人民新報 ・ 第1207・8号<統合300・1(2006年8月28日)
  
                  目次

● アジアへの敵対と戦争国家化宣言の泉首相の靖国神社参拝へ反撃の行動

● 8・15 小泉は靖国に行くな! 国家による『慰霊・追悼』反対!

● 平和遺族会全国連絡会  「憲法を活かし、アジアの平和と和解・共生をめざそう」

● 「えっ!東京でまたオリンピック?」  都民による討論集会開かれる

● 女性と天皇制研究会の声明  「 奉祝ムードとソフトな沈黙をはね返そう!  〜皇族の事情で空転する「皇室典範改正」論議 」

● 財界の要求に沿った労働法制改悪に反対しよう

● 2006ピースサイクル  平和への願いをペダルに込めて…止めよう戦争の流れを!

      長野ピースサイクル報告

      大阪ピースサイクル報告         

      四国ピースサイクル報告

      静岡ピースサイクル報告

      岡山ピースサイクル報告

      六一年目の8・6を迎えて ヒロシマ

● イスラエル・ヒズボラ戦争の停戦を!

● 第二東京弁護士会の在日コリアンの子どもたちに対する嫌がらせ等に関する緊急アピール

● 昭和天皇はなぜ靖国に行かなくなったのか 〜 松平宮司 崇敬会総代 引揚援護局

● 図 書 紹 介  /  著・石川源嗣  「 ひとのために生きよう! 団結への道 労働相談と組合づくりマニュアル 」

● Kodama  /  安倍ちゃんの理屈はなりたたない  /  詩   (安藤裕三)

● 複眼単眼  /  この軽薄さを侮(あなど)らない  批判を放棄しない



アジアへの敵対と戦争国家化宣言の泉首相の靖国神社参拝へ反撃の行動

 小泉は、五年間の政権担当の最終段階でついに八月一五日の早朝、内外の反対の声を押し切って、靖国神社参拝を強行した。小泉は言葉とはうらはらに侵略戦争と植民地支配をまったく反省していない。参拝強行は、アジア諸国への敵対をいっそう強めるとともに、靖国神社を新たな侵略戦争で生まれる戦死者を祀るための施設とする動きを加速させるものである。靖国神社は、戦没者を天皇と国のために死んだとして肯定・美化するための施設であり、遊就館の展示はそれを一点の曇りもなく明らかに示しており、今日では、日本国内のみならず海外でも広く認識されるようになってきている。
 小泉の参拝に対して、中華人民共和国外交部は、「本日、日本の小泉純一郎首相は第二次世界大戦のA級戦犯が祀られている靖国神社をまたもや参拝した。日本軍国主義侵略戦争の被害国人民の感情を著しく傷つけ、中日関係の政治的基礎を破壊するこの行動に対し、中国政府は強く抗議する。靖国神社に祀られているA級戦犯は、日本軍国主義が引き起こし、実施した対外侵略の画策者と指揮者であり、近代史においてアジア及び世界に多大な災いをもたらした元凶でもある。小泉首相が国際社会・アジア隣国及び日本国民の関心と反対を無視し、これらの戦犯が祀られている靖国神社を意地を張って参拝することは、国際的正義に対する挑発であり、人類の良識を踏みにじるものでもある」という抗議声明を出し、韓国は外交通商省報道官が、韓国政府を代表して、「国際社会が再三にわたり憂慮と反対の立場を表明していることを顧みず、小泉首相はA級戦犯が祀られている靖国神社に何度も参拝し、韓日両国の関係を悪化させ、北東アジア地域の国家間の友好協力関係に損害を与えた。韓日友好関係と北東アジア地域の平和と協力の妨げになることを避けるため、韓国政府は責任ある日本の指導者が二度と靖国神社に参拝しないよう強く促す」と批判した。そして、両国は、日本政府が歴史を正視し具体的に行動し、それによって隣国との信頼関係を築くことを求めた。

 日本国内では各地で小泉らの靖国参拝に反対す様々な闘いが展開された。とくに今年は東アジアの民衆の連帯で靖国神社参拝に反対する運動が力強く闘われた。

 七月二〇日には、韓国ソウルで「靖国・国際学術シンポジウム」が、韓国、台湾、日本、アメリカなどからも参加して開かれた。
 そして韓国、台湾から多くの人々が来日、小泉首相の靖国神社参拝に反対する「平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動」行動が展開された。
 八月一一日には、内閣府へ小泉首相に参拝中止を申し入れ、首相官邸前で参拝反対のシュプレヒコールをあげた。夜には弁護士会館で集会をおこない、日韓のキャンドル行動共同代表があいさつし、つづいて韓国と台湾の議員をはじめ多くの人が発言し、その後、霞ヶ関キャンドルデモを行った。
 一二日には、東京駅近くの常盤橋公園から銀座キャンドルデモ。
 一三日は、日本教育会館ホールで集会。高橋哲哉さん(東京大学教授)が講演。高橋さんは、A級戦犯を靖国神社から外すことによってこの問題を解決しようと考える人びとの議論がもっている問題点について次のように述べた。A級戦犯を外すことによって日中・日韓の外交関係が改善される、良くなるというのは、それはそれで大変良いことなんですけれども、しかしA級戦犯を分祀しただけでは解決しない大変重要な問題が残ってしまう。あるいはA級戦犯分祀がさらに重大な、深刻な問題を引き起こしていく。まず第一に、これは日本の戦争責任問題、あるいは歴史認識問題を矯小化するものになってしまうということだ。日本で戦争責任という言葉をつかうときに、だいたい一九三一年の満州事変から一九四五年の敗戦までのことを考えるわけですけれども、A級戦犯というカテゴリーもほぼそれに対応している。明治以来のアジア侵略の歴史は、A級戦犯というカテゴリーではまったくカバーできない。つぎに靖国神社に日本軍の兵士として戦死して祀られている朝鮮人や台湾人の人たちの遺族からは、合祀の取り下げ要求が出されてきていることだ。さらに、もしもA級戦犯を分けることが出来たら、その時には日中・日韓の外交問題が解決するとしても、逆にそれによって日本の首相、そして天皇までが靖国神社参拝を公然と行なうことが出来るようになったら、どうなるかという問題がある。これらのことをみておかなければならない。
 つづいて李金珠さん(光州遺族会長・夫がタラワ島で戦没し靖国神社に合祀)、金城実さん(彫刻家・沖縄靖国訴訟原告団長)、チワス・アリさん(台湾立法院委員・靖国アジア訴訟原告団長)の証言、李煕子さん(合祀取消訴訟韓国人遺族代表・キャンドル行動実行委共同代表)がアピール。そして、台湾の原住民の「飛魚雲豹音楽工団」コンサート、在日の朴保さんのライブで盛り上がり、集会終了後にはキャンドルデモがおこなわれた。
 一四日には、明治公園で野外イベントと参加者によるキャンドル人文字(YASUKUNI NO)づくり。
 一五日には、坂本町公園からの小泉参拝強行に抗議するデモが行われた。

 今年の靖国参拝反対闘争は各地でのさまざまな取り組みと東アジア規模での連帯行動が勝ち取られた。これらを基礎にさらに広範な反ヤスクニ闘争をすすめていこう。

「平和の灯を!ヤスクニの闇へ」キヤンドル行動共同アピール

 「平和の灯を!ヤスクニの闇へ」キャンドル行動実行委員会は、戦後六一年目の夏を迎え、一人ひとりがキャンドルの灯をともし、ヤスクニに象徴される日本の闇を照らし、日本・アジア、そして世界の平和を実現するために結成された。
 これまでの靖国参拝違憲訴訟および合祀取り下げ訴訟などの闘いを通じて培われた東アジア四地域(韓国、台湾、沖縄、日本)の連帯を基礎にして結成された実行委員会は、退任を目前にして予想される小泉首相の靖国参拝とアジア外交が争点となる自民党総裁選を念頭におき、レバノン・イラクでの虐殺をはじめ、今なお戦火のやまない世界の現状をふまえ、世界的な靖国反対共同行動を推進すべく、八月一一日から一五日までの連続行動を企画・運営し、広範な市民の参加の下にキャンドル行動を行ってきた。また、このキャンドル行動の関連企画として七月二〇・二一日の韓国ソウルで行われた世界初めての靖国国際学術シンポジウムでも、靖国の深い闇の究明が行われた。
 キャンドル行動には、裁判原告、戦争被害者をはじめとして、韓国からは国会議員一二名を含む市民約二五〇名が、また台湾から国会議員を含む原住民の方々約五〇名が、さらに日本・沖縄から多数の市民が参加した。このキャンドル行動では、講演や証言などを通じて、侵略戦争や植民地支配を肯定し、靖国の戦争を美化する歴史認識と軍事的機能が明らかにされた。また、遺族らの合祀取り下げをかたくなに拒絶する靖国の理不尽な姿も浮き彫りにされた。
 キャンドル行動の趣旨に賛同する多くの市民が集会に参加し、靖国に関する正確な認識を深め、市民の連帯の輸が大きく広がっていった。そして、「ヤスクニの闇」を世界の人びとの前に照らし出し、日本の戦争責任を追及して真の東アジアの平和を構築していくために、今後とも四地域の市民が世界の人ぴとと共に行動を継続していくことを確認した。
 私たちキャンドル行動参加者は、これらの成果を踏まえ、次のようにアピールする。

 T 日本政府に対する要求
 一、韓国、台湾、沖縄、日本の戦没者の靖国への強制合祀をただちに取り下げるよう、措置せよ。
 二、日本の首相や閣僚は政教分離原則を遵守するとともに、戦犯を神格化し、戦死者を英霊として祀りあげ、侵略戦争を美化して、国民を戦争へと駆り立てる軍事施設である戦争神杜・靖国への参拝を止めよ。
 三、靖国を再び戦争動員の道具とし、東アジアの平和と安定を脅かす憲法改悪の試みを捨て、平和主義の原則を遵守せよ。

 U 平和を愛する世界の友人たちへ
 一、レバノンやイラクなどでの武力攻撃・虐殺を含む全ての戦争に反対して、世界を平和のキャンドルで埋めつくそう。
 二、戦犯を神格化し、戦死者を英霊として祀りあげ、侵略戦争を美化して、国民を戦争へと駆り立てる軍事施設である戦争神杜・靖国に対し、共にNO!の声をあげよう。
 三、朝鮮半島への先制攻撃論を唱え、再び戦争への道へ進む日本の軍事化に反対しよう。

二〇〇六年八月一四日

「平和の灯を!ヤスクニの闇へ」キャンドル行動参加者一同


8・15 小泉は靖国に行くな! 国家による『慰霊・追悼』反対!

