人民新報 ・ 第1288号<統合381号(2012年4月15日)
  
                  目次

● 大飯3・4号機の再稼働を阻止しよう   すべての原発を止め脱原発の日本へ!

● 新旧の改憲勢力による改憲再起動に   あらたな力を構築して反撃を!

● JAL不当解雇撤回東京地裁  乗員・客乗に不当判決   怒りを込めて反撃を! 早期全面解決・早期職場復帰をめざし、控訴審闘争に勝利しよう

● 神奈川県警、横浜地検、横浜地裁へ抗議  不当逮捕に黙ってないぞ!  がくろう神奈川とあらゆる弾圧を許さない 4・8神奈川行動

● 欧州債務危機とマルクス恐慌論の再起動 A   

● 映 評  /  汽車はふたたび故郷へ

● KODAMA

        原発事故と損害保険

        悔い改めることなき原子力村

● せ ん り ゅ う





大飯3・4号機の再稼働を阻止しよう

      
すべての原発を止め脱原発の日本へ!

 二〇〇九年に衆望を担って実現した自民党政治の終焉=政権交代による新政権の成立だったが、期待はすぐに失望に変わり、鳩山―菅―野田と劣悪さを増し、自民党と同様の保守政治の復活となった。野田内閣は、消費税増税、近隣諸国との摩擦の増大、日米軍事同盟強化など民衆の利益と対立する反動政治を強行している。
 昨年の3・11巨大地震、津波、東電福島第一原発事故から一年がたって、いまだに福島原発事故の原因も究明されないままの状況にある。
 いま、各地の原発も次々に停止している。地元の声は、安全が確認されるまでの再稼動は認めない。地元とは、今回の原発事故でわかったように、立地県のみならず全国にわたるものであることが立証された。事故被害の深刻さが明らかになるに連れて、班目春樹内閣府原子力安全委員会委員長でさえ第一次ストレステストだけでは安全は確認されないと言い出すなど学者たちもそれまでの「安全」発言から微妙に距離を置きはじめている。
 五月五日には、北海道電力が定期検査のため泊原子力発電所3号機が止まる。このままでいけば、日本国内の全原発が停止する。そして、この夏それでも電力がそれなりにまかなえるとなれば、「原子力村」は崩壊の危機を迎える。政府も二転三転の発言が続いてきたが、ここに来て原発の再稼動をねらう動きが強まってきている。経済界・官僚・保守政治家・御用学者・マスコミなどで構成される利権集団「原子力村」からの圧力が急速に増大している。なんとしても泊が止まる前に大急ぎで定期検査で停止中の関西電力大飯原発3・4号機を再稼動させようというのである。野田佳彦首相など四閣僚(野田首相、枝野幸男経産相、細野素志原発担当相、藤村修官房長官)による再稼動を前提にした政治判断で強行突破しようというのである。
 こうした事態を受けて、四月五日に「緊急院内集会STOP大飯3・4号機再稼働インスタント安全基準にみんなでNO!」集会が、国際環境NGO FOE JAPAN、福島老朽原発を考える会(フクロウの会)、グリーン・アクション、美浜・大飯・高浜原発に反対する大阪の会(美浜の会)、グリーンピース・ジャパン、福島原発事故緊急会議、再稼働反対!全国アクション)の主催で開かれた。
 国会からは、吉田忠智参議院議員、阿部知子衆議院議員、大河原雅子参議院議員、平智之衆議院議員、福島みずほ参議院議員など民主党、社民党の議員が参加して発言した。
 井野博満さん(東京大学名誉教授)と川井康郎さん(プラント技術者の会)は会場から、後藤政志さん(ストレステスト意見聴取会委員)はインターネット電話で、学者や技術者の立場から大飯原発の早期稼動のための安易な安全基準を批判した。
 福島老朽原発を考える会の阪上武さんは、再稼働を急ぐためだけの「インスタント安全基準」は認められないと次のように述べた。政府の拙速な手続きは、福島原発事故の軽視であり、国民の声を無視したものだ。第一に、国会事故調査委員会が事故の原因究明に精力的にあたっている最中でまだ福島原発事故原因は究明されていない。そんな状況で、数日で安全基準をつくることなどできるはずがない。そのような暫定的安全基準は、再稼働を急ぐためのものでしかなく、安全上全く意味を持たないのは明白だ。まず関西の広範な住民の同意が必要であり、そして枝野大臣が予算委員会で、事故があったら、大変広範囲にわたって大きな影響を及ぼす、と述べたように、日本全国が地元であり、国民の声を聞くべきだ。
 つづいて、福井の「プルサーマルを心配するふつうの若狭の市民の会」、京都府議会での民・自・公も含めたストレステストを「机上の調査」と批判する意見書が採択された報告、「ハイロアクション福島原発 年実行委員会」、岐阜も風の流れで地元そのものだという調査の報告、福島から福岡へ非難した報告、そしてグリーンピース・ジャパンによる「福島の人達が考える『地元』とは」アンケートの結果などの発言が続いた。福島原発事故緊急会議からは、当面の行動の提起があった。


新旧の改憲勢力による改憲再起動に

        
あらたな力を構築して反撃を!

