人民新報 ・ 第1293号<統合386号(2012年9月15日)
  
                  目次

● オスプレイ・ノーの断固たる意志  配備反対沖縄県民集会に10万1000人が参加

● 首都圏でも沖縄県民大会と同時アクション  10000人で国会を包囲

● 都教委包囲首都圏ネットワークなどが都教委へ抗議と要請の行動

● 労働組合の脱原発の取り組み  8・12脱原発社会をめざす労働者集会

● 排外主義と天皇制を問う8・15反「靖国」行動

● ピースサイクル 2012  なくそう!原発・核兵器  生かそう!憲法第九条

      旧陸軍登戸研究所で戦争加害を学ぶ  /  ねりまピースサイクル

      猛暑の中、自治体訪問14ヶ所  /  さいたまピースサイクル

      伊方原発の廃炉を願って走る  /  しこくピースサイクル

      中学生も参加してヒロシマへ  /  おおさかピースサイクル

● 書籍紹介 日中国交回復40年“永遠の隣人”たちの統治機構に思いを馳せる (上)

      『チャイナ ナイン』―中国を動かす九人の男たち―  (遠藤 誉)

      『中国共産党』―支配者たちの秘密の世界―      (リチャード・マグレガ―)

● せ ん り ゅ う

● 複眼単眼  /  日本帝国主義の敗戦にまつわる「神話」のいくつか






オスプレイ・ノーの断固たる意志

      
配備反対沖縄県民集会に10万1000人が参加

 九月九日午前一一時から、普天間飛行場を抱える宜野湾市の宜野湾海浜公園において、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会は、一〇万一〇〇〇人が参加して開かれた(宮古、石垣、座間味でも集会を開催)。
 当初八月五日に予定された大会が台風にために延期されてこの日の開催となったものだが、県内各地はもとよりヤマトからも多くの参加があり、沖縄特有の焼けるようなティダ(太陽)のもとで、まさに真っ赤な「断固たるノー」の意志を、参加者の総意で日米両政府に叩きつけるものとなった。
 この意志と闘い息吹を全国に押し広げていかなければならない。

 大会は、一部県経済界の脱落はあったものの、各界の代表者によって構成される実行委員会の主催で開かれ、本島以外にも同時開催した地区大会、また、ヤマトの各地でも連帯して集会が開かれるなど、まさに『島ぐるみ』の全国的闘いとなった(なお、仲井真弘多県知事は「市民運動と行政には役割分担がある」という口実で大会参加を拒否した)。
 機体の欠陥プラス操縦の困難さという、二重の危険性を持つオスプレイを住宅密集地に配備するなどとは、そして、それゆえに生じた事故原因を人的ミスに矮小するなどとは、絶対に許されないことだ。
 開発や事故調査を担当した者の中からさえ何点もの構造的欠陥が指摘され、にもかかわらず何ら根本的改善がされず、あまつさえパイロットは搭乗を嫌悪し、ハワイなど米国内では訓練飛行が中止されているオスプレイ。
 こんな危険極まりないものを沖縄だから押し付けて良しとする思考は、差別・植民地主義以外のなにものでもない。これを唯々諾々と追認する日本政府は、カイライと呼ぶのがふさわしい。いずれも、民意・人命を軽んじて恥じない致命的欠陥政府だ。
 大会開催を目前に、アメリカは予想通り事故原因を「人的ミス」で押し通し、これを受けたポチ政権野田は、これまた想定通りオウム返しに「評価報告」でこたえ、当初から見苦しい出来レースと世論に看破されていた。ここまであからさまに没主権と民意を見下す姿勢を見せつけられては、いかな忍耐も限界と言うものだ。
 怒りの声が日増しに強まり、首長からさえも皮肉と嘲笑が発せられ、いやがおうにも大会の成功と、続く配備阻止・普天間即時閉鎖の行動を強めずにはおかない。

 大会はまず、主催者代表挨拶から始まった。共同代表の翁長雄志・那覇市長は、オスプレイを無理やりに配備にようとする日米政府のやり方は、戦後、銃剣とブルドーザーで土地を強制接収した米軍のやり方とまったく同じだと述べ、また佐喜真淳・宜野湾市長は、配備計画は絶対に認めないと語った。
 続いて、各発言者からは、日米両政府によるゴリ押しに満腔の怒りを込めて、オスプレイ配備を絶対に阻止し、民意を踏みにじる「構造的沖縄差別」と、過重な米軍基地の押し付けに反対して、継続した闘いを一体となって進める、との力強い決意が口々に表された(大会に参加しなかった仲井真県知事のメッセージが代読されたときには、会場からは欠席を批判する 抗議の声が上がった)。
 最後に、大会決議(別掲)が満場の闘う決意をこめた拍手で確認された。
 実行委員会としては今後、政府に要請し、一〇月初旬には訪米を予定している。

