人民新報 ・ 第1181号<統合274号>(2005年10月5日)
目次
● 全世界でイラク反戦行動 自衛隊は即時撤兵せよ
● 許すな!憲法改悪・市民連絡会の声明
衆院憲法特別委員会設置に抗議し、あらためて憲法9条改悪反対の広範な共同を訴える
● 郵政民営化監視市民ネット主催の講演・集会 「郵政民営化から見えてくるこの国の将来」
● 大阪高裁判決 小泉の靖国参拝は憲法違反
● 市民憲法講座で澤藤統一郎弁護士が講演 「日の丸・君が代」強制がねらうもの
● 謀略とクーデタに命脈を賭けた明治新政府 D
(完) / 北 田 大 吉
● 書 評 / 橋本健二 著 「階級社会 日本」
● 複眼単眼 / 神宮の森で石原の東京五輪招致構想を考えた
全世界でイラク反戦行動 自衛隊は即時撤兵せよ
全世界でイラク反戦の声
九月二四日、全世界で「イラク反戦国際行動」が闘われた。これは、イギリスの「ストップ戦争連合」、アメリカの「平和と正義への団結」によって呼びかけられたものである。
アメリカ・ブッシュ政権はイギリス・ブレア政権を引き連れて、二〇〇三年三月に国際法にも国連憲章にも違反してイラク戦争を開始した。そして、最新鋭の精密兵器を大量の投入にしてフセインの軍隊を撃破し、同年五月に、ブッシュは「勝利宣言」をおこなった。しかし、その後の経過では、イラク攻撃の根拠とされた「大量破壊兵器」は結局見つからず、フセイン政権と9・11事件を起こしたとされるビン・ラディン=アルカイダとの関係も立証されないままでいる。米英軍の戦争の根拠はまったく失われたのである。にもかかわらず、アメリカ軍をはじめとする占領軍とその手先「イラク軍・警察」はイラク民衆虐殺をつづけている。イラク民衆の占領軍に対する抗議の闘いはいっそう広範なものになってきている。アメリカ兵士の死者は二〇〇〇人に近づいている。その過程で、宗派対立の激化、イスラム原理主義勢力の介入などによってイラク国内情勢はいっそう流動化しているが、日本の自衛隊は占領軍の一翼を担ってイラク民衆と敵対をつづけている。
こうした中で、二四日のイラク反戦国際行動が展開された。
アメリカの各地でも集会・デモに多くの人が参加したが、とくに首都ワシントンには二〇万人が集まり、ホワイトハウスを包囲するなどの激しい抗議行動がおこなわれた。
この行動には今回は新たに「平和のための戦死者の家族」が加わった。このグループの中になっているシンディ・シーハンさんは、イラク戦争で息子を亡くし、ブッシュ大統領に面会を求めて行動しイラク反戦の象徴的存在になっている。
開戦の口実がすべてでっち上げであったこと、そして戦争最優先のためにハリケーン被害がおきても対応ができず多くの人命が失われたこと、などブッシュ政権に対する批判の声が上げられた。アメリカ国内では、ブッシュ政権に対する支持率は急落し、イラクからの軍撤退を求める世論が過半数を大きく上回るようになっている。
ロンドンでも数千人が、ブレア政権に対しイラクからの即時撤退を求め行動がおこなわれた。アメリカ、ヨーロッパ、そして韓国、フィリピンなどアジア各地でも反戦の取り組みがおこなわれた。アメリカのイラク侵略戦争に反対する運動は着実に持続し拡大している。
銀座ピースパレード
日本でも、英米の反戦組織からの呼びかけにこたえての行動がおこなわれた。
WORLD PEACE NOW実行委員会は「世界の人々とともに
STOP THE WAR 終わらせようイラク占領 すぐもどれ自衛隊 戦争も暴力もない世界を」を掲げて、ピースパレードをおこなった。
坂本町公園での出発前集会で、主催者を代表して高田健さんがあいさつした。
今日、全世界で、日本各地で、イラク反戦の声があげられている。総選挙の結果、小泉与党は、改憲のための足取りを速め、前原民主党もこれに同調するうごきだ。選挙では郵政民営化のみを言っておきながら、実際にはさまざまな悪法の成立を狙っている。アフガニスタン戦争での自衛艦インド洋派兵のテロ特措法の延長やイラク派兵延長を許してはならない。一二月一四日が、イラク派兵の期限切れだが、小泉はブッシュの要求にこたえて派兵を続けようとしている。一二月一一日に上野でのピースパレードを予定しているが、小泉政権の政策に反対する闘いを強めていこう。
つづいて、APA(アジア太平洋平和連合)の笠原光さんが世界各地で反戦行動がおこなわれていることを報告し、日本の行動に寄せられたメッセージを読み上げた(米「平和と正義への団結」<二面に掲載>とフィリピン「イラク連帯キャンペーン」)。
明治大学駿台文学会、日本山妙法寺、平和憲法とあゆむ中野の会、沖縄・一坪地主会関東ブロックからのアピールがあり、パレードに出発した。
イラク自衛隊を巡る情勢
小泉はイラク自衛隊派兵延長を強行しようとしているが、イラク情勢は厳しさをましている。イギリスは来年五月までの撤退の方向で検討中とされる。オーストラリア軍も陸上自衛隊の派遣先であるイラク南部サマワを含むムサンナ州の治安維持などに当たっているが、ヒューストン国防軍司令官はキャンベラでの会合で演説し、同国軍部隊約四五〇人について来年五月までにイラクから撤退すると予想している、と語った。そして、自衛隊駐屯地周辺では爆発音が聞こえたり、市民による反自衛隊のデモも頻繁に起こるようになってきている。
イラクへの自衛隊派兵は一二月一四日に期限が切れる。九月下旬には、政府が来年前半に自衛隊の撤収を開始する方向で検討に入ったと報じられた。今年末にイラクの本格政権が発足する予定のうえ、サマワの治安維持を担当する英国や豪州軍が来年五月前後の撤収を検討していることを踏まえたものとされている。しかし、その内実は、イラク復興支援特別措置法に基づく自衛隊の活動の基本計画について派遣期間を一年程度延長する、ただし、イラクの治安回復が遅れ、多国籍軍全体のイラク駐留が長引いた場合は、陸自の撤収時期がずれ込む可能性もあるとされている。事実上の長期延長といえる。この背景には、多国籍占領軍から離脱する国が増える中で、アメリカ・ブッシュ政権が日本に延長を強く指示してきていることがある。小泉政権は、イラク移行政府が駐留延長を日本に要請しているとことをあげているが、イラク移行政府はアメリカのカイライにすぎない。
