人民新報 ・ 第1232号<統合325号(2007年9月3日)
  
                  目次


● テロ特措法延長阻止し、動揺する安倍反動内閣打倒へ!

● 日の丸・君が代処分粉砕へ!都教委包囲アクション

● 右翼の妨害をはねのけデモ  

       国家による慰霊・追悼に反対し8・15闘争

       8・15に、 9条観・平和観を問い直す

● 2007ピースサイクル完走 ナガサキ  闘い・学び・団結そして継続した運動で展望が開かれる

● 朝鮮人民衆と共に生きた人権弁護士 布施辰治 展

● 平和のための戦争展  残留孤児たちにとって「母国」とは

● 清水私案(民族解放社会主義革命論)を再読する I

● KODAMA  /  大臣になる・なれない

● 複眼単眼  /  この静かな、しかしあつい闘志に感動




テロ特措法延長阻止し、動揺する安倍反動内閣打倒へ!

窮余の内閣改造

 安倍内閣は参院選で国民的ノーを突きつかられた。それから一ヶ月、安倍晋三は、「反省すべきは反省し」「人心一新」などと言い訳しながら、八月二十七日、ようやく党人事と内閣改造を行った。後のない「崖っぷち内閣」とか、「美しい国」をうたいながら姑息にも自分一人の延命を図る「最終(最醜)内閣」とか言われながらの「再チャレンジ」のスタートとなった。
 党幹事長に同じような政治志向を持つ麻生太郎を、内閣官房長官には与謝野馨を据えた。内閣の構成は、求心力の弱まる安倍に対して発言力を強めている各派閥の長を引っ張り込むなど、大臣ポストを配ることでなにより自民党内の批判派の声を抑えることに主眼があった。
 安倍は改造後の記者会見で、性懲りもなく「美しい国」づくりや「戦後レジームからの脱却」を掲げたが、弱弱しい響きでしかなかった。それもそのはずで、この内閣改造で、支持率が上がることはほとんど期待できないからである。参院選でしめされた安倍内閣ノーの声を受け止めていないからである。なによりも安倍晋三自身が居座ったままでの「人心一新」などは不可能である。年金その他の政策でも画期的な新しいものが出てくるわけはない。教育問題では伊吹文明文科相が、経済政策では甘利明経産相、大田弘子経済財政政策担当内閣府特命担当相が残留している。安倍を批判することでアピールし入閣を果たした桝添要一厚労相は、「(年金を)調べるために新しくコンピュータなどに使わなければならない。その金ぐらいは年金から使わしてくれということだけなんです」と言う年金流用論者である。町村信孝外相は本質は対中国強硬派だし、防衛相の高村正彦も、外務大臣(小渕内閣)としてガイドライン関連法成立に努力し、「靖国問題は、日本人のお節介な人(マスゴミ)の御注進のせい」と言っている人物である。改造安倍内閣は、その反動的な基本路線を変えていないのである。
 いずれにせよ今後、閣僚、党幹部のスキャンダルや失言などが出てきて大問題となるであろう。自民党そのものが、長い与党暮らしと二世三世議員が増えるにつれて金属疲労・劣化現象を起こしているからである。

安倍内閣を追詰めよう

 いよいよ臨時国会がはじまる。参院では、議長と議運委員長を民主党が握った。
 最大の争点は、十一月一日に期限の切れるアフガニスタン侵略戦争支援のテロ特措法(正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」)の延長問題である。
 まず、野党優位の参院で「支援」の内容をはっきりとさせることである。これまで政府・与党はインド洋・アラビア海における自衛艦による「給油」の実態について隠し続けてきた。アフガニスタン支援といっているが、アメリカ海軍はイラクやイランなど中東全域を作戦地域としているのである。また、「給油」だけではない支援を行っているともいわれ、真相の解明が第一になされなければならない。そのことによって、政府のウソが暴露され、日本がアメリカ軍の下請けとしてきわめて危険な役割を負っていることが広く認識されるだろう。そうしてテロ特措法延長反対の運動と世論を一段と盛り上げよう。

安倍内閣打倒へ

 安倍内閣に対する攻勢を強め追い詰めていくために、野党共闘をつよめなければならない。民主党でも親米隠れ自民党員の前原誠司らの動きは今のところ封じ込められているが、与党は野党の分断・分裂を執拗に仕掛けてくる。全国各地で反戦、憲法、労働など各運動を強化し、対政府闘争を前進させていこう。
 当面、多くの人々の反安倍・反自民の希望は民主党の上に集まる段階にある。しかし、われわれは、野党共闘を支持するとともに、同時に反改憲派、闘う労働運動の潮流の形成にむけての努力を強めなければならない。そのことは、民主党の政府・与党との妥協を阻止する力ともなる。

 安倍内閣打倒へ!


