをしなければならない。求められているのは、絶対に希望を失わないことだ。
 つづいての沖縄国際大学生のアピールがはじまったところで、突然の大雨と雷雨。近くのビルの避雷針に落雷するのが見える。トークは一時中止。しかし、豪雨はなかなか収まらない。石段を滝のように水が流れる。
 小雨になったところで、さまざまのプラカードをかかげてパレードに出発。また激しい雨となったが、参加者はずぶぬれになりながらもパレードを最後まで元気におこなった。
 パレード隊列は再び明治公園にもどり、トークショウ、ピースキャンドルなどの行動をおこなった。
 集会・パレード参加者は約一〇〇〇名。豪雨のため最寄の駅まで来て返った人もかなりの数にのぼったようだった。

 WPNは、英国のSTWC(ストップ戦争連合)、米国のUFPJ(平和と正義のための連合)などの呼びかけに呼応し、9・11につづいて、自衛隊のイラクからの撤退を要求し、九月二四日、午後一時半から東京・中央区の坂本町公園で集会をおこない、午後二時から銀座ピースパレードをおこなう予定。


香港・釜山にむけて WTO・FTAを問う

 経済のグローバリゼーションは世界の貧富の差を拡大し、一握りの巨大資本が空前の規模で富をかき集めている一方で、各国の労働者・農民・市民の生活と権利は奪われつづけている。グローバリゼーション推進のためのWTO(世界貿易機関)や二国間FTA(自由貿易協定)・EPA(経済連携協定)がしばしば問題となっているが、今年の一一月には韓国・釜山でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議、一二月にはWTO閣僚会議が香港で開かれる。こうした新自由主義的なグローバリゼーションの流れを阻止するため「〜香港・釜山にむけて〜WTO/FTAを問う全国連鎖行動」がとりくまれている。
 九月九日、文京区民センターで「〜WTO/FTAを問う9・9東京集会」が開かれ、一〇〇人が参加した。
 集会は、冒頭、メキシコのカンクンWTO閣僚会議(二〇〇三年)でグローバリゼーションに抗議自死した韓国の農民・李京海さんへ黙祷をささげた。
 主催者を代表して脱WTO草の根キャンペーンの大野和興さんが挨拶。
 私たちの生活はたどっていくとWTO・FTA、グローバリゼーションに行きつく。いま歴史的な闘いの場にある。ふつうの人の連帯をどう作っていくかが問われている。
 つづいて、韓国・民主労総金属連盟起亜自動車労組の常任指導委員であり、昨年一一月に日韓FTA反対遠征闘争団の団長をつとめたチョ・ジュノ(趙俊虎)さんの講演。
 韓国の労働運動は軍事政権の弾圧の中から、まず繊維産業の女性労働者や中小企業の運動がおこり、八〇年代には自動車などの男性労働者の組織化を実現して、前進をしてきた。しかし、大きな試練の時期を迎えた。それは、九七年のアジア金融危機で、IMF(国際金融基金)の緊急融資と構造改革要求によって国が吹っ飛ぶような嵐に襲われた。われわれも何がおこっているかまるでわからなかった。銀行の倒産、民営化、非正規労働者の激増、多くの人が路頭に迷い、自殺者が激増した。これに対して、労働運動は、新自由主義、グローバリゼーションに対決しなければならないという認識に至った。日韓FTAによって韓国の労働者の労働条件は低下し、日本労働者の賃金は下げられるだろう。韓国の経験からすると、日本の労働者はグローバリゼーションの本当の大変さをまだ理解していないのではないかと思う。韓国と日本の労働者の団結は、第一に韓日資本のアジア民衆搾取を許さないということであり、第二にアジアの民衆に連帯の模範を示すことであり、第三に東北アジアの平和のためである。韓国では、APEC釜山会議、WTO香港会議にたいして大きな闘いを準備している。


ノーモア尼崎事故! JR東日本は大丈夫か?

