人民新報 ・ 第1206号<統合299(2006年8月7日)
  
                  目次

● 略戦争を賛美し、アジア民衆に敵対する小泉らの靖国参拝に反対しよう

● イスラエルの侵略に抗議

● 航空自衛隊もイラクからもどれ! 新しい反安保実が申し入れ・デモ

● 「安全を訴えたら処分」  JR東日本の非常識を問う

● 鉄建訴訟を軸にして、一〇四七名の統一・国鉄闘争勝利へ

● 2006ピースサイクル  平和への願いをペダルに込めて…止めよう戦争の流れを!

           埼玉ピースサイクル報告

           東京ピースサイクル報告

● 子どもはお国のためにあるんじゃない  教育の自由を勝ちとろう

● 梅雨の終わり 沖縄にて   師岡佑行さんを悼んで  (中村大蔵)

● Kodama  /小泉政治は格差を拡大させた

● 複眼嘆願  /  天皇発言メモにみる無責任の構図





略戦争を賛美し、アジア民衆に敵対する小泉らの靖国参拝に反対しよう


 靖国神社は侵略戦争を美化し、アジア諸国民衆に敵対するイデオロギー装置であり、日本の右翼排外主義の拠点であり、本質は宗教施設という装いの軍事施設なのである。
 その靖国神社に小泉は首相になって以来、内外からの大きな反対を押し切って、毎年、参拝を強行してきた。
 今年は敗戦から六一年目。小泉の任期は九月までだが、後継総裁・総理の最有力候補とされる安倍晋三官房長官もまた侵略戦争美化、反朝鮮・反中国の右翼政治家であり、小泉や安倍が今年の8・15にいかなる行動をとるのか、そして今後、日本政府首脳が靖国神社にたいしてどのように対処するのかということは、対アジア関係だけでなく、憲法九条、民主主義にかかわる国内政治に重要な問題となっている。
 アジアの民衆と連帯して小泉らの靖国参拝に反対して闘うことは、九条改憲阻止・戦争阻止の重要な結節点となっている。

 小泉らが靖国参拝にこだわりつづけているのは、それが戦争の出来る国づくりと不離一体だからである。日本支配層は、アメリカとの同盟の下で、政治・軍事大国化を目指しているが、そのために憲法九条を変えて軍隊の保有を宣言し、教育基本法改悪で戦争のできる人間をつくり、靖国神社で戦争美化の思想を煽り、新たな戦死者を祀ることが必要なのだ。これが、小泉政治の五年間がめざしてきたものであり、安倍もまた同じ道を歩もうとしている。
 だが、この政治方向は、内外から大きな反対の動きを引き起こしている。かつて日本軍国主義の残虐な侵略戦争・植民地支配を経験した中国、韓国・北朝鮮などアジア諸国からの反対の声はますます大きなものになってきている。最近の世論調査でも、アジアとの関係を考えて、首相の靖国参拝反対が国内でも多数派となっている。最近の動きで目立つのは、政府・与党内からもA級戦犯分祀の声が高まり、また対アジア関係の改善をねらう財界筋からの参拝自粛要請の強まりである。そして、昭和天皇の発言などが日の目を見るような事態になってきている。こうしたことは、靖国問題が日本外交を行き詰まらせ、そこからの脱却を求めて、支配層に政治的分岐すすんでいることを示している。
 アジアの民衆と連帯し、小泉らの靖国参拝に反対する闘いは、全国各地でさまざまに準備されている。「東アジアの市民が共同して首相の靖国参拝に反対しよう」と呼びかけている「平和の灯を! ヤスクニの闇へ」行動は、別項のような連続行動を予定しているが、「アジア侵略を企て指導したA級戦犯を『英霊』として顕彰する神社に首相が参拝するのは、 侵略戦争の反省に立った平和理念、政教分離原則の憲法に違反するのみならず、 戦後の国際・国内合意(サンフランシスコ講和条約、日中共同声明、戦後五十年国会決議など)をことごとく踏みにじるもの」だと糾弾し、「私たちは今こそ未来に向かって平和な日本、平和なアジアをつくり出していくために、首相の靖国神社参拝に反対します。八月一一日から一五日、広範な東アジア市民(日本、沖縄、台湾、韓国)が東京に結集して、『平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動』が行われます」と多くの人びとに参加を求めている。
 全国各地から、小泉らの靖国参拝に反対する行動を起こしていこう。

靖国神社参拝反対の諸行動

「平和の灯を!ヤスクニの闇へキャンドル行動」

 平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動実行委員会は、小田実(作家)、徐勝(立命館大学コリア研究センター長)、西野瑠美子(「女たちの戦争と平和資料館」館長)、李仁夏(大韓川崎教会名誉牧師)、金城実(彫刻家・沖縄靖国訴訟原告団長)、李海学(牧師、韓国実行委員長)のみなさんなどを共同代表とし、小泉首相の靖国神社参拝によってアジア諸国との共生関係が破壊され、中国・韓国との外交摩擦は極点に達してい現状を「ヤスクニの闇」と把え、一人一人がキャンドルの灯(ひ)をともして、ヤスクニに象徴される日本の闇を照らし、日本、、アジア、、そして世界の平和実現のために一連の行動を展開する。

●キャンドル行動日程

○ 8月 日(金)
 午後四時
 首相参拝中止抗議集会(首相官邸前)
 午後七時
 キャンドル行動開始集会(霞ヶ関・弁護士会館)
 午後八時
 キャンドルデモ出発

