人民新報 ・ 第1304号<統合397号(2013年8月15日)
  
                  目次

● 集団的自衛権行使容認に向けた安倍内閣の姑息な策動  戦争のできる国への一歩

● 2013 ピースサイクル  反戦・平和を訴えて完走

     ながのピースサイクル

     さいたまピースサイクル

     しこくピースサイクル

● 政財界の雇用規制改革の狙いは、正社員から限定正社員への移行  全労協「労働法制改悪反対!学習集会」

● 尖閣棚上げ論はあった ―  栗山元駐米大使の証言

● 安倍外交の指南役 谷内正太郎の思想と政策    谷内正太郎と若泉敬・土曜会

● KODAMA  /  「アジア力(あじありょく)」とはなんだ?

● 複眼単眼  /  麻生太郎の発言の真相と真意






集団的自衛権行使容認に向けた安倍内閣の姑息な策動

                    戦争のできる国への一歩


 八月八日、安倍内閣は内閣法制局長官に、小松一郎駐仏大使を起用することを閣議決定した。小松の長官任命は、これまでの内閣法制次長が昇任する内部昇格の慣例を破るもので、新長官は海外での武力行使を可能とする集団的自衛権行使の積極容認派として知られている。今回の人事は、これまでの集団的自衛権についての政府の見解を覆し、集団的自衛権の行使を解釈改憲的手法によって強行突破しようとする安倍内閣の危険な策動=クーデターともいうべきものである。
 内閣法制局は憲法や法律についての内閣の統一解釈を示し、国会では政府特別補佐人として首相や大臣に代わって答弁してきた。集団的自衛権については、これまで、政府は「日本国憲法のもとでは集団的自衛権は行使できない」という解釈をとってきた。それにもとづいて、防衛省のホームページでも「(4)集団的自衛権  国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているとされています。わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています」と載っている。
 ではなぜ、安倍はこうしたことを強行しようとしているのか。それは第一には米国からの強い要求である。米国は、日本に対して、日本本土の米軍基地提供、米軍の湾岸戦争、イラク・アフガン戦争などへの資金援助、後方支援を要求してきたが、集団的自衛権の行使問題では自衛隊の実戦参加、日本人も血を流せ、命をささげろということだ。
 つぎに日本の支配層にとっては、そうすることによって米国の力を背景に政治・軍事大国となり、地域の覇権を確立することである。
 現在、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で類型研究などをおこなっているが、それは突破口でしかない。目的は米軍の世界的展開の中で自衛隊が補助兵力として運用されることなのである。
 内閣法制局長官の強引な首の挿げ替えと集団的自衛権の行使の容認は、憲法九条を破壊するものであり、アジア近隣諸国との軍事的緊張をいっそう高める。安倍の政策は「戦争のできる国づくり」と批判されてきたが、まさにその危険が急速に高まっている。時代は「新たな戦前」の状況だ。
 集団的自衛権の行使容認絶対反対の運動を与党・公明党をも巻き込みながら強力におし進めていこう。

 8月7日 5・3憲法集会実行委員会の国会前で「集団的自衛権の行使を合憲化するための内閣法制局長官人事に抗議する」行動 

 集団的自衛権の行使を合憲化するための内閣法制局長官人事に抗議する(要旨)

 ……新長官に任命されることになった小松一郎氏は、第一次安倍内閣で設置され、集団的自衛権行使の「四類型」をまとめた安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)において、その構成と立案にかかわった人物といわれています。憲法を否定する議論を誘導し、憲法を覆す法律をつくることを提唱する諮問機関を動かしてきた人物を、憲法解釈の重要な責任者に任命するのは、憲法への公然たる反逆であり、憲法の尊重擁護義務を定めた九九条への違反にほかなりません。
 いったん、集団的自衛権の行使に風穴が開けば、その範囲は限りなく拡大させられ、日本は世界のどこででも戦争ができる国になるでしょう。……。
 私たちは、憲法違反を容認するための今回の内閣法制局長官人事を撤回し、集団的自衛権の行使が明らかな憲法違反であることを内閣と国会が再確認するよう要求します。


