人民新報 ・ 第1254号<統合347号>(2009年6月15日)
目次
● 北東アジアの緊張を平和的に解決し、「海賊対処新法」と憲法審査会始動を阻止しよう!
● 沖縄『復帰』三七年を問う すべての軍事基地の撤去 新基地建設を許さない
● 雨の中で春の国会ピースサイクル
● 「ミサイル防衛反対ソウル国際会議」で何が語られたか
● たんぽぽ舎 二〇周年の集い / 広瀬隆さん「原発に対する地震の脅威」
● 九条の会講演会 加藤周一さんの志を受けついで
● 保守オピニオン誌『諸君!』が休刊 右派論壇の混迷
● 複眼単眼 / 蓮池透の哀しみと怒り 〜新著「拉致」を読んで
北東アジアの緊張を平和的に解決し
「海賊対処新法」と憲法審査会始動を阻止しよう!
五月二六日、麻生はとんでもない発言をおこなった。前日の朝鮮民主主義人民共和国の核実験強行に関連して、北朝鮮の核基地を攻撃する能力を自衛隊も持つべきだという意見が自民党の部会などで出ていることについての記者の質問に、麻生は、「一定枠組みを決めた上で、法理上はできる。攻撃を出来るということは、昭和三〇年の時代からの話だということは、よく承知をしています」と答えた。自民党内では核武装論、敵基地先制攻撃論、武器輸出三原則の見直しの声がひろがっているが、北朝鮮の核実験、ミサイル発射実験、朝鮮停戦協定の破棄などを繰り返すという冒険主義的政策が、戦争状態を作り出そうと狙っている日米の反動勢力に絶好の口実をあたえ、北東アジアはにわかに緊張が激化してきているのである。われわれは戦争に向かうあらゆる行動に反対して、反戦平和の運動を強めていかなければならない。
自公与党は六月一日、今国会会期の七月二八日までの延長を強行した。
衆院解散・総選挙を目的に自民党の最後の切り札として福田康夫をひきずりおろして首相の座にのぼりつめた麻生だったが、たちまちに支持率の低下となった。民主党・小沢一郎の西松建設疑惑によって一時期の回復をみたが、党首交代によってたちまちそれも消え去った。
麻生は、ただ自分の首相任期をのばし、衆院での三分の二以上という議席をフル活用してさまざまな悪法を成立させようとしている。その焦点が、自衛隊ソマリア派兵・「海賊対処新法」であり、憲法審査会始動なのである。
麻生は、根拠にする法律がないにもかかわらず、自衛隊法八二条(「防衛大臣は、海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に海上において必要な行動をとることを命ずることができる」)の海上警備行動なるものをむりやり拡大解釈することによって、三月三〇日からソマリア沖に護衛艦二隻(「さざなみ」「さみだれ」)を派兵して活動を始めさせた。麻生はアメリカの指示と多国籍企業化した日本の独占資本の利益のためにあえて強行したのであった。
麻生の独走を追認する「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法案」は五月二三日に衆院本会議で与党の賛成多数で可決され、二七日からは参院本会議での審議に入った。同法案は海賊対策を名目にして、自衛隊の海外派遣と武器使用拡大を狙うものだが、防衛相が必要と判断し首相の承認を得ることで、自衛隊に武器使用を伴う海賊対処の海外出動を命じることができるようになる。日本船舶に限らず外国船をも護衛対象とし、武器使用でも「正当防衛・緊急避難」だけでなく「海賊船への船体射撃も可能」とする。そして、自衛隊の活動領域は「日本の領海と公海」とされ、「海賊対処」の口実で、世界中どこの海にも出動し、外国船を含めての『護衛』の武器使用ができることになり、米軍との集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。
そもそもソマリア沖の海賊は、内政の混乱と治安悪化によって生まれたものであり、日本をふくめて国際社会に求められているのは、ソマリア国内の産業、生活基盤の整備や経済復興の支援である。そうしたことに力を入れるのではなく軍事行動に集中することに断固として反対する。
麻生は改憲についても道筋をつけようとしている。安倍晋三が自ら改憲を争点にした二〇〇七年夏の参院選で自民党に歴史的な敗北をもたらしながらも姑息な居座り、それもかなわず無様に逃亡して以降、しばらくは改憲派もそれを言い出せなかった。その結果、憲法審査会も始動できないという状況がつづいた。
総選挙があれば自民党は政権の座から放り出されるという事態がいわれるなか、小泉の「郵政選挙」(二〇〇五年九月)で得た衆院での与党三分の二以上の圧倒的優位も使う機会は今国会かぎりとなった。改憲派はなんとしても今国会で憲法審査会の始動のために躍起となっているのだ。
「憲法審査会規程案」は、憲法審査会を始動させることで改憲原案づくりに着手でき、二〇一〇年の国民投票法施行後に改憲原案の国会提出がいつでもできるようにするためのものである。しかし、国民投票法そのものが欠陥法なのであり、まずこの問題を論議し白紙に戻すことこそがなされるべきである。朝日新聞の憲法世論調査〈四月一八、一九日実施〉では、「あなたは、憲法9条を変える方がよいと思いますか。変えない方がよいと思いますか」という問いに、「変える方がよい」二六%に対して「変えない方がよい」は六四%、(「変える方がよい」と答えた二六%の人に)では、憲法9条をどのように変えるのがよいと思いますかに「いまある自衛隊の存在を書き込むのにとどめる」五〇%、「自衛隊をほかの国のような軍隊と定める」四四%であった。自民党が考えるような改憲には大多数が反対なのである。民主党も政権奪取を直前にいるということもあり、自民党に完全に同調するわけにはいかない。だが自民党の改憲派は、民主党の協力なしでは改憲が出来ないことを承知しつつもごり押しをしないわけにはいかないところのまで危機意識を燃やしているのだ。
