人民新報 ・ 第1417号統合510号(2023年1月15日)
  
                  目次

● 米国の反中軍事同盟に組み込まれる日本

      大軍拡・大増税・国会無視の岸田内閣打倒へ
 
          2023年安保闘争を闘いぬこう !

● 今年の日本は、世界は、どうなる?

          世界銀行の衝撃的予測

● 台湾有事を煽る自民党安倍派

          台湾問題の歴史を認識した理性的な対応が必要

● 南京大虐殺から85年  2022年東京証言集会

          父との10年の対話  父の「従軍日誌」 

● せんりゅう

● 複眼単眼  /  改憲に向け猛攻をかけるが容易ならず






米国の反中軍事同盟に組み込まれる日本

    
 大軍拡・大増税・国会無視の岸田内閣打倒へ
 

          2023年安保闘争を闘いぬこう !


大軍事力増強の年頭所感

 岸田内閣の支持率は低いままだ。読売の昨年12月調査では「支持する」39%、「支持しない」52%である。今年に入ってのNHK世論調査(1月10日)では、「支持する」33%(先月の調査より3ポイント下降)、「支持しない」45%(同1ポイント上昇)だ。なお急増する軍事費財源のための増税には「賛成」28%、「反対」61%だった。こうした支持率低迷の中で岸田はより反動的強権的に事態を乗り切ろうとしている。
 昨年12月16日、岸田内閣は、戦後の体制を一変させることになる安保3文書(「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」)を、国会に全く諮ることなく一方的に決定した。岸田は今年の年頭所感で述べている。「日本は今年、G7の議長国として、広島サミットを主催し、また、国連安保理非常任理事国を務めます。力による一方的な現状変更や核による脅しを断固として拒否するといった我々の強い意思を、歴史に残る重みをもって示していきたいと思います。昨年決定した国家安全保障戦略も踏まえ、我が国自身の外交的努力を更に強化し、さらには、その裏付けとなる防衛力の強化などにも全力で取り組みます。国家・国民を守り抜くとの総理大臣としての使命を、断固として果たしてまいります。」これは実質的には軍拡宣言である。

全分野での軍備増強

 国家防衛戦略では、中国を念頭にして次のように書いている。「高い軍事力を持つ国が、あるとき侵略という意思を持ったことにも注目すべきである。脅威は能力と意思の組み合わせで顕在化するところ、意思を外部から正確に把握することには困難が伴う。国家の意思決定過程が不透明であれば、脅威が顕在化する素地が常に存在する。このような国から自国を守るためには、力による一方的な現状変更は困難であると認識させる抑止力が必要であり、相手の能力に着目した自らの能力、すなわち防衛力を構築し、相手に侵略する意思を抱かせないようにする必要がある。戦い方も、従来のそれとは様相が大きく変化してきている。これまでの航空侵攻・海上侵攻・着上陸侵攻といった伝統的なものに加えて、精密打撃能力が向上した弾道・巡航ミサイルによる大規模なミサイル攻撃、偽旗作戦を始めとする情報戦を含むハイブリッド戦の展開、宇宙・サイバー・電磁波の領域や無人アセットを用いた非対称的な攻撃、核保有国が公然と行う核兵器による威嚇ともとれる言動等を組み合わせた新しい戦い方が顕在化している。こうした新しい戦い方に対応できるかどうかが、今後の防衛力を構築する上で大きな課題となっている」。まさに全面的全分野での軍事力増強である。

米・国家安保戦略の狙い

 安保3文書による政策の強行は、戦後の体制を一変させることになる。本来なら、十分な論議、少なくとも国会での論議は最低限の前提条件である。だが、岸田は安保3文書が公然と論議され、多くの人びとが真実を知るのを恐れている。だから、これを既成事実化するため、岸田は通常国会開会前に訪米してバイデン米大統領に報告し、日米軍事同盟の強化を約束する。岸田首相が欧米歴訪の目的は、G7サミットへ地ならしなどといっているが、焦点は、日本を反中国最前線陣地に位置づけすることの確認である。
 岸田の安保3文書の直前の10月に米国の「国家安全保障戦略」が公表された。それは、米国の死活的な利益・覇権支配守るため、中国やロシアなどの地政学的競争相手に対抗して、@米国の国力・影響力のソースとツールへ投資する、A共通の課題を解決し、国際的な戦略環境を形成すべく、可能な限り強固な国同士の連携を構築し、集団的影響力を高める、B戦略的競争の時代に備えるために軍を現代化し強化するとしている。とくに同盟国・同四国との連携が強調された。もはや米国一国では現在の状況に対応できないこと、米国の前衛に同盟国・同志国を配置すること、同盟国・同志国のヒト・モノ・カネを利用するということが狙われている。
 米側は日本の安保関連3文書の改定や防衛力強化の方針を歓迎したのはしごく当たり前だ。サリバン大統領補佐官は、「日本は自由で開かれたインド太平洋を守るため、歴史的な一歩を踏み出した」と歓迎する声明を発表し、オースティン国防長官も、日本が「反撃能力」を保有することを支持し「両国の国防戦略の目標を支援するため、日本と協力することに全力を尽くす」といっている。
 まさに岸田政権の政策は、米国にとってこんなありがたいことはないほどのプレゼントである。欧米の同盟国でさえ米国には一定の疑念と距離感を持って臨んでいるのに、日本政府はまったく米国の思惑通りに動いている。アメリカ政府は、「アメリカ・ファースト」だが、岸田も「MeToo」の「アメリカ・ファースト」そのものである。

