人民新報 ・ 第1291号<統合384号(2012年7月15日)
  
                  目次

● 野田内閣の危険な政策を阻止し、原発のない、近隣諸国と友好的な日本を!

● 150回目の東京総行動  みんなの力で争議を解決

● 郵政産業労働者ユニオン結成!

● 豊田正義さんを偲ぶ会に参加して

● 野田政権の「尖閣国有化」論について

● 九条の会の発足8周年記念学習会 「9条をめぐる動きは、いま」

● 23回目の沖縄ピースサイクル  心の27度線への架け橋に

● 映 評 / 「道―白磁の人―」

● せ ん り ゅ う

● 複眼単眼 / 槙村浩の長編詩「間島パルチザンの歌」に思いを馳せ

● 夏季カンパの訴え  労働者社会主義同盟中央委員会






野田内閣の危険な政策を阻止し

    原発のない、近隣諸国と友好的な日本を!


広がる脱原発の声

 脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める署名(さようなら一〇〇〇万人署名)は、現在八〇〇万筆に達しようとしている。
 また首相官邸前で再稼動反対、脱原発をめざす行動には毎回多くの人びとが参加している。このような情景は、マスコミでも無視することができなくなり、報道するメディアも増えてきている。
 六月一二日には、さようなら原発一〇〇〇万人署名の一部を衆議院議長に提出し、衆議院第一議員会館で報告集会を行った。六月一五日には、呼びかけ人の内橋克人さん、大江健三郎さん、鎌田慧さん、澤地久枝さんが首相官邸を訪れ、署名を藤村修官房長官に手渡し、野田佳彦首相宛てに提出した。
 毎週金曜日夕刻の首相官邸前行動は常に数万人が集まり、再稼動をやめろ!のシュプレヒコールを繰り返した。今後は、金曜日以外にも行動が取り組まれ、市民や労働組合などさまざまな人びとの反対の声が広がっていくだろう。
 原発事故にたいする怒りも時がたてば風化するだろうという支配層の思惑は外れた。原子力ムラのはりめぐらせた煙幕が否定しがたい事実によって薄れるにつれて、これまで原子力安全神話に惑わされた人も含めて原発事故被害の深刻さを誰もが理解してきている。原発依存社会の拒否、脱却を求める声は着実に広がっている。
 こうした人びとの思いをひとつにして、七月一六日の代々木一〇万人集会を成功させ、そして首相官邸、国会、経済産業省・原子力安全保安院、東電、関電をはじめ電力会社への波状的な抗議など多様な行動を繰り返し盛り上げていこう。今こそ、国論を動かし、原発推進を国是とする政府の政策を脱原発へ抜本的に転換させる政治対決に勝利しなければならない。

集団的自衛権許すな

 野田内閣の暴走は原発再稼動だけではない。軍事面でも矢継ぎ早に自民党政府でさえ強行しようとしてこなかった危険な政策を出そうとしている。追い詰められた自らの政治生命の延命のために、野田はアメリカと財界の要求することをすべて御用聞きよろしく実行することによって乗り切れると思い込んでいる。
 この間の動きを見ても、沖縄へのオスプレイ配備、「駆けつけ警護」を可能にするPKO協力法改正案を今国会に提出するなどとしている。
 そしてこれまで政府解釈でも行使を禁じてきた集団的自衛権について政府内での議論を詰めていくなど憲法解釈の見直しを検討する意向を表明した。
 七月六日、政府の国家戦略会議のフロンティア分科会が野田首相に提出した報告書は集団的自衛権の行使容認を提言している。報告書は二〇五〇年の日本のあるべき姿を展望しているが、その「平和のフロンティア部会」の報告では、「同盟国アメリカや価値観を共有する諸国との協力を深めるため、集団的自衛権の行使を含めた国際的な安全保障協力手段の拡充を実現」することをめざし、集団的自衛権に関しては「解釈など旧来の制度・慣行の見直しを通じて協力手段の拡充を図るべきだ」としている。
 野田首相はかねてからの集団的自衛権の行使論者であり、この報告を受けて「考え方を日本再生戦略の中に存分に反映させたい。社会全体で国づくりに向けた議論を喚起することにつながることを期待したい」と述べている。この提言を使って自らの自論を実現しようというのだ。報告書の提言は政府が近くまとめるとする日本再生戦略に盛り込まれ、憲法解釈の重大な変更が行われる可能性が大きくなっている。
 こうした集団的自衛権行使論の公然化は、イラク・アフガニスタンなどの戦争で敗北したアメリカのアジア回帰路線に従うものである。アメリカの政策は、アジア諸国の矛盾・対立をあおりたて、漁夫の利を狙うという帝国主義の伝統的なやりかたの再現である。日本はその尖兵として使われようとしている。
 野田政権の政策は中国をはじめ「仮想敵国」となる近隣諸国との緊張の激化をもたらし、日本も含めてアジア諸国と民衆の利益に反するものである。戦争のための憲法解釈の変更ではなく、憲法の平和主義と非武装の原則を再確認し、問題の平和的解決こそが求められている。野田政権の集団的自衛権行使の容認を断固として阻止しなければならない。