そして自民、公明の与党は六月九日の衆院議院運営委員会で、民主党、共産党、社民党、国民新党の野党の反対を押し切って、憲法審査会の規程案の議決を一一日の本会議で行うことを強行決定したのである。
また六月九日には、自民党は国防部会や安全保障調査会などの合同部会を開いた。これは防衛計画の大綱(年末に改定予定)に向けた提言を決定するためのものだが、ここでは、「我が国自身による『座して自滅を待たない防衛政策』としての策源地攻撃能力を保有」すべきだと敵基地攻撃論を明記した。「米軍の情報、打撃力とあいまった、より強固な日米協力体制を確立する」といっそうの日米軍事一体化を主張し、また国家安全保障会議(日本版NSC)の創設や軍事裁判所の設置、そして集団的自衛権行使についての政府解釈見直しなど戦争の出来る国づくりにむけた内容が盛りだくさんであり、好戦派の主張がすべて並んでいるものとなった。
反戦平和の闘いを強め、緊張の緩和を実現しよう。
麻生の策動を暴露し、団結した力で、内閣打倒、解散・総選挙、自民党政治を終わらせよう。
沖縄『復帰』三七年を問う
すべての軍事基地の撤去 新基地建設を許さない
五月一五日、千駄ヶ谷区民会館で「沖縄『復帰』三七年を問う すべての軍事基地を撤去! 新基地建設を許さない! 5・15集会」が開かれた。
集会では沖縄の闘いのDVD上映につづいて、沖縄から駆けつけた一坪反戦地主会・事務局長の本永春樹さんが「軍用地を生活と生産の場へ取り戻そう!」と題して次のように報告した。
米軍基地施設ホワイトベース(うるま市)の土地の共有化運動を中心に報告したい。ホワイトビーチの使用目的は、@港湾施設、A宿舎、B管理事務所、C貯油施設、Dミサイルサイトというように大まかに使用目的が決められているが、実際のホワイトビーチの使用状況は@米艦船(第七艦隊)の寄港地(海兵隊のローテーション部隊の出入口、原潜の寄港地)、A事前集積艦の寄港地、Bとして@A等に伴う補給・支援等、C在沖米軍が使用する燃料の搬入口(ホワイトビーチ地区陸軍タンクファーム)、Dレク施設(ボウリング場、テニスコート、屋外水泳プール)だ。
たとえば、原潜の寄港は、二〇〇七年の二四回が二〇〇八年には四一回となった。増えた要因としては、海軍桟橋その他施設の改修による機能強化が挙げられる。米国防総省のQDR「四年ごとの国防計画見直し」では、米海軍は原潜の六〇%を太平洋地域に集中させる方針であり、県内の寄港増とも連動した形になっている。
米原潜「ヒューストン」からは二〇〇六年六月から〇八年七月の約二年間にわたり原子炉の冷却水が漏れていたが、この間、二〇〇七年三月一七日、同二三日、一二月七日〜一一日、一五日、二〇〇八年三月一二日と五回もホワイトピーチヘ寄港した。うるま市では議会が二度の抗議決議をし、住民も怒りと不安を訴えたが、日本政府は、放射能が漏れていても微量で人体や環境に影響はないと県民を愚弄し、沖縄県は政府に対し「遺憾の意」を表明し「再発防止策」を要請するだけのアリバイ的な対応に終始している。
この状況で、ホワイトビーチ共有化運動を進め、ホワイトビーチ内にある土地を取得し、返還を求めている。米軍再編は、沖縄県民の負担軽減ではなく、米軍のプレゼンスを維持・強化し、そして米軍と自衛隊の軍事的一体化を図るために実施されるものである。ホワイトビーチは嘉手納・普天間や佐世保・横須賀などの在日米軍基地などと共に米軍の重要な活動拠点としてある。原潜の寄港増加などに象徴されるホワイトビーチの機能拡大は、米軍再編と密接に関連している。一坪反戦地主会の取り組みとしては、嘉手納・普天間の闘いと共にホワイトビーチの返還を求める闘いの構築が急務となっている。既存の基地については事件・事故の度に抗議の闘いが行なわれるが、一方で継続的な大衆闘争を構築しにくい面がある。しかし、裁判や公開審理闘争は、軍事基地に関する具体的な問題点を暴露し、権力側を追及できる大衆闘争の現場となる。裁判や公開審理闘争で基地は諸悪の根源だということを可能な限り明らかにし、政府を追及していくことが必要で、る。
集会決議「沖縄の基地強化・新設を許さない」は、「薩摩侵略から四〇〇年、琉球処分から一三〇年という歴史を見すえ、『復帰』三七年の沖縄軍事植民地支配を糾弾して、全ての軍事基地を撤去し、新基地建設を許さない」ことを表明した。
雨の中で春の国会ピースサイクル
2009ピースサイクルは、例年のとおり春の国会ピースサイクルをスタートに、六月の沖縄ピースサイクル、その後の広島・長崎にむけ、各地で反戦平和・改憲阻止を訴えながらの例年通りの走行となる。また青森県六ヶ所村にむけての行動も取組まれる。
五月二九日には、雨天の中で「憲法改悪反対!グアム移転協定破棄!日の丸・君が代反対!労働者派遣法廃止!自衛艦のソマリア・インド洋から撤退!」を掲げて、「在日米軍強化反対!めざせ!国会へ!! 2009春の国会ピースサイクル」が闘われた。
防衛省、都庁教育委員会、東京電力そして内閣府への申し入れ行動を展開した(今年は外務省への申し入れは担当者が出張のためと称して中止)。内閣府では麻生首相にあてて要請を行った。
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ピースサイクル全国ネットの麻生首相への要請