○ 8月11日(土)
 午後六時半
 集合(常盤橋公園)
 午後七時
 銀座キャンドルデモ出発
○ 8月12日(日)
 午後三時
 屋内集会(日本教育会館)
 第1部 講演・証言・ピール
 高橋哲哉(東京大学教授)、李金珠(光州遺族会長・夫がタラワ島で戦没、靖国神社に合祀)、金城実(彫刻家・沖縄靖国訴訟原告団長)、チワスアリ(台湾立法院委員・靖国アジア訴訟原告団長)、李煕子(合祀取消訴訟韓国人遺族代表・キャンドル行動実行委共同代表)ほか
 第2部 コンサート 台湾「飛魚雲豹音楽工団」、 韓国の韓国伝統音楽演奏 
 集会終了後(午後七時半〜) キャンドルデモ

 ○ 8月13日(月)
 野外イベント&「YASUKUNI NO!」のキャンドル人文字づくり
 午後一時半
 明治公園・野外コンサート(日本全国、韓国、台湾からアーティストが集結)
 野外展示、バザーなど盛りだくさん
 午後六時
 キャンドル人文字による平和のメッセージ
 
○ 8月14日(火)
 午前八時半
 早朝抗議行動(坂本町公園)

 主催・平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動実行委員会
 東京都新宿区三栄町八番地三栄ビル 四谷総合法律事務所気付
 TEL・03(3358)5793 FAX・03(3351)9256
 ホームページ:http://www.peacecandle.jp

 ■ ■ ■

小泉は靖国に行くな! 国家による「慰霊・追悼」反対! 8・15集会とデモ
 
 8月15日(火)午後一時半
 会場、全水道会館
 集会後デモ

 講師・太田昌国さん(民族問題研究)、西尾市郎さん(平和をつくる琉球弧活動センター)

 主催・小泉は靖国に行くな!国家による「慰霊・追悼」反対! 8・15集会実行委員会  絡先 090(3438)0263


イスラエルの侵略に抗議

 アメリカに支持されたイスラエルによるパレスチナとレバノンにたいする戦争がますます拡大し、レバノンでの死者は日々増加して六〇〇人にも達しようとし、イスラエルでも多くの死傷者が出ている。
 パレスチナ武装勢力・ハマスとレバノンのヒズボラは、イスラエル軍兵士(計三人)を捕まえ、それと引き換えにイスラエルに拘束されている人びとの釈放とイスラエルのパレスチナ・アラブ侵略の停止を求めた。
 しかし、イスラエルは、これらの兵士の奪還のためと称して、大規模な戦争行動を開始した。
 だが、イスラエル兵が捕まる前に、すでにイスラエルは、パレスチナのガザ地域に昨年来数千発の砲弾を打ち込み多くの死傷者を出しているし、核武装していることも確実と見られ、パレスチナ・アラブにたいする圧迫・脅迫を強めてきている。イスラエル軍部は、レバノンのベイルート国際空港や発電所、橋や港などのインフラを破壊している。また国連施設も攻撃し四人を死亡させ、侵略を拡大させている。だが、レバノンに侵攻した地上部隊が大きな打撃をうけて撤退したようにイスラエルに対する反撃は強まり、また国際的な批判もますます大きなものになって、イスラエルとそれを支えるアメリカは孤立しつつある。われわれは、侵略戦争をすすめ死傷者を増加させ続けているイスラエルの蛮行を決して許さない。そして、イスラエルを公然と支持し続けるアメリカに断固として反対する。

 七月二七日、駐日イスラエル大使館に対して「戦争と占領を止めろ!」の緊急抗議行動が取り組まれた。大使館前には、WORLD PEACE NOWなどの運動団体や多くの外国人も参加して抗議集会が開かれ、抗議と申入れをおこなった。
 「戦争と占領を止めろ!駐日イスラエル大使館・緊急申し入れ抗議行動」は、@イスラエルは戦争をただちに止めろ、A東エルサレムを含む西岸地区、ガザ回廊、ゴラン高原の軍事占領を止めろ、B入植地を全て撤去せよ、C占領下のパレスチナ人、そしてイスラエル国内のパレスチナ人に対する、人種差別的政策の一切を止めろ、D中東地域に生きる全ての人々の安全のために、核兵器保有を含む軍事的な脅迫を止めろ、E一月二五日のパレスチナ自治評議会選挙が民主的に実施されたことを認め、対等かつ公正な和平の実現のために、パレスチナ人たちとの対話を開始せよ。パレスチナ難民の帰還の権利を認めろ、と申入れた。


航空自衛隊もイラクからもどれ! 新しい反安保実が申し入れ・デモ

 日本政府は、イラクから陸上自衛隊を撤退させるのと同時に、イラクでの航空自衛隊の活動範囲を大幅に拡大した。
 航空自衛隊は、これまでクウェートのアリ・アル・サーレム空軍基地を拠点に、C130輸送機三機と隊員約二〇〇人の態勢で、陸自や多国籍軍の人員・物資を南部サマーワ近郊のタリルとバスラに輸送してきたが、新たに閣議決定したイラク復興支援特別措置法に基づく基本計画の変更では、その輸送業務は、南部に加えて新たにイラクの首都バグダッドや北部アルビルとクウェート間で、国連の人員・物資輸送を行うとしている。
 これは、六月のラムズフェルド米国防長官と額賀防衛庁長官との会談で、アメリカ側から空自の輸送活動をバグダッド空港に拡大することが求められたのに応じたものだ。空自の活動拡大にともなって、自衛隊機、兵員の増強は必至だ。
 いま、イラクは、内戦状況に陥り、七月下旬のブッシュ・マリキ会談では、治安状況の改善のために、軍事力をバグダット周辺に集中させることが話しあわれた。イスラエル・レバノン戦争にイラクの報道が隠れがちだが、実際には、その「治安」状況は一段と悪化している。多国籍占領軍から離脱する国が増える中で、日本政府は逆にアメリカへの加担を深め、イラク・中東の民衆と敵対し抑圧する態勢を強めている。