150回目の東京総行動

   みんなの力で争議を解決

 六月二〇日、けんり春闘全国実行委員会による全一日の東京総行動が闘い抜かれた。「世界の恥さらし日本政府と企業」「加害企業・国家は命と健康を返せ」「働かせ方の差別がうんだ格差社会」「取り戻せ!教育・福祉の公共労働」「解雇権は濫用、辞める自由もなし」「要求・対案を運動として形で示す」をスローガンにしたこの総行動は、一五〇回目という記念のすべきものでもあった。
 一九七二年に当時の総評と東京地評によってはじまった東京総行動は、よってたかって仲間を守る精神でさまざまな争議の解決に大きな役割を果たしてきた。

 総務省前の集会を出発点にした行動は、つづいて二手に分かれて新日鉄、NTTなどの企業、親会社などに抗議・要請の行動を展開した。
 昼には厚生労働省前で、「カルテがないC型肝炎訴訟」の原告団・サポートする会を中心にした集会で「疑わしきは救済せよ!国と製薬会社は薬害肝炎の責任を取れ!」とシュプレヒコールをあげた。
 ふたたび二手に分かれての行動で、日本郵政、都庁、ヤンマーなどにむけての行動を展開した。
 最後に、トヨタ東京本社前で再度合流しフィリピントヨタ労組(TMPCWA)の解雇者たちの職場復帰にむけての支援集会を行った。


郵政産業労働者ユニオン結成!

 七月一日、東京・日本青年館において郵政産業労働者ユニオンの結成大会が行われた。今回統一した全労協加盟の郵政労働者ユニオンと全労連加盟の郵政産業労働組合は六月二九日、三〇日の両日、それぞれ全国大会を開催し、「組織統合」を大会決定してきた。

 大会では、はじめに廣岡元穂結成大会委員長が報告。両労組の二〇〇四年から開始された共同の取り組みと計二五回にわたる統一協議を振り返りつつ、「今回の組織統一そして郵政産業労働者ユニオンの結成は、郵政職場の労働条件が大きく変化するもとで、従来の発想を転換し幅広い労働者に対して求心力を持つ組織建設であり、この運動に責任を持つ私たち一人ひとりの歴史的任務である」と新組合結成の意義を述べた。
 来賓あいさつではそれぞれの労組が所属する上部団体である全労連から大黒作治議長が、全労協からは金澤壽議長が激励と連帯のあいさつを行なった。
 メッセージの紹介に続いて、須藤和広ユニオン書記長が「統一に至る経過」を報告した。 
 大会議案は日巻直映郵産労書記長が提案した。
 議案に対する質疑・討論では八人の大会代議員が発言した。各地本の経過報告、各地の取り組みの紹介、そして新組合結成に向けての決意を表明する発言が相次いだ。

 大会議案、結成宣言(別掲)、スローガンがそれぞれ賛成多数で採択された。
 大会役員選挙を経て、委員長に廣岡元穂(東京)、副委員長に松岡幹雄(大阪)、今井春繁(東京)、書記長に須藤和広(東京)、書記次長に日巻直映の人びとをはじめとして新執行部が選出された。大会終了後、午後からは多くの来賓が出席して結成レセプションが盛大に行われた。

 郵政産業労働者ユニオンの結成は今日の厳しい情勢の中でこのことに対抗しきれていない日本労働組合運動に新しい息吹をもたらすものである。一時の挫折はあったものの、労組レベルでは初めてナショナルセンターの違いを乗り越え、統一したこと、新組合は非正規の組合員がその組織数の半数も存在する「混合組合」であること、企業内に日本最大の労組のひとつであるJP労組がある中で統一した力を持って運動だけではなく、組織的にもそれに果敢に挑もうとしていることは、新しい息吹そのものである。
 かつてユニオンと郵産労の統合に対して、郵政グループ内に「激震が走った」と云われたが、郵政のみならず、日本労働運動発展の起爆剤になることが期待される。