内閣総理大臣 麻生太郎 さま
政府は憲法9条を守って、武力行使の海賊対策新法、派兵恒久法はつくらないでください。
ソマリア沖からの自衛隊の即時撤退を求める要請
私たちピースサイクル全国ネットワークはこの二四年間、自転車で全国の人々と連なり、平和、人権、環境保護を訴えてきました平和団体であります。六四年前の日本帝国によるアジア・太平洋地域での植民地支配と侵略戦争の歴史を学び、この日本とアジア、世界の平和を目指そうと毎年夏に自転車を走らせ、全国をリレーしながら、平和のメッセージを集め、広島、長崎、沖縄、六ヶ所に届けています。
また、韓国、中国の南京・東北、ベトナム、フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポールなどアジア各地にも自転車を走らせ、現地の人々と共に旧日本軍の侵略の爪痕を見学し、戦争被害者との交流を深めてきたところです。
戦後六四年間、憲法9条によって、国民は他国との戦火にまみれず、平和に生活できる道が維持されてきました。憲法二五条によって生存権の保障が謳われていながら、この間の新自由主義の暴走によって、貧困と格差が際限なく拡大し、生存権が脅かされています。昨年来の米国発の金融・経済危機によって、大不況の追い討ちとなり、派遣労働者・非正規雇用労働者が次々と首を切られ、雇用不安は社会的な問題となっています。ワーキングプアに象徴されるように、若者たちの雇用、生活ができる賃金、結婚ができる生活が切実な問題となっています。若者たちにまっとうな未来がない状況では日本の将来はありません。
三月二七日、防衛省は北朝鮮の「人工衛星」発射に対し、「破壊措置=迎撃」命令を発令しました。習志野演習場からは、一〇台の大型車両がPAC―3の一部を載せて防衛省に向かい、各地の基地からPAC―3部隊が秋田・岩手など全国に移動展開されました。日本海と太平洋上には米海軍と連携したイージス艦三艦の配備と陸と海に「ミサイル防衛」が本格的に発動されました。平時の中に有事が展開されたのです。
政府は、「迎撃だ」「制裁だ」と騒ぎ、世論を国家防衛に駆り立て、国連決議を引き出すために米国と連携しましたが、中国・ロシアなどの反対で議長声明に落ち着かざるを得ませんでした。憲法違反、税金の無駄使い、北東アジアの軍事緊張を高めるだけの「ミサイル防衛」発動はストップしてください。
さらに政府は、「海賊対策」と称してソマリア沖へ海上自衛隊護衛艦「さざなみ」「さみだれ」の二隻を三月一四日広島呉港から出航させました。武力行使を前提とした海外派兵という重大な問題であるにもかかわらず、国会の承認手続きも経ないまま派兵の強行を閣議で決定し、武力行使の海賊対策新法を今国会で成立させようとしています。
海賊は犯罪行為なので本来は海上保安庁がやるべきところを自衛隊に出動させるといった非常に乱暴な決定です。
ソマリアの海賊問題は、欧米諸国が介入した内戦により無政府状態が続いており、海外の漁船団が入りこみ海洋資源を乱獲され、核廃棄物、産廃の投棄などで荒らされた結果に他なりません。それゆえに、漁民は貧困に追いやられました。これらを放置して安易に自衛隊を派遣しても根本的な解決にはなりません。政府はこの地域の平和と安定のために平和的援助をすべきです。
私たちピースサイクル二〇〇九は政府に要請します。
一、政府は武力行使が重大な事態を引起こす前に、自衛隊を即時撤退させよ!
二、政府は海外派兵恒久法につながる「海賊対策新法案」を廃棄せよ!
三、政府はソマリアの沿岸周辺国と協力し、武力にたよらない平和的援助を行え!
私たちピースサイクル二〇〇九全国ネットワークでは、今年六回目の国会に向けたピースサイクルを四〜五月に全国いっせいで実施しました。各地で市民との交流を行い、市民から麻生首相宛てのピースメッセージを多数受け取ってきました。
日本政府は、これら多<の市民から寄せられた平和と生活への危惧と抗議の声に耳を傾け、憲法前文と第9条の精神をアジアヘ、世界へ、未来に広め、第二五条の国民の生存権が保障されるように強く要請いたします。
国会ピースサイクル到着の日 二〇〇九年五月二九日
「ミサイル防衛反対ソウル国際会議」で何が語られたか
五月二九日、「『ミサイル防衛反対ソウル国際会議』で何が語られたか〜北東アジアの軍縮と平和メカニズムの確立に向けて〜」(主催・グループ「武器をつくるな!売るな!核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」)が開かれた。
「アジア太平洋のミサイル防衛に反対し軍拡競争の終わりを求める国際会議」は、四月一六日から一八日まで、韓国・ソウルで開かれた。この会議は韓国組織委員会、「宇宙への兵器と原子力の配備に反対するグローバル・ネットワーク」、「GPPAC(武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ)東北アジア」が共同主催したもので、日本からは入間、浜松、名古屋、九州のPAC3ミサイル配備反対運動など二〇人が参加した。
はじめにピープルズ・プラン研究所の山口響さんが国際会議の全体の様子を報告した。
つづいて核とミサイル防衛にNO!キャンペーンの杉原浩司さんが発言。
はじめに、国際会議で行った報告に関連して、日米「軍産複合体」に対抗するための日本の平和運動の課題についてのべた。