 七月二二日、新しい反安保行動をつくる実行委員会第10期の主催で「自衛隊はイラクへ行くな! すぐかえれ! 殺すな! 殺されるな!」をかかげて、「航空自衛隊もイラクから撤退しろ!米軍支援拡大を許さない7・22行動」が闘われた。
 午前には、防衛庁に申し入れ行動がおこなわれ、新しい反安保実、有事法制反対ピースアクション(名古屋)、人権平和浜松 NO!AWACSの会、しないさせない戦争協力・関西ネットワーク、関西共同、ほっかいどうピースネットなどが申入れをおこなった。
 午後からは、渋谷・宮下公園で集会、その後の渋谷駅周辺のデモでイラクからの航空自衛隊の撤退を訴えた。

陸海空自衛隊のイラク(周辺)からの完全なる撤退を求める要請書

 総理大臣 小泉純一郎様
 防衛庁長官 額賀福志郎様
 外務大臣 麻生太郎様

 去る六月二〇日、貴職らは、イラクから陸上自衛隊の撤退を漸く決断した。そして七月一七日には、陸上自衛隊はイラク(サマーワ)から全員が撤退し、クウェート入りしたと報じられている。しかし、事はこれで終わった訳でない。
 私達は、〇四年一月の自衛隊のイラク派兵に対して、「イラク派兵反対!殺すな!殺されるな!」を掲げて、派兵に反対してきた。派兵が強行された後も一〇次に亙る派兵の度に、「帰ってこい!」と呼びかけてきた。
 しかし、貴職らは、「人道復興支援」だと強弁しながら、サマーワ現地で自衛隊が何度攻撃を受けても、邦人が人質にされ、殺されても、派兵を撤回せず、自衛隊を駐屯させ続けてきた。そして、成果を十分にあげたと一方的に宣伝しながら、取材規制を強めつつ撤退が進んでいる。
 小泉首相は、先に行った日米首脳会談の席上、ブッシュ大統領に対して、「大統領の指導力に敬意を表する。南部サマーワの陸上自衛隊が目的を達し撤収することは成果だ。引き続き航空自衛隊による支援を行っていく」などと表明した。
 ここに貴職らが「人道復興支援」と称してきたことのいかがわしさが図らずも露呈している。その大統領の「指導力」が、イラクに対して「大量破壊兵器」をロ実に先制攻撃をしかけ、民衆に対して無差別攻撃を強行し、捕虜を捕虜として扱わず、拷問・虐待を公然と行わせてきた。また「民主的政権」を押し付けるために、当然の権利として抵抗する人々に対して掃討作戦を繰り返してきたのだ。
 たいした「指導力」である。それでもブッシュ大統領は「大量破壊兵器はなかった」と事実を認めざるをえなくなった。しかし貴職らはそれすら認めず、何の弁明すらしていない。
 航空自衛隊は、撤退しないばかりか、米軍支援を拡大するとしている。それは米軍の掃討戦・無差別攻撃を含む軍事作戦をより直接支えるものであろう。それも展開地域を戦火かやむことのないバグダード等全イラクに拡大するという。
 私達は、こうした「支援」に断固反対する。そこで以下要求する。

 @航空自衛隊の支援拡大を撤回し、即時撤退させること。すべての自衛隊をイラクから撤退させること。
 A海上自衛隊(補給艦等)をアラビア海・インド洋から撤退させること。
 B自衛隊、外務省等は、イラクで何をやってきたのか、やっているのかを包み隠さず具体的に情報公開すること。またメディアヘの報道規制を全廃すること。
 Cイラク派兵を梃子にした海外派兵基本法等(海外派兵の恒常化)の上程を断念すること。

        以上

 新しい反安保行動をつくる実行委員会(第一〇期)

二〇〇六年七月二二日


「安全を訴えたら処分」  JR東日本の非常識を問う

 七月二五日、「安全を訴えたら処分! JR東日本の非常識を問う市民集会」が開かれた。主催は、JR千葉支社の菊地さんに対する処分の撤回を求める会と週刊金曜日。
 JR東日本千葉支社の保線労働者の菊地義明さんは、「週刊金曜日」の座談会でJR東も福知山線大事故を起こしたJR西とおなじような安全問題をかかえていることを訴えたが、これに対してJR千葉支社は厳重注意という言論封じの処分をおこない、それにたいする反撃の闘いが広がっている。
 市民集会では、ビデオ「レールは警告する」の上映のあと、処分の撤回を求める会事務局の松原明さんが、処分撤回署名と署名をJR千葉支社と国土交通省に持ち込んで抗議したことなどについて経過報告をおこなった。
 つづいて菊地さんをはじめ三人のJR労働者が発言。JRでは民営化以降、すさまじい合理化が進んでいる。保線の職場では、旧国鉄時代には五人で二〜三キロの線路を担当していた。保線区・支区が多くあり、細かいメンテが出来た。それが民営化とくに二〇〇一年以降、再構築という名の下で、合理化され、一〇〇キロを十数人で見るということになり、その上巡回回数も減らされている。そして重機も外注化された。JR九州では保線の労働者でなく運転士が線路を巡回させられているという状況もある。本当に危険な状況にあり、大事故の可能性もある。重苦しい職場になっているが、労働者は「おかしいことはおかしい」「出来ないことは出来ない」といわなければならない。そうしなければ、大事故が起こることになってしまう。JR千葉支社は、菊地さんの「JRになってから事故は増えている」という発言を処分の理由にあげているが、これにはカラクリがある。JRは列車が遅れたりしても事故とは言わずに、「輸送障害」なる言葉を使っている。だから、事故といわれるものは減る仕組みになっているのだが、実際には、利用者が実感しているように、列車の遅れは非常に増えている。にもかかわらず、儲け第一主義での合理化が進められているのである。
 つづいて週刊金曜日発行人で処分の撤回を求める会代表の佐高信さんが、「JR憲法番外地」と題して講演。われわれの闘いにとって言葉は非常に大事だ。攻撃は民営化だとか新自由主義だとかいう言葉をつかってやってくる。われわれにはそれがだめだということがわかるが、そうでない人には、民営化などはいいことじゃないかという反応もある。だから、民営化のかわりに会社化とか、新自由主義の変わりに、新弱肉強食主義、新ジャングル主義という言葉でわかりやすく説明したほうがいい。民営化の立役者でJR東の会長の松田昌士は、自分の本で、民営化した会社が事故をおこせば、お客が減るので絶対に事故を起こさないと書いているが、実際には、合理化、経費節減で、事故が多発している。民営化とは会社が儲かるようにするものであり、安全は軽視されるのだ。だから、JR西の福知山線事故が起こり、安全を訴えた労働者の発言を封じるのだから、事故がおきる土壌を会社自らが作っている。