2013 ピースサイクル

     
 反戦・平和を訴えて完走

●ながのピースサイクル
 今年夏の長野ピースサイクルは、初参加の二名を迎えて、七月二七日に長野県松代を出発して、七月二八日新潟県柏崎までの二日間を延べ一九名が、約一四〇kmを平和への思いをこめて自転車で走った。
 七月二七日は朝の内はちょっと曇り気味の中を自転車一三台、伴走車三台が松代大本営跡近くから出発した。出発地を松代に決めたのは、私たちの意識の中でマツシロはヒロシマ、ナガサキ、オキナワ(戦争被害の地)へつながっていく場所(戦争加害の原点)だからである。安倍政権になってから、「日本の戦争責任何処吹く風」と言った感じで、「いつか来た道」への暴走が始まっているが、長野ピースサイクルは自分たちの平和への思いを考える時、加害の責任を忘れずに走ることを意識している。陽が高くなるにつれて、夏本番の暑さ中の走行となる。途中、毎年立ち寄っている須坂市の長野ソフトエネルギー資料室のメンバーと交流し、脱原発への意思を確認しあった。
まもなく、長野ピースサイクルならではの急な坂道へ突入した。昼には飯綱町九条の会のメンバーの歓迎を受けて昼食と休憩で、今年は、ここで二〇年近く前にピースサイクルに参加し、当時学生だった女性が家族連れで激励に来てくれた。
急な坂道を「なくそう!原発」の黄色い旗(ピースサイクル全国ネット統一)をなびかせて登りはじめた頃には、猛烈な雷雨が…。いつものことながら、この坂を登り切った参加者の顔は達成感と感動があふれていた。
 雨の中を長野県と新潟県の県境を越えて、新潟県の新井まで、下りの道を日本海の方に向って走った。到着間際に、パンクや転倒など若干のハプニングはあったが大勢に問題無く全員ホテルに到着。
 夜の夕食を兼ねた交流会では、翌日柏崎刈羽原発で行う東京電力への申し入れ行動で渡す要請書の内容をみんなで確認したり、改憲に関わる話などを学習担当が最初に取り上げたあと、それぞれ自己紹介やピースサイクルへの思い、平和や戦争、その他人生観まで語り合った。
 翌七月二八日は、最初はサイクリングには快適なほどよい涼しさの天候。総勢一三名が柏崎刈羽原発めざして新潟県の田園地帯をひたすら走り、昼頃には日本海の見える国道八号線へ、適当なアップダウンがあるので結構つらい。それでも、自転車は元気に柏崎刈羽原発手前の急な坂を登り切って、二時半頃には柏崎刈羽原発のPR館へ到着した。先に到着していたピースサイクル新潟のメンバーと合流し、一年ぶりに再会した。
ここで、東京電力に対して要請行動を行ったが、今年は「柏崎刈羽原発再稼働反対、原子力からの撤退を求める申し入れ」となった。東電側の対応は昨年より若干低姿勢ではあったが、相変わらずテプコ館の外での対応であった。「新潟県知事が東電に要請していることは当然」とする私たちの申し入れに対しては「あなた方の申し入れは必ず社長はじめ上司に伝えます」とは言うものの、「原発の再稼働」に関しては、「安全審査の申請は再稼働を前提としていない」と答えたり、私たち側からの「今でもPR館の中では原発は安全と宣伝しているのではないか」という質問に「絶対安全とはPRしていない」などと答えが返ってきた。申し入れ行動は三〇分ほどで終了。
長野ピースサイクルの夏の実走は終了したが、長野県内の自治体や市民からのピースメッセージは八月六日のヒロシマ、八月九日ナガサキ、そして沖縄県知事、安倍首相へと全国の仲間にリレーされて、届けられることになっている。
 今年は参加が出来なかったものの、学生の頃に参加した人たちと数多くの連絡がとれて、「原発、憲法、戦争といったことに日常的に関心を持っていて、何かしようと考えている」という様なメッセージや多額の賛同費を送ってくれたりと、これまでになかった動きが見え始めた長野ピースサイクルだった。二日間みんなで走ることだけに終わらせないピースサイクル運動通年化のために、八月下旬から再び実行委員会が予定され、昨年通巻が長野県立図書館に所蔵された、報告集「思いをつないで…」の作成や次の行動への準備が始まる。  (O)

●さいたまピースサイクル
 埼玉ピースは今年も熊谷、神川、浦和、北本の四コースで行われた。今年の梅雨は例年より一週間も早く明け、昨年の猛暑を予想していたが、当日の蒸し暑さは強いものだったが気温もそう上がらずまあまあのすべりだしとなった。各コースとも八時半に出発し、午後三時に東松山市に集合して丸木美術館まで参加者全員で走り、交流会を行った。この日、自治体訪問は一四ヶ所。浦和コースでは昨年のような県庁とのトラブルもなく要請行動を行った。他の自治体も例年通り友好的な対応であった。各自治体に対する要請書を紹介する。 ―東日本大震災の発生から二年以上経過した今日も、福島第一原発ではいまだに収束のめどは立たず、避難者一六万人と福島に残る人々は苦しい生活を余儀なくされています。ところが、安倍政権はこの状況を省みることなく、休止中の原発再稼動、新規の原発建設、原発の海外へ売り込みと、原発推進へと先祖返りを初め、国民が望む民意とかけ離れた政治を行おうとしています。私どもピースサイクル埼玉ネットは、三・一一大震災の発生以降、微力でありますが、復旧・復興に向け、「細く・長く」支援することを決定し、取り組みを行ってまいりました。また、反原発の立場から、東電前での宣伝行動や署名活動をも行ってまいりました。一方、憲法「改正」の動きが著しくなっています。安倍政権は、政権発足後しばらくは「安全運転」を行ってまいりましたが、三月末、「維新の会」の改憲発言以降一気に暴走し、メディアも参議院選挙では「改憲・九六条を焦点にする」と報じました。九六条改悪の先にあるのは九条改悪=「米国と一緒に戦争のできる国作り」であることは間違いありません。また、自民党改憲素案では憲法を「権力を縛るもの」から「国民を縛るもの」に根本的に変えるものとなっており、私達は、「戦争反対」「憲法改悪阻止」を掲げ、運動を継続してまいります。―
 このほか六点にわたる要請項目として「平和を願う宣言」に対する予算措置をすること。核兵器廃絶を政府に要請を行うこと。広島、長崎の原爆投下日には犠牲者を追悼し、戦争を風化させない取り組みを行うことなどを提出した。この要請に対し、各自治体とも回答、メッセージをピースサイクル埼玉ネットに寄せられた。ある自治体では、毎年夏に平和を考える月間を設定し、戦争体験談、中学生による平和ポスター、平和標語の展示、平和映画会などを行い、核兵器のない平和な世界が一日も早く実現するようにと市民とともに啓発事業を取り組んでいる。東松山市で四コースが集合し、要請行動のあと丸木美術館に向かい、そこで交流会を行った。到着三〇分後には豪雨となり交流会の短い時間で終了となったので事務局の提案で秋にもう一度交流会を開くことで散会となった。  (A)