イラク戦争に参加した国の多くがすでに撤退した。いまもイラクに派兵している国の中でも撤収の時期を真剣に考えているところが多くなってきているのである。
イラク侵略戦争・占領政策はすでに破綻している。
全世界の友と反戦の声を合わせ、自衛隊即時撤退の運動を強めていこう。
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米・「平和と正義への団結」からのメッセージ
平和と正義への団結( United for Peace and
Justice)から、世界中でイラク戦争に反対している反戦運動に連帯を送ります。
違法で人の道にはずれた米軍のイラク占領が始まって二年と半年以上が過ぎました。
一九〇〇人以上の米軍兵士が死に、少なくとも一五〇〇〇人の米兵が怪我を負いました。何万というイラクの人が死にました。今、イラクの人びとは、まだ食料、水、電気や他の生活必需品も無いなかで、米国の軍事・企業支配下にあります。
ブッシュ政権は危機的状況におかれています。世論調査では、米国民の大多数がもはやイラク戦争を支持していないことが明らかになりました。五二%が、イラク占領の即時終焉と米軍の撤退を求めています。すでに混乱、荒廃状態にある米国内の社会サービスは、戦費のためさらに悪くなっています。これは、ハリケーン「カトリーナ」で被害を受けたニューオーリンズの最貧層の人びとや他の被災者に、米国政府が時宜を得た支援を提供することができなかったことに端的に現れています。ここ数ヶ月、議会のメンバーは、イラク占領にいたるまでのできごとの中でブッシュがついてきた嘘に関する公聴会を開いたり、米軍の早期撤退を求める法案を提出しました。
米国政府は、イラクから自国軍隊を即時撤退させる以外にまっとうな選択肢はありません。
九月二四日、イラク戦争の終結を求めて、何万という人びとが米国中から首都ワシントンに集まります。米国で最大の反戦ネットワークである私たち、平和と正義への団結は、イラク戦争、世界で今起きている戦争・起きるかもしれない戦争、そして、平和への脅威に反対し、この週末に全国規模のデモや関連行動を行います。
私たちは世界中で行われる大規模な連帯デモの知らせを聞いて励まされています。この惑星で、イラクから全ての軍隊を撤退させることによって、米国と自国政府の協力関係を終わらせようとする全ての市民の意思を心に留めておきます。私たちは、皆さんとともにあります。
イラク占領軍を直接的・間接的に支援する各国政府に、支援をやめ、全ての軍隊を自国に戻させるよう圧力をかける重要な時期です。民衆の力を信じ、これをぜひ実現させましょう!
イラク占領を終わらせよう!
全ての軍隊は今すぐイラクから出て行け!
二〇〇五年九月二四日
許すな!憲法改悪・市民連絡会の声明
衆院憲法特別委員会設置に抗議し、あらためて憲法9条改悪反対の広範な共同を訴える
第一六三特別国会が召集された日の翌日、九月二二日の衆院本会議は「日本国憲法に関する調査特別委員会」を設置する議決を与党の自民・公明両党および民主党などの賛成多数で強行しました。この特別委員会の設置目的は、憲法改悪のために必要な国民投票のため、その実施法案を審議すること及び日本国憲法の広範かつ総合的な調査を行うためとされています。
従来、自民党は憲法調査会の中で「国会法を改定してポスト憲法調査会としての常設の憲法委員会を作る」などと主張していました。この特別国会に先立って開かれた各派協議会でも当初、自民党は常任委員会の設置を主張しましたが、自公与党の協議で一転して国会法を変えなくても設置できる特別委員会(国会毎に本会議で議決すれば設置することができる)の設置を主張し、強行したのです。この結果、現在国会法で衆参両院に設置することが規定されている憲法調査会をどうするのかが問題となり、当面、衆院憲法調査会は委員を選出しないまま「空家」にしておくという奇妙な事態となりました。そして参院に憲法特別委員会を設置するかどうか、参院憲法調査会をどうするかについてはまだ結論を見ていません。国会法に規定された既存の委員会(憲法調査会)と任務が一部重複する委員会の設置を国会法の改定(憲法調査会の廃止)なしに行うなどというのは、もはや「脱法行為」をとおり越し、「違法行為」であるという他はありません。まともな議論も協議もせず、国民にもその意図も周知させないという、この乱暴で非民主主義的な議会運営の経過をみても明らかなように、今回の総選挙の結果、衆院で圧倒的多数議席をとった小泉自民党が、暴走しはじめたのです。
自民党が八月の新憲法第一次案の中で憲法第九条を全面的に否定し、総選挙後の代表選挙で当選した野党第一党の民主党前原代表が九条二項の改憲を主張するという中で強行設置された憲法特別委員会が、憲法「改正」国民投票法案を審議しようとしていることは極めて重大です。すでに小泉内閣は「対テロ特措法」で期限が切れる自衛隊のインド洋派遣部隊をさらに一年延長させると主張し、一二月一四日に期限切れとなるイラク派遣部隊のサマワ駐留も延長する意向です。これは九月二四日、英国、米国、日本、韓国、フィリピンなど世界各地で平和を求めてたち上がった多くの市民の願いに逆行するものであるばかりか、憲法九条を変えて日本を戦争する国に変えようとする動きの一環といわねばなりません。こうした危険な動きと憲法特別委員会の設置は軌を一にするものであり、私たちの絶対に容認できないものです。
憲法調査会の五年余を経て、憲法をめぐる国会の状況は危険で新たな局面に至りました。しかし、私たちは、この間の若者たちを先頭にしたイラク反戦のWORLD PEACE NOWの運動や、全国に広がる「九条の会」の運動、あるいは北東アジアに憲法九条を輝かせようと連帯を拡げているGPPACの運動など、全国各地で生まれつつある新たな力強い市民の運動に励まされ、確信を強めています。今こそ、憲法九条の改悪に反対する広範な人びとが連携を強め、つくり出されつつある共同行動をさらに発展させることが求められています。