 大会終了後、参加者のうち約二百名は普天間ゲートに向かった。人びとは、「オスプレイの配備は絶対に阻止する」「普天間基地を直ちに閉鎖し、ウチナーに返せ」と怒涛のシュプレヒコールを上げ、フェンスに赤や黒のリボンをくくりつけ抗議の意思を表明した。ここに沖縄の怒りが爆発したのだった。

 こうして、大会は成功裏に終わったが、問題は今後の事態を日米両政府に深刻に受け止めさせ、オスプレイの配備を断念しなければ、世論が全基地撤去に向かい、コザ暴動(一九七〇年)を彷彿とさせる「不測の事態」が生じる可能性を、連中が受け止めるか否かにある。パターン化された県行政の枠内での抗議だけでは不十分だ。民衆側が主導権を持って知恵と力を発揮した「想定外の抵抗」闘争こそが、そのためには必要となってくる。
 これまでに呼びかけられているのは、米軍が「居心地の悪い状況」を常に強いる闘い。例えば、すでに取り組まれた「風船」闘争など合法ギリギリの闘いで、一〇万個も飛ばせるように力を集中すること。参加しやすく持続できる形で、米軍の面前での行動がしつこく繰り返されること。米国内とのあまりに酷い違いを米国世論に訴え、米国内での裁判や運動を起こすこと。各地の基地反対運動との、これまで以上の相互連携を作り出すこと。等々だろう。
 ヤマト世論の動向も欠かせない。今まで同様四七分の一に留める限りは、いくら琉球が闘っても事態を決定しえなくなるだろう。
 だから最終的には、「独立」を切り札とする三大義務拒否やインフラ提供拒否の闘いとして、大きな犠牲を覚悟し追求していかざるをえない。

 再度問わなければならない。この沖縄にヤマト民衆の側がそれにどう呼応するのか。国会包囲行動に示された「自発的意思表示」をいかに広げ発展させるのか。琉球を孤立させることなく、独立をも含めてこの闘いに呼応・連帯しうるのか、否か?という重い問いかけだ。こうした問いに真摯に応える時が来ているのである。  (I)

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県民大会決議

 我々は、本日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるためにここに集まった。

 沖縄県民は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、一九七二年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が六〇〇〇件近くに上るなど、米軍による事件・事故、騒音被害も後を絶たない状況である。

 一九九五年九月に、米海兵隊員三人による少女暴行事件が起こり、同年一〇月には事件に抗議する県民総決起大会が行われ、八万五千人もの県民が参加し、米軍に対する怒りと抗議の声を上げた。県民の強い抗議の声に押され、日米両政府は、一九九六年の日米特別行動委員会(SACO)により米軍普天間基地の全面返還の合意を行った。

 しかし、合意から一六年たった今日なお、米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている。

 そのような中、日米両政府は、この危険な米軍普天間基地に「構造的欠陥機」であるオスプレイを配備すると通告し、既に山口県岩国基地に陸揚げがなされている。さらに、オスプレイは米軍普天間基地のみでなく、嘉手納基地や北部訓練場など、沖縄全域で訓練と運用を実施することが明らかとなっており、騒音や墜落などの危険により、県民の不安と怒りはかつてないほど高まっている。

 オスプレイは開発段階から事故をくり返し、多数に上る死者を出し、今年に入ってからもモロッコやフロリダ州で墜落事故を起こしている構造的欠陥機であることは、専門家も指摘しているところであり、安全性が確認できないオスプレイ配備は、到底容認できるものではない。

 沖縄県民はこれ以上の基地負担を断固として拒否する。そして県民の声を政府が無視するのであれば、我々は、基地反対の県民の総意をまとめ上げていくことを表明するものである。

 日米両政府は、我々県民のオスプレイ配備反対の不退転の決意を真摯に受け止め、オスプレイ配備計画を直ちに撤回し、同時に米軍普天間基地を閉鎖・撤去するよう強く要求する。
 以上、決議する。

二〇一二年九月九日

            オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会


首都圏でも沖縄県民大会と同時アクション
          
                   
10000人で国会を包囲

 九月九日には、沖縄県民集会に呼応して岩国、佐世保など各地で行動がおこなわれたが、東京では「9・9沖縄県民大会と同時アクション『国会包囲』〜オスプレイ配備を中止に追い込もう!〜」に、一万人が参加して、国会を包囲する行動が成功した。
 午前一一時が開会時間だが、朝早くから国会周辺には人びとが続々と結集してきた。集会は、一坪反戦地主会関東ブロックの外間三枝子さんの主催者あいさつにつづき、東京沖縄県人会事務局長の島袋徹さん、軍事評論家の前田哲夫さん、高橋哲哉さんが、オスプレイの危険性について、そして日米政府の強行配備を許さず行動していこうと述べた。国会からは参議院議員の田村智子さん(日本共産党)が挨拶、沖縄県民大会参加の福島瑞穂社民党党首からのメッセージが紹介された。
国会に向けてシュプレヒコールをあげ、正午からは国会議事堂包囲行動を開始。一二時一五分に参加者が手をつなぎ、包囲は大きな成功を収めた。