●しこくピースサイクル
 四国電力は、七月八日の新規制基準の施行を受けて、北海道、関西、九州の各電力会社と共に原子力規制委員会に対して、再稼働の審査を申請した。中でも四国電力の伊方原発三号機は、ザルだらけの新規制基準を唯一クリアーしているとして再稼働の一番手に挙げられている。
 過酷事故時に原子炉格納容器内の圧力を下げる「フィルター付きベント」は、加圧水型原子炉には五年の猶予期間が与えられているために、一五年度末までに設置の予定であると実に悠長な構えである。原発が立地する佐多岬の沖合い八キロ地点を走る中央構造線活断層帯は、南海トラフと連動して巨大地震を引き起こすと危惧されているが、地震の想定や津波対策も過小評価のまま据え置かれている。何よりも新規制基準申請の条件に盛り込まれていたはずの、万全な防災対策がリンクしないとされたことは重要だ。愛媛県が昨年の秋に実施した原子力防災訓練では、荒れた天候の影響でヘリも船も使えず、原発周辺の住民が取り残されるという大変な事態が起こっている。如何に、新規制基準が謳う安全・安心が欺瞞に満ちたもので、住民の犠牲を黙殺した、再稼働のための申請であるのかを如実に物語っている。 

 八月三日は土曜日、八幡浜港で大分ピースサイクルと合流して、今年の四国ピースサイクルはスタートした。例年だと、八幡浜市役所、伊方町役場を訪問して要請を行うのだが、生憎、両自治体とも土曜閉庁のために要請書を事前送付して済ませた。原発立地自治体伊方町の山下和彦町長は、六月定例町議会初日の招集あいさつで、原発の全機停止による地域経済の低迷を挙げ「原発に大きく依存したこれまでの地域振興策を見直し、地域資源を生かしたまちづくりに取り組む必要を強く感じる」と発言した。原発廃炉の四〇経年ルールが高いハードルとなり、危険と引き換えに手にしてきた原発交付金頼みの町財政が立ち行かなくなったのだ。まさに長年にわたって要請してきた事が、今、嘆きや悔いとなって原発立地自治体を襲っている。例年より早く到着したゲート前では、いつも快く迎えてくれる地元の市民グループの人たちと一緒に「伊方原発三号機の再稼働に反対し、廃炉を求める」要請行動をおこなった。四国電力のマニュアルどおりの回答に怒りを覚えながらも冷静に抗議をし、要請行動を終えた。
 翌日は実走しながら伊方原発から約五〇キロの松山市内へと入る。フクシマでは全村避難の放射能汚染地帯と重なる距離だ。ここでも沢山の地元市民グループの人たちに迎えられて、街宣行動をおこなう。ビラを受け取り、立ち止まって熱心に話に耳を傾ける若者などをみると、福島事故以降の関心の高まりはまだ消えていない、まだ大丈夫だ、と感じた。地元の方たちの「なんとしても再稼働を止めたい」という鬼気迫る思いを受け止めて、大阪ピースサイクルが待つ呉行きフェリーに乗り込んだ。
 最終日は合流した大阪、岡山、島根のピースサイクルと共に広島平和公園を目指した。今年は到着集会の時間が早くなったので、海上自衛隊呉基地へのフィールドワークは断念した。自転車一三台、伴走車四台で街宣をしながら、午前一一時に無事に原爆ドーム前に到着した。地元広島からピースサイクル全国ネットワーク共同代表の伊達工さんの歓迎のあいさつを受けた。続いて、到着集会を担当した各代表者のあいさつ、そして、各地で要請行動を行いながら実走してきた、長崎ピースサイクルを始めとする各ルートからの報告が次々とおこなわれた。
 「核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。」
 自らの過ちを正し、生涯を核廃絶に生きた森滝市郎さんの言葉を心に刻み、原爆ドームを後にした。今夏も暑くて、熱いピースサイクルが無事終了した。 (Y)


政財界の雇用規制改革の狙いは、正社員から限定正社員への移行

                  
 全労協「労働法制改悪反対!学習集会」

 安倍政権の再登場とアベノミクスによる成長戦略によって、労働法制の改悪が一気に押し進められようとしている状況下で、全国労働組合連絡協議会(全労協)は労働法制プロジェクトを発足させ闘う態勢をつくり改悪阻止闘争に取り組んでいる。

 八月二日、全水道会館大会議室で、全労協・労働法制プロジェクトの主催による「労働法制改悪反対!学習集会」が開かれた。

 主催者挨拶で中岡基明全労協事務局長は、特区による抜本的労働規制緩和の突破を批判した。日経新聞は東京、大阪、愛知を国家戦略特区に指定し、そこに本社があれば地方の支店にも適用するとする法案を来年の通常国会にも提出することを政府が検討していると報じた。こうした労働ビッグバンを断じて許してはならない。