郵政産業労働者ユニオン結成宣言

 二〇〇七年一〇月一日、郵政民営化を小泉構造改革の本丸として位置づけ、「官から民へ」の象徴として推し進めてきた影響は、国民生活になくてならない郵便・貯金・保険の三事業をバラバラにし、「国民の経済生活の安定と福祉の増進」を実現する事業から、利益を追求する事業へ変質させサービス低下と分社化による弊害を生み出した。
 郵政民営・分社化の見直しを求める声と私たちの運動は、郵便局ネットワーク維持、金融のユニバーサルサービスを提供する点において不十分さはあるものの、分社化の弊害を解消させるため、郵便局会社と郵便事業会社を統合させ、四社体制への再編させる状況をつくりだした。
 いま、日本郵政グループには二〇万人を超える非正規社員が働き、国民生活にとってなくてはならない仕事を行なっている。その労働実態は、年収二〇〇万円にも満たない低賃金、人間を人間として扱わない雇用形態、郵便事業会社の赤字を口実とした、六五歳定年制の実施や雇い止めなど、多くの非正規社員が職場を奪われた。
 こうした職場状況のもとJP労組は、日本郵政に対し赤字問題についての経営責任追及を放棄し、郵政民営化見直しでは株式の早期売却を求め、多くの非正規社員が望んでいる正社員登用では「経営感覚がない」と実質的に反対する立場を表明、郵政関連労働者の要求や苦しみに背を向け労使一体化路線を突き進んでいる。
 経営の側に立ち労働者に痛みを押し付けてたたかいを放棄するのか、雇用を守り賃下げ攻撃に真っ向から対決し、郵政関連労働者の生活改善、正社員化の流れをさらに進める運動を展開していくのか、労働組合の真価が問われている。

私たちがめざす労働組合は
 第一に、郵政関連で働くすべての労働者の労働条件改善と経済的・社会的地位向上をめざし、労働者の解放のためにたたかう労働組合である。
 第二に、郵政事業の公共性の維持発展をめざし、国民・利用者とともにたたかう労働組合である。
 第三に、資本からの独立、政党からの独立を原則に、協力・共同の発展と労働戦線の階級的統一をめざす労働組合である。
 第四に、労働者の団結と国際連帯を強め、労働者の諸権利を維持・発展させ、世界平和のために奮闘する労働組合である。
 第五に、世界に誇る日本国憲法で明記された主権在民、基本的人権の尊重、平和主義の憲法三原則を生かし、発展させる労働組合である。
 私たち郵政産業労働者ユニオンの結成は、全労連、全労協というナショナルセンターの違いや、正規・非正規の分断をのりこえ、郵政関連労働者の新たな団結と運動を創造的に前進させ、日本の労働戦線の壮大な統一への方向性を示す役割も果たすことになり、新しい労働組合運動の方向性も確かなものとなる。
 郵政産業労働者ユニオンの結成は、ゴールでなくスタートである。個人としての多用な価値観や考え方、それぞれの組織が築いてきた運動を尊重し、新たな協力を広げ運動の前進をめざす。
 私たちは、一人ひとりの祖合員の意志を尊重し、要求にもとづく団結を大切にし、郵政ではたらくすべての労働者の期待に応える労働組合をつくっていく。

 以上、私たちの宣言とする

2012年7月1日

 郵政産業労働者ユニオン


豊田正義さんを偲ぶ会に参加して

 梅雨のはじまりの小雨の降る六月一六日の夕方、大阪・高槻市民会館で「豊田正義さんを偲ぶ会」が参加者一二〇名で開かれました。
 豊田正義さんは労災職業病問題に長く取り組んでこられ、今年の二月に八三歳で亡くなられた。生涯一活動家として闘ってこられた。
 会は冒頭に黙祷をおこないました。三池CO闘争を知る人で、豊田さんを知らない人はいないでしょう。偲ぶ会には、豊田さんのご家族と三池から三名の労働者と夫人が参加された。三池からの参加者からは次のような言葉がありました―先般、水俣病と有機水銀中毒に関して患者の立場からの徹底した診断と研究を行ってきた原田正純さんを亡くし、また今回、豊田さんが亡くなり、二つの大きな革命の基を失ってしまった。本当に悲しい。
 本当にその通りで、今も豊田さんが「諸君!」と片手を振り上げてこの会にも参加されているのではないかと感じられるほどその死は信じられないものでした。
 献杯の後は会食となり、会を主催した北摂労災職業病対策会議と現代医療を考える会のみならず、大阪、京都、兵庫の労働組合の活動家や組合役員、地域ユニオンの幹部の人たちが参加して、豊田さんの活動とその人柄を語り合いました。
 思い出のビデオ上映では豊田さんの姿が映し出され、その声が会場に響き渡り、シャンソンも歌われました。
 豊田先生(先生と呼ばせてもらいますが)の思い出は、三〇年近くも前になりますが、三池に連れて行ってもらって、本物の階級的な労働運動がどういうものかを見せてもらったこと、そしてまた労災職業病闘争を労働運動強化のテコにせよと言われたことです。さらに労働者階級を信頼せよといつも口をすっぱくするほど力説されていたことです。
 豊田さんを亡くしたことはさびしいが、今も残るその熱い階級連帯の思想と力強い歌声はこれからもずっと私たちのハートに響き続けるだろうと思います。 (大阪読者より)