鉄建訴訟を軸にして、一〇四七名の統一・国鉄闘争勝利へ

 七月二二日、JR採用差別事件被解雇者一〇四七名連絡会と国鉄労働者一〇四七名の解雇撤回を求める首都圏連絡会は、JR東日本本社のある新宿駅南口で大情宣活動をおこなった。多くののぼりが立てられ、その一角は、国鉄闘争の解放区のような状況となり、ビラのうけとりも非常によく、一〇四七名解雇撤回に向けた力づよいうねりを作り出した。
 撒かれたビラでは、「国鉄の分割・民営化は失敗だった」「利益優先の『稼げ』『急げ』『従え』『隠せ』」「JRの安全の危機」をアピールし、とくに安全問題で次のように強調している。
 昨年四月、福知山線での脱線転覆事故では一〇七名の犠牲者と五五〇名を超す負傷者を出しました。更に、一二月の羽越線での脱線転覆事故、一月には伯備線での事故など、JR発足後、最多の死者を出し悲惨な事故が連続して起きてしまいました。また、今年一月から五月まで輸送障害が一二件と多発しています。その多くが列車運休一〇〇本以上の影響を受け、旅客影響一万人以上という大規模なトラブルであります。特に、山手練と青梅練で起きたトラブルは、いずれも線路が隆起し変形するといった事態で脱線転覆してもおかしくはなく、最大七時間も運行がストップしました。民営化され利益優先の企業体質となり安全が軽視され、事故が多発する体質になっているのです。長期債務・株の上場・安全問題・採用差別事件を初めとする労働問題など、分割・民営化は失敗と言っても過言ではありません。

 国労の第七四回定期全国大会は、七月二七〜二八日にひらかれた。昨年の鉄建公団訴訟9・15判決をうけて、国鉄闘争一〇四七名解雇問題について、いまだに訴訟に立ち上がっていない国労闘争団員が損害賠償・地位確認の裁判闘争に立ち上がるのかどうか、鉄建公団訴訟を軸に一〇四七名の一丸となって進むのか否かが決定的に問われていた。国労本部は、中央闘争委員会一任を決定しようとしたが、それは、地位確認なき損賠のみとなる可能性大であり多くの反対によって、本部一任は阻止された。今後、裁判闘争については闘争団全国連絡会議や国労本部などの間で協議し決定をすることになった。


2006ピースサイクル  平和への願いをペダルに込めて…止めよう戦争の流れを!

埼玉ピースサイクル報告

 全国ルート・ピースサイクルは七月一四日の群馬ネットから引継いだ。七月一五日の当日は梅雨の影響で一日中雨のなかで実走が行われた。今年も四ルート(熊谷、寄居、浦和、与野、)で行われた。自治体訪問については、事前に行われたミニピース(七月一一日)と当日と合わせて一五ケ所を周ることが出来た。しかし、市町村合併の影響で自治体周りは減少となった。
 県庁、各市には次のような要請書を提出した。貴自治体の常日頃のご奮闘に敬意を表します。また、私たちピースサイクル埼玉ネットの、この間の取り組みに対するご支援・ご協力に心よりお礼申し上げます。さてピースサイクル運動は、一九八六年、大阪の郵便局で働く青年八名が、原爆が投下された広島に向け、自転車で走り出したのが始まりでした。二〇年経った今日、ピースサイクルは、「反戦」「平和」の課題のみならず、「環境」「人権」「食と水」など様々な分野との交流により、着実に地域に根付いた運動となっております。日本には世界に誇る「平和憲法」があります。しかし、戦後六〇年が経過した今日、この世界が誇る「平和憲法」が無視され、「改正」されようとしています。さらに、在日米軍再編強化や教育基本法の改悪、国民投票法、共謀罪の制定などが目論まれており、まさに日本は今、戦争のできる国に進もうとしています。一方、地球温暖化や大気汚染などの環境問題や原発問題などは、増々深刻な状況となっています。以上を基調にさらに具体的要請を行った。@貴自治体が行った「平和を願う宣言」(非核平和宣言など)の趣旨を生かすため、必要な予算を計上し、非核・平和のための行政に積極的に取り組まれたい。A全世界の核兵器廃絶に向けた取り組みを強化するよう、政府への働き掛けをされたい。B広島・長崎に原爆が投下された八月六日・九日には、犠牲者を追悼し、核兵器廃絶を願う思いをこめて、サイレンを鳴らすなどの行動を行い、広報などでその趣旨を広く住民に周知されたい。また、「何らかの行動」を行っている自治体は、引き続き「行動」を継続されたい。C自然環境保護政策を推進されたい。D自転車道及び歩道の整備を推進するなど、自動車中心社会の緩和政策を推進されたい。
 ある市では当日書面による回答をするところもあり、平和行政に力を注いでいることをメッセージに示していた。また、そのメッセージにはピースサイクル埼玉ネットに対する一六年目を迎えたことの敬意とともに、広島、長崎原爆投下の悲惨さを、また、埼玉での空爆被災を風化させてはならないと訴えていた。
 今年の埼玉ピースは昨年に比べ参加者減とはなったが、新しい仲間が参加し、また新たな自治体、議員からもメッセージや賛同金を頂くことができた。
 今年はコースを調整して二年ぶりに丸木美術館を集合場所とした。当日は休館日だったが丸木美術館のご好意もあり、特別に開館して頂いた。美術館事務局の方から財政難に対し全国から多額のカンパがありここ四、五年は運営に心配はなくなった。しかし、引き続きご支援を下さるようにとお礼を交えてあいさつがありました。
 この後総括会を開き、各ルート代表者から自治体周りの報告がされ、沖縄へのメッセージを取り組んだことも報告された。また、集合記念写真を撮ったあと場所を移して交流会開き、また来年取り組むことを約束して終えた。(埼玉ビースサイクル参加者)