全国の有志のみなさん、共に力を合わせて衆院憲法特別委員会設置に抗議し、その動きを監視しましょう。あらためて憲法九条改悪反対の広範な共同を拡げるために奮闘しましょう。
二〇〇五年九月二四日 イラク反戦のための国際共同行動の日に
郵政民営化監視市民ネット主催の講演・集会
「郵政民営化から見えてくるこの国の将来」
九月二九日、住友不動産芝大門ビル会議室で、郵政民営化を監視する市民ネットワ―クによる講演・集会「郵政民営化から見えてくるこの国の将来」が開かれた。
市民ネットは、「郵政事業を市民、・社会の手に」というスローガンの下、官僚と資本両方に対するオルタナティブを提起し、郵政民営化反対では郵政労働者ユニオンとともに国会闘争で「UBIN Watch news―国会傍聴ニュース」を発行して国会議員へのポスティングはじめさまざまな闘いに取り組んできた。
はじめに、市民ネットの秋本陽子さんがあいさつ。
市場原理主義で社会はひとにぎりの勝ち組と大多数の負け組に分裂している。アメリカが市場原理主義の中心だが、その無残な結果はハリケーン・カトリーナであらわになった。車社会のアメリカで、車も持てない貧困層は逃げることもできなくて大勢が死んだ。格差の存在、貧困の存在が明らかにされた。小泉の構造改革では、アメリカの状況と同様なものの到来が予想される。いま、公共サービス、社会的連帯が求められている。小泉の政策を許さない運動を進めていこう。
つづいて、この夏の郵政民営化法案廃案に向けた闘いの記録が上映された。
また、辻元清美・社民党衆議院議員からのメッセージも紹介された。
金子勝さんの講演
講演は、金子勝さん(慶応大学経済学部教授)。
小泉が総選挙で圧勝し、民主党の代表が前原になり、体制翼賛会のような状況がつくられている。これから大変な時代になる。
各種の世論調査でわかってきたことのひとつは、小泉に投票したのはどういう人々だったかということだ。それは、よくテレビを観ている人、二〇代前半の若者、低所得の人たちだった。とくに若者の小泉支持がめだった。小泉の手法は、ポピュリズムだ。ファシズムと言ってもいい。今日は自由と民主主義の名のもとでそれが進められるのが特徴だ。ヒトラーは、徹底的に大衆的に宣伝をおこなうことだ、そのためには徹底的に知的水準を下げることだ、と言い、そのとおりにやって大衆から熱狂的な支持を得た。ブッシュも同じ手法だ。それらを小泉はそっくり真似ている。
アメリカでは、マードックの「FOX」テレビが、ブッシュの戦争政策への大衆的支持を維持させるうえで決定的な役割を果たしている。そうしたテレビしか見ていない、新聞なども読まない、ほとんど考えない、多くは田舎に住むそうした人がブッシュ・共和党の支持基盤だ。そうでない都市部や知識人は民主党支持で、アメリカははっきり二分されている。ブッシュはバカな人を狙ったのだ。説明しない、知的でなく、煽情的なアジテーションをやる。その一方、ブッシュは非常にフレンドリーに見せる、いい人だと思わせる、こういう勘違いを起こさせるのがうまい。
アジテーションは二分法で、あれかこれか、敵か味方かという二択で迫ってくる。小泉もまったく同じだ。改革派と守旧派にわけ、敵を一方的にバッシングする。これが、メディアの視聴率を上げるものだから、マスコミもそうした方向に流れる。そして、ますます知的水準が低下する。子どもの学力低下が言われるが、大人こそが問題だ。
その結果、どういうことがおこったか。小泉の圧勝だ。戦前も同じことがあった。所得の低い層が、一番ナショナリズムに惹かれやすい。戦争で一番犠牲になったのが彼らだったし、いまも小泉の構造改革で、就職できない若者が小泉を支持している。アメリカでも貧しい白人たちがキリスト教原理主義にはまっている。ヨーロッパではネオナチだ。
日本の若者も、現状に不満で、秩序を破壊してくれるものを期待しているのだ。しかし、「負け犬」はダメだ。かれらの考えでは競争原理主義が前提になっているから、ホリエモンのようなサクセス・ストーリーに弱く、小泉も現状破壊の改革者として支持する。「ぶち壊してくれる人」待望論がある。それに、対抗するには、保守派になったら勝てないのだ。
小泉政権のもとで事態は大変なことになっている。国と地方の借金は一〇〇〇兆円をこえ、GDPの二倍になる。外交もダメ、道路公団民営化もだめだ。構造改革でフリーターが増える。こうした状況で、小泉は郵政民営化にしぼった選挙をおこなった。郵政民営化は世論調査でもわかるように、年金などに比べれば切実さは格段に低い。だから、自分に関係ない問題として安心して、しかも何らかの「変革」を期待して「小泉劇場」の選挙で小泉に投票したともいえるのだ。
最後に郵政民営化について。自民党政治は八〇年代に入って大きく変った。福田・中曽根に代表されるタカ派、規制緩和・新自由主義、親米という路線と田中派的なハト派、弱者救済、ケインズ主義、アジア重視という二つの流れが一体になり、財政では緊縮だが、そのかわり財政投融資では、おおいにバラまきをやった。そのために郵貯が世界に類をみないほど巨大化させられたのだ。小泉の民営化にくらべると、民主党の郵貯預入れ限度額半減のほうがラジカルだ。小泉改革では、官から民へ名前は変るが、ツケは先送りだが民主党案では、膨大な国債が買い支えられなくなる。それこそ大変な事態になる。小泉の改革は、国鉄分割・民営化のとき国鉄の官僚が民間会社JRの資本家となって大儲けし、財界入りしたのと同様なことがおこるだろう。上にやさしく、下に厳しいのが小泉改革なのだ。
郵政民営化反対にむけて
金子さんの講演に続いて、ATTAC Japanと郵政労働者ユニオンからの連帯発言がおこなわれ、今後の闘いについてアピールがあった。