   「レールは警告する〜尼崎事故とJR東日本」(ビデオプレス作品)

九月八日、なかのゼロ視聴覚ホールで、新作ビデオドキュメンタリー「レールは警告する〜尼崎事故とJR東日本」(ビデオプレス作品 43分)の完成試写会が開かれた。
 構造改革・規制緩和のはしりの国鉄の分割・民営化の結果として尼崎事故(四月二五日)が起こったが、風化しようとする風潮に抗してこのことを問い続けていく必要がある。そうでないと、再び三度、悲惨な大事故がおこることになるだろう。
尼崎事故のようなものを生む体質は、JR西日本だけではない。だが、JR東日本は、尼崎事故は西だけの問題だということで自らが俎上に上がるのを回避しようとしている。ビデオプレスのこの作品は、JR東日本の安全問題をテーマにしたものだ。

ビデオプレスはこの作品について次のように言っている。
「尼崎事故はJR西日本だけの問題なのか。他のJR会社に大事故の心配はないのか。こうした疑問を抱えて、私たちはJR東日本の千葉支社管内を取材した。そこから見えてきたのは、京成スカイライナーとスピ−ドアップ競争をくりひろげる成田エクスプレス、組合差別によってベテラン運転士に見習いをつけない労務管理、夜も昼も働く外注労働者の悲鳴と安全切り捨てだった。線路には傷や破断が続出し、民営化と利益優先主義のゆがみがいたるところに吹き出していた。作品では、民営化で事故続出のイギリスの実態も紹介している」。
 ビデオには、国労千葉地本の運転と保線の労働者が登場して現場の状況を語り、現場労働者が安全対策に危機感をもっている事がひしひしと伝わってくる。
 また線路の破断状況も写され、JR東日本の利益優先・安全のあとまわしがもたらした歪みがどこまで来ているのかを示している。

 はじめにビデオプレスの松原明さんが発言。
 イギリスは日本をまねて鉄道を民営化したが、事故がつづけて起こり、民営化見直しということになった。JRの職場も下請け化、孫請け化されているが、それは企業としての儲けは確保されるが、現場、ひろくは社会の力を弱めている。コスト、削減・利益優先が何をもたらすかを注視しなければならない。
おなじくビデオプレスの佐々木有美さんは、今回の取材で強く感じたことは、民営化、規制緩和、組合差別、これらをなくさなければ安全は確保されない、ということだった。
つづいて、ビデオに登場した国労の労働者四人が登場してそれぞれのおもいを述べた。
JR東日本の運転職場でも、すこしの遅れでもでると、西日本の「日勤教育」と同様に、すべて個人の責任にされて、「お前がわるい。反省しろ」と責められる。われわれ国労は少数派だが、おかしいことはおかしいと言い続けたい。そのためにも、職場での労働組合を強めていきたい。
 保線の職場では、仕事の丸投げがおこなわれている。レールも生き物だ。毎日の天候によって伸びたり縮んだりする。むかしは自分たちのレールだという意識があり、すぐに直したが、今では、見回りも毎日ではなく、二週間ごとだし、下請けの会社は、レールの破断箇所があったりしても、すぐには修理せず、何箇所かになったらまとめて直すというようになっている。保線の下請けの仕事は、電車の通らない深夜におこなわれるが、賃金が安いので、過密な長時間労働をせざるを得ない人が多い。
 安全問題については、国労が国民と共に考えていかなければならない。


9・4 防衛庁「人間の鎖」行動
 
辺野古新基地建設を断念せよ! 普天間基地を即時閉鎖せよ! 今こそ沖縄から米軍基地をなくそう!

 九月二日、那覇防衛施設局は米軍普天間基地の代替施設建設のための辺野古沖ボーリング調査用の四つの「単管足場」を撤去した。施設局は「台風シーズン」のためとしているが、阻止行動のかちとったひとつの勝利である。いまだ、国の側は「辺野古沖新基地建設」を断念しておらず、今後も闘いの継続が必要であり、白紙撤回を勝ち取るまで断固として闘いを強めていかなければならない。