都教委包囲首都圏ネットワークなどが都教委へ抗議と要請の行動

 八月三一日、飯田橋の都教職員研修センターで、今年四月の入学式で「君が代」不起立をした田中聡史さん(板橋特別支援学校教員)にたいする「服務事故再発防止研修」が行われ、研修に抗議し田中さんを激励する行動が取り組まれた。

 午後からは、都教委包囲首都圏ネットワークによる都教委への抗議と要請がおこなわれた。日の丸・君が代の強制の10・23通達による処分が行われて以来、九回目の行動だ。メインスローガンは、10・23通達撤回!、「君が代」不起立処分撤回!。サブスローガンでは、石原知事は尖閣諸島問題をもてあそぶな!、差別・排外主義をあおるな!、石原・大原教委は戦争挑発をするな!、教育円卓会議による教育破壊をゆるさない!、宿泊防災訓練反対!、学校と自衛隊の連携を許すな!、原発再稼働反対!、原発と核武装推進の石原は知事をやめろ!、大阪・橋下の教育関連条例撤廃!を掲げた。
 午後四時から都庁第二庁舎前で集会とシュプレヒコールをあげた後、都庁舎一〇階で波田教育情報課課長にたいして都教委要請行動をおこなった。都教委包囲ネット、町田市立学校教職員組合、予防訴訟をすすめる会などが次々に要請文を読み上げた。ところが、波田課長は、まったく事務的な対応に終始し、ついには会場から逃げ去る始末となった。まさに石原都政、都教委の非民主的な本質を象徴する行動だった。
 ふたたび第二庁舎前で集会を持った。服務事故再発防止研修を強制された田中聡史さんは、研修の内容、即日の分限免職は免れたことなどを報告し、支援にたいする謝意を述べた。

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東京都教育委員会教育委員長・教育長あて都教委包囲・首都圏ネットの要請書

 先に私たちは、貴教委が出した「北朝鮮による拉致被害者の救出を目指す署名への協力依頼及びブルーリボンの紹介について」に関して「抗議及び質問書」を出しました。
 これは元々は知事本局から出されたものです。すなわち石原知事のお墨付きがあったと考えます。

 石原知事はこれより先に、尖閣諸島を都として買い取ると公言し、多くの寄付を集めました。
 尖閣諸島は中華人民共和国(中国)政府が中国の領土と主張していることは、広く知られています。両国の主張が対立し、外交問題になっている問題です。前述した「拉致被害者救出」も外交問題です。
東京都の知事が外交問題に首を突っ込み、政府の外交を引っかき回しています。  
 拉致被害者救出の署名活動、尖閣諸島買収問題などは、明らかに都政の私物化であり地位利用であり、都民として容認することはできません。

 石原都知事は右翼排外主義者・差別主義者です。こうした人物が都政を長年牛耳ってきたことは、都の教育にとって不幸の極みです。
 とりわけ「日の丸・君が代」強制の10・23通達は命令による教育を常態化させました。教職員の発言が大幅に減り、都の学校現場は沈滞しています。また、業績評価制度の導入は職場の教職員を分断し、教育にとって根幹をなす教職員同士の協力と協働を破壊しました。
 管理職や教委による管理統制の強化は、教職員の心身に強い圧力がかかり、職場を暗く息苦しくさせています。全国学テに象徴される学力至上主義が支配的となり、学力が唯一の評価基準になり、子どもの多様性が否定され、居場所を喪失している子どもが増えています。このような状況の中で「いじめ」が再び社会問題化してきています。こうした事態に対し、都教委は何ら反省せず、責任を感じず、開き直っています。
 
 さらに、貧困大国である日本の現状が教育・子どもたちの上に大きな影を落としています。教育の機会が大きく損なわれる状態が生まれています。オリンピック招致に金を使うくらいなら、こうした子どもたちに十分な教育を保障する手立てを講ずるべきです。