 八月一五日、反天皇制運動連絡会などによる実行委員会主催で「小泉は靖国に行くな! 国家による『慰霊・追悼』反対!8・15集会」が、全水道会館で開かれた。
 はじめに主催者から基調報告が行われた。
 自民党「新憲法草案」の前文には、「象徴天皇制は、これを維持する」とある。天皇制は、ここで無根拠のまま前提のものとされた。現憲法の「国民主権」が抜け落ちた草案第一条でも、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とうたっているが、この「国民の総意」とは無関係に前文で天皇制維持を宣言する。いま、現憲法と皇室典範の下で皇位継承者問題に困惑する政府は、だからこそ、草案で天皇制維持を第一義に出してきたのだ。小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、「安定的皇位継承」のための論議を約一年間繰りかえし、二〇〇五年一〇月、「女性・女系天皇容認」の最終報告を出した。「男系・男子主義」を強固に主張する伝統主義右派が、国会の内外において激しい抵抗を展開するなか、小泉は有識者会議の最終報告を受けたその直後に「皇室典範改正準備室」を発足させ、今年一月から始まった国会で、この最終報告にそった法「改正」を目指した。もちろん私たちは、「皇室典範」の「改正」ではなく天皇制の廃止を求める声をあげ続けた。そして二月、秋篠宮紀子の妊娠が報道され、男子誕生の可能性を前に「皇室典範改正」法案づくりは頓挫した。紀子の出産を待つというのが、「女帝・女系」容認派、「男系・男子主義」派の一致した見解だったのだ。「皇室典範改正」法案づくりはいま、事実上の棚上げ状態にある。私たちはこの法案づくりに反対であるが、それが仮に議会等で論議されていたとしても、その結論が皇族の妊娠によって左右されて良いわけはない。そういったことは私たちの主権を最大限に貶めることでしかない。私たちは政府のこのような対応に怒り心頭に発するものである。国家の制度としてある象徴天皇制の根拠は、憲法第一条にしかない。政府はその一条を尊重するならば、天皇の地位が「国民の総意に基づく」という一文をこそ尊重すべきではないのか。現憲法の規定で立ちゆかなくなった天皇制を維持するためには、最低限、その説明の義務があるだろう。そのための論議を行うべきだろう。天皇制反対の私たちの声に耳を傾けるべきであろう。何の論議も説明もないままに象徴天皇制の安定的維持を前提とし、最終的な法案の決定については、一皇族の出産待ちという結論をだすような政府を、私たちは認めることなどできない。政府は、戦争をするための法律づくりには何の躊躇もないようだ。戦争に励むアメリカ合衆国政府の言うがままである。だが、天皇制維持のためにはこれほどまでに「慎重」であり、強引であるのだ。私たちの社会は、このような政府によって動かされており、日本政府が目論む「改憲」が、このような新たな戦争をする天皇制国家づくりでしかないことが、誰の目にもリアルに見え始めている。私たちの基本的人権や主権を無視する天皇制の下で生きるのはいやなのだ。天皇制がつくり出す差別・格差社会も、その天皇制がささえる戦争国家も拒否するしかない。その戦争国家を支える天皇制の行く先が、紀子の出産待ちという事態にもウンザリだ。このように考える少なくない人たちとともに、天皇のいない社会を目指したい。現在、天皇制をめぐる政治状況は広い再編の過程にあり、とりわけ改憲にともない予想される国家・社会の変容に適合的な天皇制のあり方がさまざまなレベルで提示されつつある。日本政府・支配層は、憲法の中で天皇制に付与される権能の強化や皇室典範改定によって進められる制度的な領域における再編はもとより、歴史認識を自国中心主義的に解釈しなおす動きとして、社会・文化レベルに反映させようとしているのである。奇しくも靖国問題をめぐるこの間の政治焦点化は、こうした再編動向が戦争国家化の進行する日本の中で果たす意味・役割をあらためて問うてゆくこと、またそれゆえ一層の批判が必要となることを私たちに強く確信させる事態となっている。私たちは、小泉首相をはじめとする政府閣僚らの靖国参拝に反対し、国家による慰霊・追悼そのものを問うべく、本日の取り組みを準備した。そしてこの取り組みをひとつの山場としつつ、さらに今後の取り組みに向け、運動をさらに継続・発展させていきたい。昨今の情勢下における反天皇制運動の意義はきわめて大きなものとなっている。小泉首相による靖国参拝強行を強く弾劾するとともに、今後とも反戦・反改憲運動に呼応する運動を創っていこう。

 つづいて二人の講演。
 西尾市郎さん(平和をつくる琉球弧活動センター)。
 六月二三日は、沖縄の慰霊の日だが、平和市民連絡会と小泉首相靖国神社参拝違憲沖縄訴訟団はともに行動した。米軍再編基地強化の問題と天皇制の問題を切り離してはならない。基地、靖国は重なっている。沖縄差別の上に日米安保はなりたっているのだ。沖縄に対して国を主体とする国家テロがおこなわれたのだ。天皇は神ではないし、お国も神ではない。それらは相対的なものだ。だが、靖国神社は、天皇のため国のための戦死者を英霊として祀っている。それも追悼のためではなく、顕彰しているのだ。このようにして国家が死の意味を、生きる意味を与えているのである。
 太田昌国さん(民族問題研究)
 小泉は五年間、二分法の言葉のマジックによって政治を行ってきた。そこには、議論、分析、歴史的智識、知性といったものがまったくない。小泉は、オペラとか歌舞伎が好きだそうだが、そこから学んだのは大見得を切ることぐらいだ。多角的に見る、一人の精神の内での葛藤などはなく、空虚なワンフレーズがあるだけだ。

 アピールは、靖国解体企画、新しい反安保行動をつくる実行委員会、立川反戦ビラ弾圧救援会、女性と天皇制研究会、日の丸・君が代強制に反対する市民ネットワーク、靖国参拝違憲訴訟の会・東京、京都・天皇制を問う講座、もういらん兵庫国体連絡会から行われた。

 集会を終わってデモ。右翼の執拗な嫌がらせをはねのけて、靖国神社反対と天皇制反対のシュプレヒコールをあげた。

【声明】小泉首相の靖国神社参拝に抗議する!


 本日の早朝に「参拝する」と公言した小泉首相は、午前七時四〇分、ついに実行してしまった。二礼二拍一礼の神道形式ではなかったものの、公用車を使い、本殿に一礼し、モーニング姿で昇殿参拝。「内閣総理大臣・小泉純一郎」と記帳し、私費で献花料三万円を納めるというスタイル。総裁選の票欲しさに掲げた五年前の「公約」をはたすため一五日参拝に踏み切ったのである。
 なんと小泉は憲法の政教分離の原則を公然と踏みにじるこの行為を、憲法の「思想及び良心の自由は侵してはならない」という思想にそくした「心の問題」だと正当化し続けている。この植民地支配と侵略戦争を美化している「侵略神社」に首相が参拝するという行為が、どういう社会的・政治的意味を持つのかという点にまったくふれずに、自分の「心」は自由だなどという心情的論理で正当化できるわけがない。植民地支配や侵略戦争の最高責任者昭和天皇ヒロヒトの「A級戦犯」が靖国神社に合祀されているかぎりは行かないなどという嗤うべき「心」を小泉首相が踏みにじることに、私たちは何の怒りをも感じない。しかし、日本に植民地支配され侵略された国々の人民の「心」を踏みにじる事は断じて許されない。そして国(天皇)によって強制的に戦争に動員された戦死者たちの家族や友人たちがかかえる、国家によって死が積極的に意味づけされ追悼されるのはゴメンだという「心」を踏みにじるのも、また許されない。
 そういう立場から、私たちは小泉首相の靖国参拝・千鳥が淵戦没者墓苑での献花、そして全国戦没者追悼式への出席にまとめて抗議する!
 平和の名目で死者を戦争国家づくりのために政治利用する、いっさいの国家のセレモニーをやめよ!

二〇〇六年八月一五日

反天皇制運動連絡会


平和遺族会全国連絡会

     
 「憲法を活かし、アジアの平和と和解・共生をめざそう」

 八月一五日、日本教育会館で、平和遺族会全国連絡会主催の「憲法を活かし、アジアの平和と和解・共生をめざそう」が開かれた。

 はじめに司会者から、次のように平和遺族会の性格について述べられた。平和遺族会は、国家の誤った侵略戦争の犠牲となった戦没者たちが、同時にアジア諸国民にとっては、加害者であったという悲しむべき事実を踏まえて、「主権在民・平和主義・国際協調主義(憲法前文)」および「戦争の放棄(九条)・政教分離原則(二〇条)」の精神に固く立ち、ふたたび国内外に戦没者、戦争犠牲者を生み出さないため、助け合い、励まし合いつつ、靖国神社「公式」参拝など、いっさいの戦争への道を許さず、平和をつくりだすために、ともに努力することを目的とし、そのために各種団体との協力と連帯を図りつつ、交流、学習、運動を行う。
 平和遺族会代表(戦没者遺族)の西川重則さんが「アジアの叫びに応えよう!〜日本はアジアに何をしたのか」と題して基調報告を行った。
 私たちは、先の戦争は自衛のための戦争ではなく、中国はじめアジア太平洋戦争地域の国々・人々に対して、想像を絶した「戦争の惨禍」をもたらした侵略戦争だと考えている。その戦争の戦争責任・戦後責任を、天皇を頂点とする戦争指導者の歴史の事実として重視している。靖国神社が軍国主義の精神的支柱としての消しがたい役割を果たしたことも忘れてはいない。戦後のいまも、侵略・加害の犠牲にあって、旧植民地支配の下、五万人に近い方々が、天皇の名の下に、勝手に靖国神社に合祀されている現状を、首相はどう考えているかを問いたいと思っている。言うまでもなく、戦没者遺族のすべてが天皇や首相・閣僚らの靖国神社参拝を望んでいるのではない。戦没者は「英霊」ではなく、「慰霊」「顕彰」の対象ではない。A級戦犯を分祀すれば、あるいは靖国神社を非宗教化し、国家護持の方向に解決の道を求めても、真の解決になるとも思えない。平和たるべき二一世紀にあって、首相として最も心すべきことは、日本国憲法第二〇条に明記されている信教の自由・政教分離原則に基づき、国家と宗教の関係を正しく解釈し、適用することにある。日本国憲法第九九条の憲法尊重擁護義務を守り、憲法政治に徹することが、いま強く求められていることを強く要望する。靖国神社参拝問題が国の内外に大きな影響と波紋をもたらした要因が、首相の「個人の自由」を大義名分に参拝をくり返す政治姿勢にあること、そしてその結果、アジアに対する未解決な和解と共生の道を無視し、一部の特定の国民への「公約」の墨守となり、有事法制下の靖国神社参拝がアジア外交の不在となった政治責任の重大性を指摘せざるを得ない。
 つづいて、憲法学者で九州大学名誉教授の横田耕一さんが記念講演を行い、靖国神社と憲法の政教分離について話した。
 最後に、平和遺族会の「小泉首相の靖国神社参拝に対する抗議声明」が紹介された。声明は次のように参拝を批判している。「…私たちは、小泉首相に対して、日本による中国をはじめとするアジア太平洋地域への侵略戦争や朝鮮・台湾への植民地支配の圧制の歴史にあって、今なお戦争の傷跡の癒えない方々の悼み・悲しみ・憤りを心に刻み、憲法第九九条の憲法尊重擁護義務を遵守し、アジアの和解と共生の道を歩むべきことを強く要請します。最後に重ねて、きょうの小泉首相の靖国神社参拝の強行に対し、強く抗議の意志を表明します」。
 集会の終了後、靖国神社にむけて平和行進をおこなった。