 つづいて、毎日新聞記者の東海林智さんが、「政財界の雇用規制改革の狙いはなにか? 〜限定正社員化が目指す未来〜」と題して講演した。
 安倍政権の労働政策は、規制改革会議雇用ワーキンググループの考え・問題意識そのものであり、そのキーワードは「人が動く」ということだ。非正規と正規の二極化の問題へ対応し、「労働者の能力に見合い、努力が報いられる賃金上昇を図ること、ライフサイクル・ライフスタイルに応じて多様な生き方を創造できること、更に人口減少社会が進むなか、経済を再生して成長力を強化することが緊急の課題となっている」として、そのために「雇用の多様性、柔軟性を高める政策を展開し『失業なき円滑な労働移動』を実現」させるという。@正社員改革、A民間人材ビジネスの規制緩和Bセイフティネット・職業訓練の整備・強化が必要だという。しかし、こうした論議の中では、労働者にたいして「価格調整」「余剰在庫」などという言葉が飛び交っていて、こうした思想がもつ問題は大きい。
 さて、規制改革会議は、正社員改革ということで、正社員を@無期雇用AフルタイムB直接雇用をはじめ「勤務、勤務地、労働時間(残業)が限定されていないという傾向が欧米に比べても顕著であり『無限定社員』となっている」として、「勤務、勤務地、労働時間が限定されている正社員=ジョブ型社員」を増やすといっている。これが「限定正社員」という新しい階層だ。これを「非正規と正規の間」に位置づける。しかし正社員は本当に無限定で働く存在だろうか。過労死・過労自死の現状を見ればあきらかだ。そして、勤務地、職種、労働時間が限定されている期間の定めのない労働者は、流通業における地域限定社員などを想定すればはっきり見て取れるように、賃金は安くそして解雇しやすい労働者以外の何者でもない。ジョブ型社員という言葉を使ってはいるが、本来のジョブ型とは似ても似つかぬものだ。
 この限定正社員は、かつての日経連の「新時代の日本的経営」(一九九五)の「雇用のポートフォリオ」の具現化である。それは、正社員から限定正社員への移行について本人同意が必要というが、実際にはごりごり進められている。その一方で非正規雇用から限定正社員の道は示されていない。こうして、企業は非正規は温存したまま、正規の限定化を狙っているのである。JPの新一般社員などがその典型だ。
 そして、「人動く」がキーワードなので、企業に従業員を解雇しないで確保させる雇用調整助成金をどんどん削り、就労支援資金が増える。就労支援資金は、解雇、退職から就職活動、新たな企業への就職などにからむ人材ビジネス企業に大きな金が流れていく仕組みだ。
 こうした規制改革会議が目指す労働法制の改悪がなされれば、労働者派違法の常用代替禁止をなくして、非正規とあまり変わらない限定正社員が増える。また裁量労働制が緩和され、かつて闘いで導入を阻止したホワイトカラーエグゼンプションのようなものが蔓延する。
 労働組合は限定正社員問題など政財界の雇用規制緩和に反対するおおきな運動をしなければならない。そして労働時間短縮の闘いに真剣に取り組んでいかなければならない。それは組合活動の時間確保のためにも必要なことだ。

 
 東海林さんの話に続いて、職場報告として、郵政産業労働者ユニオン、都労連、東京東部労組、全統一労組などから、限定正社員(新一般職)、裁量労働、長時間労働、派遣労働の実態などが報告された。

 全労協・労働法制ポロジェクト事務局の遠藤一郎さんが、今日の学習集会を契機に、限定正社員の導入など労働法制の改悪に反対するために、労働組合は大きく連帯して闘って行こう、全労協は闘い抜くとまとめの言葉を述べた。
 最後に参加者全員は、団結ガンバロウで、一致して闘う決意を確認した。


尖閣棚上げ論はあった   栗山元駐米大使の証言

 日中関係が緊迫化している。八月五日に発表された日本の非営利団体「言論NPO」の第九回「中日共同世論調査」の結果によると、日本人の中国の印象が「良くない」は九〇・一%(昨年八四・三%)、中国人で日本の印象が「良くない」とする回答は九二・八%(同六四・五%)となった。理由は、日本が「領土紛争」(五三・二%)、「歴史問題」(四八・九%)、中国でも、「領土紛争」(七七・六%)、「歴史問題」(六三・八%)となった。尖閣諸島(釣魚島)をめぐるものが第一だ。
 この尖閣問題では、一九七二年の日中国交正常化以来、いわゆる「棚上げ」があったのか否かということが問題の解決に大きく作用する。日本政府はないといい、中国側はあったという。 いま、ようやく日本の外交関係者のなかでも論議が盛んになってきた。日中国交正常化交渉時の外務省条約局条約課長でのちに外務事務次官、駐米大使になった栗山尚一が、外務省の現役職員、OBなどで構成する「霞関会(かすみがせきかい)」の『霞関会会報』二〇一三年五月号に『尖閣諸島問題を考える』を寄稿している。
 一九七二年九月の日中国交正常化は、前年七月のニクソン政権の日本の頭越しの中国との関係改善の発表、一〇月の中華人民共和国の国連代表権回復、七二年二月のニクソン訪中という流れの中で、それまでの佐藤栄作内閣の反中国政策の見直しに動いた当時の田中角栄首相、大平正義外相コンビによる政治決断だったが、それを具体化したのは外務省官僚である。しかし、その交渉では、いわゆるチャイナ・スクールは完全に排除され、いわゆるアメリカ・スクールが仕切り、橋本恕中国課長を中心に、高島益郎条約局長、そして栗山条約課長などごく限られた官僚たちの手によるものだった。そのなかで栗山は日中共同宣言の草案作りなど事務的なつめで大きな役割を負っていた。その栗山の証言は重い。