日の丸・君が代処分粉砕へ!都教委包囲アクション

 石原慎太郎都知事の下、東京の教育は改悪教育基本法の方向を先行実施して、安倍政権の「戦争のできる教育体制」作りの尖兵の役割を担っている。
 石原と中村雅彦を長とする都教育委員会は、そのための最大の障害が、教育現場における教職員の抵抗にあると捉え、入学式・卒業式などでの日の丸・君が代の強制を行い、それに反対する者の処分を乱発してきている。今年に入ってからは、都立高校・障がい児学校、小・中学校あわせて、〇六年度卒業式で、停職六ヶ月(一)、同三ヶ月(一)、同一ヶ月(一)、減給三ヶ月(一)、同一ヶ月(十一)、戒告(二十)、また〇七年度入学式では、減給六ヶ月(二)、減給一ヶ月(三)、戒告(二)となっている。石原らが、処分の根拠とする都教委の「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(二〇〇三年一〇月二三日付)以降の累計では三八八もの処分が出されたことになる。
 しかし、良心的な教職員は「教え子を再び戦場に送るな」の気持ちで闘いを堅持して仲間を増やし、都教委の懲罰的な「再発防止」研修抗議行動や裁判闘争、予防訴訟など多彩な活動を展開し、労働者・市民の支援も広がってきている。

 毎年、夏休みの終わりには、都教委を包囲し抗議する集会・デモを行って、秋の闘いのスタートとしてきた。
 
 今年も、八月二十七日に「都教委包囲アクション」が展開された。
 当日は、午後から街宣車五台で新宿駅周辺で、市民にアピールする街宣行動を行った。
 午後四時からは、都庁第二庁舎(都教委が入っている)前での抗議の座り込みで都教委包囲アクションがはじまった。都教委包囲首都圏ネットワーク、被処分者の会、被解雇者の会、予防訴訟の会、(停職処分を受けた)河原井・根津さんを解雇させない会、元板橋高校の藤田先生、学校ユニオンや支援の諸団体が発言した。その間、多くの団体・個人が「要請文」を持って都庁内に入り要請・抗議行動を行った。

 第二部の行動の西新宿こども館での「教育交流集会」では松山大学の大内裕和教授がミニ講演を行った。
 安倍内閣の教育改革には二つの面がある。一つは、日の丸・君が代での愛国心の強制ということであり、もう一つは、市場原理・競争原理による新自由主義的内容である。しかし、教育現場では教員の横のつながりや職員会議での発言、創意的な教育実践などがあり、政府の思うようにはいかない。だから、それを強制と処分の乱発によって排除しようというのだ。昨年の教育基本法改悪反対の運動は大きな盛り上がりをみせた。改悪されたとはいえ、その時の運動の成果はいまにつながってきている。参院選で安倍政権は大打撃をうけた。教育改悪を現場に持ち込もうとすることに対する闘いは有利になってきている。それから、いま貧困との闘いが出来始めている。若者たちは憲法二五条の生存権を掲げて闘っているが、こうした運動と結びついていくことが必要だ。日の丸・君が代強制反対で東京の闘いは、最先端の闘いとなっている。都教委は、処分で教職員を萎縮させようとしたが、闘いは拡大しており、彼らのもくろみは破綻したといえるだろう。

 最後に集会決議が確認された。
 「…三期目に入った石原都政のもとにおいて、教育の反動化と福祉の切り捨てがこれまで以上に進行しています。
 予防訴訟九・二一判決によって違憲・違法とされたにもかかわらず、一〇・二三通達及びそれに基づく校長の職務命令により、『日の丸・君が代』の強制が続けられています。それだけではありません。
 二〇〇六年四月に開設した『学校経営支援センター』は、教育活動の監視を日常的に続けています。都教委は加えて、職員会議での採決の禁止をさらに徹底させ、いくつかの学校を戒厳状態下に置いています。また、都立の中高一貴校に『つくる会』教科書を『採択』しました。
 都教委の暴走はとどまるところを知りません。
 安倍反動内閣は、昨年一二月教育基本法の改悪を、今年の六月には教育関連四法案の改悪を強行しました。「戦後レジームからの脱却」と称して戦後の民主的な教育の体制を根底から覆し、教員と教育の統制を通じて、国家のために進んで命を投げ出す国民を作り出す教育ができるような仕組みに変えようとしています。都教委はその先兵の役割を果たしています。
 学校教育法の改悪後、都教委は教員の分断を図るために早々と管理運営規則を改悪して『主任教諭』の導入を強行しました。先行した都教委の後を追い、いま全国で『人事考課制度』や『主幹制』導入の嵐が吹き荒れています。『教員免許の更新』でも都教委が先どりとしでの役割を果たすであろうことは明らかです。私たちは都教委糾弾の手を決してゆるめてはなりません。
 一〇・二三通達は、教職員の抵抗をおさえるにすることをねらいとしていました。しかし、抵抗し抗議する声を絶やすことはできませんでした。今年の卒入学式でも四〇名以上の教職員が不起立を貫きました。また、根津さん、河原井さんの職をかけた闘いや増田さんの職場復帰の闘いが全国の共感を呼び起こしています。都教委に抗議し、都教委を糾弾する声は、以前にもまして広がっています。
 私たちはこの闘いの意義に確信を持ち、都教委を糾弾する声を全国にひろげて行こうではありませんか。…」