「弁慶の立往生」


 岸田の政策はアジアだけでなく、沖縄・南西諸島をはじめ日本の多くの人びとにも悲惨な結果をもたらすことになるのは必至だ。もし米中戦争がおこるなら、ミサイル攻撃を受けるのは遙か後方に構える米国よりもまず日本に役割だ。歴史学者の纐纈厚さんは、この日米軍事同盟関係を義経・米国を守るため、無数の矢を受けて立ったまま絶命した弁慶・日本という「弁慶の立往生」に例えている。
 「アジア人をアジア人と戦わせる」。そして漁夫の利を得るのは昔からの米国のやり方だ。そうした米国の意をうけて、緊張を煽り、支配体制の維持を図ろうとするのが日本の保守政党で伝統である。こうした政治を断じて許してはならない。
岸田内閣を打倒しよう。

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財源も実効性も民主的正当性もない。違憲の安保政策の大転換は許されない。〜「2023年安保」のたたかいへ!


12月16日、岸田内閣は「敵基地攻撃能力」の保有やそのための軍事費大幅増額などを柱とした「安保関連3文書」を閣議決定しました。これは、明白な憲法九条および国際法違反となる先制攻撃の準備に日本が着手する可能性をはらみ、また一貫して「専守防衛」の範囲内で抑制的に安全保障政策を組み立ててきた戦後日本の「平和国家」としてのあり方を根本的に破壊するものであり、市民連合としてもかねてから反対してきたことです。
私たちは、これを断じて認めることはできません。
 政府発表以外の踏み込んだ報道がほとんどないなか、国会で議論されることもなく、その財源も実効性も全く明らかにされないまま、一見穏やかそうに見える岸田首相の手によって、更なる憲法破壊が「静かに」なされていることの恐ろしさも感じざるを得ません。
私たちの力不足もあり、市民の抗議行動がまだまだ不十分であることも痛感しています。
「2015年安保」の大きなうねりをつくった市民はいったいどこへ行ってしまったのか、との声も聞かれます。もう、日本の平和主義は終わってしまったのでしょうか。そんなはずはない、と信じる私たちの抗議行動はつづきます。
かつて特定秘密保護法が可決され、多くの人が天を仰いで「日本の民主主義は終わった」と嘆いた時、「終わったなら、また始めればいい」と立ち上がった若者たちがいました。今度は、私たちが平和主義を新たに始めなおす時です。思い起こせば、2014年7月1日、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定がなされた時も、まだまだ抗議行動は盛んとは言い難い「静かな」状況でした。 そこから2015年の市民の大きな抗議行動の広がりがあり、安保法制が強行採決されてしまった後もなお、今につづくたたかいを支えてきました。
「安保関連3文書」が決定されたと言っても、閣議決定で決めたものは閣議決定で覆すことができます。私たち主権者が大きな声をあげて、予算を組ませなければ、計画を頓挫させられます。まだまだ止められますし、止めねばなりません。今後、財源をめぐる議論がようやく本格化し、生活と経済を直撃する増税や新規国債の発行、社会保障費等へのしわ寄せ、その割には何の実効性もない、高いだけのミサイルの購入など、独裁的に決めた政策転換のコストが遅ればせながらクローズアップされていくに違いありません。そうしたなかで、初めて私たちが今、歴史の重大な転換点にあることに気づく人も少なくないはずです。
「2023年安保」は起きるのでしょうか。それとも日本の平和主義は終わったのでしょうか。答えを出すのは私たちです。

2022年12月16日

         安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合


今年の日本は、世界は、どうなる?

          
世界銀行の衝撃的予測

 ウクライナ戦争、エネルギー・食糧危機、新型コロナ蔓延、異常気象、インフレ、各地での対立の激化などなど、昨年を上回る厳しい状況が一段と深刻化するなかで2023年は開けた。今年も先行き不透明感はいっそう増していくだろうことは疑いない。
 例年どおり、さまざまな今年の展望・予測が出ている。

今年の日本経済の予想は

 昨年末、日経BizGateリポート「経済4誌が占う『2023年の日本経済』」(2022・12・26)に、経済誌の予測をまとめたものがある。
【日経ビジネス】の「徹底予測2023」の10大トピックスは、@コロナ対策見直しAウクライナ侵攻の行方B値上げラッシュC企業の人的資本開示義務D自動運転「レベル4」解禁(特定の条件下で完全自動化)E次期日銀総裁と金融緩和の行方F広島サミット(主要7カ国首脳会議)開催Gオイルショック50年Hインボイス制度開始I米大統領選まで1年。
【週刊東洋経済】の「2023年大予測」の国内エコノミスト17人による景気予測アンケートでは、22年度の実質国内総生産(GDP)成長率予測が1・4〜1・9%と厳しい。ウクライナ侵攻に起因するエネルギー価格の高騰や中国のゼロコロナ政策による供給制約が、日本経済に波及しているとの分析だ。さらに23年度は0・5〜1・5%と一層の成長鈍化を予想する。民間住宅投資は引き続き低調で、民間最終消費支出も伸びない。けん引役となるはずの企業設備投資も、世界景気後退の見方から力強さに欠けるとしている。23年の春闘賃上げ率は2・75%と高めに予想するものの、効果は限定的とみる。
【週刊ダイヤモンド】の「2023総予測」では「日本企業の8大テーマ」を@国策半導体のプロジェクトは米国の支援と公的な資金調達がカギA防衛予算大幅増加も企業の軍事産業撤退は続くBコンビニ業界にも価格競争が波及Cメガバンクに問われる「企業再生」の手腕Dゼネコン業界に選別受注の機運E国産の量子コンピューター開始F電気代値上げでも新電力業界に試練G半導体業界に追い風、とした。
【週刊エコノミスト】の「日本経済総予測2023」は金融・調査機関30社へのアンケートでの「2023年中に起きる可能性が高いこと」では「電車やオフィスでマスクを着用しない人がする人を上回る」を20社が予想し、「日経平均株価が3万円を突破」「30年冬季五輪が札幌ではない場所に決定」「岸田首相の辞任」などが続いた。