東京ピースサイクル報告

 東京ピースサイクルは、七月一七日、一八日、一九日、の三日間の日程で行われ、延二〇人が参加した。まだ梅雨空が続き、全国各地では豪雨の被害が相次いでいる中の取り組みとなった。炎天下の中の走行もきついが、雨の中の走行も大変だった。一九日は土砂降りで、危険を回避するため途中から電車移動を余儀なくされた。

 一七日、京成青砥駅にある東部労組事務所に集合し地域の人たちと交流した後、ピースサイクルを行った。亀戸駅前で二名の仲間が合流し、朝鮮学校の廃校問題が起こっている江東区枝川を訪れた。休校にもかかわらず、校長先生が私たちを受け入れてくださり、学校周辺のフィールドワークを行った。東京都は枝川にある朝鮮初級学校の土地明け渡しを求める裁判(公判は一三回を経過)を起こし、裁判で都の主張が認められてしまえば、半世紀以上の歴史がある民族教育を続けることが出来なくなる。一九四一年、当時の東京市は埋め立てたばかりの枝川地区に朝鮮人一〇〇〇名を強制移住させ、劣悪な環境の中で住民たちは、助け合って生活をしてきた。当時はタクシーも嫌がって枝川には、入らなかったそうだ。そして、父母、祖父母の言葉、文化を伝える民族教育の場として学校が作られ、美濃部革新都政では過去の歴史を考慮し二〇年間(七二年〜九二年)の無償土地利用の契約で今日まで維持されてきた。九三年からは、上地の払い下げを前提に友好的に交渉が進められてきたが、石原都政になり手のひらを返すように九三年にさかのぼっての土地使用料の四億円を請求してきたのだ。体育館やプール、冷暖房のない中、授業を受けている子供たちから学校までも奪ってよいのか。現在では全国的に支援の輪が広がり、六月には『とりあげないでわたしの学校』と題して『パッチギ』の井筒和幸監督を招いて映画上映を成功させた。弱者切り捨て、排外主義的な石原都政に怒りを感じる。その後、私たちはビキニ水爆実験で被災した第五福竜丸展示館を見学した。開館して三〇年を迎え、特別展示がされていた。その中に一〇年程前にピースサイクルが訪問したとき記念撮影した写真があり、みんなとても若く、月日の経過と続けることの大切さを感じた。

 一八日には夢の島公園をスタートした。現在、昭和天皇のA級戦犯合祀に不快感を示したメモが見つかったことで注目されている靖国神社を見学。国会ピースの時には合祀問題で抗議の申し入れを行ってきた。この日も多くの観光客が見学に来ていた。遊就館も新しくなり若者を取り込もうとしているようだった。
 続いて港区にある米軍基地を視察。主に横田や横須賀、相模原など基地間の文書や物資をやり取りしているそうだ。私たちが行ったとき、ちょうどヘリコプターが飛び立とうとしていた。その後、大田区大森東にある内川河口を見学。以前に来たときの干潟は見る影もなく埋め立てられ、八月六日オープンの人工ビーチの工事が急ピッヂで進められていた。大田区の行政は環境破壊、ゼネコン優先、財政圧迫、区民へのしわ寄せと目を覆うばかりだ。