野田政権の「尖閣国有化」論について

 野田内閣は、危険な政治方向を次々に打ち出しているが、外交面でもかつてない緊張を自ら作り出そうとしている。
 右翼政治家・石原慎太郎都知事は、極端な排外主義の言動で日本の右翼ナショナリズムを煽ることをその政治的な資本のひとつとしてきた。石原の「尖閣諸島」問題での行動は、日本国内における右翼的軍国主義的潮流を強めるとともに、同時に中国、台湾のナショナリズムを刺激し厳しい対日姿勢を引き出した。
 そして、もともと石原と同じような政治信条を持つ野田は、孤立する自らの政権の支持率を回復するために対外緊張を利用しようとして、それらの島々の「国有化」を言い出した。
 日中国交正常化四〇周年の今年、二〇一〇年九月の中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件を大きく上回る緊張関係が東アジアに発生しようとしている。中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件での日本政府、とりわけ前原誠司らなどの対応は、「国内法に従って粛々と」ことを処理すること、そして「実効支配」を強調することであった。ここで、日本政府は、日中国交正常化の時いらいの平和的政治的解決の道を自ら閉ざす方向に一歩踏み出したのだ。
 日中共同声明」では、「日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」となっていたが、今回の事態を契機に両国ともに、それから逸脱する危険性が大きくなってきている。
 日本政府の一部には、今年秋には中国共産党大会を控えており、中国は強硬な態度を取れないだろうから今のうちに実効支配を強め、島々への住民の居住、さまざまな施設の建設などを行うことが必要だと考えている向きあるが、危険な政治的な火遊びである。
 日本の近隣諸国との外交関係は、歴史的な経験から言って、各国の大衆受けするナショナリズムの暴走とそれらを背景にした軍事力の行使という相互自滅的な対抗関係であってはならない。日中関係はこの四〇年来着実に経済関係を深め、日本の生きてゆく道はアジアとの関係強化以外にない。まさに、共存、共栄こそが必要なのである。
 すでに両国は戦略的互恵関係の構築で、「双方は、政治及び安全保障分野における相互信頼を増進することが日中『戦略的互恵関係』構築に対し重要な意義を有することを確認する」としている。
 憲法九条を生かした日本の自主的な平和外交だけが日本にもアジア諸国にとっても平和と繁栄の道になるのである。


九条の会の発足8周年記念学習会

        
 「9条をめぐる動きは、いま」

 九条の会の発足八周年を記念して、六月九日、韓国YMCA地下ホールで「学習会 9条をめぐる動きは、いま」が開かれ、二五〇人が参加した。

 はじめに「9条をめぐる解釈改憲と明文改憲の今―『専守防衛』論と国会審議の重要性と題して、浦田一郎明治大学教授が講演。
 憲法についてはさまざまな解釈が行われているが、いまの政府の憲法解釈の基本は自衛力ということで、それは]「自衛のための必要最小限度の実力」とされている。実力とは、経済援助、米軍への基地提供などだが後方支援も九条には抵触しないとされている。自衛のためとは、個別的自衛権への限定で集団的自衛権などは排除されている。必要最小限度とは、海外派兵の禁止、交戦権の否認、攻撃的武器保有の禁止などがある。そして非核三原則、武器輸出三原則などがあり、かつては防衛費のGNP一%枠があった。こうして、「実力」には九条の法的拘束があり、憲法学会では非武装平和という論が多数だ。そして平和を求める市民運動などがある。
 だが、そうした構造が変えられようとしている。
 政府は、安保条約を前提にしての専守防衛だという。アメリカの核戦略への依存であり、こうした日米の防衛構想を総体として見ればきわめて攻撃的なものになっている。改憲論者が狙っているのは集団的自衛権行使の解禁だ。しかしこれは専守防衛とは相容れないものだ。国会では衆参の憲法審査会が動き出し、明文改憲への準備がはじまった。改憲論にも、全面改正と部分改正の違いがある。自民党の「日本国憲法改正草案」では、表題が「戦争放棄」から「安全保障」に変わり、戦争放棄の規定を残しながら、次に「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」とする。そして「国防軍」を持つとする。また軍事機密の保護とか軍事「審判所」をおくなどとしている。
 集団的自衛権の行使と専守防衛には矛盾があり、いま大事なことはこの矛盾を突くことだ。

