人民新報 ・ 第1281号<統合374号(2011年9月15日)
  
                  目次

● 9・19脱原発集会を成功させよう  さようなら原発  原子力の危険から社会を守れ!

● 自民党政治に回帰する野田新政権と闘おう

● 8・15  国家による「慰霊・追悼」を許すな!反「靖国」行動  右翼の攻撃・暴行と警察の規制に抗して

● 「平和の灯をヤスクニの闇へ」キャンドル行動   「3・11 後の東アジア―原発とヤスクニが強いる国家と犠牲」

● KODAMA  /  対話の前提その他

● 映 評  /  「一枚のハガキ」

● せ ん り ゅ う

● 複眼単眼  /  野田政権の中道右派路線とその危険性について





9・19脱原発集会を成功させよう

    
さようなら原発  原子力の危険から社会を守れ!

 原子力は安全だ、経済的合理的である、という主張はまったくの神話であることが明らかになった。にもかかわらず、経済界は原発推進・原発輸出の方針を見直そうとはせず、野田新政権も原発再稼動に踏み切る姿勢である。
 こうした中で、福島第一原発事故の被害の甚大さ・深刻さは日一日と暴露されて来て、そのニュースは衝撃波として日本全土へ、また世界へ広がっている。日本は3・11以前から、長期にわたる経済的停滞、産業空洞化、少子高齢化、社会的格差拡大・貧困化、巨額の財政赤字、近隣諸国との対立など解決困難な課題に直面していた。そしてその後も地震は止むことなく続いており、加えて歴史的な台風の襲来など自然災害に見舞われているという未曾有の状況にある。いまこそこれまでの日本社会のありかたを抜本的に見直すべきときである。政府・財界のように、原発を動かし続けるならば、さらなる核事故を起すだけでなく、地域と人心の荒廃、雇用の激減、自殺者の増大、いっそうの少子化などに拍車をかけ日本没落という道を歩むことになることは決して想定外のことではない。

脱原発のうねり

 3・11から半年を過ぎた現在、全国各地で多種多様な形で脱原発にむけた動きが展開されている。こうした声をしっかりと結び付けて大合流させ、現実を動かす力として顕在化させ、実際の脱原発の政策として実現させなければならない。

 内橋克人さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、鎌田慧さん、坂本龍一さん、澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さん、辻井喬さん、鶴見俊輔さんの九人が呼びかけて、九月一九日の「さようなら原発五万人集会」と「脱原発一〇〇〇万人署名運動」の成功に向けた取り組みが進められている。
 この運動を成功させることによって脱原発運動の飛躍を勝ち取り、それを契機に新しい日本社会を作り出していかなければならない。

記者会見で声明発表

 九月六日には、呼びかけ人の大江健三郎さん、落合恵子さん、鎌田慧さんと賛同者の反貧困ネットワーク代表の宇都宮健児弁護士が、記者会見を行い、それぞれが思いを語るとともに、「わたしたちは野田新政権に、核の恐怖からわたしたちのいのちや国土、人類の公共財産である自然を守るという理念を明確に示し、具体化するために」、@停止している原発は、再稼働させないA老朽化したり、危険性が指摘されている原発からすみやかに廃炉にするBもっとも危険なプルトニウムを使用する高速増殖炉「もんじゅ」と、核燃料再処理工場は、運転準備を停止し廃棄するC省エネルギーと持続可能な自然エネルギーを中心に据えた新エネルギー政策への転換を早急に開始する、ことを要請する声明を発表した。

講演会に多数の参加

 つづいて八日には、日本青年館大ホールで「講演会 さようなら原発」が開かれ多くの人が参加した。呼びかけ人からの発言があった。

 鎌田慧さん。
 戦争がおわって、あの戦争には反対だった、戦争は負けると思っていたという人がいたが、青年たちは、その時に反対できなかったのかという疑問をぶつけた。事故後の原発についても、同じことが起こっているが、私たちも何故もっと反対をしてこなかったのかという反省と悲しい思いで一杯だ。原発がなくても生きていける。そのほうがよりよく生きていける。一九日の集会と署名を成功させるために力をだそう。

 大江健三郎さん。
 私の人生のほんとうの始まりはヒロシマ、ナガサキがあり、戦争が終ってからのことだ。憲法が出来、そこでは軍備がなくてもやっていけるという「決意」をすることが重要だと教えられた。自分に元気が満ちてくるような感じだった。そうした時代があった。にもかかわらず、福島原発事故をわれわれはやってしまった。つづく世代に放射性物質、廃棄物を背負わせてしまったのだ。

 落合恵子さん。
 私たちはヒロシマ、ナガサキを繰り返さない、被害者にも加害者にもならないと決意した世代だった。原子力の平和利用なんていかがわしいが、結局、核兵器になりうるものを大量に持ってしまった。高木仁三郎さんを招いて学習会もやってきたが、あるときからなにかが緩んでしまったことを反省している。権力に対抗してきたが、いま本当に権力がほしいと思う。子どもたちを安全なところへ移したいからだ。

 内橋克人さん。
 三つの問題について話したい。第一には、経済界は少子高齢化問題が重要だとして、移民受け入れまで言っているが、原発推進ではますます少子化する。第二には、電力が足りない、企業は海外へ行かざるを得ないというが、五四基の原発のうち一一基しか稼動していないのに実際には電力は余っている。第三には、震災・事故は終ったのでない。地震の動乱期に入ったのであり、これからが始まりだということだ。