 二〇〇九年の政権交代も米軍普天間基地の移転や消費税などの問題をはじめ民主党のマニフェスト放棄の結果、多くの人びとに急速に失望感をもたらした中で、早ければ年内にも、遅くともあと一年半のうちにまた国会解散・総選挙がくる。いま、東電福島第一原発の未曾有の事故と東日本大震災が招いた歴史的な危機の下で、保守二大政党体制化した政治は停滞し、政治不信が蔓延し、社会全体を重苦しい閉塞感がおおっている。
 こうした政治状況の中で、二〇〇七年の明文改憲をめざした安倍晋三内閣の崩壊以来、しばらく鳴りを潜めていた憲法改悪の企てが一斉に活発になってきた。
 昨年十一月から始動した国会の憲法審査会での議論では、東日本大震災を口実として憲法に「非常事態条項」「国家緊急権条項」を導入すべきだとの主張が自民党などの委員から相次ぎ、「読売新聞」や「産経新聞」などの一部メディアもこれに同調してキャンペーンをしている。「産経新聞」は「尖閣諸島」防衛とあわせて「東日本大震災に対しても、憲法を中心とする日本の法体系はあまりに無力だった」などといいながら、来年の六月を目指して同社版「国民の憲法」起草委員会を発足させた。
 また自民党が二〇〇五年に採択した新憲法草案をことしの四月二八日(サンフランシスコ講和条約発効六〇周年)を期していっそう復古主義色濃く改定する動きや、平沼赳夫・たちあがれ日本代表や亀井静香・国民新党代表、石原慎太郎・都知事らの新党、橋下大阪市長らの「維新の会」による新党の動きのなかでも「改憲」がその政策の主要な柱とされている。これらの動きに引きずられて、従来、明文改憲には比較的消極的であった民主党も改憲論議を再開している。
 そして、民主党野田内閣のもとで、とりわけ第九条の平和主義に関係して、この間、「国是」とされてきたような諸問題(武器輸出三則、PKO五原則、非核三原則など)もタガをはずしたかのごとく、相次いで緩和されようとしている。これらのさまざまな解釈改憲の動きも容易ならない事態になっている。
 保守化した民主党を意識して「自民党らしさを出す」ねらいをもった自民党の新・新憲法草案の最終案は四月二八日までにまとめられる予定(「たちあがれ日本」も同日までに自主憲法大綱をまとめるという)だが、今のところ明らかになった「原案」の特徴的な項目は以下のようなものである。
 【前文】「我が国は長い歴史と固有の文化を持ち、日本国民統合の象徴である天皇を戴く国家であり、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。日本国民は、この伝統ある国家を長く子孫に引き継いで行かなければならない」
 【天皇】「天皇は日本国の元首であり、日本国及び国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」「国旗及び国歌は日本国の表象……日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」「元号は……皇位の継承があったときに制定する」
 【安全保障】「自衛権の発動を妨げるものではない。……自衛軍を保持する。……国際社会の平和と安全を確保するために国際的に強調して行われる活動……を行うことができる。……自衛軍に審判所を置く」
 【選挙】「日本国籍を有する成年者による普通選挙」
 【在外国民を保護】「国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民を保護するため、必要な措置を講じなければならない」
 【犯罪被害者等への配慮】「国は犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮」
 【緊急事態】「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、テロリズムによる社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の緊急事態において……宣言を発する」
 【改正】「改正は……両議院のそれぞれの過半数の賛成で議決し、……国民の投票において有効投票の過半数」
 【憲法尊重擁護義務】「すべて国民は、この憲法を尊重しなければならない」