「えっ!東京でまたオリンピック?」  都民による討論集会開かれる

 都民には寝耳に水の石原都知事によるオリンピック招致が喧伝されるなか、七月三一日、東京・杉並区で「えっ!東京でまたオリンピック?」という討論集会が開催された。主催は「東京にオリンピックはいらないネット」。
 はじめに主催者から、日本オリンピック委員会宛に「東京がオリンピック開催地にはふさわしくない」という趣旨の要望書を出したことなどの経過報告があり、つづいて福士敬子都議から東京都のオリンピック招致の経過と問題点の報告があった。
 福士さんの報告はいくつか特徴的があった。まず二〇二〇年に立候補を予定していた札幌市について、〇五年三月から市議会や県議会で決議し、〇六年二月には必要経費や経済効果などを公表したうえで一万人アンケートを実施し、その結果、市民の意向が反映されて「辞退」に至った経過が報告された。都の取り組みについては、一億円かけて作った東京都の開催概要計画書(一般都民は請求してもくれない)を回覧しながら、コンパクトを売り物にしている計画だが、実際はアクセス確保のために圏央道や会場への地下鉄、高速道路建設など、オリンピックのためならという理由で膨大な公共事業費が使われると指摘した。メーン会場の臨海地区は都の所有地で負担は少ないと言うが、鈴木都政が作った赤字・不良債権を、都の財政を再び使って処理する計画であること、関連施設整備費の五千億円は民間活用と国庫補助に頼るので都の負担分は五百億円と試算しているが、実際は予算計画通りでなく負債を抱え込むのがこれまで多かったことなどが報告された。
 「石原都知事がオリンピック精神と両立するのか」「二〇一六東京オリンピックと環境問題」などが提起された後、町議会がオリンピック賛成決議を否決したことで石原都知事から「後で吠え面かくな」と罵倒された瑞穂町議の近藤浩さんは「町は軍民共用に反対で、横田基地の騒音に悩んできたから、あえて賛成決議を出すこともないという考えだ。自民と公明は上から強くいわれ、否決する当日まで圧力があった。今後は臨時議会を開催して再決議もあり得る」と状況報告した。
 小平市議の橋本久雄さんは「公共事業での町作りは二〇世紀型箱物行政だ。市議会の中では反対はまるで非国民の扱いだが、街頭でシール投票をしたときは六〇対一九一で反対が多かった。町に出て都民に訴えよう」と経験を交えて語った。
 長野オリンピックに反対運動をした小山和久さんは「長野五輪は、第一に自然破壊と開発、新幹線や高速道路建設が五輪を名目に優先された土木五輪で、堤、コクド、大手ゼネコンの目玉開発だった。予算は計画よりもふくらみ、それを見込んだ裏帳簿が初めから用意されていた。メディアが一番儲ける主体で、反対の声は無視される。電通やアディダスなどがオリンピックを金にする首謀者だった。招致運動では小学生が歓迎に動員されたし、五輪反対で長野市長選を取り組んだときは、県内でポスターの印刷もできず公報も配られないという、五輪ファシズムの雰囲気が作られた」など数々の経験を報告した。
 最後に、「《いらんばい!福岡オリンピック》の会」からの連帯メッセージが紹介された。街頭シール投票などの行動提起があり終了した。市民不在の石原都知事によるオリンピック招致に都民自身の声をあげた集会だった。 (首都圏通信員)


女性と天皇制研究会の声明

  奉祝ムードとソフトな沈黙をはね返そう! 〜皇族の事情で空転する「皇室典範改正」論議

 本来「私事」であるはずの一人の女性の妊娠が、国政をも左右する……。秋篠宮妃紀子の妊娠報道に、政府は、これまで強硬におしすすめてきた「皇室典範改正」案の今国会への提出を、急遽とりやめました。「女性天皇」論に対し激しく反発してきた「男系男子」維持派は勝ち誇ったかのように「男子誕生」を妄想し、逆に小泉首相と「皇室典範に関する有識者会議」が世論づくりに邁進してきた「女性天皇」容認ムードは水を浴びせられたように沈静化。皇室典範改正準備室も縮小され、メディアも一気に沈黙。何事もなかったかのように奉祝ムードばかりが先行し、この九月にも出産とのニュースが報じられています。
 「皇室典範改正」法案がめざす、皇位継承要員獲得のための女性天皇容認に、私たちは反対してきました。世襲、すなわち女性への妊娠・出産の強制、男系による血統支配、婚外子の排除という体系化された性差別によってその地位を保持し、身分差別・民族差別の正当性を内外に誇示する天皇とその後継者は、どのような形であっても要りません。そもそもこの法律の存在自体が、戦前と何も変わらない、家父長制そのものである天皇家を温存させてきたのです。「皇室典範改正」法案は差し戻し、皇室典範それ自体をなくすべきです。
 一方で私たちは、今回の国会空転劇にも違和感を禁じえません。どのような内容であれ、法案作成とその検討の場である国会は、私たちにとって最低限の民主主義の場であるからです。「象徴」としての天皇が「国民の総意」の上に成り立っているなどと言うわりにはなぜそれが多額の税金を投入してまで存続されねばならないか、民主主義的な手続きの上で確認されたことなど、戦後一度たりともありません。王制廃止の世界的潮流を無視し、「皇室典範改正」の過程でも意図的に無視されてきた「天皇制の是非」こそ、国会で一から検討されねばならない重要な論点です。
 しかし、それもこれもすべては皇族の事情でたやすくひっくり返る。一転してソフトな沈黙に支配されている今の日本の状況に、私たちは戦慄すらおぼえます。
 このかんメディアにはかつてないほど皇室の話題が溢れ、同情めいたものもあれば、スキャンダラスな物言いも目立ちます。しかしそこに批評性など一切なく、スキャンダラスに報じられれば報じられるほど、天皇制を論ずれば論ずるほど、天皇制の強化につながっていく。天皇・皇族による政治的言動も頻発しています。皇室外交も国内漫遊もやりたい放題。無駄に税金を浪費しようが、憲法規定に反しようが、すべて不問に伏され、賛美の声ばかりが高まっています。まさに一億総タイコモチ状態。
 そう、いつのまにか、天皇空間は急速に拡大しているのです。
 私たちの民主主義は、天皇制との対し方において明らかに後退をしいられています。右往左往する「皇室典範改正」法案も、生まれてくる子の「性別」によっていかようにも形を変え、またぞろ浮上してくることでしょう。そのすべては天皇(家)の安泰のため。好戦国家と差別社会の頂点に立ち続けてきた天皇制のため。
 時代を逆行させる天皇制はもういらない!
 今後どのような展開になろうと、それが天皇制を存続させるものであるかぎり、私たちは拒否します。奉祝ムードとソフトな沈黙をはね返そう!
 今こそ、私たちの大切な民主主義のために。

二〇〇六年八月一五日

女性と天皇制研究会


財界の要求に沿った労働法制改悪に反対しよう

 小泉構造改革攻撃は、新自由主義的な規制緩和で資本の自由を拡大し、労働者への搾取を強めて、社会的な格差は大きく拡大した。
 構造改革とくに労働の分野における規制緩和は、労働者を保護する法制を骨抜きにしている。小泉政権はこの九月に終わるが、次期政権は、新自由主義路線をいっそう強めてくることは必至だ。来年の通常国会には労働にかかわる多くの法案提出が予定されているが、これらは財界の強い要求に応えようとするものである。
 経団連、東商などの要求は資本の赤裸々な搾取の要望の表現である。

日本経団連

 日本経団連は、六月二〇日に、「二〇〇六年度日本経団連規制改革要望―競争力と活力ある経済・社会の構築に向けて―」を出した。
 @雇用・労働分野、A医療・介護・福祉分野、B企業年金分野、C社会保険分野、D流通分野、E土地・住宅・都市再生・観光分野、F廃棄物・リサイクル・環境保全分野、G危険物・防災・保安分野、H情報・通信分野、I金融・保険・証券分野、J運輸分野、Kエネルギー分野、L国際経済連携・通商分野、M農業分野Nその他分野の一五分野だ。
 うち雇用労働分野だけで以下のように二三項目があげられている。
 有期労働契約に関する雇用期間の上限の延長、労働条件の明示の方法にかかる電子メール等の解禁、従業員の個人情報の第三者提供に関する取扱いの見直し、一年単位の変形労働時間制における変形期間途中の異動者の時間外清算に関する適用除外、一年単位の変形労働時間制の規制緩和、フレックスタイム制の全労働日適用要件の緩和(新規)、週休二日制の場合のフレックスタイム制の適用、企画型裁量労働制に関する対象業務の早期拡大、企画型裁量労働制に関する手続きの簡素化の早期実施、管理監督者に対する割増賃金支払い義務の見直しの早期実施、解雇の金銭解決制度の早期導入、ホワイトカラーエグゼンプション制度の早期導入、民間職業紹介所における「求職の申込み」と「求人の申込み」の全件受理原則の緩和(新規)、育児休業期間中の社会保険料免除の拡大(新規)、財形年金貯蓄の受け取り要件の緩和(新規)、自由化業務における派遣期間制限の撤廃、派遣労働者を特定することを目的とする行為の禁止の撤廃、派遣労働者への雇用契約申込義務の廃止、派遣禁止業務の解禁、労働者派遣法上のいわゆる二六業種の見直し、衛生委員会開催単位の見直し(持株会社制度への対応)(新規)、労働安全衛生法第八八条第一項の「計画の届出」範囲の特定(新規)、外国人研修・技能実習制度の見直し。

 要望書は、『小泉政権では、『改革なくして成長なし』、『民間にできることは民間に』、さらには『簡素で効率的な政府の実現』という理念の下、構造改革の四本柱の一つとして規制改革・民間開放が進められ、経済的規制を含めて五年間で一五〇〇項目を超える新規の規制改革が実現した』とし、「社会的規制の見直しや官製市場の開放については、緒についたばかりであり、個別の規制改革に関する重要課題はなお山積している。これまで専ら官が担ってきた『公』の領域を新たに民に開放する市場化テストの制度整備はこれからが重要であり、構造改革特区についても制度のさらなる改善に向けた見直しが行われようとしている。グローバル競争と技術革新を梃子にわが国の成長力を高める上からも、規制改革の取組みについて小休止や後退が許される状況ではない」と規制緩和のいっそうの推進を求める。

東京商工会議所

 七月十三日には、東京商工会議所「労働政策に関する要望」が厚生労働大臣らに提出された。中小企業を多く抱える東商の要望書は、労働契約法について「一律的・画一的な法規制にはなじまない」として、使用者に一方的に義務や手続きを課すものには反対だとし、労働時間では、労働時間ルールを除外する「自律的労働時間制度」の導入を要望し、新たな休日増や時間外割増率引き上げの措置については「コスト増」「現場に混乱」と述べ反対を表明している。
 労働者派遣法では、派遣期間の制限撤廃、対象業務の拡大、事前面接の容認などを要望し、外国人労働者については「不熟練・単純分野」への受け入れ検討を求めている。

在日米商工会議所


 在日米国商工会議所も意見書「労働契約法による契約の自由と労働可動性の推進を」を出した。
 それは、労働契約法に解雇権乱用法理の内容を明確に定義する、解雇の金銭解決制度を導入する、労働法改正を議論する審議会委員との意見交換の場を設けるという三点をあげている。
 契約の自由と労働可動性が強調されているが、いっそうの労働流動性を求めるものである。
 また争議で解雇無効になったとしても金銭解決によって「解決」する制度の導入を要求する。

規制緩和と格差拡大


 経団連の規制改革要望には、「補論・規制改革が格差社会を招いたとの指摘について」がつけられれている。それは、新自由主義的改革が、格差拡大をもたらしたという批判に対する反論である。
 「昨今、規制改革の進展が賃金格差や非正規社員の増大をもたらしたとの指摘がなされている。しかし、統計上確認できる格差の程度はそれほど大きなものではない。さらに、規制改革が原因であり、その結果として格差が生じたとする議論は感覚的なものに止まっているように見受けられる」として「格差の主たる原因については、元々所得格差の大きい高齢化世帯が増加したことや、ライフスタイルの変化による単身者世帯の増加、長期の経済停滞による若年者の就業機会の制約などによって生じたとの指摘がなされているが、これを超える分析や議論は見当たらない」という。しかし、この間の規制緩和なるものがもたらした典型的なものが、ホリエモン・ライブドア問題、福井俊彦日銀総裁の村上ファンド・宮内オリックスとの関係、竹中平蔵の怪しげな金作りなどであった。そして、雇用の流動化、不安定雇用の拡大は、格差拡大に拍車をかけている。さきごろ発表されたOECD(経済協力開発機構)の日本経済分析では、相対的貧困層の割合がOECD加盟三〇カ国うち日本が第二位(第一位はアメリカ)で「不平等の割合が拡大している」と指摘しているのである。

 財界のいっそうの規制緩和要求に従う自民党政府は、労働者をより過酷な状況に追い込もうとしているのであり、すべての労働者・労働組合の団結した力で、労働分野における規制緩和攻撃に反対していかなければならない。


2006ピースサイクル  平和への願いをペダルに込めて…止めよう戦争の流れを!