 集会では、落合恵子さんによる詩の朗読、崔善愛(チェ・ソンエ)さんのピアノ演奏もあった。

 賛同人である映画監督の山田洋次さんは、原子力の平和利用ということを鵜呑みにしてきたことに怒りと悲しみを感じる、これまでの違いをこえて大きな原発反対のうねりを作っていこうと述べた。
 また手術入院のため欠席した呼びかけ人の澤地久枝さんからのメッセージも紹介された。

 最後に鎌田慧さんがまとめのことば。将来一〇〇の力を出すというのではなく、今一〇の力を出すことが大事だ。いまは、とにかく明治公園での集会を成功させ、そうしたことを通じて共生の社会を実現していこう。

 脱原発運動の新しい段階を切り拓こう。


自民党政治に回帰する野田新政権と闘おう

 八月三〇日に選出された野田佳彦首相は、この一〇年で七人目の首相となった。反小沢抗争で疲弊した民主党の事情があり、野田は幹事長に小沢一郎に近い輿石東を置き、閣僚にも小沢派を入れるなど譲歩を余儀なくされている。政権交代時のマニフェストにこだわる小沢派との党内融和は、参院での野党優位という「ねじれ」国会状況の中で、自民・公明など野党との連携をせざるを得ない野田政権の国会運営を多難なものとさせるだろう。
 藤村修官房長官は、臨時国会を九月一三日に召集し、会期は四日間、召集日に野田首相の所信表明演説を行うと発表した。野田は民主党代表選のまえに一定の見解を示したが、実際に首相になってからどのような政策を行おうとしているのか、所信表明が注目されるが、野田政権が直面するのは、まさに惨憺たる日本の内外状況である。
 現在の日本の抱える課題は、巨大なものである。一九九〇年代のバブル経済崩壊と「失われた二〇年」からの景気回復は、国家財政の悪化という犠牲をともないつつ財政投入によってようやく上向いたかに見えたが、歴史的な円高によって阻止されつつある。しかもこうしたことがヨーロッパ、アメリカがかつてない経済的危機を迎える中で進行しているのであり、輸出主導路線は行き詰っている。社会的にも、貧困化、自殺者の増加、そして人口の絶対的減少という事態がより厳しいものとなってきている。国際的な関係とくに近隣諸国との関係は緊張したものになってしまっている。政権交代後にも実際には既成の政治体制が続く中で、世界の中では比較的良好な社会的基礎を持つとされてきた日本自身のダウンサイジングという恐るべき事態が進行している。それに加えて今年三月のここ数百年経験したことない大地震・津波がおこり、安全神話の下で強行されてきた原発の破滅的ともいえる事故は、日本の弱体化を加速させた。
 
 自民党からの政権交代は、多くの人びとの長期にわたる自民党政治の破綻への拒否反応としてあった。菅前政権の低支持率と自民党への支持回復という世論調査結果を見て、自民党谷垣執行部は早期の解散・総選挙で政権への復帰をもくろんだ。だが、野田への首相交代で自民党の支持率は一挙に急降下し、総選挙での大敗北の予想が自民党のはかない夢を粉砕したのである。鳩山・菅は直面する課題を前に、財界とアメリカからの要求に後退を重ね完全に屈服し自民党政治への回帰となっているが、自民党政治そのものが大衆的に見直され評価されているのではないことは明らかだ。
 野田政権は、救済・復旧・復興、また経済、社会保障問題の解決を第一におくことになる。だが、その負担を誰が担うのかをめぐってするどい対立が起こらざるを得ない。外交面ではヤスクニA級戦犯問題や中国脅威の発言を一定程度封印し、近隣諸国との関係改善を図ろうとするだろうが、前原民主党政調会長は反中・親米発言を続けているなどアメリカや国内の右翼・軍国主義勢力の圧力をどうできるかが問われている。
 民主党が公約した子ども手当や高校授業料無償化などの廃止・見直し、法人税減税、復興債の財源の検討など税制について、また社会保障と税の一体改革」の名目での消費税増税、原発再稼働・原発依存エネルギー政策の推進、そして米軍普天間基地の辺野古「移設」を軸にした日米同盟強化、自衛隊の島嶼防衛など重要法案・政策を野田は、民自公三党協議という密室の中で決めるだろう。だが民自公路線でも、難問は解決できない。
 自民党からの政権交代が必然であったように、自民党政治に回帰しつつある民主党政権を超える歴史的転換が求められている。日本社会の「崩壊」という状態が到来する危険性がある。自民党政治と後継・民主党政権の路線・政策を打ち破る主体の形成が求められている。