大阪高裁判決
小泉の靖国参拝は憲法違反
九月三〇日、大阪高裁(大谷正治裁判長)は、「首相の靖国神社参拝は違憲(憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動)にあたる」との判決を出した。
これは、台湾立法院議員で原住民族「タイヤル族」の高金素梅さんをはじめ、旧日本軍の軍人・軍属として戦死した台湾先住民族の遺族ら一八八人が、〇三年二月に提起された訴訟の控訴審である。
提訴の内容は、靖国神社参拝は憲法が定めた政教分離に違反し、小泉首相の〇一年から〇三年にかけて三度にわたる靖国神社参拝(〇一年八月一三日、〇二年四月二一日、〇三年一月一四日)で精神的苦痛を受けたと主張し、首相と国、靖国神社に対して一人一万円の損害賠償を求めたもの。昨年五月の一審・大阪地裁判決は、首相の職務行為に当たらないと判断し、原告たちが控訴していた。
これまで小泉の靖国参拝をめぐっては、ほとんどの裁判では憲法判断に踏み込まず、公的、私的の判断にも踏み込まないケースも少なくなかった。昨年四月の福岡地裁判決が違憲判断をした唯一の例だった(過去に大阪高裁は中曽根首相の靖国神社公式参拝について違憲の疑いがあるとする判決をだしたことがある)。高裁の判決では、今年七月の大阪高裁と九月二九日の東京高裁との二回があるが、とも憲法判断せずに原告側が敗訴している。今回の大阪地裁判決の前日にあった東京高裁は首相の参拝を「私的で、違憲主張は前提を欠く」としている。
大阪高裁判決は、小泉首相の参拝は内閣総理大臣としての職務と認めるのが相当だとしたが、それは、参拝が「公的か私的か、あいまいな言動に終始する場合、公的と認定されてもやむを得ない」「国内外の強い批判にもかかわらず、参拝を継続しており、国が靖国神社を特別に支援している印象を与え、特定宗教を助長している」との判断を示し、憲法の禁じる違憲の宗教的活動だとしている。しかし、「控訴人らの思想・良心の自由などの侵害は認められない」とし、損害賠償については控訴を棄却した。
参拝が「内閣総理大臣の職務」にあたるかの判断については、公用車を使用し首相秘書官を伴っていたこと、公約の実行としてなされたこと、小泉首相が私的参拝と明言せず、公的立場を否定していなかったことなどを理由にあげている。また、内外の参拝反対の声の高まりを承知のうえで再三再四、参拝をおこなうことを公言するなど実施の意図が強固だったとし、「国と靖国神社の間にのみ意識的に特別にかかわり合いを持ち、一般人に国が靖国神社を特別に支援している印象を与えた」「社会一般に対し、国が靖国神社を特別に支援しているとの印象を与える」としている。首相としての小泉が靖国神社=「特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」と指摘した。小泉は「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳している。
この判決で、小泉ら靖国神社参拝推進派はこの判決に大きな打撃を受けた。 記者会見で原告団長の高金素梅さんは、「大阪高裁は正義に向けて一歩踏み出したが、反省と謝罪と賠償が判決に含まれなかったことには怒りを感じる。小泉首相はもう靖国神社を参拝すべきではない」と述べた。
市民憲法講座で澤藤統一郎弁護士が講演
「日の丸・君が代」強制がねらうもの
九月二四日、文京区民センターで、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」主催による市民憲法講座が開かれ、澤藤統一郎弁護士が「『日の丸・君が代』強制がねらうもの」と題して講演をおこなった。
以下、澤藤弁護士の発言要旨(文責・編集部)。
国家の原理・原則を崩す
自民党がおこなおうとしている改憲のねらいは、単に九条だけにあるのではない。日本の国のよってたつ原理・原則を根底から崩すことにある。そのためには、九条とともに、九六条をかえようとしている(九六条「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。A憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」)。
自民党と改憲案には色々なものが含まれていたが、これでは、与党の公明党の賛成や民主党も応じることができないとして、現実的な案として九、九六条に焦点が絞られてきたのではないだろうか。九六条を変えて、憲法改悪をやりやすいようにする、これで、次々と簡単に憲法を変えようというのだ。
戦争のできる国に
そこで九条の問題だ。九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という一項と「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とする二項からなっている。改憲派も九条一項は変えないという。平和主義を標榜しているわけだが、問題は二項を変えて戦力保持をすることをはっきりさせ、自衛軍を明記すると言っている。
戦争も「国益」追求の一つの手段だが、憲法九条を変えることで、戦争という手段も選択肢としてとりうるようにするためにしておきたいということである。
改憲を通して、この国を支配層の利益の最大限化を実現する国家、支配層の利益追求に国民を奉仕させる国家にしていくのが支配層の目的となっている。だが、今の日本の直面するのは、社会の諸矛盾の激化・経済成長への自信喪失であり、それを乗り切るための、新自由主義・新保守主義の「構造改革」路線そして、軍事大国化政策がある。国家改造のための前提には、国家に従順な国民が存在しなければならない。このため短期的には、メディアの統制が必要だが、長期的には教育をかれらの思うとおりに変えていくことである。そして、さまざまな反政府・反体制的な大衆運動を押さえ込んでいかなければならない。