防衛庁前で抗議の行動

 九月四日は、一九九五年の米兵による沖縄の少女暴行事件からちょうど一〇年目で、この日、防衛庁「人間の鎖」行動が取り組まれた。この行動は、海上ヘリ基地建設反対・平和と名護市政民主化を求める協議会(ヘリ基地反対協) 、ヘリポート建設阻止協議会(命を守る会)、辺野古への海上基地建設・ボーリング調査を許さない実行委員会(辺野古実)によるもの。
 午後三時半から、防衛庁・防衛施設庁正門前での行動がはじまった。接近する巨大台風一四号の影響による直前までの雨はあがり、行動終了まで間、青空が見えるくらいの好天となった。参加者は七〇〇名に達した。正門前の「今こそ沖縄から米軍基地をなくそう!」の横断幕を中心に、旗、プラカード。
 主催者あいさつは辺野古実の上原成信さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)。
 小泉首相は突然に衆院を解散させ、郵政民営化だけで、基地や憲法をかくしての選挙をやっている、平和の問題こそが重要だ。辺野古への新基地建設は行き詰まっている。政府ははっきりと断念を公言すべきだ。
 つづいて、辺野古現地で闘う四人からのアピール。ヘリ基地反対協の大西照雄さん、命を守る会の宮城節子さん、命を守る会代表の金城祐治さん、命を守る会事務局長の宮城保さん。
 午後四時、参加者は手をつなぎあい、「人間の鎖」は成功した。
 最後に、沖縄(ヘリ基地反対協)と本土(辺野古実)から、小泉純一郎首相、町村信孝外相、大野功徳防衛庁長官、北原巌男防衛施設庁長官あての申し入れ書が読み上げられ、係官に手渡した。

沖縄からの参加者と交流


 午後六時からは、文京区民センターで「沖縄からの参加者との交流集会」がひらかれ二五〇人が参加した。 はじめに沖縄からの四人が発言。
 大西照雄さん(ヘリ基地反対協)
 辺野古では単管足場が撤去されたが、小泉が閣議決定で「断念した」といわない限り闘いはつづく。この闘いでは泳げない人も海上戦をやるなかで泳げるようになった。いま、辺野古では九人の若者のカヌー訓練をやっているが、各地で青年たちによって、辺野古へ辺野古へという運動がおこっている。このことを私たちは非常に誇りに思っている。愚直に頑張る心を多くの人と共有したい。
 金城祐治さん(命を守る会)」
 蹴られても蹴られても路傍の石になって耐えてきたことが今日につながっている。いま、民営化のなかで組織労働者が解体させられ闘えなくなってきているが、だかたこそ、民衆はひとつになって大きな運動を作り上げていかなければならない。
 宮城節子さん(命を守る会)
 辺野古のおばあたちは、基地賛成派にも働きを強めている。おばあたちは闘いの中でどんどん強くなってきている。基地を県内にたらい回しにはさせない。移転予定地にはどこへでも出かけてそこを反対運動の地域にしていきたい。
 宮城保さん(命を守る会)
 日米安保が必要だという人でも、「地元に米軍基地を引き受ける」ということになると、ほとんどが反対だ。これがいまの日本の姿だが、一人でも多く、沖縄の痛みがわかる仲間を増やして欲しい。
 つづいて、在日韓国青年同盟、立川自衛隊監視テント村、平和フォーラム、東京全労協、日本平和委員会、キャンプ座間への第一軍団の移駐を歓迎しない会、沖縄の闘いに連帯する東部実行委員会などからのアピールがおこなわれた。

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普天間基地の即時閉鎖と辺野古への基地建設計画の断念を求める要請書


( … 前略 … )

 住民の、実に四分の一が命を奪われた沖縄戦。鉄の暴風と呼ばれる激しい戦闘の最前線に、幾多の住民がさらされ、死に追いやられました。戦後は、米軍の銃剣とブルドーザーによって土地が収奪され、民衆は軍隊の圧政の下に置かれました。「復帰」後も、日米地位協定の壁が立ちはだかり、米兵に車でひき殺されても、レイプされても、泣き寝入りさせられる屈辱の歴史が続きました。

 今日九月四日は、わずか一二歳の少女が三人の米兵にレイプされ、命を蹂躙された、あの事件の日です。あれから、一〇年。一体、何が変わったのでしょうか。

 現在、日米政府は、米軍の再編協議を進めていて、アジアに軍事的緊張を呼んでいます。普天間基地の「移設」問題は、その焦点の一つ。間違っても、これ以上の痛みが沖縄に向けられてはなりません。

 辺野古では、基地建設の第一歩であるボーリング調査を阻むべく、去年の四月以降、命がけの闘いが続いています。未だ、杭一本、打つことをも許さず、この二日には単管足場が撤去されるに至っています。