 「国際紛争を平和的に解決する方法としては、三つの選択肢しかない。第一は、外交交渉である。…。第二の選択肢は、司法的解決(国際裁判)である。…。残された最後の選択肢は、『解決しないという解決策』である。筆者は、これを『棚上げ』と呼ぶが、『先送り』といってもよい。要するに、紛争の原因となっている問題を無理に解決しようとすると、失うものが大きいとの認識が、当事者間で共有されれば、将来何かよい智恵が浮かんでくるまで、現状のまま事態を静観しよう、という『解決策』である」と、まずは栗山の原則が展開してある。 
 「九月二十七日の第三回日中首脳会談の席上で、突然、田中総理が、『どう思うか』といった口ぶりで尖閣問題に言及したことは、事務方にとっては想定外の出来事であった。しかし、これに対して周首相が、この問題については、『今回は話したくない。今、これを話すことはよくない』と応じたので、それ以上議論は発展しなかった。筆者は、この時の両首脳間のやり取りの結果、紛争処理の第三の選択肢である『解決しないという解決策』についての黙示の了解が生まれたと理解すべきと考え、これを『棚上げ』と呼んだのである」。以上は、一九七二年の北京での日中首脳会談での出来事だが、次はそれ以降の話だ。
 「一九七八年八月に訪中した園田外務大臣は、日中平和友好条約交渉妥結後に会談したケ小平副首相に対し、同問題を提起したが、同副首相は、この問題の解決は将来世代に委ねるべしと述べ、それ以上の議論に応じなかった。同年十月平和友好条約批准書交換の機会に来日した同副首相は、記者会見の場で、改めて同趣旨の発言を行ったが、これに対する日本側の反論は、筆者が見る限り、見当たらない。こうした経緯に照らせば、七二年の国交正常化の際に、田中総理と周首相の間で成立した、尖閣諸島問題は決着を付けずに当分の間『棚上げ』(問題解決を先送り)すべしとの了解は、七八年に再確認されたと考えるべきであろう」。 そして、こうした歴史を前提に以下の提言をしている。        
 「世上、尖閣諸島問題については、領有権に関する日本の立場は、強固なのであるから、中国側の『棚上げ』論に同調すべきではない、との批判がある。中国の主張(日中間には、「棚上げ」についての明確な合意が存在する)は、確かに一方的に過ぎるが、先に述べた七二年、七八年の経緯を見れば、中国側が『棚上げ』を主張し、日本側がこれを暗黙裏に受入れたというのが事実の正確な描写であると思われる。そして、その裏には、同問題に決着を付けようとすれば、その過程で、失うものがあまりにも大きい、との日中双方の共通認識があったと考えられる」。
 「日中両国は、このような事態を回避し、脱線状態にある両国関係を早急に軌道に戻す復旧作業に取り組む責任がある。そのためには、わが国は、『領土問題は存在しない』として、中国の『棚上げ』論に門前払いとの立場で対応しているのではなく、今、一度、七二年の原点に戻り、当時の両首脳間の了解を再構築することを真剣に考える必要がある」。
 
 栗山論文は大きな反響を呼んだが、予想通り反論する論文が早速『霞関会会報』二〇一三年年七月号に掲載された。池田維・元交流協会台北事務所代表(元外務省アジア局長)の「尖閣領有権に『棚上げ』はあったか?」である。そうした合意はなく、「今日の中国の硬直化した対外姿勢は、国内の諸要因を背景に、当分変わることはなさそうである。日本としては中国に対し対話と交流のドアは常に開きつつも、同時に、日米同盟関係の強化、沖縄県南西諸島の防衛、内外世論戦への対応などに一層の努力を傾注する必要があると考えられる」とするものだ。
 
 こうして外務省とその周辺でも、「棚上げ」論をめぐっての論議がおきはじめたが、いまこそ日中両国は外交文書の公開を急ぐべきである。
 なお、七二年日中首脳交渉の記録の改ざんが外務省一部官僚によってなされたとする疑惑が取りざたされている(矢吹晋『尖閣問題の核心』(花伝社)など)。