右翼の妨害をはねのけデモ

    
国家による慰霊・追悼に反対し8・15闘争

 八月十五日、今年の閣僚の参拝は高市早苗少子化担当相ただひとり。昨年には、前の首相小泉純一郎、中川昭一農水相(当時)と沓掛哲男防災担当相(当時)が参拝し、右派マスコミなどは小泉の参拝を擁護・称賛する論調があいついで出された。
 しかし、安倍は小泉の8・15
参拝を支持してきたが首相になると「参拝した、しなかった、する、しない、外交問題になっている以上、このことを申し上げる考えはございません」と繰り返し、参拝を見送った。今年の8・15をめぐる動きは、政府・与党の参院選惨敗が安倍の極右反動改憲路線に大きな打撃となったことを示すものであった。安倍を支持してきた右派勢力の挫折感は大きい。しかし、安倍は支持基盤の保守反動層を意識して、靖国神社にとって大事なのは春と秋の例大祭だとして、四月の例大祭で参列の代わりに、私費で「真榊(まさかき)」と呼ばれる供え物を奉納したり、七月の「みたままつり」に「ちょうちん」を奉納するなどしている。十月十七〜二〇日は秋の例大祭であるが安倍をはじめ閣僚の靖国へのかかわりを監視し反対していかなければならない。

 八月十五日、「美しい国」の「美しい死者」はいらない・国家による「慰霊・追悼」に反対する8・15行動が展開された。
 午後二時からは、西神田公園に約百五十人が結集して集会を行い、靖国神社に向けてのデモに出発。途中、右翼がデモ隊に挑発・突入を繰り返すが、参加者は天皇制と侵略戦争を賛美する施設としての靖国神社と政府主催の「戦没者追悼式」に反対するシュプレヒコールを叫んで、市民にアピールした。

 行動の第二部は、千駄ヶ谷区民会館での集会。
 はじめに実行委員からの基調の報告。
 「…安倍首相は就任以来、靖国神社を参拝するかどうかについて明言しない、小ずるく卑怯な曖昧戦術を採り続けている。その一方で安倍は『国のため戦って亡くなられた方々に敬意を表し、尊崇の念を表する。その思いを持ち続けたい』と、靖国に祀られている戦没者を顕彰し『美しい死者たち』として称揚する姿勢を露骨に示し続けている。
 例年、八月一五日に行われる全国戦没者追悼式で天皇は、『戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表す』と毎年、判で押したような同じ内容の『お言葉』を繰り返すが、この『お言葉』の内実は、安倍が示す戦没者顕彰の姿勢と紙一重だ。
 国家が自らの戦争責任を真摯に省みない以上、自分たちが追いやった民衆の死を犬死だったと言うはずがない。それどころか、その後の国家、社会形成のための礎として立派に死んだ美しい死者として描き出さないわけにはいかないのだ。国家は、戦没者を美しい死者として描き出すこと以外に、責任を回避し、自らの正統性を確保することはできないのだから。そして、それは必然的に、その後の美しい死に向けて、民衆を追い立てることになるのだ。国家による慰霊・追悼の政治は、戦死を美化することで、結果的に民衆に後に続けと煽動することにつながるのだ。
 安倍政権になってから、前首相小泉の下で官房長官の私的諮問機関として設けられた有識者懇談会による国立追悼施設の建設構想は、事実上、放棄されることになり、以後、構想が具体化することはなくなったかに見える。昨年までは喧しく論じられていたA級戦犯分祀論も遺族会内部での議論は進展せず、千鳥ケ淵墓苑の拡充構想をめぐる論議も沈静化してしまっている。靖国神社を唯一の国家的な慰霊・追悼施設として位置付けなければ気がすまない神道主義右翼勢力が、かつてないほどに勢力を増しつつある現在であればなおのこと、A級戦犯の分祀や千鳥ケ淵拡充を含む国立施設構想などが、何ら本質的な解決策にはなりようがないのは明らかだ。
 憲法九条を抱き、戦争を放棄したはずの日本の自衛隊はいまや、イラクをはじめとした世界各地の紛争地に派遣されている。彼らの戦死が現実のものになったとき、明仁は、安倍は、美しい国の指導者、責任者として神妙な顔をして涙を流し、死を悼む振りをして見せるのだろうか。
 「美しい国」のための「美しい死者」。この構図を根底から拒否するためにも、国家による慰霊・追悼という儀礼がもつ政治性、欺脆性は、徹底して暴かれなければならない。…」
 つづいては、作家の彦坂諦さん、音楽批評家の東琢磨さんが講演を行った。


8・15に、 9条観・平和観を問い直す

 八月十五日、日本教育会館で、「首相・閣僚らの靖国神社参拝に反対!アジアの平和と和解・共生をめざそう!」を掲げて平和遺族会全国連絡会主催の「憲法施行六〇年・盧溝橋事件七〇年 憲法を活かして平和を創ろう! 8・15集会」が開かれた。

 はじめに、平和遺族会全国連絡会代表で戦没者遺族の西川重則さんが、「『国益と排外』から『平和と共生』へ」と題して基調報告を行った。
 今年は集会の表題にあるように節目の年である。戦後、日本はアメリカには負けたが、アジアには負けていないという歴史観が流されてきた。しかし、日本はアジアの多くの民衆を殺し、抗日の闘いを燃え上がらせることによって、追い詰められたのだった。アジアに対する戦争の問題をはっきりさせないがゆえに、さまざまな反日運動が起こるのである。アジアの怒りを理解し受け止めなければならない。「戦後レジームからの脱却」をかかげて憲法を改悪しようとしている安倍首相は、国民世論を無視して続投を決めた。安倍の三つの公約は、新憲法制定、集団的自衛権の具体化、教育改革だが、いずれも戦争のできる国づくりを狙うものだ。戦争の記憶を風化させずに、憲法を活かして平和を創りだしていこう。