 一九日、羽田空港ウオッチングは羽田空港を監視する会が準備してくれた。JR蒲田駅に一〇名の参加者が集合。まず大田区役所庁舎で自己紹介を含めて交流し、ロビーに展示してある一九四五年(敗戦前)の旧羽田三町の模型による羽田空港の歴史について説明を受ける。続いて空港アクセスとして京浜急行高架化工事を実地見学。大森町から京急蒲田駅、京急空港線の高架化工事を現場検証するためにビースサイクル。
 京急蒲田駅に戻り二階にある工事完成模型の前で説明を受ける。雨が土砂降りになり、危険を回避するため羽田空港へは電車移動することにした。空港線天空橋駅で下車し空港拡張工事のため弁天橋付近に侈設された穴守神社の大鳥居を見学。鳥居の真ん中に『平和』の額が掲げられている。羽田拡張後の返還跡地を住民に無断で造成された駐車場を見学した。しかし、金網でふさがれ使用されていずに廃墟状態になっている。続いて第二ターミナル予定地へ。再拡張での国際線ターミナル予定地をバスから見る。再拡張予定のD滑走路予定地域を現ターミナル屋上より検証した。国土交通省には新たな国際綜ターミナルの認可を得てないのに工事は進んでいる。羽田空港では国際線の便が増えているそうだ。成田空港の存在はどうなるのか。第一ターミナルに移動し昼食後、災害対策用という特別仕様誘導路、国際線ターミナル予定地を屋上より確認し見学を終えた。
 夕方、交流会を行い大田区の地域の方から託されたピース回覧板が広島まで自転車で走る稲田順一さんに手渡された。
 二〇日は、神奈川県川崎市中原区にある平和館でピースサイクル神奈川ネットワークの出発式に参加した。
 東京ビースサイクルの報告と稲田さんには、無事に広島まで走ってほしいことなどを訴え、神奈川ネットに無事に引き継ぎを行った。そして、川崎市長から激励のピースメッセージを受けて、参加者全員で戦争のない社会を創っていくことを確認し、八月六日のヒロシマ、九日ナガサキ目指して自転車を走らせた。(東京ビースサイクル参加者)


子どもはお国のためにあるんじゃない  教育の自由を勝ちとろう

 七月二二日、豊島公会堂で、「今こそ言いたい!子どもはお国のためにあるんじゃない―教育の自由を勝ちとろう7・22集会」が開かれた。
 いま、小泉政権の下で、憲法九条が変えられ、戦争の出来る国づくりが強行されている。先の通常国会で教育基本法改悪法案の成立は阻止されたが、すでに東京では教育基本法改悪の先取りがすすめられ、石原都知事と都教委は、二〇〇〇年の「10・23通達」以来、「日の丸・君が代」強制と教職員処分を強行してきている。

 「教育の自由を勝ちとろう集会」は、「国旗・国歌」への忠誠を強制し、愛国心を押し付ける教育基本法の改悪を拒否する声をあげるものであり、秋の国会闘争、そして処分に反撃する教職員の闘いの前進へ決意を固めるものだった。
 朗読劇<市民・教員闘いの現場から>からでは、東京の教育の状況とそこでの教職員や保護者・市民の闘いが語られ、激しい攻撃の中でも、それに屈しない、屈することは戦争への道に協力することだ、都教委の日の丸・君が代強制の中で教育の危機が深まっているということがアピールされた。
 つづいて、舞台俳優の有馬理恵さん(劇団「俳優座」)と小森陽一さん(東大教授・九条の会事務局長)の対談。昔と今の教育とを対比させながら、教育基本法改悪法が何をもたらすのか、本当の教育とはなにか、自立の大切さなどが語られた。
 在日韓国・朝鮮人の崔哲愛さんのピアノ演奏&トーク。崔さんは、ショパンの曲を演奏し、大国ロシアに併合・支配されていた祖国ポーランドによせるショパンの愛国心と、植民地支配をし、いまだにその反省もしていない日本の「愛国心」の違いなどについて語った。
 処分撤回を求める裁判闘争の現状と今後の闘いについての報告があり、アピールを確認して集会を終えた。

集会アピール(要旨)

 ある日突然、戦争が始まるわけではありません。「戦争反対」の声が上げられない国づくりが完成したときに戦争は始まるのです。六五年前も、日本はアメリカとの戦争をある日突然始めたわけではありませんでした。それは、天皇のために命を投げ出すことを謳った教育勅語ができてから五〇年後のことでした。……現在の教育基本法がめざしているのは、個人の尊厳を重んじることや民主的で平和な社会です。この、世界中のだれもが求める社会の実現を掲げる教育基本法を一八〇度作り変えて、「愛国心」の名を借りた価値観の押し付けと、国家のため企業のための人材作りへと方向転換してしまおうというもくろみを、私たちは許せません。……今日ここに集った私たちは、
 ●教育基本法を守っていくことを求めます。
 ●日の丸・君が代の強制や、教育の場での特定の価値観の押し付けに反対します。
 そして、思想・信条・表現の自由が保障され、だれもが自分らしく生きることのできる社会を実現するために、これからも力を合わせていきます。