 これらの内容は立憲主義と、現行憲法の三原則を転換するような、あきれるほどに復古主義的な内容である。それだけに自民党内からも不満も出ており、最終的にこの原案の通りになるかどうかは不確定なところがある。いずれにしても、このような改憲案が野党第一党の機関で議論されていることは容易ならないことである。
 政治の閉塞感は若者をはじめ広範な人々の間に蔓延している。これに乗って、「第三極」を目指す新党結成の動きがある。
 平沼、亀井、石原らの古手の政治家による改憲派新党結集の動きは、綱領に改憲を掲げることを明確にしており、石原都知事は新党に参加するなら「憲法の破棄を綱領に入れさせる」と述べており、困難な改正手続きを経ずに破棄すべきだとの考えである。この人々にとっては、もはや立憲主義も民主主義もない、強権政治願望だけである。
あわせて、より危険なのが「維新の会」の橋下徹・大阪市長らが「船中八策」と称して、九条改憲を掲げつつ、「国家元首は天皇」という、とんでもない改憲論の主張である。橋下は新自由主義の立場から「脱原発依存」などというスローガンをいい、脱原発は選挙で決着をつけるなどと、この課題への「国民的」取り組みをあいまいにし、一方で受けねらいの「首相公選」「参議院廃止」など改憲なしには不可能な課題も政策に掲げている。ポピュリズム丸出しで、天皇、原発、消費税など、世論調査で関心が高い問題を寄せ集めた観のある橋下らの政策には一貫性がない。橋下は記者会見で「(九条は)他人を助ける際に嫌なこと、危険なことはやらないという価値観だ。国民が(今の)九条を選ぶなら僕は別のところに住もうと思う」などと述べた。またツイッター上で「憲法九条改正の是非について、二年間国民的議論を行った上で国民投票で決定すべきだ」との立場を明らかにし、九六条の三分の二の改憲要件緩和にも言及した。そして、「世界では自らの命を賭してでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ『頑張ろう日本』『頑張ろう東北』『絆』と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法九条が原因だと思っています」」と述べた。はじめに九条改憲ありきの、法律家・弁護士にあるまじきトンデモの論理である。
 いま、この新旧の改憲勢力の蠢動に対抗できるかどうかが問われている。いま必要なものは原発震災の下で、脱原発社会の実現をめざす広範な民衆の運動と融合した、平和的生存権や基本的人権を生かし実現する新たな改憲反対の運動の構築である。それは脱原発の運動の政治的思想的背骨となって、その発展を保障するものとならなければならない。 (T)


JAL不当解雇撤回東京地裁  乗員・客乗に不当判決

     
怒りを込めて反撃を! 早期全面解決・早期職場復帰をめざし、控訴審闘争に勝利しよう

 東京地裁はJAL不当解雇撤回裁判でパイロット(三月二九日)、客室乗務員(三〇日)にたいし、更生計画案の人員計画案などを根拠にする「更正会社の枠組みを最優先する」という日本航空の主張を全面的に採用し、整理解雇が有効だとする不当な判決をだした。
 整理解雇直後の昨年の二月に当時の日航会長の稲盛和夫は、解雇した一六五人を会社に残すことが経営上不可能かと言うと、そうではないと思いましたと述べていたし、またその後空前の利益を計上するなど解雇の必要性はまったくなかったのである。人員削減の必要性、解雇回避努力の有無、解雇対象者の選定の合理性、解雇手続きの相当性など「整理解雇の四要件」が裁判で争われたが、そもそも第一の要件である「人員削減の必要性」が存在しなかったことは明白であったのであり、当然、解雇無効の判断が下されるべきだったのである。しかし、はじめに解雇ありきは、日航会社首脳だけでなく、この国の支配層の意思でもあった。組合所属で差別し、航空の安全と労働者の権利を主張する労働組合をつぶし、利益優先の会社にする―これがかれらの狙いであった。JAL不当解雇はかつての国鉄の分割・民営化と同じ性格のものであり、国鉄民営化後の象徴がJR西日本の福知山線事故(二〇〇五年四月二五日)であったように、JAL機のフライトの危険性の高まりが心配されている。

 四月五日、新宿・四谷区民ホールで、「早期全面解決」「早期職場復帰」「安全で明るいJAL」を求めて「不当判決糾弾!JAL不当解雇撤回決起集会(日本航空の不当解雇撤回をめざす国民支援共闘会議第三回総会)」が開かれた。
 はじめに主催者を代表してJAL不当解雇撒回国民支援共闘共同代表の金澤壽全労協議長が、大きく戦線を拡大して勝利まで闘おうとあいさつした。つづいて、知識人・文化人で構成する「日本航空による不当解雇者を励ます会」の奥平康弘東京大学名誉教授、「不当解雇とたたかう日本航空労働者を支える会」の浅倉むつ子早稲田大学教授が連帯挨拶。堀浩介弁護士による判決報告につづいて、DVDで見る原告団活動報告「提訴から一年三ヶ月」が上映された。
 津恵正三・国民支援共闘会議事務局長が総会議案提案した。地裁判決は、絶対に許せない不当なものだ。この不当判決を跳ね返し、原告全員の職場復帰を勝ち取るべく、以下の方針を柱に運動の具体化を図る。
 @東京高裁に控訴して闘い、不当判決の取り消しと原告全員の職場復帰を勝ち取る。
 A地裁判決の不当性を広く社会に知らせ、判決に対する怒りを組織し反撃の運動の強化を図る。
 B支える会の会員拡大等、原告の団結を強化し闘いに集中できるよう原告を支える強固な基盤と闘争体制を築く。
 そのため、運動の重点を明確にし、さらに大きな運動を築くこととし、不当判決が出された状況を踏まえ、改めて今日までの闘いを振り返るとともに、控訴審も展望して長期的な戦略を検討する。具体的な運動の検討に際しては、日本航空、不当判決を出した地裁や控訴審を扱う高裁、企業再生や政府等に対する運動を強化すべく、以下の点について論議を深め具体化を図る。
 @判決の不当性を理解し、広げ、反撃体制の強化を図る
 A広く社会に訴え、世論を築き、司法の反勧化を阻止し、地裁の不当判決の取り消しの展望を切り開く
 B日本航空や支援機構等に対し、全面解決を迫る運動
 C政府への要求や国会議員への協力要請に取り組む
 D支援体制の強化
などだ。提案は拍手で確認された。
 つづいて、京都、大阪、福岡、東京中部の共闘会議からさらに支援を強めていくという報告がなされた。
 日本航空不当解雇撤回裁判の原告団のパイロット・山口宏弥団長、客室乗務員・内田妙子団長の二人からは勝利まで闘い続けるという力強い決意表明があった。
 決議文は、「重大な誤りが明白な判決は、上級審において必ず取り消されるべきものであり、乗員・客乗原告団は東京高裁に控訴レ解雇撤回・原職復帰を目指して勝利するまで闘う方針を打ち出した。JAL不当解雇撤回国民共闘は、原告団と一体となり、体制の強化を図るとともに全国的な運動を展開し原告全員の職場復帰をめざしてともに闘うものである。大義と道理は、正に私たち原告団・JAL不当解雇撤回国民共闘の主張にある。JAL不当解雇撤回国民共闘は、日本航空はもとより、日本航空の再建に深くかかわってきた政府や企業再生支援機構に対し、不当解雇撤回を改めて強く要求する」ことを確認した。
 共同代表の大黒作治全労連議長の閉会挨拶のあと参加者は、肩を組み合って労働歌「がんばろう」を合唱し、闘いの新たなスタートを切った。