 基調講演は、獨協大学教授の古関彰一さんが「私たちの9条観・平和観を問い直す―9条制定と天皇の戦争責任、そして沖縄の基地化」をテーマに行った。
 自民党改憲案が目指すものは、事実上の「戦争」である。その9条改正の特徴は、一項は変えないという、これは、「平和主義は維持する」「戦争の放棄も維持する」ということだ。そして二項を変え、自衛軍を創設する。こちらは、「戦争のできる国」にするということだ。
 国際法上の戦争の定義は、一九〇七年の開戦条約によると、開戦宣言・最後通牒を文書で相手国に通告しなければならないとされている。すなわち憲法には開戦宣言規定が必要だということになる。しかし、自民党案には、開戦規定がない。開戦は一般的には、内閣の権限とされるが自民党案には該当する条文がない。ちなみに明治憲法には、その一三条に「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ」とある。ここに自民党改憲の想定する戦争の特徴がある。
 自民党改憲案には前段がある。一九九九年に大きな法改正が強行され、段階を画した。そのとき周辺事態法が制定された。「周辺事態」とは、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」(同法一条)であり、そして「周辺」は「地理的概念ではない」とされた。事態への対応とは、米軍への物品・役務の提供などであり、米軍が武力行使すれば、日本は米軍の後方支援を行い、その結果、日本(とくに米軍基地)への報復攻撃の可能性が出てくることになった。
 二〇〇三年には、武力攻撃事態法が作られた。「武力攻撃予測事態」とは、「武力攻撃事態に至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態」ということで、先制的自衛権が法文化されたのである。武力攻撃対処基本方針は、防衛出動であり、宣戦布告のない事実上の戦争に入る。米軍の補助をするとか後方支援といっても戦闘は可能である。
 二〇〇六年に安倍政権になってからは防衛省が設置され、同時に自衛隊法が改正され、海外での活動が自衛隊の本来任務に加えられた。
 そして、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が設置され、集団的自衛権の具体化が憲法の枠内で出来るという答申を出す予定で、国会でその法制化を図ろうとしているが、これは参院選での与党惨敗の影響でとても難しくなってきている。
 自民党改憲案の戦争観については、冷戦後の戦争形態の変化がある。第二次大戦後から二〇〇四年まで一四八地域で二二八件の武力紛争があったが、冷戦終結後のものは八〇地域で一一八件だった。このうち国内紛争が九〇件(七六%)、国際化された国内紛争が二一件(一八%)、国家間紛争が七件(六%)となっている。国家間紛争は、圧倒的少数になり、総力戦から局地戦へという趨勢がある。国境を越えたテロ集団の出現があり、従来の大型軍隊・軍備が適合しない紛争形態が多発し、警察機能の重要性が増したということだ。紛争(戦争)地域はアジア、中東、アフリカの貧困地域(国)へ移行し、OECD(経済協力開発機構)加盟の先進資本主義国は互いに戦争計画を持たない時代となった。そして紛争(戦争)原因は、それ以前の領土拡大、政治体制の選択から貧困、資源、民族(宗教)、民主主義の機能不全などへ変化した。紛争(戦争)の結果も非戦闘員の犠牲、難民、環境破壊、感染症の拡大という事態が生まれている。すなわち、軍事力が戦争抑止力にならないし、平和構築に役立たないということが明らかになってきている。
 安倍内閣は日米同盟強化を言うが、そもそも、日米は安全保障観を共有しない。アメリカが日本に求めるのは、米軍の後方支援、米軍再編、日本国憲法改正である。その根底には、軍事力信仰がある。しかし、現在の世界の問題は、軍事力で敵を排除してもなにも解決せず、暴力の連鎖をもたらすだけであり、犠牲者を増やし、難民を生み出し、環境を悪化させるだけだ。
 安倍内閣が行おうとする政策では、近隣諸国にとって、日本が軍事的脅威となってしまう。日本にとっていま必要なのは、従軍慰安婦、強制労働、毒ガスなどの撤去、靖国問題、被爆者救済、教科書問題などの戦争責任を果たすことであり、そのことによって近隣諸国との信頼の構築することなのである。

 集会後は靖国神社周辺を平和行進を行い、閣僚参拝に反対し、戦争責任の明らかにしてアジアとの和解の実現、戦争のための憲法改悪を阻止して平和を作り出していこうとアピールした。


2007ピースサイクル完走 ナガサキ

  
 闘い・学び・団結そして継続した運動で展望が開かれる

 二〇〇七年の夏はとても熱い! 大阪で郵便局の青年労働者が反戦平和の思いをこめて一途に広島までペダルを踏みしめたときから二十一年、歴史は自分たちで創っていくものだと、ひしひしと感じたピースサイクルです。