梅雨の終わり 沖縄にて   師岡佑行さんを悼んで

 一ヶ月近くも青空の見えなかった沖縄は、六月に入り降り続く雨は雷を伴う豪雨となり、一二日には沖縄各地で土砂崩れや道路陥没など甚大な被害をもたらし、避難者が一〇〇人を越す地域もあった。
 その日の夜、沖縄に生活を移して七年目となる師岡佑行さんの死が身内の方より伝えられた。翌日の『琉球新報』はそのことを報道した。師岡さんは今年七八才を迎えることになっていた。さらに『琉球新報』は翌々日の朝刊で師岡さんを悼む記事をやや広いスペースで掲載した。
 師岡さんとの出会いは六五年の春、私が立命館大学文学部日本史学科に入学して早々の頃である。その当時非常勤講師であった師岡さんは「日本戦後史」を担当されていた。誰からともなく師岡さんの講義は是非受けた方がよいと言われので、その当時の立命館史学を代表する教授の名前しか知らなかった私だったがその先輩の言に従った。
 その講義は確か選択科目だったから教室も狭かった。その一番まん前で師岡さんの講義を聴いた。「熱い教師やなあ」が第一印象だった。感情を込めてしゃべるのはいいのだけれども、一番まん前の席にはよく唾(つばき)が飛んできて閉口した。だが、この授業がきっかけとなって私は日本戦後史、否同時代史に興味を持つようになった。そして、師岡さんの影響で日本戦後史のみならず戦後政治史にも関心を持ち、それは明治精神史にまで及び、色川大吉氏の同名の著書を師岡さんを交えて先輩諸氏と輪読したこともあった。
 師岡さんの講義がそうさせたのかどうか記憶は定かではないが、この六月私は既にデモの中にいた。田舎徳島から出てきて、生まれて初めての政治活動は日韓基本条約締結への抗議行動だった。以来、大学を出るまでデモと縁の切れない生活を送ることになった。
 しかし、師岡さんからの影響が決定的となったのは部落問題へのアプローチだった。私の少青年時代、被差別部落への関わりはライ病(ハンセン病)とともにタブーであった。そのタブーを打ち破るきっかけを与えてくれたのは師岡さんだった。師岡さんに連れられてと言うよりも引っ付いて行ったのが、京都市内の大きな部落であり、大阪の二つの都市部落だった。何もかも新鮮だった。驚きだった。大学二年のことだった。師岡さんが一緒でなくても勝手に出かけて行って、生意気な言動で冷や汗をかいたことは一度や二度ではなかった。
 そこで叱られ、恥をかきながらも部落の意気軒昂たる青年やオバチャン、オッチャンと知り合い、実践を通じて解放運動の名だたる先達からも教えを受けることになった。その人間関係は私が尼崎に職を求めても続いている。師岡さんは何よりも実践を重視した。
 私は尼崎にある地域診療所に勤め始めた頃、師岡さんの紹介で毎日曜日に大阪の部落に出向いて他大学生たちと一緒に住居の実態調査に従事した。この時の経験はその後の私の仕事をも資するものだった。この調査に関わった大学生数人とは今日なお交流があり、狭山闘争にも一緒に参加した。
 私が大学三年の時。先輩の卒論作成を手伝うことになった。彼のテーマは尼崎の近現代産業発達史だった。このテーマを示唆したのが師岡さんである。私は師岡さんからいただいた尼崎の明治、大正、昭和期の工都変遷の資料をもとに硫酸紙にそれぞれトレースし、その三枚のペーパーを重ね合わせ透視することによって、通史的に尼崎近現代史を俯瞰できるように試みた。このことを通じて、師岡さんが尼崎とは切っても切れぬ関係を持っていたことを知った。だが、まさか私が尼崎に職を求めるなどとはその当時夢だに思ってもみなかった。
 時は流れ、三年生の時、大学は全共闘の時代に突入した。師岡さんは造反教師として、私は造反学生として同じ陣営にいることになった。その少し前、「造反有理」の中国から帰ってきたばかりの人たちの報告会に誘われ生々しいスライドを見たこともあった。どんな時でも血が騒ぐ局面では師岡さんがもっとも興奮していた。そして、師岡さんの口癖は永続革命家「チェ・ゲバラも喘息だった」。とにかく師岡さんはいろんな人との出会いを作ってくれた。そして、後は放ったらかしだった。後は自分で考えろだった。その分気が楽だった。
 そんな私たちを静かにほほえみながら見守っていたのが師岡さんのよき随伴者笑子さんである。学生の中で師岡ファンは多かったが、それ以上に笑子さんを慕う学生は多かった。かく言う私もその一人で、師岡さんが居ないことを知りつつ師岡さん宅を訪れ、ちょっとした文章の添削をお願いしたり、どうでもいいような私の悩みを聞いてもらって甘えたこともある。笑子さんはそんな時でも決して相手を軽んずるような態度を見せない。
 師岡さん夫婦が新婚間もない時、新婚旅行を取り止めて尼崎にある阪神医療生活協同組合の前史とも言える「東尼崎診療所闘争」に身を投じ、京都から多くの学友を組織したことなどを私が知ったのは、私が同医生協の職員になった一九六九年頃だった。
 師岡さんは神戸の生まれだが少青壮年期は尼崎で過ごした。尼崎の小学校で代用教員を勤め、ごんた児童にとても人気があったと聞く。尼崎には師岡さんの友人が多い。大学講師をしていた頃も、尼崎反戦青年委員会のデモに参加したこともあった。七〇年代には阪神労働運動活動者会議の主催する労働講座の常連講師であり、師岡さんから部落問題、解放理論を学んだ阪神地区の労働者の多くは今や六〇代以上の世代となっている。私と師岡さんとの付き合いもまた尼崎を媒介にして頻繁になっていった。
 今年二月、同窓の考古学者田辺昭三さんが亡くなった。田辺さんが病床にあった頃、沖縄から田辺さんのことを心配して何回か電話をくれたが、私は師岡さんの依頼に十分応えることができなかった。田辺さんの葬儀には「寒い時期だから沖縄から出るのはちょっとこわい」と電話で言っていたので、喘息など身体の心配をしていた。その矢先の三月二九日、突然来阪した。そのうち会えるだろうと高をくくっていたのだが、まさか沖縄からの訃報に接するとは信じられなかった。
 師岡さんは私よりも一七才も年上である。にもかかわらず諸先輩と同じように私は「モロさん!」と親しく呼んでいる。学生時代を通じて多くの先生方に出会ってきたが、師岡さんは私にとって兄のような存在だった。

 雷雨轟いて君は逝き  風雲流れて
 君海に還る哉

 ごく親しい者によって荼毘に付し、モロさんが離島に出かける時によく使った泊港から散骨した。 (中村大蔵)