神奈川県警、横浜地検、横浜地裁へ抗議  不当逮捕に黙ってないぞ! 

        がくろう神奈川とあらゆる弾圧を許さない 4・8神奈川行動


 昨年一〇月二五日、その二年半も前に行われた組合と枚長の正当な労使交渉で「強要未遂」容疑があったとデッチあげて、神奈川県警公安三課は、がくろう神奈川(学校事務職員労働組合神奈川)の四名の組合員・元組合員をいきなり逮捕し、職場、組合事務所、自宅、さらには実家にまで家宅捜索を行うという暴挙を行った。
 そしてマスコミは警察の発表どおりに氏名、住所まで垂れ流し報道を行った。
 しかし、四人は早期釈放・不起訴となり、警察、検察、裁判所、メディア一体となった策動は阻止された。この人権を踏みにじり、運動の萎縮を狙った不当な弾圧を絶対に許してはならない。
 四月八日、横浜開港記念会館で、「不当逮捕に黙ってないぞ! がくろう神奈川とあらゆる弾圧を許さない 4・8神奈川集会」が開かれた。

 はじめに、がくろう神奈川からの基調報告が提起された。
 今回のがくろう神奈川弾圧事件は、警察による見せしめ的な弾圧の可能性が高い。原則的な運動を行っている組合を弾圧することによって、官民問わずまともな労働運動を行っている人々を威圧し、委縮させる効果を狙ったものである。この弾圧は一労働組合に向けられたものではない。被疑事実の中で問題とされた組合交渉とは何ら関係のない市民団体「反天皇制運動連絡会」「『日の丸・君が代』の法制化と強制に反対する神奈川の会」に言及し、これらを極左集団ときめつけ、そのメンバーを含むがくろう神奈川自体も特異な反体制集団であるかのように描き出している。今回の弾圧を主導した公安三課の視点は治安対策にあり、その意味で様々な異議申し立ての社会的運動総体にかけられた攻撃の一環と捉えられる。今回の弾圧は異常なものであったが、決して突発的、例外的なものではない。立川のビラ配布弾圧、神奈川での基地監視活動への弾圧等これまでも言いがかりに近い罪状で活動家を逮捕・起訴し、裁判所が有罪判決を下すという許し難い事件があった。がくろう神奈川弾圧の直後には横浜市職員が不当逮捕されやはり不起訴処分になった事件があり、最近では東京・江東区竪川の野宿者排除の行政代執行に抗議した人への弾圧があるなど、むしろ頻発していると言うべきだろう。原発反対デモでの多数の逮捕も同様である。すでにこの国は警察国家、監視国家となっている。グローバル化の下で推し進められてきた市場原理・競争主義を掲げる新自由主義政策は、貧富の格差を拡大し、労働条件を劣悪化し、大量の非正規労働者を生み出し、社会保障を後退させている。相次ぐ餓死者の出現は象徴的である。行き詰まりに苛立ち不安におびえる人々を駆り立てて公務員バッシング、労働組合攻撃、さらには排外的ナショナリズムを煽る動きは一層強まるだろう。監視国家・警察国家がこの動きを支える役割を果たす。私たちはこれに抗していかなければならない。このような弾圧に負けない私たちの側のネットワークづくりの必要性が痛感される。今回の弾圧では組合運動の共闘関係、市民運動のつながりが核になって自然発生的に支援体制がつくられた。今回の弾圧を教訓にし、日頃様々な運動でつながりあっている組合、市民運動グループ、個人がいざという時に速やかに相互に支援しあえる体制をつくっていこう。