労働組合の脱原発の取り組み

          
 8・12脱原発社会をめざす労働者集会

 脱原発運動への労働組合としての取り組みを強める動きがさまざまなところで出てきているが、全港湾、国労、全日建連帯労組、全国一般全国協、東京清掃、全水道東水労、都労連などのよびかけで、八月一二日、ティアラこうとう大ホールで、「脱原発社会をめざす8・ 労働者集会」が開かれた。
 はじめに、基調報告を全港湾の伊藤彰信委員長が提起。私たちは「核と人類は共存できない」との立場から、核兵器はもとより原子力発電や核再処理施設の建設など核エネルギー政策に一貫して反対してきた。だが、私たちは福島原発の事故を防ぐことができなかった。私たちは、今までの運動の反省に立って、今後の取り組みについて検討する必要がある。本実行委員会を構成する労働組合は、一〇〇〇万人署名の取り組みを、通常の署名のように組織内の組合員にたいする取り組みにとどめることなく、家族、親戚、友人、知人を含めて取り組むとともに、街頭に立ち、あるいは個別訪問をおこない、署名を集めてきた。そして、全国的な集会に参加し、地域での集会を企画してきた。また、「放射線被ばくを考える労働者の集い」を開催し、労働現場で直面している放射能問題について情報交換をしてきた。いま、原発推進の立場にたった労働組合が存在するが、私たちは、3・11を受けて、あらためて脱原発運動を強化してたたかうことを決意する。私たちは、安心して暮らせる福島を取り戻し、子どもたちを放射能から守り、再稼働を許さず、再処理を止め、脱原発社会をめざす。
 長年にわたって原発推進政策に反対してきた小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)が「放射能汚染の現実を超えて」と題して講演。一九四五年にアメリカで初の原爆が爆発し、そしてヒロシマ、ナガサキに投下され甚大な被害をもたらした。その後も、ビキニなどで原爆・水爆の実験が行なわれ、そのたびに猛烈な放射能が周囲にばらまかれた。そして、原子力発電だ。原理はごく単純なことで、原発も「やかんでお湯を沸かす」のと同じだ。しかしその単純なことしかやっていない原発は都会では建てられない。それはウランを燃やして死の灰が生み出されるからだ。原子力推進派も、原発の危険性がわかっているので、原子力発電所や核燃料施設を過疎地に押しつけて来た。原発の事故の被害ははかりしれないものがある。チェルノブイリは、広島の原発八〇〇発分の放射能をまき散らし、そのために穀倉地帯といわれた豊かな農地は汚染されてしまった。三年後に当時のソ連が発表した放射能汚染の状況では、チェルノブイリから二〇〇〜三〇〇キロも離れた地域でも猛烈な汚染地帯とされた。じつはチェルノブイリから七〇〇キロ離れた地帯まで放射能の汚染が広がっている。日本の本州の約六割に相当する土地が汚染された。福島原発事故について日本政府がIAEA(国際原子力機関)に提出した報告書では、原発事故で大気中に広島原発一六八発分の放射能が放出されたとしているが、これは確実に過小評価した数字だ。実際には、日本政府の発表した数字の二〜三倍の汚染があるはずだ。しかし、原発推進派はしぶとく生き延びているし、一部の労働組合もそうだ。東京電力の労働組合は、脱原発の署名をした民主党議員に、撤回しなければ次の選挙で推薦しないなどという圧力をかけている。福島原発事故で、日本の大地は猛烈に汚染されてしまったが、この責任は東電や国だけではない。私たち一人ひとりが、原子力を許し、その結果として今回の放射能汚染を招いたことに責任がある。


排外主義と天皇制を問う8・15反「靖国」行動

 八月一五日、排外主義と天皇制を問う8・15― 反「靖国」行動が闘われた。在日本韓国YMCAでの集会では、歴史研究者の山田昭次さんが、「八・一五と国体護持、日本の軍事大国化のための『愛国心』昂揚」について講演。山田さんは、課題を八・一五という日が「敗戦という危機を迎えた天皇制国家の護持を訴えた日であるにとどまらず、その後にもこの日が日本の軍事大国化の精神的支柱としての『愛国心』、すなわち国家に対する忠誠心の昂揚を目指す国家儀礼の日として利用されてきた」として、「終戦の詔勅」から「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の制定・中曾根康弘首相や小泉純一郎首相の靖国神社公式参拝などの意味を解明した。
 集会後、右翼の挑発・攻撃に抗して、デモを貫徹した。


ピースサイクル 2012  なくそう!原発・核兵器  生かそう!憲法第九条


旧陸軍登戸研究所で戦争加害を学ぶ
    
               ねりまピースサイクル

 七月一五日の日曜日に梅雨が明けたかと思わせる天気のもとで、練馬からピースサイクルが開催されました。自転車での台数が一八台、現地での資料館見学のみの参加者を含め、人員は総勢二三名が参加しました。

 今回の練馬からのピーサイクルは、川崎市生田区にある明治大学生田キャンパス内にある明治大学平和教育登戸研究所資料館までの約二五キロを午前中で走破し、昼食後、登戸研究所資料館を見学するコースでした。
 自転車は、練馬区役所を出て中杉通りの並木道を通り、和田堀公園で一回目の休憩。その後、一直線に伸びた荒玉水道道路をひたすら世田谷通りを目指し、国立成育医療研究センター近くの大蔵運動公園で二回目の休憩を取りました。
 そして、残りの行程である世田谷通りを走り、資料館目指しました。
 荒玉水道道路は、地下に水道管が敷設されている道路です。当初は、歩行者専用道路で、一九六二年に自動車の通行が可能となりましたが、水道管が敷設されていることから重量制限があり、所々に規制のガードがありました。
 帰路については、資料館見学に時間が取られたので、自転車はトラックで練馬に搬送し、参加者は電車で練馬に帰ってきました。もちろん、終わった後のビールは最高でした。