改憲阻止の思いで信濃路から越後路へ  長野ピースサイクル報告

 今年で一六年目を迎えた長野ピースサイクルは、七月九日と七月二九日から七月三一日までの四日間、長野県内と新潟県を自転車で走り、二〇〇六ピースサイクル夏の実走を終了した。

 七月九日には佐久市役所を小学生を含む一六名が出発し、小諸市、東御市、上田市、千曲市を経て松代大本営跡直前まで約八〇kmを走った。あいにくの雨で松代大本営跡での行動は出来なかったが、参加者は、冷たい雨の中であらためて、「本土決戦」のために掘られた巨大な地下壕と、そのために犠牲になった強制連行された朝鮮人をはじめとする多くの人々の苦しみに思いをはせながら、後半に向けての決意を確認しあっていったん解散した。今回は長野大学OBの久々の参加があったり、北海道まで単独で自転車旅行をしているおじさんが一緒に走ったりと、いつもとちょっと違うピースサイクルのスタートだった。

 二週間後の七月三〇日は、早朝から松本市の県の森公園から、久々の参加者も含めた小学生から六〇代後半の方まで一九名で出発した。この日は松本地域で反戦活動をしている市民が昨年に引き続き激励にかけつけてくれ、「松本の自衛隊がイラクに派兵されたこと」に抗議し、「基地の自衛隊まつり」に反対する行動への呼びかけを含む連帯のあいさつを受けた。
 国道一九号線を北に向かうこのルートは、交通量は多いがアップダウンが適当にあり、サイクリングは比較的快適で、みんな順調に進んだ。午前中には、長野県知事選の最中ということもあったが、長野県議も駆けつけてくれて「平和の為に頑張って下さい」というメッセージを受ける機会を得ることが出来た。途中雨に見舞われ、豪雨の傷跡が残る場所があったりして、心配もしたが参加者全員が心地よい疲れと共に無事に千曲市に到着した。
 交流会では沖縄の辺野古の闘いを描いたビデオ「海に座る」を鑑賞して、沖縄の現状や米軍再編の問題点などについて学びあった。そのあと、自己紹介をかねて、平和への思いや、翌日の実走(きつーい坂が待っている)への決意を語ったりしながら夜遅くまで盛り上がった。
 七月三〇日は快晴。途中、恒例になった長野ソフトエネルギー資料室(脱原発の運動を進めている)でスイカ・トマト・冷たい飲み物をもっての大歓迎を受け、ピースメッセージと連帯の挨拶もいただき、気温が容赦なく上がるなかで、太陽光を放物面鏡で集めて沸かした湯でコーヒーもいただいて、あらためて自然エネルギーのすばらしさに感動してみんな元気百倍。アスファルトからの照り返しも熱くなるなかを元気に進む。
 途中ではドイツから昨年参加した青年から送られたチョコレートも届けられ、みんなさらに元気に。途中からの参加者も含めて、いよいよ長野ピースサイクル名物の坂道がはじまった。長い坂をゆっくりと上って全員が無事に昼食。ここでも国労OBの方々が例年通りに歓迎してくれ、午後の急な坂を上るみんなをしっかりと激励してくれた。
 午後からは登坂車線の続く坂道を励まし合いながら、歯を食いしばって登る。ここは苦しい分だけ、終わった後がすがすがしい長野ピースサイクルのコースの目玉のひとつである。今年は若干の風が幸いしてか比較的余裕のある人が多く、夕方は少し早めに予定通り全員(二四名)が長野県境の目的地、信濃町のキャンプ場に到着した。
 ここで実走を終えて帰路につく人も多かったが、一五名ほどが残りキャンプ開始。キャンプ場の経営者の方も協力的で、バーベキューと昔なからのお釜で炊いたおいしいご飯やみそ汁に舌鼓を打ちながら、この夜も盛り上がった。この日の夜空は、昼間の雲も消えて真夏の満天の星空となり天の川や流星にひとたび、天文学?談義に花が咲いた。

 七月三一日、朝食はキャンプの続きで、ご飯はもちろん焼きうどんや焼きそばに歓声をあげながら食べる。後かたづけをして、好天の中を新潟県境を越えて上越市へ向かう。信濃町からはほとんどが下りのため、時にはスピードが時速四〇kmを超すこともある。危険をさけるためにブレーキが欠かせないが、気持ちがよい走りである。約半日走って上越市に到着。今年はピースサイクル新潟と合流して、海を見ずに帰った昨年の反省をふまえてピースサイクル新潟の仲間達と名立まで、海沿いのサイクリングコースを走った。ここで、能生町まで走る新潟の仲間達にバトンタッチして、長野ピースサイクルの今年の実走を終了した。新潟の仲間からは、「途中で泊まったお寺の住職からピースサイクルの継続の意義を話された」ことや、長野が加わった自転車の隊列の先頭にいて感動したとのコメントなどを受けて、反戦平和へのお互いの決意と連帯を伝えあって上越市をあとにした。
 ピースメッセージは最終的に長野県内一八自治体からの分を含めて一五〇通を超え、通算の参加者は三一名となり、さまざまな思い出となる話題、平和のための闘いへの決意をお互いに確認することを共有出来るピースサイクルとなった。

 長野ピースサイクル実行委員会は、全国事務局長を先頭に八月中の一連の反戦行動に積極的にかかわりつつ、報告集の作成を準備しながら、秋のピースサイクルを計画、目白押しの反動立法を阻止する闘いを始め憲法改悪阻止の行動を強化していくことにしている。 (T・O)
 

平和の思い携えてヒロシマヘ  大阪ピースサイクル報告         

 七月三一日、京都ピースサイクルの仲間と米国総領事館に申しれを行い、松戸から来た稲田順一さんといっしょにバトンを引き継ぎました。八月一日大阪市役所前に集まったピースサイクルのメンバーは、例年より少なめで、かつての班編成をしたころを懐かしく感じてしまいます。
 いつものように西宮市役所で兵庫の仲間と合流。神戸市灘区では、毎年支援してくれているグループがお茶とジュースをさし入れてくれました。毎年の激励に感謝しながら交通量の多い一日目を終了。

 二日目は、六時に起床し六時半に出発。朝食は、少し走行してからおにぎりをいただきます。二日目のコースは、市街地を抜け、瀬戸内海の海岸線を眺めながらの三つの峠越えという、自然とふれあい、ともに汗を流す最高のコースです。二日目の宿泊地のひなせ有線放送から取材がありピースサイクルを紹介していただきました。

 三日目は、早くも広島県の福山市に入るコースです。岡山では、岡山の仲間とともに県庁と倉敷市への表敬訪問を行い、申し入れを行いました。

 四日目、呉までの長距離コースですが二号線から一八五号線に入ると瀬戸内海が広がる海岸線で涼しい風が心地よくサイクリングには最高です。人数が少ないせいかペースは速く、宿泊地に予定よりも早く到着することができました。

 いよいよ五日目、ヒロシマまで三〇km。一一時の到着集会に合わせて呉を出発。予定どおり一一時にドーム前に到着。続いて、神戸からヒロシマまでピースウォークしたピースボートの仲間が到着、無事の到着を喜びあいました。
 午後からは、米軍岩国基地へのフィールドワーク、八・六ヒロシマ平和へのつどいに参加しました。

 八月六日、七時から「市民による平和宣言」を配布し、八時一五分原爆ドーム前でダイ・インに続いてグランド・ゼロのつどいに参加しました。中国電力本社前までデモ行進を行い大阪ピースサイクルの日程を終了しました。
 今年のピースサイクルは、少人数でしたが情勢はますます厳しくなりつつあります。
 この間築いてきた様々な運動との信頼関係をもとにこの秋の臨時国会での攻防を闘いぬき、さらに憲法改悪を許さない広範なネットワークを発展させていかなければなりません。
 地域の仲間とともに秋の闘いを準備しよう! (大阪ピースサイクル参加者・西野)


伊方原発3号機でのプルサーマル計画の撤回を求める
  四国ピースサイクル報告

 『原発さよならえひめネットワーク』から八幡浜市と伊方町に要望書を出して欲しいとの要請があり、第一八回目の四国ピースサイクルは、参加者五名(広島ピースサイクル一名と呉ピースサイクル四名)で酷暑の中を自転車でスタートした。

 八月一日(火)
 高知水道労組青年部八名が自転車六台と伴走車二名で高知市から窪川町まで約六〇キロメートルを走り、一三時に道の駅で呉ピースサイクルと合流した。国道五六号線を走り厳しい七子峠を無事越えて窪川町に向けて自転車を走らせた。島岡幹夫さんが、「太陽光発電も増えてきた。風力発電もつけていけばよい。」と話された。宿舎に入り、厳しい坂で話が盛り上がった。

 八月二日(水)
 窪川町役場で島岡町議が立会い、町長に「行政の責務である町民の安全な生活を守るため、国、県、四国電力にプルサーマル計画を中止するよう求めて下さい。」との要望書を提出した。町長より「ピースサイクルの皆さん、がんばってください。」と激励があった。役場前で全員で記念撮影の後、高知水道に見送られ自転車四台と伴走車一台で実走した。
 一二時過ぎに、沈下橋に到着。清流・四万十川で昼食を取り、日陰で涼んだ。国道三八一号線で宇和島市まで約七三キロメートルきたところ松野町の道の駅で雷雨となり、自転車を車に積み込み、雷雨の道を宇和島市にはいる。淨満時で焼香し、宇和島水産高校の慰霊碑に献花した。

 八月三日(木)
 宇和島市から八幡浜港に車で移動する。自転車三台は伊方原発まで自転車走行。
 一三時、八幡浜市役所で斉間さん、近藤さん、国労二名と到着。市長室で助役に窪川町と同様の要望書を提出した。助役は「特別委員会を設置して検討している。」と説明した。
 一四時、伊方町役場で町長不在で代理の職員に窪川町と同様の要望書を提出した。職員は「伊方原発は、二九年で年数が経った。プルサーマルは町長が変わり、慎重に検討。」と説明した。
 伊方原発で自転車走行と要望書行動が合流した。
 一五時、伊方原発に到着しゲート前で待つと、窪田総務グループリーダー補佐に抗議・申し入れ。
 「二〇〇六年三月二八日、四国電力が伊方原発三号機でのプルサーマル計画導入について、経済産業相は、原子炉等規制法に基づく原子炉設置変更を許可したことで、愛媛県と伊方町が最終判断をする段階まできました。私達四国ピースサイクルは、プルサーマル計画の撤回を求めます。プルサーマルは、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランを混ぜて作った燃料(MOX燃料)を現在稼動中の原発を使って発電する大変危険な計画です。MOX燃料では、高い濃度のプルトニウムを使用することで、原発のブレーキ=制御棒の効き方が悪くなり、原子炉の出力コントロールが難しくなり、同じ燃料集合体の中でも出力が高い燃料棒と低いものに差が大きく、放射性ガスの環境への放出量が増えるなど危険性が増加する。」
 抗議文を手渡したが、窪田は、「プルサーマルは国内で再処理して、MOX燃料をつくる。プルトニウムは、原爆と一緒にしてはこまる」と質問をはぐらかす返答ばかりだった。
 八幡浜市に戻り、斉間さん宅で大ご馳走の夕食の後、一九時から市民会館で『地震・活断層とプルサーマルを考える集会実行委員会』主催の地震・活断層とプルサーマルを考える集会に参加した。
 八月四日(金)、八幡浜市から長浜港へ車で移動し、自転車四台を降ろす。国道三七八号線で松前町まで二九キロメートルを自転車走行。その後、自転車を車に積み込み松山観光港に到着。 (広島通信員)