 こうしたあまりパッとしない予想が並んだが、その上にコロナ、ウクライナ戦争など想定外の事件はおおい。いま日本をめぐる国際的経済環境は深刻なものになっている。

衝撃的な世界銀行の予測

 1月10日、世界銀行は今年の世界経済予測を発表した。
 それによると世界経済の成長率は今年2023年に1・7%へ減速するとされる。これは、昨年6月時点の3・0%という見通しからほぼ半減し、過去30年ほどで3番目の低成長となる見込みだ。
 成長率の急激な落ち込みは先進国の95%、新興市場国と発展途上国のほぼ70%となり、成長予測が各国で下方修正されるという深刻な予測であった。
 世界銀行のプレスリリース「急激かつ継続する成長減速が開発途上国に大打撃」(1月10日)によると、世界銀行グループのデイビッド・マルパス総裁は、「世界の成長見通しが悪化するにつれ、開発が直面する危機は激化している。非常に高水準の政府債務と金利の上昇に見舞われた先進国が世界の資本を吸収してしまっているため、新興国と発展途上国は、多額の債務負担と投資の低迷により、数年にわたる低成長に直面している。成長と投資の低迷は、教育や健康の向上、貧困の撲滅、インフラ整備における壊滅的な後退と、気候変動に必要な対応をさらに増加させることになる」と述べた。
 その推移は、世界レベルで、2020(-3・2)、2021(5・9)、2022(2・9)だったが、2023(1・7)、2024(2・7)となる。2020年のコロナ蔓延でマイナス成長となったが、21年には盛り返したものの、依然として経済低迷は続き、とくに今年2023年の数字は厳しいものとなっている。
 先進国、新興国・途上国に分けると次のようになる。先進国は、2020(-4・3)、2021(5・3)、2022(2・5)で、2023(0・5)、2024(1・6)となる。新興国・途上国は、2020(-1・5)、2021(6・7)、2022(3・4)で、2023(3・4)、2024(4・1)と予想する。先進国に深刻な数字だ。
 地域別の今年の予想は、東アジア・大洋州地域(4・3)、ヨーロッパ・中央アジア地域(0・1)、ラテンアメリカ・カリブ海地域(1・3)、中東・北アフリカ地域(3・5)、南アジア地域(5・5)、サブサハラ・アフリカ地域(3・6)とされる。
 アメリカの今年の成長率は0・5%への低下が予想され、前回予測を 1・9ポイント下回る。ユーロ圏はゼロ成長と予測され、前回予測からアメリカと同じく1・9ポイント低下となっている。
 米欧の本格的な景気低迷・後退はいよいよ現実化しそうである。

東アジア・大洋州地域は

 東アジア・大洋州地域(EAP)については次のような分析だ。
 2023年の成長率は、中国でパンデミック関連の規制が緩和され経済活動が徐々に再開されることから4・3%で安定する見込みとされる。これは、昨年6月の2023〜2024年の域内の成長率の見通しである5%強を下回っている。下方修正は広範囲で行われたが、これは、中国のコロナ関連の混乱と不動産部門の低迷の長期化に加え、域内の商品輸出の伸びが予測より弱いことを反映している。また、インフレは、2022年にピークを迎えた後、若干減速すると見込まれる。
 中国を除く同地域では、2023年、景気後退期に購買行動を一時的に控えていた消費者の需要が、景気回復期に一気に回復するペントアップ需要の消失と輸出の伸びの鈍化が、遅れていた観光と旅行の回復を上回り成長率は4・7%まで鈍化するとされる。
 今年2023年、多くの国がパンデミックからの回復途上にある中、生産がコロナ禍以前の伸びの基調を大きく下回る状態が続くと予想している。
 さらに食料品、エネルギー、その他の投入物の価格は高止まりし、金融が一段と引き締められることから、今年は、投資をはじめとする経済活動が抑制されると考えられる。
 2020〜2023年の東アジア・大洋州地域の一人当たりの国民所得の伸びは、パンデミック以前の 10年間の平均である6・2%から3・6%へと下落すると予測される。