安倍外交の指南役
      谷内正太郎の思想と政策    
 谷内正太郎と若泉敬・土曜会

チーム・ヤチ


 本紙前号の「冷戦思考の復活 ― 安倍内閣の『価値観』外交」は、現段階の日本外交の特殊性として、著しいイデオロギー性をあげた。
 安倍政治が近隣アジア諸国だけでなく、欧米からも孤立(最近の例では麻生のナチの手法での改憲論発言など)するのは、外交路線で自由、民主主義、基本的人権、市場経済、法の支配などの「価値」をかかげながらも、実際には「日本を取り戻す」というスローガンが、旧い日本すなわち大日本帝国の時代を取り戻すという、古めかしい反共・国家主義の本性が見え隠れするからである。
 安倍外交のブレーンは、谷内(やち)正太郎内閣官房参与を中軸に、兼原信克官房副長官補、谷口智彦内閣官房内閣審議官、そして斎木昭隆外務事務次官などである。
 谷内正太郎(一九四四年〜 )は、外務事務次官(二〇〇五年一月〜二〇〇八年一月の三年という異例長さ)当時に第一次安倍内閣・麻生太郎外相の外交方針として「価値観外交」「自由と繁栄の弧」を策定し、二〇一二年暮れからの第二次安倍内閣では内閣官房参与となった。
 谷内は「攻めの外交」を展開しようとしているが、この人物の外交路線は、これまでの外務官僚とはちがって、極端な反共・国家主義の色彩が濃厚なのが特徴だ。そうした傾向が国家機構の一部に無かったわけではないが、現在の安倍内閣ではそれが国家外交の中枢にすわって全開しようとしていることに注意を向けなくてはならない。
 谷内という重要人物の思想はどのように形成されてきたのか。
 そこには「若泉敬」と「土曜会」というふたつのキーワードが存在する。では谷内とそれらとの関係を見てみよう(では若泉外交論と谷内との関係)。

谷内の師・若泉敬

 『外交の戦略と志 前外務事務次官谷内正太郎は語る』(産經新聞出版)で、「若泉敬氏との出会い」について谷内は次のように書いている。

 ――私の人生を語るうえで、若泉敬さんとの出会いを欠かすことはできない。若泉さんからは非常に大きな影響を受けた。若泉さんと出会ったのは大学時代のことだったが、一言で言えば至誠の人だった。彼の存在、生き方自体が、私には大きな風圧というか凄みを感じさせた。私には到底、彼のような資質はないと思ったが、手本にすべき人だと思った。
 出会いは大学一年生の秋、友人に誘われて「土曜会」という読書会に入った時だ。土曜会というのは昭和二〇年代にできたもので、当時の風潮に反発する民主主義、自由主義の学生が、大学を横断して作った団体だ。河合栄治郎とか小泉信三といっても、今の若い人にはピンと来ないと思うが、左翼にあらずんば人にあらずという時代、絶対的少数派とはいえ、そういうリペラルな学者の思想に、影響を受けた人たちが作ったグループで、私の学生時代もか細い明かりを灯すような活動を続けていた。その土曜会の最もアクティブな頃の有力メンバーだったのが若泉敬氏だ。
 私が知遇を得た頃の若泉氏は、防衛研修所の教官だったが、先輩として会合に時々参加されていたので、ご指導を得ることができた。そして私が外務省に入った際、たまたま独身寮に入れなかったことから、若泉氏に相談した。そこで「私の家に来なさい」ということになり、荻窪のご自宅に約一年間、居候させてもらうことになった。若泉氏からは「自分は外務省では毀誉褒貶のある人間だから、私との関係は省内で絶対に言わない方がいい」と何度となく言われた。――
 若泉敬(一九三〇〜一九九六年)は、日本の国際政治学者で、沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たした。返還後の沖縄の米軍基地は「核抜き本土並み」と公表されたが、実際には「核密約」があった。それは「重大な緊急事態」の際、核兵器の沖縄への再持ち込みについて日本政府が「米国政府としての諸要件を理解し、そのような事前協議が行われた場合には、これらの要件を遅滞なく満たすであろう」と「核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めることだった。核密約については前々から存在が言われていたが、二〇〇九年、民主党への政権交代後に当時の岡田外相の「日米交渉を巡る密約」調査で確認・発表された。すでに若泉自身、一九九四年に著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス――核密約の真実』(文藝春秋)で最高国家機密をあえて明らかにした。沖縄に犠牲を押し付けた自責の念からともいわれる。若泉の著書によって公然化されたこの大スキャンダルは、国会でも追及されたが、当時の自民党政府は一切認めなかったのである。

 数年前に、TBS「シリーズ激動の昭和 総理の密使〜核密約四二年目の真実〜』というドラマが放映された。主人公は俳優の三上博史が演じる若泉だが、ラストシーンで若泉が谷内正太郎(眞島秀和)を送り出す姿がある。谷内は『外交の戦略と志』で記している。

 ――平成八年七月に亡くなられたのだが、その一ヵ月ほど前に伊勢神宮に案内していただき、一緒にお参りをした。帰りに、私は東京行きの新幹線に乗った。若泉さんは、いまにして思えば死期を悟っていたのか、ホームまでわざわざ見送りに来てくださって、別れ際、「日本のことを、頼む」と、しかも手を合わせて言われた。一介の外務官僚にすぎない人間にとっては、大変重い言葉だった。――

 若泉の霊が谷内に乗り移ったようだ。

「土曜会」という集団

 さて若泉の思想、そして谷内の思想を語る上で重要なのは、学生研究集団「土曜会」という存在である。これは谷内の言うような「当時の風潮に反発する民主主義、自由主義の学生が、大学を横断して作った団体」などというやわなものではない。

 時代は、敗戦直後の東大での左右両翼の攻防の最中である。「土曜会」設立のメンバーで、のち警察官僚、内閣安全保障室長、危機管理評論家の佐々淳行は『焼け跡の青春・佐々淳行 ― ぼくの昭和二〇年代史』(文藝春秋)で「土曜会」結成について記している。