第一は、ミサイル防衛の実験や運用をめぐる問題点の追及であり、「成功」とされるPAC3実験の模擬標的の飛翔距離の短さ、ハワイでのSM3実験の失敗など、技術的困難を強調すべきだ。また、PAC3のレーダー波の影響や発射時の爆風のガス成分も非公開であり、こうしたことを批判していかなければならない。
第二は民主主義の問題である。チェコではミサイル防衛基地建設を国民投票にかけるべきだとの要求がなされた。また、基地受け入れ協定は国会の批准を経なければ発効しない。一方、日本ではミサイル防衛は閣議決定のみで導入が決まり、国会での手続きはなかった。そして、野党第一党の民主党がミサイル防衛を容認しているため、政治的争点から消え去り、反対の声を反映させることが困難である。民主主義的決定プロセスを要求すべきである。
第三は、宇宙関連技術の汎用性=軍民両用性(デュアルユース)を強調して宇宙の平和利用原則を「時代遅れ」だと非難する議論に対抗することである。民生利用に徹するべきであり、技術の二面性は市民の選択によって克服可能であると示さなければならない。
第四は、憲法九条に関わる課題である。ミサイル防衛は、「武器輸出の禁止」「宇宙の平和利用」「集団的自衛権の不行使」など、憲法九条のもとで政府が表明せざるを得なかった平和原則を掘り崩している。日本では明文改憲に反対する層の厚い市民運動が存在するが、ミサイル防衛反対運動は少数派である。解釈改憲と質的軍拡への抵抗運動の拡大が必要だ。その中で、「北東アジア武器輸出制限地帯」など平和原則の地域化、あるいは「宇宙兵器配備禁止条約」などの世界化を展望すべきだ。
第五は、科学者・技術者の社会的責任と軍民転換をめぐる問題である。新型SM3の日米共同開発において、三菱重工が担当する「ノーズコーン」という先端を保護する覆いは、九州の山あいの小さな町工場で製造されている。科学者・技術者の社会的責任を厳しく問いかけ、技術の軍事転用の拒否を迫るべきだ。日本の軍需産業は、欧米に比べて軍需部門の占める比率が低く、最大手の三菱重工でも約一割に過ぎない。軍事費の削減とともに、自然エネルギー分野などへの軍民転換を求めていくべきだ。
第六は、朝鮮民主主義人民共和国とどう向き合うべきかという問題である。日本のミサイル防衛は、北朝鮮の軍事的アプローチを決定的追い風に推進されてきた。その際、横須賀の米海軍トマホーク巡航ミサイルの発射態勢解除などを、ミサイル軍縮の前提として要求すべきだ。この問題の克服は最重要課題である。
最後に、日本のミサイル防衛反対運動への国際的支援を強く要請した。米国との技術的連携を強める日本がミサイル防衛から撤退することは、大きな意義を持つだろう。
現在、MD反対に三重苦がある。それは第一に米オバマ新政権の外交・軍事政策である。オバマは、経済的危機による軍事費削減で、MDのペースダウンのなかで戦域ミサイルなどの地域防衛に傾斜配分している。
第二には、朝鮮半島情勢の激変で、北朝鮮の長距離ロケット発射と二回目の核実験、韓国の李明博政権の対北「北風」政策への転換だ。
そして第三には、日本の政治が好戦的政策に傾斜していることである。
民主党にも前原誠司副代表や「次の内閣」防衛大臣の浅尾慶一郎などが武器輸出解禁論の意見だ。
こうしたなかで、さまざまな意見・潮流が出来てきている。
私たちは、否核・否戦の東北アジア非核・非ミサイル地帯をつくりだすために、「軍縮計画の大綱」などを提起し、新防衛大綱に対抗していかなければならないだろう。
たんぽぽ舎 二〇周年の集い
広瀬隆さん「原発に対する地震の脅威」
五月二三日、全水道会館で、「たんぽぽ舎二〇周年の集い」が開かれた。たんぽぽ舎は、原子力発電(核電)やめよう、地震大国日本に原発の適地はない、大惨事がおきる前に原発撤退をアピールし反原発運動のひろばとして二〇年たった。
一九七九年に米国スリーマイル原発事故が起こり、一九八六年には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で大惨事が発生した。たんぽぽ舎はチェルノブイリ原発事故後の反原発(原発廃止)の雰囲気と運動の波の中で、一九八九年に誕生した。
集いでは、はじめにたんぽぽ舎共同代尿の柳田真さんがあいさつし、その中で、結成二〇周年を機に@祝島(中国電力が山口県上関町原発建設計画。原発建設予定地は祝島の対岸)ツアー、A講師団リストの作成、Bたんぽぽ舎国際部の発足を新活動として行っていくことなどが報告された。
つづいて『東京に原発を』など原発問題をあつかった著書が多数ある作家の広瀬隆さんが、「地震列島に五五基の原発群」をテーマに記念講演。
原発に対する地震の脅威ということを真剣に考えなくてはならない。
原発を考えるときには地球科学が必要だ。地球は半径約六五〇〇キロメートルあるが、内核を中心に、外核が深さ五一〇〇キロメートルまで、下部マントルが二九〇〇キロメートルまで、上部マントルが約六七〇キロメートルまでで、地殻はわずかに深さ約一〇キロメートル〜三〇キロメートルまでくらいしかない。地殻は柔らかいマントルの上にのっかっていているともいえる。
学説でも、一九一二年にドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが大陸移勧説を唱えてから、一九六八年にカナダのテュソー・ウィルソンが、造山運動におけるウィルソンサイクルなどを提唱して過去の大陸移動説すべてをまとめたプレートテクトニクス理論を完成させ、世界がこれを認めた。
ところが日本ではその前の一九五九年一二月一日にすでに日本最初の商用原子炉・東海村原子炉建設に、電源開発調整審議会が決定のゴーサインを出し、そして一九六一年には建設に着工してしまったのである。