 つづいて、救援連絡センターの山中幸男事務局長が講演を行い、この間の不当逮捕・弾圧状況について報告し、治安管理強化に反撃していくために力を合わせて行こうと述べた。

 不当弾圧、過剰警備、治安管理強化に反対する現場から闘いの報告があり、最後に集会宣言を採択した。
 集会宣言は、今日の弾圧の状況について以下のように位置付けている。「過去にも、ビラの配布が不法侵入とされた立川ビラ弾圧、休日に政党機関紙を配布したことで国家公務員法違反で逮捕された事件、神奈川県内でも厚木基地の監視活動を行っていた市民がやはり住居侵入で逮捕される事件などがあった。二〇〇〇年代以降現在に至るまで首都圏で頻発している一連の社会運動への弾圧は公安警察が主導し、法律を拡大解釈して社会運動、市民運動の活動そのものを取り締まるというものだった。これは、当時の小泉内閣による新自由主観的構造改革による社会格差の拡大とイラク戦争への自衛隊派遣に見られる軍事的膨張政策とに対応した、国内の社会運動、市民運動の締め付け強化の一環であった。小泉構造改革から一〇年余りが経ち、社会の格差が広がる中、たまり続ける民衆の不満は格差を拡大させた政府や財界に向かうのではなく、反対に公務員労働者の人員削減や賃金カット、大阪市の橋下徹市長率いる大阪維新の会ブームに見られるような、いわゆる『組合バッシング』などへと向かっている。労働者が歴史的に獲得してきた諸権利を叩き壊すことによって民衆の不満のはけ口にしようという政府・財界の策動は、労働組合に結集し資本と対峙する労働者をあたかも『自分たちの特権に固執する民衆の敵』であるかのように描き出している。今回のがくろう神奈川への弾圧は、労組法や地公法で保障されているはずの労使交渉、すなわち労働運動の基本中の基本が弾圧の対象となった点で新たな質を持った弾圧であるといわざるを得ない。深まる経済危機のなか、政府・財界は一部の富める者の利権を守ることに終始し、それに異議を唱える労働運動や社会運動を攻撃することによって格差是正を求める民衆の声や不満をそらそうとしているであり、私たちはこの動きを絶対に止めなければならない」。

 集会を終ってのデモでは、不当な逮捕・弾圧を強行した横浜地検、横浜地裁、神奈川県警などへの抗議行動を行った。


欧州債務危機とマルクス恐慌論の再起動 A

                       関 考一


二、マルクス恐慌論の再起動

 欧州債務危機の深化とアメリカ経済の極限化している双子の赤字(経常収支と財政赤字)は、一般的には「リーマンショック以来の経済危機」と言われているが最近では「恐慌」の文字がメディアに登場しつつある。第二次世界大戦以降、恐慌は克服された過去の遺物とされてきた。とりわけソ連崩壊後の一九九〇年代、ITバブルに沸いたアメリカでは、コンピューターによる供給連鎖管理(SCM)で需給の波を調整が可能となり、資本主義は景気循環を消滅させたとする「ニューエコノミー論」まで現れた。しかし絶滅種同然のマルクス主義用語ともされてきた「恐慌」の発生が現実の問題となってきている。これは西遊記の次の一節を思い起こさせる。『如来の手のひらを飛び出せば天上界の主となるという賭けに挑んだ孫悟空は「力で行こうじゃないか、力で!どうせ天下は強い者の天下だ。…」きん斗雲に飛び乗って十万八千里をつっぱしり悟空がかくてよっぽど遠くにきたはずだ、と思いながら、ふと顔をあげてみた。まむこうに肉色の五本の柱が、たなびく雲のなかにたっていた。悟空は「なにか証拠を残しておかないと…」と考え肉色の柱のまんなかのに墨痕りんり、一行の文字をしたためた。「斉天大聖(注―悟空のこと)ここにきたれり」』(完訳西遊記 上 現代教養文庫) 孫悟空と全く同様に一九九二年アメリカのフランシス・フクヤマはその著書「歴史の終わり」で「資本主義の勝利 社会主義の敗北」を勝ち誇って書き上げたが、二十年余りで資本主義の限界と再びマルクスに直面することになった。混迷を深める世界の政治・経済の現実を直視しようとすれば、今あらためてわたしたちはマルクスの恐慌論について真摯に向かい合う必要に迫られている。

 @ 恐慌の根本的現象=過剰生産

 マルクスによれ恐慌とは過剰となった資本価値を暴力的に破壊することである。「商業恐慌のときには、既製の生産物ばかりか、すでにはたらいている生産力までも、その大部分が、周期的に破壊される。恐慌期には、これまでのどの時代の目にも不条理とおもわれたであろうような社会的疫病―すなわち過剰生産の疫病が、発生する。社会は突然一時的な野蛮状態につきもどされたことに気づく。なにか飢饉が、なにか全般的な破壊戦争が、社会からいっさいの生活資料の供給を断ったかのように見える。工業も商業も、破壊されたように見える。いったいなぜか。あまりにもおおくの生活資料、あまりにも多くの工業、あまりにも多くの商業を、社会がもっているからである。」(共産党宣言 一 ブルジョアとプロレタリア)
 恐慌は、物価の暴落・多くの企業・銀行の倒産・信用制度の崩壊・失業者の増大などの現象が発生するが、必ず「過剰生産」がその根底に存在するということであり、巨大な不均衡を暴力的に解消し資本主義的生産の総過程を再更新するプロセスなのである。