愛国心を叩き込め
教育の面では、何よりも愛国心をたたき込むことだ。それで、「国民より国家が優先する」ということにしたいのだ。
自民党は、憲法前文に、愛国心、日本の歴史・伝統・文化、美しい国土などを書き込めと主張している。憲法だけではない。教育基本法や学習指導要領へも愛国心を書き込めとしている。教育基本法は、憲法と一体のものとして、憲法をいかす教育を支えてきた。教育基本法によるこれまでの教育の目的は「人格の完成」だったが、これを「国家・社会に有為の人材育成」にしていこうとしている。だが、これは、一方には一握りの創造的エリート、もう一方には従順な大多数という格差拡大の教育ということにほかならない。
教育の現場での闘い
東京をはじめ全国の教育現場では、「日の丸・君が代」が強制されているが、それは憲法改悪の先取りというものである。
「日の丸・君が代」の強制は、国家を国民に優先するものとして位置づける教育を権威主義・管理主義的に、実施させようとするものであり、それで、抵抗者をあぶり出し、これらの人びとを弾圧・排除することで、教育全体を一気に支配層の望む方向におしすすめさせようとするものである。
しかし、教育現場をはじめ、さまざまなところで「日の丸・君が代」強制に抵抗する運動が闘われている。こうした闘いは、国家主義への抵抗であり、人間の尊厳を回復する運動であり、子ども・生徒を主人公とした教育を実現する運動でもある。教育ファシズムとの対峙と言ってもよいだろう。
教育への国家の介入
教育基本法は、教育行政について、第一〇条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」としている。これがいま捨てられようとしている。とくに東京都の教育がその尖兵となっている。石原慎太郎都知事は、三つのことをやろうとしている。ひとつは、日の丸・君が代の強制、ふたつ目がジェンダーフリー教育の廃止、そして男女混合名簿の廃止だ。あとのふたつは、いずれも専門家たる学校教員がどうするかをきめることで、外から行政があれこれ言うことではない。教職員をはじめこうしたことに多くの反対がある。しかし、石原らは教育基本法一〇条の「教育は、不当な支配に服することなく……」を「教育<行政>は、不当な支配に服することなく……」として都や都教育委員会の方針への批判を封じ込めようとする。石原は、五年経ったら、全国の教育は東京と同じになると公言しているが、その危険性は大きいものになっている。
日本弁護士連合会は毎年人権大会を開いているが、来年のテーマは「日本の貧困」ということになっている。新自由主義の風潮の中で、新しい貧困がひろがっている。自己責任論があたりまえのように言われ、なんでも自己責任ということにして、国家はなにも手をうたない。非常に冷たい社会になる。国家からの自由があるが、国家による自由ということもある。福祉などがそうだが、結局は、この日本をどういう国にしていくかが問題とされているのである。
謀略とクーデタに命脈を賭けた明治新政府 D
北
田 大 吉
西南戦争は如何なる性格の戦争であったか
西郷は必ずしも反政府戦争に賛成ではなかったといわれるが、一方では第二の維新を構想していたともいわれ、その解析は簡単ではない。
しかし、西郷を追って多くの薩摩士族が帰郷し、新政府にたいする不満のエネルギーを高めていたことからいえば、このまま黙っていれば新政府にたいする戦争が必至であることは明白であった。西郷がそれを承知でなんら必要な手を打たなかったとすれば、それは未必の故意といえないこともない。
鹿児島ではいずれ西郷が起って新政府と戦争になることは公然の秘密となっていた。まして薩摩出身の大久保が、同じく薩摩出身の川路利良大警視に命じて中原尚雄警視庁警部を西郷暗殺のために鹿児島に派遣したことを知ったときボルテージは最高に達した。鹿児島では銃器や弾薬の価格が日を追って高騰しはじめた。鹿児島には旧薩摩藩の所有であった政府の草牟田弾薬庫があった。高騰する銃器を買う余裕がない私学校生徒たち千余名が、もともと薩摩藩のものである弾薬庫の存在に目をつけ、これを襲撃し弾薬を奪った。これを聞いた西郷はもはやこれまでと覚悟をしたという。
十二月十五日から西郷軍は動き出した。奇妙なことに西郷軍には戦略も戦術もなかった。根拠地である鹿児島を完全に空にして通りすがりにあった熊本城に襲いかかった。陸軍大将西郷の名前で、熊本城を守る将兵に陸軍大将西郷隆盛が中央政府に問い質したいことがあるので上京するから、熊本城兵は整列して西郷軍を出迎えるようにとの通達が発せられたという。根拠地を空にしたり、熊本城兵に整列を命じたり、西郷軍は政府軍を完全に舐めてかかっていたことがわかる。戦略的にみるならば、根拠地を空にすれば海路から政府軍が鹿児島を攻撃することに対処できない。さらに熊本城に拘るべきでなく、海路、大阪あるいは東京を直接衝くべきであったろう。熊本城に拘ったために、結果的には南九州から一歩も出ることが出来なかった。
西郷軍は鹿児島を出るときは一万余の軍勢だったが、逐次、徴募を繰り返したので、延べ三万の兵力となった。西南戦争の帰趨を決したのは田原坂の戦闘だった。田原坂はすでに薩軍の要塞と化しており、政府軍が十歩進めば十人が負傷するという苦戦を強いられた。薩軍の火力は戊辰戦争の際には幕軍を圧倒するほど優秀であったが、僅か十年の間の兵器の進歩はめざましいもので、いまでは官軍の火力は薩軍の火力の十倍にもなっていた。
官軍の兵士たちは、得意の「示現流」をかざして陣地に飛びこんでくる薩軍を異常に恐がったが、やがて自軍の火力の優勢を自覚し、白兵戦を避けて薩軍を圧倒した。「もう刀剣の時代ではない」とは戊辰戦争における新撰組の土方歳三の言であるが、西南戦争における薩軍はこうした兵器にたいする自覚に欠けていた。薩軍は、あたかも昔日の隼人の如く、「翔ぶが如く」に官軍の陣地を襲い、勝っても負けても、陣地に固執することなく翔びさった。