 六月一二日、「解放新聞」主筆などを務められ、『戦後部落解放論争史』などの著者である師岡佑行さんが亡くなられた。部落解放運動に大きな功績を遺された師岡さんを悼み、中村大蔵さんの文章を掲載させていただいた。中村さんは、阪神医療生協で永く勤め現在は関連の老人ホームの園長として活躍されている。 (編集部)


Kodama

小泉政治は格差を拡大させた

小泉政治は、外交面では、ブッシュの侵略戦争への加担、アジア諸国との関係悪化、国内では構造改革・民営化だった。
 新自由主義による構造改革では、一握りの富裕層はさらに優遇される一方、格差が拡大したという実感を国民大多数が抱いている。しかし、自民党政権は、日本は世界有数の格差の少ない国だとし、小泉もその事実を否定しつづけてきた。だが、事実は、二〇〇一年に小泉政権の発足する前から格差社会であり、それがいっそう広がっているということが、国際的に確認された。
七月二〇日、経済協力開発機構(OECD)は、日本経済の現状を分析し政策提言をまとめた「対日経済審査報告書」を発表したが、その内実は驚くべきものだ。これは二〇〇〇年の調査結果だが、報告書では、所得から税金などを差し引いた可処分所得が低い「相対的貧困層」の割合が、OECD加盟三〇か国のうち日本が第二位で「不平等の度合いが増している」と指摘している。第一位は、もちろんアメリカというのはいうまでもない。日本はここでも義理堅く日米同盟を誇っているわけだ。
 そして、ここから、パートなど非正規雇用者の増加が将来の労働力の質を低下させ、経済成長を押し下げる恐れがあり、また格差拡大が所得の低い世帯の子どもたちの教育水準の低下などを招く恐れがあると懸念を表明した。
 OECDの報告書は、構造改革そのものに反対しているものではなく、構造改革への抵抗を強めかねない格差拡大を防ぐよう警告したものではあるが、小泉政治は、格差拡大により資本主義体制の安定を自ら掘り崩さざるをえないものとなっているのである。
 さすがに自民党でもこうした事態は捨てて置けなくなりポスト小泉の最有力候補・安倍晋三は「警戒すべきは格差の再生産」「再チャレンジの可能な社会」をスローガンとしてあげている。だが、労働法制の改悪による非正規雇用の増大、大衆収奪増税、教育の企業化など新自由主義を推進する、実現可能性の高い「安倍内閣」の下ではいっそうの格差拡大、階級闘争の激化という日本社会の到来以外にはない。 (M)


複眼嘆願

   
天皇発言メモにみる無責任の構図

 七月二一日の日経新聞朝刊が「昭和天皇の靖国発言に関する富田朝彦元宮内庁長官(故人)のメモ(一九八八年聴取)」をスクープして以来、各界ではこれをめぐって大騒ぎが続いている。この暴露が小泉の東アジア外交に反発をもつ財界主流派の策動であろうことは言うまでもない。
 まず、あらためてメモを採録しておく。

 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があった と思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ

 メモは「天皇が靖国参拝を止めた理由がA級戦犯の合祀を嫌ったからだ」ということを証明するもので、この間のこれをめぐる論争に終止符を打つものだということで注目されている。
 しかし、「ひねくれている」と言われるかも知れないが、このメモを見て私がまず思ったのは「裕仁さんよ、あなたの責任はどうなんだ」ということだ。
 裕仁発言は、この中で「A級」ということで靖国に合祀されているA級戦犯十四人全体を批判しながらも、その中でも特に松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使(メモでは白取)を名指しして批判している。そしてもちろん自分はこれらとは全く別の次元で語っている。裕仁はやはり「政治家だ」と思ったし、冷たい人間だとも思った。ここにはコラムでは書ききれないほどの実にいろいろな計算が入っているのだ。
 文面から見ると、裕仁はA級戦犯の戦争責任には批判的なようであるが、東京裁判ではこのA級戦犯の連中が考えていたことは「国体(天皇制)の護持」ではなかったか。「子の心、親知らずだ」と皮肉にひとつも言ってみたくなる。
 裕仁の戦争責任については、かつて、この欄でも山川暁夫さんの発言などに関連して幾度か指摘したことがある。そのときに触れた「近衛上奏文」以降でも、東京・大阪大空襲、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下などの大きな戦争の被害があった。裕仁が「一日も速やかに戦争終結を講ずべきものなりと確信仕り候」という「近衛上奏」を「国体護持」のために、いま一戦をなどといって拒否せずに受け入れていれば、これらの被害がなかったであろう事、このただ一点だけでも彼の戦争責任の重大さは比類がないと思う。
 二二日の「沖縄タイムス」紙社説が「第二次大戦で日本の『捨て石』」にされた沖縄にとっては、今回の発言メモが昭和天皇の戦争責任を免罪するものでないことはいうまでもない。昭和天皇は、自身の戦争責任を率直に語っておらず、これだけで戦争の反省の表れと評価することはできないからだ」と述べている。商業紙でさえこのように指摘しているのだ。まさに裕仁は自分と国家をまもるために、沖縄を捨て石にしたのだ。裕仁は自分のこの責任について語ったことがない。このメモが明らかにされても「靖国に何回行こうが私の勝手」「(天皇メモも私の参拝に影響ない)私の心の問題だ」となど発言する小泉首相の無責任さとそっくりだとも思った。
 ともあれ、これで「ポスト小泉」は靖国参拝を回避する口実ができた。彼らの採りうる政策の幅に多少のゆとりができたと見るべきであろう。大胆に推理すれば、もしかすると小泉ですら8・15靖国参拝は回避して、辞職直前の参拝などという策に出るかも知れない。実に、財界の陰謀の勝利ではある。(T)