六一年目の8・6を迎えて 
ヒロシマ

 六一年目となる今年の8・6ヒロシマは、前段の改憲を頂点とする一連の反動攻勢をひとまずは打ち返したものの、予断を許さない今秋国会での継続審議を挟む中で迎えた。それに止まらず、イスラエルのレバノン侵攻という新たな戦争の中で重苦しく8・6を迎えた。
 それを反映して今年の平和へのつどいのメインスローガンには、「ヒロシマ・ナガサキからイラクまで、核時代の戦争に抗して」が据えられた。
 前段では二つの国際会議がヒロシマで開催された。七月一五〜一六日に「原爆投下を裁く国際民衆法廷」。それに続いて八月三〜六日に「劣化ウラン兵器禁止を訴える国際大会」と。
 いずれも核時代の戦争として、劣化ウラン弾やバンカーバスターなどの核兵器が「通常戦争」でも使用されていることに、都市部無差別爆撃が第二次大戦から継続して今日に至っていることに、国際的な反対世論を喚起する場としてヒロシマが選ばれたのだ。
 今年のヒロシマはかつてなく暑かった。一連の行動を簡単にレポートする。

 八月四日、今年は原水協と原水禁が同一会場で大会を時間差開催した。会場前で、8・6ヒロシマ平和へのつどいのビラを配布。原水禁系のビラの受け取りが悪い。連合・核禁会議との共催ということで統制がかかっているのか。反原発分科会をつぶし、なんと配布資料も別々だ。被爆者にとって残された時間はないというのに。日本の「平和運動」の現状を憂う。

 八月五日、一一時に原爆ドーム前にピースサイクルの自転車隊が到着。短時間ながら全国到着集会が開かれた。最初に地元を代表してピース全国ネット共同代表の伊達工さん、続いて8・6ヒロシマ平和へのつどい代表の湯浅一郎さんから歓迎あいさつ。実走者からはピース元祖の大阪、二二日かけて東京から走ってきた稲田さん、島根からのあいさつを受けた。
 また、百余日の船旅から帰国し、さらに神戸港から原爆ドームまでピースウォークで走破してきたピースボートのメンバーも合流し、引き続き、ピースボートの「完破集会」も開かれた。相互に連帯のメッセージを送りあい、エールを交換した。
 一三時からは恒例の岩国基地フィールドワーク。三・一二の住民投票勝利、続く新市長選挙での勝利と、全国から注目されている岩国にバスで向かう。車中では湯浅さんからこの間の経過などについて説明、岩国に着いてからは市職労から説明を受ける。「国の専管事項」などと民意を蹂躙して進められる基地沖合い拡張が、基地被害のたらいまわしに止まらず、実は米軍再編の一環として戦略的に位置づけられており、自治体・住民一体となってこれを拒否し、基地拡張を阻止する意味の大きさを改めて認識させられた。
 一七時からYMCAで8・6ヒロシマ平和へのつどいが開かれた。まよなかしんやさんの歌の後、ナガサキピースウィーク、原爆投下を裁く国際民衆法廷、ブラジル在住被爆者、イラク、イタリアからのゲスト発言の後、ピースデポ代表の梅林宏道さんが米軍再編の本質について講演、岩国から田村順玄岩国市議の報告、性教育バッシングなどの報告を受け、最後に湯浅代表のまとめで終了した。その後会場を移して、ピースサイクル全国交流会を開催した。まず吉井信夫ヒロシマネット代表、上関英穂郵政ユニオン中国地本委員長から歓迎のあいさつ、大阪、東京、岡山、長崎から取り組みの報告が行われた。最後に、まよなかしんやさんの歌で盛り上がり、交流会は終了した。

 八月六日は早朝から行動開始。六時からドーム前の「場所取り」。グランドゼロのつどいの会場確保のためだ。七時からは市民による平和宣言と第九条の会ヒロシマの意見広告を配布。ドーム前には様々な人々が集い、通り過ぎる。子供たちも多い。八時一五分から一〇分間のダイ・イン。静寂の中を日本山妙法寺の太鼓が響く。ダイ・インには批判もあるが、内的には死者の気持ちに想像をめぐらすささやかな行為だと思う。
 グランドゼロのつどいを終え、中国電力本社に向けてピースウオーク。ピースボートのメンバーも参加し約二〇〇名で、シュプレヒコールを上げる。中電前での反原発の座り込みに参加。各地の反原発の取り組みが報告され、最後に中国電力が暴力行為をともなって進めている上関原発建設のためのボーリング調査に、抗議のシュプレヒコールをたたきつけて終了。
 午後からはバスで比治山・宇品フィールドワークに参加。被爆遺跡を巡りながら、大本営が置かれた軍都廣島、海外出撃基地としての宇品港、そしていくつかのターゲットの一つとして原爆が投下された被爆都市ヒロシマ、アメリカの放射能障害調査のモルモットとされた被爆者の怨念が詰まる比治山、原爆の灼熱と爆風と放射能障害を告発し続ける無数の遺跡、反核・平和を世界に訴え続ける平和都市ヒロシマを見ることができた。
 翌七日、宇品港からスタディークルージングに。午前中は似島・江田島・呉を回るコース。
 陸からは遮蔽物などで見えにくい基地・軍事施設の実態が赤裸々に見える。
 広島から呉にいたる沿岸・島嶼部には、海上自衛隊や米軍の施設が集中しており、何より海上自衛隊呉基地の艦船数には驚かされる。四一隻が配備されており、そのうち二〇数隻を間近で見ることができた。沖合いに停泊している最大の強襲揚陸艦「おおすみ」の周囲を、クルージングのフェリーはゆっくりと一周。その大きさと空母と見まがうばかりの異様さを目前にすると、自衛隊ではなく既に軍隊であることを実感する。インド洋での活動を終えて帰ってきたばかりの他の艦船も。この基地群を見るだけでも、アフガン・イラク戦争に深く加担していることがよくわかる。
 午後からは島嶼部を抜けて岩国沖へ。岩国基地の沖合いは制限水域となっており、その外側からしか見ることができないが、拡張工事の進む基地はガスがかかりかすんでいた。船は飛行ルート直下の阿多田島に立ち寄り、短時分ではあるが上陸してみた。この島は広島県内で唯一、爆音指定地域になっているところだ。船内に戻り阿多田島の自治会長さんから状況説明を聞く。当日も急旋回で上昇する戦闘機の爆音がしていたが、現在でも島民は日常的に爆音と危険にさらされ、主力産業の養殖漁業は魚がおびえてエサを食べなくなるなど、大変な被害を受けていること、さらに、滑走路が沖合いに移され艦載機が移駐してくると爆音がもっとひどくなり、島民は絶対に反対だと訴えられた。沖合いでは海自の潜水艦が訓練中の阿多田島を後にし、もう一つの島ぐるみで反対の宮島の横を走り、船は六時間のクルージングを終えて宇品港へと戻った。今年の8・6はこれで全日程を終了した。
 平和都市ヒロシマの周囲では軍事態勢がより強化されている。米軍の侵略と固く結びついた基地群が取り巻いている。広島市に一部かかる陸自海田基地からもイラク派兵を許してしまった。
 この矛盾にヒロシマはどう応えていくのか、ここが問われている。 (I)

浜岡原発運転中止を申しいれ
  静岡ピースサイクル報告

 七月二四日、ピースサイクル静岡ネットワーは中部電力株式会社(社長・三田敏雄)に対して浜岡原発の停止を申し入れた。

  申入書

 浜岡原発は、近い将来、東海巨大地震に晒されることが確実と世論はもちろん、貴社自身も認識されていることと思います。しかし、貴社はどんな地震が来ても一〇〇%安全と公言・宣伝してはばからない態度を終始取りつづけてきました。ところが、原子力安全委員会の「原子力発電所耐震設計審査指針」改訂作業の中では、「残余のリスク」の存在を確認しています。すなわち、「一〇〇%安全」とは言えないとなりました。また、貴社の株主総会においても、このことを認める回答がなされています。
 このことに加えて、浜岡原発は東海地震の震源域の真上に立地し、しかも、一・二号機は老朽化も甚だしく、三・四号機においても配管やシュラウド・制御棒破損が現出し、到底まともな原発とは思われません。補強工事を施すことは、貴社が浜岡原発の現状が危険性を抱えているとの認識に立っているとの証左でもあります。最新鋭機で改良型といわれる五号機に関しては、その同型機である志賀原発二号機に本年三月、「運転差止め」の判決が出されました。
 さらに、五号機は、「あわやタービンミサイル事故にいたるか」と思われる「羽根」の破損により、自動停止という事態が発生しています。
 原発は一旦、大事故を起こせば炉心溶融という事態まで発展します。今年はチェルノブイリから二〇年、その被害の実態は未だ明らかにならず、死者の数さえ特定されていません。浜岡原発とチェルノブイリの事態を重ね合わせれば、「原発震災」の言葉が当てはまります。災害は地元は言うに及ばず、遠く首都圏まで達し、さらに日本だけにとどまらないでしょう。
 私たちは、このような悲惨な事態を招かないよう、ただちに浜岡原発のすべてを停止、廃炉にすることを要求いたします。

日本原ルートの実走  岡山ピースサイクル報告

 七月二九日から三〇日にかけて「平和の願いを世界へ未来へ岡山から」をスローガンにピースサイクル日本原ルートの実走がおこなわれた。

 岡山県人形峠にある「日本原子力研究開発機構人形峠環境技術センター」に放射性廃棄物の地層処分及びスソきり処分またウラン残土を岡山県への持込に反対との申し入れを行い出発集会の後目的地の岡山市に向けてスタートした。

 途中、陸上自衛隊日本原駐屯地、三軒屋駐屯地・弾薬庫には、自衛隊の土地を住民に返還、自衛隊の解隊などの申し入れをおこない、自治体には、高レベル放射性廃棄物処分場の受け入れの拒否。自衛隊の解隊・県内からの撤退することの要請。国民保護法、憲法改悪、教育基本法改悪に反対等の申し入れをおこなった。

 今回のピースサイクルは、参加者の増加とは行かなかったものの、初参加の人もおり、また美作平和センターからも久しぶりの参加があった。また地域で市民運動をしている人々、日本原基地反対現地農民の方との交流もおこなった。

 今国内では、国家主義が強まり、ますます右傾化が進でいる。県内おいても日本原演習場で初の日米合同演習、人形峠への高レベル放射性廃棄物処分場誘致、自治体合併などさまざまの問題がある。

地域の運動や要求をつないでいき、平和な社会を築いていくために、みなで声を上げていくことなどを集約集会で確認し終了した。 (岡山通信員)


イスラエル・ヒズボラ戦争の停戦を!