 つづいて、明田川融法政大学講師が、「日米同盟と沖縄―いろいろな安保・防衛構想との連関で」と題して講演した。
 第二次大戦では、日本の軍部など支配層にとって沖縄は本土防衛ための時間稼ぎとしての役割だった。そうした沖縄への考えいまも変わっていない。
 憲法の制定過程で沖縄は、日米支配層によってさまざまに位置づけられてきた。当初、マッカーサーは日本の再軍備に消極的で、日本防衛のためには原爆と米占領軍で十分と考えていた。日本占領当初マッカーサーは「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」としていた。だが冷戦が激しくなるにつれて、それが変わってくる。一九四八年三月には、「もしわれわれが外部攻撃から日本の領土を防衛しようと思うのであれば、陸軍や海軍よりも、第一に空軍を頼みとしなければならない。沖縄に十分な空軍力を常駐させておけば日本を外部攻撃から守ることができる。…沖縄には強力かつ効果的な空軍作戦を展開するのに十分な面積があり、その空軍作戦によって、ウラジオストックからシンガポールにいたるアジア沿岸の敵軍隊や港湾施設の破壊が確実になる。それゆえ、沖縄を適切に開発し、沖縄に軍隊を駐屯させることで、われわれは軍隊を維持する必要なしに、外部侵略に対して日本の安全を確保することができる」と。これが沖縄についての米軍の考えだ。
 昭和天皇は四七年五月に、御用掛を通じて「米国が沖縄、その他の琉球諸島に対する軍事占領を継続する」ことを希望していることをアメリカに伝えている。沖縄を反共防波堤の最前線に提供した。こうして日本とアメリカの関係ができ、講和から今日まで続いている。しかし、そうでない構想もあったことを紹介しておきたい。日本政府の講和原案公表直後、外務省が考案した安全保障構想では次のようになっていた。「日本が永久平和の国是を確立すべき趣旨に関する規定を置くこと予想がせらる」ため、「戦争放棄―日本のみならず少くなくとも平和条約調印国は人類永遠の平和のため日本同様国家の政策の手段としての戦争を放棄する旨の規定を国内法中に置くことの望ましきことを強く主張すべきこと」「永世中立国化の提唱及安全保障機構―日本の国際法上の永世中立国化を提議するとともに同時に極東委員会構成員たる各国に依る集団的安全保樟機構(世界の何れかの国に依る日本侵略は締約国全部に対する侵犯として直に共同に日本を防護すべきことを約する規定の如し)の設定方を計ること」などだ。こうしたものもあったのである。
 沖縄県民が七二年の本土復帰の際に求めたのは、日本国憲法の下への復帰ということだった。しかし沖縄には、多くの米軍基地が残ったまま今日にいたり、問題が解決されていない。そして、いまも基地被害が続いている。
 いま日本とアメリカとの間で進められている日本の動的防衛力構想は、アメリカの対中封じ込めの中にある。そのJASB(統合エアシー・バトル)戦略は、アメリカのみでなく、日本、オーストラリア、その他の同盟国は、重要かつ実効性のある役割を担わなければならないとされている。アメリカが西太平洋地域での戦力展開を行うには日本の積極的な支援に依存するとされ、日本の北部および東部地方は戦略的な縦深を提供するし、琉球弧の島々は特に対僣戦闘行動において優位性を提供することになる。日本の自衛隊は、潜水艦および哨戒機をもちいた対潜戦闘行動、海上での諜報・監視・偵察、海上での攻撃、弾道ミサイル防衛を含む、選択された作戦区域において米軍を補強しうる相当規模の空海兵力を有する。だが、沖縄(嘉手納)や三沢の空軍基地、佐世保の海軍基地といった米国の主要な作戦基地・施設は、みな中国のミサイルと空爆によって容易に攻撃される圏内にある。西日本にある多くの自衛隊基地も同様である。
 こうしたものが、日米同盟であり、その中での、沖縄の基地問題が考えられなくてはならない


23回目の沖縄ピースサイクル

    
心の27度線への架け橋に

 二三回を数える沖縄ピースサイクルは、台風一過で梅雨明け宣言した二二日から始まった。
 各地から那覇空港に降り立った参加者は早速、最初の目的地である、国頭村と東村高江の広大な敷地を占める米海兵隊北部訓練場へと向かった。予定地六ヶ所が集中する高江では、従来のものより数十メートルも拡げた明らかにオスプレイ用のヘリパット(オスプレイ離発着訓練場)建設に反対して、二四時間体制での座り込みがスラップ訴訟をハネ返しながら続けられている。「配備には反対だが建設は容認する」という県の矛盾とも闘いながら、この夏で五年が経つ。七月からの工事再開を阻止してオスプレイの配備を止める、と力強く言う現地スタッフと固い握手を交わした。
 続く辺野古の新基地建設阻止の座り込みは、この日で二、九八七日になった。慰霊の日前後はさすがに訪問者が多い。辺野古ヘリ基地反対協議会の安次富浩さんからは、「辺野古を断念させ三〇〇〇日でこの座り込みを終了したいものだ」とのお話しを伺い、浜辺へ向かう。参加者が用意した英語で書かれた抗議のバナーを米軍基地フェンスに括り付けてこの日の行動を終え、那覇に向かった。

 二三日は慰霊の日、朝から快晴だ。自転車三台と伴走車を走らせ、魂魄の塔の前に到着する。『オキナワと言うだけで、こみあげてくるもの』で始まる芝憲子さんの「沖縄はいま」の詩の朗読と、「骨のカチャーシィー」の悲痛な歌声が、第二九回国際反戦沖縄集会の会場に響き渡る。オスプレイ普天間基地配備を手土産に、この日ヤマトからやって来た脳天気で破廉恥な野田首相に対する怒りの発言が止むことは無い。三時間の集会は予定をオーバーして終了した。那覇に戻り、恒例の交流会に臨む。ここに別行動だった東京ピースのメンバーも合流した。