現在の地震学の基礎となっているのは、震源断層面のズレが地震の発生源になるという事実と地震がなぜ起こるかを明らかにしたプレートテクトニクスにあるのだが、しかし日本の原発の耐震設計審査指針は、これらの地震学が確立される以前の古い思想をもとにしたものであった。
そのため、日本は大陸移動説を無視し続けて、電力会社は嘘をつき続けることになった。こうして日本のすべての原発が危機的な状況にあるのだ。
中生代の二億五〇〇〇万年前から六五〇〇万年前、腿虫類・恐竜の全盛時代に日本列島に造山運動が起こり、摺曲山脈が生まれた。その力を受けて、九州〜四国〜紀伊半島〜長野県の諏訪までの関東から九州へ西南日本を縦断する大断層の中央構造線が形成された。
中央構造線はマグニチード八を超える巨大地震を起す世界最大級の活断層である。しかもその目の前に、四国電力の伊方原発(愛媛県)の原子炉三基が運転されてプルサーマル(熱中性子によりプルトニウムを核分裂させて発電を行う原子炉)を予定している。さらに瀬戸内海の対岸(山口県)では、中国電力が上関原発の建設計画を進めている。これは、尋常な神経ではない。
二〇〇九年一月には、九州電力が一五九万キロワットという超巨大原発の川内三号機の増設計画を鹿児島県知事と薩摩川内市に提出した。
中央構造線〜糸魚川〜静岡構造線〜柏崎〜千葉構造線をめぐっては、これまでにも一連の変動が続発している。それは江戸時代に起こった大地震〜大噴火の連鎖とそっくりなのである。まさに大事故があれば日本は壊滅するということだ。現在のいかなる原発でも、一基で日本列島は壊滅することになるのだ。
マグニチュード六・八という「中地震」の新潟県中越沖地震で世界最大の原子力発電所・柏崎刈羽原発はぶざまに崩壊してしまった。こうして日本の原発耐震安全性なるものはぶざまな姿をさらしているのである。
つづいては原発現地からの発言。
東海村村議の相沢一正さんは東海村の原子力をめぐる現状を報告。東海村村議会では二〇人中一五人が、二〇〇八年の九月に「原子力を推進する議員有志の会」が結成した。その目的は「東海村に漂う原子カエネルギー分野の閉塞感打破」「エネルギーの安定供給及び温暖化対策等への貢献」「地場産業である原子力を東海村の発展につなぐ」などだとして、「プルサーマル早期実現」「原発新設の推進」「高速増殖炉実証炉の誘致」その他の活動を行っている。
つづいて福井県の「もんじゅ」反対の動き、上関原発反対での祝島の闘い、静岡県浜岡原発、横須賀の原子力空母などの闘いの報告がなされた。
集会のあとには、懇親・交流の場が開催された。
九条の会講演会
加藤周一さんの志を受けついで
六月二日、日比谷公会堂に二〇〇〇人をこえる人々が参加して「九条の会講演会―加藤周一さんの志を受けついで」が開かれた。
昨年一二月五日に亡くなった加藤さんは、著名な評論家であり、九条の会呼びかけ人のひとりとして、全国各地で、とりわけ学生を前にした講演活動など精力的に憲法改悪阻止の運動で重要な役割を果たしてきた。
そして今、日本全国には七四四三もの九条の会がつくられ活動している。
加藤さんの不在は運動にとって大きな痛手となったが、加藤さんの志を受けついで政治の反動化・憲法改悪に対抗する運動をいっそうおし進めようとこの講演会が開催された。
九条の会事務局の高田健さんの開会のことばにつづいてこの日発言したのは、九条の会呼びかけ人の作家の井上ひさしさん、大江健三郎さん、憲法研究者の奥平康弘さん、作家の澤地久枝さん。出席できなかった他の呼びかけ人からはメッセージが寄せられた。また途中、加藤さんのパートナーであった矢島翠さんのあいさつ、加藤さんが作詞した「さくら横丁」という歌があり、事務局長の小森陽一さんが閉会のあいさつを行った。
井上ひさしさん
僕は昭和九年生まれだから、憲法9条にぴったりということです。戦争中、山形県の僕の町には墨田区の国民学校から多くの児童が疎開にやってきた。そのうちの後藤さんという子のことは忘れられない。その子の仮親を私の家が引き受けた。後藤さんの家は鉄工所をやっていたが軍需工場に指定され、そして空襲で両親が亡くなった。四五年の三月に後藤さんは国民学校を卒業すると墨田区に帰ったが、彼もまた空襲で死んでしまった。このことは子供心に大変ショックだった。
加藤さんも戦争で友だちを失っている。加藤さんの書いたものに、「私が徴兵を受けなかったのは医者だったからでしょう。若手の医者はどうしても病院に必要だったから自分は偶然生き延びた。何の理由もなく私の友人は死んでしまった。私の友達を殺す理由を、正当化する理由をそう簡単に見つけることはできない」というのがある。
国家が主張する善し悪しは一〇年もすれば逆転してしまうし、国家に合わせて自分が変わるのは無理だ。だが友人関係は、けんかしたり、別れたり、なつかしくてまたあったりしながら続いていくものだ。本当の友人関係は裏切らない。私も加藤さんの言葉に自分の少年時代の友だちの関係を重ねている。私は彼らを裏切ることができない。私にとって憲法9条と25条は親友中の親友だ。
大江健三郎さん
加藤さんは知的で静かで美しい人だった。加藤さんは、評論活動の対象にする文学者、思想家を丹念に読みあげ、そして総合する。それが筑摩学芸文庫の「日本文学史序説」などに残されている。そこでは日本独自のものと外国文化との出会いによって転換期を迎え新しい文学をつくられたといわれる。