8・15

 
国家による「慰霊・追悼」を許すな!反「靖国」行動

        
右翼の攻撃・暴行と警察の規制に抗して

 八月一五日、国家による「慰霊・追悼」を許すな!8・15反「靖国」行動が闘われた。
 集会は、在日韓国YMCAホールで行われた。
 加納実紀代さんが「原爆・原発・天皇制」と題して話した。わたしは五歳ときに被爆した。これまで自分の体験談は語らなかった。だが、ここ数年、積極的に語るようになった。被爆体験を語れる最後の世代だからだ。原爆被害は無差別的なものだが、やはりジェンダー性がある。同じ障害でも男と女では、その後の人生への意味が違う。被爆した女性は、子どもを産めず、結婚できない人も多かった。ヒロシマは被害者だったのか。かつての軍都・廣島は、呉には軍港があり、宇品は侵略戦争への送り出しの港だった。真珠湾攻撃の一時間半前にマレー半島・コタバルに上陸を開始してここから戦争が始まったが、それは廣島の陸軍第五師団だった。そして中国系住民を虐殺しながらシンガポールへと南進したのだった。そのシンガポールの戦争博物館には、ヒロシマへの原爆投下のおかげで解放されたと記されている。ヒロシマは被害と加害の二重の意味をもたされているのである。
原発は、アメリカのアイゼンハワー大統領が、ソ連の核兵器での追い上げへの対抗と原発による西側同盟諸国の結束の目的で、原子力の平和利用を言い出した。日本では、政治家の中曽根康弘と元警察官僚で読売新聞の社長正力松太郎が中心で、五四年には原子炉整備補助金の予算がついて原発推進は国策となった。だが、原子力の「平和利用」については、被爆者や進歩的な学者などもこれを支持していた。たとえば被爆者で医師の永井隆はその著書の中で、原子力で人間は幸福になれると書いている。物理学者で原子力資料情報室の初代代表だった武谷三男さえも、五二年当時は、被爆国だからこそ原子力の平和利用を、というような主張を発表していた。五四年のビキニ環礁での第五福竜丸の被曝があり、それを契機にして原水爆禁止運動が始まり、日本母親大会や原水爆禁止世界大会が開かれるようになった。しかし、母親大会の第一回大会宣言は「原子力は人類の繁栄のために」となっているように、原子戦争反対、平和利用容認という立場があきらかである。
 近代は、豊かさ・便利さを求めてきたが、戦争、環境破壊、人間破壊もが深刻になった。生産性や効率性を求めること自身が問い直されるべきなのである。かつて戦時中にも近代を問い直すということは言われた。「近代の超克」論であり、これが侵略の論理を合理化した役割を果たした。いまも同じような論理が時折出てくるが、こういうものではない、近代の克服が問われているのだ。

 つづいて差別・排外主義に反対する連絡会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、福島原発事故緊急会議、許すな靖国国営化阻止8・15東京集会実行委員会、反安保実行委員会、ぶっ通しデモ実行委員会、靖国解体企画からのアピール。

 三時半からデモに出発、断固として一時間ほどのデモを貫徹した。右翼の妨害も激しく、警察は右翼と馴れ合いの態度で終始した。

● 反「靖国」行動は、八月二六日、右翼と警察の馴れ合い弾圧に抗議する以下の声明を発表した。

 8・15反『靖国』行動に向けられた弾圧を許すな!右翼による私たちへの攻撃、暴行や傷害を糾弾する!


 私たち「国家による『慰霊・追悼』を許すな!8・15反『靖国』行動」は、今年も、天皇制に反対し、靖国神社に代表されるような国家による死者の「慰霊・追悼」を批判する行動を行なうことができました。
   (略)
 最近は、こうした右翼勢力に、もっぱらインターネットで流布される虚言によって妄動する「ネット右翼」、そして彼らを現実の場に動員している「行動する保守」を名乗る右翼グループが加わり、私たちや友人たちの行動への妨害や嫌がらせはさらに醜悪なものとなっています。
 今回のデモのさなかに、私たちの行動に対し、襲撃する側が持ち込み、押さえられたとき落としたと思われるナイフが見つかっています。
   (略)
 右翼たちの私たちに向けた「殺せ」「殺す」という脅迫的煽動は、「街宣右翼」や「行動する保守」「ネット右翼」たちが相互に顕示を競う中でエスカレートしてきました。しかし、今回ナイフが持ち込まれたことは、デモの参加者に対する、具体的な殺人/傷害が狙われていたと考えるしかありません。これは、右翼たちの行動の最悪の方向への転換の画期を示すものです。
 これに対する、警備・公安警察が実施した「警備」の体制はひどいものでした。それは、私たちの行動を抑え込むばかりか、「街宣右翼」「行動する保守」や「ネット右翼」たちにやりたい放題を許すものでもあり、私たちの行動に参加した人々の身体を、彼らの暴力行使による直接的な危険にさらさせるものでした。
   (略)
 私たちは、こうした日本社会における現実を、日本社会、さらに国際的にも広く知らしめることを希望します。民主主義を標榜し、日本国憲法において思想や表現の自由が保障されているにもかかわらず、現実の社会において、実質的にこれを行使することが不可能ないし困難な状況にあることに注目されねばなりません。
 また、インターネットなどにおいては、天皇制や靖国神社などへの批判、外国人やマイノリティの権利の主張を行なう意思表明すら、右翼勢力の執拗な攻撃にさらされ、発言を封じられることもたびたび起きています。
   (略)
 右翼組織や「行動する保守」「ネット右翼」などのそれぞれの背景は、政治団体や暴力団、宗教団体、その他の挑発者グループ、なによりこの社会を覆っている差別・排外主義的な政治環境などさまざまですが、この間、彼らにとっての共通の「敵」をしつらえ、実質的に合流した行動をとることが繰り返されています。
 こうした状況は、社会や経済の破綻から「失われた二〇年」と呼ばれる最近になって、ますます明白に露呈していることです。排外主義は、人間が使い捨てにされ、生をめぐる競争に駆り立てられ、社会的に分断されるところに浸透しています。これは、社会全体が徐々に威圧的となり、軍事的色彩を強めている歴史的時間の中で、いままさに進行している事態です。
 私たちは、今回のような警察・右翼一体となった攻撃を強く糾弾します。すべての皆さんがこうした事実を認識し、右翼の暴力や、それを理由とした警察権力の不当な規制をゆるさない声を、それぞれの場で上げていただきたいと思います。