 グローバリズムとわけの解からぬ言葉で「普通に戦争の出来る国」にして国民を犠牲にし、富の分配を偏らせる資本の焦りと、それに対抗して闘う勢力がせめぎ合いがこの夏に繰り広げられています。反戦平和そして核の問題の矛盾も一気に出てきています。参議院選挙でも、地方の疲弊と安い賃金でたたかれている労働者の反発があったと思います。

 大阪から広島まで各ルートと合流しながら、雨にも台風も負けずに走りにぬきました、岡山県庁や倉敷市役所への申し入れと要請や各地での交流会と報告会をかさね、ヒロシマまで走りぬきました。

 呉では「防衛省」がじきじきに戦争宣伝を繰り広げており「海上自衛隊呉資料館」として、税金を惜しみなくつぎ込み、陸に上がった「鉄のクジラ」として戦争賛美の大和ミュージアムの向かいに、七十六メートルもある潜水艦をわざわざ陸に上げ展示をしており、戦争美化のイメージつくりがひしひしと感じられます。

 ナガサキでの八月九日にも参加をしてきましたが、顕著に出ていたのは労働組合が大きく右旋回していることです。その中で、郵便局の最大手の組合が労組再編で「原水禁世界大会」に出席せず、その逆に地域と密着にしながら反戦平和・反核そして憲法改悪に反対しているピースサイクルが十数年ぶりに「原水禁世界大会」に参加を要請され、八月九日の会議の冒頭に走りぬいた自転車と共に紹介され、会場には大きな拍手が鳴り響いていました。
 ナガサキの爆心地での集会には本島元市長も挨拶にこられ、民主主義を銃撃などの暴力で封じ込める策動には強く抗議をすると、自らの体験を踏まえて訴えました。

 暑い夏はまだまだ続きます。自らが歴史を創るとの熱い熱意で、私たちの生活と平和を脅かす策動には反対をしていきましょう。 (大阪・生瀬)


朝鮮人民衆と共に生きた人権弁護士

              
布施辰治 展

 「高麗博物館」に、「布施辰治 朝鮮人民衆と共に生きた人権弁護士」展を見に行った。主催は高麗博物館で、後援は駐日韓国大使館、韓国文化院、自由法曹団。
 高麗博物館は、大久保駅(中央線)、新大久保駅(山手線)からすぐのところにある。この大久保地域一帯は、韓国料理屋をはじめ韓国関係の店がずっと並んで続いている。韓流スターのポスターなどを扱っているグッズ店はどこも賑わっていた。第二韓国ビルの七階に博物館はあった。入ると、展示と丁寧な説明がある。帝国主義日本と朝鮮の関係、その中での朝鮮民衆の闘い、そして布施の生涯について触れることが出来た。朝鮮植民地支配に抵抗する運動が日本の官憲に弾圧される中で布施のような日本人がいたということはもっと知られてよい。すごい日本人がいたものだと思う。

 博物館の展示とその他の資料で布施の思想と活動を追ってみたい。
 布施辰治(一八八〇〜一九五三)は、弁護士として戦前・戦後を通じて、一九二八年の共産党・無産団体・水平運動団体への大弾圧であった三・一五事件を始め、自由法曹団、解放運動犠牲者救援弁護団、日本労農弁護団などの中心として多くの労農運動、左翼運動の弁護にあたった。朝鮮独立運動の弁護でも果敢に闘いぬき、韓国では「われらの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治)」「日本版シンドラー」といわれ、二〇〇四年には韓国政府から日本人として初めて「韓国建国勲章」を受けた人物だ。
 布施の座右の銘は『生くべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために』だった。

 布施は、一九〇二年年、明治大学の前身である明治法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格、宇都宮地方裁判所に赴任する。しかし一年もたたないうちに辞任した。理由は、貧しい母親が幼児三人と心中をはかり、思い直して自首した事件を、殺人未遂での起訴状の起草を命じられたことであった。翌年、東京で弁護士となり、以後五十年に亘って弁護士活動を続けた。布施はロシアの人道主義文学者トルストイに傾倒していて、「自己革命の告白」(一九二〇年)に次のように書いている。
 「…民衆は官憲に対して権威を持たねばならない。民衆の一人である私が普通選挙運動を続けるのも、いまで『自己革命』を宣言するのも、民衆の権威のためである。民衆が普通選挙を要求する声の高からんことを、民衆が千差万別の職業と境遇に応じてそれぞれに、『自己革命』を宣言する声の高からんことを、私は願って止まない。一人一人の『自己革命』が社会改造を根本的に推進する力だと私は信じる。…」「人間誰でもどのような生き方をするのがよいかについて、正直な自分の声を聞かなければならない。これは良心の声である。私はその声に従って厳粛に『自己革命』を宣言する。社会運動の急激な潮流を感じざるを得ない。従来の私は『法廷の戦士と呼ぶことができる弁護士』であった。けれどもこれからは『社会運動の一兵卒としての弁護士』として生きていくことを、民衆の一人として、民衆の権威のために、宣言する。私は主要な活動の場を法廷から社会に移す」。
 そして、具体的な実践として、次のような事件に対してのみ弁護活動をすると宣言した。@官憲から無実の罪、不当な負担を強要されている人の事件、A資本家と富豪の横暴に悩まされている人の事件、B官憲が真理の主張に干渉する言論犯事件、C社会運動に対する弾圧と闘う無産階級の事件、D人間差別と闘う事件、E朝鮮人と台湾人の利益のために闘う事件。
 一九二二年七月に結成されたばかりの日本共産党は、雑誌『赤旗』創刊号(一九二三年四月)で朝鮮解放問題と無産階級をひとつのテーマとした。そのアンケートに布施は次のように答えている。「日韓の併合は、ドンナに表面の美名を飾って居ても、裏面の実際は、資本主義的帝国主義の侵略であったと思う。故に日本の資本主義―各世界の資本主義が未だ倒れないで、愈々断末魔の暴威を振ふ今日、資本主義的帝国主義で侵略せられた朝鮮民衆の愈々搾取せられ、益々圧迫せらるるのは当然の帰結でせう。…特に朝鮮民衆の搾取と圧迫に目立つのは、舞台が舞台である事とあまりに美名の下に併合した併合が、其の実のあまりに非道い鮮やかな対照の残虐を暴露してゐるからだと考へます。」「私は此の意味に於て、朝鮮民衆の解放運動に特段の注意と努力とを献じる要ありと信じます」。
 この決意の実践が布施の生涯を貫くものとなった。彼はこの後、四回朝鮮に渡り、天皇を狙った義烈団事件、東洋拓殖会社が憲兵隊を使って土地を強制的に収奪した金羅南道の宮三面事件、朝鮮共産党事件などで、朝鮮独立運動の闘士や小作人たちの側に立って闘った。
 戦後は、密造酒事件など朝鮮人生活擁護、朝鮮民族教育学校を文部省が閉鎖しようとした阪神教育闘争、朝鮮国旗掲揚事件、また三鷹事件、松川事件、メーデー事件、大阪吹田事件などの弁護人として活躍した。