田原坂の戦闘において西南戦争の帰趨は決した。西郷軍は南九州を超えて中央政府に迫ることは一度もなく、長井・俵野に包囲された。このときの薩軍の兵力は三千に減っていた。この包囲を奇襲によって突破したのが五百ないし六百といわれる。最後に鹿児島の城山で三百七十人余の薩軍が七万余の官軍に包囲された。これはもはや戦争とはいえない。官軍による薩軍の虐殺である。負傷した西郷は部下に介錯を命じて果てる。
ところで西南戦争における西郷はまったく精彩を欠いていた。戦争の指揮は桐野利明(中村半次郎)に任せきりで、西郷は作戦会議にすら出ていなかった。あるいは桐野らに乗せられて反政府戦争をおこしたことを後悔したのかもしれない。西郷は最後には桐野の顔も見たくない素振りであったという。
西郷を含め、薩軍の士族たちは、政府軍を完全に舐めきっていた。徴兵軍は確かに弱かったが、戦闘を重ねるにつれて次第に経験を積み、最後には士族の軍隊である薩軍を殲滅したのである。薩軍は秋月や萩などいくつかの士族の反乱に見向きもしなかった。土佐の板垣のよびかけに応じようともしなかった。確かに薩軍のなかには、宮崎八郎など自由民権家の草莽が参加はしているが、薩軍はかれらを尊重しなかった。同じ南九州のよしみで参加を拒まなかっただけである。まして南九州の人民との連帯など念頭になかったにちがいない。この西南戦争の時期に、薩軍の布陣するすぐ近くで一万人の農民が集会を開いていたが、薩軍も農民側も互いに無頓着であった。
西南戦争は確かに大久保ら明治新政府が挑発し、いわば折を見てガス抜きを意図した戦争であったが、その性格はやはり反動的なものというほかはないであろう。西郷のいう「第二の維新」は、やはり封建時代までとはいわないまでも、歴史の歯車をかなり後戻りさせることを意図したものであったろう。
戊辰戦争から西南戦争にかけての時期に新政府はいつ倒れておかしくなかった
歴史的必然性とよくいわれる。確かに、西南戦争における薩軍の敗北には、後世から見れば、歴史的必然性が感じられよう。しかし新政府軍が戊辰戦争から西南戦争にかけて生き残ったのは、かなり偶然性のしからしめるところ大であったといわざるを得まい。
西南戦争における政府軍の勝利は、薩軍が人民の力を舐めきって、まともな戦争計画すらもっていなかったことが大きかったであろうし、装備についても日進月歩の兵器技術についての研究がなんら生かされていなかった。もっとも酷かったのは兵站である。薩軍は弾薬が不足し、戦闘中に鍋や釜などに使われている金属を徴発して手作りの弾薬をつくる始末であった。
歴史に「もし」はありえないというが、しかし、いったんは樹立された政治権力といえども不可逆点に到達するまでは、いつ倒壊してもおかしくない不安定な時期を経過するものであろう。明治新政府はまさに謀略とクーデタを繰り返しつつ生き残りを図り、やがて不可逆点にいたり一応の安定を達成したといえる。その不可逆点こそ、西南戦争ではなかったのであろうか。
明治維新においては、維新そのものがクーデタの結果として実現され、戊辰戦争もまた、官軍の勝利は幕軍の不統一と戦略を欠くという偶然によって達成されたものである。その後の数々の政変の勝利もまた偶然に左右されており、このような無数の偶然のなかで、公議政体から薩長土肥への政治権力の集中、やがて権力は薩長へと集約され、ついに大久保の独裁=有司専制へと権力の所在が次第に明らかになっていく。この間を通じて、維新勢力の一翼を形成していた公家が脱落し、諸侯が脱落し、下級武士層のなかから薩長土肥以外の者が脱落し、次いで土肥士族、西郷などが排除されて結局、政治権力は大久保の手に集中される。この間に薩摩の黒田、川路、長州の伊藤、井上、山県などが策謀して、明治十一年に大久保がテロに倒れたのちは、内務省をにぎった伊藤と陸軍をにぎった山県によって、明治新政府は一応の安定期に達するというのが大まかな筋書きとなったのである。
その後も日清・日露など幾多の戦争を経て、あるいは自由民権運動やその他の人民の闘争によって政治権力は、多くの危機的状況の挑戦を受けるが、それらは明治十年の西南戦争に至るまでの時期の不安定な状況とは異なっていた。 (おわり)
書 評
階級社会 日本
橋本健二 著 青木書店 2835円
階級的観点の重要性
郵政民営化法案は、自民党の強固な支持基盤であった特定郵便局長会が反対し、地元選出国会議員へ圧力をかけたことなどで、一度は否決された。本紙の九月五日号に掲載された関孝一「自民党内郵政民営化反対派の階級的側面」は、階級分析の方法で戦略戦術を確立し、敵内部の矛盾を大いに活用しながら日本階級闘争の勝利的前進を確立しようとするよびかけと、それを今回の郵政民営化反対闘争の中で具体化しようとする問題意識の意義は大きい。今後も関さんの理論・政策的な前進を多くの同志たちとともに期待したい。
関さんは、「自民党内郵政民営化反対派の階級的側面」の中で、橋本健二氏の「階級社会
日本」の視点で、分析をおこなっている。橋本氏の本を読んで考えたことを書いてみたい。
関さんも引いているが橋本氏の考える日本の基本階級カテゴリーは四つ。
@ 資本家階級―従業員規模が五人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業員
A 新中間階級―専門・管理・事務に従事する被雇用者(ただし、女性では事務を除外)
B 労働者階級―専門・管理・事務以外に従事する被雇用者(女性では事務を含める)
C 旧中間階級―従業員規模が五人未満の経営者・役員・自営業者・家族従業者
資本家階級と旧中間階級との境界を、従業員規模五人に設定した根拠を次のように述べている。「経営者・役員の所得は、自己労働による部分と労働者から搾取した部分の二つから構成されていると考えられる。そしてこの二つの部分を比較して、自己労働による部分が多ければ旧中間階級的性格が強く、搾取にもとづく部分が増えるにしたがって資本家階級的性格が強くなるとみることができよう。……」