 このように世界銀行は、実に厳しい状況を予測しており、東アジア・大洋州地域でも社会的・階級的矛盾の激化は必至である。
 世界の様々な分析予想は情勢判断に不可欠だ。
 ただ日本のマスコミなどと違って、台湾危機がすぐにでも起こりそうな予測は少ないのは少し安心材料ではある。国際政治学者のイアン・ブレマーも今年のリスクに台湾危機をあげていなかったことを各紙が報じていた。


台湾有事を煽る自民党安倍派

         
 台湾問題の歴史を認識した理性的な対応が必要

自民党と民進党の接近

 安倍派を軸に自民党と台湾の蔡英文・民進党との交流とりわけ安保防衛問題での関係が強まってきている。 2021年12月安倍晋三元首相は、台湾で開かれたシンポジウムに日本からオンライン参加し、「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある」と述べた。安倍の遺言を具体化するように、この間、自民党議員の台湾訪問が相次いでいる。昨2022年12月10日には、自民党の萩生田光一政務調査会長が訪台し蔡英文総統と会談し、「台湾は、自由・民主主義・法の支配といった基本的価値を共有し、緊密な経済関係と人的往来を有する極めて重要なパートナーだ。これまでの信頼関係や友情関係を振り返り、次の50年の新たな関係を築く第一歩としたい」と述べた。また、自民党の世耕弘成参議院幹事長を含む自民党安倍派の参院議員一行12人は12月26日から29日まで訪台し、李登輝元総統の墓を訪れ献花を行い、台湾南部の高雄市にある安倍晋三元首相の銅像を訪れた。台湾メディア台北中央社は「蔡英文総統は28日、自民党の世耕弘成参院幹事長と台北市の総統府で会談した。27日に発表した国防強化策に言及した上で、今後、日本や米国、EUなど理念の近い国々と引き続き緊密に連携し、共に地域の平和と安定を守り、繁栄を築き上げていくことに意欲を示した。蔡総統は、世耕氏を団長とする自民安倍派の参院議員ら一行に対し、いずれも安倍晋三元首相の強固なパートナーであり、台湾を長年支持してきた大切な友人だと述べ、訪台を歓迎した。また、台湾と日本が共通の地域の挑戦に直面する中、日本政府が安保3文書を閣議決定したことに触れ、『大幅に防衛力を向上させ、地域の平和と安定を守る決意を示すものだ』と評価した」と報じた。
 安保3文書による日本の防衛体制の違憲的大転換は、アメリカの世界覇権体制維持のための戦略の一環だが、日本自民党と台湾民進党のいっそうの結びつきはそれに積極的に加担することによって、自らの支配体制を守ろうという自民党の意図によるものである。 

台湾帰属問題の経過


 台湾の地位を巡る日本政府の対応はどのようなものか。1972年の日中国交正常化時の日中両国政府による日中共同宣言は、@日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。A日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。B中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する(以下略)とした。それは、日本が降伏文書(1945年9月2日)で「『ポツダム』宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スル為聯合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス」とした。ポツダム宣言8条は「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とした。そのカイロ宣言は「同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」としている。
 しかし、日本の右派勢力それに政府の一部には「日本はサンフランシスコ条約で台湾の主権を放棄したが、どこの国に対して放棄したか明記しておらず、台湾がどこに帰属するか発言する立場にない」という主張が行われている。
 対日講和のためのサンフランシスコ条約第二条(b)には「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。そこに帰属先が明記されないので「帰属未定」という理屈だ。 サンフランシスコ会議で、日本国と48ヶ国によってサンフランシスコ平和条約に調印された。だが、このアメリカが主導する講和会議には、招かれたが出席しなかった国(インド・ビルマ・ユーゴスラビア)、出席したが調印しなかった国々(ソ連・ポーランド・チェコスロバキア)、招待されなかった国(「中華民国」・中華人民共和国)、講和会議に参加できなかった国(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)など多くの国が排除されたものとなっている。

『台湾白書』の主張

 最近発表された中華人民共和国国務院台湾事務弁公室と国務院情報弁公室による『台湾問題と新時代の中国統一事業』(2022・8・10)は、「1894年7月、日本は日中戦争を開始し、敗戦した清政府に翌年4月に台湾と澎湖諸島を割譲」させていたと歴史記述し、1945年の日本の敗戦につづいて、「10月25日、中国政府は『台湾に対する主権行使の回復』を発表し、台北で『中国戦区台湾省降伏式典』を開催した。中国が法的および事実上の回復についての国際的に法的拘束力のある一連の文書化し、台湾を事実上回収した」とする。
 またサンフランシスコ会議については次のように書いている。「1951年9月4日から8日にかけて、米国は中華人民共和国とソ連を排除しながら、いくつかの国をかき集めてサンフランシスコでいわゆる『対日講和会議』を開き、『日本が台湾と澎湖諸島に対するあらゆる権利と主張を放棄すること』を盛り込んだ『サンフランシスコ平和条約』を締結した。この『平和条約』は、1942年に中国、米国、英国、ソ連など26カ国が署名した連合国宣言の規定、国連憲章、国際法の基本原則に違反し、台湾の主権の所有権など、不参加当事者としての中国の領土および主権に関するいかなる処分もすべて無法、無効である。中国政府は当初から、中華人民共和国が『サンフランシスコ平和条約』の準備、起草、調印に参加しなかったため、中国政府はそれを違法かつ無効とみなし、決して認めないことを厳粛に宣言してきた。ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、朝鮮、モンゴル、ベトナムなどの国も『平和条約』の効力を認めていない」。