隣国の核実験などで緊張がましている。そして核廃絶は自分が死ぬまでには無理だろう。でも本気で、戦争をしない、軍備を持たないという憲法の原理を周辺の国に示すなら、本当の信頼をつくることになるだろうし、そのために今日これだけの数の方が集まっていると思う。
奥平康弘さん
僕は憲法研究者であるけど、九〇年代以前の九条をめぐる憲法学はあまり面白くなかった。自衛隊が違憲か護憲か、という議論にほぼ限られていたからだ。しかし、九〇年代以降の変化が僕を9条に近づけた。それまでは我が国の領土の中で防衛するが決して海外には出て行かないという論だった。それが集団的自衛権は憲法の解釈の中でできるとまでと言うようになってきた。しかし、こうした流れに対してこの数年の動きは大きい。たとえば9条世界会議だが、以前ならまるで考えられないことだった。9条を世界に向けて発信し運動を展開するようになった。
澤地久枝さん
加藤さんは間口が広くて深い大変な存在で、私も若い頃に加藤さんの小説『ある張れた日に』を読んだ。それは昭和二五年に出版されている。私は、これは大人の小説で自分には縁がない、と思っていた。そのとき朝鮮戦争が始まっていたけれど、私にはそのときは値打ちがわからなかった。
9条の会はどこいってもじじとばばで、大江健三郎さんまで自分は老人である、というようになっている。でも、私は、むかしは加藤さんが書いたものを理解しなかった。だから、今時の若いものは、なんて言わないことだ。今日、六月二日は生きていたら小田実さんの七七歳の誕生日だった。小田さん、加藤さんと二人の人を失ったけど、今もっと仲間がいる。
そして今の政治がいやだ、というのを選挙で示さなくてはいけない。総選挙では絶対に与野党逆転をしないといけない。
保守オピニオン誌『諸君!』が休刊
右派論壇の混迷
さて文藝春秋社の『諸君!』休刊号の平成版『近代の超克』の内容だが、「A憲法改正を妨げるもの」をとりあげよう。ここでは「憲法改正を妨げるもの アメリカの咎にあらず、悪いのは日本人と知れ」という自虐的な感情が交差して収拾のつかない事態が現出する。すでにこの雑誌が手に入りにくくなっているとういことで、それらの特徴的な主張を書き出しておこう。
評論家の宮崎哲弥は、「保守陣営で今日まで『アメリカヘの従属』の象徴として語られてきたのが、日本国憲法にほかなりません。…憲法問題を論じるに際して、まず皆さんに伺いたい。日本国憲法を改定することに『賛成』の方、挙手を願えますか」という問いに「全員挙手」ということになる。そして「保守政治勢力、保守言論界の悲願だったにも拘わらず、結局、今日にいたる六十余年間、憲法を改定できなかった。これは何故ですか。保守の敗亡というならば、この一事こそが真の大敗ではないか」と問う。
拓殖大学大学院教授の遠藤浩一は「決定的だったのは昭和二十五年の朝鮮戦争勃発です。このとき、いわゆる『ヤルタ=ポツダム体制』は事実上崩壊したといっていい。ここで日本に西側の一員としての再生の道がひらかれたのです。その一方、国民のあいだには、自主防衛の努力が必要であるという問題意識が拡がっていた。ところが、昭和二十六年の講和交渉の過程で、当時の吉田茂首相が『再軍備はいたしません』と強調しながら、その実、ダレス相手に再軍備の密約をしたあたりからおかしなことになってくる」と麻生太郎の祖父の吉田の責任をあげる。
高崎経済大学教授の八木秀次は「サンフランシスコ講和条約によって独立を回復した後も、憲法改正の動きはありました。鳩山一郎政権は、憲法改正の旗を掲げて、二度の国政選挙(昭和三十年衆院選、昭和三十一年参院選)を戦っています」と民主党代表の鳩山一郎が改憲の旗を振ったことに触れる。ところが「革新勢力に阻まれ、改憲派は改正に必要な三分の二にあたる議席を獲得できなかった、この挫折は相当に効いた」としている。当時の国民の意思が改憲に反対だったことを認めざるを得ない。
評論家の西尾幹二は「ようするに、『九条によって戦争に巻き込まれないで済んでいる。日本はトクしている』と思いこんでいる人が、いまもって多いわけです。憲法から九条を外したら、日本は心ならずも戦争に巻き込まれてしまうのではないか、そういう心配を言う人も多いのです。他国から攻めこまれたら、手を挙げて降参し占領されても構わない、ともかく戦争だけは御免だ、そういう人々が少なくないわけですよ。頭を砂のなかに突っこんだダチョウのように、じっと事態をやりすごしたい、と」と九条改憲に反対する多くの国民がダメだと言いたいのだ。
ジャーナリストの櫻井よしこは「アメリカはこの憲法を作ることで、日本が軍事力を保有する道をいっさい閉ざしました。しかし、朝鮮戦争がはじまってすぐに後悔する。昭和二十八(一九五三)年には、当時のニクソン副大統領が来日して、『憲法九条はアメリカの間違いだった』と演説しています。さらに具体的な兵員数にまで言及して再軍備を求めたのです。ところが、吉田内閣が昭和二十五年に警察予備隊を創設したとき、今でいう防衛課長を務めていた後藤田正晴氏などは、『アメリカのいいぶんは、まったく元の通りの日本軍を作れということだ』と強く反発した。後藤田氏には、生前幾度かインタビューしましたが、かれは旧軍を徹底して憎むあまり、日本人そのものを信用できなくなっていました」。こう櫻井は改憲に転向したアメリカの立場に同調して、後藤田を批判する。