 私たちは今日、決意を新たにしています。

 沖縄に軍事基地を押しつけ、アジアで戦争を企む日米政府の横暴を決して許さないと。辺野古での身体を張った闘いに、最後まで連なると。ジュゴンの棲む命豊かな海を、絶対に守り抜くと。

 平和をつくり出すのは、日米政府でもなければ、米軍でも、自衛隊でもありません。平和は、民衆一人ひとりがしっかりと手を結んではじめて実現することを、私たちはここに示します。

 私たちは、全身全霊をもって、次のことを要請します。
 一、直ちに、普天間基地を閉鎖すること
 一、辺野古への基地建設計画を白紙撤回すること
 一、全国から軍事基地を無くしていくための話し合いを、直ちに始めること

         辺野古への海上基地建設・ボーリング調査を許さない実行委員会


謀略とクーデタに命脈を賭けた明治新政府 B

                     
北 田 大 吉

西郷隆盛は本当に征韓論者だったのか

 通説では西郷は「征韓論」者であるということになっている。西郷は不平と不満に渦巻いている士族たちのエネルギーを外に逸らすために征韓論を唱えたということになっているようである。しかし、これは真実であろうか。確かに西郷は、一般論としては対外的な平和主義者ではない。それは西郷の思想と行動から右翼思想が発展してきた経緯を考えても理解できる。また下野した西郷が、台湾問題に関する大久保の対清交渉を生ぬるいと切歯扼腕したといわれる。また、同じ参議であった板垣に対する書簡において、いわゆる「暴殺論」を展開していることも一つの根拠に挙げられる。暴殺論というのは、西郷が無防備で朝鮮にいって交渉すれば恐らく朝鮮側は西郷を暴殺するだろうから、板垣が朝鮮征伐を考えるならば、そのときがよい機会であろうといいうのである。この暴殺論についてはこれ以上触れないが、西郷が自分を朝鮮使節として派遣するように提唱し、すべての参議がこれに賛成した正院の会議録にもとづいて、西郷が何を主張したか、あるいはしなかったかをはっきりさせることが肝要であろう。

 新政府は日本における政権交代を告げるとともに、修好の更新継続を申し入れた。ところが朝鮮政府の役人が、文書の形式が従来とは違っているとして文書の受理を拒んだ。これに対して日本国内では、朝鮮の無礼の責任を武力で問うべしという「征韓論」が士族社会の一部で発生した。このような空気を受けて、国内の矛盾を国外に逸らして反政府のエネルギーを放散する狙いをこめて政策的な征韓論が提起されたのは事実である。

 明治六年初頭になって、朝鮮の日本公使館駐在の外務省七等出仕広津弘信が、外務少輔野上景範に宛てて次のような内容の報告書を送達した。

 一、公館への生活物資の供給と同館在住日本人商人の貿易活動とが、朝鮮側官憲の厳しい取締りで困難をきたしている。
 二、その理由の一つは、東京の三越(あるいは三井ともいう)の手代が対馬商人の名義を借りて商売を試みたので、「僭商」だと朝鮮側の怒りを買った。
 三、そこで朝鮮側は公館門前に掲示を出したが、そこには日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じるところがない。朝鮮当局は対馬商人以外に貿易を許していないのに違反した。近頃の日本人の所為をみると日本は「無法之国」というべきである云々。

 このままでは、「第一朝威に関し、国辱に関わる」ほどの深刻な事態であるから、「もはや、このままおきがたく」、「断然、出師の御処分」、つまり武力解決方針を決断しなければならないであろうが、「兵は国の大事である」から、とりあえず居留民保護のため「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、九州鎮台に即応体制をとらせ、軍事力を背景に使節を派遣して、「公理公道をもって、きっと談判に及ぶべき」であるとの方針をとられたいとのこと。