 二四日は読谷にて、地元スタッフとともにチビチリ・シムクガマと歌碑めぐり。嘉手納基地はこの日が日曜なので静かなものだった。一旦、那覇空港でこの日に帰途につくメンバーと別れ、名護へ向かった。ここでも恒例の交流会。現状と闘いの方針、琉球の向かう方向などで熱い論議が遅くまで続いた。

 二五日は早朝から辺野古の海上視察。台風で陸揚げされていた船を下し、沖の長島・平島へ向うも、いきなりのエンジントラブルで長島に取り残されてしまった。そのおかげで、ゆっくりと辺野古・シュワーブを海から高い位置で見渡すことができた。ようやくレスキューに曳航してもらい、港に帰ってからは時間がおしていたので、昼食を兼ねて嘉手納の道の駅から基地を視察。F16が来ているはずなのだが見えない。F15やP3Cの離着陸が繰り返される。すさまじい轟音だ。海軍の旅客機と見られる機体が発する音と軍用機のそれは、全然違う。

 今年の締めは、普天間基地の大山ゲート前で闘われている座り込みへの参加だ。国道そばの緑地(米軍が「友好園」と名付けた)に張られたテントに、多くの人々が座り込んでいる。米軍はここに置いていた簡易トイレを勝手に持ち去ったという。元の位置にトイレを返せ!という新たな要求も付け加わった。運動はユーモアを発揮する。テントの上にはその要求とともにトイレットペーパーが吊り下げられていた。時間もせまり再会を約束して全行動を終えた。

 沖縄は今年五月に復帰四〇年を迎えたが、今も植民地的犠牲を強いる構図は何も変わっていない。変わらないヤマト民衆の意識を変えることこそが解決に繋がるのでは、と強く感じる今夏の沖縄ピースサイクルであった。
 原発再稼働、消費税増税、改憲策動、オスプレイ配備と結びつけて、今後のヤマトでのピースサイクルが続く。全力で奮闘しよう。  (Y)