中国戦区・台湾戦区受降式


 日本が降伏した9月2日、連合国最高司令官総司令部による「一般命令第一号」がだされた。「日本国天皇及日本帝国政府ノ代表者並ニ日本帝国大本営ノ代表者ニ依リ署名セラレタル降伏文書ノ規定ニ従ヒ別添「一般命令第一号、陸、海軍」及右ヲ敷衍スル必要ナル訓令ヲ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニアル軍隊並ニ関係非軍事機関ニ対シ遅滞ナク発出シ之ヲ十分且完全ニ遵守セシムベシ」として、中国大陸と台湾に居た日本軍に対し、中国戦区最高司令官蒋介石への降伏を命じた。 9月9日、南京で中国戦区日本軍の投降調印式がおこなわれた。降伏文書には、中国戦区最高司令官蒋介石の特別代表である中国陸軍司令官何応欽と日本国政府及び大本営の代表である中国侵略軍総司令官岡村寧次がそれぞれ署名した。降伏文書には、@日本帝国政府及び日本帝国大本営は既に連合国軍最高司令官に対し無条件降伏した。A連合国軍最高司令官第一号令の規定に従い、「中華民国(東北三省を除く)台湾及びベトナム領内北緯十六度より北の区域内に所在する全日本陸海空軍及び補給部隊は蒋介石委員長に降伏する」。B吾等の前記の全区域内に所在する全日本陸海空軍及び補給部隊の指揮官等は、各自の部隊を率いて蒋介石委員長に無条件で降伏する意をここに示す、という条項がある。
 何応欽は、すでに1945年8月26日に中国の戦場を16の投降受け入れ区に分け、100カ所の武器引き渡し場所を指定し、投降受け入れの担当官を任命した。16の降伏受け入れ区は、北越区、広州地区、汕頭地区、長衡地区、江西地区、浙江地区、滬寧地区、湖北地区、徐蚌地区、平津地区、山西省、洛陽地区、城襄樊地区、山東地区、熱察綏三省地区(熱河、察哈爾、綏遠)、台湾地区とした。しかし、共産党が指導する日本占領地後方の抗日武装八路軍や新四軍、華南抗日縦隊はいずれも日本軍投降受け入れ地区を割り当てられなかった。国共内戦が予想される中での国民党による日本軍武器の独占的獲得の狙いがあった。
 南京につづいて16の戦区投降の儀式が行われた。
蒋介石は、陳儀を台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた。10月17日国軍第70軍と長官公署官員が台湾に到着し、10月25日に台北市で台湾における降服を受諾する式典が行われた。台湾総督兼第10方面軍司令官であった安藤利吉との間で降伏文書調印が行われた(陳儀は1947年の2・28台湾民衆蜂起を大弾圧したが、その後、共産党への投降容疑で蒋介石により1950年6月18日銃殺された。安藤利吉は1946年4月19日に上海監獄で服毒自殺)。

日中・米中の緊張緩和へ


 米中関係の緊張・険悪化なかで台湾海峡情勢はどうなるのか。世界の識者による情勢展望では、意外に台湾危機論は低ランクに位置づけられている。韓国の中央日報(2023・1・8)は、米コンサルティング企業ローディアムグループがこのほど出した報告書で、両岸対立により中国が台湾封鎖政策を展開する場合、「「中国、台湾封鎖時に世界経済費用2兆ドル以上…災害水準の『衝撃』になる」という記事を載せた。被害が大きすぎるのである。台湾有事は経済だけとってみても取り返しのつかない世界的な影響をもたらす。
 米中関係はますます厳しい状況になりそうだ。岸田政権は、一方的にアメリカ側につき、中国との関係を悪化させている。だが、ドイツやEUの首脳は昨年末訪中して関係改善の道を探り、オーストラリア首相も訪中しこれまでの保守党政権とは違った政策を打ち出した。今年に入りフィリピンのマルコス大統領も訪中した。
 それぞれの国の首脳は外交による緊張緩和に積極的に動いている。
 そうした動きに逆行して岸田政権は、無謀にも軍備増強競争にみずから飛び込もうとしている。岸田政権の戦争する国づくり・安保3文書の具体化に反対する闘いは、日中関係の改善、台湾問題の平和的解決と切っても切れない関係にある。そのためには、なにより日中両国の国家間関係を規定する4つの基本文書である日中共同声明(1972年)、日中平和友好条約(1978年)、日中共同宣言(1998年)、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明(2008年)が再確認され生かされなければならない。日中平和友好条約は、第一条で「@両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。A両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。」とし、第二条で「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」とした。両国政府の確認で「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えない」「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく」としているのである。
 また「(日中)共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し」たのである。
 今年は、日中平和友好条約締結から45年に当たる。いまこそ憲法9条を生かしての積極的な外交的努力が必要だ。緊張緩和・関係改善ができないなら東アジア地域に悲惨な状況を生み出すことになる。
 それができない政府は一刻も早く退陣させなければならない。