 イスラエル軍とレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラとの戦闘の停戦から一週間。八月二〇日には芝公園の増上寺で、中東の平和を求める市民のイベント(イスラエルとヒズボラに、停戦の継続を求めよう! 緊急アクション)が行われた。主催は、パレスチナ子どものキャンペーンやアムネスティ・インターナショナル日本などによるSTOP THE WALL実行委員会で、WORLD PEACE NOWが協力した。
 イスラエルのレバノン攻撃とヒズボラの反撃では多くの犠牲者が出ている。ようやく停戦協定がなされたがきわめて不安定な状況にある。この行動は、一か月に及んだ戦争の犠牲者への追悼と、停戦が守られ市民への攻撃がふたたび繰り返されぬよう求めるものであった。
 本堂前の集会では、パレスチナ子どものキャンペーン、アムネスティ・インターナショナル日本、JVC(日本国際ボランティアセンター)、パレスチナ子ども里親運動、WORLD PEACE NOWからアピールがあり、参加者による寄せ書き、また、現地の状況が映し出され被害が拡大している様子など説明がなされ、最後にイスラエルとヒズボラに対するアピールが確認された。
 キャンドルアクションでは、平和と言う意味の文字をヘブライ語(シャローム)とアラビア語(サラーム)でつくった。

 停戦が二週目に入った二一日夜、イスラエル軍は、イスラエル・レバノン国境から四キロ北でヒズボラのメンバー三人が近づいてきたとして発砲し殺害した。停戦発効後、イスラエル軍の攻撃で死亡したヒズボラ構成員は一二人に上るといわれる。同日、イスラエル軍は、レバノン南部、首都ベイルート、東部ベカー高原の上空を飛行している。こうした行為に対して、シニオラ・レバノン首相は国連のアナン事務総長に書簡を送り、上空飛行は停戦合意違反だと抗議している。

 イスラエルの停戦違反が続く中で、イスラエル軍のレバノン南部完全撤退の前提となる国連レバノン暫定軍(UNIFIL)増強部隊の派遣はめどが立っていない。その上、イスラエルのオルメルト政権は「国交のない国」の増強部隊参加を拒否する姿勢を明確にしたが、これはイスラム教徒の多いマレーシアやインドネシアなどを念頭においたものだが、停戦継続の前提を自ら切り崩す行為に出てきている。
 イスラエルとしては、この機会に、ヒズボラなど反イスラエル勢力を徹底的に弱体化しようとしている。イスラエルは当初、簡単に制圧できると考えていたが、まったく成功していない。それゆえに、停戦決議が、イスラエルに「自衛のための軍事作戦」を禁止していないことを理由に、今後も軍事攻撃を続ける構えである。
 こうした状況をうけて、イスラエル国内にも軍部のやりかたに批判が強まっている。イスラエル軍のレバノンへの大規模な攻撃にもかかわらず、その攻撃開始の理由としていたヒズボラに拉致された兵士の奪還の見通しは立たず、ヒズボラのミサイルが民間人の犠牲者を増やしているだけでなく、イスラエル軍艦をも直撃するようになっている事態に政府批判が起こっている。そして、この攻撃開始自体に対する疑問も出てきている。直接の死傷者だけでなく北部から難民の増加、工場の閉鎖、観光客の激減などすでにイスラエルの経済的負担は大きなものになってきている。こうしたことを背景にイスラエル国内での反戦運動も拡大しているのである。


在日コリアンの子どもたちに対する嫌がらせ等に関する緊急アピール

 本年七月五日の朝鮮民主主義人民共和国による弾道ミサイル発射の報道以降、朝鮮学校及び朝鮮学校に通う子どもたちに対する嫌がらせが東京都をはじめ全国各地で頻発しています。

 私たちの社会は、残念ながら依然として民族的マイノリティに対する差別を根絶できていません。朝鮮学校及び朝鮮学校に通う子どもたちに対するこのような嫌がらせもその例であるといえます。しかしながら、在日コリアンの子どもたちには、弾道ミサイル発射について何らの責任もないことは明らかです。

 日本国憲法及び国際人権法は、人間の尊厳を最大限に保障するとともに、人種等によるいかなる差別も禁止しています。そして在日コリアンの子どもたちにも、当然に人種等によるいかなる差別も受けることなく安心して生活し学ぶ権利が保障されています。嫌がらせは、そうした権利を侵害するものであり、決して許されるものではありません。第二東京弁護士会は、人権の擁護を使命とする法律家の団体として、在日コリアンの子どもたちに対する嫌がらせを決して行わないよう強く訴えます。

 そして、当会は、今後も国籍・民族や文化が異なっても一人ひとりがお互いの人権を尊重し共生できる社会の実現に向けて、関係機関と協力のうえ、積極的に取り組み続ける決意を表明します。
二〇〇六(平成一八)年七月三一日

第二東京弁護士会  会長 飯田隆


昭和天皇はなぜ靖国に行かなくなったのか

        
 松平宮司 崇敬会総代 引揚援護局

富田メモの波紋

 八月十五日を前にして、日本経済新聞七月二十日付朝刊のスクープで公表された元宮内庁長官だった富田朝彦の「メモ」は、小泉首相らの靖国神社参拝問題の是非をめぐる論議をいっそうホットなものにしている。富田メモは、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感をいだき、それ以降、靖国神社へは行かなくなったという内容だ。公表の当日は、自民党の次期総裁最有力候補の内閣官房長官・安倍晋三の『美しい国へ』(文藝春秋新書)の発売日でもあり、総裁選がらみとも見られた。かつ、日本経済新聞によるのものだったので、公表の裏には、中国との関係改善を求める財界の意思がうごいているとも取り沙汰されている。
 A級戦犯分祀論も一段とトーンをあげ、自民党内の加藤紘一などの靖国神社参拝反対派などはこれをとりあげているが、小泉自身は、「それぞれの人の思いですから。心の問題ですから」と言い続けている。
 しかし、この問題は天皇がA級戦犯の合祀を嫌ったというだけの単純な話ではない。A級分祀論にしても、それによって、天皇の靖国参拝に道を拓くと意味もあり、靖国神社を『慰霊と顕彰』施設として、すなわち天皇のために死んだ人をほめたたえる施設として国民イデオロギー装置としての機能を十分に発揮させるという目的が含まれている。
 ここで、冨田メモの該当部分を引用しておく。

 私は 或(あ)る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ

A級戦犯合祀の経緯


 天皇が「筑波」と言っているのは筑波藤麿。かれは旧皇族山階宮家の出身で、四六年に宮司に就任し七八年に七十三歳で在職のまま死去した。「松平の子の今の宮司」がと言っているのは、松平永芳のことで、元帝国海軍将校(少佐)、戦後は陸上自衛官(一等陸佐)、一九七八年七月一日、靖国神社宮司となり、一〇月には、A級戦犯を「昭和殉難者」として合祀を強行した。二〇〇五年七月に死去した。この松平宮司が「やすやすと」A級戦犯合祀を行ったのだった。
 では、A級戦犯合祀の経緯はどうだったのか。岩波書店『世界』九月号の、保阪正康「靖国神社とA級戦犯―合祀を進めた歴史観とは―」がそれにふれている。
 保阪は、『諸君』一九九四年一二月の、松平の「誰が御霊を汚したのか 『靖国』奉仕一四年の無念」を引用している。いささか長くなるが、当事者(松平)みずからの発言ということで、ここで孫引き。

 私の就任したのは(昭和)五三年七月で、一〇月には、年に一度の合祀祭がある。昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、いまでも慣習によって上奏簿を御所に持っていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたか、「まだ間に合うか」と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、一四柱をお入れしたわけです。巣鴨で絞首刑になられた東条英機(元首相・陸軍大将)、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎(以上、陸軍大将)、武藤章(陸軍中将)、広田弘毅(元首相)の七柱。それに囚われの身や、未決のままで亡くなられた梅津美治郎(陸軍大将)、小磯国昭(元首相・陸軍大将)、永野修身(元帥海軍大将)、平沼騏一郎(元首相)、松岡洋右(元外相)、東郷茂徳(元外相)、白鳥敏夫(元駐在イタリア大使)とあわせて一四柱。
 その根拠は明白です。昭和二〇年八月十五日に天皇様のご命令によって、われわれは一切の交戦行為をやめた。しかし、むこうが撃ち込んで来たときは、応戦せよという但し書きがついていたんです。ソ連が一五日以降に千島列島に上陸したので応戦したのはその例で、相当な戦死者が出ています。
 ですから、日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、二七年の四月二八日だといっていい。その戦闘状態にあるとき行った東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は、戦闘状態のさ中に殺された。つまり、戦場でなくなった方と、処刑された方は同じなんだと、そういう考えです。

 松平は、一九五二年の四月二八日のサンフランシスコ講和条約発効までは、「戦闘状態」にあり、「東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は、戦闘状態のさ中に殺された。つまり、戦場でなくなった方と、処刑された方は同じなんだ」としている。つまりA級戦犯の刑死は「戦死」なのだという。松平は、こういう特殊な歴史観の持ち主だった。
 だが、A級戦犯合祀は、松平個人だけでなく、もっと幅広い右翼ネットワークによって実現された。
 松平が宮司になる前から、A級戦犯合祀は、お寺でいえば檀家総代のような役割をもつ靖国敬神会総代らの意向であった。それを、認めなかったのは、天皇に「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と言われている筑波前宮司だった。当時の靖国敬神会総代には、東条内閣時代の賀屋興宣蔵相、青木一男大東亜相といったA級戦犯がおり、かれらは、戦後も政界・経済界に君臨し、A級戦犯合祀は生き残ったかれらの自らの名誉回復のためにも是非とも必要だったのだ。
 それと、重要なのは、厚生省引揚援護局の役割である。秦邦彦「靖国神社『鎮魂社』のミステリー」(『文藝春秋』二〇〇一年一一月号)に次のようにある。

 中心となったのは戦後二〇年間にわたり課長、局次長を歴任した美山要蔵元陸軍少佐(元大本営課長、終戦時の陸軍省高級副官)、板垣徹元中佐(終戦時の東部軍参謀)、大野克一元中佐らで、部下には元将校、下士官、戦争未亡人が集まり、省内では別格的職場であった。

 保阪によると「とくに美山は東条英機直系であり、陸軍省時代には靖国神社への合祀について担当していた節があ」り、秦の稿を引用すれば、「東京裁判史観を否定する旧陸軍出身者のイデオロギーを代弁する立場にあった」というのである。そして、保阪は、A級戦犯合祀は、厚生省引揚援護局、靖国崇敬者総代、松平宮司による、「クーデターのようなもの」であり、「昭和天皇の意思にさえ叛いたことになる」「聖慮に反しての暴挙」と結論付けている。

天皇はなぜA級戦犯合祀を批判するのか

 天皇は、A級戦犯らに対してどう思っていたのか。
 山田風太郎の「人間臨終図鑑」は、何歳で死んだかという分類で多くの人物を描いた力作だが、その八十四歳で死んだ人々に「山県有朋」がいる。山田は、昭和天皇が敗戦の年の一九四五年九月九日に日光に学童疎開中の皇太子(現天皇)宛ての手紙を引いている。

 「敗戦について一言いわしてくれ。(中略)明治天皇の時には、山県、大山(巌)、山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時は、あたかも第一次世界大戦の如く、軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って退くことを知らなかったからです」

 第二次世界大戦における日本の敗戦を、昭和天皇は、「軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って退くことを知らなかったから」だと総括している。山県は昭和天皇の結婚について、皇后となる久邇宮良子の家系に悪い遺伝があるとして反対し、引退に追い込まれ(しかし影響力は持ち続ける)たが、戦争指導の面では昭和天皇によって高い評価を受けているのがわかる。