映 評
 
   
 「道―白磁の人―」 

        2011 119分

  監督 高橋伴明
  原作 江宮隆之
  主演 浅川巧 … 吉沢悠
      イ・チョンリム … ペ・スビン


 まず正直に告白しておこう。「道―白磁の人―」を観るまで、私は浅川巧(一八九一〜一九三一 現山梨県北杜市出身)という人物、その業績についてまったく知識がなかったこと、この映評欄はあくまで映画を鑑賞して感じたことを記すものである。
一九一四年、日本による韓国併合(一九一〇・八)から四年後、浅川はソウル(当時は京城と呼ばせていた)にやってきた。林業技師として幾多の戦火のため緑がほとんどなくなってしまった朝鮮の山々に植樹をし、緑豊かな山並みにするために。多くの日本人が根拠のない優越意識を持ち。朝鮮の人々をさげすんでいた時代に、浅川は彼らとまったく対等に接し、すすんで彼らに融け込んでいった。相手側から最初は警戒心を持たれ、固く拒絶されることも多かったが、朝鮮の市井の人々が使用している生活用品―民芸品の中に素朴な美を発見し、その保存の必要性を感じ、一軒一軒民家を訪ね歩き、生活用品を収集していった。それは将来的に民族博物館のようなものを作りたいという願望のためであった。有名な作家が作ったものではなく、なにげない日常の生活の中にあるものにこそ本当の美があるという彼の信念の吐露でもあった。
しかし、職場の同僚のイ・チョンリムは抗日運動の罪を問われ投獄されてしまう。やがて最初の妻は病没してしまい、美術評論家の柳宗悦の紹介で、再婚することになるのだが、相手の女性はたいへん勝気で浅川の欠点をズバズバ言い当ててしまう。その会話というか、おたがいの空気感がたいへんおもしろい。娘は当初再婚に反対していたが徐々に理解しあうようになる。
浅川は朝鮮の風土に合った育苗方法を考え出し、緑化のめどがたとうとする時、過労のため帰らぬ人となってしまう。浅川の母は葬儀を日本で執り行いたいと希望するが、浅川の家の前には、地元の民衆が沢山集まり、「私たちに柩を担がせてください」と懇願する。私はこのシーンが一番好きだ。浅川がいかに民衆に受け入れていたかを如実にあらわす場面だからだ。朝鮮式の葬列、野辺の送りが開始されると、母親はいたたまれなくなり、列からはなれ一人にむせび泣く。そこに老女がかけより、「思いっきり泣きなさい」とやさしく声をかける。このシーンも大変いいシーンだ。残された妻と娘は浅川から託された白磁のかけらを手に取り、「これからはお父さんが私たちを守ってくれる」としみじみ語る。浅川の短い四〇年、朝鮮半島をめぐって様々な出来事があった。一九一〇年八月、日本は韓国を併合し朝鮮総統府を設置し、植民地政策を推し進めた。過酷な政策はやがて一九一九年三月一日朝鮮全土に渡って3・1運動と呼ばれる日本に対する抵抗運動が勃発した。このため日本政府は政策を変更せざるをえなくなった。また一九二三年九月一日関東大震災が発生し、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言飛語が流布され、多くの在日朝鮮人が虐殺されたというニュースは半島にも伝わった。そして浅川の死後一九四五年八月一五日に日本は敗北し、朝鮮半島は解放の歓喜に包まれた。弾圧する側にいた日本軍人は石もて追われる存在になってしまうのだった。
 「道―白磁の人」はたいへんよくできた映画で、多くの示唆に富んだ作品になっている。近現代の日本史、朝鮮史、東アジアの歴史に興味を持つ人にはぜひ鑑賞して欲しい映画である。
 私は浅川巧の業績をいくつかに分けたほうがいいと思う。まず朝鮮の山々の緑の再生、チョウセンカラマツの育種の方法を自然に逆らわない方法で見つけ出したこと、さらに朝鮮の民衆の中にある民芸の中に美を発見し、積極的にそれを収集し、朝鮮民族博物館の建立に尽力したこと、これはその後の柳宗悦の民芸運動に引き継がれていく。その上で最大の功績は日本人と朝鮮人の間に存在する埋めがたい距離を少しでも近づけたこと、民族が他の民族を理解することの困難さを身をもって体現したこと、このあたりにあるのではないだろうか。
 しかしここで一つの疑問にたどり着いてしまう。言葉を理解し、民族服をきて、同じ食べ物を食べる、それらの行為が、民族と民族とが本当に理解しあうことに繋がるのだろうか。浅川は極めて純粋な人だったのだろう。純粋さゆえに裏切られることも多かったのではと想像する。純粋な気持ちが相手側に受け入れられるかは別の問題なのではないのか。逆の立場から考えてみる。日本支配下の時代に日本に協力する朝鮮の人はいた。いわゆる親日派と呼ばれた人たちなのだが、いまだに民族反逆者としてその子孫まで糾弾の対象になっていて、いまだにその論争が続いている。植民地政策の後遺症はいまだに続いているのだ。
浅川の墓はソウル市近郊の忘憂里公園墓地にあり、独立志士たちの墓とともに、地元の住民に守られているそうだ。そしてイ・チョンリムが収監されていた西大門(ソデムン)刑務所は、朴正煕独裁政権の時代に民主化運動を担っていた人びとが多数収監されていた刑務所であることも付け加えておこう。しかし、この映画に登場する日本の憲兵は何かにつけ民衆を痛めつける憎たらしい存在で、その演技には迫力があった。
 浅川の残した日記に次のような記述がある。
 「自分の友であり、指導者である雀よ、鶏よ、クサヒバリよ、向日葵よ、花蓼よ、松林よ、向ふの草家よ、大地よ、蒼空よ、今日も日中暑いだらう。健闘を祈る」。
 自然を友とした浅川に似つかわしい言葉だ。
 なお、この映画の監督の高橋伴明は、連合赤軍事件を題材にした「光の雨」や「BOX袴田事件 命とは」などの作品を世に送り出している。  (東 幸成)


せ ん り ゅ う

     ―― 闇 ―― (連句)

  捻れてる造反さらにねじり切れ

  闇から闇へうつる猫影

  御発展!銃をもたぬで死なせます

  腹切らさるる3万の声

  耳ふさぎ貪者をふやすのだ政治

  むやみやたらに無闇矢鱈に


            六連句 ヽ 史 

 ◎ 連句は連歌の簡略化として江戸時代に流行していた。575と77の長短句を連ねていくもの。各句は独立しつつ前の句との間に詩趣を構成する。
言葉の遊戯を楽しむ座の文芸であったが、明治期に外来芸術思想と合わず消滅した。最近、座の文芸のすばらしさが見直されつつある。個人主義芸術でない社会芸術として。

◎ 上闇而政險則是雖無一至者無益也(荀子 天論)


複眼単眼

   
槙村浩の長編詩「間島パルチザンの歌」に思いを馳せ

 過ぎた六月一日がプロレタリア詩人・槙村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年だったことを「しんぶん赤旗」で知った。
 私ごとだが、十代の終わりにこの槙村の詩集を手に入れて「間島パルチザンの歌」を読んだときの感動はいまだに忘れない。二六歳で病没した高知県生まれの青年共産主義者で詩人の槙村浩が、かつて自分と同じ年頃に日本帝国主義の朝鮮・中国侵略戦争に抗して闘う中で、この詩を作ったことへの共感もあって、この作品にひきこまれ、以来、人生の様々な場面で、この詩のいくつかのフレーズを想いだし、口ずさんできた。もちろん、全文を覚えていたワケではない。うろ覚えのことばだったが、私の生涯を反戦にかけたいという生き様の励ましになってきた。この詩との出会いは、青年期の私にとってそれほど衝撃的だった。
 いまあらためて、この詩を読み直してみた。
 詩の冒頭はこうだ。