南京大虐殺から85年  2022年東京証言集会

         
 父との10年の対話  父の「従軍日誌」 

 12月10日、東京・全水道会館で、「1937年12月の南京大虐殺から85年 2022年東京証言集会 父は『従軍日記』を子に託した 父の戦争をともに背負う」(主催・ノーモア南京の会)が開かれた。
 安倍晋三は、終戦70年首相談話で「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。これは、かつての侵略戦争への真摯な反省を拒否するものだ。そして再び日本を戦争する国にする条件を作るものである。 われわれは侵略戦争の現実を決して忘れてはならない。過去の戦争を忘れては現在と未来の平和をつくることはできないのである。

田中信幸さんの講演

 講演は、教科書ネット熊本事務局長の田中信幸さん。田中さんは、1951年熊本県に生れ、1972年に沖縄返還反対闘争で逮捕起訴され その後、獄中から父への手紙を書き、その後10年にわたる対話をつづけ、1995年父から「従軍日記」「手紙」を渡される。「父の日記」「慰安所」の記録などで韓国、中国との交流。2015年には、人民日報社から『一道背負-日本人父子的侵華戦争責任対話』出版)。
 田中さんの父・熊本県の農民・武藤秋一さんは南京戦に一兵士として参加した。田中さんは父の戦争責任を追及すると、父はそれを認めたら自分の人生の意義が無くなってしまうと強く抵抗したという。田中さんは10年のもおよぶ時間をかけて説得し、父から真実を聞き出したという。
 武藤秋一さんの経歴は、1915年 熊本県水源村に生まれ、1935年、陸軍第6師団歩兵第13連隊(熊本)入隊、1937年7月27日に第9中隊第2分隊長(伍長・部下13名)で北九州から朝鮮半島を経て中国戦線へ。この日から、1938年7月4日まで「従軍日誌」をつける。1937年9月2日「便衣隊首切りに行く。わが分隊は皆一剣ずつ突いた。」(9月9日まで、ショックで日記がかけなくなる)。同年12月13日、南京攻略戦に参加。3日間滞在後蕪湖へ移動。慰安所に通う。1938年6月、徐州戦の途中で負傷し、帰国。1940年金鵄勲章受章。1941年、二度目の招集でハイラルでソ満国境警備。1944年秋、三度目の招集で「ボルネオ派遣軍」として南方へ。マニラで敗走、米軍捕虜となる。1946年8月帰国。2006年4月没(91歳)。

父との10年にわたる対話

 私が小さい頃から、父は戦争の話をよくしてくれた。初めての人殺しについても聞いていた。私は軍歌が好きで、漫画誌で戦争物を読むことに夢中になった少年時代。父は「戦争は二度とするものじゃ無かぞ!」という。中学生時代にはテレビの「コンバット」は「これは本当の戦争ではない」として禁止された。高校時代、世界史などで、日中戦争・太平洋戦争は侵略戦争だったという疑問を持つ。1970年に熊本大学入学し学生運動に参加し、72年沖縄返還に反対するデモで東京で逮捕起訴され、拘置所から父あてに「あなたが参加した戦争は侵略戦争ではないか?」と手紙を書く。その後10年間に及ぶ父との戦争責任についての対話が続いた。本多勝一著『中国の旅』等を父にぶっつけると黙り込む父。最後には「自分が戦った戦争を侵略だと認めると、自分の人生を全否定することになる。俺はそれが怖い」という。
 当時私は部落解放研究会に所属し解放教育で「語り運動」に出会う。私も父の内面に入り込むような対話に切り替え、父の生き様に迫った。すると父は青年時代プロレタリア文学を愛読、初詣の神社でビラ撒きもやっていたという。13連隊入営時に憲兵の厳しい取り調べを受けた。親子似ているなと共感したものだった。
 その後、中帰連(中国帰還者連絡会)と出会い、周恩来のねばり強い人道主義に応えた日本軍兵士がいた事に驚いた。自分もいつか父から侵略戦争と認める「認罪」が引き出せるのではという希望を持つことができた。
 周囲の戦争経験者からは、「あの時代は仕方なかった。親を責めるのは厳しすぎる」という声もあったが、でもあきらめなかった。だが、当時の私の力量では、父の「認罪」を引き出すことは限界があった。約10年の戦争責任対話を締めくくるに当たり、「あなたの戦争責任を私も一緒に背負っていく」というと、父は大きく頷いた。
 戦後50年の 1995年頃父は私に日誌を手渡し、翌年300通の父宛の戦時中の手紙を手渡してくれた。

「従軍日誌」の記述から

 父の「従軍日誌」には次のように書かれている。
 1937年第6師団に動員命令が下りる。8月12日天津到着。日本人租界に入り口金鋼橋の警備に付く9月2日初めての人殺し「便衣隊を切る」。天津で2名、河北省で1名。河北省での戦闘(保定、石家荘)、11月5日杭州湾上陸、南京攻略戦へ。南京攻略戦では、第6師団は中華門攻撃。歩兵13連隊が中華門正面の攻撃。第1、第2大隊が攻撃部隊。秋一の所属する第3大隊は待機部隊。13日午後から14日にかけて第3大隊は城内掃討戦へ。16日から13連隊は蕪湖へ移動した。13日午後、秋一は第11旅団長坂井徳太郎少将の衛兵として「西門」(水西門)から城壁に登り、南京市内を見下ろす。14日午後も坂井旅団長の衛兵として中華門から南京城内に入り、主要な建物などを見て回る。「支那兵のおびただしい死体」あり。国民政府に行き、蒋介石執務室で椅子に座りベッドに横たわる。故宮にも立ち寄る。第6師団の城内掃討範囲は漢中路以南とされたが、それ以外も掃討する。歩兵23連隊、歩兵47連隊、歩兵45連隊、歩兵13連隊の城内・城外掃討。