中間層をどう捉えるのか
橋本氏は、中間層を、旧中間階級と新中間階級に分類するが、われわれが学んできた「伝統的な」(?)階級分析はこれとはことなるものであった。
橋本氏は、「スミスからマルクスを経てウェーバーにいたる近代社会科学の階級理論の中でも、マルクスの階級理論が卓越したものであることは明らか」であり「資本主義社会というひとつの歴史的段階における基本的な階級構造を特定し、そのうえ資本主義の動態や将来の姿まで射程に入れて階級構造を描いていた」と評価するが、「しかし、それでも時代の制約は免れない」として「第一に、農民や小生産者は資本主義社会の階級構造でどのような位置をしめるのか。マルクスはこれらの人々が長期にわたって残存することを認めていたが、やはり最終的には消滅し、階級構造は両極分解すると想定していたため、これらの人々の位置づけを明確にしなかった。これらの人々は独自なのか、そうではないのか。独自の階級だとすると、何によって特徴づけられるのか。マルクスはこの点について明らかにしていない。」「第二に、指揮・監督労働や商業労働に従事する人々は、階級構造の中でどのような位置を占めるのか。マルクスはこれらの人々の増加を予測していたが、その性格を明確にしなかった。これらの人々は労働者階級なのか、違うのか。また、階級構造の両極化に逆らってまで増えるのか、それともいずれは他の労働者と同じ境遇に落ち着くのか。マルクスはこの点について明らかにしていない。」「第三に、資本家の内部分化は何を意味するのか。マルクスは機能資本家を貨幣資本家から区別したが、機能資牟家の位掻をあいまいなままに残してしまった。彼らは資本家なのか、そうではないのか。さらには、彼らに連なる経営者・管理職たちは資本家なのか、労働者なのか。生産手段を所有していない人々を機能資本家と呼ぶのは、資本家階級の定義に抵触するのではないか。マルクスはこの点について明らかにしていない」として「要するにマルクスは、彼の考える二大階級のいずれについても不確定の部分を残したし、この二大階級に含まれない人々についても不確定の部分を残した。まさに、未完成の階級理論というほかはない」として、「マルクスを超え」ることが必要だとする。そして、氏の四つの基本階級カテゴリーとなる。
資本主義的搾取が基本
「新中間階級」は次のように描かれている。
収入は、資本家階級とは差は大きく旧中間層階級とほぼ同水準、不動産や金融資産も資本家階級にはほど遠く、いずれも労働者階級についで少ない。持ち家比率は労働者階級とほぼ同じだが、社宅・官舎などの面で「企業の手厚い福利厚生の恩恵を受けている」。総じて「収入は中間的で、資産はやや少ないが、教育水準が高く、また企業から手厚い保護を受けて、かなり高い生活水準を享受して入るものの、政治的には必ずしも保守的でない階級である」とされている。
橋本氏の「新中間階級」論にはいつくかの疑問がある。氏は、「新中間階級」を「専門・管理・事務に従事する被雇用者(ただし、女性では事務を除外)」とし、「労働者階級」(専門・管理・事務以外に従事する被雇用者(女性では事務を含める)」と分ける。「労働者階級」は資本主義的搾取では「被搾取」とされるが、「新中間階級」は「軽度の被搾取or搾取」とする。「軽度の被搾取」はわかるが、資本主義的「搾取」をしているとはどういう意味か。たしかに、株の所有などにより、搾取の一部を手にすることはあろうが、「新中間階級」が「被雇用者」であるかぎり、それは収入の一部に過ぎない。資本を所有しない「経営者」が、資本家の機能を果たすことはあっても、氏の「新中間階級」は範囲のひろげすぎだろう。
「マルクスを超える」とは
たしかに、マルクスが階級論を完成させたというのは言いすぎだろうし、マルクスの時代から資本主義も発展・変容しているのだから「マルクスを超える」ことは当然要求されてしかるべきだろう。
では、なぜ、「中間階級が分解して、ブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級が形成されなかったのか」。こうした問題については、すでに、ベルンシュタインがマルクス主義の修正を提起し、カウツキーらの「正統派」との論争があった。そうした論争に決着をつけたのがレーニンであり、とくにその「帝国主義論」であった。資本主義の発展は独占資本主義をもたらし、植民地・従属国からの強搾取・収奪によって、プロレタリアートの一部を「労働貴族」に変えた。そこから、プロレタリアートの中での階層分化が生じた、とレーニンは説明した。氏の「新中間層」とは、レーニンの「労働貴族」とどう関係するのか。ちなみに、本書には、レーニン階級論への言及は無い。
一国の階級関係は、一国の分析だけで完結するわけではない。かならず、世界の中におけるその国の位置というものが前提とされなければならないのである。そして、資本主義の発展段階の違い、資本蓄積の態様の違い(また生産力の水準)が考慮されなければならない。
「変革主体」は誰か
氏は「変革主体は誰か」で、「伝統的なマルクス主義理論は、労働者階級を変革主体と考えてきた。しかし、現実には、労働者階級が中心になって社会体制が変革されたという例は多くない。……ロシア革命の場合においてすら、革命勢力の主力は労働者階級とならんで農民層であった。しかも彼らは、レーニンをはじめとする知識人に指導されていた。そして先進資本主義国の場合、反体制運動を担うのは労働者階級ではなく、学生や知識人であることが多かった」として、「私たちが分析から得た最も顕著な結論は何か。それは第一に、労働者階級は政治的な変革の中心的な主体にはなりえないという冷厳な事実である。そして第二に、社会は新中間階級に、その多数部分の夢を託すことはできないという事実である。だとすれば私たちは、階級という枠にとらわれることなく、つまり、特定の階級を変革主体と考えたり、特定の階級の支持する社会像を未来社会の見取り図とみなしたりすることなく、新しい社会を構想していかなければならないことになる。最大多数の人々が合意できる、より公平で公正な社会とは何か。次に私たちは、この困難な課題に立ち向かうことにしよう」ということになる。