 今回の目的である明治大学平和教育登戸研究所資料館は、二〇一〇年三月に開館した比較的新しい資料館です。もともと明治大学生田キャンパスは、かつての旧陸軍登戸研究所(陸軍第九技術研究所)の敷地内に立地しています。
 登戸研究所とは、旧日本陸軍が秘密兵器の研究・開発するために設置した研究所で、一般にはその存在は秘密にされていました。
 一九三七(昭和一二)年一一月、「陸軍科学研究所登戸実験場」として開設され、電波兵器などを当初研究開発していました。その後、風船爆弾、スパイ活動の兵器としての毒物兵器、謀略のための偽札製造まで研究・開発を拡げ、研究所としての予算も当時としては、潤沢だったそうです。この資料館を見学すると分かるのですが、現代の戦争とは、兵隊がいわゆる武器で闘うだけでなく、スパイ活動で敵の弱点を見つけ、時には敵国の社会状況を攪乱させるたり、偽札をばらまいて経済的混乱を誘発したりとあらゆる手段、方法を使って戦争をしていることが理解できます。
 この資料館は、市民や高校生がその存在を明らかにし、その市民や当時研究所に勤務していた人達の努力と熱意が明治大学を動かし、二〇〇六年に大学が保存と活用を決め、二〇一〇年三月に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として開設されたものです。最寄り駅は、小田急小田原線生田駅です。日曜日は閉館です。大学正門の守衛室で受付を済ませば、丁寧に案内してくれます。学内史跡の見学を含めた見学会も適時開催しています。ホームページで確認して参加してみてはいかがですか。日本が先の戦争において被害者としての部分ではなく、加害者として部分の貴重な資料館です。一度、お出かけください。

 最後に練馬ピースサイクルは、自転車で走ることを通して、反戦平和や環境問題を「考える・感じる・知る・伝える」ピーサイクルを方針として引き続き活動していきます。

猛暑の中、自治体訪問14ヶ所

        
さいたまピースサイクル

 埼玉ピースサイクルネットは七月一七日が実走日。
 今年は早々と台風がきて、日本列島を縦断して各地に多大な被害がでた。台風と梅雨が同時くる気候変動で危ぶまれたが逆に前日の七月一六日より猛暑日となった。一六日は東京代々木公園で開かれた「さよなら脱原発一〇万人集会」に一七万人が集まり、政府、東電への怒りが爆発した。
 そうした熱い息吹も受けながら、埼玉ピースは今年も熊谷、神川、浦和、北本の四コースで行われた。
 熊谷の気温は一六日三六・三度、一七日三七・七の猛暑日となって、自転車走者の中には軽い熱中症に罹る人もいた。だが大事に至らないで良かった。

 各コースとも八時半に出発し、午後三時に東松山市に集合して丸木美術館まで参加者全員で走り、交流会を行った。この日、自治体訪問は一四ヶ所をまわった。

 浦和コースでは毎年、県庁を訪問しているが、今年は要請を受ける窓口が変更され県庁内では要請は受けないとして、道路境で要請行動を行った。他の自治体は例年通り友好的な対応であった。
 自治体に対する要請文では、その前文に3・11から一年以上経過したが、いまだに被災地の復旧、復興は遅々として進まず、「人災」によって引き起こされた福島原発事故は深刻な事態となっている。埼玉ピースネットは震災、原発事故に会われた被災された人々に微力ですが「細く・長く」支援を続けて行きたいと考えていると決意を表した。そして、全世界の核兵器廃絶、広島・長崎をとうして戦争を風化させない取り組みをするようなど、六点を要請とした。
 昨年も自転車に取り付けた黄色の小型のぼり旗「なくそう原発」は沿道の人達に目をひいていた。

伊方原発の廃炉を願って走る
 
         しこくピースサイクル

 今夏のピースサイクル・西瀬戸ルートは八月二日の北九州市小倉から始まった。午前中は毎月二の日に行われている福岡県の航空自衛隊築城基地で座り込み、夕方には大分県中津市に入り「平和の鐘祭り」への参加で初日を終える。
 翌、三日からは九州ルートを引き継いだ三名と四国ルートを走る広島・呉からの八名が八幡浜市フェリーターミナルで合流する。早速、「原発も核兵器もない世界を!伊方原発を廃炉に!」と書かれたバナーを伴走車三台に貼り付けて八幡浜市役所と伊方町役場へ向かった。ここから長年、反原発運動に取り組んでいる「八幡浜・原発から子供を守る女たちの会」の三名が要請行動に加わり、要請団は総勢一四名となった。これに対して各自治体は原発・防災担当者二名を増やして応対にあたるなど例年には見られないほどの力の入れようであった。私たちは「伊方原発の廃炉」と「原発交付金に頼らない街づくり」などを強く求めて、伊方原発ゲート前に急いだ。ここに立ち、目の前の海を望むと、大分も山口も広島も地元のように四国の伊方原発の方が近いことを実感する。
 いま現在、伊方原発は三号機が昨年四月に、同年九月には一号機が定検で運転を停止し、今年の一月には二号機がめでたく運転停止をしている。しかし、大飯原発に続いて再稼働が狙われているとされる伊方原発は中村愛媛県知事、山下伊方町長、四電の千葉社長らが再稼働に前向きな姿勢を示すなど予断を許さない状況にある。現地では福島の事故以来、ゲート前での座り込みが毎月一一日に継続されている。今では全国から支援者がやって来てこれに参加をするそうだ。だけど、「あなた達のように毎年決まって、二〇数年も続けて伊方にやって来る団体はそうはいないよ!」とのねぎらいに要請行動にも力が入る。
 明けて四日は実走で松山市へ向かう。夕やけ小やけラインと呼ばれるこの海岸コースは四国ピースサイクルのハイライトだ。伴走車のスピーカーから流れるBGMに乗って力強いシュプレヒコールとアピールの声が心地よく響き渡る。「原発いらない!」「オスブレイ飛ばすな!すぐ帰れ!」 
 松山市駅広場に到着すると地元の反原発の会の方七名に迎えられた。ここで一緒にビラ街宣活動をおこなった後、松山観光港からフェリーで呉市に渡った。五日の最終日は軍都呉市から広島平和公園へと車輪を進めて到着集会に臨む。
 3・11以降、フクシマの想いは各地に拡がり、繋がっている。ひと度、過酷な原発事故が起こればこの国では被災者が棄民となる。フクシマの惨事を繰り返さぬためにも再稼働を許してはならない。一日でも早く全原発の廃炉を実現したい。核と生き物は共存できない!原発より命が大切!その思いに応えるための一役を微力ながら担いたい。その決意も新たに全日程を終えた。(広島Y)