 A 恐慌の究極的原因=生産と消費の矛盾

 マルクスは恐慌発生の根源について次のように指摘している。「他方、労働者の消費能力は、一方では労賃の諸法則によって制限されており、また一方では、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されるかぎりでしか充用されないということによって制限されている。すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであって、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするのである。」(資本論 第三〇章貨幣資本と現実資本T)
 資本主義的生産はより大きな剰余価値の創造を目指して、労働者の消費を限られた限界に押しとどめ、いかなる制限も乗り越えて生産諸力を発展させようとする衝動に駆られている。ここに過剰生産と恐慌発生の根源があるのであって決して金融政策の誤りやバブルの発生などに解消出来るものではない。

 B 過剰生産の深奥の動因=コンピューターによる労働手段の革命的変革

 @労働手段とは何か

 マルクスによれば封建時代までの道具による生産から資本主義への転化した根源を機械(労働手段)の登場に置いている。「労働手段とは、労働者によって彼と労働対象のあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの伝導体として彼のために役立つ物またはいろいろの物の複合体である。」(資本論 第五章労働過程と価値増殖過程)「なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は人間の労働力の発達の測度器であるだけでなく、労働がそのなかで行われる社会的諸関係の表示器でもある。」(同前)「……機構のこの両部分(原動機と伝導機構)は、ただ道具機に運動を伝えるためにあるだけで、これによって道具機は労働対象をつかまえて目的に応じてそれを変化させるのである。機械のこの部分、道具機こそは、産業革命が十八世紀にそこから出発するものである。」(同前)「つまり、道具機というのは、適当な運動が伝えられると、以前に労働者が類似の道具で行なっていたのと同じ作業を自分の道具で行なう一つの機構なのである。その原動力が人間から出てくるか、それともそれ自身また一つの機械から出てくるかは、少しも事柄の本質を変えるものではない。本来の道具が人間から一つの機構に移されてから、次に単なる道具に代わって機械が現れるのである。」(同前)として道具と本質的に異なる機械の特質を明らかにした。そしてまたマルクスは動力自体の発展に着目しつつも「それ(蒸気機関)は、どんな産業革命をも呼び起こさなかった。むしろ反対に、道具機の創造こそ蒸気機関の革命を必然的にしたのである。」(同前)として道具機=機械こそが時代を隔絶する爆発的資本主義的生産の根底にあることを解明した。

 A恐慌と今日における機械から質的に飛躍した労働手段の登場

 機械の革命的生産能力は、道具機が一つの機構に包摂さることにその核心があることを見たが機械はその制御の面において大量の人間労働を機械に付属させる苦役を強いる問題を新たに生み出した。しかし絶え間ない資本の増殖過程は科学技術の生産へ飛躍的応用を発展させ機械生産に欠如していた制御の機能(人間の知的労働・精神労働)を担うコンピューター自動制御と機械の統合であるオートメーション生産体系を新たに生み出し今や生産財生産部門の主流となった。例えば「ロボットがロボットを生産する究極の自動化工場」を実現したNC(数値制御)装置製造のトップメーカーであるファナックは、ロボットを大量に導入したほぼ無人の工場で、昼夜を問わず操業を行い、七二〇時間連続稼働を行っている。(日経二〇一二年二月十二日号参照)
 新たな労働手段(コンピューター)の圧倒的な発展は、その生産性と生産能力が飛躍的に増大する一方、これまで機械による生産に欠如していた人間による制御労働を不要とするのであるから資本による大量の労働力の削減や複雑・専門的な労働から単純労働への置き換えが可能となった。このことが世界的な「雇用の過剰」=失業者の増加と実質賃金の大幅な低下による労働者の消費能力の急激な減退をひき起こしている大きな要因の一つとなっている。そして今、問題となってきた恐慌発生の大きな要因と深く結びついているのである。「この生産様式(資本主義)にとっては、労働力を一日に一二時間から一五時間も働かせることがもはや必要でなくなれば、早くも労働力は過剰となる。労働者の絶対数を減らすような、すなわち、国民全体にとってその総生産をよりわずかな時間部分で行なうことを実際に可能にするような、生産力の発展は、革命をひき起こすであろう。なぜならば、それは人口の多数を無用にしてしまうだろうからである。この点にもまた、資本主義的生産の独自の制限が現れており、また、資本主義的生産がけっして生産力の発展や富の生産のための絶対的な形態ではなく、むしろある点までくればこの発展と衝突するようになるということが現れている。部分的にはこの衝突は周期的な恐慌に現れるが、このような恐慌が起きるのは、労働者人口のあれこれの部分がこれまでどおりの就業様式では過剰となるということからである。資本主義的生産の限界は労働者の過剰時間である。社会のものになる絶対的な過剰時間は資本主義的生産にはなんの関係もない。資本主義的生産にとって生産力の発展が重要なのは、ただ、それが労働者階級の剰余労働時間をふやすかぎりのことであって、それが物質的生産のための労働時間一般を減らすからではないのである。」(資本論 第一五章この法則の内的な諸矛盾の展開)  (つづく)