 この時期まで朝鮮はまだ鎖国政策を採っていた。日本との関係は、朝鮮国王と将軍との修好関係を維持して朝鮮は日本に通信使を派遣していた。これを仲介していたのは対馬藩で、対馬藩は幕藩体制に従属すると同時に、朝鮮国王にも朝貢する関係、すなわち両属関係にあった。朝鮮の釜山の草梁倭館はこのような対馬藩の便宜のために朝鮮側の好意によって設けられていたもので、このような立場を逸脱して日本商人が商業活動の拠点として使用することは、朝鮮側のいうとおり約束違反ということになる。また藩内に田畑をほとんどもたない対馬藩としては、朝鮮と日本の修好の仲介をすることを通じて若干の商業的利益を得ていたことから、明治維新によって従来の関係が変化したことに危機感を抱いていたものと思われる。

 正院のメンバーは三条太政大臣と、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平の各参議であった。まず板垣が原案に賛成し、居留民保護のために兵士一大隊を派遣せよと発言し、正院の空気はそれに傾きかけたが、西郷は、陸海軍の派遣はかえって朝鮮官民の疑懼を招き、日本側の趣意と反する結果となろうと反論し、まず使節を派遣して公理公道をもって談判すべきであると主張した。これにたいし三条が軍艦を引き連れていくべしと主張したが、西郷はペリーやプチャーチンの砲艦外交の例を挙げて、使節は「烏帽子、直垂で」(礼装し)非武装でなければならないと主張した。正院は西郷を使節として朝鮮に派遣することを決め直ちに上奏したが、天皇は外遊中の岩倉の同意を得て西郷を朝鮮に派遣することを裁可した。

 俗説によると、西郷は廃藩置県によって常職を失い、また徴兵令や廃刀令によって士族の誇りを傷つけられ不満の鬱積している旧士族たちのエネルギーを外にそらすために征韓論を主張したことになっているが、正院の議事をみるかぎり、それは誤りであろう。

 西郷の真意は、むしろ当時西郷に差し迫った脅威と感じられていたロシアの南進によって、朝鮮や中国が侵略され、それが間接的に日本にとっても脅威となるということであった。西郷は朝鮮がこのような脅威を自覚して鎖国政策をやめ、日本とともにロシアの脅威に対処するよう朝鮮当局と話し合うつもりだったという。アジア諸国が協力して列強帝国主義と戦うという発想は、この時期以前にも、この時期以後にも、絶えることなく生まれている。西郷が忠誠を誓った島津斉彬にもこうした思想があり、坂本竜馬が私淑した勝海舟にもこうした思想があった。横井小楠や松平春嶽の思想も同様であった。このような思想をアジア侵略を意図した帝国主義と同一視するのは必ずしも正しくないであろう。

 「征韓論」をめぐる正院の審議過程をみるかぎり、西郷を朝鮮を目標にした侵略主義者ときめつけることはできない。そもそも以前に「征韓論」を主張したのは木戸孝允であり、正院の審議において原案の「征韓」に諸手を上げて賛同したのは板垣である。軍艦を曳き連れて行けといったのは三条であり、西郷はむしろ参議たちのこのような「征韓論」に反対して、自分を非武装の使節として朝鮮に派遣するよう主張したのである。そういう意味では、西郷を除くすべての正院メンバーが「征韓論者」であったとしても、西郷だけはそれを免れるはずである。

 「征韓論」は外遊組と留守派との対立であるとする俗論もある。外遊組は世界を見てきたから「征韓論」など無意味なことを主張するはずもないが、留守派は内政のことしか考えられず、当面の不平士族にたいする方策として「征韓」を考えたというのである。これもまったく誤りである。外遊組の岩倉にしても大久保にしても「征韓論」に別に対立も反対もしていない。かれらは優先順位が異なっていただけである。とくに大久保は対外侵略に反対する立場から使節派遣に反対したのではなく、別の思惑があった。大久保がむしろ対外侵略主義者であるのは、台湾征伐を断固として遂行したことからもわかる。これこそ不兵士族の不満を逸らすために企てられた戦争であった。  (つづく)