中学生も参加してヒロシマへ
    
       おおさかピースサイクル

 八月一日、長野県からヒロシマをめざす長野ピースサイクルの仲間と大阪市役所で合流し、今年のピースサイクルがスタートしました。
 昨年から中学生の参加もあり、かつての勢いとはいきませんが元祖ピースサイクルは健在です。
 いつものように西宮市役所で兵庫ピースサイクルの仲間と合流し、交通量の多い三宮、明石を抜けて播磨町の宿舎に到着して一日目を終了。

 二日目のコースは、市街地を抜け、瀬戸内海の海岸線を眺めながらの三つの峠越えという、自然とふれあい、ともに汗を流すピースサイクルのなかで最高のコースです。昨日の二号線とはうってかわって二五〇号線は広畑を越えると自然そのものです。小さな漁港、ペーロンの相生、赤穂を抜けて岡山県日生に到着です。日生では、民宿にお世話になり海の幸もいただきました。

 三日目は、早くも広島県の福山市に入るコースです。
 岡山では、岡山ピースサイクルの仲間とともに県庁と倉敷市への表敬訪問を行い、被災地の瓦礫処理やオスプレイの飛行訓練の中止など平和行政の充実について申し入れを行いました。

 四日目、呉までの長距離コースですが二号線から一八五号線に入ると瀬戸内海が広がる海岸線で涼しい風が心地よくサイクリングには最高です。

 いよいよ五日目、ヒロシマまでもう三〇km。自衛隊の潜水艦基地の見学などフィールドワークをしたあと一二時の到着集会に合わせて呉を出発。
 広島の仲間に拍手で歓迎されるなか予定どおり一二時にドーム前に到着しました。

 集会では、長野、大阪、四国の各ルートから走ってきたピースサイクルが平和公園の原爆ドーム前に到着し、ピースサイクル広島到着集会が行われました。 
 広島からの歓迎あいさつのあと長野県から走ってきた仲間の報告、中学生が参加した大阪、伊方原発への申し入れを行ってきた四国ルートの報告がありました。そのあと午後のフィールドワークや夕方の集会への参加が呼びかけられました。

 広島市まちづくり市民交流プラザで開催された8・6ヒロシマ平和へのつどい2012では、脱原発運動や反被曝の取り組み、オスプレイ配備に反対する行動など全国各地から活動の報告の後、高橋哲哉氏による記念講演「被爆者・被曝者の連帯のために3・ 後の地平」がおこなわれ、核・原子力と『生きもの』は共存できないことをあらためて確認する集会となりました。

 六日は、早朝から「市民による平和宣言」のビラ配布を行い、八時一五分原爆ドーム前でのダイ・インのあと中国電力本社前までのピースウォーク。中国電力本社前での集会では、脱原発エネルギーへの転換とこの夏から秋にかけて全国での原発の再稼動反対の行動が呼びかけられました。

 脱原発運動のもりあがりのなか運動つなぐことが求められています。核燃サイクルを止めるためにつなげてきたピースサイクルのネットワークを全国の仲間とともにさらに広げよう!