 「布施辰治展」は、一〇月二十一日(日)まで。
 開館時間は正午から午後五時。月曜・火曜休館
 高麗博物館・東京都新宿区大久保一―一二―一 第二韓国広場ビル
 電話〇三(五二七二)三五一〇


平和のための戦争展

      
残留孤児たちにとって「母国」とは

 「平和のための戦争展2007」が、八月十四〜十六日にわたって新宿の全労済会館スペースゼロ・ギャラリー・展示室で開かれた。一九八〇年以来今年で二十八回目になる。
ビデオ『泥にまみれた靴で―未来へつなぐ証言 侵略戦争―』・『証言―中国人強制連行』が上映された。

今年の特別展示は「父母の国よ〜残留孤児たちのいま」で、写真家の鈴木賢士さんの作品を中心にしたものであった。
第二次世界大戦末期のソ連軍進攻による中国東北部における混乱では、日本関東軍は自分たちと家族だけを退避させ多くの人々が置き去りにされ、日本に帰ることが出来ず中国大陸への残留を余儀なくされた。戦後、日本政府はアメリカの反中国政策に連動して、中国との国交正常化を遅らせた。そして国交回復以後、ようやく日本に帰ってきた。だが日本政府は、それらの人々の早期の帰国の促進や帰国後の自立支援を怠ってきた。現在、生活保護を受けている人が多い。残留孤児たちは、日本政府の政策に対して自全国各地で訴訟を提起した。二〇〇六年に神戸地方裁判所は、原告六十五人中六十一人について国の責任を認め、四億六八六〇万円を支払うよう国に命じた。その判決文には「拉致事件被害者への手厚い保護及び支援に比べて差別的である」という判断も示されていた。だが、二〇〇七年一月三十日の東京訴訟では裁判所が請求を棄却している。三月二十三日の徳島地方裁判所判決も原告らの請求を棄却し、原告側にとって厳しい判断が続けて示されている。