図 書 紹 介

  
 『靖国神社に異議あり―「神」となった三人の兄へ』

               
樋 口 篤 三 著       同時代社  定価・本体1900円
 
三人の兄の戦死と敗戦

 樋口篤三さんの兄の三人は戦死している。「私の兄たち三人が戦死した年齢は、三男純三が二一歳、四男慶治二〇歳、五男栄助が一九歳」、そして樋口さん自身も「土浦航空隊に入隊したが、一七歳の時に敗戦」となった(樋口さんは男六人、女二人のきょうだいの末子)。戦死者はおおくの家庭から出たが、それにしても兄弟三人とは稀であろうが、戦争がもう少し続いていたなら樋口さんもわれわれと会うこともなかったろう(もっとも、敗戦の翌年生まれの私も、父親が海軍軍人で横須賀にいたから、本土決戦ともなれば相模湾から上陸してくる米軍との戦闘で死んだろうから、この世に生をうけることもなかったろうが)。
 樋口さんは、兄たちの世代について書いている。
「少年なので社会生活を知らず、人生の欲得、立身出世の道を一切断ちきり、『天皇=お国のために戦い、死す』心境に達していたからである。その道は『靖国神社』に直結し、『神』に一体化した人生であった。私もそうであった」。
 しかし、「必ず吹くと信じた『神風』は吹かず『八月十五日』となった。信じられないことであった。敗戦直後に驚いたことはいろいろあったが、東条首相が自殺に失敗したという報道もその一つだった。自らの名で公布した『戦陣訓』には『生きて虜囚』となってはならないとあった。天皇は口を拭ったように『人間宣言』をした。私の価値観はガラガラと崩壊していった。『人は何の為に生きるのか』。必死の思いで学んだ。聖戦、八紘一宇、アジア解放と信じていた日中・大東亜戦争が、帝国主義侵略戦争だったということを知った。これは新たな人生分岐点となった」。
 過酷な戦争と敗戦による指導層の腐敗ぶりが暴露されることによって全国的に爆発的におこった「価値転換」は、敗戦直後の労働運動・社会主義運動の盛り上がり、そして新憲法の定着に大きく影響した。

 この本は、三部構成になっている。
 まえがき 「神」となった兄とわが戦友たちへ
 第一部 靖国神社―国家・陸海軍による虚構の大装置(@戦争末期の靖国神社、A招魂社―なぜ西郷隆盛や白虎隊を排除したのか、B「靖国の神」の六割は餓死者であった、Cアジア侵略の歴史と「靖国の神」D戦陣訓―守った将兵は大餓死・戦死、守らなかった将軍A級戦犯)
 第二部 靖国神社に合祀された三人の兄(@中国・日中戦争と純三、Aアメリカ・サイパン戦と慶治、Bソ連・北千島最北端の占守島戦と栄助、Cアジア太平洋戦争とは何だったのか、【補】樋口家と近江商人のことなど
 第三部 アジアの中の日本―問われる歴史認識(@戦争と二つの道徳、A二つの「アジア主義」、B西郷隆盛と王道のアジア主義―西郷は征韓論に非ず)。
 第二部は戦死した三人の兄とその戦場について詳細な調査である。第三部では明治以降の日本のアジア侵略、そしてまたそうした道に有効には対決できないできた左翼の歴史を振り返り、西郷隆盛、勝海舟などの見直し、堺利彦や山川均などの再評価と日朝中の連帯(「朝鮮こそが日本の試金石」)、民衆の戦いが「仁義道徳」とそれに支えられる規律によって強大な侵略者を打ちやぶることができたこと、東洋の道徳の重要性などが述べられている。

極東軍事裁判・A級戦犯

 靖国神社をめぐる問題では、右派勢力は、今日では東条の復権・賛美のうごきまででてきている。
 この本でも東条の問題が「戦陣訓」との関係でとりあげられるが、東条の「自殺」失敗が樋口さんの人生の転換におおきくかかわってきていることは前に引用した。
 樋口さんは次のように書いている。「戦陣訓とは帝国軍隊軍人の軍律である。……全減したアッツ島、それに近かったサイパン、ニューギニア、レイテ、インパール戦においては、戦陣訓思想と絶対命令秩序によって、出さなくてよかった戦死者が数十万人におよんだ。靖国神社は、極東軍事裁判を『かたちだけの栽判』であるとし、A級戦犯を『昭和殉難者』として扱いつづけている。A級戦犯は、死刑となった大将東条英機、同板垣征四郎・同土肥原賢二、同松井石根、木村兵太郎、中将武藤章、広田弘毅元首相ら七名。受刑中に病死した梅津美治郎大将、同小磯国昭、永野修身海軍元帥ら(他に獄死した松岡洋右外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使、東郷茂徳元外相、平沼騏一郎元首相らがいる)計十四人である。彼等は一九七八年十月に靖国神社に合祀された。
 彼らのうち将軍八人(他に提督一)は、『昭和殉難者』とされるが、この将軍たちは自らが制定に責任をおう戦陣訓の、『第八・生きて虜囚の辱めをうけず』を実行せず、米占領軍の虜囚となった。そして裁判にかけられA級戦犯となったのである。
 戦陣訓と軍規を平然と無視した将軍たちの特権階級化と、忠実に守って大量餓死や犬死にさせられた二〇〇万将兵達との大差別大格差は永遠に不問とされ、同じ、『神』とされる。この格差は、当人たちが死んでからなお軍人恩給格差として現在も生きている。これほどの不平等・反人間性があろうか。靖国の思想・遣徳の根本を問うているのである」。
 戦陣訓「生きて虜囚の辱めをうけず」。こうして多くの人が死ななくてもよいのに、死においやられたのだった。