南京へそして南京で

 1937年9月2日――起床後、簡単な体操があった。同日便衣隊首切りに行く。川陽(徳鎮駅の東方)に於いて切る。沼田少尉が刀で切った。わが分隊は皆一剣ずつ突いた。金銅橋で下士哨の任務についた。昨夜ターホトンで日本人が狙撃され逃げて帰ったが、便衣隊の居所は分からなかった。ターホトンの民家を捜索した。
 9月9日――1日おきの衛兵の服務。金銅橋の下士哨をした。(熊本の)実家から便りがあった。…憬れの第一線へ、1時間でも早く行きたくてたまらない。滞在の間に便衣隊2名を切る。
 12月14日――警戒兵(午後)2時交代。それより旅団長閣下の護衛をして南京市見学。別図の通り歩き回った。南京大街を過ぎて国民政府を見に行った。途中至る処で火災を起こしている。途中公共防空壕が一区に必ず一つは掘ってある。支那兵の死体がおびただしい。大きい建物はたいてい銀行に劇場だ。中央大劇場、同じく舞踏場。銀行は中国銀行、中国農民銀行等を始め十幾つある。国民政府に来た。集団司令部より歩哨を立てて出入りを禁じている。しかし、旅団長閣下のお声掛かりで、入ってみる。最後の松八閣という大きな建物に来た。ここは国家の最高議事堂だ。蒋介石のいた部屋に来て椅子に腰を下ろしたり、寝台に寝たりしてみた。支那の国家の元首のいた椅子に腰を下ろすことが出来た瞬間の満足は得も言われなかった。松風閣の字と文鎮を持ってきた。次に明時代の宮殿を見に行った。その装飾の綺麗さに目を奪われた。飛行場を右に見て帰る。夜はゼンザイに舌鼓を打った。
 12月18日〜1938年4月23日まで安徽省蕪湖で警備。6月までに徴発に6回、敵兵捜索で集落への放火3回。
 蕪湖に開設された「慰安所」へ2回通う。
 4月24日蕪湖を出発し、船で揚子江を下り対岸の和県に上陸。武漢に向けて進軍する計画。
 6月11日大別山山系舒城梅心駅付近の戦闘で手投げ弾により右足大腿部貫通銃創を負う。病院船で帰国。小倉陸軍病院から熊本陸軍病院へ移送される。同年11月退院。

南京での集団虐殺の証言

 秦郁彦『南京事件』増補版によると16日蕪湖へ向かう途中の一三連隊が捉えた「一千名以上の敗残兵」(荻野昌之太尉手記)を中華門外で集団射殺している。その状況については児玉房弘上等兵(第二大隊機関銃中隊)の証言がある。児玉らに揚子江近くの小高い丘に機関銃据え付けの命令が下った。すると麓の窪地に同連隊が連れてきた多数の中国兵に対して「撃て」の命令。機関銃を一斉に乱射。これに関しては、偕行社が1989年に発行した『南京戦史』で「第六師団から中支那方面軍司令部に電話があり、捕虜数千名が投降してきているが、どう対処したらよいかとのこと。長勇参謀が『やっちまえ』と伝えたが、再度第六師団から電話で問い合わせがあり、長参謀は同じように伝えた」ということが掲載されている。

第六師団の記録から

 父の日記以外の第6師団各連隊の虐殺を示す資料である『第六師団と軍キ熊本』には多くの記録がある。
歩兵23連隊の第二大隊砲小隊長折田護の日記「12月16日晴 聞くところによれば本日約1000名の俘虜を得、これをカンチュウ門外にて全部銃殺または斬殺せる由にて之等は全部地下室にかくれ居たつものなりと、まさにおどろくほかなし。」
 23連隊(部隊不明)上等兵宇和田弥一の日記(1984年朝日新聞)「12月15日今日、逃げ場を失ったチャンコロ(ママ)約200名ぞろぞろ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に蜿々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観との云え様。処置無きままに、それぞれいろいろの方法で殺してしまったらしい。近ごろ徒然なるままに罪もない支那人を掴まえてきては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片で叩き殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行し出した様子」
 歩兵45連隊―45連隊は南京城の城西部を揚子江右岸沿いに攻め込み江東門から下関に進出して中国軍の退路を遮断する任務を与えられた。45連隊は南京城内には入っていないものの、南京城外西側地域の戦闘、あるいはこの地域での虐殺や強姦・略奪などは16師団に担当が代わる15日頃までの間この部隊が行ったものと言える。