二〇一一年八月二六日

 国家による「慰霊・追悼」を許すな! 8・15反「靖国」行動


「平和の灯をヤスクニの闇へ」キャンドル行動

    
「3・11 後の東アジア―原発とヤスクニが強いる国家と犠牲」

 八月一三日、東京・全電通会館ホールで「平和の灯をヤスクニの闇へ」キャンドル行動の集会が開かれた。六回目の今年は「3・11後の東アジア―原発とヤスクニが強いる国家と犠牲」をテーマにした。

 はじめに共同代表の今村嗣夫さんが、震災と原発事故後の政府の対応は全くひどいものだが、これは戦争での国の責任、ヤスクニの責任をあいまいにしてきたことと同じで、この国の闇を暴き出し、厳しく糾弾していかなければならないと挨拶した。

 シンポジウムでは、東京、沖縄、台湾、韓国の四地域からの発言が行われた。

 東京の高橋哲哉さん(一九五六年、福島生まれ 東京大学大学院総合文化研究科教授)。昨年二〇一〇年は、日本の韓国併合から一〇〇年目、また一昨年二〇〇九年は、琉球処分から一三〇年目の年だった。この間、日本の国家と社会がその植民地主義の歴史に真摯に向き合ってきたかといえば、そういうことはなかった。日本の国家と社会が、自らの歴史的過ちを直視することを避け、その負の遺産を清算することから相変わらず逃げ続けている、その中で、今年の三月一一日、東日本大震災と福島原発事故が起こったのだった。
 靖国の問題に限ってみても、七月二一日、東京地方裁判所は、韓国の遺族九人と、生きているのに戦死者として合祀された韓国の方一人が原告となって起こした靖国神社合祀取り消し訴訟について、原告の主張を全く認めずに斥ける判決を下した。靖国神社によって一方的に合祀されたとしても法的利益が侵害されたとは言えず、逆に、この侵害を認めると靖国神社側の信教の自由を侵すことになると言うのだ、呆れてしまう。そもそも、かつて国家機関として機能していた靖国神社の合祀システムを、通常の信教の自由で語ること自体に問題はないのか。そして、その問題を措くとしても、朝鮮半島出身者の靖国神社合祀問題は、植民地主義の克服という形でしか解決できないものであるのに、それを日本国憲法下での信教の自由の問題にしてしまうことが、いかにナンセンスであるかということに、裁判官たちは本当に気づいていないのか。残念ながら、ここでもまた、日本の国家権力が、植民地主義の「清算」という課題に全く向き合えていないことが確認されてしまったのだった。日本の首相の靖国神社参拝について言えば、二〇〇七年の安倍首相から福田、麻生まで三人の自民党の首相、そして政権交代後の鳩山、管の二人の民主党の首相と、参拝のない状態が続いている。しかし、自民党の三首相が参拝しなかったのは、小泉首相の参拝が大問題となった直後で政治的リスクを計算したからにすぎないし、靖国参拝自粛を申し合わせている民主党政権にしても、最近とみに自民党の路線に接近しているので、今後どうなるかは予断を許さない。日本の右派メディアの代表格である産経新聞は、今年も、靖国神社参拝は日本の首相、閣僚、国会議員の義務であると主張している。何しろ日本の右派は、三月一一日に大地震と大津波が襲ったのも、首相が靖国神社参拝をしなくなったからだ、と言い出しかねない人たちなのだ。話をさしあたり福島原発事故に限定したいが、テーマは3・11が露わにした日本の病巣である原発・ヤスクニという犠牲のシステムというものだ。今回の福島原発事故によって、原子力発電というものが犠牲のシステムであることが誰の目にも露わになった、と私は考えている。そしてそのことがヤスクニというかつての犠牲のシステムを思い起こさせる。犠牲のシステムとは、或る者たちの利益が、他のものたちの生活すなわち生命、健康、日常、財産、尊厳、希望、等々を犠牲にして産み出され維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには産み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、国家、国民、社会、企業、等々の共同体にとっての尊い犠牲として美化され、正当化されている。たとえば、ヤスクニというシステムは、植民地帝国としての日本国家を建設し、維持し、拡張していくために、敵対する人々を殺戮し、その過程で戦死した自国の兵士の死を尊い犠牲として正当化する犠牲のシステムであった。では、原発が犠牲のシステムであるとはどういうことか。第一に、福島原発事故が福島県の県民に甚大な被害を与えていることで、原発が立地する浜通り地方を中心としていくつかの自治体の住民およそ一〇万人は避難を余儀なくされ原発難民とならざるをえず、永遠に戻れないかもしれない。また、これからこうした地域の人々にどれだけの健康被害が発生するのか、不安を持つなと言っても無理な話だ。また第二に、被曝労働者の存在を前提していることだ。第三に、核燃料の原料となるウランの採掘現場で被曝の犠牲を引き起こしている。第四の問題点は放射性廃棄物で危険な「核のゴミ」を最後にどう処理するか、人類はまだこの問いに確たる答えを持っていないのに、日本はすでにこの列島に五四基もの原発を稼働させてしまっている。3・11を予言したとも言える地震学者の石橋克彦・神戸大学名誉教授は、戦前・戦中の日本が「軍国主義」国家であったとすれば、戦後日本は「原発主義」国家であったと言う。「軍国主義」も「原発主義」も、莫大な国費を投入して推進された国策であり「不敗神話」や「安全神話」を作り上げて一切の異論を排除し「大本営発表」によって国民を欺き続けた挙句に破綻したという点で実によく似ている。