  思い出はおれを故郷ヘ運ぶ
  白頭の嶺を越え、落葉松の林を越え
  蘆の根の黒く凍る沼のかなた赫ちゃけた地肌に黝ずんだ小舎の続くところ
  高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ

 私がロシア文学が好きだったこともあり、朝鮮族の病気の若者に語らせるロシア革命の、次の部分も鮮烈に印象に残っている。

  えぞ柳の煙る書堂の蔭に
  胸を病み、都から帰ってきたわかものの話は
  少年のおれたちにどんなに楽しかったか
  わかものは熱するとすぐ咳をした
  はげしく咳入りながら
  彼はツァールの暗いロシアを語った

  そして十月の朝早く
  津波のように街に雪崩れた民衆のどよめきを
  ツァールの黒鷲が引き裂かれ
  モスコーの空高く鎌と槌の赤旗が翻ったその日のことを

そして、抗日の三・一独立万歳闘争の描写だ。

  おお三月一日
  民衆の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
  無限の憎悪を一瞬にたたきつけたおれたちのどのひとりが
  一九一九年三月一日を忘れようぞ!
  その日
  「大韓独立万歳!」の声は全土をゆるがし
  踏み躙られた日章旗に代えて
  母国の旗は家々の戸ごとに翻った

 私は次のリフレインをなぜかよく覚えている。

  おれたちは咸鏡の男と女!

 槙村は中朝国境の間島地区のパルチザンに反帝の連帯と希望を託す。

  父母と姉と同志の血を地に灑(そそ)ぎ
  故国からおれを追い
  今剣をかざして間島に迫る日本の兵匪!
  おお、お前らの前におれたちがまた屈従せねばならぬと言うのか

  露を帯びた芝草に車座になり
  おれたちはいま送られた素晴らしいビラを読み上げる
  それは国境を越えて解放のために闘う同志の声
  撃鉄を前に、悠然と階級の赤旗を揚げるプロレタリアートの叫び
  「在満日本革命兵士委員会」の檄!

  おれたちは不死身だ!
  おれたちはいくたびか敗けはした
  銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした
  だが
  密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!
  十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!

  いま長白の嶺を越えて
  革命の進軍歌を全世界に響かせる
  ――海を隔ててわれら腕結びゆく
  ――いざ戦わんいざ、奮い立ていざ
  ――ああインターナショナルわれらがもの

 改めていまこの詩を読み、槙村の植民地朝鮮人民への連帯の思いと、反戦の決意に、こみ上げてくる思いがある。
 今日では槙村浩の詩はインターネットで検索すると容易に読むことができる。一読をおすすめしたい。 (T)


夏季カンパの訴え

    
労働者社会主義同盟中央委員会

 二〇〇九年夏には「国民の生活が第一」「東アジア共同体」などのマニフェスト公約をもって総選挙に望んだ民主党が圧勝し、自民党政治の終焉・政権交代が実現しました。しかし今、多くの人びとの希望はまったく否定されています。福島第一原発の事故は、野田首相の「収束宣言」にもかかわらず、いつまた大爆発をおこすかわからないという事態がつづいています。沖縄へは頻繁に墜落事故を起こしている垂直離着陸機オスプレイを強行的に配備しようとしています。大企業・金持ち増税ではなく大衆収奪の消費税増税は、階級的格差の拡大、貧困層の増大をもたらすことになるのは必至です。このように、野田内閣がやろうとしている原発の再稼動、沖縄の普天間基地維持・辺野古新基地建設、消費税増税をはじめさまざまな反人民的な政策は、独占資本とアメリカの利益のためのものであり、日本社会を破壊し、労働者、民衆に耐えがたい苦しみをもたらすものです。
 当然にも、労働者、民衆は、もう黙っていません。野田内閣の政策に反対する運動が拡大しつつあります。繰り返し首相官邸を囲んで原発再稼動阻止を叫ぶ数万の自発的な集会は、その象徴となりました。世界的な民衆運動と連携して、多くの人びとが動き始めました。労働運動でもさまざまな新しい取り組みが広がっています。こうした全国各地、各層の運動を合流させて、野田内閣打倒、新しい政治の実現にむけた積極的な試みが求められています。いまこそ、自民党政治の延長・悪質化としての野田政権を追い詰め、アメリカと財界の利益のための戦後政治の真の終焉を実現すべきときです。政権交代を実現した旧い政治からの決別への人びとの意思は、いまこそ発揮させられなければなりません。団結を広げて、労働者・人民の力を強化し、政治変革の流れを加速させましょう。
全国の民衆運動や労働組合運動をいっそう活性化させるためにさらに大きく団結して闘い、同時に社会主義政治勢力の再編・強化の事業をすすめましょう。
 ここに夏季カンパをお願いし、あわせて機関紙「人民新報」の購読を訴えるものです。