 同じく「人間臨終図鑑」の「六十四歳で死んだ人々」の「東条英機」につぎのようにある。

 (東条は)佐藤賢了中将に「自分は国民から八つ裂きにされても然るべきところと」語り、また、「自分は永遠に歴史の上で罵(ののし)りの鞭を受けるだろう」と語った。……ところで、当時の巣鴨拘置所所長アーサー・ベル大佐が戦後妻フロレンスに語ったところによれば、東条は処刑前日、トイレットペーパーをコヨリにしたひもで、独房の中で縊死しようとしたのを発見され、このまま死なせてくれといって男泣きしたという。「彼は処刑される前に、武士らしく自決したかったようだ」と大佐は語ったという(昭和五十八年七月十三日「朝日新聞」)。

 佐藤賢了は、陸軍中将、陸軍省軍務局長で東條英機の側近の一人、東京裁判で終身刑の判決を受け一九五六年に釈放された。

 明治の軍閥の頭目と昭和の軍閥の頭目の違いは、大日本帝国の興隆と崩壊を象徴するものでもあった。

 もうすこし、東条について触れておけば、有名な「戦陣訓」のことを書いておきたい。
 「戦陣訓」は、「本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ」として一九四一(昭和十六)年一月八日に陸軍大臣東条英機名で出された。
 かなり長いものだが、「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」に、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面白を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とあるのがいちばん有名な箇所だ。そして、最後に「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。」とある。
 この「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」によって、将兵、そして一般市民も、万歳突撃、玉砕を強要され、多くの死者を生み出したのだった。
 先に巣鴨拘置所所長アーサー・ベル大佐の言葉で、東条が処刑をまえに、独房で首吊り自殺を試みたことを見たが、東条の自殺未遂は、これがはじめてではない。
 樋口篤三さんは『靖国神社に異議あり』(同時代社刊)で、「『生きて虜囚となるな!』とあれだけ号令をかけつづけながら、自分達はその圏外にいたというはなはだしい特権階級性と特権意識である。その最大の実例が首相・軍需相・陸相・参謀総長を兼任した戦時独裁者の東条英機大将であった。周知のように彼は、敗戦直後の九月、米占領軍が自宅に逮捕にきたのをみるや、書斎でピストル自殺を図ったが弾が急所を外れて(「その時」に用意して心臓に○印をつけていたのに)生きのこりまさに自ら捕虜となってしまった。気が動転していたから弾丸がはずれたのだという。全軍の総司令官だった武将にあるまじき行為であった。私の価値観の変化―疑いもこれが第一歩であった。あきれるばかりである」と書いている。
 アメリカの記者がその時の模様を記録している。ジョン・G・ルース『スガモ尋問調書』(読売新聞社 一九九五)によると事態は次のように無残なものだった。

 敗戦直後の四五年九月一一日、「午後二時三十分、CIC(対敵諜報部)のポール・クラウス少佐、ウィリアム・ヒラオカ大尉、ジョン・ウィルパーズ、ジョージ・ガイシ、ジェームズ・ウッド各中尉、ジェームズ・ウォード特務員らが、横浜のCIC第三〇八分隊司令部を出発した。……午後四時、この小さな平屋建ての家の前に、二台のジープが止まった。……家の中では、東条は真っすぐ書斎に行き、椅子の上にひざまずいた。そしてシャツの胸をはだけると、三二口径のピストルを胸の印に向けた。四時十七分だった。銃声。……やっとドアが開いてクラウスが書斎の中に飛び込むと、東条の持つピストルが自分に向けられているのが、目に入った。クラウスは立ち止まり、東条を見つめた。将軍はじっとしていた。ピストルをつかんでいる指だけがほんのかすかに動いて、ピストルが緩んだ。三ニ口径が床に落ちると、一人の記者が将軍をあざ笑った。この男は短刀で腹を切る勇気もなかったんだぜ……他の記者たちもがやがや話し出した。皆、数分後には東条が死ぬと思い込んでいた。クラウスは椅子に座った将軍の上にかがみ込んで、傷を調べた。胸に銃弾の傷があった。呼吸するごとに、体から血があふれ出た。ウィルパーズは東条の椅子の向こう側に行き、ピストルを拾い上げた。椅子のわきのテーブル上には二五口径の別のピストルがあり、抜き身の短刀に白い布がかけられていた。三振りの日本刀もあった。記者の一人が、なお座ったままの東条の上に覆いかぶさるようにして、あふれている血にハンカチをひたし、その記念品を誇らしげにみんなに掲げてみせた。他の連中もそれに続いて、身動きしない人間から衣服の一部を切り取った。カメラマンたちは、腕で将軍の身体を抱き、仲間のレンズに向かってスマイルを作ってみせた。別の記者は、東条のシャツのポケットをまさぐって、たばこ入れを取り出した。そして、中にあった日本のたばこを、仲間と分け合った。

 これが「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面白を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」を押しつけた東条の一回目の自殺未遂事件だ。
 佐藤賢了に語ったように「自分は国民から八つ裂きにされても然るべきところ」、「自分は永遠に歴史の上で罵(ののし)りの鞭を受けるだろう」という気持ちで処刑されたにならば、東条が自殺したがったことも理解できないわけではないが、侵略戦争の発動と戦争の指導における責任は重い。アジアと日本の多くの人びとを殺し、さらに多くの人びとを塗炭の苦しみに陥れた罪は消えることはないのである。

天皇と東条・A級戦犯

 天皇の皇太子あての手紙について書いたが、原武史(明治学院大学教授)・保阪正康(ノンフィクション作家)『対論 昭和天皇』は同じものから別の箇所を書き出している。
 
 戦争を続ければ、三種の神器を守ることも出来ず、国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種を残すべくつとめたのである。

 三種の神器とは、 八咫鏡(やたのかがみ)、 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。これらは天孫降臨の時に、天照大神から日本の歴代天皇が継承しているとされるものだが、源平合戦の壇ノ浦で安徳天皇とともに沈んだとかさまざまな紛失、レプリカ説がある。『対論 昭和天皇』で、原は『木戸幸一日記』に、本土決戦のため松代大本営が建設されるが、「伊勢神宮や熱田神宮はこのままだと空襲にあう恐れがあるから、とにかく松代にいって自分で神器を死守すると天皇は言いだす」ことを紹介している。このように昭和天皇の三種の神器へのこだわりは非常なものであるが、原は、その理由として、「もともと歴史の教科書は、南北朝併立の記述をとっていたのに、一九一一(明治四十四)年に南朝正閏(せいじゅん)問題がおこってから南朝正統論となり、……天皇家は北朝の系統です。これは天皇にとって、自らのアイデンティティをゆるがしかねない問題を孕んでいたと思います。そうすると、なにによって天皇家が正統性を担保されるのかというと、やはり神器ではないか、つまり、三種の神器をもっているということが、まさに神武以来の天皇家の正統性を保証するものとして、大正時代期に浮上してくる。」
 つまり、天皇=三種の神器の継承者ということだ皇太子への手紙から見えてくることは、「戦争を続ければ」、まず第一に「三種の神器を守ること」すなわち天皇制の存続も出来なくなるということであり、第二に「国民をも殺さなければならなくなったので」、戦争をやめたということだ。そして、「涙をのんで」という言葉からは、昭和天皇の敗戦への悔しい思いが伝わってくる。
 天皇にとって敗戦とはなにか。国史はじまって以来未曾有の外国軍隊による占領であり、最大の屈辱であったはずである。
 富岡メモに「A級が合祀されその上 松岡、白取までもが」とあるが、松岡洋右、白鳥敏夫は、ヒトラー・ドイツ、ムッソリーニ・イタリアとの軍事同盟に日本を引き込んだ立役者だが、それによって、米英などとも敵対関係に陥り、それが敗戦に結果したとの天皇の思いがあるのだろう。しかし、すでに、一九三一年の満州事変、一九三七年からの中国全面侵略戦争が、大戦争と敗戦の道をひらいたのであり、より正確にいうなら朝鮮侵略からそれははじまっていたのである。
 天皇のA級戦犯合祀批判は、どのような方向からなされているのだろうか。侵略戦争は誤りであり、それを否定する立場からなのか。それとも、あの戦争が勝利できなかった、勝利するように軍事・外交をおしすめず、勝利できると天皇に言い続けた、騙されたという怒りからなのか。その二つの立場は全く違うのである。

責任を回避する昭和天皇

 天皇の靖国神社の問題については、さまざまな意見が出てきている。
 「文藝春秋」九月号に坪内祐三が「昭和天皇の『発言』に私は失望した」で次のように書いている。一九七五年の八月十五日に当時の三木武夫首相が靖国参拝を行う。坪内は言う。「その時から靖国神社はこの前の戦争との関連でのみ語られる事になる。カンのよい昭和天皇はそのことを察知していた。だから、駆け込みのように、同年の一一月に最後の靖国神社参拝をすませ。『以来参拝していない』。それがかれの『心だ』。確認しておきたいのは、これが、A級戦犯合祀以前の出来事だということだ。この段階で昭和天皇は、靖国神社を媒介に、自らと、この前の戦争との関係と、さらい言えば自身の戦争責任距離を取ろうとした。何という人間らしい行いなのだろう。私は天皇制には無関心だが、昭和天皇は好きだった。それが昭和の日本人としての私の一つのアイデンティティだった。だから私の失望は大きい。参拝を取りやめた三年後、A級戦犯の合祀を知って、昭和天皇は、これでいよいよ自分は太平洋戦争の被害者であると思ったことだろう。…しかし、A級戦犯と言われる彼らは、天皇の名のもとに、日本を戦争へと導き、あのような結果を招いてしまったのだ。そういう臣下たちを昭和天皇は突き離した。このメモの出現を機に改めて昭和天皇の戦争責任が問われるべきだ。」
 天皇の戦争責任については月刊『現代』九月号の山本武利「徳富蘇峰が『幻の日記』記した敗戦の原因」がある。「右派ジャーナリズム最大のタブー『昭和天皇批判』が随所に」として、蘇峰の日記から天皇批判の部分が引用されている。
 徳富蘇峰は、『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』社賓、「日本文学報国会」「大日本言論報国会」会長を務め、A級戦犯容疑者に指名されたが公職追放解除され、一九五七年に九四歳で死去した右派言論の超大物だ。蘇峰は一九四五年敗戦の年の一〇月一〇日に次のように書き記している。
 「怖れ乍(なが)ら大元帥陛下も、今日では万事東條がやったように仰せらるが、宣戦詔勅(しょうちょく)の御発表になった前後に於いては、まさか一切御承知ないということでもなく、また必ずしも御反対であらせられとは、拝察出来ない。若(も)し御反対であらせられたとしたならば、かかる詔書に御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)の据わるべき筈(はず)がない。宣戦講和の大権は、至尊の大権中の重(お)もなる一である。まさかそれを御忘却されたとは、拝察が出来ない。」
 マッカーサーを訪問した天皇への批判もある。
 
 東条らにだけ責任をとらせて自分は逃げ回る昭和天皇の姿は見苦しい。そう感じたのは蘇峰だけではないだろう。「生きて虜囚の辱めをうけず」の東條とかつての「股肱の臣」をきりすて延命に必死にうごきまわる昭和天皇。これらが侵略戦争を引き起こしたのであった。
 支配層の一部は、靖国神社はA級戦犯分祀などの手段によって、天皇も参拝できる(靖国神社などは親拝といっているが)ようにしようとしている。だが、伝統的右派にしても、分祀派も、憲法改悪による公然たる軍隊の保持、戦争と戦死者のための軍事慰霊・顕彰施設のための設置ということでは違いはないのであり、戦争のできる国づくりに反対する運動をいっそう強め行くことこそが必要である。(MD)