 沖縄の石原昌家さん(一九四一年、台湾生まれ 沖縄国際大学名誉教授)。福島原発事故は、いまや、刻一刻と放射性物質を放出しつづけ、日本だけでなく、世界に恐怖を与えている。外国からは日本といえば、核汚染国と見られている。被爆国日本は、被曝加害国日本になってしまった。私たちは、日本のみならず未来の世代に償えない罪を犯してしまった。これは単に原子力推進勢力の罪だけでなく、脱原発を推進できなかったものにとっても、わが身を責めるほど取り返しのつかない非常事態に陥っていることだ。原発の存在は、被爆国日本にとっては事実上の核爆弾を所有するほどの危険意識を抱き、拒絶していたが、原発推進勢力のさまざまな世論操作によって、狭い国土に五四基もの存在を許容してしまった。福島原発事故は、原発が核爆弾の燃料にもなるという問題を、クローズアップさせたが、そこで、核と沖縄の米軍基地についていくつかの問題を指摘しておきたい。沖縄の米軍基地では、核爆弾の投下訓練や核戦争を想定した軍事訓練も行われてきた。貯蔵されていた核兵器は一九七二年日本復帰後に撤去されたといわれているが、その存在は不明で、本当の情報の公開を求める必要がある。次に、米軍が嘉手納基地を飛び立った爆撃機でベトナムに無差別攻撃を加えていったが、その最中の一九六八年一一月一九日、米軍の爆撃機B―52が、通常爆弾を満載して基地を飛び立とうとしたとき、核爆弾や通常爆弾、さまざま毒ガスも貯蔵している嘉手納弾薬庫の手前で墜落して、大爆発を起こした。世界は、核の冬寸前だったのである。第三点は一九八五年八月一二日の日航ジャンボ機が制御不能に陥り、御巣鷹山に墜落したことだ。原発の真上に飛行機が墜落し、核爆発と同様な大事故に、私たちはいつか直面することになるだろうと思っていたが、それから間もない一九八八年六月二五日に四国電力の伊方原子力発電所から直線距離で約八〇〇メートルの山中に、米軍の大型ヘリコプターが墜落したのだ。そのニュースを知った時、戦慄が走った。二〇〇四年八月一三日には私が勤務していた大学の建物に米軍の大型ヘリコプターが墜落するという事件が発生した。四国の事故と同じ型だった。福島原発事故で沖縄には原発がないということがクローズアップされているが、沖縄は米軍支配時代から原子炉とは無縁ではなく、原子炉で動いている原子力潜水艦がたびたび沖縄に寄港して、放射能洩れの事故を起こしている。しかも、このような沖縄で小型原発の設置にむけて、沖縄電力は、九州電力に社員を派遣して、研究を進めている。これを絶対に阻止なければならない。

 台湾の潘朝成さん(一九五六年生まれ 台湾・ケラマン族 台湾慈済大学メディ、学部講師)。国家体制および外来民旅がまだ台湾に入り込んでいなかった四〇〇年前に、少なくとも二〇あまりの民族が台湾の山地、森林、丘陵、平野至る所で生活していた。千年以上もの間、台湾先住民族はこの台湾の地で環境と共存共栄しつつ、歴史、神話、宗教、工芸、言語、音楽、祭祀、社会組織など豊かな生活と文化を育んできた。一七世紀に入り、台湾先住民族はまず最初にオランダ、スベインなどの植民帝国と接触した。明王朝の鄭成功集団は一六六二年から一六八三年まで台湾を統治していた。一六八三年、清朝の植民政権が明王朝の鄭成功政権を撃退して、台湾を統治した。一八九五年に、台湾は日本軍国主義の手に落ち、先住民族も再び痛ましい時代に直面し、特に山地に住む先住民族の犠牲が最も悲惨であった。一九四五年に、台湾が国家を回復すると、国民政府が日本の植民政権の「山地」に対する植民政策を受け継ぎ、林務廠と鉱物局によって先住民族地の資源略奪が続けられた。この数十年間、台湾内部の植民政策の抑圧のもとで、先住民族は台湾の資本主義経済システムに組み込まれ、生活状況は社会の最下層まで落ち込んだ。現在、台湾先住民族が政治、経済及び社会の弱者の立場にあることは植民された歴史の中で、歴代の植民政権が強制的に権利を剥奪したことがもたらした結果であることを十分に示している。一九七〇年、台湾は原子力発電所を建設し始め、その後第二原発、第三原発を相次いで建設した。一九八〇年代に、台湾では反核の意識が芽生え始めた。核廃棄物保管場所の選択における台湾政府の行動は、台湾の権力者の重大な環境不正義および環境人種差別の事実を明らかにしている。先住民族の権利は集団の権利であり、これらの権利は国家が作られる前から存在している。ゆえに、先住民族の権利を認めるためには、現在の政治、経済と文化を徹底的に変えていかなければならない。