映 評

   「 汽車はふたたび故郷へ 」


         監督・脚本    オタール・イオセリアーニ
         主演 ニコ(ニコラス)   …… ダト・タリエラシュビリ(イオセリアーニ監督の孫)


 監督のイオセリアーニは、一九三四年、旧ソ連グルジア共和国のトビリシ生まれで、「落葉」(66)、「月曜日に乾杯!」(02)など詩情豊かな作品を多く作り出している。グルジア共和国では一九一〇年代から映画製作がさかんでイオセリアーニ監督を含めてグルジア派と呼ばれた人びとが優れた作品を発表している。「ピロスマニ」シェンゲラーヤ(69)、「懺悔」アブラゼ(89)等々。ただソ連という社会主義体制のもとで映画製作には検閲が常に付きまといつくられた作品の部分的な削除などは日常茶飯事にあり、作家自身が当局の摘発を恐れて自主規制をしてしまったり、比喩、暗示的な表現を織り交ぜざるを得なかったケースが多かった。イオセリアーニ自身、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したブレジネフ政権末期の七九年に活動の舞台をフランスに移し、西側社会で活躍することとなった。

 本作品は少年ニコが成長して映画監督になり、苦労の末に作品を世に出すのだが検閲のためフィルムはズタズタに切り刻まれ、たびたび上映禁止の措置にあい、そういった状況に嫌気がさしフランスへ旅立つ。こう書くとイオセリアーニ監督自身の自伝的作品のように思えるが、ことはそれほど単純ではない。作品のまわりに隠し味とも思えるスパイスがふんだんにまぶされているのだから。イオセリアーニはこう語る。「多数に対して服従するのではなく、自分のやりたいことをひたすらにやろうとする頑固者に名誉を与える映画を作りたかった」。イオセリアーニが尊敬するルネ・クレールや「惑星ソラリス」を撮ったタルコフスキーなどの映画の先達に対するすぐれたオマージュになっている。

 作品の中で気になりシーンをいくつかあげてみよう。
 ニコが少年のころ、学校帰りに友人たちと貨物列車に乗り、古い教会の中に入り、イコン(聖画)を盗み出す。幼いころ、この程度のいたずらは誰でもしていたのではないかと、妙に懐かしく思えてくるいいシーンがあった。成長してニコが映画監督になり検閲官のたちあいのもと作品の試写を開始するが、ある部分のカットを指示される。別の検閲官は少年時代一緒にイコンを盗み出した幼なじみだったのだ。その後、ニコは検閲を逃れるためにフィルムをかくしてしまう。映画作りの不自由さに耐えかねてニコはフランスへ旅立つ。自由に表現できる場所を求めて。しかしニコを待っていたのはまた別の制約だった。商業主義という名の制作資金を工面してもらってようやくつくった作品の編集段階で出資者はこんなシーンはいらないと露骨に介入して、自分の思うように編集をしてしまう。そして、試写会を開くのだが、上映が終らないうちに観客はほとんどいなくなってしまう。作品のできがよくなかったのだ。
 再び失意に陥ったニコは汽車に乗る。行く先は故郷のグルジアかはたまた別の地か。もっとも映画のなかで作品作りの不自由さについてはすごく単純化されて描かれているが、実際にはもっともっと複雑なプロセスを経るものなのだろう。この作品を観て私は一九七三年に製作されたある映画のことを思い出した。フランンソワ・トリュフォーの「映画に愛をこめて アメリカの夜」だ。映画製作の舞台裏を愛情をこめて描き出した大変優れた作品だが、ちなみに「アメリカの夜」とは撮影技術・現像技術で昼間の風景を夕暮れ、あるいは夜景に変えてしまう方法のことで、映画が集うスタッフ・キャストの総力で作られていく過程を見事に描いていた。逆に、「汽車はふたたび故郷へ」は製作段階で外部の人間があまりにも意見を言い、介入しすぎると無残な作品になってしまうことを見せてくれると言えるだろう。

 おもしろいことに「汽車はふたたび故郷へ」は題名とは裏腹に列車に乗るシーンはほとんどでてこない。もともとこの作品の原題は「Chantrapas シャントラパ」で、歌えない人、社会の枠組みの中でうまく生きていけない人の意味も持つそうで、題名として原題がいいのか「汽車は…」の方がいいのか議論はわかれるところだ。