 ――全体主義の最大の欠点は、下っ端幹部がのさばることだ。だから『カーペー』(KP=ドイツ語で共産党の略、当時の学生用語)には天下国家は任せられない。そう考えたぼくは、暴力革命に反対の体制内改革派の同志を募り、その勢力を総結集し、東・早・慶・中央など各大学横断の自由民主ミニ・全学連、「学生土曜会」を結成し、全学連に対抗する学生運動を展開した。
 当時の仲間には、青山学院の中尾栄一氏(元建設大臣)や、早大の藤波孝生氏(元官房長官)、東大の橋本恕氏、岩崎寛弥氏、粕谷一希氏(「中央公論」編集長を経て都市出版社長)、若泉敬氏(京都産業大学教授)、京大の八城政基氏(新生銀行会長)など錚々たる人物がいた。「土曜会」とは毎週土曜日に集まっていたことからついた名称だ。
 「学生土曜会」の前身は、兄や相野田肇氏(熊平金庫店)が創設した「学生運動民主化同盟」(学民同)だった。そして友誼団体は、「東大新人会」だった。新人会のリーダーは、渡邊恒雄氏(読売新聞会長)、氏家齋一郎氏(日本テレビ放送網会長)だった。――

 なお橋本恕は、日中国交正常化時の外務省中国課長でのち中国大使となった。岩崎寛弥は三菱の創業者・岩崎弥太郎の嫡孫で三菱銀行取締役などを歴任した。そして文中の兄とは朝日新聞記者で作家の佐々克明のことである。
 たしかにそうそうたるメンバーである。かれらの特徴は、反共・国家主義の思想の実現を国家の内部から実現していくということだ。

「有志の会」の活動

 土曜会の社会人組織としては「有志の会」がある。六〇年安保のときだ。

 森田吉彦『評伝 若泉敬――愛国の密使』(文春新書)は書いている。

 ――若泉をはじめとする土曜会の輪は、安保闘争の危機感からさらに別の形の運動を生み出しもした。それが、一九六〇年、土曜会OBたちの呼びかけで結成された有志の会である。名称は、当初は「東京大学卒業生有志の会」であったが、発起人たちがそうであったというだけで枠を東大に限定する意図はなく、発会式のときに「有志の会」と改められている。彼らは、全学連の過激な活動と岸内閣の指導力不足に対して批判を加えるだけでなく、それでは自分たちに何かできるかを話し合った。その結果、社会人となった卒業生が、現下の騒動の大きな舞台となっている大学との間に話し合いの場を持つこと、無責任なジャーナリズムに任せておらずに、若い知識層の良識をもっと積極的に訴えかけることを考えたのである。彼らはまずカンパを募り、学士会の名簿を利用して無作為に選んだ二万八千人に、八月付で「われわれは来るべき総選挙をこう考える」と題した声明文を発送した。――

 「声明文」は「有志の会」「土曜会」の主張が鮮明に表現されている。それは、「今われわれが認識すべきことは、わが国が東西両陣営の冷戦の渦中に巻きこまれ、その重要な焦点となっていることである。このような厳しい国際的環境の中に置かれているにもかかわらず、日本人同士が絶対主義をふりかざして国論を分裂させ、互いに血を流し合っていることはまことに不幸なことである。何よりもまず、統一ある自主的な法治国家として恥しくない秩序を回復しなければならないと信ずる。/来るべき総選挙は、わが国の運命を決するきわめて重要な意義をもつものである。われわれの前に置かれている選択は、自由諸国と共に歩みつつも、他国に対する安易な依存の態度を捨て国際社会における日本の自主独立の主体的立場を確立するか、それとも、安保体制そのものを性急に廃棄して自由諸国と離れ、結果として共産陣営の一衛星国となるか、について態度を明らかにすることである。/われわれは前者の途を選ぶ。」とアピールしている。
 卒業後、彼らは国家の高級官僚、一流企業、マスコミなどの中枢にすわり、横断的な交流で影響力を拡大していった。

右翼運動への積極支援

 土曜会は体制内部からの反共・国家主義革新運動だといえるが、もっと直接的な右翼運動との関係がある。とくに若林はそうだった。森田『評伝 若泉敬――愛国の密使』はその様子を左のように描いた。

 ――若泉自身は学生運動に同情的であったようである。遡る一九六八年六月一五日には、若泉が森田必勝らの全日本学生国防会議結成集会にかけつけ、高坂正堯とともに記念講演を行うという一幕もあった。取材陣の耳目を集めたのは、作家三島由起夫の万歳三唱と、今村均元陸軍大将の祝辞であった。靖国神社を出て乃木神社へ到るデモ、『暴力革命を許すな』『全学連打倒』のプラカードなどを目の当たりにして、若泉も、かつての自分の姿を重ね合わせつつ時代は変わると意を強くしたかもしれない。――

 森田必勝は全日本学生国防会議の初代議長で、三島由紀夫が市ヶ谷台の陸上自衛隊東部方面総監部で自衛隊に決起を呼びかけた後に三島とともに自決した。
 右翼学生運動への激励という積極的な加担であり、たんなる学者とはちがった若泉の反共・国家主義の政治家としての側面を物語るものである。
 なお、前記引用に続いて「しかし、現実の変化は彼の期待とは違っていた。一連の学生運動は「七〇年安保」以後は退潮を迎える。それは、沖縄返還以後の若泉の展望と期待から日本全体が外れていく、その過程の一側面でもあった」とある。(つづく)  (K)


KODAMA

    
「アジア力(あじありょく)」とはなんだ? 