 韓国の韓洪九さん(一九五九年ソウル生まれ 聖公会大学大学教授)。韓国の李明博政権は、一九八七年六月の民衆抗争の結果による大統領直選制により誕生した以前の四つの政権(盧泰愚政権、金泳三政権、金大中政権、盧武鉉政権)とは本質的に異なる性格を待っていた。盧泰愚政権と金泳三政権は、保守勢力にその政権の基盤があったとしても、逆らうことのできない時代の力によって民主化の道を進まざるを得なかった。一方、民主政権二〇年(金大中政権、盧武鉉政権)の「失敗」に対する反動から出現した李明博政権は、それまで二〇年間続いた民主化の流れに逆行する政策をとっただけでなく、南北関係も完全に凍結させてしまった。二〇〇八年の「キャンドル抗争」が鎮まった後、李明博政権は二〇年間ゆっくりと進んできた民主化の成果を一挙に破壊してしまった。韓国の民主化は、民主政権二〇年の経験にもかかわらず、きわめて脆弱なものだった。韓国は急速に権威主義的時代に逆戻りし「拷問以外は全部やってる」と言う声さえ聞こえるようになった。朝鮮半島を見れば南と北のリーダーである李明博と全正日は多くの面で相剋関係にあるが、核を愛しているという共通点も持っている。これまで二〇年間、北朝鮮の核開発疑惑は緊張する東アジア情勢の中心的な要因であった。そして東アジアは核兵器だけでなく、原子力発電所の密集度も世界で最も高い地域である。日本は当然のことであるが、原発の新規建設計画の白紙化を宣言したが、韓国政府は相変らず「原発ルネサンス」という原発拡大政策を固守している。この計画では、国内原発を二〇二四年までに三五基、二〇三〇年までに四〇基へと増設する。李大統領は福島原発事故を、人類の災いではなく、韓国型原発を売り込むチャンスとしてしか見ていないようである。韓国社会は長い間、核不感症にかかっていたと言っても過言ではない。平和運動としての反核運動はほとんど力になっておらず、数十年の間、千発以上も配備されていた米国の核兵器を誰も問題視してこなかった。しかし日本の福島原発事故以後、韓国でも原子力発電を憂慮する気運が高まっている。李明博政権の登場以降の三年間、南北関係はもちろん東アジア全体の緊張が極度に高まったということから、二〇一二年の韓国の大統領選挙は、東アジアの平和の構築のために重要な試金石となることは間違いない。二〇一二年の大統領選挙で、もし民主勢力が政権を奪還するようなことになると、新しい政権は南北関係と東アジア周辺国との関係で現在の李明博政権とは明らかに異なる政策を実施するのは明らかであろう。多様な国家で構成された東アジアで、平和は一国の民主化では実現しない。しかし東アジア共同体の構成員たちがそれぞれ自分の社会の民主化を成し遂げていく道以外に東アジアの平和を成し遂げる近道はない。東アジアの民衆たちが自分の社会の民主化のために努力するのが東アジア平和の出発点になると言える。

 つづいて服部良一さん(社民党衆院議員)が反ヤスクニをアピールし、遺族証言では、韓国のナム・ヨンジュさん、靖国合祀イヤです訴訟原告の古川佳子さんが発言し、ハイロアクション福島の黒田節子さんは、原発の即時停止・廃炉を訴えた。

 コンサートでは台湾の林廣財さん(飛魚雲豹音樂工團)、韓国のソン・ビョンフィさん、ムン・ジンオさんたちが熱唱した。

 共同代表の内田雅敏弁護士は、靖国神社韓国人合祀絶止訴訟での東京地裁の不当判決を糾弾した。

 最後にイ・ソクテさん(共同代表)から閉会挨拶があり、キャンドルデモに出発し右翼の妨害を排してデモを貫徹した。


KODAMA

  
 対話の前提その他

 「うちの町内ではマンションは建てられないことになっている(市の景観条例に反するのは事実である)。―なぜなら高齢者が多いこの町では、もし死人が出たらマンションのエレベーターに棺桶を横に入れることが出来ず立てて載せなければならない」と私はいつも言っているが、これは決して笑い話ではない。今日の社会システムの深刻な問題を内包しているからだ。
 死体もこの世にたしかに存在する。それなのに現代社会は快適さや便利さのみを追求し、「おぞましい」もの、「醜い」ものを排除してきた。見た目はきれいな町並みが作られ、美しくペイントされた原子力発電所も外から見ると機能的で安全な物に見えたものだった。しかしその陰で偽善がまかり通り、人間の生そして死というリアルさが失われ、本質が失われてしまっている。しかし、一般的に美しいとされているもの、「醜い」とされているものをすべてひっくるめたすべてが現実の社会だ。

 まったく、「今日の社会では死を想定していない。これはまさに都市の象徴ではないでしょうか。ここでいう都市とは自然の対義語として使っています。都市はそういう自然を排除していくことで作り上げられてきました。」「そこでつまり死者は差別されてしまっているのです。はっきりしているのは世間という円から出されてしまうということです。」(養老孟司『死の壁』)

 しかし三月一一日の東日本大震災とそれがもたらした福島第一原発の大事故は死体も含めて「醜い」とされるものを多くの人びとの前にさらけ出した。これまでの社会がとんでもないインチキなものであったことを知らしめた。

 大震災と原発事故に対して、何も出来なかった政治について言えば、はたして国家や権力によりかからなくても私たちはやっていけるのか、という問いが膨らんできている。大衆の中にあるコモンセンス(共通感覚)こそ民主主義を信用する足がかりではないだろうか。人間は、自主的に自分たちのコモンセンスを使って、自分たちの生き方を管理することが出来ることは多くのボランティアの人たちの自主的な活動が証明した。例えば法律や軍隊・警察などの「暴力装置」がなければ社会はめちゃくちゃになるかといえばそうではないと思う。必要なものがあるとすれば、「熟議民主主義―他者との真摯な議論を通じて、はじめて確固たるものに成長する―スローな民主主義」(丸山仁・岩手大学教授)ではないだろうか。まさに「対話」こそが必要とされているのである。
 しかし対話が成立するための前提は、それぞれが真剣に自らの主張を持っているということだ。