 この作品の評価はたいへんむつかしい。イオセリアーニの意図を映画の中からどの程度深く読み込むかによって評価は変わってしまうからだ。伝書鳩に手紙をつけて飛びたたせるシーンがある。自身の届かぬ思いを鳩に託して解き放つのだろうか。このある意味で原始的な伝達方法が本当はもっとも着実に相手に届いていくのだということをイオセリアーニは逆説的に表現したのだと私は思う。どんな条件のもとでも弾圧されても無視され疎外されても人間は生きていけるのだということを意識の奥底で監督は表現しているのだろうか。  (東幸成)


KODAMA

原発事故と損害保険

 甚大な被害をもたらしている福島第一原発事故に関して、東電の損害賠償は保険によっても補償されるのではないか、という声を耳にします。極めて良心的な疑問です。しかしそれは、今回のような事故を補償する「保険」が存在し、東電が保険料を払って加入していればこそ成り立つ話です。
 さて、日本の原子力保険はどうなっているのかの話です。一般に、保険契約の申し込みがあった場合、損害保険会社は自社で引き受けるのが原則ですが、原子力に係る損害は非常に巨大なものになり得るので、「再保険プール」で引き受けています。「再保険プール」というのは、地震リスクのように保険会社一社では引受できない大きなリスクを引き受ける為に決められたシェアに応じて保険料や支払保険金を配分しあう保険会社の共同体です。
 「再保険プール」にある保険は独禁法の適用除外になっており、どこの保険会社と契約しても保険料は同じで、いわば自賠責保険と同じようなものです。しかし、原子力のリスクは非常に大きいので、国内の保険会社が束になってもリスクを分散することはできません。そこで、日本の原子力保険プールは、世界中の原子力保険プールや再保険会社と契約してリスクの分散を図っています。
 ところで、最初の疑問の回答に近づくのですが、原子力保険の約款では、戦争や地震・噴火・津波による損害は対象外となっています。もともと国は地震・噴火・津波も対象として欲しかったのですが、世界中の保険会社誰一人として手を挙げなかった訳です。原発の安全神話は国内でこそ通用していた話で、地震の巣の上に立地する日本の原発の危険性は世界中の保険会社にはあまねく認識されていたのです。
 日本の原発の地震・噴火・津波による損害をカバーする保険は存在しないことから、福島第一原発事故の損害賠償は保険では一切補償されません。
 ところで『原子力損害賠償補償契約に関する法律』があります。これによると、原子力事業者は国と原子力損害賠償補償契約を結び、補償料を支払えば、地震による損害でも最高一二〇〇億円まで補償されることとなっています。が、東電が契約していたかどうかは定かではありませんし、契約して補償料を払っていたとしても、まったく焼け石に水であり、負担は国民に押し付られることに変わりありません。  (O)

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悔い改めることなき原子力村

 震災・津波そして原発事故が起こって、日本は惨憺たる「敗戦」時のごとき様相を示している。論壇でも今回の事態とりわけ原発事故に関連して新たな戦後論が見られた。しかし、原発推進派の動きを見ていると、状況はちょっと違って見えてくる。支配層はまったく以前と同じ道を歩もうとしている。被害の大きさから言えば、これからその被害の凄まじさがだんだんとわかってくるという不気味なものがあるのだが、彼らにとってはまだまだ敗戦とはいえない。原子力村は、依然として全面復活を狙っている。福島事故でさえ、たいしたことがないような調子でいる。野田の原発事故収束宣言、警戒区域の解除などすでに災害は過去のことだとでも言おうとしているかのようだ。歴史を振り返れば、ミッドウエー敗戦、ガダルカナル撤退、あるいはサイパン島陥落ということになればすでに敗戦は必至であり、これまでの政策を根本的に変えなければ破滅に向かうことは明白となったはずだが、あと一撃でよい条件で講和をかち取ろうとする天皇、これまでの責任を取らされることを恐れる指導者たち、民衆を戦争熱で煽りに煽ってきた言論界、マスコミなどは道を変えるわけには行かなかった。当然、戦争・侵略に利益を得る軍部と産業界、愛国商売人などは言うまでもないことで、最後の最後まで、まったく反省することはなかった。
 先の戦争に例えるなら、まだ敗戦というわけにはいかない。だれもが漠然とした不安を持ちながら「本土決戦」の呼号が渦巻いていた時期と似ている。かれら原子力村がやろうとしていることは、それこそ「一億玉砕」ということである。そのような破局をもたらそうとしているのが支配階級の常ではある。
 だが、かつてとの違いは、そうした破滅の道に断固として抗する運動が発展してきていることだ。だが、むこうも必死である。ここでからが力のせめぎあいだ。 (H)


 せ ん り ゅ う

  原発は第二のリンゴ罪の道

  人災と云えぬ政治にヒモがあり

  米軍は日本の税を横取りし

  天皇の国を謳えと処罰され

  豊饒な集う家族の笑い声

                  ヽ 史