書籍紹介

  
日中国交回復40年“永遠の隣人”たちの統治機構に思いを馳せる (上)

       『チャイナ ナイン』―中国を動かす九人の男たち―   著者:遠藤 誉  (朝日新聞出版)

       『中国共産党』―支配者たちの秘密の世界―       著者:リチャード・マグレガ― 訳/小谷まさ代 (草思社)


                                                  須田 勝

■警戒すべき偏狭ナショナリズム

 日中関係が尖閣諸島(釣魚台諸島)問題で大きく揺れている。先日とある中国人経営者と話をしていた時のことだ。期せずしてこの話題がのぼった。すると件の経営者は「歴史問題はどこに起点を置くかですね。近代国家の形成過程からすれば日本の出張は正しいのではないかと思う。一方で清代、明代にさかのぼれば中国の主張は正しくなる」との発言だった。そして、最後に「ケ小平はさすがだった…。困ったことは双方の国の偏狭なナショナリズムですね。」と言って話題を変えた。
 アジア各国を飛び回るビジネスマンとしての彼は、これ以上日中関係が悪化されては「困る」というスタンスだ。そして、一九八九年六月の天安門事件以降の政治改革をひたすら封印し、今日の経済成長を牽引する「改革開放路線」を敷いたケ小平への思いがあるのかもしれない。もちろん日中双方の尖閣諸島(釣魚台諸島)問題の歴史的根拠などを問うことなく無責任な日本の「ネット右翼」のごとき偏狭なナショナリズムを吹聴する傾向に強く警鐘と警戒を持たなければならない。同時にポピュリズム政治家の動きを厳しき監視し批判を強めていかなければならない。日本と中国の関係は情緒的にその時々の時勢にされてはならない。日本と中国は否が応でも地政学的に日本の永遠の隣人としての関係である。気に入らなければどちらかが引越しできるという関係ではない。
 尖閣諸島(釣魚台諸島)問題に限らず、韓国との竹島問題、さらにはロシアとの北方領土問題もしかりだが、その発端は一九五一年のサンフランシスコ講和条約をめぐる過程で、日本の独自行動をけん制するためにアメリカによって意図的にしくまれた未解決問題であり、それを適切に対処してこなかった日本の対米一辺倒の外交政策に起因していると言う点は押さえておく必要がある。詳しくは元外交官として駐イラン大使も務めた孫崎亨による『戦後史の正体』(創元社)参照。
 中国人経営者の「困ったことは双方の国の偏狭なナショナリズム」という発言は正鵠を得たものだ。彼が《双方の国》と表現する点に冷静さとビジネス感覚に裏打ちされた危惧を強く感じた。現に多くの中国人留学生を抱える大学や専門学校の関係者によると二〇一三年新卒者に対して企業の側は、多少臆病になり始めているのではないかと危惧する。それは、尖閣諸島(釣魚台諸島)問題に端緒として日本の入国管理に影響しビザ申請などでの問題の発生を懸念し始めているのではないかというものだ。一方で日本からの輸出に対して中国側の通関業務の弛緩を危惧する声も発生している。
 日本企業は一九九〇年代以降こうした中国を世界の工場と見立て我先にと沿岸部からスタートし内陸部まで大量に進出していった。もちろん、その主な理由は安い労働力であった。まさに資本の論理として安い労働力を求めて世界を流浪しながら改革開放路線の中国と利害が一致したというべきだろう。そしてこの過程で日本企業の中には、「中国ビジネス」という名の妙な表現が流行していった。

■「中国ビジネス」という名の不思議


 その良し悪しは別問題として、ボーダレス化した資本の論理で日本企業が各国に進出するのは当然の帰結である。ところが、アメリカ・ヨーロッパ等との商取引と一線を画すがごとくいまだに「中国ビジネス」という表現がなされていることが奇異でもある。その証左として「中国ビジネス」の対句として「アメリカビジネス」なり「ヨーロッパビジネス」なる表現が一般化しているわけではない。これまで日本と中国のビジネス環境が深まれば深まるほど、こと中国との取引に関して「中国ビジネス」なる表現が用いられ、多くのビジネス・コンサルタント会社がこぞって中国進出企業向けに各種のセミナーや研修を実施してきた。そのテーマは実にさまざまなのだが、ほとんどのタイトルには「中国ビジネスを成功させるための…」というキャッチコピーが冠としてつけられていたものだ。
 中国との取引する企業の中に「強かな中国人」「人治優先で商慣行が通用しない」「賄賂が横行している」などと言う具合に体制上の問題と人間関係の齟齬から生じる問題が入り混じった揶揄や感情的不満が存在しているのは事実だ。そこで多少穿った見方をするならば、「中国ビジネス」という表現は恐らくこうした点を理解しない単純な資本の論理だけで、中国と取引をしようとする日本企業のある種の愚かさを食い物にしたコンサルト会社の飯のタネ戦略だったのかもしれない。
 今や単純に「安い労働力」としての中国は存在していない。中国は巨大な消費市場として君臨している。同時に世界の金融市場を左右する存在になっている。この視点を抜きにしては、日中の経済関係を論じることは無意味でさえある。
 東京・銀座や秋葉原をはじめとするショッピング街や主要な観光地は、中国人富裕層によって成り立っているとさえ言っても過言ではない。日中の経済関係は「中国ビジネス」などと言うあたかも特異な関係などではなくなっている。「中国ビジネス」なる表現は「先進国のビジネス商慣習が通用しない」という日本企業に存在しているある種の「上から目線」の深層心理を反映していたのかもしれない。(つづく)