戦争責任を一緒に背負う


 戦争責任を一緒に背負う生き方とはなにか。
 それは、戦争する国作りとの闘いであり、「二度と戦争してはいけない」という思いを受け継ぐことだ。1992年カンボジアPKO派兵との闘い、自衛隊イラク派兵に反対して熊本地裁へ差し止め提訴の事務局長を引き受け、熊本地裁へ提訴審敗訴、直ちに福岡高裁へ控訴。2008年4月名古屋高裁で歴史的違憲判決を勝ち取り、12月末自衛隊撤収し、12月24日に札幌と熊本で控訴を取り下げ名古屋高裁判決は確定した。また教科書ネットくまもとを結成し、歴史修正主義と闘ってきた。韓国や中国との交流、反差別人権確立を闘ってきた。
 そして、戦争責任を次の世代に引き継ぐために、ドイツの「過去の克服」に学び、「罪」は一人一人の人間の行為であり、「罪」の明確な確認によって「責任」の問題を語ることが出来る。安倍は日本軍が侵略戦争で起こした戦争犯罪という「罪」が最初から存在しなかったとして、「責任」を否定している。ブラント首相以降、歴代大統領がドイツが侵略した国とイスラエル・ポーランドを訪問し謝罪を続けている。ドイツの歴史教育では、ナチの過去を持つ国に生まれたものとしての責任を自覚させることをつづけている。被害者の体験を聞くあるいは証言を読むことで後世に伝えることは、当事者が死亡すればだんだん厳しくなる。ドイツでは、追悼施設を作り「犠牲者の痛みを想像する教育」に力を入れている。過去に起きたことの本質をシンボリックな形で展示し、「文化的な記憶」として提示している。
 これと真逆の対応をしているのが日本の政府と裁判所だ。
 群馬強制連行追悼碑撤去最高裁判決、関東大震災朝鮮人中国人虐殺慰霊祭への敵対をする東京都、「軍艦島」「佐渡金山」世界遺産登録などがそれを象徴している。


せんりゅう

     スポーツの如く報じられウクライナ

        夢は軍国日本かキシダ節

     利上げではない黒田戦費ではない岸田

        軍拡増税アメリカ様との談合

     アメリカに手錠かけられ沖縄の民

        老年者運転問題原発も

     価値かんをもてよ創れよお正月

        未来あり君の手中でねむってる

               ゝ 史


  2023年1月


複眼単眼

     
改憲に向け猛攻をかけるが容易ならず

 憲法審査会にはその前身の憲法調査会発足以来、曲がりなりにも民主主義的な議論と運営を保障する「中山(太郎・自民党の長老)ルール」と呼ばれるものがあった。
 これが急速に変質し始めたのは第2次安倍晋三政権のころからだ。 
 安倍は首相という行政の長の立場にすぎないのに、3権分立原則を無視して、しばしば国会の憲法審査会の運営に口を挟むようになった。「改憲の動きを早めろ」だの「自分の任期中に改憲を実現したい」だのと繰り返される改憲発言は、「憲法審査会の運営に対する不当な介入だ」と国会で何度も問題になり、憲法審査会の運営はしばしば長期にわたって中断した。
 とりわけ2015年、安保法制(戦争法)を強行させて以来、安倍首相は一層、改憲への動きを急ぎ、「改憲4項目」の提起を経て、憲法審査会の多数派をにぎる改憲派が急速に改憲論議を急ぐようになった。安倍首相が退陣したあと、2021年の総選挙で衆議院の3分の2以上を改憲派が握るようになって、憲法審査会では「審査会の定例日には毎回会議をひらけ」という合唱が与党だけでなく、維新の会や国民民主党、有志の会まで含めて行われるようになった。
 改憲派はまず国会議員まで相次いで罹患するようになったコロナ渦の状況を口実に、憲法に「緊急事態条項」を導入するための議論をはじめた。憲法第56条で「総議員の3分の1以上の出席がなければ総会を開くことはできない」とある「出席」は「オンライン出席」も含むと解釈できるかどうか、が問題になった。参考人たちも指摘したように、56条の「出席」を「オンラインも可」と解釈するには無理があるし、まずもって憲法審査会には憲法の解釈権はない。しかし、結局、採決になった。しかし、この憲法審の「提言」は衆院議長と議運委員長に提出されたが、「これは議運マターだ」ということで、議運預かりになってしまった。
 次に議論になったのは、自民党などから出された54条の参院の「緊急集会」の規定と関連して、衆院解散後に緊急事態が発生した時、議員任期の延長を認めるよう憲法を改定すべきだという意見だ。
 日本国憲法には第54条の「参院緊急集会」の規定で担保されているにもかかわらず、改憲のために議論を意図的にゆがめ、議員が選挙もなしにその地位に居座り続けることを可能にする「議員任期延長」ための憲法改定論議に持っていこうとしている。
 この54条を勝手に解釈して無視した「議員任期延長」問題も、今の憲法審の力関係では遅かれ早かれ採決され、結論が出るだろう。
ともあれ、憲法調査会発足以来の運営のルールや合意が無視され、軽視されるもとで、改憲の論議が進んでいることは重大な問題だ。こうした運営に与党公明党や、維新の会、国民民主党などが同調・容認している。
しかし、自民党の4項目改憲案の1つに過ぎない「緊急事態条項改憲導入論」だけをみても、問題はこれだけではない。特に立憲主義を否定し、基本的人権を侵害し、3権分立を破壊する「緊急政令」の問題などが残っており、これらでは改憲5派の間にも意見の違いがある。
 年末に安保関連3文書が閣議決定されたが、憲法審査会ではもともと緊急事態とは何かの議論も済んでいない。
 改憲派にとっても、緊急事態条項導入改憲での合意は容易ではない。まして、自民党の改憲4項目について、憲法審査会で改憲原案を作るには相当の議論の時間が必要だ。 (T)