 セシウムに汚染された地域マップが発表されるようになったが、事態はきわめて深刻だと思わざるを得ない。食と農業の観点から見ると、日本全国でより多くの人にとって身近な問題となる。だが、食に関しては「地産地消」という主張と実践が大事だが、福島県をはじめ米や牛肉が汚染された東北の各県の生産者と消費者はいまこの言葉を口にするのを憚っているようだ。また政府が反対を押し切って強引に進めようとしているTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は農業に壊滅的な打撃を与えるものだ。東北の各県の生産者と消費者にとってグローバリズムに抗して国境を越えた農民運動はこれからますます重要になってくるだろう。東北の生産者たちは、悔しい思いには違いない。しかし、その怒りこそ世界を変えるパワーにつながると私は信じている。(HT)


映 評

「一枚のハガキ」

   東京国際映画祭審査特別賞受賞

     監督・脚本・原作: 新藤兼人
     主演    杉本啓太 …… 豊川悦司
            森川友子 …… 大竹しのぶ
            森川定造 …… 六平直政


 新藤兼人は一九一二年生れ、九九歳の現役の映画監督である。今までに多数の作品を世に送り出し、他の映画監督などのために二五〇本ものシナリオも書いている。一九五〇年独立プロとして近代映画協会(近代映協)を設立し、そこを拠点として映画作りを行ってきた。初期の作品としては「原爆の子」(52)、「第五福竜丸」(59)などがあり、セリフをまったく排した「裸の島」(60)はモスクワ映画祭グランプリを受賞した。「軍旗はためく下に」(深作欣二 72)、「松川事件」(山本薩夫 61)も新藤の脚本である。

 本作品は新藤の戦争末期の実体験を色濃く反映させている。一九四四年三月、召集され奈良の宗教団体での作業に従事させられていた総勢一〇〇名、そのうち六〇人がフィリピン戦線に行く途中に戦死し、最終的には新藤を含めた六人だけが生き延びた。
 その選考はクジ引きで行われ、偶然が左右するなかで死んでいった九四人のために自らが体験してきた戦争を映画化しようとずっと考えてきたそうだ。
 「一枚のハガキ」とは同じ兵舎にいた兵士―森川に故郷に残された妻から届いたハガキのことだ。返事を書こうにも検閲がひどくてなにも具体的なことが書けないため、その男はそのハガキを大事に持っていた。そして死地におもむくことを悟った兵士は、杉本に生きて帰ったらそのハガキを妻に届けてくれるように依頼する。
 森川は戦死し、その弟と友子と結婚させようという封建的な因習。弟もまた戦死し、その家は国に尽くしたといってまつりあげられるのだがそんなことが何になるだろうか。二人の子どもをなくした両親の悲しみ、その重さはいかばかりだったろうか。この映画は、戦前の因習、あしき習慣に彩られた日本の近代化以前の農村地帯の状況をよく描き出している。どうにか生きて帰ってきた杉本は森川から妻へと託されたハガキを渡そうと友子を訪ねてくる。彼らは夜を徹して、今まであったことを語り明かす。
 実は杉本は帰国してから夢破れて新天地を求めてブラジル行きを決意していたのだが、友子とうちとけあい、二人で農地を開墾し新しい生活を始めようと決意する。結末では希望の物語が再出発するような仕かけがなされているが、ことはそれほど単純ではない。新藤監督はもっと複雑な仕組みをこの映画で提示しているのではないかと私は思う。大竹しのぶのずっと耐えながら力強く生きていこうと決意するような演技はたしかにうまいと思う。

 映画を観終わったあとのまわりの観客は「いい映画だったね」「とても九九歳の監督とは思えない」という感想を言い合っていた。宣伝文句に最後の最高傑作という表現をしていたが、それほどのものではない。ちみつに計算されたいい作品であることは確実だ。私は「一枚のハガキ」には妻から郵送されてきたハガキという事実とは別に、新藤監督は召集令状(いわゆる赤紙)のことを視野に入れていると思わざるをえない。一枚のハガキによって左右される人生、それはまさしく戦争そのものの不条理と言ったほうがいいのだろう。映画の中の一枚のハガキには「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので何の風情もありません」と書いてある。年に一度の村祭りにひとりで寂しい思いをしている妻の様子と夫への愛情がよくあらわれているいい文面ではないか。
 また、重い天びん棒をかかえ、近くの川から畑作に水を運ぶ姿は戦争が終った新しい時代へのかけ橋なのだろう。

 実は私は数十年前に新藤監督にもしかしたら会えそうになったことがあった。韓国の朴正煕政権時代、文化弾圧のため撮影所を閉鎖された申相玉監督が日本に滞在し多くの日本の知識人に協力の電話をしていた。新藤兼人とも会い、協力を要請したのだが、その後、申相玉監督が行方不明になり、話はそのままになっていた。私は申相玉のことを調べていて、近代映協の事務所に行き、事務局の人と話をした。その後、事務局の人から電話があり「新藤がお会いしてもいいと言っています。でも申さんからその後連絡がないので困っています」と言われた。申相玉はその後北朝鮮で「帰らざる密使」などの作品を完成させた。
 その後、新藤監督と会うことはかなわなかったのだが。

 「一枚のハガキ」の撮影時、新藤監督の孫の新藤風(しんどうかぜ 女性)があまり動けない監督の現場移動に車イスを押して撮影に参加し、日常生活の中でめんどうをみているというエピソードはたいへん心暖まる話だと思った。映画はさまざまな人の協力があって完成するということをあらためて認識したしだいである。