虜囚・東条の受けた「辱め」

 東条自身はどうだったのか。これは、日本の戦争指導者なるものがどんなやつらであったかを自己暴露するのものだ。樋口さんは糾弾している。「『生きて虜囚となるな!』とあれだけ号令をかけつづけながら、自分達はその圏外にいたというはなはだしい特権階級性と特権意識である。その最大の実例が首相・軍需相・陸相・参謀総長を兼任した戦時独裁者の東条英機大将であった。周知のように彼は、敗戦直後の九月、米占領軍が自宅に逮捕にきたのをみるや、書斎でピストル自殺を図ったが弾が急所を外れて(「その時」に用意して心臓に○印をつけていたのに)生きのこりまさに自ら捕虜となってしまった。気が動転していたから弾丸がはずれたのだという。全軍の総司令官だった武将にあるまじき行為であった。私の価値観の変化―疑いもこれがこれが第一歩であった。あきれるばかりである」と。
 その醜態・無残ぶりを、『スガモ尋問調書』<ジョン・G・ルース(読売新聞社 一九九五)>から該当箇所を引用しておきたい(CIC<対敵諜報部>の東条逮捕報告書と、ウィリアム・クレイグ記者の観察録によるもの)。
 <敗戦直後の四五年九月一一日、「午後二時三十分、CICのポール・クラウス少佐、ウィリアム・ヒラオカ大尉、ジョン・ウィルパーズ、ジョージ・ガイシ、ジェームズ・ウッド各中尉、ジェームズ・ウォード特務員らが、横浜のCIC第三〇八分隊司令部を出発した。……午後四時、この小さな平屋建ての家の前に、二台のジープが止まった。
 ……家の中では、東条は真っすぐ書斎に行き、椅子の上にひざまずいた。そしてシャツの胸をはだけると、三二口径のピストルを胸の印に向けた。四時十七分だった。
 銃声。……やっとドアが開いてクラウスが書斎の中に飛び込むと、東条の持つピストルが自分に向けられているのが、目に入った。クラウスは立ち止まり、東条を見つめた。将軍はじっとしていた。ピストルをつかんでいる指だけがほんのかすかに動いて、ピストルが緩んだ。三ニ口径が床に落ちると、一人の記者が将軍をあざ笑った。この男は短刀で腹を切る勇気もなかったんだぜ……他の記者たちもがやがや話し出した。皆、数分後には東条が死ぬと思い込んでいた。クラウスは椅子に座った将軍の上にかがみ込んで、傷を調べた。胸に銃弾の傷があった。呼吸するごとに、体から血があふれ出た。ウィルパーズは東条の椅子の向こう側に行き、ピストルを拾い上げた。椅子のわきのテーブル上には二五口径の別のピストルがあり、抜き身の短刀に自い布がかけられていた。三振りの日本刀もあった。記者の一人が、なお座ったままの東条の上に覆いかぶさるようにして、あふれている血にハンカチをひたし、その記念品を誇らしげにみんなに掲げてみせた。他の連中もそれに続いて、身動きしない人間から衣服の一部を切り取った。カメラマンたちは、腕で将軍の身体を抱き、仲間のレンズに向かってスマイルを作ってみせた。別の記者は、東条のシャツのポケットをまさぐって、たばこ入れを取り出した。そして、中にみった日本のたばこを、仲間と分け合った……>。
 「自殺」に失敗して「虜囚」になっただけではない。これほどの「辱め」をうけながら、生きながらえたのである。
 そして、東条ら七人のA級戦犯は、一九四八年一二月二三日に「スガモ・プリズン」内で処刑された。この日は、アキヒト皇太子(現・天皇)の誕生日にあたる。翌二四日には、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一らA級戦犯容疑者一九人がひっそりと釈放された。これらは、アメリカ占領政策への汚い協力とのひきかえに戦犯指定を免除され、その後日本の対米従属構造とアジア民衆に対する敵対とコースを演出した。
 岸信介につづくのが、福田赳夫↓安倍晋太郎↓森喜朗↓小泉純一郎、安倍晋三という派閥である。ここで東条と小泉らの地下水系は一致する。小泉らの靖国参拝は、まさに血の伝統なのだ。
 今また、靖国神社は、戦争の一機構として稼動させられようとしているこの時に、一読を薦めたい。   (MD)