杏林大学客員教授の田久保忠衛は「戦後の安全保障論議の展開を顧みるとき、『諸君!』のはたした役割は非常に大きかった」として、「自由主義者、オールド・リベラリスト」「進歩的文化人」「左翼、マルキスト」にいたる三つの流れをひとつに結集させた「平和問題談話会」の活動が改憲策動の前に立ちはだかった歴史を述べ、岩波書店『世界』(五〇年一二月号)にのった講和問題についての論文が、「当時としては画期的な論文だったのです。言論界は以後しばらく、この声明の強い影響下におかれました」と言う。一方、福田恒存、小泉信三がよびかけた動きが、「田中美知太郎、小林秀雄、林健太郎、三島由紀夫らの『日本文化会議』結成へと受け継がれ、さらに昭和四十四年の『諸君!』創刊につながっていくことになります」と右派論壇の系譜を言う。
そして現在である。西尾は「すこし状況がちがってきましたよ。左翼はむしろ親米派と手をむすんでいるようにみえる。朝日新聞をみても、十年一日のごとく九条を守れという一方で、日米安保にかんする従来の否定的ニュアンスを巧妙に避けるようになりました。安保体制が揺らげば、九条も危うくなると思って、『アメリカさん、日本を守り続けてください』となっているのでしょう」という。
この暴論に対しては、さすがに同志社大学教授の村田晃嗣も「『万事アメリカ頼み』は、なにも左翼にかぎらない。保守派もおなじです。また田母神俊雄氏の主張を引きますが、かれは一方で、在日米軍を撤退させ、自主独立のために核武装せよといいながら、その『核武装』の実体は、NATO(北大西洋条約機構)の一部の国のように『日米ニュークリア・シェアリング』にすべきだという。つまり『米国と核兵器の発射ボタンを共有する』というのです。これは究極の対米依存ではないですか。在日米軍の撤退と同時に進められる方策とは、とうてい思えない」と反論している。
村田に対しては、櫻井が「かれ(田母神)が主張しているのは、日本が自立的に核防衛システムの一翼をになうことで、一方的な対米依存心理をいくらかでも脱することができる、という意昧なのではないですか。
現代日本人の軍事にたいする特異なメンタリティーは、根本的に、無知に由来すると私は考えています。冷戦構造を奇貨とし、アメリカの『核の傘』に守られながら、将来的な国家ビジョンを棚上げにして、ひたすら経済復興に邁進してきた、その基本的構図についての無知、無自覚が第一点。もうひとつは、メディアによる自衛隊報道のゆがみがもたらした無知です。実態はなにも知らず、それでいて、日本には自衛隊があるから安心と、漠然と思いこんでいる。今回の自衛艦ソマリア沖派遣にしても、憲法の制約によって、他国軍と同じルールで活動できないという事実が、一般の国民にまだまだ理解されていない」とあたりちらし例によって例のごとくの無知ぶりをさらす。
村田は、「九条改正にかんして、もうひとつ予想される国民からの反応は、本日、お集まりのみなさんからは、あるいはお叱りを受けるかもしれませんが、憲法改正の問題を、『歴史問題』とむすびつけて議論することから生じる違和感です。復古主義的な主張にであうと、多くの国民は。引いてしまうのです」と指摘する。これに対する櫻井の「それはなぜですか」という問に「明治憲法は素晴らしかった、現行憲法は勝者アメリカに押しつけられた恥辱の憲法だ、といった点を過度に強調すると、おなじみの『いつか来た道論』を誘発せずにはおかない。これまでの議論であきらかになった通り、改憲が実現できないのは、本質的にはアメリカの咎ではなく、日本側の心理的要因が大きい。ならば、国民のコンセンサスを得にくい主張は避けなければならない」と改憲派自身が改憲を難しくしているとする。
そして議論はだんだんと投げやりの様相を示してくる。
右派論壇の中で暴れまわり、右派の矛盾を露呈させ自滅させる役回りを演じている西尾はこんなことまで言う。「国民のコンセンサスを得ようと、いつまでも待ち続けているのが進展しない原因でしょう。破局が来て大量死が起こるまで目が覚めない、と言われるのも、言論人が真実を告げないからです。テポドンはどんどん進化しますよ。ノドンにもそのうち必ず核弾頭が搭載されるでしょう。北のテポドン、ノドンを倒すには『宣戦布告』の必要があるのです。しかしながら、今の憲法には『宣戦布告』は誰がするのか書かれていない。九条を改正するということは、『戦争をする国になる』ということです。それを十分に理解した上で、『宣戦布告』を誰がするのかを決めておかねばならない。国会か、首相か、それとも天皇か。天皇の名において『宣戦布告』するのであれば、象徴天皇を定義した憲法第一条にも手を着けなければならないのです。この論点について現在の保守言論人は完全に逃げ腰になっている」。まさに自滅的戦争に打って出ることを叫んでいるのである。
田久保は「アメリカ側からみれば、九条ひとつ変えられない日本には、いいかげん愛想が尽きていると思う。九年前、アーミテージ元国務副長官は日米同盟の強化策を盛りこんだ報告書をまとめ、集団的自衛権の行使や憲法九条の改正を求めてきました。しかし、日本側は、その正しさを認めながら、いまだになにも対応できていません。集団的自衛権にかんしては、安倍晋三政権下、行使可能なケースについて審議会の答申まで出たが、福田康夫政権が握りつぶし、麻生政権も動かない。米軍の普天間基地移設問題にいたっては、十三年前に、橋本龍太郎首相がクリントン大統領に頼みこんで了承をえた経緯がありながら、いまも放ったらかしたまま……。そんな国につきあいきれませんよ。また、ライス前国務長官は、六カ国協議を恒久的な組織にすべきだと主張した。これはかつて、日本がワシントン会議(一九二一年)の四力国条約とひきかえに、日英同盟を打ち切られた経緯を彷彿とさせます。日英同盟解消は、戦前日本が国際的に孤立する重要な契機でした」。アメリカに縋りたいのに、アメリカに見捨てられる日本、アメリカ頼みの右派の最大の弱点が浮かび上がってきている。そして「米中関係も概して良好で、中国が国際的貢献をしうる国力を身につけたいま、アメリカは対アジア外交において、日・中のふたつのオプションを手にしていることに気づくべきです。アメリカは、日本に旨味がないと判断した途端、『日米同盟を再検討しよう』といってくるでしょう」となげく。