 昨今、「東アジア共同体は死語になった」。鳩山内閣の「東アジア共同体」論は多くの人びとに平和と繁栄の夢を与えた。しかし昨年暮れの安倍内閣の再登場と日米安保基軸論、中国・韓国との対立は、まさに本文冒頭のような気運を蔓延させているようだ。「しかし東アジア共同体構想は、どっこい生きているのである。いや単に外交構想として生きているだけでない。それは、東アジア諸国の政府間交渉の場で着実に実現の道のりを歩み続けているのである。それは次の三様の地域協力の制度化、つまりは地域共同体形成の動きとして展開されている。まず、FTA網を軸にした通商共同体。次いで、貿易と投資を金融面で支える金融共同体―さらに、域内インフラ整備を軸にした開発共同体。それら三様の動きが……食料食品生産共同体―もしくは人間安全保障共同体―の動きと重なり合う。」
 こうした論を展開しているのが進藤 榮一著『アジア力の世紀――どう生き抜くのか 』(岩波新書)だ。
 著者は、「第1章 衰退する帝国、興隆するアジア」「第2章 情報革命がつくるアジア力」「第3章 TPPから人間安全保障共同体へ」「第4章 中国という存在」「第5章 相互補完するアジア」「第6章 欧州危機から見えるもの」「第7章 日本の生きる道―いま何をなすべきか」の全編で、「アジアが領土問題と歴史問題で争いあっているにもかかわらず、その底流には、近代以降初めてアジアが、一日経済圏を背景に『一つのアジア』として相互連携を強め動き」を解明しようとしている。  (M)


複眼単眼

  
 麻生太郎の発言の真相と真意

 また失言癖のあるあの麻生太郎がやったか、という程度の話ではすまされない。
麻生副総理兼財務相は七月二九日、国家基本問題研究所(理事長・桜井よしこ)が開催した月例研究会の場(司会は桜井)で、維新を除名された西村眞悟衆院議員、民主党の極右派の笠浩史衆院議員、右派の論客の田久保忠衛など札付きの右翼が同席したもとで憲法改正について発言した。

 麻生は「(日本の憲法改正論議を)狂騒の中でやってほしくない」と述べたうえで、「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と語った。

 主催者の桜井によれば麻生はこの「国基研」の動きに皮肉を込めて、冒頭から「最近は左翼じゃないかと言われる」と述べて牽制しながら、「憲法改正論議の熱狂」をいましめたという。この点で桜井は麻生に不満を抱いている。桜井によれば、この場で麻生は「憲法改正なんていう話は熱狂の中で決めてもらっては困ります。ワアワア騒いでその中で決まったなんていう話は最も危ないという趣旨の主張を五度くり返した」という。その後に例の「ナチスに学べ」発言が飛び出したのだと桜井は説明する。桜井の解説通りだとすれば、麻生には第一次安倍内閣において、安倍の同志である桜井ら極右改憲派が、安倍の改憲の進め方が生ぬるいと右から攻撃し(麻生がワアワアというのはこれか)、それが安倍首相にとってボディ・ブローのように効いた苦い思い出への警戒心が前提にあったということかもしれない。

 だから桜井は「熱狂しているのは護憲派である。改憲派は自民党を筆頭に熱狂どころか、さめている。むしろ長年さめすぎて来たのが自民党だ。いまこそ自民党は燃えなければならないのだ」と居丈高に麻生に反論するのだ(産経新聞八月五日)。

 桜井は、こうして麻生に反論し、返す刀で「朝日新聞の事実の歪曲の手口」に斬りかかっている。
 この桜井の「朝日憎し」の言いぐさは全くおかしい。実は今回の麻生発言の暴露では、朝日は他紙とくらべ一日遅れの及び腰であった。あたかも朝日新聞が先行して麻生を陥れているかのような桜井の議論は、底が割れてしまっている。
 それにしても麻生発言のひどさだ。ナチスは「ナチス憲法」など作っていない。ヒトラーは「ある日気づいたら」「静かなうちに」独裁体制になっていたのでも全くない。

 民主的といわれたワイマール憲法下で、反ユダヤなどナショナリズムを煽り立て、第一党の座を獲得したナチスが、国会放火事件など様々な陰謀を弄して、共産党や左派を攻撃し、悪名高い「全権委任法」を成立させ、熱狂の中で国民投票などを乱用しながら、ユダヤ人迫害の法律を相次いで作り、侵略戦争へと暴走していった。有名な「茶色の朝」は「ある日、気づいたら」どころではなく、ヒトラーは基本的人権を破壊する陰謀と弾圧の嵐・熱狂のなかで、その権力を行使したのだ。麻生はこの「手口」を学べといったのだ。麻生発言はこの点で政治家としてアウトである。この人物を副総理に任命した安倍首相も責任が問われるところだ。こういう発言の場を作った桜井らもまさに同罪だ。

 今回の麻生発言は歴史の事実認識でも支離滅裂な低次元のものではあるが、その真意が安倍晋三に「ナチスの手口をまねてでも」改憲をうまく進めよと忠告するところにあるだけに、絶対に容認できないものだ。  (T)