複眼単眼

    花々との出会いを求めて  初秋の山行記


 久しぶりの山行だった。裏磐梯の秋元湖畔のスキー場から入って、福島県と山形県の境にある西大巓から西吾妻山などを歩いて、檜原湖畔の奥まった集落である早稲沢に降りることにした。
 もともと登山者が少ない東北地方の夏と秋の境の季節の山はほとんど登山者にも会わない。「これじゃあクマのほうが多いよ」と独り言を言いながら、比較的天候に恵まれて気持ちのよい山行だった。チングルマやトウヤクリンドウ、アザミ、リンドウなどの小さな、美しい花々に迎えられながら、西大巓と西吾妻の尾根道を往復した。標高二〇〇〇メートル程度、西吾妻小屋の付近はところどころに池塘まである湿地帯ではあるが整備された木道があり、歩きやすい。西吾妻の山頂では吾妻を縦走している青年と、記念写真の撮りっこをしながら山談義をした。
 のんびりと歩いたせいで、再び西大巓の山頂に戻ったときはふもとの早稲沢集落が四時半のバスに間に合わない時間になってしまった。そこで六時過ぎの最終バスにすることにしたが、そんな時間になると足下が暗くなるので少々焦って降りることにした。
 ところがこの道が、とんでもない道だった。ほとんど人が通っていないため、全くの藪こぎ状態で、しかも下りだ。上からクマザサや灌木を見下ろしながら降りる形になって、道が見えない。ステッキで藪を払いながら、道を確かめつつ降りなくてはならないのだが、下りが急なので相当に厳しくなった。ほとんど道しるべの目印はない。漸く小枝に巻き付けられた布をみつけるとほっとする。倒木もまったく整備されておらず、大木は超えるのに一苦労する。気をつけてはいたが、何度かは滑って、多少のかすり傷を負った。山は暗くなるのが早い。急な下り道の連続で、太ももには相当に負担がかかって、翌日からしばらくは筋肉痛で平地を歩くのにも苦労するハメになった。
 それやこれやで約四時間の下り道は結構きつかった。しっかりした登山用の手袋だったが、かなりすり切れてしまった。登山口からほどないところにある布滝にたどり着いて、漸く安心。この滝自体が観光スポットで、ここからは道が整備されている。水を飲み、上半身の着替えをして下山をいそいだのだった。
 私は体力のこともあり、比較的低山を歩くのではあるが、そんなにまで苦労して山に行く者の気が知れないという人もいる。活動家が自分の体をそのように扱ってよいのかと叱る人もいる。そう言われると困ってしまうのだが、降りてきてしばらくするとまた山に行きたくなる。気分転換、気力充実、体力増強、理屈付けはなんとでも言えるが、自分でもいまひとつ納得できる表現がない。考えてみると、私たちの青年時代には登山が結構流行った。多くの若者がリュックとテントを担いで山に登った。歌を歌い、たき火を囲んで語り合った。そのとき以来、山が好きになってしまったのだ。「そこに山があるから」などと使い古された言葉ではキザだし、なぜといわれても答えがない。
 まあ、せいぜい気を付けて、慎重にのぼりたいものだ。そうすれば山はとても楽しいものだ。 (T)