図 書 紹 介

    ひとのために生きよう! 団結への道 労働相談と組合づくりマニュアル


      著・石川源嗣 (全国一般東京東部労組副委員長 NPO法人労働相談センター理事長) 同時代社 1500円

 著者の石川源嗣さんは本書でこう言う。
 ……鎌倉武士は所領がメシの種だから、それに命をかけた。いうところの「一所懸命」である。日本の労働者は長いこと、終身雇用、年功序列制度によるいわば「一社懸命」で企業社会を生きてきた。しかし現在の労働者はそれが崩壊したことを知っている。その伝で行けば、これからは「労組懸命」ではないか。労働組合があって会社がある。会社はいくら変わっても、組合にずっと加入し続ける事によって、自らの生活と権利を守る。労働債権型の組合員をそれだけでは終わらせない。生涯組合員で、職場が変わるだけなのだ。
 その時にはじめて、労働組合とその運動は一生涯にわたるものとなり、賃金、生活確保、生きるための闘いすべての土台を構成するのである。まさに「ゆりかごから墓場まで」の生存権、労働権、団結権の確保を労働組合で実践することにほかならない。
 我々はそういう状態を「会社はいっとき、組合は一生」と称している……
 「一所懸命」「一社懸命」「労組懸命」はまさに言い得て妙だ。
 労働運動の退潮が語られるようになって久しい。石川さんたちの東京東部労働組合は、東京の東部地域(葛飾区、江東区、江戸川区、墨田区、台東区、足立区、荒川区)を主な基盤にして、一九六〇年代末以来、一貫して労働者を組織し、闘ってきた地域合同労働組合だ。
 石川さんは「学生から現場労働者へ」とばかりに、この東部地域の中小零細企業に飛び込み、機械工として一〇年を過ごしたあと、東部労組の専従書記長になり、今日まで二六年の専従活動をしてきた。まさに「労組懸命」を体現している人だ。本書はその豊富な活動経験をもとに書かれた全ての労働者への熱い連帯のメッセージだ。
 石川さんたちは、例えば昨年、東部労組に寄せられた年間五六〇〇件を超えるという膨大な労働相談の具体的な事実の中から、労働者たちが「日々経営者からあごで使われて、いじめられ、『いやなら辞めろ』と言われ、賃金など労働条件を一方的に引き下げられ、過労死で殺され、自殺に追い込まれている」わが国の労働者が置かれている現実を直視し、相談してきた労働者を激励して、たたかいへの蹶起を支援しつづけている。
 本書の冒頭で紹介されている「すかいらーく過労死闘争」の事例は生々しく、労働者の置かれている厳しい現実を描いているが、同時にそれへの東部労組の取り組みは読んでいてあついものがこみ上げてくる。
 今日、「労働者をとりまく社会の閉塞状況は進行しているといわざるをえない」、いま労働運動は歴史的な退潮期にあるが、石川さんたちはあきらめない。自らの経験の中で具体的な確信をつかんでいるからだ。
 本書を通じてくり返し語られるメッセージは「組織せよ」「死ぬのはいやなら組織せよ」ということだ。
 しかし、こうした時代には「運動の活況期の手法はいまそのままでは通用しない。従来の運動の継続では労働運動の復活はあり得ない。創意が問われている」と断じて、この現実の中から、「新しい時代の新しい労働運動の構築」、「強大で戦闘的な労働組合と労働運動」にむかって「何をなすべきか」「何からはじめるか」として、労働運動が巻き返していく道を提起する。
 本書の第四章「労働相談・組織化戦略についての提言−組合あげての地域密着型の労働相談・組織化活動にかじを切ろう」はこの点で圧巻である。
 石川さんはこの本のタイトルの「ひとのために生きよう」を例の『夜回り先生』の水谷修の言葉から採っている。余談ではあるが、実は私もこの水谷という先生は気になる人物の一人なのだ。石川さんは子どもたちの相談者としての水谷の行動との共通性を発見した上で、水谷に相談し、さまざまな「非行」から抜け出した子どもたちにとって、「実際の彼らのもっと大きな問題は人生の長い時間を占めるその後の生活にある」として、「ほとんどの子どもたちは労働者となって、それぞれが資本主義社会でそれぞれの個別労使関係をつくっていくことになる」と指摘している。
 私も水谷の書いたものを読んでいて気になるのはこういうところだ。しかし、労働運動家の石川さんが水谷を読んだというのがとても面白い。同様の意味で、本書にはサブタイトルとして「労働相談と組合づくりマニュアル」と付いているが、労働運動の活動家はもちろんのこと、市民運動などさまざまな民衆運動の現場に足を置いている人びとにも有益であり、ぜひとも読んでもらいたいと思う。 (S)


Kodama

 
 安倍ちゃんの理屈はなりたたない

 次期自民党総裁最有力候補の安倍晋三は最近刊行した『美しい国へ』(文春新書)で「わたしの政治家としての根っこにある想い」を語っている。
 そのなかに自衛隊のイラク派兵について述べたところがある。

 「この派遣は、日本という国家にとってどんな重要な意義があるのか、つまり『大義』をしっかりと説明する必要があるのではないか」。というのは、「このとき、ともすると多くの国民に、日本はアメリカにいわれて、いやいやながら自衛隊を派遣するのではないか、と思われていたからだ」として「自衛隊派遣の大義」として次の二点をあげている。
 「第一に、国際社会が、イラク人のイラク人によるイラク人のための、自由で民主的な国をつくろうと努力しているとき、その国際社会の一員である日本が貢献するのは当然のことであり、それは先進国としての責任である」。「第二に、日本は、エネルギー資源である原油の八五パーセントを中東地域にたよっている。しかもイラクの原油の埋蔵量は、サウジアラビアについで世界第二位。この地域の平和と安定を回復するということは、まさに日本の国益にかなうことなのである」。
 安倍は、「二〇〇三年十二月九日、小泉総理は、イラク復興支援特別措置法にもとづいて自衛隊派遣の基本計画を閣議決定した。そして派遣の理由を、テレビカメラをとおして、直接国民に語りかけた。自衛隊派遣は、けっしてアメリカの要請に諾々としたがったのではなく、日本独自の選択であり、内閣総理大臣自ら発した命令であることを印象づけることになった」と自賛している。
 しかし、サダム・フセインの圧制を打倒し「イラク人のイラク人によるイラク人のための、自由で民主的な国」をつくるためという理屈は、すでに崩壊している。そもそも、ブッシュがイラク侵攻の最大の口実にした、フセインの大量破壊兵器の保有やアルカイダとの関係というものはまったくのデッテあげあったことが明白になっている。アメリカはとにかく中東の中心に位置し石油資源豊富なイラクを支配することを前々から狙っていた。そして、唯一の超大国となったアメリカは自己過信し、戦争に突入したのだが、その結果はいま見る通り、イラク民衆の反米気運と宗派対立の激化によって「泥沼化」「ベトナム化」「内乱」の状況となっている。アメリカが撤退すれば、直ちに、カイライのイラク政権は崩壊するということをブッシュ自身が認めている。安倍のあげた第一の理由は破産しているのである。
 第二の理由である安価な原油供給の確保はどうか。ブッシュがはじめた戦争は、さまざまな矛盾を爆発させる作用をおこした。アメリカの力を中東地域に引き込んだイスラエルは、パレスチナ、レバノンへの侵略を拡大した。アメリカはイラン・シリアに対する圧力を強めた。しかし、こうした一連の覇権主義の行為は大きな抵抗を生み出し、中東全域が「不安定」となったのである。石油をはじめ多くの資源の値上がりはすさまじいものとなった。安倍の第二の理由も成り立たなくなった。
 安倍の「国益」のためのイラク派兵論は現実によって覆されているのである。(MD)

* * * * 

 詩


 世界は嘘をつく
 嘘のない世界はつまらない
 すべてが真であるならば
 それ以外の何ものでもなく
 それ以上に変化することもない
 似ていて異であったり
 異なっていて同一であったり
 故に認識は真を求め続け
 迷う
 迷いの中で
 迷いのない確かなものを見出す
 これほど楽しいことはない
 不明の楽
 かけ賭博を遊ぶ
 偶然の一つ
 たった一回の時間
 似ていて
 異なっていて
 恋愛は迷い
 迷いの中で
 迷いのない確かなものを見つめている
 世界は嘘をつく
 君は嘘をつかない
                   (安藤裕三)


複眼単眼

 
  この軽薄さを侮(あなど)らない  批判を放棄しない

 八月一五日早朝、小泉首相は靖国神社に参拝した。「八・一五参拝」は二一年前の中曽根首相以来のことだ。礼服を着て昇殿し、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳、献花料三万円を出した。参拝の形式も昨年の「私服でチャリン」から、それ以前に戻した。
 「靖国の上をヘリがたくさん飛んでいる」と友人から携帯に連絡があった。その時、私はその日の集会場に向かっている途中だった。私たちは台湾と韓国、そして沖縄から来た友人たちと一緒に銀座で抗議のデモをした。集会で台湾の人たちは「これが続くなら来年もまた来る」と宣言した。そうならないように日本の私たちは闘いつづけねばならない。
 小泉の参拝の「論理」はあまりにも軽薄で、批判する気もしないと言いたくなるほどだ。
 参拝を終えて小泉は記者会見で批判に三点の反論をした。

 まず一つは「中国、韓国が不愉快に思う、反発しているからやめろ」という意見。私は必ずしもそうじゃないと思う。ひとつや二つ、意見の違いを乗り越えて、未来志向で友好関係を進展させていくのが日本としても他国としても大事じゃないか。
 もうひとつは「A級戦犯が合祀されているから行っちゃいかん」ということだ。A級戦犯のためにいっているんじゃない。戦没者のために哀悼の念を表する気持ちで参拝している。
 それと第三点。「憲法違反だからいかん」と言う人がいる。憲法一九条、二〇条を良く読んで頂きたい。私は神道を奨励するために靖国神社に行っているんじゃない。まさに心の問題でしょう。

 これらは要約するのも汚らわしいほどの理屈だ。靖国は一五年戦争を中心に日本近代のアジア侵略を賛美する戦争神社だ。アジア人にとっても、日本人にとっても許されない宣伝をしている機関なのだ。A級戦犯が一緒に祀られているのも厳然たる事実だ。小泉がいう「公約を守る」云々そのものが政治問題であることを認めていることであり、憲法二〇条違反であることは疑いない。日本の裁判所の判決でも、参拝を合憲とした判決はひとつもなく、違憲とした判決は二つあるのだ。あまりにも明白ではないか。
 問題は小泉の主張のあまりの愚かさに、私たちもそれを軽蔑して終わりがちになることだ。しかし、それは間違いだ。
 われわれが軽蔑しても問題は何一つ解決しない。それどころか、小泉は巨大な宣伝機関を通じて、この自らの主張を単純化して、くり返しくり返し垂れ流し、人びとの意識に浸透させようとしている。これとの執拗な闘いなくして、これをうち破ることはできない。
 私たちは何倍も何倍も、小泉の危険性と愚かさへの批判を語り続けなくてはならない。この点でなまけ者にはなるまい。この夏、台湾や韓国から、二〇〇人もの人びとが来日し、連続した五日間の行動で、日本の私たちに連帯の意志を表明してくれたのだ。私たちはこの戦闘性に応えなくてはならない。(T)