清水私案(民族解放社会主義革命論)を再読する I

遺言としての新護憲論


 前号で、清水慎三が「国民的抵抗戦線」形成の上で、広範な護憲戦線の形成とその軸心づくりの必要性について指摘していたことにふれた。清水理論には、前衛・中衛・後衛論があり、大いに中衛の重要性を強調しているが、前衛の動向が情勢を動かすものであるとしていたことはあきらかである。社会主義政党が前衛ということになるが、現実に存在する社会主義政党・組織はその要件を満たしていない。それをいかにして、指導性を持った政治勢力として発展させていくのか。一九九六年に亡くなっているが最晩年の清水が前衛論をいかに構想していたかは定かではない。だが、その生涯の最後まで当然のことながら前衛不要論はとらなかったと思える。
 一〇周忌を記念して出版されたパンフレット『清水慎三未発表論稿集』がある。その中に、亡くなる三年前の一九九三年に書かれた「『新護憲』運動構築への覚書―冷戦護憲から次なる展開ヘ」というものがある。前に引用した「平和と独立のための新課題」(雑誌『世界』一九五四年二月)が、改憲阻止闘争の基本構図を描いていたとすれば、「新護憲」論は、東西冷戦崩壊からいまにつづく情勢の中での憲法闘争論だといえるだろう。
 その第一の「基本目標と当面の課題」は次のように書かれている。
 「… @ 現行憲法の基本理念である平和・人権・民主を、現在と予見される近い将来の内外情勢に対応させつつ再活性化させること。これがため、外に向ってはポスト冷戦・ポスト湾岸における世界平和秩序の在り方を、憲法理念にそって主体的に提言し、内にあっては日本社会の各分野で草の根民主主義を掘り起し、日本型民主社会の下部構造の構築に着手する。
 A 当面の戦術目標を『国民投票』の場における改憲阻止におき、国民各分野・各階層・各世代の独自要求と憲法理念を結合させた諸運動に参加、あるいはこれを開発して、相互交流による草の根の民主エネルギーの相乗効果をはかり、これによって明文改憲阻止の態勢を固め、進んで解釈改憲の拡大に歯止めをかけ、さらにこれまでの既成事実圧縮に力を傾注する。
 これは従来の国会議席三分の一ヘの安住方式と旧来の冷戦護憲型の思考と手法では、止めどなき解釈改憲を阻止できないばかりでなく、これまで護憲を標榜してきた諸政党の内部分解、内部崩壊の現趨勢さえくいとめられないとする現状認識にもとづくものである。…」
 そして、第二の「当面態度決定すべき事項」では、
 「…@ 社会党の党内問題にたいしては、如上の観点からこれを新護憲運動の前哨戦と位置づけ、かりそめにもマスコミ各方面から旧態依然たる派閥抗争として楼小化されないよう注意することが肝腎である。このことは社会党を軽視することではないし、社会党内部を刺戟することの意義を低く評価するものではない。社会党問題で運動を停止させてはならない時期にきていることを銘記する必要があるからである。
 A共産党との関係は新護憲運動にとって重要な意味をもつ。強固な内部統制力をもつこの党は憲法問題にたいしても独自の見解と行動をとるだろうが、新護憲運動サイドとしては、改憲阻止で一致できる限り敵対関係に陥ったり、落とし込まれてはならない。別個に進んでも結果的に相乗効果を生む方向で対処すべきである。われわれの陣営内部に根深い嫌共体質の自粛が肝要である。…」(なおこの文章には、リストがつけられており、そこには多くの政治家・運動家の名前が載せられていて、清水が構想の具体化に意欲を持っていたことがわかる)。

改憲阻止闘争の現在


 この間の改憲阻止の闘いは、一部セクト政治グループは別として、主な流れとしては、共産党、社民党、市民派の共同が進み、とくに、数年前までは不可能とも思われていた社共の共同行動も、5・3憲法集会をはじめとして行われるようになった。これには旧社会党が分裂し右派潮流が民主党に合流したこと、共産党もセクト主義をあらためて広範な戦線構築に向かう傾向が出てきたこと、改憲阻止の市民運動が広範に展開され、それが統一の一つの要として作用していることなどによると思われる。

 清水は、「現行憲法の基本理念である平和・人権・民主を、現在と予見される近い将来の内外情勢に対応させつつ再活性化させること」を目標に、そのために、@世界的な問題としては、冷戦後の「世界平和秩序の在り方を、憲法理念にそって主体的に提言」することが必要だとしている。九条の理念で、今のブッシュ・アメリカ帝国主義の軍事力中心の覇権主義・強権政治に反対し、新たな世界秩序について積極的に構想し発信すべきだということだ。すでに来年に向かって、九条をテーマに国際会議も準備されているという。いまこそ、九条の精神を全世界に強力に送り出す時であろう。Aまた、国内に向けては、「日本社会の各分野で草の根民主主義を掘り起し、日本型民主社会の下部構造の構築に着手する」「各階層・各世代の独自要求と憲法理念を結合させた諸運動に参加」などで「相互交流による草の根の民主エネルギーの相乗効果」で闘いを前進させようとよびかけているのだ。この面でも、九条改憲阻止が中心になるが、それと同時に、憲法二十四条(両性の平等)、二十五条(生存権)、二十八条(労働者の団結権など)をはじめさまざまな要求・闘いが憲法理念を楯にして進められている。こうして合流した総合力によって自民党・安倍政権の狙う改憲(新憲法づくり)策動は粉砕できるのである。
 清水の危惧し、また希望した改憲を軸にした民衆運動の活性化はかなりの程度実現しつつあると思われる。
だが、清水のこうした提言が早く世に知られていたなら、運動の前進はもっと早まっていたかもしれない。

清水理論の現在性


『未発表論稿集』には清水の旧知旧友からのメッセージがのせられている。共産党の元副委員長の上田耕一郎元参議院議員は「いま、清水さんがご健在なら」と題して次のように書いている。
 「(一〇周忌の)パネル・ディスカッションの主テーマは『改憲阻止の源流』とのこと。時宜に適しているだけに『清水さんがお元気なら』と痛切な思いに駆られる。改憲目的は軍事的自衛権にあり、対米従属を断ちきる戦略的過程をあれほど重視されていた清水さんは、先鋭・強力な論陣をはり、戦後史の岐路をかけた統一戦線の構築に、全力をあげられているだろう」。
 左派社会党の綱領論争のときに、清水私案を提出して、日本のアメリカ帝国主義への隷属と民族解放の課題を強調し、同時に、社会主義革命の主体勢力の形成・革命の形態についても論じた。いま、日米軍事同盟の問題とアメリカと財界からの要求による改憲の動きが強まっているときに、清水慎三の残した業績は今に生きるものとして学ばれるべきものだろう。 (おわり)  (MD)