さらにダメ押し的に村田は「わが国力にはおのずと限界があり、国土面積はわずか三十七万平方キロメートル、少子高齢化を迎えて、市場も相対的に小さくなっていく。この事実に目を閉ざして、なにかを語りうるものではありません。諦めろというのではない。しかし、過剰な期待をいだいて、より大きな失望に落ちこんでいく悪循環は避けなければなりません。たとえば、日本が、あたかもアメリカと中国のあいだに立ち、第三極として両大国を手玉にとるような芸当が可能かといえば、残念ながら、そんな力は日本にない」と現実を直視せよと当たり前のことを言わざるを得ない。
今後の課題として八木は「結局、なにを目指すべきかといえば、国の中枢にいる政治家、官僚の意識をいかに変えるかということです。かれらをどう取りこみ、動かしていくか、それに尽きるのです」とする。それに、宮崎は「でも八木さん。あなたも官僚とのつきあいはあるだろうから知っていると思うけれど、経済官庁の上層部の多くが『日本国憲法有用論』に染まっていますよ。つまり日本国家は戦後、比較的上手に世を渡ってきた。これぞ『平和憲法』を固守し、世界の諸国民から愛されてきたからだと(笑)。こんな御利益あらたかな憲法をどうして改正する必要があるのか、とテクノクラートのマジョリティは改憲論をいぶかしんでいる」と揶揄する。
櫻井はこれにあわてて反論。「これまではそうでしたが、国際社会の大変化の潮流を目前にして、かれらもこのままでいいとは考えないでしょう。安倍政権によって制定された国民投票法も成立から三年後の、平成二十二年五月に施行されます。米中関係など、国際潮流の恐ろしいくらいの変化が追い風となって、政治家、官僚も、『この憲法を抱えたままでは、日本は米中の管理下に入ってしまう』という危機意識をいだかざるをえない状況に追い込まれるのではないでしょうか。私たちはこれを憲法改正の好機としてとらえ、日本再生の第一歩としなくてはなりません」。
こうしたものが改憲派の現在の意識である。 (つづく)
複眼単眼
蓮池透の哀しみと怒り 〜新著「拉致」を読んで
このほど、蓮池透氏(一九九七年から二〇〇五年まで、「北朝鮮による拉致被害者家族会」の事務局長、二〇〇五年から二〇〇七年まで同会副代表で、拉致被害者蓮池薫氏の実兄)が『拉致〜左右の垣根を超えた闘いへ』(かもがわ出版)という異色の本を出した。蓮池透氏が事実上「家族会」運動から離れていることは、雑誌「世界」の二〇〇八年七月号のインタビュー「対話再開のために何が必要か」以来、広く知られていることだ。
北朝鮮政府による二回目の核実験の話題で世間がもちきりの中で、本書を読んだ。読み終えて、感想を一言でいえば、「蓮池透氏はごく普通の日本人だった」ということだ。
この本を読んでいると、「普通の青年」が、弟が拉致されたという悲惨な経験から、右翼的な運動に絡め取られていった経過がよく分かる。
こんな事は当たり前のことであるとおしかりを受けるかも知れない。普通の日本人がある日突然、弟が行方不明になって、やがて、それが北朝鮮による拉致ではないかということになり、二〇年後に「家族会」が結成され、いつしかその運動の先頭に立つようになった。「家族会」の運動にあわせてつくられた「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)など、北朝鮮の体制打倒を主張する者たちの影響で、運動は右翼ナショナリズム一色に染まった。
蓮池氏はそうした流れに違和感を感じながらも、巻き込まれざるを得なかった。
例えば石原慎太郎都知事と対談したときには「高揚して」、「憲法九条はおかしい、自衛権を発動せよ」などと言うようになった。しかし、思いは複雑で、家族会が取り組む各種の運動には「ついて行けないなあ」と思うこともしばしばだった。家族会の集会には「日章旗」をもった人が大勢参加する。ゲートルをまいた旧日本陸軍人そのままのような衣装の者もいる。「怖いなあ」と思って外に出たら、右翼の街宣車の隊列ががなり立てている。蓮池氏はその街宣車の演説と自分たちが主張してきたこととが全く同じだと言うことに気付いて「愕然」とする。
蓮池氏はいま、「拉致の責任を不問に付すわけにはいかないが、植民地支配の謝罪と補償を具体化すべきだ」と感じ始めているとも言う。拉致の被害者家族として、過去の植民地被害の問題にも素直に目を向けている。
彼は二〇〇二年の「九・一七」小泉訪朝と「日朝共同宣言」を厳しく批判する。「九・一七は謀略の日だった」という。宣言は「国交正常化のシナリオ優先」で、拉致問題に具体的に言及せず、「被害者の人権」を配慮しない点で否定的にとらえざるをえないという。
しかし、彼がすぐれているのは、さまざまな人がおり、事態を冷静に複眼的に見なくてはいけないと考えていることだ。そして「制裁」や「核の保有」という対応に断固として反対している。彼が「驚いたこと」として、彼の皮肉でもあるが、以前対談した石原都知事がオリンピックを招致するためにIOC会長への書簡で第九条を積極的に評価したことを紹介している。本当に「複雑です」と述べ、改憲派も護憲派も拉致被害者を救うために一緒に運動してほしいと率直に語っている。
私たちがこの小さな本から学ぶべきことはたくさんある。 (T)