ここまで読み続けてきて、「意外な」結論にびっくりさせられた(ただし、「この困難な課題」としてある「第八章 新しい『平等社会』へ」には学ぶべき点が多い)。
時代、階級と政治勢力
氏の階級論についての弱点は、帝国主義論の欠落、一国主義的視点にあると思われる。いまの日本の労働者階級の現状は革命には程遠い状況にあるのは言うまでもない。だが、大事なのは変革主体が、「時代」によって蒙る変容である。エンゲルスは、一九世紀の末に、イギリスの労働者階級の「ブルジョア化」に注目した。帝国主義の道を歩みだした多くの欧米諸国は労働運動における修正主義をうみだした。だが、戦争または恐慌などは、労働者階級のブルジョア化をゆるす条件をいちじるしく縮小させ、革命的な情勢がつくられた。階級は、生産手段の所有と搾取の関係を基軸にするが、その社会がこうむる変動によって、革命的にも、保守的にも、反動的になる可能性をもっている。つねに変革主体の条件を持っているわけではない。
もうひとつは、階級と政治勢力(政党)との関係である。マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」の「プロレタリアと共産主義者」で階級と政治勢力との関係を述べ、レーニンは「なにをなすべきか」で、階級は政治勢力によって指導されることを論じた。労働者階級は、政党との関係抜きに「変革主体」になるわけではない。そうしたものが無ければ、現在の日本のようにイデオロギー的にも、政治的にも解体され、ブルジョアジーの攻撃の前に次々と後退させられる。労働者階級にかぎらず、資本家階級も政党を通じてその政治を実現する。いま、いわゆる「新中間階級」層は、過酷なリストラ攻撃に直面し、削り取られている。日経連の「新時代の『日本的経営』」が、財界の方針として提起した、労働力の流動化、終身雇用制・年功性制の破壊がある。新自由主義攻撃は、初期資本主義と同様の弱肉強食、「万人は万人の敵」状況がつくられ、日本社会、そして日本の労働者階級もまた大きく変容する過程にある。
本書は、統計資料を駆使し、「四つの階級・四つの生活社会」をはじめ、具体的にイメージのわく章も多い。家具会社の労働者たちを描いた『ツルモク独身寮』(漫画雑誌「ビッグコミック・オリジナル」に連載され、映画化もされた)を題材にした階級論は非常に面白いものだ。
社会が、そして諸階級が新たな変容を求められる時代に、階級論や不平等格差社会論のついての書籍が発行され、大いに論議を呼ぶことを期待したい。
(MD)
複眼単眼
神宮の森で石原の東京五輪招致構想を考えた
明治神宮外苑は東京の渋谷区、新宿区、港区の境にある。都心部では「皇居」、上野公園、芝公園、明治神宮などと合わせ、有数の緑地で、数十年は経っているであろう大木が林立している。欅、公孫樹、ユリの木、椎、桜などの大木とさまざまな雑木や草々が美しい森を造る。公孫樹はもとより秋には紅葉も美しい。よく見るとカリンの木が実をつけていたり、「なんじゃもんじゃの木」などというのまである。うっそうと繁った森には小鳥や虫などがたくさんいる。以前、本欄で書いたオオミスジコウガイヒルなどという珍しい生き物もいる。もともと明治天皇をたたえるために造ったものだから、「御観兵榎」などというものもあるし、「聖徳絵画館」などという建物もあり、少し引けてしまいもするのだが。
この森の隣には一九六四年の東京オリンピックで整備・拡張された国立競技場や秩父宮ラグビー場、神宮球場などさまざまなスポーツ施設がある。
老若男女の都民、それぞれにこの森や施設を使い、楽しんでいる。
ところが石原都知事がいま開会中の都議会の所信表明演説で、突然、二〇一六年夏季五輪の招致に取り組むことを表明、外苑再開発や全ての施設のリニューアル、交通インフラの整備などを主張し始めたのだ。
「日本の存在をアピールする絶好の機会」「オリンピックを起爆剤として、日本をおおう閉塞感を打破するためにやる」「都民、国民はもとより、産業界や競技団体など幅広い分野からの支援、協力を得ながら、イニシアティブを発揮し、ぜひ東京オリンピックを実現したい」などとというのだ。
もともと反「平和憲法」主義者で、公然と憲法違反を積み重ね、領土問題や靖国問題などをはでに主張することでナショナリズムを煽り立てて、東アジアの隣国との緊張を意図的に激化させてきた超右翼の石原知事は、こうしたパフォーマンス以外に都政におけるまともな実績がないことは知られている。新自由主義「改革」の先取りで、都職員労働者をいじめ、都民の福祉を切り捨てることくらいしか能がない石原慎太郎が、自らの都政における政策的「閉塞」状況を乗り越えようと、財界と結託し、起死回生の切り札として出してきたのがこの東京オリンピックの招致なのだ。この大型開発がすすめられれば神宮外苑一帯はまったく様相を変えてしまうことになる。都民の税金と都有の財産をこの再開発につぎ込むという、この石原構想は財界からみればよだれの出るほどの構想だ。
二〇〇八年には中国指導層が、かつての東京オリンピックが資本主義的「高度経済成長」の起爆剤になったと同様の効果を狙っている北京オリンピックがある。この八年後に同じ東アジアでオリンピックがひらかれることに、世界が同意しにくいことは明らかだ。
大阪市は四〇億円もかけて五輪招致活動をしたが、パリに敗れた。東京も同じ憂き目にあう可能性が大だ。石原は追及されて苦し紛れに「ダメだったらあとはみなさん、若い人で次の二〇二〇年招致に頑張ってください」などといっている。
石原慎太郎は都知事の三期目でも狙っているのかも知れない。今度の総選挙では、田中・長野県知事が新党日本の党首になるという先鞭もつけたことだし、この超右翼も都知事で新党党首、国政進出などということも考えているかも知れないぞ。 (T)