KODAMA

 
 大臣になる・なれない

 安倍内閣改造では前代未聞のさわぎが起こっている。
 参院から二人目の大臣になるといわれてその気になっていたのが、そのポストを枡添にさらわれた矢野哲朗参議院議員。矢野は抗議の電話を直接安倍にかけるなど怒りを爆発させた。矢野は「釈然としません。私はそんなに力量不足でしたか」と詰問。慌てた安倍は「とんでもない。次回は必ず入れますから」などと弁明したという。矢野という人物、この三年間にわたり国対委員長を務めた。この役職は、野党との交渉でなんとか法案を通すためにいろいろ裏の仕事にも手をつけなくてはならないなどとうわさされる裏方のしんどい仕事だ。矢野はその成果もあって「一番に入閣すべき人」と位置付けられていたようだ。しかし官邸側は「政治とカネ」をめぐり逮捕された村上正邦元参院自民党会長との関係を心配してダメとなったらしい。安倍は二十八日、官邸で記者団に改めて理由を問われたが「個々の人事についてはお答えはできない」と述べただけだ。騒ぎは収まりそうもない。自民党は、参院選での敗戦処理におわれる中、この「戦後処理」にも大忙しとなっている。
 そして、ようやく大臣になったのに、「一番最後まで残ったポストを私に割り振られたわけですから、参ったなと実は思いましたよ。ここだけはこない方がよかったというくらい」といったのが遠藤武彦農水相だ。二代つづいて不祥事で自殺・辞任となったのだが、確かに三代目のあんたも縁起が悪いと思うのに同情する向きもあろうが、「泥舟の安倍丸」に乗ってしまったのだから、自己責任というものではないだろうか。
 数日前の首相にしたい人アンケート調査では、一位が小泉で、小沢、麻生と続き、現職総理の安倍はその次にやっと出てくる。安倍内閣の短命さを見て、幹事長職を手に入れた麻生の高笑いが聞こえてくるようだ。なにか夏の陣で落城寸前の大阪城を思いおこなせるような事態だ。安倍の政治生命は長くないのだろう。(Y)


複眼単眼

   この静かな、しかしあつい闘志に感動

 
「公園で守る9条」という『朝日新聞』八月一四日号の記事で興味をもったので、ここで紹介されていた本を入手した。「九条署名の一年」(箕輪喜作著 光陽出版社)。
 著者の箕輪さん(七八歳)は、二〇〇五年一一月、居住地の東京都下小金井市に「9条の会・こがねい」が作られたことを契機にして、自宅近くの公園で「憲法九条を守る署名」をはじめた。
 この夏までの一年八ヶ月で六〇〇〇筆以上の署名を集めたというのだ。この本は短歌を詠む箕輪さんがこの署名を集めながら詠んだ歌と感想を綴った者で、「歌文集」と名付けられている。
 あとがきを見ると、本書をまとめた四月二〇日現在で署名数は五〇〇〇筆に達しようとしている、その半数が若者であると書かれている。
 箕輪さんは今年の三月に書いた文章でこう言っている。
 
 いまは寒いときですので、夏のようによそから来る人は少なく、毎日お会いする方はもうほとんど署名していただいた方ですが、それでも家の傍の公園で、散歩代わりに一時間か一時間半やっていますと、一回に一五名から二〇名ぐらいの署名はいただけます。とにかく一年以上続けていますので、この辺では有名になってしまったようです。若いお母さんのあいだでは「署名おじさん」とか「九条おじさん」とか呼ばれているようです。つい先日も散歩していたら、「おい、憲法九条」と呼ばれ、振り向いたら以前に署名してくれた中年のおじさんが笑って佇っていました。      ……
 しかし、はじめからこうだったわけではありません。昨年の今ごろは大変でした。今年と違って寒さも厳しく、しかも各戸を回っての訪問で、約六ヶ月かかってマンションを除く一〇箇所の町内を回りました。しかし一ヶ月で五十筆くらいがやっとで、大変厳しかったです。
 なぜ今のようになったかというと、五月半ばごろから暑くなってきて、各戸訪問がつとまらなくて、近くの公園に切り替えたこと、情勢のほうも北朝鮮問題がでてきて関心が高くなり、とくに若者の間に、ぼやぼやしていると戦争にもっていかれるのではないかといおう危機感が広がっていったことです。
 とくに八月、九月とうなぎのぼりに署名は増えて、日に七十筆もいただく日もありました。一番署名をいただいたのは若者で、全体の半数、それから四十代、五十代のお母さん方です。
 
 このように箕輪さんの原稿を引用していると紙面がなくなってしまうのでやめるが、まことに面白い。
 こんな歌がある。
 ●「おい憲法九条」といわれてふりむけば昨日署名せし老いが微笑む
 ●希望とはたたかうこととわが思う今日も出てゆく氷雨の中を
 ●昭和史をまるごと生きしわれの話若者幾人聞きてくれたり
 ●澤地久枝ファンの若き女性いて汗をふきふき話し合いたり
 ●見知らぬ人が丁寧にわれに会釈するああ公園で署名した人だ

 収められた短歌の一首一首に箕輪さんの静かな闘志がこもっている。(T)