 「一枚のハガキ」の映像世界はとてつもなく広い空間に広がっているが、実際の撮影場所は地方都市の農家の周辺のできごとなのだ。これもやはり新藤監督の想像力が広い世界へ飛躍させてくれるのだろう。
 新藤監督にはかつて強力なパートナーがいた。それは女優乙羽信子だった。中期の作品にはよく主演女優として出演している。
 実は私は女優としての乙羽信子が好きでなかったので、その当時、新藤作品をあまり観ていない。好き嫌いは別にして小さな独立プロ(近代映協)で乙羽信子の力は偉大だったのだろう。
 もう少し新藤兼人の功績をあげてみよう。それは構成力の問題だ。もっと言えば脚本をいかに作るかというということである。映画の出来不出来はまず脚本に左右される。新藤がシナリオ作家協会を重視し、若手のシナリオ作家の養成をたいへん重要視していたことも私は知っている。そういう意味で別の面から日本の映画製作上たいへん新藤監督は貢献しているといえるのである。(東幸成)


せ ん り ゅ う

 藁からも腐葉土からも茶葉からも

 原発は川下りほど甘くない

 子育ての社会主義化を望む児ら

             ヽ 史

 改めてほっこり御飯のありがたさ

 つまみ食い女の天下この程度

             瑠 璃


 ◎ 天竜川下り事故の発生構図は原発事故の発生構図とそっくりでした。安全過信、人任せ、責任所在の不明、営利運営などなど。はて、国政にも同じ構図が……
 ◎ 政府は従来の四大疾病(癌【一五二万人】、脳卒中、心臓病、糖尿病【二三二万人】)に精神病疾患【三二三万人】を加えて、五大疾病と位置付けて対策を講ずる方針を発表している。精神の病は社会の病だ。その現れの一端が児童虐待の急増かと思う。


複眼単眼

  
 野田政権の中道右派路線とその危険性について

 民主党の野田佳彦が新首相になった。二〇〇九年の政権交代以降三代目だが、同党政権は鳩山→菅→野田と代をおうごとに劣化しているようだ。
 雑誌『文藝春秋』九月号に野田は民主党代表選への政治主張として「わが政権構想〜今こそ中庸の政治を」という一文を寄せている。そのなかで野田は「与野党の連立政権か閣外協力か、協力の形はともかく」「国全体の統治機能の再構築」の「最大の課題は与野党の協力」とのべ、「特に自民党、公明党との合意、協力なしに、法案を成立させ、政策を実行するのは非常に困難です」と主張している。そして彼は首相になるや旧政権の「民自公三党合意」の尊重をくりかえし確認している。
 野田は『文春』論文で、「最大の危機は財政」と言い、「税制抜本改革」を主張し、持論である消費税増税などを正当化している。この論文での言及はないが、国会議員の比例区定数削減(小選挙区三〇〇のみという)も持論だ。
 また「原発」については「安全性を徹底的に検証した原発」の再稼働と、原発の輸出の継続を主張、「原発の依存度を減らす方向を目指しながらも、少なくとも二〇三〇年までは、一定割合は既存の発電所を活用する、原子力技術を蓄積する」ことを訴え、原発の継続を主張している。
 「日米同盟」については、「(日本のみならず)アジア太平洋地域、更には世界の安定と平和のための『国際公共財』」として、今後とも「日米同盟を深める」と強調し、大震災で「米軍と自衛隊の共同オペレーションが成功したことを「大きな成果」とした。骨の髄までの従米論者である。
 特に論文で、中国を「地域における最大の懸念材料」、北朝鮮を「北東アジアにおけるもっとも深刻な不安定要因の一つ」と規定、昨年末の「防衛大綱」の「基盤的防衛力構想」を評価した。また首相就任直後、野田は「普天間移設の日米合意継承」を強調した。
 憲法に関する野田氏の発言は従来あまり多くはない。この『文春』論文でも改憲には触れられていない。しかし、彼は明白に改憲論者である。野田は父親が自衛官だったことにしばしば触れ、「防衛相になりたかった」などと語る。彼の唯一の著書「民主の敵」(新潮新書、二〇〇九年)では自分を「新憲法制定論者」と規定し、「自衛隊を明確に憲法に規定すること」と、「集団的自衛権の行使」を主張している。二〇〇二年の衆院選の際の野田の公約では「一切の侵略戦争を放棄した上で、自衛隊の存在を憲法に明確に位置づけ、有事への対応やシビリアンコントロールに万全を期す」と述べ、第九条に自衛隊を明記する明文改憲を主張した。また二〇〇九年衆院選の際の「毎日新聞」による「候補者アンケート」では「九条改憲に賛成」「集団的自衛権の行使に関する政府の憲法解釈」の見直しなどを主張しており、北朝鮮に対しては「圧力をかける」を選択している。
 問題となった歴史認識では、野田は八月一五日(財務相=当時)、首相の靖国参拝に関して、かつての野党時代に提出した質問主意書で「戦犯の名誉は回復されており、『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」として、首相の靖国神社参拝は問題ないとした認識について「基本的に考えは変わらない」と述べた。この「歴史認識」は中国や韓国など、東アジアの国々から厳しい批判をあびた。その後、野田氏は首相に就任するや「私は政府の立場なので(政府の)答弁書を踏まえて対応したい」(三〇日)、「野田内閣では参拝をしない」(二日)と軌道修正したが、この靖国参拝に関する発言に、野田という政治家の本質がよく現れている。(T)