せ ん り ゅ う

      ― 虫 ―(連句)

   金曜日廃炉への道あゆみ出し

   権威もつわれ国会まえを

   策士策弄し絶叫民を見ず

   他人の顔でもの言うばかり

   東電の被曝補償は遅遅として

   プロパガンダの虫の音を聴く

                        ヽ 史

  二〇一二年九月


複眼単眼

     
日本帝国主義の敗戦にまつわる「神話」のいくつか

 月遅れの話になるが、書いておきたい。
 八月一五日にある集会で憲法と原発などについて講演する機会があり、その冒頭で「原発安全神話」とからめて「八・一五をめぐる『原爆神話』と『聖断神話』などについて」述べた。
 「原爆神話」は原爆投下は終戦を早めて、多くの命を救ったという、主として米国側や一部アジア諸国で語られてきた神話だ。
 この神話の決定的な誤りは、あの戦争を太平洋戦争(日米戦争)に切り縮めてとらえ、原爆投下の一九四五年八月六日、九日時点では、日本帝国主義の敗北はすでに決定的であり、降伏目前だったことを無視し、非人道的極まりない原爆投下を正当化するところにある。原爆投下は戦後の世界支配を見すえた米国の戦略によるものだ。
 わが同盟の議長だった山川暁夫さんが、生前、繰り返し強調していたように、日本軍国主義は基本的にはアジア民衆の力によって打倒されたのだ。すでに三月には、ビルマ戦線ではアウンサン将軍のゲリラが蜂起し、フィリピンではマニラの奪回があり、中国戦線での日本軍の敗北と降伏もあいついでいた。この戦争は単なる「日米戦争」ではなく、まさに「アジア太平洋戦争」であり、「一五年戦争」であった。
 裕仁天皇の「聖断」により、終戦が実現し、日本の滅亡が救われたという「聖断神話」も欺瞞的だ。裕仁天皇は、二月に近衛文麿の「上奏文」(「戦局の見透しに付き考うるに、最悪なる事態は遺憾ながらもはや必至なりと存ぜらる」「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続することは全く共産党の手に乗るものと言うべく、従って国体護持の立場よりすれば、一日も速やかに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す」)がだされたとき、「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と降伏のすすめを拒絶した。
 今年の一五日のNHKは、六月時点で天皇が降伏したがっていたのを軍部がソ連参戦の動きを天皇に隠し、終戦の決定を遅らせた。天皇は継戦論の陸軍に「よもやあと一戦してからというのではあるまいな」と不満を述べたことなどを「新事実」として意味ありげに紹介したが、これも裕仁天皇の美化に他ならない。もともと「あと一戦」は近衛に対して裕仁が述べた言葉で、この結果、東京から大阪に至る都市大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下に至った。この何十万人もの殺戮は裕仁天皇が招いたのだ。このことを考えるなら「八・一五聖断」などはまさに神話に過ぎない。
 今年、八月一二日、明仁天皇夫妻が東京都江東区の富岡八幡宮で三月一〇日の東京大空襲で焼け出された経験のある区民らと懇談し、体験談に耳を傾けた。以前から懇談を希望していたという天皇は身を乗り出すようにして聴き入り「経験をいろんな人に伝えることが大事ですね」と述べた、と報道された。このところ、東日本大震災現地への見舞いや、付随して発生した長野県の震災被災地への見舞いなど、明仁天皇の動きが目立つ。しかし、一九四五年三月一〇日の直後の一八日に裕仁天皇が富岡八幡宮を訪れているのを知れば、明仁天皇の今回の動きも、特別のことではなく興ざめだ。裕仁の空襲被災地訪問を報道した当時のメディアは「苛まれた數多くの民草救濟の状況、又工場の被害状況に寄せさせ賜ひし大御心の程を拝し奉り、我等一億齊しく暴戻亞米利加撃滅の決意を愈々固め、廣大無邊の御仁慈に應へ奉らむ事を期するものであります」と報じたのだ。近衛上奏文を受け入れていればあり得なかった東京大空襲に対して、裕仁天皇は継戦のための見舞いに行ったのだ。本来なら明仁天皇には何よりこの「経験をいろんな人に伝えることが大事ですね」と言わねばなるまい。
 八月一五日を「終戦記念日」とすることの中にも、天皇の「玉音放送神話」がある。連合国側(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、カナダ、ロシア)は「終戦の日」は(ミズーリ号上での降伏文書調印の)九月二日としている。台湾と中華人民共和国では、旧ソ連と同じく、調印の翌日九月三日を「抗日戦争勝利の日」としている。八月一五日に特別の意味を持たせているのは日本と韓国(光復節)、北朝鮮(祖国解放記念日)だけだ。八月一五日は天皇が戦争をやめると言っただけで「終戦の日」ではない。これも山川さんが何度も指摘していたことだ。
 最近では孫崎亨氏がその著書「戦後史の正体」(創元社)の冒頭で指摘していることだ。  (T)